イベント

Last-modified: 2020-10-20 (火) 18:58:05
  • 桶狭間の戦い
     今川義元で1560年以降に織田の領地に向かって出陣すると信長の奇襲が発生、義元が敗死。雪斎を部隊に入れておくと奇襲が防げることもある。
     織田家、武田家など一部の大名では特別なイベントが発生する。
     イベントによって家康が独立、徳川家で織田家に同盟の使者として家康を送ると100%同盟が成功する。
    • なお余談であるが、桶狭間の戦いにおける谷間に陣取ったアホな今川に対する迂回奇襲については、江戸時代の講談や大日本帝国陸軍参謀本部の見解が長く継承され、これが通説となっていた。しかし近年ではインパクトのある兵力差もそれほどではなかったと言う説や*1、一次資料と言っていい信長公記の記述から余りにもかけ離れている事もあり*2多くの異論が出ている。そもそも今川側の目的についても上洛目的などではなく*3、以前よりの国境紛争の延長線上にある攻勢、尾張侵略或いは示威行動、もしくは鳴海城・大高城への後詰めあたりと解釈するのが妥当なようである。
  • 長良川の戦い
     斎藤家、道三が隠居、義龍が大名、季節の変わり目。
     この条件を満たすと、イベントが発生。
     処断、助命で展開が変化。いずれも織田とは断交する。

  処断だと道三が死亡、助命だと道三生存、小牧源太が配下に、内容もいい感じに変化。史実と同じようにするもよし、許すもよし。

 その後、織田家で信勝を処断すると名声が20下がり、家臣の忠誠が20上がる。

  • 石田三成の召し使い
     秀吉が信長の配下だと1571年に佐吉、のちの石田三成を召し使えるイベントが起こる。
  • 生活すべてこれ鍛錬なり(2度汁かけ)
    大名とその息子が同じ城にいるときに発生
    息子の統率がアップする
  • 講義の作法
    大名とその息子が同じ城にいるときに発生
    息子の統率がアップする
  • 真の黒田武士(母里友信)
    母里友信を配下に持っているときに名槍「呑取」を手に入れると発生
    イベント後、「呑取」は母里友信に授与され、武勇が+5、強襲の特技を覚える。
    プレイ開始からある程度時間が経っていなければならない。
  • 閻魔大王殿(直江兼続)
    直江(樋口)兼続を配下にした翌月に発生
    シナリオ:関ヶ原合戦の場合は1601年8月に発生する
    イベント後、統率が+3
  • 真田十勇士
    1603年1月以降
    幸村が大名
    支配国が2カ国以上
    以上の条件を満たした状態で月が替わるときに発生
    ※発生しない場合は幸村の居城を幸村一人にしてみるといいかも?
  • 秀秋の死
    1602年1月以降
    秀秋が「COM大名」であること
    以上の条件を満たしていると、秀秋がイベントで死亡
    新大名が選ばれる。秀秋以外の武将が居ない場合、小早川姓の武将が16歳で参入
    優先順位は一門>統武智政のうち家中で一番高い数値を持つ武将
  • 川中島の戦い(S1、S2。武田家、上杉家)
    1561年10月
    ※PK1.0では上杉側でどの選択肢を選んでも同じ結果になるバグあり。1.1で修正済
  • 武田家
    「持久戦に持ち込む」→変化無し。
    「攻撃を仕掛ける」→武田信繁と山本晴幸が死亡する。
  • 上杉家
    「八幡原に陣を移す」→武田信繁と山本晴幸が死亡する。
    「海津城を攻略する」→海津城が上杉家のものになり10000の兵が配置
  • 蒼い目の侍(三浦按針)
    1603年4月
    W.アダムスが召抱えられ三浦按針と改名する
  • 直家独立
    宇喜多直家と浦上宗景が岡山城で待機,季節の変わり目である
    どの選択肢を選ぶかによって内容と結末が変化。
    「直家を赦す」→宇喜多直家が大名に,浦上宗景が浪人化する。岡山城の兵が10000に。
    「直家を追放する」→宇喜多直家が浦上家から追放される。他の宇喜多一門は追放されない。
     ・因みにイベント発生前に岡山城の全兵を港に移しておけばイベントで兵力が10000になるので,宇喜多家の総兵力が20000になる。これで直ぐに他国へ侵攻できる。

*1 そもそも遠征軍である今川勢は軍勢内に輜重などの非戦闘員も多いと考えられるので更に割り引かれる
*2 基本的に正面からの強襲による勝利。信長も相手は遠征軍の上に先鋒線で疲れ切っているので十分に戦えると語っていたとある。ただし時間的奇襲とは言えるかもしれない。また当日まで連日の日照りであった上に当日も非常に気温が高い日であったが、織田勢が今川勢の前衛に当たる頃に今川勢に向かって突然の豪雨が打ち下ろされ、今川側の組織だった行動が一時的に不如意になった刹那に織田側が攻めかかったようだ。信長公記によれば今川勢は「水をまくるがごとく後はくはっと」崩れ敗走が始まったとある。局地的な豪雨による出水により足許が悪くなり、今川側の部隊集結を阻んだため織田側を止められなかったとの説もある。付け加えるなら、旧来、桶狭間と言う字面を見て、谷間に陣取った今川義元の不手際の様に捉えられて来たが(そして暗愚な将であったとされてきたが)、今川義元はおけはざま「山」に陣取ったと明記されている。高所に陣を構えるのは常道である。ただし現在、おけはざま山がどの地帯を指すのかについては定説は無い
*3 京都までの経路にある諸大名と交渉した形跡が一切ない。京都にも根回しが行われていない。まさか全てを打ち破って突破する事は現実的では無いし、京の都も大騒ぎになってしまう。