注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
南方異民族・周辺諸国
異民族とは、中国各地に割拠する、漢民族以外の民族の総称とされている。
しかし、長い時を経て漢民族と同化したもの、漢民族でありながら中央の政情によって地方へ
流れ着いたもの等もおり、区分に関しては明確化されていない。
三国志では烏丸、鮮卑、匈奴、南蛮、山越、羌族などがおり、それぞれが
勢力を伸ばし時の政権や周辺勢力、三国の王朝を苦しめた。曹操?の北方遠征、諸葛亮?の南蛮征伐などはその代表例である。
しかし、場合によってはその三国いずれか、または周辺勢力に協調し、彼らの勢力拡大を手助けした側面もある。
三国志の時代からその前兆があったが、異民族が漢民族に臣下の礼をとって官職を得、
中原に住み着くこともあり、晋の中華統一後に八王の乱で勢力を伸ばし、
永嘉の乱でその力を決定的なものとする。以後、五胡十六国時代を
はじめとして、異民族の血を引く王朝が後の中華に君臨し続けることになり、純正漢民族による漢王朝という構図は形骸化した。
蛮
長江以南に広く分布した楚の末裔。荊南一帯や益州東部の山間部に散在して居住していた。
沙摩柯?の五谿蛮を含む武陵?蛮や巴郡に居住した王平?の板楯蛮が有名。
西南夷
『演義』では南蛮と称される、雲南地方の少数民族たち。
隗渠
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
52 | 75 | 59 | 14 | 39 | 南蛮 | 豪傑 | 慎重 | 短慮 | 長蛇強化 | 我道 |
【カイキョ】
西南夷の酋長の一人。剛猛にして精悍で諸部族におそれられていたという。
一度は蜀に降っていたが、蘇祁で兄の冬逢と共に反乱を起こす。
張嶷?の討伐を受け兄が誅殺されると西の国境地帯へ逃げ込むが、二人の側近を偽って蜀に降伏させ、間諜として情報を流させていた。
張嶷はこれを見抜くと逆に二人を懐柔し、恩賞を与えると約束したところ二人は隗渠を殺してその首を張嶷に献上した。隗渠が死ぬと周辺の反乱は収まったという。
※劉冑?をベース
統率と政治は成果がないため一回り低く、武力魅力は評判分一回り高く、偽降伏の間諜は一時的に成功しているため知力は張嶷?より一回り低め程度に。
説明不要の南蛮、評判分の豪傑、偽投降から慎重、ただし逆に利用されたため短慮
魏狼
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
70 | 63 | 39 | 61 | 74 | 南蛮 | 輿望 | 英名 | 三令五申 | 我道 |
【ギロウ】
西南夷の酋長。越巂郡北境で捉馬族を率いており、部族は郡内でも最も驍勁と言われた。
240年に太守として張嶷?が赴任し、恩徳と信義をもって異民族を懐柔しようとした。
魏狼は従わずに抵抗したため討伐を受け生け捕りにされたが、張嶷?は魏狼を殺さず説得して解放したので魏狼は心服して蜀に帰順した。
魏狼が他の部族をも説得して懐柔すると張嶷?は上表して彼を邑侯に拝した。
魏狼が厚遇されたため郡の住人は安心し、従わなかった部族も相次いで降るようになったという。
※驍勁と懐柔と慕われっぷりから張嶷?をほんの少し下回る統率、魅力。武力と政治も平均より少し高く。知力は特に何もないため平均より下に。
異民族特性の南蛮。懐柔の興望、相次いで下るイメージの英名。
冬逢
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
50 | 44 | 9 | 12 | 56 | 南蛮 | 短慮 | 粗忽 | 侵略荒廃 | 我道 |
※個性の組み合わせ不可能(短慮/粗忽)
【トウホウ】
西南夷の酋長の一人。
蘇祁の邑君だったが一度蜀に降った後弟の隗渠とともに再び背いた。
張嶷?によって討伐され誅殺されるが、旄牛族の王の娘であった妻は張嶷?に異民族懐柔の考えがあったため罪を許された。
配偶者:旄牛氏
※仇討ちしてもらえる平均的な統率、王族の娘を妻に貰えるちょい高い魅力。猪突型のスタンダード蛮族な能力。
旄牛氏
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
34 | 25 | 54 | 46 | 59 | 南蛮 | 応援 | 縦横術 | 我道 |
【ボウギュウシ】
西南夷の旄牛族の王女。
蜀に対して反乱した冬逢の妻であったが、冬逢が張嶷?に敗れて処刑された後、張嶷?は考えがあって彼女の罪を許して身柄を留め置いた。
その後甥の狼路が冬逢の敵討ちをしようとして挙兵すると、張嶷?は彼女の弟である狼離に対して彼女を引き渡して手厚く歓待したため、狼路も不満を収めて張嶷?に心服した。
越巂郡には旄牛族の領地を通って成都へと続く旧道があったが百年近く旄牛族によって遮断されていたため周辺住民は険阻な山道を迂回するしかなかった。
張嶷?は旄牛氏に狼路を説得させ、ついに交通を復活させたという。
配偶者:冬逢
李求承
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 65 | 13 | 10 | 12 | 南蛮 | 悪名 | 粗暴 | 侵略荒廃 | 我道 |
【リキュウショウ】
西南夷の叟族の酋長。
諸葛亮?が高定?を討った後に斯都で反乱を起こして越巂太守龔禄を殺し、さらに後任として赴任した焦璜も殺した。
その後太守となった馬謖?は現地に赴くことができず、郡都から八百里も離れた安城県に留まるほどであった。
空白地と化した越巂の復興を望む声が高まると240年に龔禄の友人でも会った張嶷?が太守となり、郡兵を率いて現地に住み異民族の慰撫にあたった。
反乱の大部分が平定されると張嶷?は李求承の首に懸賞金をかけてこれを捜索し、李求承が逮捕されると数々の罪を数え上げて誅殺した。
狼離
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 59 | 61 | 56 | 57 | 南蛮 | 動員 | 地域巡回 | 我道 |
【ロウリ】
西南夷の旄牛族の王族。
姉の夫だった冬逢が蜀に対して反乱を起こして張嶷?に討たれたため、甥の狼路と共に食に対して反乱を起こす。
冬逢の遺兵を率いて張嶷?の様子を見ていたところ、丁重に送り返されてきた姉と再会。
姉は張嶷?に厚遇されていたと知り、張嶷?も狼路らを殺すつもりはないという姉の説得を受けて喜んで狼路と共に蜀に帰順した。
率いている領民も悉くこれに従ったので、張嶷?は姉弟に厚く賞賜・待遇を与えて帰らせた。
狼路
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
56 | 55 | 64 | 68 | 65 | 南蛮 | 振興 | 動員 | 地域振興 | 我道 |
【ロウロ】
西南夷の旄牛族の王。四千戸の部族を率いていた。
叔母の夫であった冬逢が蜀に反乱して張嶷?に討たれたため、仇を討とうと挙兵する。
叔父の狼離に冬逢の遺兵を与えて様子を見させたところ、張嶷?は捕えていた叔母を狼離の元へ丁重に送り返して敵意がないことを示したため、狼路は一族と共に張嶷?に帰順した。
その後張嶷?の依頼で百年間交通が遮断されていた成都への千里の旧道を整備させ、宿場も復興させた。
このため狼路は旄牛句比王に封じられ、蜀へと朝貢するようになった。以後旄牛族が反乱を起こすことはなかったという。
狼岑
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
60 | 66 | 37 | 25 | 56 | 南蛮 | 直情 | 長蛇強化 | 我道 |
【ロウシン】
西南夷の酋長。
塩・鉄・漆という最重要の資源を産出する定莋を支配していたが、槃木王の舅として異民族の信望を集めていた狼岑は蜀に帰順せず、太守として赴任した張嶷?に逆らう態度を取っていた。
張嶷?はただちに数十人の壮士によって狼岑を捕えさせ、鞭打って処刑した。
張嶷?が狼岑の死体を曝してその悪事を説き、勝手に動いたものは皆殺しにすると言い渡すと異民族たちは皆自分の手を縛って謝罪したため、
張嶷?は宴会を催して彼らを説得し、心服させたため乱は収まり蜀は無事に資源を得ることとなった。
山越
古くは呉楚の地に住んでいた部族。中原からの進出に故地を追われ最終的にインドシナ半島へと到る。
ただ、呉にとっての山越は、呉楚の山岳地帯で後漢・呉の支配に服さない不服従民を指し、漢族も少なくなかったようである。
山賊と混同されているところがあり、厳白虎?も山越だったのでは無いかという説もある。
末裔(血は薄い)が建国したのがヴェトナムとする説が在り、漢字表記は「越南」。
張雅
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
54 | 66 | 53 | 31 | 57 | 山越 |
【チョウガ】
恐らく山越。
196年、孫策?が会稽太守・王朗?を追放すると、候官の県長・商升に従って反孫策の兵を挙げた。
商升が賀斉?の説得で孫策に降伏しようとすると、張雅・詹彊らは商升を殺し、徹底抗戦の構えを見せた。
張雅は無上将軍、詹彊は会稽太守を自称した。張雅らは勢い盛んだったが、娘婿の何雄と対立すると、
賀斉の離間策に乗って争い始め、頃合いを見た賀斉の攻勢に大敗。降伏した。
※能力は『三國志 覇道』より。
洪明
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
203 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
49 | 68 | 33 | 35 | 47 | 山越 |
【コウメイ】
建安郡の賊徒でおそらく山越。
洪明・洪進・苑御・呉免・華当はいずれも1万戸を支配し、
呉五と鄒輪は周辺で6千戸を支配していた。
203年、賀斉による支配・徴兵に反発して挙兵するが、賀斉に大敗して斬られた。
呉免らは降伏し、徴兵された者は万を数えたという。
彭虎
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
41 | 66 | 25 | 12 | 40 | 山越 |
【ホウコ】
鄱陽郡の賊徒でおそらく山越。
数万の仲間を集めた。董襲?・凌統?・歩騭?・蒋欽?らによって鎮圧された。
董襲は連戦連勝で、彭虎は董襲軍の旗を見るや逃げ出したという。
金奇
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
47 | 64 | 36 | 29 | 43 | 山越 |
【キンキ】
丹陽郡の山賊でおそらく山越。
歙県の安勒山を根拠地とし、1万戸を支配していた。また、烏聊山では毛甘が1万戸を支配していた。
208年、賀斉の攻撃を受け、降伏した。
陳僕
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
208 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 63 | 51 | 21 | 53 | 幻術 | 山越 |
【チンボク】
丹陽郡の山賊でおそらく山越。
鷯県の林歴山を根拠地とし、祖山らと2万戸を支配していた。
林歴山は四方が険しく、山道は狭く、攻撃すると投石されるので孫権軍は攻めあぐねていた。
賀斉は軽装の兵で鉄弋(ハーケン?)を用いて登山し、夜襲して陳僕らに大勝した。7千人を斬首し、残りは降伏させたという。
※「幻術」持ちなのは、裴松之注で『抱朴子』の禁術使いのエピソードが付けられている為。
それによると、山賊の使う禁術により、刀剣は抜けず、弓矢は味方に舞い戻ってきて戦いにならなかった。
賀斉は「刃を使えない術であれば、刃の無い武器ならば防げまい」と白木の棒を用意した。
賊は禁術頼りで防備を整えていなかったので、果たして棒を防げず、賀斉軍は数万人を撲殺したという。
彭材
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
213 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
51 | 67 | 22 | 21 | 27 | 山越 |
【ホウザイ】
豫章郡東部の民。
213年、李玉・王海と共に反乱を起こし、1万余を動員した。
賀斉に討伐され、首謀者は処刑され、残りは降伏した。
彭旦
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
237 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
46 | 69 | 30 | 17 | 39 | 山越 |
【ホウタン】
鄱陽郡の賊徒。
236年10月、反乱を起こしたが、237年2月に陸遜?に打ち破られ、同年中に平定された。
周遺
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
47 | 70 | 29 | 19 | 33 |
【シュウイ】
丹陽郡の山越。
諸葛恪?は234年、「丹陽から、3年あれば精鋭4万を徴兵できます」と主張し、孫権?は実行を認めた。
諸葛恪は交戦を避ける一方、呉の支配に服している住民には屯田地に居らせ、山越の育てた稲を刈田した。
山越は食糧が尽き、掠奪しようにも付けいる隙がなかったので、次第に呉に降るようになった。
諸葛恪は、降ってきた者は慰撫して県外に移住させ、処罰をしてはならないと命じた。
周遺はかねてより呉にとって札付きの存在だったが、困窮して降った。臼陽県長の胡伉は、周遺が再び背くと考え、捕縛して役所に送った。
諸葛恪は、胡伉を命令違反で誅殺した。これにより、処罰されないと知った山越が多数下山して来た。
こうして諸葛恪は、4万の兵士を約束通り徴兵し、1万を私兵に組み入れた。
陳毖
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
255 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
46 | 62 | 27 | 10 | 28 | 山越 | 強奪 |
【チンヒ】
零陵郡の山賊でおそらく山越。
255年、陸凱?に討伐され、斬られた。
倭
日本列島とその周辺諸島を領域とした国家。後漢末期においては、2世紀後半の倭国大乱を経て、卑弥呼が国王として争いを収めていた。
古代中国王朝との朝貢の記録は度々残されており、三国志中の魏志倭人伝に当時の習俗や地理が詳細に記されている。
「倭・日本(上古)?」の弥生時代を参照。
高句麗
朝鮮半島中部から満洲の南部にかけての地域に存在した国家。後漢初期に朝貢国となるものの、2世紀になると再び独立を果たし、幽州を脅かした。
遼東の公孫氏と抗争を繰り返したが、公孫氏が魏によって滅亡すると、魏の毌丘倹?率いる遠征軍によって首都丸都城が陥落し、滅亡の危機に陥った。
その後復興を果たし、八王の乱では遼東地方へと進出を果たした。
「朝鮮・韓国」の高句麗を参照。
扶南
1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教の古代国家。
229年頃、呉の交州刺史であった呂岱?が宣化従事の朱応と中郎の康泰を扶南に派遣した。この時の見聞について朱応が『扶南異物志』として著している。
『扶南異物志』は散佚したために内容は保存されておらず、一部の引用によって僅かな部分が残っているのみである。
派遣時期についての資料 → 朱応,康泰が使節として扶南へ出た年代について 陳顕泗
金生及(范蔓の子)范旃(甥、范蔓から簒奪して扶南王に)
范長(范蔓の子、范旃を討って仇を討つ)范尋(范旃の将、范長を倒して扶南王に、晋と共に呉と戦う)
范蔓
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
228 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 80 | 78 | 74 | 75 | 操舵 | 水戦 | 勇将 | 英名 |
【ハンマン】
扶南国の王。范金生、范長の父。
扶南国の大将軍であり、先々代の王である混盤況が90歳の長寿で倒れ、その子混盤盤が後を継ぐも高齢であったところから、国の大権を委ねられた。
やがて混盤盤が即位して3年で倒れると、勇壮であった范蔓は扶南の民衆に推され、王に即位する。
巨大な船を造り大艦隊を率いて、屈都昆(ドゥングン)、九稚、典孫(タニンダーリ)ら湾岸諸国を十数国あまり征服して支配下に置き、巨大な海上帝国を築き上げた。
范蔓は大王と渾名されるまでになったが、范金生が金鄰(アユタヤ)征伐に向かった隙に外甥の范旃によって王位を簒奪され、騙し討ちされた。
討たれた年は范旃の死と范長の年齢から、228年前後と考えられる。
出展:シュリヴィジャヤの謎: 海のシルクロードの要(鈴木峻) ex.梁書
出展:梁書
林邑(チャンパ)
2世紀から19世紀の長きに渡りベトナム中部沿海地方及び中部高原に存在した国家。交州の南、扶南国の東に位置する。
交州最南端の日南郡の官吏であった区連が建国した後、中国王朝と朝国を繰り返しながら版図を拡大し、現在のベトナム中部に当たる広大な領土を手にした。
また主要民族であるチャム人は優れた航海技術を持ち、沈香の名産地でもあったことから、歴代の中国王朝、日本、そしてイスラム国家の寄港地としても繁栄した。
区連
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 51 | 66 | 75 | 83 | 扇動 | 教化 | 操舵 | 森戦 |
【オウレン】
交州の功曹。林邑国の初代王。
交州日南郡象林県の功曹であったが、董卓?暗殺の同年、日南境外の蛮夷を糾合して反乱を起こし、県令を殺害して林邑を建国した。
出典:梁書、晋書
※あまりにも記述がないが、士燮の高評価な統治下で(単純に統治範囲外だったかもしれないが)反乱を起こして成功させ、17世紀にも渡る国の礎を築いたので能力は平均より少し上で
統率と魅力と政治は士燮に対抗できる程度に高めに設定。個性は反乱の扇動、蛮夷を従えた教化、趙氏貞と同じ森戦、国の特性を生かした操舵で…ちょっと盛りすぎ?
黄巾の乱と反董卓連合では士燮の家臣に配置しても史実通りなので、林邑国王の力を存分に発揮しよう。
范熊
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
60 | 41 | 66 | 79 | 68 | 操舵 | 森戦 | 論客 | 消沈 |
【ハンユウ】
林邑国の王。区連の外甥。
区連の死後、区氏の王が数代続いたが、区連の直系が絶えたため范熊が跡を継いだ。
晋へ朝貢し、金盤椀と金鉦などを献じた。扶南王の范尋と共に呉を攻撃するが、虞汜?・薛珝?・陶璜?・李勗・徐存らに返り討ちにあった。
陶璜?率いる呉軍が交州を占領して晋の守将楊稷を降伏させると、軍が林邑の方に向かってきたため、呉への服属を願い出た。
呉滅亡後には晋に遣使して紫水精唾壺一口と青白水精唾壺二口を献じている。
出典:梁書、晋書
※新規の良将陶璜?様つよすぎない?薛珝と陶璜は能力差がありすぎて参考にならないので、ステータスは虞汜と同じぐらいに設定。
変わり身の早さで危機を渡りきった感じがしなくもないので、政治は高め。
個性は趙氏貞と同じ森戦、国の特性を生かした操舵、変わり身外交のうまさから論客、盛りすぎなので負けっぷりから消沈…?
大秦(ローマ)
ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアの地中海を支配した大帝国。
後漢末期では180年に最後の五賢帝マルクス・アウレリウスが死に、跡を継いだコンモドゥス帝の暴政と暗殺を経てローマ内戦が勃発、「3世紀の危機」と呼ばれる混乱期に突入する。
中国の史書では大秦の名で残されており、『後漢書』には166年にアウレリウスからの使者が後漢を訪れた旨が記録されている(ただしローマ帝国の商人が皇帝の名を偽ったとの説もあり)。
また、『梁書』によると226年、大秦商人の秦論という者が、交趾太守・呉邈の仲介で孫権に謁見したという(ただし、『三国志』では、交趾太守は同年に死去した士燮?で、呉は陳時を後任に派遣している)。
『晋書』によると、司馬炎?の治世の284年にも大秦から朝貢があった。その後、大秦との直接の交流は後を絶ち、中国では伝説化された存在になっていった。
しかし、『隋書』からは「拂菻」という国家が現れ、唐代の杜環『経行記』、『旧唐書』などで大秦の別称としていることから、東ローマ帝国への比定が有力である。拂菻については、『明史』まで断続的に記録が残っているが、コンスタンチノープルの陥落による滅亡(1453年)は記載されていない。中国にローマ帝国の全貌がもたらされたのは、欧州列強の介入が活発になる清代以降である。
「古代ローマ(帝政期)」を参照。
貴霜(クシャーナ)
中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝。匈奴によって中国の北方より追い出された遊牧民月氏の一部族(クシャーナ族)が建国した。
後漢末期では全盛期をもたらしたカニシカ1世が173年に倒れた後、詳細な記録が途絶える。3世紀頃にヴァースデーヴァ(波調)が魏に使者を送った記録が残っている。
240年頃、ヴァースデーヴァはサーサーン朝との戦いに完敗した。以後クシャーナ朝はインドにおける支配権を失い、やがて276年には完全にサーサーン朝の支配下に置かれるようになった。
「中央アジア」を参照。
安息(パルティア)
西アジアの広い範囲を支配下に置き、地中海世界でローマ帝国と覇を競った古代イランの王朝。
地中海のローマと、中国の漢朝の間の交易路であるシルクロード上に位置しており、中国王朝との関係も深く、交易と商業の中心となった。
後漢末期では度重なるローマとの衝突を除き、パルティア史に関する具体的な情報はほとんど残されていない。
最終的に200年前後において国王アルタバノス4世がローマ帝国から莫大な贈り物を受け取って和平するが、永きに渡る戦争の影響かローマと同じく国内は憔悴しきっていたとも。
やがて新たに勃興したサーサーン朝と対立。224年4月、ホルミズダガーンの戦いでサーサーン朝に敗れてアルタバノス4世は戦死し、パルティアは滅亡した。
中国の史書においては、後漢の桓帝時代(148年頃)に安息(パルティア)の太子安世高が洛陽に赴き仏典を漢訳したと記録が残っている。
天竺(インド)
現代のインドと同じ領域。西遊記の目的地である天竺と同一である。ローマ帝国と盛んに海上交易を行い、商業が非常に発達していた。
後漢末期ではサータヴァーハナ朝がヤジャニヤ・シュリー・シャータカルニ王によって3度目の拡大期を迎え、デカン高原を中心とした中央インドの広い範囲を統治していた。
しかし181年~203年の間に彼が倒れると、各地の王族や諸侯が独立を果たし、急速に衰退していった。
中国の史書においては後漢書の西域伝に「天竺国、一名身毒(インド)。月氏(クシャーナ朝)の東南数千里にあり」と記されている。