注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願します。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
五胡十六国(東晋十六国)時代(304~439)
魏・呉・蜀による三国時代を統一したのは晋の司馬炎?である。
祖父司馬懿?、父司馬昭?の権勢を受け継いだ司馬炎?は魏の曹奐?に禅譲を迫り、
晋を建国した。後世初代皇帝と言われる武帝の誕生である。しかし皇帝として中華統一を果たした
武帝は政治を顧みなくなり、賈南風の傀儡同然でまた暗愚でもあった恵帝をその資質を危惧しつつも後継者とした。
武帝の跡を継いだ恵帝は暗愚であり、そのため晋内部は権力闘争や一族闘争(八王の乱)が絶えなかった。
ほぼ同時期、かつて蜀の首都であった成都で叛乱が起き、首謀者であった李特が敗死した。
しかし彼の三男であった李雄が跡を継いで叛乱を続行、益州から晋軍を追い出し、ここに成漢を建国して独立する。
同年、匈奴では劉淵が漢(前趙)を建国し、ここに晋の中華統一は崩壊した。
以後、晋王朝は呉に逃れた司馬睿らを除き、316年の長安陥落によってその一族がほぼ根絶やしにされて滅亡。
司馬睿は呉で晋王朝の再興を宣言し、それ以前を西晋、それ以後を東晋とした。
一方匈奴は前趙、夏、北涼を、羯は後趙を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、
氐は前秦、後涼、成漢を、羌は後秦を、漢族は前涼、西涼、冉魏、北燕などを建国するなど、
多種多様な異民族がそれぞれ国家を建て、大小それぞれ16国以上の国が乱立した。
のち、439年になって北魏が華北を統一、宋が華南を統一して南北朝時代となる。
- 前趙 304~329(匈奴)
- 後趙 319~351(羯)
- 前燕 337~370(鮮卑)
- 前秦 351~494(氐)
- 後秦 384~417(羌)
- 成漢 301~347(氐)
- 前涼 317~376(漢)
- 西涼 400~421(漢)
- 北涼 397~439(匈奴)
- 後涼 400~421(氐)
- 後燕 384~409(鮮卑)
- 南涼 397~414(鮮卑)
- 南燕 398~410(鮮卑)
- 西秦 385~431(鮮卑)
- 北燕 407~436(漢)
- 夏 407~431(匈奴)
前趙
劉淵(元海)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
91 | 82 | 81 | 77 | 87 | 威風 | B | A | C | S | B | C | 251? | 310 |
【リュウエン(ゲンカイ)】
五胡十六国時代の前趙(自身は漢と称する)の創建者。新興の人。南匈奴の劉豹の嫡子。
崔遊に師事し、漢民族の文化に通じ、人質として魏の洛陽?に入城。
父の劉豹の没後に跡を継ぎ、楊駿が執政すると、建威将軍・五部大都督となる。
八王の乱で晋朝が乱れると、秘かに大単于に推され、成都王司馬穎に匈奴五部との協力を約束し帰郷。
後、漢氏の甥を自称して独立し漢王を称し、司馬穎の死後、晋朝との全面対決に入る。
皇帝即位後、洛陽攻略を前に、志半ばで病没した。
大志を抱き、寛容で文武に秀でた英傑だったという。
劉宣(士則)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
46 | 35 | 84 | 86 | 84 | 仁政 | C | C | B | B | B | C | ? | 308年(自然死) |
【リュウセン(シソク)】
前趙の皇族。劉淵の従祖父。
若い頃から学問を好んで楽安郡の孫炎に師事した。
皇帝司馬炎?に評価されて右部都督となり、仕事ぶりは清恪だった為に
統治下の人に懐かれた。
後に劉淵の漢王即位に尽力し、劉淵からは特別に尊重されて勲功においては
並ぶ者が無く、軍國の内外は劉宣に従った。
親愛武将:劉淵
劉和(玄泰)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
73 | 71 | 74 | 62 | 28 | A | B | A | A | B | C | ? | 310年(不自然死) |
【リュウワ(ゲンタイ)】
前趙の第2代皇帝。劉淵の長男。
身長八尺、凛とした容貌を持ち、数多くの書に通じた文武に秀でていた人物で
あったが、嫉妬深く猜疑心の強い性格で部下に恩恵を施さなかった。
父により皇太子に立てられ、大将軍となった。
父の死により皇帝に即位するが、劉聡ら弟達を警戒して排除を図ろうとした。
しかし、弟の劉聡に敗れて即位僅か一ヶ月で殺害された。
嫌悪武将:劉聡
陳元達(長宏)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
20 | 22 | 86 | 83 | 67 | 論客 | C | C | B | B | B | C | ? | 316年(不自然死) |
【チンゲンタツ(チョウコウ)】
前趙の政治家。
匈奴後部の族長の子で元は高姓であったが、誕生した月が父と同じという事で陳姓に改姓した。
両親の死後は平陽にて四十余歳になるまで学問に没頭していたが、304年に同郷の劉淵が左賢王
となった際に招聘されて側近として活動した。
劉聡の死後は廷尉となり、剛直な性格もあってしばしば劉聡に対して諫言を行った。
316年に河間王劉易と共に劉聡お気に入りの宦官である王沈を重用すべきではないと
上表書を出したが、劉聡は激怒して上表書を破り、劉易も憤死した為に自らも自宅で自殺した。
劉聡(玄明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
79 | 87 | 69 | 53 | 26 | 駆逐 | B | B | S | A | C | C | ? | 318 |
【リュウソウ(ゲンメイ)】
前趙の第三代皇帝、昭武帝。劉淵の第四子。別名に劉戴。
年少時は聡明で経史や百家に通じ、剛弓を扱い武芸にも優れていた。
劉淵が前趙を建国すると車騎大将軍となり、洛陽を攻めるが司馬越に防がれ撤退。
劉淵が崩じると、二代目皇帝となった兄の劉和ら親族を殺害し、帝位に就く。
王弥、劉曜、石勒らの大軍をもって洛陽を攻略し、略奪と殺戮の果てに洛陽を廃墟とする。
西晋の残存勢力が抵抗する中、長安の愍帝を降伏させ、西晋を完全に滅亡させた。
しかし、晩年は昏君となって奢侈淫佚に耽り、功臣の諫言を聞き入れず信望を失った。
劉易
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
79 | 77 | 78 | 68 | 73 | 怒髪 | B | C | A | A | A | C | ? | 316年(不自然死) |
【リュウエキ】
前趙の皇族。劉聡の庶長子。
河間王に封ぜられ、312年には西晋の劉琨討伐に活躍した功績で太宰となった。
父の劉聡が宦官の王沈を重用する等、政治に迷走が見られ始めると陳元達と共に
蜀の黄皓等を引き合いに出して宦官を重用する事の危うさを父に伝え諌めたが
聞き入れられず、さらに王沈を糾弾した書簡を父に送った。
しかし、結局は破られた事により憤死した。
劉粲(士光)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 82 | 43 | 41 | 35 | 攻城 | B | A | A | A | S | C | ? | 318年(不自然死) |
【リュウサン(シコウ)】
前趙の第4代皇帝。劉聡の次男。
父の即位によって河内王に封ぜられ、さらに撫軍大将軍・都督中外諸軍事となった。
西晋の劉琨を討伐し、その本拠地である晋陽を攻略して劉琨の父母を殺害した。
また長安の攻略にも成功して晋王となり、相国・尚書令となった。
帝位を狙う為に継母である靳皇后の父・靳準と共に皇太弟である叔父の劉乂を誣告で
失脚させた上に殺害し、父お気に入りの宦官である王沈が劉易や陳元達に弾劾された
際は擁護した。
父の死により即位したが、酒色に溺れて靳準の反乱により僅か即位一ヶ月で殺害された。
劉曜(永明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 93 | 69 | 31 | 47 | 弓神 | B | B | S | S | A | C | ? | 329 |
【リュウヨウ(エイメイ)】
前趙の第五代皇帝。
劉淵の族子で孤児のため劉淵に養われた。
武勇に優れ、一寸余の鉄板を貫く強弓ぶりから「神射」と呼ばれた。
また文にも優れ、書法にも秀でていた。
漢建国後は豫州を荒らし、洛陽?を陥落させ懐帝を捕虜とした。
長安?も攻略するが間もなく奪い返される。
しかし再び長安を陥落させて愍帝を捕らえ、西晋を滅ぼした。
皇帝即位後に国号を漢から趙(前趙)に改めるが、直後に石勒が後趙として独立し、趙は二分される。
仇池・前涼に親征して服属させるが、離反も相次いだ。
趙の争覇戦で石勒に敗れ、降伏を拒否し殺された。
羊献容
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
5 | 2 | 40 | 58 | 66 | 親烏 | C | C | C | C | C | C | 286 | 322 |
【ヨウケンヨウ】
西晋恵帝の皇后。前趙劉曜の皇后。
中国史で唯一、同時代の二つの王朝で皇后に立てられた女性。
賈南風の死後に恵帝の二番目の皇后として立てられる。
しかし八王の乱に翻弄され、八王の有力者によって五度皇后を廃され、六度皇后に立てられた。
恵帝死後、皇太后となることを望むが、恵帝の弟司馬熾が懐帝として即位したため叶わなかった。
劉曜により洛陽?が陥落すると平陽に連行され、劉曜の妻となる。
劉曜が即位すると皇后に立てられ、寵愛厚く平時には朝政にも参加した。
恵帝を「亡国の暗夫」、劉曜を「開基の聖主」と評している。
王弥
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 94 | 78 | 11 | 6 | 強奪 | B | S | B | S | C | C | ? | 311 |
【オウビ】
西晋末の反乱指導者。前趙の武将。王頎?の孫にあたる。
策略に秀で、弓馬の扱いにも優れ、人並み外れた膂力で「飛豹」と怖れられた。
恵帝末期に劉柏根の反乱に参加し、劉柏根死後も賊となって青州を荒らした。
苟晞を撃破し、許昌?を落として洛陽?に迫るが攻略に失敗し、劉淵のもとに身を寄せた。
前趙の武将として洛陽を攻めるも再び失敗し、石勒とともに河南で十万人を殺傷して荒らした。
劉曜、石勒と再度洛陽に侵攻して遂に陥落させるが、洛陽入城時に掠奪を行い劉曜と対立した。
その後、大将軍となり権勢を誇るが、その驍勇を石勒に怖れられ謀殺された。
陳安(虎侯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
60 | 89 | 24 | 5 | 79 | 親羌 | S | B | A | A | C | C | ? | 323 | 許褚? |
【チンアン(ココウ)】
前趙の武将。
驍勇にして弓馬に長けた。七尺もの大刀を携えていたという。
南陽王・司馬模とその子・司馬保に仕えたが、同僚の張春に讒言されたため劉曜に帰順した。
張春が司馬保を殺すと劉曜から許可を得て張春を討伐。
司馬保の棺の前で張春を斬り、天子の礼をもって司馬保を葬った。
劉曜が病に伏せると独立して大将軍を自称した。
多くの氐羌が従い勢力は十余万に達したが、すぐに劉曜の討伐を受けて斬られた。
政治的見識には欠けたが、部下と異民族を安撫する能力は高く信頼は厚かった。
死後、隴上の人々は壮士の歌を作って称えた。
※許褚?への親愛は陳安が許褚に憧れて字を虎侯にしたエピソードから。
後趙
石勒(世龍)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 |
93 | 84 | 78 | 81 | 75 | 米道 | A | A | S | S | B | B | 274 | 333 | 晩成・短い |
【セキロク(セリュウ)】
五胡十六国時代の後趙の創建者。羯族の出身。
八王の乱の混乱に乗じて群盗となり、
八王の乱の勝利目前にして没した司馬越の葬儀を襲撃し西晋の主力部隊を壊滅させ約10万人を殺害、
漢・前趙に仕え将軍として活躍した。
前趙の劉曜が即位すると、大司馬・大将軍に上るが劉曜と対立して趙王を自称し、後趙を建国した。
法律の施行・九品の決定・度量衡の統一・戸籍の作成・農業の奨励を行い、
混乱した河北の秩序を回復させ、石虎に東晋と前趙の勢力を駆逐させ、ついに華北を統一。
後年、曹操?や司馬懿?を、「孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような者」と辛辣に評した。
石虎(季龍)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
82 | 87 | 59 | 1 | 1 | 強奪・徴税 | A | A | B | S | B | C | 295 | 349 |
【セキコ(キリュウ)】
五胡十六国時代の後趙の第三代皇帝。石勒の従子。
石勒に従い幽州の段部、離石の鮮卑を討ち、洛陽?を攻撃して前趙を滅ぼした。
皇太子の石弘の執政の後失脚するが、石勒が病床に就くと代理のようになった。
石勒は周公や霍光の例を挙げて遺言されたが、果たして魏王・丞相として政治を壟断。
新帝を廃し、自ら居摂趙天王となった。
暴虐非道な性格は統治に反映され、親族殺が行われる乱世でも群を抜いて最悪の非道が罷り通り、
宮殿等の造営では16万人も徴発され、狩猟にも18万もの大軍を率い、
家臣の邸宅を訪問すれば、その妻を乱暴して殺害し食し、
また自身の子の舌を抜き眼を抉り、四肢を切断して焼殺した。
特に統治下の漢人への圧政は惨く、搾取された破産者や妻を奪われた自殺者が後を絶たなかったという。
張賓(孟孫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
65 | 48 | 92 | 90 | 77 | 百出 | B | B | B | B | A | B | ? | 322 |
【チョウヒン(モウソン)】
後趙の武将、政治家。
若い時から自身を張良?に擬え、劉邦?のような君主に仕えるのを願っていた。
劉淵麾下の武将だった石勒を見出し仕える。
石勒の参謀として永嘉の乱で活躍し、石勒の河南を制圧に貢献した。
大将軍の王弥を謀殺し、石勒の軍権を増強させる。
江南への侵攻に失敗した石勒に、晋に投降せず華北に撤退するよう進言した。
王浚、劉琨の襄国侵攻に対策を献じ、幽州・并州を石勒の勢力下に置いた。
後趙建国後は法の執行と朝政を司り、石勒から「右侯」と尊称され篤く信任された。
張賓が没すると石勒は非常に嘆いたという。
仏図澄
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
3 | 1 | 90 | 75 | 93 | 鬼門 | C | C | C | C | C | C | 232 | 348 |
【ブットチョウ】
五胡十六国時代の神異僧。亀茲の出身。
西晋末期に洛陽を訪れて寺院を建てようとしたが永嘉の乱で頓挫。
僧侶を殺戮する石勒を諫止するために石勒に仕えた。
仕える際には、水だけ入った容器から瞬時に青蓮華を生み出して見せ、石勒を信服させたという。
その後、数々の超人的な予言と道術で石勒の覇業を支えた。
石勒死後に立った石虎からも信頼され、「大和尚」の尊称を受けた。
893に及ぶ寺院を建て、そこでの門生は1万を数え、仏教普及に大きく貢献した。
107歳で入寂するが、石虎が後から墓を掘ってみると屍は消えていたという。
冉閔(永曾)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
63 | 92 | 48 | 17 | 13 | 猛者 | B | A | C | S | C | C | ? | 352 |
【ゼンビン(エイソ)】
五胡十六国時代の群雄の一人。後趙の将。魏(冉魏)の建国者。父は漢民族の冉良。
後趙の石勒らの虜囚となるが、その勇猛さを買われその甥の石虎の養子となり、石瞻に改名。
石虎旗下の将として後趙を支えるが、石虎没後の後継者争いでは司空の李農らと結び、
石遵や石鑑らを相次いで擁立し政権を掌握。
後、自身の排斥への先制と漢人への苛政に対する報復として石一族を処刑し、異民族系の民衆20万人を虐殺。
姓を冉氏に戻し、自ら皇帝に即位した。
だが、漢族のみの国家のため勢力基盤は脆弱で、前燕の慕容恪に敗北し処刑された。
前燕
慕容廆(弈洛瑰)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 86 | 73 | 82 | 72 | 威風 | B | A | A | S | C | C | 269 | 333 |
【ボヨウカイ(エキラクカイ)】
鮮卑の大単于。前燕の基礎を築いた。
大人位を継承すると、宇文部を父の敵として武帝司馬炎?に復仇の許可を求めるが許されなかった。
西晋に反乱を起こして遼西を荒らし、度々西晋の討伐を受ける。
その後扶余を支配下に収め、西晋との関係も改善する。
大単于となると公明な政治を行い、士大夫や民衆が集まり大勢力を築く。
宇文部・段部・高句麗の三国が連合して慕容部を攻めるが、これを撃ち破り遼東を制覇した。
東晋の陶侃と通じて王導らに後趙への北伐を促すも、慕容廆の死去により実行されなかった。
慕容儁より高祖武宣帝が追贈された。
※「廆」の字は「魔」か「鬼」を代わりに当てる。
字は「洛瑰」の二文字のみを入力(「弈」は認識されないので丁度良いか)。
裴嶷(文冀)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
64 | 59 | 89 | 84 | 69 | 看破 | B | B | B | A | C | C | ? | ? |
【ハイギョク(ブンキ)】
西晋の政治家。鮮卑慕容部の漢人参謀。
西晋では遼東地方の太守を務めていたが、武帝司馬炎?が崩ずると帰還できずに慕容廆に身を投じた。
慕容廆の長史として軍事・国政面での謀略を担当する。
三国(宇文部・段部・高句麗)連合が瓦解すると、宇文悉獨官(遜昵延)が単独で攻めてくるが、
宇文軍の統制が取れていないことを見抜き、慕容皝とともに先鋒を率いて撃ち破った。
東晋への外交使節として建康に遣わされ、慕容廆の威略を伝え、東晋の慕容部に対する認識を改めさせた。
帰還の際に東晋の元帝に引き止められるも固辞し、帰還した。
慕容皝(元真)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 79 | 74 | 67 | 86 | 不屈 | A | S | B | S | A | C | 297 | 348 |
【ボヨウコウ(ゲンシン)】
五胡十六国時代の前燕の初代君主。太祖明文帝。
鮮卑慕容部の大人(酋長)で、慕容廆の第三子。昌黎郡棘城県の人。
身長は七尺八寸で、武勇と権謀に長けたという。
父の命で段部を襲撃し、転戦して後趙の石勒の攻勢を防ぐ。
慕容廆の没後大人となるが、兄弟の間で骨肉の争いが生じ、
宇文部と段部を巻き込む内乱となり、鎮圧の後、自ら燕王を称し前燕を建国。
再び後趙の石虎の侵攻を阻止し、高句麗・宇文部を撃破し、遼東に勢力を築いた。
漢族の流民を受容し、前燕は人口が増えて発展した。
慕容翰(元邕)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
92 | 90 | 81 | 67 | 84 | 射手 | A | A | S | S | C | C | ? | 344 |
【ボヨウカン(ゲンヨウ)】
前燕の武将。慕容廆の長子。
雄豪で膂力に優れ、弓射に秀でた。
三国連合が慕容部を攻めた際には、宇文部の侵攻を伏兵で食い止め勝利に貢献する。
遼東の鎮守に赴くと、勇名を畏れた高句麗が侵犯を止めたという。
慕容皝が後を継ぐとその武勇を妬まれたため段部に亡命し、段遼が石虎に敗れると宇文部に投降した。
その後、宇文部で猜疑されたため狂人を装って逃亡し、慕容皝に迎えられた。
高句麗討伐などで功績を上げるが、慕容皝が戦傷を負った際に誣告され死を賜った。
慕容恪・慕容垂に匹敵する将才と評され、義人として英雄視されている。
※「邕」はTE-Person editorの外字機能で入力可能。
慕容暐(景茂)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
57 | 46 | 50 | 52 | 64 | B | C | B | B | C | B | 350 | 384 |
【ボヨウイ(ケイモ)】
五胡十六国時代の前燕の第三代君主。慕容儁の三男。
兄に皇太子の慕容曄がいたが早世したため、父の死後即位し第ニ代皇帝となるが、
若年のため、伯父の慕容恪の補佐を受けた。
慕容恪は善政を布き、前燕は全盛期を迎えたが、
慕容恪の死後、叔父の慕容評が実権を握ると、前燕は収賄で政治腐敗が進み、それに伴い国力も衰退した。
そして前秦の苻堅の侵攻を受けて前燕は滅亡し、苻堅に降伏し長安に連行された。
以後は前秦の将軍として働き、淝水の戦いにも従軍したが、
敗戦後に苻堅の暗殺を計画したとして殺害された。
慕容恪(元恭)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
95 | 86 | 96 | 97 | 98 | 神算 | S | A | S | S | A | B | 324 | 367 |
【ボヨウカク(ゲンキョウ)】
五胡十六国時代の前燕の将・政治家。慕容儁の弟。慕容垂・慕容徳の兄。
幼い頃から慎慮と度量を讃えられ、若くして経天緯地の大略を口にし、
父より英邁さを認められ、兵を与えられ度々従軍した。
奇策を出して燕軍を勝利に導くこと多数で、威と恵を巧みに使い分けた。
父の死後、兄の慕容儁が即位すると腹心として極めて厚遇され、
甥の慕容暐の代には、後を託されて朝廷の総権を握った。
外征では生涯無敗で、内政でも人心を掌握し讃えられた。
後事には弟の慕容垂を推薦するが、慕容垂は慕容評に憎まれたため前秦に亡命した。
前秦
苻生
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
30 | 60 | 20 | 1 | 1 | 強奪 | C | C | C | C | C | C | 335? | 357 |
【フセイ】
五胡十六国時代の前秦の2代目皇帝で、初代皇帝・苻健の第3子。氐族の出身。
生来「眇(すがめ、片目が極端に小さい)」の人相だった為に、祖父の苻洪に虐待されて生育。
成長すると、千鈞を挙げる力を持ち、勇猛にして威武を有していた。素手で猛獣と格闘し、奔馬には走って追いつき、剣戟や騎射の腕は当代で並ぶ者がいなかった。藍田において桓温と交戦となると、苻生は自ら陣頭に立って敵陣へ突入し、10数回出入りして敵旗を奪い取り、将軍応誕・劉泓を始め10数人の武将を討ち取って1000人を殺傷した。
355年に践祚すると、手始めに些細な理由で妃・女官・官吏など500人以上を鏖殺、容貌への劣等感から面皮を剥ぎ己の前で踊らせた。
酒乱でもあった彼は悪逆非道な言動を繰り返し、最期は彼を恨む大臣一家に惨殺された。
苻堅(永固)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 56 | 78 | 94 | 97 | 仁政 | A | C | B | B | B | C | 338 | 385 |
【フケン(エイコ)】
前秦の第3代皇帝。
ニ代皇帝の苻生が暴政と乱行に走ったため、異母兄の苻法と共に苻生を弑し即位し、
漢族出身の王猛の補佐を受け、前秦を興隆させる。
内政では儒学による教育の普及・戸籍制度の確立・農業の奨励・街道整備などに力を注ぎ、
軍事では王猛に軍権を与え前燕・前涼を滅ぼし勢力を拡大した。
だが、南征を批判した王猛の急死後、弟の苻融と共に五十万の兵で南下するが、淝水の戦いで大敗を喫し、
さらに造反した慕容沖にも敗れ、姚萇に捕縛され禅譲を迫られるが、拒否して縊殺された。
王猛(景略)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
92 | 84 | 95 | 92 | 55 | 洞察 | S | A | S | A | A | C | 325 | 375 |
【オウモウ(ケイリャク)】
五胡十六国時代の前秦の宰相。
漢人の名門の出で、博学で殊に兵書を好んだ。
東晋の名将桓温が前秦を北伐した際に訪ね、天下の大事を堂々と論じ合ったという。
東晋への仕官を勧められたが断り、異民族の王苻堅の枢機に参与し、
苻堅は彼を、劉備?に対する諸葛亮?に譬えて重用した。
内政では儒学による教育の普及・戸籍制度の確立・農業の奨励・街道整備などに力を注ぎ、
軍事では前燕・前涼を滅ぼし華北統一に成功。
民族間の融和を図り、当代では稀な平和を築き上げた。
聖王として名高い苻堅だが、その功績の多くは王猛に帰する。
苻融(博休)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
83 | 82 | 84 | 80 | 88 | 補佐 | A | A | A | A | A | B | ? | 386 |
【フユウ(ハクキュウ)】
五胡十六国時代の前秦の将。苻堅の異母弟。陽平公。
王猛が丞相になると、後任として冀州牧を拝命。
兄・苻堅からの信頼が篤く冀州全域を統括しその秩序を保ち、優れた統率力で将兵の信望を得た。
王猛の没後、長安?に召還され、侍中・中書監・司隷校尉・太子太傅・録尚書事などを歴任。
王猛の遺言を守り南征への諫言を繰り返したが、容れられず淝水の戦いを招く。
降将の朱序の裏切りに逢い、同時に東晋本隊の攻撃を受け前秦軍は総崩れとなり、
兄と共に敗走するが戦死した。
鄧羌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 97 | 62 | 57 | 76 | 闘神 | S | S | C | S | B | C | ? | 379 |
【トウキョウ】
五胡十六国時代の前秦の将。
苻堅に仕え、その武勇は「関?・張?の流、万人の敵」と称された。
羌族の姚襄を破り、前燕の慕容垂と共に東晋の桓温を破り、
さらに前燕を降して、北方で劉衛辰が反するとこれも破った。
苻堅の下で常に最前線で戦い続け、前秦の領土拡大に貢献した。
張蚝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
73 | 96 | 40 | 17 | 53 | 攻城 | S | B | B | S | S | C | ? | ? |
【チョウコウ】
前秦の武将。鄧羌と共に万人之敵と称された。
牛を引いて走れる程の膂力と城壁を飛び越えられる程の跳躍力を誇った。
養父の妾との密通を恥じて自ら性器を裂いて宦官となった。
苻堅が来寇すると呂光と鄧羌の二人がかりで捕虜とされ、以降は苻堅に従った。
前燕の晋陽攻略では壮士数百で地下道から潜入し城を陥れた。
6万の軍で30万の前燕軍と戦った際は敵陣に突撃すること四度、
傍若無人の勇猛ぶりで勝利に貢献した。
淝水の戦いでは先鋒を務めたが、味方の混乱を制しきれず敗走。
その後は并州に移って苻丕の下で司空、大尉を歴任した。
※蚝は表示できないので[虫毛]などを代わりに用いること。
苻登(文高)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 90 | 57 | 18 | 61 | 怒髪 | A | B | B | S | A | C | 343 | 394 |
【フトウ(ブンコウ)】
前秦の第5代皇帝・太宗高帝。苻堅の族孫。
淝水で前秦が大敗すると、任地だった関中も動乱に巻き込まれ、涼州に逃れる。
苻丕より南安王に封じられるが、苻丕が敗死したため皇帝として擁立される。
後秦への報復を誓い、涼州の氐族を糾合して後秦包囲網を形成する。
連戦連勝の末、後秦を長安?と安定?の二都市のみに追い込む。
しかし、安定の攻囲戦の最中に本営を襲われ大敗を喫した(大界の戦い)。
その後は、後秦への離反が相次ぎ包囲網は瓦解。
姚萇の死に乗じて決戦を挑むが敗れ(廃橋の戦い)、姚興に馬毛山で包囲され殺害された。
毛氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 84 | 51 | 40 | 87 | 白馬or不屈 | B | B | A | A | C | C | ? | 389 |
【モウシ】
前秦の苻登の皇后。
美しいながらも勇壮で騎射に長け、苻登の皇后に立てられた。
苻登が毛氏と輜重を砦に留めていたところ、姚萇の襲撃を受ける。
砦はまもなく陥落するが、毛氏は砦が陥落してもなお壮士数百人と共に抵抗。
敵軍700人余を殺したが、衆寡敵せず捕虜となった。
姚萇は毛氏を後宮に納めようとするが、
「姚萇は無道で既に天子(苻堅)を殺しておきながら今度は皇后を辱めようとしている。
皇天后土がどうしてお前を許すだろうか」と罵倒して殺された。
後秦
姚萇(景茂)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 81 | 63 | 61 | 85 | 捕縛 | B | A | B | S | C | C | 330 | 393 |
【ヨウチョウ(ケイモ)】
五胡十六国時代の後秦の創建者。姚興の父。姚碩徳・姚緒・姚旻の兄。
異母兄の姚襄が前秦と戦い敗死すると苻堅に帰順し、前秦の将として各地を転戦した。
苻堅が淝水の戦いで大敗した後、造反した西燕の慕容泓討伐に向かうも敗走し、
逃亡先の馬牧で漢・羌の諸長から盟主に推戴され前秦から自立。
史家はこれをもって後秦の成立とする。
長安?から脱出した苻堅を捕らえ禅譲を迫るが、拒否されたため殺害し、
優秀な弟達や、尹緯・狄伯支など天水?郡出身の漢人豪族の活躍で長安へ入城。
自ら即位したが、まもなく死亡した。
姚興(子略)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 85 | 76 | 66 | 87 | 白馬 | A | A | B | S | A | C | 366 | 416 |
【ヨウコウ(シリャク)】
五胡十六国時代の後秦の第ニ代皇帝。羌族の出身。姚萇の長子。姚顕・姚嵩の兄。
父姚萇の没後、大秦皇帝に即位。
侵攻してきた前秦の苻登を撃退後、同年、馬毛山に討って処刑し、後秦の関中統一が実現した。
この後も盛んに外征を繰り返し、オルドスを占領し洛陽?を陥落させ、西秦を滅ぼし、
後涼を降して河西諸政権を従属させた。
北魏との戦いには大敗したが、東晋から淮河以北の広大な地域を占領し、
後仇池を降伏させるなど、華北に一大勢力を築き上げた。
尹緯(景亮)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 57 | 89 | 89 | 71 | 指導 | B | A | A | B | B | C | ? | ? |
【インイ(ケイリョウ)】
後秦の政治家、武将。
尹赤が姚襄に従ったため前秦では重用されなかった。
苻堅が淝水の戦いで大敗すると、姚萇に対して自立するよう説得した。
姚萇が苻堅を捕らえると禅譲を求める使者として赴き、苻堅から王猛に匹敵する宰相の才能と評された。
苻登に通じた苟曜を誅殺し、苻登討伐の際には太子の姚興を起用するよう姚萇に勧めた。
廃橋の戦いでは歩兵を指揮し、後秦軍が廃橋に陣取るよう計略を掛けて苻登の撃破に貢献した。
鮮卑の薛勃の反乱では姚崇とともに討伐したが、輜重が滞ったため杜成らを斬って軍規を正している。
成漢
李特(玄休)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 85 | 69 | 77 | 79 | 踏破 | B | S | A | A | B | C | ? | 303年(不自然死) |
【リトク(ゲンキュウ)】
成漢の実質的な創始者。景帝。
涼州略陽郡臨渭の人で、巴賨族の出身。
身長八尺で武勇に秀でていた。
当初は州に仕えたが、298年に斉万年の乱によって関中が飢饉となった際に他の一族や多数の
流民と共に漢中を経て益州へと入った。
当初は反乱を起こした益州刺史趙廞の配下であったが、兄弟を殺された
為に離反し、趙廞を打倒した。
その後は新たに益州刺史となった羅尚に属するも流民を帰還させよう
とした羅尚と次第に対立し、流民達の支持を集めて大将軍と益州牧を自称して
自立、一時は成都を占領したが、羅尚の策略によって戦死した。
李輔(玄政)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
60 | 73 | 63 | 41 | 57 | A | B | B | A | C | C | ? | 303年(不自然死) |
【リホ(ゲンセイ)】
李特の兄。
勇猛で武略があった人物で、李特に従って益州刺史趙廞の配下を経て
李特が自立した際には驃騎将軍となった。
しかし、羅尚の軍によって李特が戦死した際に共に戦死した。
李庠(玄序)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 92 | 73 | 74 | 82 | 昂揚 | S | S | A | S | B | C | 247年 | 301年(不自然死) |
【ショウユウ(モハク)】
李特の弟、李流の兄。
若い頃から烈気溢れる事で有名で、弓馬は敏捷で膂力は人より強く
郡の役人であった際にはどこに仕えても上の官職に匹敵する働きを見せ、
当時の人に文鴦のようだと評された。
任侠に溢れる性格でもあり、飢えて貧しい人々に施しを行って人気を得た。
その後は兄とともに益州に入って益州刺史趙廞に仕え、かつての関張のようである
と評されて部曲督となり、一万人の兵を率いた。
しかし、趙廞に疑念を持たれるようになって殺害された。
李流(玄通)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 79 | 77 | 65 | 72 | 精妙 | B | A | S | A | B | C | 248年 | 303年(自然死) |
【リリュウ(ゲンツウ)】
李特の弟。成漢の実質的な第二代君主。
若い頃から学を好み、弓馬に秀でていた。
東羌校尉・何攀に評価されて東羌督となり、後に兄と共に益州へと入って
行動を共にし、兄からは軍の調練を任された。
李特の戦死後は甥の李雄と共に残軍をまとめあげて羅尚の軍と戦い、
李雄を後継者に指名して病死した。
李驤(玄竜)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
83 | 77 | 78 | 75 | 63 | 待伏 | B | A | S | A | A | C | ? | 328年(自然死) |
【リジョウ(ゲンリュウ)】
成漢の皇族。李特の末弟。
李特の挙兵時から付き従い、羅尚との戦いにて活躍した。
李雄の時代には太傳として重んぜられて梁州刺史李鳳の討伐や
南中攻略で活躍、成漢の勢力拡大に貢献した。
死後に子の李寿が皇帝となった際に献帝と追号された。
李雄(仲俊)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
82 | 80 | 58 | 79 | 74 | B | A | A | B | B | C | 274 | 334 |
【リユウ(チュウシュン)】
成漢の初代皇帝・太祖武帝。
父の李特の挙兵に従う。
李特が西晋の益州刺史羅尚(羅憲?の甥)に敗死すると、叔父の李流とともに羅尚に抵抗を続ける。
李流の跡を継いで羅尚から成都?を奪取し、成都王を自称する。
その後帝位に就いて成(成漢)を建国、前趙とともに五胡十六国時代を招来した。
羅尚に奪われた梓潼を奪回し、羅尚死後に巴西も平定する。
仇池の楊難敵と争い、漢中?を支配下に置いて成漢の最大版図とした。
内政では天師道の范長生を丞相に据えて寛大な政治を行い、
動乱の中で四川を約30年に渡って安定状態に置いた。
李始(伯起)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
65 | 57 | 72 | 68 | 80 | 仁政 | B | B | B | C | A | C | ? | 338年(不自然死) |
【リシ(ハクキ)】
成漢の皇族。李特の長子。
李特が独立した際に武威将軍となり、異母弟の李雄が即位した後は太保・折衝将軍となって弟を支えた。
よく士衆を撫した事から彼らの信頼は厚く、「老後を養いたくば太保に属すべし」とまで言われた。
李雄の死後に跡を継いだ李班が李期に殺害された際、当初は李寿と共に李期の打倒を
目指したが、受け入れられなかった為、李期側に転じて李寿を捕らえようとしたが
これも受け入れられなかった。
その後、成都を占領した李寿によって殺害された。
李蕩(仲平)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
72 | 83 | 53 | 48 | 68 | 戟将 | A | S | B | A | C | C | ? | 303年(不自然死) |
【リトウ(チュウヘイ】
成漢の皇族。李特の次男。
父の挙兵に従って羅尚ら晋軍との戦いに活躍、広漢太守張徴が父の李特に
奇襲をかけた際には鎧を重ね着して長矛を手に自ら敵勢に突入して多くの
敵を討ち取って窮地を救い、さらに張徴を追撃して討ち果たした。
李特の死後は弟の李雄に従ったが、敵を追撃する際に戦死した。
范長生(元)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
22 | 4 | 82 | 87 | 88 | 米道 | C | C | C | C | C | C | 218 | 318 |
【ハンチョウセイ(ゲン)】
成漢の政治家。天師道(五斗米道)の首領。天地太師。
蜀漢の代に涪陵で反乱が起き、鄧芝?の討伐を受け成都?に移住させられた。
その後、天師道に入信し、博学多才だったことから教徒により首領に推戴される。
西晋の代には、起兵していた李流・李雄らに糧秣を支援する。
李雄から君主として推されるも固辞し、李雄が成都王になると丞相に任じられる。
成漢が建国されると西山侯に封じられ、「天地太師」の号を贈られた。
李雄を補佐して四川の地で仁政を敷いて戦乱の世にあって四川を安寧に保ち、民から非常に崇敬された。
李班(世文)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
38 | 32 | 56 | 67 | 78 | C | C | B | C | B | C | 288年 | 334年(不自然死) |
【リハン(セイブン)】
成漢の第2代皇帝・哀帝。李特の次男・李蕩の子で初代皇帝・李雄の甥。
温厚で人徳のある性格であったとされる。
李雄に正室との子が無かった事やかつて兄の李蕩を戦死させてしまった
負い目から李雄の子を差し置いて後継者に指名され、李雄の死により皇帝に即位した。
しかし、李雄の実子である李期や李越の反発を招いてすぐに殺害されてしまった。
李期(世運)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
28 | 47 | 26 | 32 | 36 | B | B | B | C | C | C | 314年 | 338年(不自然死) |
【リキ(セイウン)】
成漢の第3代皇帝。初代皇帝・武帝(李雄)の四男。
父の死後、従兄弟である李班が即位した事に反発して兄の李越らと共に
李班を殺害して自らが皇帝に即位した。
しかし実権は一族の有力者である李寿によって握られ、最後は李寿に帝位を
廃された末に殺害された。
李越
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
55 | 58 | 39 | 45 | 42 | C | B | A | C | B | C | ? | 338年(不自然死) |
【リエツ】
成漢の皇族。初代皇帝・武帝(李雄)の長男。
父の死後、従兄弟である李班が即位した事に反発して弟の李期と共に
李班を殺害して李期の即位後は相国及び建寧王となるが、李期が李寿によって
李越の殺害を迫られた事によって殺害された。
李寿
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
62 | 68 | 63 | 4 | 5 | 強奪 | 300 | 343 | 石虎 |
【リジュ】
李雄の一族の最有力者で、彼に才を認められ出世した漢人。李雄死後の擾乱の果てに338年に第4代皇帝に即位。
彼の暴君・石虎を尊崇し、彼の施策(と謂う名の暴虐)を悉く真似した。最期は祟り在ってか病没。
李勢(子仁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
12 | 17 | 6 | 3 | 11 | B | B | C | B | C | C | ? | 361年(自然死) |
【リセイ(シジン)】
成漢の第5代皇帝。第4代皇帝・李寿の子。
342年に父の死によって皇帝に即位した。
自身の弟である李広を皇太弟に立てようとした臣を李広共々殺害した
のを始め、政治を顧みずに荒淫に耽った事で国内の状況は大いに不安定となり、
347年に東晋の桓温率いる軍の侵攻を受けて降伏した。
その後は建康に送られ、帰義侯に封ぜられて余生を過ごした。
後涼
呂光(世明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 87 | 72 | 37 | 63 | 踏破 | A | B | A | S | A | C | 338 | 399 |
【リョコウ(セイメイ)】
前秦の武将、後涼の太祖懿武帝。
東晋に降った張平の討伐で戦功を立て勇名を上げる。
苻双の反乱では敵将の苟興を破り、苻双の反乱を鎮圧した。
陝西・四川・幽州の乱を平定し、驍騎将軍に上った。
苻堅により西域都督に任じられ大宛諸国へ出征する。
焉耆、亀茲を撃ち破り西域を震撼させ、僧の鳩摩羅什を得て兵を返した。
帰還中に苻堅が淝水で大敗して後秦が興ったため、高昌・敦煌・武威?を攻め落として独立。
苻堅の死を聞くと後涼を建国し天王となったが、
匈奴(北涼)や鮮卑(南涼)の離反により、支配基盤を固められぬまま没した。
後燕
慕容垂(道明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
92 | 88 | 78 | 75 | 88 | 勇将 | A | B | A | S | A | A | ? | 396 |
【ボヨウスイ(ドウメイ)】
五胡十六国時代の後燕の創建者。慕容儁・慕容格の弟。慕容徳の兄。
後趙攻略に活躍し、兄の即位後は呉王に封じられた。
慕容暐の代には慕容恪に重用され後事を託されるが、人望を集め危険視されたため、前秦に亡命した。
前秦の苻堅の華北統一にも貢献したが、南征では淝水の戦いで東晋軍に大敗し逃走。
この時、一族に苻堅の殺害を勧められたが、旧恩を重んじて退け、苻堅に兵を預けた。
後、苻堅の子の苻丕と反目して決起し、苻堅が姚萇に殺害されると、皇帝に即位。
北魏に親征して拓跋珪を撃ち破ったが、帰国途上で没した。
南燕
慕容徳(玄明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 86 | 72 | 73 | 81 | 補佐 | B | A | A | A | B | B | 336 | 405 |
【ボヨウトク(ゲンメイ)】
五胡十六国時代の南燕の初代皇帝。慕容儁・慕容恪・慕容垂の末弟。
慕容暐により范陽王に封じられたが、前燕が前秦に滅ぼされると、前秦の苻堅に臣従した。
苻堅の南征では奮威将軍に任じられたが、淝水の戦いで苻堅が大敗し、
兄の慕容垂が自立して後燕を建国すると合流し車騎大将軍に任命され、再び范陽王となる。
慕容宝の代、北魏に敗北した慕容宝が北方に逃亡したため、後燕は領土が南北に二分され、
慕容垂の別子の趙王慕容麟が鄴?に入ると、滑台への遷都を建議した。
翌年、建議を容れて南遷し、燕王を自称し南燕を建国した。
北燕
馮跋(文起)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 74 | 80 | 85 | 81 | 待伏 | B | A | A | A | B | C | ? | 430 |
【フウバツ(ブンキ)】
北燕の第二代天王・太祖文成帝。実質上の北燕の建国者。
後燕の武将だったが慕容熙に誅殺されそうになり、弟の馮素弗と逃亡した。
民に重い賦役を課す暴政を憂い、城に潜入して慕容熙を弑し、
慕容宝の養子だった高雲を擁して北燕を建国した。
高雲が寵臣に殺害されると、その乱を収め諸将に天王に推戴された。
治世では農蚕を奨励し、桑と拓を植えて生産力を拡大する。
賦役を軽減し、倹約に努め、官の賄賂を取り締まったため民からの支持も得た。
北魏の圧迫を受けながら、防備を固めて北辺において二十年近い安定をもたらした。
※特技は慕容熙謀殺時のエピソードから。
農業を推進しているので、特技名が本人のエピソードに沿わないが「米道」や「徴収」も候補。
夏
赫連勃勃(屈孑)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
87 | 92 | 57 | 48 | 44 | 威風 | A | A | A | S | C | C | 381 | 425 |
【カクレンボツボツ(クツゲツ)】
夏の創建者。匈奴鉄弗部の出身。旧姓は劉。
父の劉衛辰が北魏に滅ぼされると、鮮卑叱幹部や後秦に身を寄せる。
姚興の厚遇を受けるも、後秦と北魏が和睦すると叛き、夏を建国。
政略結婚を拒否した南涼を攻めて陽武で大勝し、戦勝記念の髑髏台を築く。
後秦の討伐軍も青石原で撃破し、その後は後秦や北魏との攻防を繰り返した。
この間、都城となる統万城を築き、姓を赫連に改めた。
劉裕が後秦を滅ぼすと、関中の混乱を突いて長安に入城、東晋軍を大破した。
性格は凶暴また驕虐で、殺害を好んで常に弓剣を備え、民を草芥と見なしていた。
叱干阿利
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
70 | 68 | 72 | 81 | 32 | 築城 | C | C | B | B | A | C | ? | ? |
【シツカンアリ】
夏の重臣。鮮卑叱幹部の出身。
叱幹部に逃れてきた劉勃勃を送還しようとする大酋長の太悉伏を諌め、
叱幹部が北魏に攻撃されると勃勃と共に高平鮮卑の没奕干を頼る。
勃勃が夏を建国すると御史大夫、梁公に任じられる。
都城建設に際して将作大匠となり、十万人を動員して統万城を築城した。
工事を監督する際に、城壁に錐を突いて一寸以上の穴が開くと担当者を殺して埋め込んだという。
勃勃はこの行いを忠義とみなし、営繕に関しての全てを委任された。
統万城は中国史で初の馬面構造を持ち、後代まで堅固な城砦として用いられた。
※部族名(姓)は『晋書』の表記による。『魏書』は「薛干」と表記される。
王買徳
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 74 | 88 | 65 | 70 | 待伏 | A | A | B | A | B | C | ? | ? |
【オウバイトク】
後秦、夏の武将。
後秦の鎮北参軍だったが夏に出奔。
赫連勃勃から後秦の攻略を問われると、
後秦の政は衰えたが藩鎮は強固なため、力を蓄えて待つべきと進言、軍師中郎将に任命される。
乞伏熾磐への方策では、徳と義を説いて出兵に反対し受け入れられた。
劉裕が後秦を滅ぼして南帰すると、関中侵攻の好機として、
青泥・上洛に兵を派遣し、潼関を抑え長安に檄を飛ばす作戦を上奏。
関中侵攻では遊軍を率い、青泥で東晋軍の退路を断って傅弘之・蒯恩・毛脩之を捕縛した。
戦功と献策を賞され、都官尚書、冠軍将軍となり、河陽侯に封じられた。