注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
五胡十六国(東晋十六国)時代(304~439)
魏・呉・蜀による三国時代を統一したのは晋の司馬炎である。
祖父司馬懿、父司馬昭の権勢を受け継いだ司馬炎は魏の曹奐に禅譲を迫り、
晋を建国した。後世初代皇帝と言われる武帝の誕生である。しかし皇帝として中華統一を果たした
武帝は政治を顧みなくなり、賈南風の傀儡同然でまた暗愚でもあった恵帝をその資質を危惧しつつも後継者とした。
武帝の跡を継いだ恵帝は暗愚であり、そのため晋内部は権力闘争や一族闘争(八王の乱)が絶えなかった。
ほぼ同時期、かつて蜀の首都であった成都で叛乱が起き、首謀者であった李特が敗死した。
しかし彼の三男であった李雄が跡を継いで叛乱を続行、益州から晋軍を追い出し、ここに成漢を建国して独立する。
同年、匈奴では劉淵が漢(前趙)を建国し、ここに晋の中華統一は崩壊した。
以後、晋王朝は呉に逃れた司馬睿らを除き、316年の長安陥落によってその一族がほぼ根絶やしにされて滅亡。
司馬睿は呉で晋王朝の再興を宣言し、それ以前を西晋、それ以後を東晋とした。
一方匈奴は前趙、夏、北涼を、羯は後趙を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、
氐は前秦、後涼、成漢を、羌は後秦を、漢族は前涼、西涼、冉魏、北燕などを建国するなど、
多種多様な異民族がそれぞれ国家を建て、大小それぞれ16国以上の国が乱立した。
なお、16国に鮮卑の代が含まれていないのは、代の後継の北魏で16国が定義されたからである。
崔鴻『十六国春秋』として編纂されたが、現在は散逸している。
のち、439年になって北魏が華北を統一、宋が華南を統一して南北朝時代となる。
- 前趙 304~329(匈奴)
- 後趙 319~351(羯)
- 前燕 337~370(鮮卑)
- 後燕 384~409(鮮卑)
- 南燕 398~410(鮮卑)
- 北燕 407~436(漢)
- 夏 407~431(匈奴)
※以下の9国は「五胡十六国(西方・南方)」を参照
- 前秦 351~494(氐)
- 後秦 384~417(羌)
- 成漢 301~347(氐)
- 前涼 317~376(漢)
- 西涼 400~421(漢)
- 北涼 397~439(匈奴)
- 後涼 400~421(氐)
- 南涼 397~414(鮮卑)
- 西秦 385~431(鮮卑)
- 東晋 318~420(漢) ※「東晋」を参照
- 北魏 386~534(鮮卑)※「南北朝時代」を参照
- 「十六国」以外の異民族 ※「異民族(十六国以外)」を参照
前趙
劉淵(元海)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 251? | 266 | 310 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 94 | 84 | 80 | 73 | 93 | 求心 | 威風 | 英名 | 使役 | 文化 | 修文練武 | 斉射 | 牽制 | 足止 | 井闌 | 文事武備 | 王道 |
| 99 | 96 | 85 | 83 | 93 | 求心 | 威風 | 英名 | 使役 | 文化 | 修文練武 | 斉射 | 牽制 | 足止 | 井闌 | 文事武備 | 王道 |
【リュウエン(ゲンカイ)】
五胡十六国時代の前趙(自身は漢と称する)の創建者。新興の人。南匈奴左賢王の劉豹?の嫡子、祖父は匈奴単于の於夫羅?。
崔遊に師事し、漢民族の文化に通じ、人質として魏の洛陽?に入城。
父の劉豹の没後に跡を継ぎ、楊駿が執政すると、建威将軍・五部大都督となる。
八王の乱で晋朝が乱れると、秘かに大単于に推され、成都王司馬穎に匈奴五部との協力を約束し帰郷。
後、漢氏の甥を自称して独立し漢王を称し、司馬穎の死後、晋朝との全面対決に入る。
皇帝即位後、洛陽攻略を前に、志半ばで病没した。
大志を抱き、寛容で文武に秀でた英傑だったという。
※劉豹と年齢が離れすぎているため、劉淵の実父は左賢王の劉豹とは別人の劉豹説、大叔父とされる劉宣を実父とする説もある。
劉宣(士則)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 308 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 46 | 35 | 84 | 86 | 84 | 督励 | 文化 | 召募 | 柱石 | 輿望 | 斉射 | 鼓舞 | 鎮静 | 上兵伐謀 | 王道 | ||
【リュウセン(シソク)】
前趙の皇族。羌渠の子で劉淵の従祖父。於夫羅?、呼廚泉?の弟。
若い頃から学問を好んで楽安郡の孫炎に師事した。
皇帝司馬炎?に評価されて右部都督となり、仕事ぶりは清恪だった為に
統治下の人に懐かれた。
八王の乱では、劉淵は司馬穎に属していたが、劉宣は「我々を奴隷の如く扱う」晋朝からの自立を主張した。
後に劉淵の漢王即位に尽力し、劉淵からは特別に尊重されて勲功においては
並ぶ者が無く、軍國の内外は劉宣に従った。
親愛武将:劉淵
※劉淵の実父説もある。
劉延年
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 314? | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 68 | 67 | 72 | 78 | ||||||||||||
| 74 | 68 | 67 | 72 | 70 | 召募 | 斉射 | 鼓舞 | 雁行強化 | 王道 | |||||||
【リュウエンネン】
五胡十六国・漢の臣。劉豹の庶長子。劉淵の兄。
匈奴の左独鹿王・江都王。劉淵の挙兵に従う。晋の成都王司馬頴への援軍として二万の兵を率いて鮮卑討伐を任されるが、
従祖父の劉宣が司馬頴のために異民族同士で争うことは愚策であり、逆に大業のため鮮卑と連合するべきであると主張したため沙汰止みになった。
漢においては大司空・太傅を歴任し、三代皇帝劉聡の代には録尚書事にまで昇った。
※314年に録尚書事になった後の事績が不明で251年頃の生まれと推定される弟の劉淵よりも前に生まれている筈なので、就任後程なく病死したと考えて良いかと。
生年については父の劉豹が181~279(ゲーム設定)より、50歳の時の子(230年生まれ)としても314年には85歳に達するため、かなりの長命設定になると思われる。
劉盛
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
【リュウセイ】
五胡十六国・漢(前趙)の臣。劉淵の弟。
若い頃から漢民族の文化に親しみ、読書嫌いであったが「論語」と「孝経」だけは熟読して実践し、己を戒めた。
兄が挙兵するとこれに従い、忠義に篤かったことから重用され安邑王に封じられた。
兄の死にあたって領武衛将軍となり後事を託され、禁兵を統率することになったが、猜疑心の強い二代皇帝劉和が皇族の粛清を画策したため諫言し、受け入れられず殺害された。
呼延翼
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
【コエンヨク】
五胡十六国漢(前趙)の臣。匈奴呼延部の出身。勇敢で人望があったという。
劉淵が事業を起こすとそれに参画し、よく補佐した。娘は劉淵に嫁いでおり、劉淵が漢を建国すると呼延翼は大司空・雁門郡公となり、娘は皇后となった。
晋との戦いの途上、洛陽攻撃中に夜襲を受け陣が乱れたところを晋と内通していた部下に裏切られ殺害された。
右腕であった呼延翼の死を劉淵は大いに嘆いたという。
劉和(玄泰)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 310 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 71 | 74 | 62 | 28 | ||||||||||||
| 73 | 71 | 74 | 62 | 28 | 高慢 | 鋒矢強化 | 我道 | |||||||||
【リュウワ(ゲンタイ)】
前趙の第2代皇帝。劉淵の長男。
身長八尺、凛とした容貌を持ち、数多くの書に通じた文武に秀でていた人物で
あったが、嫉妬深く猜疑心の強い性格で部下に恩恵を施さなかった。
父により皇太子に立てられ、大将軍となった。
父の死により皇帝に即位するが、劉聡ら弟達を警戒して排除を図ろうとした。
しかし、弟の劉聡に敗れて即位僅か一ヶ月で殺害された。
嫌悪武将:劉聡
陳元達(長宏)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 316 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 20 | 22 | 86 | 83 | 67 | 諫止 | 文化 | 泰然 | 法律 | 先従隗始 | 王道 | ||||||
【チンゲンタツ(チョウコウ)】
前趙の政治家。
匈奴後部の族長の子で元は高姓であったが、誕生した月が父と同じという事で陳姓に改姓した。
両親の死後は平陽にて四十余歳になるまで学問に没頭していたが、304年に同郷の劉淵が左賢王
となった際に招聘されて側近として活動した。
劉聡の死後は廷尉となり、剛直な性格もあってしばしば劉聡に対して諫言を行った。
316年に河間王劉易と共に劉聡お気に入りの宦官である王沈を重用すべきではないと
上表書を出したが、劉聡は激怒して上表書を破り、劉易も憤死した為に自らも自宅で自殺した。
劉聡(玄明)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 316 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 83 | 87 | 59 | 13 | 38 | 遠矢 | 督将 | 酒乱 | 悪名 | 強欲 | 活殺自在 | 突撃 | 罵声 | 井闌 | 衝車 | 兵器強化 | 覇道 |
| 83 | 87 | 69 | 33 | 56 | 遠矢 | 督将 | 酒乱 | 悪名 | 強欲 | 活殺自在 | 突撃 | 罵声 | 井闌 | 衝車 | 兵器強化 | 覇道 |
| 91 | 87 | 59 | 13 | 38 | 遠矢 | 督将 | 酒乱 | 悪名 | 強欲 | 活殺自在 | 突撃 | 罵声 | 井闌 | 衝車 | 兵器強化 | 覇道 |
※皇帝即位前
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 91 | 90 | 72 | 67 | 70 | 梟雄 | 督将 | 遠矢 | 英名 | 悪名 | 活殺自在 | 妙才連箭 | 突撃 | 井闌 | 衝車 | 兵器強化 | 覇道 |
【リュウソウ(ゲンメイ)】
前趙の第三代皇帝、昭武帝。劉淵の第四子。別名に劉戴。
年少時は聡明で経史や百家に通じ、剛弓を扱い武芸にも優れていた。
劉淵が前趙を建国すると車騎大将軍となり、洛陽を攻めるが司馬越に防がれ撤退。
劉淵が崩じると、二代目皇帝となった兄の劉和ら親族を殺害し、帝位に就く。
王弥、劉曜、石勒らの大軍をもって洛陽を攻略し、略奪と殺戮の果てに洛陽を廃墟とする。
西晋の残存勢力が抵抗する中、長安の愍帝を降伏させ、西晋を完全に滅亡させた。
しかし、晩年は昏君となって奢侈淫佚に耽り、功臣の諫言を聞き入れず信望を失った。
劉易
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 316 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 79 | 77 | 78 | 68 | 73 | 諫止 | 怒髪 | 補佐 | 鎮静 | 突撃 | 斉射 | 三令五申 | 王道 | ||||
【リュウエキ】
前趙の皇族。劉聡の庶長子。
河間王に封ぜられ、312年には西晋の劉琨討伐に活躍した功績で太宰となった。
父の劉聡が宦官の王沈を重用する等、政治に迷走が見られ始めると陳元達と共に
蜀の黄皓等を引き合いに出して宦官を重用する事の危うさを父に伝え諌めたが
聞き入れられず、さらに王沈を糾弾した書簡を父に送った。
しかし、結局は破られた事により憤死した。
劉粲(士光)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 318 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 82 | 43 | 41 | 35 | ||||||||||||
【リュウサン(シコウ)】
前趙の第4代皇帝。劉聡の次男。
父の即位によって河内王に封ぜられ、さらに撫軍大将軍・都督中外諸軍事となった。
西晋の劉琨を討伐し、その本拠地である晋陽を攻略して劉琨の父母を殺害した。
また長安の攻略にも成功して晋王となり、相国・尚書令となった。
帝位を狙う為に継母である靳皇后の父・靳準と共に皇太弟である叔父の劉乂を誣告で
失脚させた上に殺害し、父お気に入りの宦官である王沈が劉易や陳元達に弾劾された際は擁護した。
父の死により即位したが、酒色に溺れて靳準の反乱により僅か即位一ヶ月で殺害された。
劉曜(永明)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 275? | 290 | 329 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 92 | 93 | 69 | 31 | 47 | 遠矢 | 勇将 | 豪傑 | 酒乱 | 粗忽 | 神弓 | 突撃 | 大喝 | 衝車 | 雁行強化 | 覇道 | |
| 92 | 95 | 69 | 31 | 47 | 遠矢 | 勇将 | 豪傑 | 捕縛 | 酒乱 | 神弓 | 突撃 | 大喝 | 衝車 | 雁行強化 | 覇道 | |
【リュウヨウ(エイメイ)】
前趙の第五代皇帝。
劉淵の族子で孤児のため劉淵に養われた。
武勇に優れ、一寸余の鉄板を貫く強弓ぶりから「神射」と呼ばれた。
また文にも優れ、書法にも秀でていた。
漢建国後は豫州を荒らし、洛陽?を陥落させ懐帝を捕虜とした。
長安?も攻略するが間もなく奪い返される。
しかし再び長安を陥落させて愍帝を捕らえ、西晋を滅ぼした。
皇帝即位後に国号を漢から趙(前趙)に改めるが、直後に石勒が後趙として独立し、趙は二分される。
仇池・前涼に親征して服属させるが、離反も相次いだ。
趙の争覇戦で石勒に敗れ、降伏を拒否し殺された。
羊献容
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 286? | 322 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 5 | 2 | 40 | 58 | 66 | 傾国 | 縦横術 | 覇道 | |||||||||
【ヨウケンヨウ】
西晋恵帝の皇后。前趙劉曜の皇后。
中国史で唯一、同時代の二つの王朝で皇后に立てられた女性。
賈南風の死後に恵帝の二番目の皇后として立てられる。
しかし八王の乱に翻弄され、八王の有力者によって五度皇后を廃され、六度皇后に立てられた。
恵帝死後、皇太后となることを望むが、恵帝の弟司馬熾が懐帝として即位したため叶わなかった。
劉曜により洛陽?が陥落すると平陽に連行され、劉曜の妻となる。
劉曜が即位すると皇后に立てられ、寵愛厚く平時には朝政にも参加した。
恵帝を「亡国の暗夫」、劉曜を「開基の聖主」と評している。
※辛憲英?の曾孫にあたる(辛憲英の次男・羊瑾の息子・羊玄之が父親)。
王弥
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 311 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 94 | 78 | 11 | 6 | ||||||||||||
【オウビ】
西晋末の反乱指導者。前趙の武将。王頎?の孫にあたる。
策略に秀で、弓馬の扱いにも優れ、人並み外れた膂力で「飛豹」と怖れられた。
恵帝末期に劉柏根の反乱に参加し、劉柏根死後も賊となって青州を荒らした。
苟晞を撃破し、許昌?を落として洛陽?に迫るが攻略に失敗し、劉淵のもとに身を寄せた。
前趙の武将として洛陽を攻めるも再び失敗し、石勒とともに河南で十万人を殺傷して荒らした。
劉曜、石勒と再度洛陽に侵攻して遂に陥落させるが、洛陽入城時に掠奪を行い劉曜と対立した。
その後、大将軍となり権勢を誇るが、その驍勇を石勒に怖れられ謀殺された。
親愛武将: 劉淵
趙染(文瀚)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 314 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 72 | 72 | 42 | 18 | 29 | 名利 | ||||||||||||
【チョウセン(ブンカン)】
西晋・匈奴漢(前趙)の武将。京兆郡新豊県の人。趙統(趙雲の子とは別人)の子。趙冉とも。
元は西晋の南陽王・司馬模の牙門将だった。馮翊太守の地位を望んだが得られず、漢に寝返った。
劉聰に平西将軍に任じられると劉雅と共に長安を包囲し、司馬模を降伏させた。
しかし、賈疋らに敗れ長安を奪還された。
313年9月、長安を奇襲し大勝し、長安外城を占領した。314年6月、劉曜と呼応して出陣し、新豊県で
西晋の索綝を迎撃した。趙染は油断していたので、長史の魯徽にいさめられたが、
「索綝のようなこわっぱにわが軍を汚せるものか」と返した。果たして索綝に敗れると、
「魯徽に合わせる顔が無い」と後悔したが、魯徽を殺してしまった。
その後、北地郡を攻めたが麹允に敗れ戦死した。『十六国春秋』によると、激怒した魯徽に弩で射られる夢を見た翌日、
果たして弩で射殺されたという。
親愛武将:袁紹
※趙雲とは別の一族。
小説『続三国演義』では、実際に趙雲の子である趙統の子(趙雲の孫)という設定にされている。
魯徽
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 314 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 67 | 31 | 75 | 59 | 47 | 諌止 | 慎重 | 策士 | 王道 | |||||||||
【ロキ】
匈奴漢(前趙)の武将。趙染の長吏。
314年6月、趙染は出撃して新豊県に駐屯した。趙染は緒戦の勝利で西晋の索綝を侮っていたので、
「司馬鄴の一味は決死の覚悟で戦います、油断してはなりません」と諌めた。しかし趙染は聞かずに敗れ、
魯徽を処刑しようとした。魯徽は死に臨み「忠臣を逆恨みで処刑するなら、将軍が死体を安置する場所はどこにも無いぞ」と言い残した。
『晋書』によると、「地下で田豊の仲間になり、必ず将軍を黄泉で訴えましょう」ともいったという。
親愛武将:田豊
※扶風郡の魯芝との関係は不明。
北宮純
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 318 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 94 | 36 | 35 | 59 | 剛将 | 長躯 | 豪傑 | 消沈 | 短慮 | |||||||
【ホクキュウジュン】
西晋・前涼・漢(前趙)の武将。
涼州刺史・張軌のもとで涼州督護の地位にあった。
308年、漢の王弥が許昌を陥落させると、張軌の命令で、張斐と共に5千騎を率いて洛陽救援に派兵された。
王弥が洛陽を包囲すると、北宮純は勇士百人ほどを率いて突撃し、王弥に大勝した。さらに河東郡に出撃し、劉聡に勝利した。
309年、漢の劉聡・王弥らが再び洛陽を包囲すると、勇士千人ほどを率いて奇襲し、呼延顥を斬り、劉聡を撤退させた。
洛陽では、二度の勝利で北宮純の活躍を讃える歌謡が作られた。
311年、ついに洛陽は陥落し、北宮純は長安の南陽王・司馬模を頼った。しかし潼関が陥落すると、北宮純は漢に降伏した。
北宮純は漢の本拠である平陽に送られた。後に尚書に取り立てられた。
靳準が漢天王を称して謀反を起こすと、他の晋からの投降者と共に東宮に立てこもって同調を拒否したが、靳康に討たれた。
※後漢末の北宮玉(北宮伯玉)との関係は不明。同族だとすれば、羌の出身。
靳準
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 318 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 29 | 64 | 77 | 33 | 14 | 詐謀 | 言毒 | 智嚢 | 悪名 | 強欲 | |||||||
【キンジュン】
漢(前趙)の政治家で匈奴の有力者。
劉聡に仕え、娘の靳月光と靳月華を後宮に差し出した。靳月光は皇后、次いで上皇后に立てられ、
靳準は外戚として権勢を振るうようになった。しかし靳月光は陳元達に淫行があったと糾弾され、
皇后を廃され恥じて自害した。靳準は陳元達を恨んだ。
当時、宦官の王沈らは劉聡に寵愛されており、靳準は彼らに接近した。靳準は王沈らと結託して、陳元達を自害に追い込んだ。
また、靳準の従妹は皇太弟・劉乂に侍女として仕えていたが、侍人と密通したことにより殺された。
靳準は劉乂の廃立を企み、劉聡の嫡男である劉粲と結託して讒言し、劉乂を失脚させ、
恨みのある大臣数十人を殺した。さらに、劉乂に刺客を放って殺した。
劉粲が即位すると、靳準は謀反を企むようになった。まず政敵を、劉粲の廃立を企んでいると讒言して
ことごとく殺させ、全権を握るとついに挙兵し、劉粲父子を殺した。さらに、洛陽にいた劉一族を皆殺しにした上で、
劉淵・劉聡の墓を暴き、劉聡の遺体を斬首し、宗廟を焼き払った。
靳準は漢天王を称した上で、「古来、胡人で天子になった者などいない」と主張し、東晋に称藩(傘下の諸侯として勢力を保つこと)しようとしたが、
劉曜・石勒など主立った将は従わず、靳準討伐の兵を向けた。最期は劉曜によって一族皆殺しとなった。
親愛武将:王沈(宦官)
嫌悪武将:陳元達
※この時代でも屈指の不義理ぶりを誇る経歴だが、東晋への称藩が成功していれば、功臣として讃えられる未来もあったのかも知れない。
陳安(虎侯)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 323 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 60 | 89 | 24 | 5 | 79 | 驍将 | 豪傑 | 親羌 | 猪突 | 短慮 | 反骨刃 | 斉射 | 大喝 | 鋒矢強化 | 我道 | ||
【チンアン(ココウ)】
前趙の武将。
驍勇にして弓馬に長けた。七尺もの大刀を携えていたという。
南陽王・司馬模とその子・司馬保に仕えたが、同僚の張春に讒言されたため劉曜に帰順した。
張春が司馬保を殺すと劉曜から許可を得て張春を討伐。
司馬保の棺の前で張春を斬り、天子の礼をもって司馬保を葬った。
劉曜が病に伏せると独立して大将軍を自称した。
多くの氐羌が従い勢力は十余万に達したが、すぐに劉曜の討伐を受けて斬られた。
政治的見識には欠けたが、部下と異民族を安撫する能力は高く信頼は厚かった。
死後、隴上の人々は壮士の歌を作って称えた。
親愛武将:許褚?、司馬保
※許褚への親愛は陳安が許褚に憧れて字を虎侯にしたエピソードから。
後趙
石勒(世龍)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 274 | 333 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 96 | 89 | 86 | 89 | 90 | 梟雄 | 任才 | 疾走 | 柱石 | 癇癪 | 倒山傾海 | 急襲 | 撹乱 | 挑発 | 罵声 | 三軍強化3 | 覇道 |
| 96 | 84 | 87 | 81 | 75 | 奸雄 | 疾走 | 掃討 | 柱石 | 癇癪 | 魏武の強 | 急襲 | 撹乱 | 挑発 | 罵声 | 三軍強化3 | 覇道 |
| 96 | 89 | 86 | 84 | 85 | 奸雄 | 疾走 | 掃討 | 柱石 | 癇癪 | 魏武の強 | 急襲 | 撹乱 | 挑発 | 罵声 | 三軍強化3 | 覇道 |
| 97 | 89 | 88 | 87 | 90 | 奸雄 | 疾走 | 掃討 | 威風 | 柱石 | 魏武の強 | 突撃 | 斉射 | 激励 | 衝車 | 三軍強化3 | 覇道 |
| 94 | 89 | 88 | 89 | 90 | 奸雄 | 疾走 | 掃討 | 威風 | 柱石 | 魏武の強 | 突撃 | 斉射 | 激励 | 衝車 | 三軍強化3 | 覇道 |
※ほかの個性候補としては
士大夫を好み、かつての敵や異なる民族であっても能力に相応しい役職に就かせたことから『眼力』や
激情家であり、後になってから後悔するエピソードが豊富であるため、『直情』『短慮』などまだまだあると思います。
【セキロク(セリュウ)】
五胡十六国時代の後趙の創建者。羯族の出身。
八王の乱の混乱に乗じて群盗となり、
八王の乱の勝利目前にして没した司馬越の葬儀を襲撃し西晋の主力部隊を壊滅させ約10万人を殺害、
漢・前趙に仕え将軍として活躍した。
前趙の劉曜が即位すると、大司馬・大将軍に上るが劉曜と対立して趙王を自称し、後趙を建国した。
法律の施行・九品の決定・度量衡の統一・戸籍の作成・農業の奨励を行い、
混乱した河北の秩序を回復させ、石虎に東晋と前趙の勢力を駆逐させ、ついに華北を統一。
後年、曹操?や司馬懿?を、「孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような者」と辛辣に評した。
奴隷の身分から中原を統べる皇帝まで昇った、中国史上唯一の人物である。
石弘(大雅)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 313 | 322 | 334 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 41 | 43 | 60 | 65 | 70 | 詩想 | 法律 | 惰弱 | |||||||||
【セキコウ(タイガ)】
石勒の次男。兄・石興が早世した為、後趙の天王太子、のちに皇太子に立てられた。
親孝行で温和な性格で、早くから経書と律を学び、文才があった。乱世を理由に兵書と剣術も学ぶようになったが、
側近を儒学者で固め、父に「武将の家の子ではないようだ」と称された。
徐光・程遐は、石弘にとって脅威になる石虎を粛清するか、少なくとも兵権を縮小するよう主張したが、石勒は決心が付かなかった。
333年、石勒が死去すると、石虎はすかさず石弘の身柄を拘束した。石弘は恐れて即位を辞退しようとしたが、
石虎は石弘を帝位に即かせ、その上で実権を握り、程遐・徐光ら石弘派の重臣を次々に殺した。
石虎は石弘を廃立して帝位を奪うと、追って殺した。
石虎(季龍)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 295 | 349 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 91 | 87 | 59 | 1 | 1 | 掃討 | 威風 | 癇癪 | 悪名 | 強欲 | 倒山傾海 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 侵略荒廃10 | 覇道 | |
| 92 | 94 | 62 | 1 | 1 | 掃討 | 威風 | 悪名 | 強欲 | 粗暴 | 鎧袖一触 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 侵略荒廃10 | 覇道 | |
| 93 | 91 | 59 | 1 | 1 | 掃討 | 威風 | 癇癪 | 悪名 | 強欲 | 倒山傾海 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 侵略荒廃10 | 覇道 | |
| 92 | 94 | 64 | 9 | 1 | 掃討 | 威風 | 癇癪 | 悪名 | 強欲 | 倒山傾海 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 侵略荒廃10 | 覇道 | |
| 93 | 91 | 64 | 13 | 7 | 掃討 | 威風 | 癇癪 | 悪名 | 強欲 | 倒山傾海 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 侵略荒廃10 | 覇道 | |
【セキコ(キリュウ)】
五胡十六国時代の後趙の第三代皇帝。石勒の従子。
石勒に従い幽州の段部、離石の鮮卑を討ち、洛陽?を攻撃して前趙を滅ぼした。
皇太子の石弘の執政の後失脚するが、石勒が病床に就くと代理のようになった。
石勒は周公や霍光の例を挙げて遺言されたが、果たして魏王・丞相として政治を壟断。
石弘は石虎を恐れて即位を辞退したが、一度即位させた上で新帝を廃して殺し、自ら居摂趙天王となった。
これは、石弘派の重臣の権力を失墜させ、粛清する為の策略といわれている。
暴虐非道な性格は統治に反映され、親族殺が行われる乱世でも群を抜いて最悪の非道が罷り通り、
宮殿等の造営では16万人も徴発され、狩猟にも18万もの大軍を率い、
家臣の邸宅を訪問すれば、その妻を乱暴して殺害し食し、
また自身の子の舌を抜き眼を抉り、四肢を切断して焼殺した。
特に統治下の漢人への圧政は惨く、搾取された破産者や妻を奪われた自殺者が後を絶たなかったという。
親愛武将:董卓、冉閔、姚弋仲
張賓(孟孫)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 322 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 48 | 95 | 90 | 77 | 虚実 | 妙算 | 諌止 | 法律 | 策士 | 虚誘掩殺 | 斉射 | 足止 | 混乱 | 鎮静 | 上兵伐謀3 | 覇道 |
| 65 | 48 | 98 | 95 | 77 | 虚実 | 妙算 | 諌止 | 王佐 | 策士 | 神算鬼謀 | 斉射 | 足止 | 混乱 | 鎮静 | 先従隗始3 | 覇道 |
【チョウヒン(モウソン)】
後趙の武将、政治家。
若い時から自身を張良?に擬え、劉邦?のような君主に仕えるのを願っていた。
劉淵麾下の武将だった石勒を見出し仕える。
石勒の参謀として永嘉の乱で活躍し、石勒の河南を制圧に貢献した。
大将軍の王弥を謀殺し、石勒の軍権を増強させる。
江南への侵攻に失敗した石勒に、晋に投降せず華北に撤退するよう進言した。
王浚、劉琨の襄国侵攻に対策を献じ、幽州・并州を石勒の勢力下に置いた。
後趙建国後は法の執行と朝政を司り、石勒から「右侯」と尊称され篤く信任された。
張賓が没すると石勒は非常に嘆いたという。
親愛武将: 石勒 張良?
孔萇
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 92 | 86 | 73 | 42 | 65 | 一心 | 果敢 | 智嚢 | 看破 | 軽率 | |||||||
【コウチョウ】
前趙・後趙の武将。
309年までに石勒に仕え、夔安と共に爪牙の武将と目された。
311年4月、石勒軍は西晋の故・司馬越の残党に大勝し、王侯貴族を一網打尽にした。
襄陽王・司馬範だけは落ち着き払っていたので、石勒は助けようか迷ったが、
孔萇は「彼らは全て晋の王公です、われらが任用はできません」と進言し、殺させた。
312年、石勒は琅邪王・司馬睿の拠る建業攻略を図ったが、長雨と疫病で苦戦した。
孔萇・支雄らは奇襲を進言し、石勒は喜んだが、張賓の進言で兵を退いた。
幽州刺史・王浚が本拠の襄国を包囲すると、軍中は籠城策が主流を占めた。しかし、石勒に意見を求められた
孔萇は野戦を主張し、敵軍の段末波を破れば他は烏合の衆と述べた。そして段末波を奇襲し、生け捕りに成功した。
王浚が任じた兗州刺史・田徽を斬り、段匹磾・段文鴦を生け捕るなど、多くの戦功を挙げた。
※「石勒十八騎」の一人、孔豚と同一人物か、あるいは親類説もある。
親愛武将:石勒
傅暢(世道)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 330 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 24 | 9 | 81 | 74 | 62 | 沈着 | 名声 | 法律 | 史官 | ||||||||
【フチョウ(セイドウ)】
西晋・前趙・後趙の政治家。傅祗の子で傅嘏の孫。
20歳に満たずして大きな名声を得た。西晋で東宮(皇太子)の侍講となり、秘書監に昇進した。
311年、洛陽が漢(前趙)によって陥落すると、父・傅祗は苟晞と共に河陰に行台(臨時政府)を立てた。
しかし父が急死し、漢軍に攻め込まれ傅暢は捕虜となった。劉聡は傅祗に太保を追贈し、傅暢を生かして取り立てた事を自賛したが、
傅暢は「陛下が先臣を称賛される度に、その忠節を明らかにされたことの大恩を感じます」といってかわした。
後に石勒に仕え、大将軍右司馬となった。石勒が後趙を建国すると、経学祭酒となった。
傅暢は朝議の有職故実をそらんじており、国家機密に預かった。
また石勒は、徐光・宗歷と共に『上党国記』『起居注』『趙書』を編纂させた。
著書『晋諸公賛』は、裴松之の『三国志』注にも多数引用されている。
荀綽(彦舒)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 17 | 11 | 73 | 61 | 71 | 沈着 | 史官 | ||||||||||
【ジュンシャク(ゲンジョ)】
西晋・前趙・後趙の政治家。潁川郡潁陰県の人。荀輯の子(次男?)で荀勗の孫。
博学で才能があり、『晋後書』十五篇を撰述し、世に伝えられた。永嘉年間の末に、司空従事中郎となった。
永嘉の乱では幽州刺史・王浚を頼るが、王浚が石勒に討たれると、その配下となった。
この時、王浚の配下の多くは贈り物を贈って許しを請うたが、荀綽と裴憲だけは動じずに私室に籠もっていた。
石勒の呼出を受けると、二人は晋への忠誠を堂々と主張し、拝礼せずに退出した。石勒は二人を賞賛して賓客待遇とした。
また、二人は他の者のように私財を貯めておらず、家には書物と食料があるだけだったので、石勒は張賓に「虚名では無いな」と感心した。
そして荀綽は参軍となった。以降の消息は不明。
劉隗(大連)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 273 | 333 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 46 | 75 | 65 | 34 | 法律 | 智嚢 | 直情 | |||||||||
【リュウカイ(ダイレン)】
西晋・東晋・後趙の政治家・将軍。彭城郡彭城県の人。劉砥の子。前漢の楚元王・劉交の子孫という。
幼少より文才があった。秘書郎で起家し、彭城内史に昇進した。
戦乱を避けて長江を渡り、司馬睿に仕え、丞相司直となり、刑法の検討を委ねられた。
劉隗は礼法に則り、家臣を厳しく取り締まった。しかし、王導ら琅邪王氏に対しては、
劉隗の弾劾にもかかわらず、司馬睿は強く出られなかった。
東晋が建国されると侍中・丹陽尹となり、刁協と共に元帝(司馬睿)側近として重用され、機密に預かった。
鎮北将軍・都督青徐幽平四州軍事となり、後趙・前燕の占領地を含めた地域を任された。
劉隗は王敦を牽制するため、戴淵・司馬承を地方に駐屯させるよう進言し、王敦包囲網を計画した。
王敦が劉隗・刁協討伐を号して反乱を起こすと、劉隗・刁協は王導ら琅邪王氏を連座して処刑するよう主張したが、元帝は容れなかった。
劉隗は王敦軍を迎撃したが敗れ、後趙に亡命した。石勒は従事中郎・太子太傅に任命した。
のち石虎の指揮下で、前趙の残党討伐に出陣し、長安攻略の途上、潼関で戦死した。
嫌悪武将:王敦、王導
王安
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 61 | 71 | 45 | 30 | 63 | 山戦 | 礼教 | |||||||||||
【オウアン】
後趙の武将。左衛将軍。羯族。
東晋の祖逖の奴隷で、祖逖に厚遇されていた。祖逖が北伐で陳留郡頓丘に駐屯すると、
「石勒は君と同種族だし、私には君一人がいるわけでは無い」と石勒に仕えるように勧められた。
王安は豊富な物資を与えられて解放され、後趙に仕えた。勇猛で能力を評価され、左衞将軍にまでなった。
祖逖の弟・祖約は蘇峻の乱に加わったが敗れ、後趙に亡命した。しかし結局、不忠者として一族もろとも処刑された。
王安は、祖逖の10歳になる子の祖道重をひそかに保護し、出家させた。
王安がいつ死去したのかは不明だが、祖道重は後趙滅亡後、東晋に帰順した。
親愛武将:祖逖、石勒
仏図澄
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 232? | 349 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 慈悲 | 占術 | 幻術 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||
| 3 | 1 | 90 | 75 | 93 | ||||||||||||
【ブットチョウ】
五胡十六国時代の神異僧。亀茲の出身。
西晋末期に洛陽を訪れて寺院を建てようとしたが永嘉の乱で頓挫。
僧侶を殺戮する石勒を諫止するために石勒に仕えた。
仕える際には、水だけ入った容器から瞬時に青蓮華を生み出して見せ、石勒を信服させたという。
その後、数々の超人的な予言と道術で石勒の覇業を支えた。
石勒死後に立った石虎からも信頼され、「大和尚」の尊称を受けた。
893に及ぶ寺院を建て、そこでの門生は1万を数え、仏教普及に大きく貢献した。
107歳で入寂するが、石虎が後から墓を掘ってみると屍は消えていたという。
前燕
慕容渉歸
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 283 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 71 | 73 | 46 | 55 | 62 | |||||||||||||
【ボヨウショウキ】
鮮卑慕容部の大人。『十六国春秋』では慕容を称した最初とする。慕容木延の子。弟に慕容耐。子に慕容吐谷渾・慕容廆・慕容運。
鮮卑宇文部と対立していた。遼西の柳城を根拠地とし、西晋に単于(『資治通鑑』では大単于)に任じられた。
さらに遼東北部に移住し、徐々に風俗を漢化していった。
282年、西晋に離反して昌黎郡に侵攻した(侵攻は子の慕容廆とも)。
しかし西晋の鮮于嬰に敗れた。さらに厳詢に敗れて万の軍勢を失った。
翌年死去し、弟の慕容耐が地位を奪った。
慕容廆(弈洛瑰)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 269 | 333 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 90 | 86 | 73 | 82 | 72 | |||||||||||||
【ボヨウカイ(エキラクカイ)】
鮮卑の大単于。前燕の基礎を築いた。
叔父の慕容耐が大人位を簒奪したが、慕容耐は部下に殺され、大人位を継承した。
宇文部を父の敵として武帝司馬炎に復仇の許可を求めるが許されなかった。
西晋に反乱を起こして遼西を荒らし、度々西晋の討伐を受ける。
その後扶余を支配下に収め、西晋との関係も改善する。
大単于となると公明な政治を行い、士大夫や民衆が集まり大勢力を築く。
宇文部・段部・高句麗の三国が連合して慕容部を攻めるが、これを撃ち破り遼東を制覇した。
東晋の陶侃と通じて王導らに後趙への北伐を促すも、慕容廆の死去により実行されなかった。
慕容儁より高祖武宣帝が追贈された。
※「廆」の字は「魔」か「鬼」を代わりに当てる。
字は「洛瑰」の二文字のみを入力(「弈」は認識されないので丁度良いか)。
裴嶷(文冀)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 59 | 89 | 84 | 69 | ||||||||||||
【ハイギョク(ブンキ)】
西晋の政治家。鮮卑慕容部の漢人参謀。裴昶の子。
西晋では遼東地方の太守を務めていたが、武帝司馬炎?が崩ずると帰還できずに慕容廆に身を投じた。
慕容廆の長史として軍事・国政面での謀略を担当する。
三国(宇文部・段部・高句麗)連合が瓦解すると、宇文悉獨官(遜昵延)が単独で攻めてくるが、
宇文軍の統制が取れていないことを見抜き、慕容皝とともに先鋒を率いて撃ち破った。
東晋への外交使節として建康に遣わされ、慕容廆の威略を伝え、東晋の慕容部に対する認識を改めさせた。
帰還の際に東晋の元帝に引き止められるも固辞し、帰還した。
慕容皝(元真)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 297 | 348 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 79 | 74 | 67 | 86 | ||||||||||||
【ボヨウコウ(ゲンシン)】
五胡十六国時代の前燕の初代君主。太祖明文帝。
鮮卑慕容部の大人(酋長)で、慕容廆の第三子。昌黎郡棘城県の人。
身長は七尺八寸で、武勇と権謀に長けたという。
父の命で段部を襲撃し、転戦して後趙の石勒の攻勢を防ぐ。
慕容廆の没後大人となるが、兄弟の間で骨肉の争いが生じ、
宇文部と段部を巻き込む内乱となり、鎮圧の後、自ら燕王を称し前燕を建国。
再び後趙の石虎の侵攻を阻止し、高句麗・宇文部を撃破し、遼東に勢力を築いた。
漢族の流民を受容し、前燕は人口が増えて発展した。
また、東晋に燕王の地位を公認させることに成功した。
慕容儁(宣英)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 319 | 360 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 70 | 74 | 92 | 86 | ||||||||||||
【ボヨウシュン(センエイ)】
五胡十六国時代の前燕の第二代君主。
父の慕容皝が燕王位に即位すると王太子に立てられる。
弟の慕容格、叔父の慕容評の補佐の元、石虎死後の後継者争いの混乱の際に中原に進出。
五胡十六国時代中期の前秦・東晋との三国争覇といえる状況を作り出した。
中原進出後も善政を施すが42歳の若さで病死。帝位を慕容格に譲ろうとしたが拒絶され慕容偉の輔弼を依願されている。
後に後燕皇帝となる弟の慕容垂は徹底的に嫌っており、彼が前秦に亡命し後燕を建国する遠因となっている。
親愛武将:慕容格 慕容評
嫌悪武将:慕容垂
慕容翰(元邕)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 344 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 92 | 90 | 81 | 67 | 84 | ||||||||||||
| 92 | 97 | 84 | 67 | 84 | ||||||||||||
【ボヨウカン(ゲンヨウ)】
前燕の武将。慕容廆の長子。
雄豪で膂力に優れ、弓射に秀でた。
三国連合が慕容部を攻めた際には、宇文部の侵攻を伏兵で食い止め勝利に貢献する。
遼東の鎮守に赴くと、勇名を畏れた高句麗が侵犯を止めたという。
慕容皝が後を継ぐとその武勇を妬まれたため段部に亡命し、段遼が石虎に敗れると宇文部に投降した。
その後、宇文部で猜疑されたため狂人を装って逃亡し、慕容皝に迎えられた。
高句麗討伐などで功績を上げるが、慕容皝が戦傷を負った際に誣告され死を賜った。
慕容恪・慕容垂に匹敵する将才と評され、義人として英雄視されている。
※「邕」はTE-Person editorの外字機能で入力可能。
慕容暐(景茂)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 57 | 46 | 50 | 52 | 64 | ||||||||||||
【ボヨウイ(ケイモ)】
五胡十六国時代の前燕の第三代君主。慕容儁の三男。
兄に皇太子の慕容曄がいたが早世したため、父の死後即位し第ニ代皇帝となるが、
若年のため、伯父の慕容恪の補佐を受けた。
慕容恪は善政を布き、前燕は全盛期を迎えたが、
慕容恪の死後、叔父の慕容評が実権を握ると、前燕は収賄で政治腐敗が進み、それに伴い国力も衰退した。
そして前秦の苻堅の侵攻を受けて前燕は滅亡し、苻堅に降伏し長安に連行された。
以後は前秦の将軍として働き、淝水の戦いにも従軍したが、
敗戦後に苻堅の暗殺を計画したとして殺害された。
慕容恪(元恭)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 367 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 98 | 86 | 96 | 94 | 92 | 神眼 | 英名 | 法律 | 王佐 | 柱石 | 神算鬼謀 | 大虎雄略 | 突撃 | 業火 | 投石 | 王道 | 経世済民 |
| 98 | 86 | 96 | 94 | 95 | 神機 | 神眼 | 英名 | 王佐 | 柱石 | 神算鬼謀 | 突撃 | 業火 | 治療 | 投石 | 王道 | 経世済民 |
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 98 | 87 | 96 | 93 | 95 | 神機 | 洞察 | 疾走 | 英名 | 柱石 | 神算鬼謀 | 王佐の才 | 業火 | 治療 | 投石 | 王道 | 経世済民 |
| 98 | 70 | 96 | 93 | 92 | 神機 | 洞察 | 疾走 | 英名 | 柱石 | 神算鬼謀 | 王佐の才 | 業火 | 治療 | 投石 | 王道 | 経世済民 |
【ボヨウカク(ゲンキョウ)】
五胡十六国時代の前燕の将・政治家。慕容儁の弟。慕容垂・慕容徳の兄。
幼い頃から慎慮と度量を讃えられ、若くして経天緯地の大略を口にし、
父より英邁さを認められ、兵を与えられ度々従軍した。
奇策を出して燕軍を勝利に導くこと多数で、威と恵を巧みに使い分けた。
父の死後、兄の慕容儁が即位すると腹心として極めて厚遇され、
甥の慕容暐の代には、後を託されて朝廷の総権を握った。
外征では生涯無敗で、内政でも人心を掌握し讃えられた。
後事には弟の慕容垂を推薦するが、慕容垂は慕容評に憎まれたため前秦に亡命した。
慕容評
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 75 | 51 | 35 | 63 | 徴税 | 調達 | 崩壁 | 強欲 | 小心 | |||||||
【ボヨウヒョウ】
五胡十六国時代の前燕の将・政治家。慕容廆の子。慕容恪・慕容垂の叔父。
慕容儁の代より慕容恪と並ぶ燕軍の中核として活躍し、鄴攻略戦などで功績を上げた。
慕容暐の代には太傅に任じられ、慕容恪の次ぐ地位として国政を担っている。
慕容恪も慕容評を信頼し、政務に関しては必ず慕容評と合議したという。
しかし慕容恪の死後、慕容垂を取り立てるようにという慕容恪の遺言を無視して政権を掌握。
名声のある慕容垂を妬んだ結果、慕容垂を前秦へ亡命させる原因を作る。
以後は前秦の侵攻に備えるべしという進言も無視し、収賄などで財貨を稼ぎ政治を腐敗させた。
前秦の王猛と潞川で対峙した時も、戦場の焚き木や水を独占して、それを売り捌くような始末だった。
慕容評は王猛に大敗し前燕は前秦によって滅亡。慕容評は高句麗へ逃亡するものの最後は捕らえられた。
寛大な苻堅によって許され天寿を全うできたものの、前燕滅亡の奸臣として酷評されている。
楊鉉
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 52 | 63 | 36 | 48 | 55 | ||||||||||||
【ヨウゲン】
前燕の政治家。北平?太守。『新唐書』では楊渠の子。
『隋書』では後漢の名門・弘農楊氏の楊震の八世の子孫とし、隋の楊堅の六世の祖としている。
しかし出自は疑わしく、系図がはっきりしてくるのは楊鉉以降であることから、山東(青州あるいは徐州北部)の寒族(寒門)か、
あるいは鮮卑系の出身といわれている。
後燕
慕容垂(道明)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 96 | 88 | 78 | 75 | 88 | 疾走 | 驍将 | 長駆 | 果敢 | 英名 | 白馬義従 | 斉射 | 撹乱 | 罵声 | 投石 | 三軍強化 | 覇道 |
※別案1
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 99 | 88 | 78 | 77 | 88 | 疾走 | 驍将 | 長駆 | 果敢 | 英名 | 白馬義従 | 斉射 | 撹乱 | 罵声 | 投石 | 三軍強化 | 覇道 |
※別案2
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 98 | 88 | 84 | 77 | 92 | 神将 | 疾走 | 長駆 | 果敢 | 英名 | 軍神 | 白馬義従 | 撹乱 | 罵声 | 投石 | 三軍強化 | 覇道 |
【ボヨウスイ(ドウメイ)】
五胡十六国時代の後燕の創建者。慕容儁・慕容格の弟。慕容徳の兄。
後趙攻略に活躍し、兄の即位後は呉王に封じられた。
慕容暐の代には慕容恪に重用され後事を託されるが、人望を集め危険視されたため、前秦に亡命した。
前秦の苻堅の華北統一にも貢献したが、南征では淝水の戦いで東晋軍に大敗し逃走。
この時、一族に苻堅の殺害を勧められたが、旧恩を重んじて退け、苻堅に兵を預けた。
後、苻堅の子の苻丕と反目して決起し、苻堅が姚萇に殺害されると、皇帝に即位。
北魏に親征して拓跋珪を撃ち破ったが、帰国途上で没した。
南燕
慕容徳(玄明)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 88 | 86 | 72 | 73 | 81 | ||||||||||||
【ボヨウトク(ゲンメイ)】
五胡十六国時代の南燕の初代皇帝。慕容儁・慕容恪・慕容垂の末弟。
慕容暐により范陽王に封じられたが、前燕が前秦に滅ぼされると、前秦の苻堅に臣従した。
苻堅の南征では奮威将軍に任じられたが、淝水の戦いで苻堅が大敗し、
兄の慕容垂が自立して後燕を建国すると合流し車騎大将軍に任命され、再び范陽王となる。
慕容宝の代、北魏に敗北した慕容宝が北方に逃亡したため、後燕は領土が南北に二分され、
慕容垂の別子の趙王慕容麟が鄴?に入ると、滑台への遷都を建議した。
翌年、建議を容れて南遷し、燕王を自称し南燕を建国した。
北燕
馮跋(文起)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 430 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 74 | 80 | 85 | 81 | ||||||||||||
【フウバツ(ブンキ)】
北燕の第二代天王・太祖文成帝。実質上の北燕の建国者。
後燕の武将だったが慕容熙に誅殺されそうになり、弟の馮素弗と逃亡した。
民に重い賦役を課す暴政を憂い、城に潜入して慕容熙を弑し、
慕容宝の養子だった高雲を擁して北燕を建国した。
高雲が寵臣に殺害されると、その乱を収め諸将に天王に推戴された。
治世では農蚕を奨励し、桑と拓を植えて生産力を拡大する。
賦役を軽減し、倹約に努め、官の賄賂を取り締まったため民からの支持も得た。
北魏の圧迫を受けながら、防備を固めて北辺において二十年近い安定をもたらした。
※特技は慕容熙謀殺時のエピソードから。
農業を推進しているので、特技名が本人のエピソードに沿わないが「米道」や「徴収」も候補。
夏
赫連勃勃 (屈丐)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 381 | 391 | 425 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 94 | 57 | 49 | 64 | 梟雄 | 掃討 | 疾走 | 粗暴 | 悪名 | 倒山傾海 | 突撃 | 斉射 | 急襲 | 火矢 | 雁行強化 | 我道 |
【カクレンボツボツ (クッキツ)】
夏の創建者。匈奴鉄弗部の出身。旧姓は劉。
父の劉衛辰が北魏に滅ぼされると、鮮卑叱幹部や後秦に身を寄せる。
姚興の厚遇を受けるも、後秦と北魏が和睦すると叛き、夏を建国。
政略結婚を拒否した南涼を攻めて陽武で大勝し、戦勝記念の髑髏台を築く。
後秦の討伐軍も青石原で撃破し、その後は後秦や北魏との攻防を繰り返した。
この間、都城となる統万城を築き、姓を赫連に改めた。
劉裕が後秦を滅ぼすと、関中の混乱を突いて長安に入城、東晋軍を大破した。
性格は凶暴また驕虐で、殺害を好んで常に弓剣を備え、民を草芥と見なしていた。
叱干阿利
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 70 | 68 | 72 | 81 | 32 | ||||||||||||
| 83 | 93 | 86 | 82 | 32 | 疾走 | 発明 | 築城 | 使役 | 悪名 | 疾風迅雷 | 急襲 | 斉射 | 混乱 | 鉄壁 | 雁行強化 | 我道 |
【シツカンアリ】
夏の重臣。鮮卑叱幹部の出身。
叱幹部に逃れてきた劉勃勃を送還しようとする大酋長の太悉伏を諌め、
叱幹部が北魏に攻撃されると勃勃と共に高平鮮卑の没奕干を頼る。
勃勃が夏を建国すると御史大夫、梁公に任じられる。
都城建設に際して将作大匠となり、十万人を動員して統万城を築城した。
工事を監督する際に、城壁に錐を突いて一寸以上の穴が開くと担当者を殺して埋め込んだという。
勃勃はこの行いを忠義とみなし、営繕に関しての全てを委任された。
統万城は中国史で初の馬面構造を持ち、後代まで堅固な城砦として用いられた。
※部族名(姓)は『晋書』の表記による。『魏書』は「薛干」と表記される。
王買徳
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 84 | 90 | 65 | 80 | 掃討 | 妙算 | 崩壁 | 果敢 | 勇将 | 鉄騎突 | 奮戦 | 突撃 | 急襲 | 衝車 | 魚鱗強化 | 王道 |
| 95 | 84 | 96 | 65 | 80 | 掃討 | 妙算 | 崩壁 | 果敢 | 勇将 | 鉄騎突 | 奮戦 | 突撃 | 急襲 | 衝車 | 魚鱗強化 | 王道 |
【オウバイトク】
後秦、夏の武将。
後秦の鎮北参軍だったが夏に出奔。
赫連勃勃から後秦の攻略を問われると、
後秦の政は衰えたが藩鎮は強固なため、力を蓄えて待つべきと進言、軍師中郎将に任命される。
乞伏熾磐への方策では、徳と義を説いて出兵に反対し受け入れられた。
劉裕が後秦を滅ぼして南帰すると、関中侵攻の好機として、
青泥・上洛に兵を派遣し、潼関を抑え長安に檄を飛ばす作戦を上奏。
関中侵攻では遊軍を率い、青泥で東晋軍の退路を断って傅弘之・蒯恩・毛脩之を捕縛した。
戦功と献策を賞され、都官尚書、冠軍将軍となり、河陽侯に封じられた。