1920年 大日本帝国 軽巡洋艦 球磨型
日本ツリーの中ティア軽巡洋艦。水雷戦隊の旗艦として設計された、いわゆる5500トン級軽巡のひとつ。
大量に魚雷を撒けると思ったそこの貴方! 残念ながら本艦は北上ではありません
もっともWWBの前作NFL1では北上が存在した為、そのうちに個別で実装される可能性はあるが……。
Ver.2.00.032以前の母港画像。
基本性能
※括弧がある欄は【改修後の数値(初期値)】
年代 | 1920 | 国家 | 大日本帝国 | ||||
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艦種 | 軽巡洋艦 | 対潜 | × | ||||
耐久値 | 20982(19250) | 戦闘成績(BR) | 165 | ||||
無装甲排水量(t) | 3428 | 無装甲速力(kt/h) | 46.1(38.7) | ||||
基準排水量(t) | 5588 | 最大速力(kt/h) | 35.9(30.1) | ||||
最大排水量(t) | 5926 | 最大舵角 | 50.4(48.0) | ||||
可視距離(km) | 9.1 | 絶対視認距離(km) | - | ||||
アンロック費 | 248000S | 購入費用 | 2480S | ||||
435G |
装甲防御
※単位はインチ(in)表示
※史実/技術ツリースペック準拠の場合。購入時は無装甲状態
防御区画 | 前部 | 中部 | 後部 | 装甲重量(t/0.1in) | ||
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甲板部 | 1.2 | 1.2 | 1.2 | 20 | ||
舷側部 | 2.4 | 2.4 | 2.4 | 20 |
搭載武装
主砲 | 名称 | 火力 | 射程 距離 (km) | 装填 速度(s) | 旋回 速度(°/s) | 重量(t) | 貫通力 | 基本弾数(HE/AP) | ||
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50口径 三年式 14cm 単装砲 l2型 | 550 | 17.8 | 8 | 7 | 27 | 68 | 90/90 | |||
40口径 15.2cm 単装速射砲(ケースメイト) | 600 | 8.5 | 8.5 | 7 | 39 | 50 | 150/150 | |||
45口径 四一年式 15.2cm 単装砲(ケースメイト) | 600 | 14.8 | 12 | 7 | 48 | 60 | 150/150 | |||
50口径 三年式 14cm 単装砲(ケースメイト) | 550 | 15.8 | 10 | 9 | 45 | 60 | 150/150 | |||
45口径 15.2cm アームストロング社製 単装砲 | 600 | 14.8 | 8 | 7 | 48 | 58 | 150/150 | |||
40口径 7.6cm 単装高角砲 | 300 | 10.8 | 3 | 15 | 31 | 50 | 400/400 | |||
40口径 7.6cm 四一年式 単装砲 | 300 | 10.7 | 4 | 15 | 12 | 60 | 100/100 | |||
副砲 | 名称 | 火力 | 射程 距離 (km) | 装填 速度(s) | 旋回 速度(°/s) | 重量(t) | 貫通力 | 基本弾数(HE/AP) | ||
40口径 7.6cm 単装高角砲 | 300 | 10.8 | 3 | 15 | 31 | 50 | 400/400 | |||
40口径 7.6cm 四一年式 単装砲 | 300 | 10.7 | 4 | 15 | 12 | 60 | 100/100 | |||
魚雷 | 名称 | 火力 | 射程 距離 (km) | 装填 速度(s) | 旋回 速度(°/s) | 重量(t) | 雷速(kt) | 基本弾数 | ||
53cm 六年式 連装魚雷 | 3450 | 10 | 50 | 10 | 16 | 35 | 20 | |||
61cm 八年式 連装魚雷 | 4200 | 15 | 55 | 10 | 70 | 32 | 10 | |||
61cm 八式 三連装(酸素)魚雷(短射程) | 4200 | 10 | 60 | 10 | 80 | 43 | 25 | |||
61cm 八式 三連装(酸素)魚雷(長射程) | 4200 | 20 | 60 | 10 | 85 | 27 | 20 | |||
61cm 八式 三連装(酸素)魚雷(中射程) | 4200 | 15 | 60 | 10 | 90 | 35 | 25 |
部品改修
改修段階 | 火力 | 索敵 | 速度 | 装甲 | ||
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Ⅰ | 主砲装填装置(主砲装填時間-8%) | 特殊塗装(隠蔽性+5%) | 制動機(後進加速度+6%) | 消火器(自艦火災継続時間-10%) | ||
Ⅱ | 射撃管制装置(主砲射程距離+8%) | 精密探信儀(強制発見距離+5%) | 新型艦首(旋回抵抗-5%) | 排水ポンプ(自艦浸水継続時間-10%) | ||
Ⅲ | 改式榴弾(榴弾発火率+15%) | 精密探信儀(強制発見距離+7%) | 変速機(加速性能+10%) | 高品質装甲(徹甲弾被弾ダメージ-10%) | ||
Ⅳ | 新式炸裂榴弾(榴弾ダメージ+15%) | × | 舵輪(最大舵角+5%) | 船体強化(HP+9%) | ||
Ⅴ | 新式徹甲榴弾(徹甲弾ダメージ+10%) | × | ボイラー(巡航速度+19%) | × |
立ち回り方
紙装甲の本艦では突っ込みすぎは厳禁である。
序盤は敵駆逐艦への牽制や対処が主となる。砲戦が本格化して敵味方とも戦艦部隊が周囲に目を配る余裕がなくなってきたら、接近強襲雷撃を試みても良いだろう。
長射程魚雷を装備している場合、比較的序盤から牽制魚雷を流して妨害を試みることもできる。
いずれにせよ、高速性を過信せずに動くようにしよう。
主砲
比較的精度が良く貫通力も高い14センチ単装砲を七門装備可能(配置上、斉射可能な砲は最大六門)。そこそこのダメージと装填速度を持ちながら軽量という使い勝手の良い砲であり、さらにこれでもかと言うほど砲性能強化に振り切れている部品の恩恵もあって攻撃力はかなり高い。これが史実砲であり、特に換装する必要はないだろう。
なお主砲弾の弾速はやや遅めなので、遠距離で駆逐艦を狙うのは少々難しい。また、主砲全てが単装砲であり細長い船体に分散配置されているため、取り回しやすさという点では他の巡洋艦に遅れを取りがちである。
副砲
精度も威力も低く、しかも装備数は片舷一基ずつのみ。
これでは放火や牽制の役にも立たないので、いっそ外してしまった方が良いだろう。
魚雷
峯風同様の連装魚雷、吹雪同様の三連装魚雷を搭載可能。連装魚雷装備時はやや火力に欠けるが、三連装魚雷に換装することで飛躍的に攻撃力が向上する。
ただし連装魚雷と比較するとかなり重量が嵩むため、機動性が損なわれてしまう。弾数を減らしたり、装甲を削ったりして対処しよう。
装甲
史実相応に積めば軽巡洋艦として最低限の防御力は確保されるが、あまり硬いとは言えない。格上艦から砲撃を浴びるとあっという間に装甲を破壊されてしまう。
いっそのこと装甲は最低限と割り切り、その分を速力に回した方が生存性は高くなるかもしれない。
機動性
ボイラーを積んだ場合、史実準拠の装甲厚で36ノット弱という中々の速力を発揮する。旋回性能はかなり高いものの本艦は軽巡洋艦としてはややサイズが大きめであり、かつ舵を切った際の速度低下が激しいため敵からの砲撃を回避しきれないことも。
ちなみに球磨は装甲を削れば削っただけ目に見えて増速していく。高速駆逐艦として名高い島風と同レベルの装甲にした場合、なんとその島風をも上回る速度を出すことが可能となる。この長所を活かして、徹底した駆逐キラーとして立ち回ることも見込めるだろう。
なお、完全無装甲の場合は武装の弾数調整次第で45ノットをも超える速度を発揮可能である。ただしこれでは榴弾を数発浴びただけで致命傷になるのでネタ運用の域を出ない。
総評
軽巡洋艦としては類い稀な速度性能を持つが、反面、砲雷撃戦においては火力・装甲双方共に不安要素を抱えている。格上艦と正面切って戦うことはほぼ不可能であり、同格相手でも下手をすれば撃ち負けかねないため狡猾な立ち回りが求められる。
高いポテンシャルを秘めた艦ではあるものの、扱いやすい船とは言いづらい。日本ツリーの高速軽巡洋艦としては夕張の方が無料でもらえることもあり敷居が低いだろう。
同年代のアメリカの軽巡洋艦であるオマハと比較すると、アメリカは低速・重装甲、本艦は高速・紙装甲と綺麗に性格が分かれる。
歴史背景
球磨型軽巡洋艦(くまがたけいじゅんようかん)は、日本海軍の二等巡洋艦(軽巡洋艦)。同型艦5隻。いわゆる5500トン型軽巡洋艦の第1グループにあたる。
天龍型軽巡洋艦を完成させ軽巡洋艦を運用し始めた日本海軍は、天龍型の船体を大型化して砲力を強化し、本型と同じ計画の峯風型駆逐艦(速力39ノット)で構成される水雷戦隊の旗艦として速力36ノットに強化(天龍型は33ノット)、天龍型の拡大型として改設計されたのが本型である。アメリカ海軍の計画していたコンステレーション級巡洋戦艦(計画速力33ノット)と遭遇した時に天龍型の速力33ノットでは逃げ切れず、最低でも3ノット優速の36ノットが必要だったとも言われている。 なお、排水量の5,000トンは当時、各国で軽巡洋艦の標準クラスとされた。天龍型で問題とされた低居住性と凌波性の改善も図っている。
球磨は竣工直後にシベリア出兵により船団護衛を行い、その後中国方面の警備を長年行っている。多摩はアメリカ駐日大使が客死したため、1925年(大正14年)に遺体送還のためサンフランシスコまで航海している。大井はしばしば兵学校や潜水学校の練習艦となった。上海事変や支那事変では各艦中国方面に進出し、戦闘の支援を行っている。
太平洋戦争では、改装によって公試排水量が7,000トン近くまで増大したため速力が33ノット程度まで低下したことや兵装の弱体化・新型駆逐艦の性能向上などによって球磨型は水雷戦隊を率いていない。 球磨は足柄・長良と第16戦隊を編成しフィリピン攻略作戦に参加、その後はラバウルや東インド諸島の輸送作戦などを行い、1944年1月ペナン沖で潜水艦の雷撃を受け沈没した。多摩と木曽は第21戦隊を編成し、第5艦隊の主力として北方部隊として活躍、1943年のキスカ撤収作戦などに参加した。その後南方に転じ輸送作戦などを行い、多摩は1944年10月のレイテ沖海戦で沈没、木曽は同年11月にマニラ湾の空襲により着底、放棄された。重雷装艦に改造された北上・大井は開戦時には第9戦隊を編成、上記のように大井は1944年7月沈没、北上のみが終戦時残存しその後解体された。