AMANO

Last-modified: 2018-10-30 (火) 00:56:03

概要

 日本に於いて、主に呪術を基軸とした神秘を行使していた一族の末裔達。
 家系としては別に魔術師でも何でもなく、ただ同じ先祖を持つ遠縁同士というだけなのだが、その血に含まれた神秘の素養が現代に至って次々に開花。折りしも亜種聖杯戦争が続発する世であった為、参加者として聖杯に選ばれ、それに関わってしまう事例が多発した。
 これを受けて、当事者同士が親戚のネットワークを通じて連絡を取り合い、類似の事例に巻き込まれないように、或いは巻き込まれてもそれへの対策を打てるように、相互互助の体制が自然と構築されていった。この規模を拡大した上で、誰にでも参加可能な団体として組織化したのが、非積極派による反(聖杯)戦争互助会「Anti-war Mutual-aid Association of Negative Offspring」――つまりAMANOである。
 “聖杯”の部分を括弧に入れることで、表立っては、反戦活動NPO法人として行政及び一般社会に認識されている。隠蔽もかねてその様に活動する者も少なくないが、裏の組織としての目的は、聖杯戦争に巻き込まれ、且つ参加の意志のない一般人の保護、或いは参加する意志のある一般人の安全な帰還の支援である。組織全体は、三つの家の人々を中心に、保護や支援を受けた巻き込まれ型一般人によって構成されているが、この思想に賛同するなどした奇特な魔術師も少数ながら参加している。
 また、聖杯戦争への対策を講じる中で、神秘の概念についても少しずつ知識を蓄え、対抗の為に必要と判断して、ある程度の体系化が為されている時計塔系の魔術を独自に習得。関係者の間でこれを共有し、主に自衛の為に研究を重ねている。
 一般的な魔術師の思考からは遠く離れ、小市民的に生活する者が殆どな上、そもそも根源への興味など欠片もなく、神秘関係組織としては異様に善良。その一方で、現代魔術科宜しく魔術の常識からも離れている為、思いもよらない方面からのアプローチで珍妙な魔術を開発するなど、魔術研究の成果も上がっている。

 

 余談ではあるが、組織名が「あまの」と略せるようなものになっているのは、創設を呼びかけた一人の青年の意見によるのだとか。

構成

来歴

 三つの家に残されている文献資料などの情報を総合すると、普野氏の起源は少なくとも大宝律令による律令制制定前後にまで遡ると考えられている。というのも、元々彼らの先祖は、陰陽寮において各種役職に任命された大津氏の一族であったとされており、陰陽道を中心とする天体に関する神秘技術を修めたことを切っ掛けとして、魔術の世界に参入したものと推測されるからである。
 陰陽寮に於ける秘儀は、律令制下では部外秘とされており、為に大津氏に齎された陰陽道の技術も現職の者以外には秘されていた。この段階では、普野氏も大津氏にまつわる氏族の一つでしかなく、主に書籍の管理を任される立場にあった。然し、時代が下り、度重なる格式の発布で行政機関が肥大するにつれて、この制限も次第に有名無実化していく。この時、普野氏は書籍の管理権限を以て秘儀の記された魔術書の類を閲覧し、その秘儀を会得。無位無官のまま下野し、民の間に混じっていった。これが、“呪い師”普野氏の始まりとされている。
 その後は、陰陽道を中核とする術式によって、関西圏に根を張った在野の“呪い師”として活動していたとされ、修験道や山岳信仰、そして密教といった神秘の業の民間での流行に紛れ、天文に関する秘儀を用いることで、世を渡っていた。この頃、本家筋から分離し各地方に定着したのが、現在残っている三つの「あまの」の分家である。
 しかし、中世以降の神秘の希薄化に伴って、いつしかその秘儀は効果を失っていき、戦国時代前後ともなると、最早その技術の継承は為されなくなった。更に、本家の人間は戦乱に巻き込まれて多くが死亡し、生き残りも後に残った三つの分家に合流した為、完全に「“呪い師”普野」の家系は途絶えることとなった。
 以後、三つの分家が細々とその血脈を繋ぎ、何とか明治までを生き延びた。その後は、すっかり魔術のことなど忘れ去り、銘々の家も連絡をあまり持つことなく暮らしていた。しかし、戦後の亜種聖杯戦争頻発を契機に、彼らは再び神秘の世界と関わり合うことになる。

 
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 ……しかし、本当に彼らは神秘と全く無縁であったのだろうか。
 一度秘儀を勝ち得た魔術師が、それを安々と捨て去るだろうか。

 

 否である。

 

 血統に刻まれた絶対契約、冠位指定。主に西洋の魔術師の家系に見られる、この神代からの抗い得ぬ命令は、しかし、東洋にも類似の術式として存在していた。
 “一族郎党、末代まで呪う”などと、俗に口にされる言葉。それはまさしく、“その様な事象が確かに存在していた”が故に人口に膾炙しているのだ。

天野家所蔵文書

・『私記(大津氏日記)』(著:従七位下大津連資任、年:寛弘6年~寛仁3年(1009年~1020年))
(寛弘八年二月)十六日、庚申。左大臣等、鴨河におはし解除し給ふ。陰陽師光栄朝臣、大津連に禄を給ふ。
(同)二十日、甲子。普野連辰星、摂津国より来たり。申して云はく、「文庫に盗人ありて、陰陽書、五行大義等、呪禁の書窃盗せらるなり」てへり。「■儀之■は如何に」と問へば、「定かならず」と。急ぎ帰さしめ、内々の事とす。

 

寛弘八年の二月十六日、左大臣(藤原道長)たちが鴨河にいらっしゃり、祓えの儀を行った。陰陽師の光栄朝臣と大津連に、禄をお与えになった。
寛弘八年の二月二十日、普野連辰星が、摂津国から来た。その言うことには、「書庫に盗人が入り、陰陽書や五行大義など、呪法の書が盗まれました」、と。「■儀之■はどうか」と尋ねれば、「分かりません」、と。急いで(摂津国に)帰らせ、これを内々の事とし(て外部には秘密にし)た。

 
雨野家所蔵文書

・『密儀之書』(著:魚庭雨光、年:明応4年(1496年))
 深秘
一、夫レ阿頼耶の識(*)ト者、参界諸佛・天神地祇の本性なり。遍く達磨の在足者、亦諸々の和御魂・荒御魂の在足者、全テ此一ッゟ出来れり。
一、然る仁、之ヲ知ルは天・地・神・佛を知るに等しく、以而我末代七世ニ至ル迄、此を欣求スルを旨と為せ。
一、大坂浪速者異郷ノ者来るも多く、蝦夷・震旦・韓國・天竺ハ況や、九山八海ノ果テノ蛮夷ゟ、書与人与集えり。然ラバ此ヲ修め、記し、継ぐとは、阿頼耶の識ヘノ内道也。

 

 深秘(真実について秘された教え)
一、阿頼耶識というものは、三界諸仏、天神地祇の本質である。全ての法と実在があるのも、また様々な和御魂、荒御魂があるのも、全てはこの一つから始まったことである。
一、だから、これ(阿頼耶識)を知るのは天地や神仏を知るのにも等しく、であるから私の子孫は七代の先に至るまでも、これを求めることを心がけなさい。
一、大坂の浪速(という土地)は、異郷から来るものも多く、蝦夷、中国、朝鮮、インドは勿論のこと、世界の果て(と思われている場所よりも向こうにある)未知の国々から、書物と人々が集まってくる。であれば、これを修得し、記録し、後の世代に残していくことは、阿頼耶識(に辿り着く)正しい道である。

 

(*):恐らくガイアの誤訳をそのまま記したものヵ。星の抑止と霊長の抑止を混同したものと推測される

 
海野家所蔵文書

・『■■伊勢講社勘定帳』(著:白浜浪右衛門、年;文化13年(1816年))
文化一三年
伊勢講社勘定帳
 卯月朔日       講元 白浜浪右衛門
───以下翻刻中───

 
 
深秘
天野隼人による考察

完全な雑記であり、そして、事実ではないことを祈るばかりの戯言である。
各家から発見された史料と、そこから得られた情報を総合すると、どうやら「アマノ」の血は、己の持つ呪法の類を本当に断絶させた訳ではなかったようである。
戦中期を境に、これを示すような呪法に関する史料がぱたりと途切れるのは、恐らく戦災で史料が焼けたり、情報を引き継いだ当主筋の長男などが戦死したりした為であろう。役所での軍籍確認なども行った結果、これはほぼ間違いがなさそうだ。
しかし、では何故、断絶を迎えた筈の咒いの才覚(=魔術回路)やそれに纏わる儀式書の類が、断片的にとはいえ残されていたのか。家伝を頼る限り、才覚はとうの昔に途絶えた筈である。ただびとには無意味なものでしかないこれらの書を延々と継承し続けたというのは、ただ先祖の大切にしていたものだから、というだけの理由で済まされようか。
──西洋の方の魔術では、“冠位指定”と呼ばれるものがあるという。神代から連綿と続く家系に見られる、絶対遵守の命令だとか。血を持つ限り、逃れ得ぬ呪縛として魔術の継承を強制する。我々の事例に心なしか似通っている気がしてならない。
我々は、ただの方舟か? 過去の栄光にしがみついた遠祖の願いに縛られ、ただあるかも分からない奇蹟を待つための、血と歴史の方舟か?
……この世代になって多くの血族が魔術の才に目覚め、これを研鑽している現状が、私にはただの偶然には思えない。否、それよりも何よりも、こうして自己意志を否定されるような可能性が眼前に転がっているのにもかかわらず、それでも私は、この魔術に抱く興味を断てずにいる。それが、恐ろしくてならない。
真理を求める程度のことで、我々は、人倫を捨て去ろうとしているのだろうか。
これが、私の戯言であることを願ってやまない。