推薦図書
- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
- 最下部のコメントボックスで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
- ほんの少しでも推薦図書に見えたのならそれが推薦図書です(邪視)。追加しましょう。五十音順に並んでいます。
- 編集カラテ入門
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*** タイトル
-説明1
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- 推薦図書
- 思想
- か行
- 海賊と資本主義 ロドルフ・デュラン ジャン=フィリップ・ベルニュ
- 快楽の哲学 木原武一
- 家族の違和感 親子の違和感 春日武彦
- 貨幣という謎 西部忠
- カナダ人権史 多文化共生社会はこうして築かれた ドミニク・クレマン
- 神の国アメリカの論理 宗教右派によるイスラエル支援、中絶・同性結婚の否認 上坂昇
- 完全言語の探求 ウンベルト・エーコ
- 河合隼雄著作集
- 歓待のユートピア ルネ・シュエレール
- 消えたい (ちくま文庫版) 高橋和己
- 希少性と欲望の近代 ニコラス・クセノス
- 傷つきました戦争 超過敏世代のデスロード カロリーヌ・フレスト
- 傷つきやすいアメリカの大学生たち 大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体 グレッグ・ルキアノフ ジョナサン・ハイト
- 〈希望〉の心理学 白井利明
- きみがモテれば社会は変わる。 宮台真司
- きみの脳はなぜ「おろかな選択」をしてしまうのか〈意思決定の進化論〉 ダグラス・T・ケンリック ウラダス・グリスクヴィシウス
- QOLって何だろう 医療とケアの生命倫理 小林亜津子
- 吸血鬼イメージの深層心理学 井上嘉孝
- 饗宴 プラトン
- 境界の現象学 河野哲也
- 共感の思想史 仲島陽一
- 共産党宣言 カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス
- 競争からちょっと離れると、人生はうまくいく 禅的、「比べない、責めない、こだわらない」生き方 枡野俊明
- クロード・レヴィ=ストロースの著作
- ゲーデル、エッシャー、バッハ- あるいは不思議の環 ダグラス・ホフスタッター
- 芸人最強社会ニッポン 太田省一
- 啓蒙の弁証法 ホルクハイマー アドルノ
- 現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由 小崎哲哉
- 現代哲学の冒険シリーズ
- 現代哲学の論点 人新世・シンギュラリティ・非人間の倫理 仲正昌樹
- 現代文明論(上下) 佐伯啓思
- 権力と人間 ハロルド・ラスウェル
- 交易する人間(ホモ・コムニカンス) 今村仁司
- 後期近代の眩暈 ジョック・ヤング
- <講座>現代キリスト教倫理シリーズ 神田健次
- 構築主義とは何か 編・上野千鶴子
- 幸福はなぜ哲学の問題になるのか 青山拓央
- 幸福論、小倉千加子、中村うさぎ
- 恋する文化人類学者 鈴木裕之
- 高校倫理からの哲学4 自由とは 直江清隆
- 〈個〉からはじめる生命論 加藤秀一
- 心の分析 バートランド・ラッセル
- 個性を捨てろ!型にはまれ! 三田紀房
- この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代 雨宮処凛:編著
- コミュニケーション 大澤真幸
- コロナと生きる 内田樹 岩田健太郎
- こんな私が大嫌い! 中村うさぎ
- か行
- コメント
思想
か行
海賊と資本主義 ロドルフ・デュラン ジャン=フィリップ・ベルニュ
- 資本主義には、組織が必要
- 海賊組織は、資本主義システムの周辺に出現する必要悪であり、どんな時代にも現れる
- 海賊組織が既存の組織が定めたルールを侵さなければ、資本主義システムは停滞してしまう
- アウトローが既存の法と利権を侵害することによって、新しいビジネスが生まれ、新陳代謝が行われるのだ
→盗賊王ゼド?
快楽の哲学 木原武一
- 快楽を追求することには色々問題あるけど、知的快楽なら反動も無いし問題ないよ!と説く本
- まあ、筆者の主張に賛同するかはともかく、快楽についての哲学史のまとめとしては、わかりやすくコンパクトに纏まっている
- エピクロスの求めた平静な心境「アタラクシア」
- 快楽も感じないストア派ゼノンの「アパテイア」(無感動)
→『E・E』 - 快楽と苦痛は表裏一体
- 軽度の欲求不満こそ、生きることへの活力源である。
- 苦悩は、人生のバラストであり、苦悩が無い軽薄な人間には、転倒の危険がある
- 諦念から安らかな境地が産み出され、その境地こそ幸福に等しい
- 快楽原理が涅槃原理につながり、涅槃原理は、死の欲動につながる
→ルウテトとデストルドー
家族の違和感 親子の違和感 春日武彦
- 親子と家族の価値と病理の話
- アリュージョニストもある意味家族の話なので、関係あるはず
貨幣という謎 西部忠
- 貨幣は「観念の自己実現」として存在する
- 内なる制度である人々の欲求・欲望と、外なる制度である貨幣は、相互に相手を規定しあうような循環関係を形成している
→相互参照 - 貨幣とは、貨幣として扱われるから貨幣である
→再帰性? - 物々交換を、市場の始まりとする新古典派の考え方は間違っており、貨幣が無ければ市場も存在しない
- 言葉が、意志疎通のための便利な「道具」というより、他者との困難なコミュニケーションを成立させるための「前提条件」であるように、貨幣もまた、市場が存在するための「前提条件」である
- 貨幣以前には、貨幣によって購入される「商品」は存在しない
- 「貨幣」と「商品」は、同時にその概念が確立されて、成立するものなのだ
- 現在の貨幣のあり方を変えることは、市場のあり方、ひいては私たちの文化や倫理を変えることにつながる
- グローバル時代は、コミュニティへの(見知らぬメンバーへの)信頼にもとづく「コミュニティ通貨」や電子マネー、ビットコインなど、多様な「質」の面で貨幣が競争する時代になるだろう
- その「質」にはきっと、これまで考えられなかった非経済的な利用動機ーー社会的、文化的、エコロジー的、人間的な価値を提供するものが含まれるのではないだろうか?
カナダ人権史 多文化共生社会はこうして築かれた ドミニク・クレマン
- カナダにおいて、人権がどう捉えられてきたかを五つの時期に分けて分析した本
- 人権概念が時代によって変化することや、それが本当に「効力」を発揮するためには政治や法律が必要なことなど、人権を掘り下げているのが良い
- 歴史のいかなる時代でも人権の意味を決めるのは、政治、法律、社会の関係利害が絡み合う社会の変化なのだ
- 人権の歴史は、進歩の歴史であると同時に、除去しようとする力に抗う物語のようなものだ
- それは、連続的な進展ではなく、本当の「起源」も存在しない
- 人権の最も中心にあるのは、対立である
- 人権とは、強者に挑むために弱者が使う言語なのだ
- それは、私たちの不満を言い表すのに効果的な言語である
- というのも、人権は(社会主義とは違って)弱者と強者の双方が合意し受容できる社会変革構想を表しているからである
- 人権は、単なる法律ではなく、対話である
- 本書は、人権とは法律という実態であると同時に、社会学的で歴史的な事象でもあるという立場をとっている
- 人権が対話であるのは、いまもそうだし、つねにそうであるべきなのだ
- 私たちの権利文化を理解することは、対話の土台を支える原則をつきつめることなのである
→天から与えられた真理や教義ではなく、対話によって構築される物語り、『呪文』としての人権解釈
- 法律の理解なくして、人権研究は不可能
- 権利は、モラルの規範として発しうるのだが、実際には、それが法として承認されるまでは存在しないのだ
- 理論的には、人権は、個人に由来する抽象的で前社会的なものとされる
- しかし、歴史社会学的アプローチでは異なる
- 私が思うに、人権に関する適切な理論は、政治、法律、社会運動の交わりを考察することによってはじめて説明できるのだ
- 人権は、権利を支える諸原理が広く合意されたときに現実のものとなると言っても良い
- 不公平に扱われると感じて行動を起こそうとする誰かがいれば、変革は始まる
- 権利革命が到来する以前から、人びとは社会主義やキリスト教の言葉を用いて、不満をはっきり示そうとしてきた
- 例:アジア系に対する、学校での組織的隔離への批判「イギリス的公正という根本的価値の侵害であり、われわれのキリスト教の基本的原理をも侵害するものだ」
- しかも、権利という言葉で不満を発することを拒否してきた活動家たちの例は、数多くある
- ガンディーやキング牧師、さらにはフェミニストやゲイ解放運動家たちが、自分たちの社会変革構想とは相容れないとして、権利を語ることを拒んできた
- それでもなお、権利を語ることは広がっている
- 「権利文化」:社会が権利を解釈し実際に適用する仕方。社会によって異なる
- 人権は日々の生活の一部にならないと、社会的意味を持てない
- 権利文化があると言明することは、権利が社会の産物であり、それが社会と結びつきながら進展していると主張することなのだ
- 第一の普遍的人権とは、アーレントが主張したように、権利を持つ権利
- 権利を承認しそれを守る社会に属することなのだ
- 無国籍の人びとには、人権はない
- 権利はモラルの主張であるけれども、それが普遍的な真実に基づいているというのは誤りなのである
- 実際、人権は政治的な手段としての役割を備えている
- 人権は、権利がどうあるべきかについての理解を共有することから生まれるという点で、それ自体、社会に生きているのだ
- 私たちの権利文化の範囲をはっきりと示すことはむずかしい
- 権利文化は、権利の網羅的なリストではない
- 新たな権利の要求は、ある特定の枠組みの中で出され、その枠組は、どの要求が権利になるのかを判断するフィルターのように機能する
- 一世紀後のカナダの権利文化は、今とは全く異なっているかもしれない
- 人権を悪用される危険
- 人権は、同性愛者への攻撃を正当化するなど、権力を持つ人びとの手段になりうる
- 権利という語りを守るには、権力の濫用をおさえるための言葉として、永い歴史がたどった軌跡のなかで人権をとらえ直さなければならない
- もっと大切なのは、私たちの権利文化を正しく理解するには、私たちが認めている権利だけでなく、私たちが認めていない権利をも想定しなければならないことなのである
電子化×
神の国アメリカの論理 宗教右派によるイスラエル支援、中絶・同性結婚の否認 上坂昇
- 先進国では飛び抜けて宗教的な国家、アメリカの内情を分かりやすく整理している本
- 文章から推測するに、著者の立場はプロチョイス(中絶容認)派など右派に対立する思想であるようだが、その記述はあくまで客観的
- プロライフ(中絶反対)派が、国連を通じて中絶を広げている容認派に反発しているらしいことなど、対立派閥の立場にも立とうとしているところがあるのが良い
- 2008年刊行
電子化×
完全言語の探求 ウンベルト・エーコ
- 普遍言語あるいは完全言語と呼ばれているものの探求の歴史
- 人工言語、グロソラリア、ピジン語。いろんな言語があるよ。そして、無駄にカバラに詳しい。そう。「イェツィラー」のな!
河合隼雄著作集
- ユング心理学の権威であり、日本に箱庭療法を導入した心理学者の著作集
- 『10 日本社会とジェンダー』
- 「中空構造日本の構造」(→か行を参照のこと)をはじめとして、筆者のジェンダー関係の文章をまとめている
- 特に、男女両方に異性的な面があり、両性の交際にはそうした部分同士の交流も必要とする考察が印象的
- 人間は、その本性が自然に反する傾向がある
- 性別は分かりやすい差異であるため、多くの文化圏で自然物を二分するのに使われている
- ひとりの人間としての統合性(インテグリティ)を保つためには、身体ということもコミにして生き無くてはならない
- 「男らしさ」にしても「女らしさ」にしても、自分にとってそれが「おさまっている」また、他人から「さまになっている」と感じられる生き方であることが必要
- 身体性を問題にする時は、本人の主体的に感じる感覚のようなものが一番大切であろう
- ひとつの身体をもった人間として、自分は自分の感じる身体とうまくつながっているか
- 両性具有を志向する生き方もアリだが、その実現にやたらと焦らないことが必要
- 「らしさ」に囚われない好きな生き方を選ぶのもいいが、それがなんでもあるが味気ないフルコースになってはいけない
- 自分の人生、広さと深さをどうバランスを保つか、両方のらしさが必要
- 概念的に両性具有を追求するのではなく、あくまで自分の身体性との関連を確かめつつ両性具有を求めてゆくためには、やはり生きた相手を必要とすると思われる
歓待のユートピア ルネ・シュエレール
- 歓待について書かれたエッセイ
- 『オデュッセイア』やベドゥィンの伝説などにみられる貧しい者や異邦人を歓迎する「歓待」の伝統を、血統主義やナショナリズムから来る難民排斥への批判に用いている
- とはいえ、著者が求める真の「歓待」は、はるか昔に失われたとされていて、その実態は定かではないのだが
- 歓待は、食事の材料となる農作物を生み出す逗留や耕作と切り離せないものであり、それゆえ歓待はその本質において人間の条件に結びついたものである
- 豊穣の角、異邦人の姿をとって現れる現れる神、良きサマリア人という真の隣人、ダナオスの娘たちに対してアルゴス王が宣言した「庇護権」、(地球の形状に基づいて)祖国という排他的な土地の占有を否定する「訪問権」など、多くの概念やエピソードに触れている本でもある
消えたい (ちくま文庫版) 高橋和己
- 虐待経験のために「普通の人」とは異質な世界観を持つようになってしまった「異邦人」の苦しみと、その「回復」の話
- 心理的な世界は、「普通の世界」「辺縁の世界」「宇宙」という三つの世界が同心円状に重なって構成されている
- 「普通の人」は「普通の世界」という心理的なカプセルに守られているため、自分の存在や人とのつながりを確信出来る
- しかし虐待によって傷ついている「異邦人」は「辺縁の世界」しか感じられないため「普通の人」の価値観を共有出来ず、奇妙に見える行動をとってしまう
- 「異邦人」は、人とは違う視点や感情を持つため、社会に新しいものをもたらす者にもなれる
→世界内異世界人【グロソラリア】? - 橋本治先生の解説も必読。
希少性と欲望の近代 ニコラス・クセノス
- 欲望と流行、そして「希少性」という概念の誕生と歴史を説いている本
- 希少性から、解放されれば自由になれる
- 「いつも何かが足りない」という観念は、近代の発明である
- 豊かさという概念は、希少性という概念と双生児の関係にあるのだ
- モノの価値は、それを所有する個人あるいは集団が、その所有ということに与える「社会的意味」にあるのである。
- 流行=模倣の競争は、より上位の階級に追いつくため、そして、いま自分が居る階級に留まるための手段であり、目的そのものであった
- 希少なモノを手に入れることは、上位階級を模倣することであり、自分の価値が承認されるための手段でもあったのだ。
- 18世紀ヨーロッパでの「流行の発明」により、商人たちは常に「流行最先端の品が希少である」状況を作り出し、絶えざる需要を産み出すことが出来たのだ
傷つきました戦争 超過敏世代のデスロード カロリーヌ・フレスト
- 原題を直訳すると『きずつけられた(と感じる)世代ーー文化の統制から思想の統制へ』
アイデンティティ政治の自由抹殺傾向を批判している、いわゆる反「ポリコレ批判」本 - アイデンティティ・ポリティクスの思想のもと、自らの「人種」や「属性」と異なる振る舞いを行っている人たちが炎上させられるようになった世情を、強く批判している
- 記述の内容は多岐にわたり、アイデンティティ政治のそれぞれの言論の創始者や、国際的なアイデンティティ政治の現状について知ることが出来る
- 著者は、フランスのジャーナリストや映画監督であると同時に、法的権利を勝ち取るために戦ってきたレズビアンでもある
- 彼女は、いかなる教典より共和国の法を上とする「ライシテ」(世俗主義)の養護者であり、フランス風の共和主義的左派の支持者
- これまでは、極右に加え、イスラム原理主義や「イスラム教フォビア」とみなされることを恐れイスラム原理主義に対抗しない、一部の左翼を批判してきた
- また、フレストは諷刺新聞『シャルリ・エブド』の執筆者だった経歴もあって、表現の自由を制約する相手にも強い怒りを感じているようだ
- アイデンティティ政治の現状はかなりハードであり、
- 日本趣味のお茶会を開催したお母さんが炎上したり、
- 「反レイシズム」を主張するマイノリティグループが、白人そしてユダヤ人を公然と差別したり、
- 「イスラム教」「レイシズム被害者」の不名誉になるぐらいなら、レイプ被害の告発を取りやめるべきだという主張があったりする
- 著者の言う通り、普遍的な平等を望むなら、これらの思想に立ち向かうことは必要不可欠であろう
- ただ、問題点も二つほどある
- まず、やや文章にまとまりがないこと
- 下手すると一行ごとに別の事件に触れているので、最終的に何が言いたいのか、今ひとつ著者の論旨をつかみづらい
- そして、当然ながら、著者自身も完全無欠の正義とはいかないということだ
- 「アメリカのアイデンティティ政治の混乱が流入するのを阻止しよう」とする主張からは、どうしようもないお国自慢とアメリカ蔑視がうかがえるし、
- ヴェールを女性抑圧の象徴と見なすその見解は、穏健なイスラム教徒から反発を買いかねない
- 更に、彼女は攻撃的で(白人のレズビアン運動から)分裂しようとしている黒人レズビアン派を批判しているが、
- 分裂を嫌い統合を主張する彼女自身、かなり攻撃的な態度をとっており、全く人のことを言えない
- 特に、彼女が攻撃しているブラック・レズビアンは、レズビアンとしての権利運動の中にも人種差別があることを批判してきた思想であり、
- これはこれで、不満を明確化するという意味で、統合のために不可欠な主張である
- しかし、著者には、それへの尊重や承認を示そう、という態度が全く見られない
- これでは、統合など夢のまた夢であろう
- 抜粋・まとめ
- 左翼のアイデンティティ至上主義者たちが発する命令は、最終的に必ずアイデンティティ至上主義的な右翼を有利にする
- フランシス・フクヤマ『IDENTYTYーー尊厳の欲求と憤りの政治』
- アイデンティティ至上主義は極左によって広められるのだが、結局は極右において成功を勝ち取る
- なぜなら極右のほうが、あのティモス(ギリシア語での勇気)を、ひとつのネイションの内に存在する、「自らの尊厳の承認を強く望む精神」をよりよく体現するからである
- また、アイデンティティ政治系の批判の中には正当な抗議の話(ディズニーがスワヒリ語の「ハクナ・マタタ」を商標登録しようとしたり)もあるが、この本の中では強引な主張と入り混じっていて、主張の要点にはなっていない
- 解説:本当の解決策は、誠実な反レイシストたちからしか出てこない
- それを口にするには「レイシスト」や「イスラム教フォビア」扱いされる勇気が必要
- アイデンティティ戦争を阻止せねばならない
電子化◯
傷つきやすいアメリカの大学生たち 大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体 グレッグ・ルキアノフ ジョナサン・ハイト
ー原題は『The Codding of the American Mind』であり、引用している他書では「アメリカンマインドの甘やかしーー善意とダメな思想が丸一世代をダメにする」とも訳されている
- (元ネタは哲学者アラン・ブルームの大学批判のベストセラー本『The closing of the American Mind』=『アメリカンマインドの終焉』)
- 作者たちとしては、「甘やかし」という親の害ではなく「過保護ゆえに傷つきやすくなってしまった」という学生の現状を強調したかったようだ
- 大学における講演妨害、辞任デモ、学長の軟禁、大学での「魔女狩り」、「言葉の暴力」に対しての物理暴力での反撃などのZ世代の暴虐は、三つの〈大いなるエセ真理〉によるものとして、それへの対処を説いている本
→『呪文』の害? - 最後は、子育てに必要な方針のリストが続き、結びでは既に起き始めている社会での「改善の兆し」についても触れられている
- ちょっと結論をまとめ切れていないのが難点だが、章ごとのまとめや小見出しもあって読みやすい
- この本は、作者曰く「社会の風潮や力が合わさることで起きた〈犯罪〉をめぐる、社会科学の探偵物語のようなもの」
- 大学生たちは、うつ病治療で否定しなければならないような「認知の歪み」に取り憑かれており、そのために、不安で用意に傷つく人間になる可能性を秘めているという
- 多くの親や周囲の人々は学生たちに対し、危険を大げさに表現すること、二分法思考をすること、真っ先に起こる感情的反応を増幅させることなど危険な思考習慣を教えてしまっているのだ
- 著者たちによれば、それへの対処としては、認知行動療法などが有効だという
- この本は、偽物のギリシャ賢人ミソポノスが〈エセ真理〉を説くところから始まっており、彼の言葉は愚かさの神コアレモス(アリストパネスの喜劇『鳥』に少しだけ出てくる)の神託と位置づけられている
- ミソポノスの助言の逆を行えば、より幸せに、健やかに、たくましく生きられ人生の目標を達成しやすくなるだろう
- 危険を取り除いたり回避するのではなく挑戦を求め、常に自分のとっさの感情を信じるのではなく認知の歪みから脱却し、味方か敵かという安易な倫理観で相手を最悪だと決め込むのではなく
- 他者に寛大なまなざしを向け、微妙な差異をすすんで受け容れよということ
→『邪視』?
- アイデンティティ政治には二種類ある
- 太古からのトライバリズム(部族主義)を加速させるような、共通の敵を持つアイデンティティ政治だけでなく、キング牧師のように「共通の人間性」を訴えて、人々を結束させるアイデンティティ政治もあるのだ
- たとえばキング牧師は、宗教や愛国心といった求心力ある言葉や〈家族〉という比喩を用い、アメリカ人として共有する倫理観やアイデンティティに訴求したし、愛や赦しの必要性をたびたび語った
- 黒人女性の同性愛者で公民権活動家だったパウリ・マレー「兄弟が私をのけものにする円を描くなら、私は全員が入れる大きな円を描きます。兄弟がちっぽけな集団の特権のために声を上げるなら、私は人類すべての権利を大声で呼びかけます」
- 実際に現代、2017年9月16日ワシントンDCのナショナル・モールでも、トランプ大統領(当時)の集会参加者とBLM運動の抗議者たちが、群衆すべてを囲む大きな円を描き「USA、USA・・・・・・と唱和し、つかの間の対話を行うことが出来たという(どうもギャグではないらしい・・・)
電子化◯
〈希望〉の心理学 白井利明
- サブタイトルの「時間的展望をどうもつか」とあるように、希望と時間的展望についての本
- (未来のために現在の行動を意味づけることが重視される)未来指向は、物事の決定の主体として自分を重視する個人主義の文化と関係がありそう
- 「これをしなければならない」と強迫的に考えていると、将来展望の柔軟性を欠きやすく、現実に対応することを諦めがちになる
→ルウテト? - 目標に建設的に取り組むには、同じ対象に対して、未来の希望と不安がセットになっていなければならない
- 過去・現在・未来といった時間の往来を対象として捉え、自己の中に統合させることは、自分の存在価値を見出す姿勢へとつながっている
- 普遍的な希望は(中略)、個を超えることではなく、異質な個どうしがつながり、世界を共有していくことなのである
- 時間的展望の持ち方のコツ
- 第一に(中略)眼の前に他者がいなくとも、自分の中に他者を呼び求めて、時間的展望の広がりを確保し、現実と向き合うための支えを創り出すこと
- 第二に、毎日の生活では、いつかどこかにリズムをつけて、体験した過去を過去として味わい、未知なる未来を未来として味わうようにすること
- 第三に、人生は自分一個の人生で完結すると考えるのではなく、人々と過去と未来を共有し、それによって刻みを入れ、歴史を作っていくことである
電子化×
きみがモテれば社会は変わる。 宮台真司
- モテ方指南ではなく、モテる=自分から動いて社会を形成していく人間が増えないと、日本は不幸なままだと発破をかけている、中学生向けの本
- アリストテレスの理想である「社会のメンバーの多数が有徳=内発的なふるまいをするようになる社会」を目指すように説いており、
- そのためには、尊敬(リスペクト)され周囲に感染的な模倣(ミメーシス)を広げる有徳者が増えなければダメだと、
- 読者に有徳者になるように呼びかけている
→『道徳』?トリシューラの承認のための建国?
- 具体的には勉強より経験とコネクションを重視し、ネットワークを通じて他人も自分も幸せにできる人間になり
- 本当のスローフードである食の〈共同体自治〉などを行うこと、
- 「任せて文句を言う」依存の政治から「引き受けて考える」自治の政治へと日本を変えていくこと、
- そして、儲け一辺倒の経済から、国民の幸福度を高め自殺を防ぐ経済を目指すべきだとしている
- 社交的な人ほど、現代社会の交換可能性に引き裂かれ、現実に対して背を向けるようになっていく
- ナンパ師の逆説:ナンパが成功するがゆえに、逆にテクニック程度で落とせてしまうような女性に対して、不信感をつのらせてしまう
- 突然、軽症うつになる者も
- ナンパ師の逆説:ナンパが成功するがゆえに、逆にテクニック程度で落とせてしまうような女性に対して、不信感をつのらせてしまう
- 社会の複雑化すると、人と人の関係が交換可能な部品のようになり「関係の唯一性」を主張しにくくなる
- 社会の複雑さに適応するうちに、他人との関係で「相手にとって『この私』でなければならない理由」が薄まってしまう
電子化×
- 社会の複雑さに適応するうちに、他人との関係で「相手にとって『この私』でなければならない理由」が薄まってしまう
きみの脳はなぜ「おろかな選択」をしてしまうのか〈意思決定の進化論〉 ダグラス・T・ケンリック ウラダス・グリスクヴィシウス
- 人は七つの下位自己を持ち、それに判断を左右されている
→六王とクレイ
自己防衛、病気回避、配偶者獲得、配偶者保持、親族養育は一対一で対応出来そう。
地位は、オルヴァよりパーンっぽい(より高い地位を目指す)けど - 内容は薄いので、図書館での利用推奨
電子化×
QOLって何だろう 医療とケアの生命倫理 小林亜津子
- QOLという生命倫理学の概念を紹介しつつ、現代社会の医療の課題を考えるきっかけを、提供している新書
- 主に安楽死の問題や、命より視力を選んだ写真家(ドラマ『ラストホープ)』、完治の可能性があった手術より代替医療を選んで死んだジョブズなど、個人の選択権や愚行権について語られている
- 選択肢の背後にある様々な思想を、歴史的背景までしっかり解説しているのも良い
- QOL=「Quality of life」=「生命の質」「人生の質」
- 生きることの意味や価値、人間の生命の尊厳、苦痛のない「いのちの状態」
- そのいのちを生きる本人にとっての「幸福」や「満足」
- 「大切なのは、ただ生きることではなく、よく生きることである」(プラトン『クリトン』)
- 特にア関連では、患者本人に代わって家族がその医療を決める「代理決定」の問題が、興味深い
- 娘の代弁で胃ろうを拒否したあとに口から食べられるまでに回復した例や、「畳の上での死」を望んだ本人の意思表示を家族が無視してしまう「看取り搬送」の話、
- ドラマ『コード・ブルー』のエピソードで、年金のために家族に生存を望まれる高齢者と、
- 軽々に語れない難しい事例が、いくつも語られている
- 特に、ドラマのエピソードでは、高齢者自身が家族に「騙されている」ことを知り、無知を演じていたのではという解釈や
- 家族が年金を口実にしていたのも、高齢者への甘えの一種だったのではないかという指摘もあり、
- こういった問題に、善悪や是非の判断を下すことの難しさを教えてくれている
- また、この問題では「関係性の自律」概念もまた、興味深い
- 「関係性の自律」:本人と周囲の人たちのインタラクティブ性のなかに成り立つ自律、自己決定
- 患者みずからが、家族の心情を思いやって、家族との関係を考慮しながら、自分で決めるということ
→カインの介錯、アキラくんの善性の転生/自殺幇助
- ただ、患者のQOLを他人が代弁することの危うさこそしっかり語ってはいるものの、
- 病院側が、医療知識によってそれを決定しがちだったり、「スパゲッティ症候群」と呼ばれる延命措置など「人の死」についての決定権を握りがちなこと、
- ひいては、植物状態の患者がQOLの見地からこれ以上生きるべきか否か、という問いの下地として、脳死とそれを別の命のための「材料」とする臓器移植=「医療による生命の選別/人間生命の価値の決定」の問題があることなど、
- つまり、「医療の権力」についての意識が、著者にはやや薄いように見受けられる
- もちろん、その代わりに中立的な立場が貫かれているし、
- 医療、家族、患者とそれぞれの「善意」同士の衝突わかりやすく描かれてはいる
- また、「地域包括ケア」が、衝突の末に妙案で問題を解決する話などもあるのも、特筆すべき点ではある
- とはいえ、関係性の自律」の延長線上に、前述した「医療の権力」や、出生前診断、そして相模原殺傷事件があることには、上手く焦点を当てられていない感は否めない
- その分、他者のQOLを判断することの危うさや、生命や選択権の大切さ、人間の問題解決能力を信じる思いなども、またしっかりと伝わってくる本でもあるし、
- 読者に考えさせようとする良書ではあるのだけれど
- 抜粋・要約
- 宗教的信念をもたないことは、たしかに「自由」であるかもしれない
- しかし、そうした「信念」のまったくない状態で、「自分で決めてください」と言われることは、
- ある意味、灯りのない暗い海のなかへいきなり放り出されるのと同じくらい、心もとない状態なのではないかと
- 感染症が主流の時代では、患者の自己選択権は許されなかった
- いのちとQOLは(中略)その人個人の生き方や人生観のなかで、耐えざる自問を繰り返しながら、揺らぎのなかで問われ続けていくものなのです
電子化◯
- 宗教的信念をもたないことは、たしかに「自由」であるかもしれない
吸血鬼イメージの深層心理学 井上嘉孝
- ユング派の著者による、吸血鬼イメージの歴史
- それは、吸血鬼の歴史であるとともに、人間の「こころの歴史」でもあった
- 異界と神を失った我々は、自我の境界線をも失ってしまったのだ
→リールエルバとリールエルブス
饗宴 プラトン
- アの原題にも含まれている「アンドロギュヌス」の元ネタ
- 恋(エロス)の称賛(解釈)を競い合う宴会を通じて、善と美を求める対話問答、すなわち哲学の道へと読者を誘おうとしている物語
→神をめぐる解釈競争という意味では、ゆらぎの神話っぽいかも? - 登場人物の名前に古代ギリシャ語の言葉遊びが仕掛けられていたり、解説無しでは読み解くことが難しい
- だが、これも「善く生きるにはどうすればいいか」を追求する哲学の書なので、ある意味、万人向けでもある
- 実は、アンドロギュヌスの話で主張されている「恋とは失われた半身を求めること」は、本命の議論で否定されており、
- 恋によって人が求めているのは「より良い半身」であり、突き詰めれば、美そのもの(=神々)を求める道を極めて(結果的に)神から愛され、真の不死となることだと結論付けられていたりする
- エリートが求めているような、名声や制作物を後世に残すことによって「死後も生き」ようとする小秘儀は限界があるものであり、
- こうした哲学の営みこそが、奥義であり、真に人が欲する不死を手に入れるための大秘儀なのだ
- 表と裏の二つの脈絡があり、作中人物が記憶から再構成した過去話である表に、作者の意図である裏の文脈が含まれているという
→再演? - 平凡で偉人のモノマネしか出来ないアリストデモスこそが、伝達者としての役割を果たすことが出来た
→呪術に無知だったため、逆に最高の使い魔になれたアキラくん - ディオティマという女神官が登場し、ソクラテスとの問答を通じて、彼の友人の説を友情を壊すことなく否定している
→外力?触媒としての異言者(ゼノグラシア)? - 知恵の伝達不可能性、人と人との「断絶」を説いている本でもあり、その象徴としてソクラテスを求めて暴走するヤンデレ美男子が登場する
- 当時の男尊女卑社会の価値観(男性同士の同性愛が高貴とされた)で書かれているので、そこは読む人を選ぶかもしれない
- 東京大学出版会・山本巍訳の解説が一番詳しいが、注釈自体に注釈が必要になるほど比喩が大量に用いられていて読み進めるのが困難
- 読みやすい光文社の中澤務訳か、より解説が分かりやすい京都大学学術出版会の朴一功訳がオススメ
- 角川ソフィア文庫版についている竹田青嗣の解説も、読めば議論の方向性についてより理解を深められるので、ざっくりとした理解を得たいならこちらを読むだけでも良いかもしれない
電子化△光文社や岩波は電子化されている
境界の現象学 河野哲也
- 境界とそれを超える経験について、哲学的に考察している本
- イリガライ『存在の忘却』などのフェミニスト現象学の発想を中心に、身体と環境の境界を、ファッションと変身、痛みと独我論、狩猟、流体の存在論などの多様な角度から分析し、ヘルメス的な移動中心の生き方を称揚している
- 地球は流体であり、未だに始原の海である
- 東日本大震災とそれに伴う津波によって、その真実を私たちが突きつけられたように、大地とは比較的にゆっくり動く泥水に過ぎない
- 境界に共通する役割は、私たちをどこかに所属させること
- だが、あらゆる境界は不安定で移ろいやすい
- 特に水や空気のような流体は、あらゆる境界から自由であり、フェミニスト現象学ではそちらが重視される
- 日野啓三の文学における都市とウィルダネス(原生的自然)との同一視
- 都市は、人間的な意味に回収されない絶対的なもの
- 人間が与える意味を超えた一種の無意味なものとの邂逅は、自然を人間的な関心へと回収しないディープ・エコロジーの発想に近づく
→トリシューラの理想である混沌の国と、枯れ木族の世界観が一致する点?
- 流行としてのファッションの本質は、変身にある
- ファッションを身にまとうとは、新しい差異としてのみ意味を持つ皮膚を身にまとうことである
- それは、根拠のない新しい存在として変身し、見られることで世界に降臨することであ
→トリシューラの承認?
- 慢性痛は身体図式の異常である
- それは、新しい身体へ変身できず、自分を再誕生させられないことが原因で続く痛みである
- 手足を失った新しい状況に適応できず、以前の身体的習慣が残存することによって幻肢は発生する
→アキラくんの幻肢は、彼の心残り・過去への執着でもある?
- 見られるということは受け身の経験であり、従来の、能動性を自己の本質とみなす心理学や哲学では、見逃されてきた
- しかし、見られることは身体を持つものだけに可能な経験であり、この経験こそが、私達をある場所に帰属させる
- それに対して痛みとは、自己の身体を気遣い、世界から撤退する志向である
- また痛みは、人から見られることを望む志向である
- 境界こそが自と他の区別を作り出すものである
- この「自」には、自分が帰属する場所や集団も含まれている
- 私たちは、家を出て、根拠なく再誕生して、新しい評価の視線を意図的に集めることをすべきである
- そしては、境界のないウィルダネスで取り替えのない生命を生き、変転して止まない始原の海に帆を張るべきである
共感の思想史 仲島陽一
- 儒教や仏教から西洋思想に現代の諸科学まで、さまざまな思想から「共感」に関連する部分を集めて分析している本
- 一つ一つの項目はそれほど深くはないが、幅広く取り扱っているのが良い
共産党宣言 カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス
- 地獄
競争からちょっと離れると、人生はうまくいく 禅的、「比べない、責めない、こだわらない」生き方 枡野俊明
- 曹洞宗の住職による反競争的なエッセイ
- 「只管打坐」をモットーとする宗派だけに、結果より過程を重視するところがあり、
- 競争から少しだけ離れ、自己を高め、互いに助け合い幸せを分かち合うことを重視する生き方を、
- 禅の名言を引用しながら説いている
- また、禅には「正邪」などあらゆるものを「分別」しないところがあり、そこもまた競争から離れた生き方を支えているように思える
→『地上』的な価値観への批判
クロード・レヴィ=ストロースの著作
- 「ブリコラージュ」という概念が作中に登場。
- それだけではなく物語論的にも、あるいは「神話」概念についても構造主義に寄って立つところは大きい。
ゲーデル、エッシャー、バッハ- あるいは不思議の環 ダグラス・ホフスタッター
- 人工知能・メタ概念・ゲーデルの不完全性定理等についての参考に
- うなる自己言及!
芸人最強社会ニッポン 太田省一
- テレビの普及と共に芸人が世間に受け入れられてきた歴史をたどりつつ、日本における芸人の役割絵分析している本
- 「笑い」は、日本社会におけるコミュニケーションそのものであり、相手に「ウケる」ことで、自分を承認してもらうことが出来る
- だが一方で私たちの社会は、「空気読み」の息苦しさやコミュニケーションの輪に加われない他者への排他的な側面も併せ持っている
- そうした社会の閉鎖性から逃れるための武器になってくれるのも、やはり「笑い」なのではあるまいか
- たとえ総中流意識が崩れテレビの存在感は弱まってきたにしても、現在の日本社会は、戦後獲得した「自己表現の自由」を認める一方で他者との協調としての「空気読み」を私たちに求めてくる
- だからこそ、その両立を可能にする笑いのコミュニケーションの根本的重要性は、これからも高まりこそすれ、減じることはないだろう
- そうだとすれば、あらゆる場面において笑いのプロである芸人にまさるような存在など、他にいないことは明白だ
- 芸人の万能化は、現在の日本社会において芸人が「最強」であることの紛れもない証なのである
- 芸人たちのキャラや笑わせ方は多様であり、それはいかなる人にとってもコミュニケーションの「お手本」になるだろう
→第五章の課題への対策法?
- 「コミュ力」というのはよく考えると変な表現である
- というのも、本来コミュニケーションは他者と意思疎通を図るための「方法」であり、生活する上で誰しもが自然と身につけるものである
- 多少の個体差はあるにせよ、それを個人的な能力」とみなす必要はないはずだ
- ところがいまや、コミュニケーションは、あたかも人によって優劣がある能力として評価されるようになった
- いまの日本社会でコミュニケーションが重視されるのは、社会が上下に階層化したために、共通の文脈に基づいたコミュニケーションが難しくなりつつあるからではないだろうか?
- 高度経済成長期とテレビの普及によって、「テレビ的世間」が広まった
- 最初は一億総中流意識に支えられていた「テレビ的世間」は、その中流の実態が崩れた後も残り続け、ヴァーチャルな中流意識をその後も維持する役割を果たしたのだ
- 旧来の日本的世間は「同調圧力」を課す反面、「安心」を約束してきた
- それに対し「テレビ的世間」は、個人の存在を容認する余白と自己表現が可能なを持つ「ゆるさ」、そして日本全体を巻き込む「大きさ」を持っていた
- 萩本欽一が始めた「素人いじり」は、素人の面白いふるまいや発言を最大限に引き出すものであり、それは戦後のテレビの普及とともに広まった「誰もが気楽に、ものを言ったり表現したりすることが出来る自由」を
体現するものであった- 彼が「いい人」と呼ばれたのは、あらゆる人の自由な自己表現の喜びを味わわせてくれるから
- 萩本は(ツッコミを柔らかにし、素人を引き立てていく役割に徹することで)素人と世間(視聴者)をニュートラルにつなぐ媒介者として生まれ変わった
- その結果「いい人」のイメージは、萩本を自分たち(市民)の味方として認知させることに貢献したのである
→言理の妖精?サイバーカラテ芸人の可能性?
啓蒙の弁証法 ホルクハイマー アドルノ
- 啓蒙とは、合理性と自己保存原理が統一支配するディストピアを産み出してしまったもの――――という話だと思う
- 人間を支配者の座につけるはずだった啓蒙が、逆に人間が支配される世界を作ってしまうというパラドックス
- 具体性に欠けていて、やたらと読みにくい本。オススメしない
- (真理要求を持った)太陽を頂点とする家父長的な神話は、それ自体啓蒙である
→槍神教? - 神話の生贄には、選ばれし者としての一回性があり、それは、身代わりでありながら唯一の存在でもあった
- 啓蒙の「作用と反作用の法則」は、神話時代の呪術を超えた代替可能性をもたらし、人間を循環の内に閉じ込める
- 日の下に新しきものなしと、醒めた智恵は言う
- 機械の形をとりつつ疎外された理性は、硬直化した思考を生命的なものと宥和させ、思考の真の主体としての社会そのものへ関連させる社会を目指す
→トリシューラ?
現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由 小崎哲哉
- 芸術系のエッセイであり、『現代アートとは何か』の次の本
- 表紙は、ファン・ゴッホ作品の借用を要請したトランプ大統領に対し、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館が(皮肉で)代案として提案したマウリツィオ・カテランの「黄金の便器」(タイトルは『アメリカ』1年で10万人が使用済み)
- 表現の自由についての言及も多く、表現の不自由展を批判しつつ、津田監督を肯定したりしているし、昭和天皇の道義的責任も追求している
- ただ著者は、政治学者エリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか』を引用
- 「誰かを不快にさせることは、その誰かが有するなんらかの権利の侵害にはならない
- 他方、ある集団に根拠なく負のイメージを重ねることは、重大な人権の侵害になる」に、
- 「個人的には、これに批判や諷刺の方向性を加えたい
- 相手よりも弱い立場にいるか、少なくとも対等でない限り、批判や諷刺を行う権利はない」と持論をつけ加えてているが、
- 肝心の、その立場の差を誰が判定するのか?については語っていないなど、その論は追究が不足している
- また、表現の不自由展の作品や、侮辱と取られそうな芸術の個別解説もしている
- 解説されているのは、マウリツィオ・カテラン「La Nona Ora」隕石に打たれて倒れているローマ教皇や、
- アンドレス・セラーノ「侵礼/ピス・クライスト」自らの尿を水槽に入れ、そこにキリスト教の磔刑像を沈めて撮影した写真作品と、
- 意義や価値を理解できるかはともかく、とりあえず見てみたくなるような作品ばかりである
→二次創作による侮辱やイメージ改変の問題?アキラくんとトリシューラのコルセスカとも関係ある?
電子化◯
現代哲学の冒険シリーズ
- 90年代に刊行された岩波書店の本
- 読書案内が充実している
- 『3 差別』
- 単純だが、差別を考える上で避けては通れない重要な要素について論じている本
- ただ、半分くらいの論考が説明不足かつ難解であり、さらに結論や解決策があまり無いと欠点も多い
- 屏風絵などの解説もあるのは面白い
- 高橋哲哉:二人の学者への批判を通じて、理想を目指すことがときに暴力として機能してしまうことを論じている
- 非西欧の「呪術的世界」を「われわれの過去」として位置づけることは、差別に通じてしまうのではないか
- 〈われわれの現在〉への同化ではなく、むしろ〈われわれの現在〉の異化であり、他化であるような歴史を、われわれは構想することが出来るだろうか
- 一つの歴史へとけっして結集されないような差異の歴史、相互に異なる無数の歴史を、われわれは構想することができるだろうか
- 非西欧の「呪術的世界」を「われわれの過去」として位置づけることは、差別に通じてしまうのではないか
- 菅野盾樹:本質主義が怪物を出現させる
- あるいは、「にゃーここ」と鳴く猫と境界線上の曖昧さについて
- 二種類の可能世界を分断する壁がひとたび取り壊された暁には、怪物はもはや怪物たることをやめるはずだ
- 排除と禁忌のないところに怪物の出現する余地はない
- 世界の分断が原則的に放棄されるなら、異なる存在者は、すでに異ならざる存在者として迎えられるだろう
- 区別は差別ではない、とはよく指摘されるところである
- 障害者の私と健常者の貴方は振る舞いや特性のうえで区別されるが、だからといて私がそれを理由にひどい目にあうようなことがあってはならない
- 何かを差別するとは、種の秩序の確保のために、それを種の典型あるいは垂範者(paradigm)の引き立て役(fail)として意味づけることである
- 不利益や不当な処遇は、この意味づけの具体的な形態である
- それゆえ、何かの不利益をともなう扱いがそのまま差別に当たるわけではない
- 問題は、その不利益が曖昧さを根拠に正当化されているかどうか
- 差別、内と外の相互性を少しでも押し止めるためには、区別を、区別だけを、凝視しつづける以外にはない
- むしろこう言うべきだ「区別こそが、差別をダメにする」と
- 区別はつねに照明されていなくてはならない
- 区別を公然と口にすることにためらいが感受されたとき、差別はすでに昂然と営みを開始している
- 区別を言わない、見ないこと、すなわち区別の無化
- 区別の無化は、現に存在する区別をなくすどころか。逆に、無化されたかぎりにおいて、区別は差別に内面化され、深められ、事象に根を張ってしまうからである
- 阿部泰郎:魔仏のひるがえり
- 『平家高野巻』悪人、平清盛も仏の怨敵ダイバダッタ・廃仏派の物部守屋、実は全て権者であって、仏法の功徳を顕すため権(かり)に悪を現じたとされる
- 国中の穢れを一身に背負わされて追放され、いわば神として殺されるものである、「な」(にんべんに難)負人
- 魔と仏、聖と魔は一如
- 大庭健:平等の正当化
- 「どのような差異化が不平等なのか」ということを明らかにし、「そのような不平等はなぜいけないのか」を説明すること
- 自分の差別意識を正直に吐露しているのが良い
- しかし、表題の証明まで行くことが出来なかったのが残念
- 現代資本主義社会の「貢献度に応じて取り分をもらう」という名目の単一基準は、それによる格差社会をもたらしているという批判
- 人間の能力と個性は、他者との関係性がなければ存在し得ない、という筆者の持論によって展開されている
→トリシューラの人間観?
電子化×
現代哲学の論点 人新世・シンギュラリティ・非人間の倫理 仲正昌樹
- 現代哲学におけるさまざまなトピックについて、分かりやすくまとめた新書
- 認識や行為の主体としての「人間」の常識がゆらいだこの時代において、哲学がどんなことを模索しているのかについて語られている
- トピックは多様だが、それらを貫く「軸」として、(著者の関心事項である)人間の「自由意志」をめぐる問題がとくに重視されているようだ
- そのためこの本全体にわたって、普遍的なルールの成立可能性から、モノのネットワークやイマジナリーな領域への権利まで、意志や主体性に注目する内容が多い
- また「ネット化する世界で"議論"は可能か」「人はなぜルールに従うのか」「我々は"自由意志の主体"か」など、章題も刺激的で哲学的思考をうながすものばかり
- その流れで、宗教的服装を公的な場で禁じるべきか否かの話や、環境の一部となってしまった人工物、「ハイパー・オブジェクト」についての論などについても語られている
- シンギュラリティが生む新たな権利問題
- 意識を複製したコピーが出来たとして、その権利はどうなる?
- オリジナルが権利付与した後気が変わったら?
- 基準をゆるくすると、ビデオ映像や動きを模写したアバターまで権利を得てしまう
→無限に増殖していくシナモリアキラ、コピーペースト転生?
電子化◯
現代文明論(上下) 佐伯啓思
- 保守系の社会経済学者である筆者の近代観を書いた本
- アを読む前提的な知識として役立つかも?
- 著者の思想だけを理解したいなら、講義録の『現代文明論講義』などのより読みやすい本を読んだほうが良いが、著者の歴史観や思考の流れを追いたいならこちらがオススメ
- 西洋独自の文化から生み出された「近代」の理念は、普遍化することによってその根源を見失い、ニヒリズムに陥っている
- ニヒリズムに対処する正解はないが、せめてやり過ごしておくためにも、その現状を認識して警戒しておくことが必要である
- 「西欧近代とはなにか」という問いに実証的な解答を出せる訳などないが、一定の見通しを立てることは出来るし、それこそが重要
- 現代の混迷のもとにあるのは「自由」と「秩序」(「欲望」と「規律」、「解放」と「権威」)を認識する観念のフレームの機能不全である
- 西欧近代は、合理的精神や自由を求める欲望ゆえにもたらされたものではなく、「確かなもの」の足場=生の意味づけを求めようとして出現したもの
- (単純化して言えば)キリスト教が西欧近代社会を生み出し支えているにも関わらず、近代は、宗教的な権威への信仰そのものを失わさせる
- 近代科学はあらゆるもの「根拠」を疑うが、近代科学では決してある物事の「根拠」を示すことは出来ない
- 二十世紀は、近代以前が持っていた「確実性」を見失い、生や認識の確かな「根拠づけ」が出来なくなってしまった時代
- 宗教的原理主義や熱狂主義(ファナティシズム)もニヒリズムの一形態だが、それに対抗する自由や民主主義の市民秩序もすっかりニヒリズムに侵されてしまっている
- ニヒリズムの問題に正面から対峙できないのに、自由や民主主義の世界的普遍化だけが声高に叫ばれる時、それもまたひとつのファナティシズムに陥ってしまうのです
- 自由や民主主義は、本来はそれ自体が目的でなく手段に過ぎないのに、それが自己目的化してしまう
→『天獄』と『地獄』?
- エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』:政府はゼロから作り出すことが出来ない。社会契約などという合理主義で作り出すことが出来ない
- 世襲の原理:偏見の擁護、非合理なゆるやかな偏見の中にこそ、統治の知恵や社会の秩序を作る秘訣がある
- 存在するのは、具体的なフランス人やイギリス人の歴史伝統と結びついた権利であり、抽象的な人間の権利ではない、という人権批判
- 新たな価値を創出する「能動的ニヒリズム」
- 新たな価値創造のためには、価値破壊と価値転換がなければならないが、 ニヒリズムは、この価値転換を準備するもの
- 従来価値があるとされていたものの無価値さに気づき、それでも残る「力への意志」により、今ある状況を抜け出して、より高いもの、より高貴なものを求める
- ナチスがユダヤ人を激しく憎悪したのは、ナチスの中にユダヤ人的な部分=種族的ナショナリズムがあったため
- 東欧進出に用いられたナチスの論理がユダヤ人に適用されると、ユダヤ人が世界を支配することこそが正当になってしまう
- ファシズムに結集した人びとは、基本的にこの世界に帰る場所がないと感じている故郷喪失者だったが、そうした故郷喪失者の典型こそユダヤ人なのだ
- 確かなものが、貨幣による交換価値しかなくなってしまった
- まずは、自分の存在の根拠、家というものを探すほかはないでしょう
- 自分の家とは、自分が親しくあるもの、自分がそこで心安らげるもの
- そういう家とともにあることが、倫理(エシック)
- ハイデガーによるヘラクレイトスの引用:「エートス・アントロポイ・ダイモーン」=人間にとって親しくある場所は神の近くにいることである
- 人間にとっては自分が安心できる親しい場所が大事で、そこには神々もいるということ
- ハイデガー:「神は絶対者である」というのは、西洋の形而上学的な思考で間違っている
- 「神に絶対的価値がある」といったとき、実は主体は人間にある
- 神に服従するようなフリをしながら、じつは人間のほうが上位に立っている
- その延長上に、人間があらゆるものを支配することが出来るとする技術主義的な思考が出てくる
権力と人間 ハロルド・ラスウェル
交易する人間(ホモ・コムニカンス) 今村仁司
- 贈与と交換、ひいては人類が歴史的に経験してきた種々の相互行為を考察することを通して、社会存在としての人間の根源に迫る試みの本
- 言葉の定義について長々と云々したりと若干読みにくいし、その論には明確なソースが無いが、供犠=生贄によって世界から霊的な力が抜かれたからこそ、市場や資本主義、そして主客の分化やが可能になったという視座が面白い
- そのあたりはバタイユの『呪われた部分』とほぼ同じだが、こちらの方が分かりやすい
- 贈与と交換を峻別しなければならない
- 市場経済が誕生する前の世界は、主客が分離しないすべてが霊性に満ちており、物体とその所有者の間には切り離すことが出来ない絆があった
- 霊性の破壊と事物世界の生誕を考察するためには、原初の流血の殺害行為に視点を定めなくてはならない
- なぜなら、そこにこそ人間が人間になる原初的行為があるからである
→槍神による女神キュトスの殺害? - そして人間が人間に「なる」とは、人間が社会を形成し、社会に聖なるものと俗なるものの差異化を作り出し、「何のために」の記号的世界を形成することである
- とりわけ、人間が「・・・・を糧として生きる」自然史的循環を脱出して、「生きている自然」を「死せる自然」(物体的自然)に変換しつつ道具的行為を可能にするには、まさに供犠は決定的な切れ目になるだろう
- アニマを抜くことが肝心であるから、犠牲にされるものは「生きている存在」でなくてはならず、この場合、犠牲動物の「身体」は、霊的世界(生きている自然)の代理的表現である
- それは部分をもって全体を表す換喩=メトミニーであり、それを表現する言語形式も換喩的である
- 犠牲動物の体と霊的世界は照応する、あるいは前者は後者を代理的に表現するのだ
- 供犠は、霊的世界に「穴」を開けて、霊的力の効力を一時的に封印する
- たとえ一時的であれ、自然すなわち霊的世界は霊なき物体になるからこそ、人間はそこに人間的力を押し付け、世界を物体的に処理することが可能になる
- 世界が「物体」になってはじめて、人間は、道具的関係を世界と結ぶことができるし道具を作る動機もまた可能になる
- 人間の肉体が物体となるとき、それに応じて人間のアニマは「自我」に、あるいは意識を持つ「主体」に転換する
- そしてこの意識的主体あるいは自我が、自分の肉体を、生ける肉体としてではなくて「対象」として、物体として眺めるようになるのだ
- 道具的行為は、技術的な生産的労働行為であり、すなわち俗なる職業活動である
- 霊的世界の脱霊化なしには「労働」はありえず、その意味で、供犠は「労働」/「俗なるもの」の可能性の条件である
→【鮮血呪】?
- 供犠という脱霊化は一時的宙吊りであり、「一時的」が重要である
- 全面的エポケーは、一時的エポケーと異なり、生ける自然の開いた穴を永久に開いたままにし、永久に生気とアニマのない世界を作り出す
- それが機械論的自然、「近代」という時代の根本的特性である
→【杖】的、というよりグレンデルヒとトリシューラの世界観?
- 供犠は単なる殺害ではなく、何ものかに「祈る」行為である
- 「祈り」とは、アニマへの祈りであり、それは自然または世界にかかわるときの、労働による「一時的な」物体処理の「許し」をえるための振る舞いである
- 祈りの行為は、集団によって伝承された形式をもち、その言語表現も伝統的に固定されており、祖先が作った言語形式だけが祈りにふさわしいとされる
- 形式化された言語による祈りこそが、何かをあたかも無からの創造のように生み出すのである
- 祈りは結果を生み出すことに重点があり、生産の技術でもある
- 「許し」=許可を願う祈りの規則の集まり、それが原初の労働の倫理であろう
- 古代のギリシアでは耕作労働の区切りごとに神々に祈っており、耕作労働の一つ一つにいわば「守護神」がついていると感じられていた
- 大地に鍬を入れるとき、人間は霊的自然を侵犯するのだが、その罪を払いのけなければ労働が開始できない
- 人間が犯す罪を払いのけると同時に、職業労働を守護する多くの神々が存在した
- そして神たちが実在する以上は、すでにそこに神話体系が存在する
- 神話は一つの世界解釈であり、世界を分節化して理解する一つの知の体系である
- したがって、一方では労働と祈りの関係は労働のエトスをなし、他方では労働と神話の関係は、世界理解を基礎とした労働の細部の認識をもたらす
- 神話がなければ、祈りの生産力をもってしても聖なるもの、つまり神々を結果として生産することは出来ないであろう
- 労働は、祈りとしての呪術なしには開始しないし、成果もあげられないのだ
- 近代では、この呪術に科学知識が取って代わったにすぎない
- 呪術からの解放とか、前進し深まりゆく合理化とかいう合理化とかいう想念自体が、呪術の地平にいる
- 比喩としてだけでなく、事実において近代の人間は、世界の物体的処理の可能性を「信じる」ことにおいて、古い呪術の心性を保存しているのだ
→【杖】の世界観の呪術性?
後期近代の眩暈 ジョック・ヤング
- 下層階級にとっては、右派の排除だけでなく、左派の「教育と支援」も「我々と彼ら」を区別し問題を「彼らのもの」にしてしまう分断の一種だと説いている本
- データ的な根拠は特に無いが、一つの意見として傾聴に値するものだと思われる
- 現状分析の結果は、凶兆と吉兆がともにある
- かつて包摂とは、均質的な文化に埋め込まれた仕事、家族、地域が生涯に渡って安定していることを意味していたが、今日それはその一切の領域の再評価と変化を伴わざるを得ない
- 現在では、個人史の不安定性と不確実性、多様な社会の中でアイデンティティの問題に対処できる物語を生み出すことが必要になっている
- 著者は、都市の多様性と誰もが異質な人々の共生が、マジョリティを消失させ他者化と迫害をなくしていくことに希望を持っているようだ
- 二分法/二項対立的問題把握は、おのおの質的な違いはあれども結局のところ支配的な価値観を「確認」しているだけに過ぎず、「他者化」と排除の悪循環を下支えしているに過ぎない
- この場合の「他者」は、経済的格差の拡大によってのみ生じたのではない
- 文化のグローバル化が世界にあまねく浸透し、媒介的コミュニケーションが興隆し、労働力の移動・流動化が激化することで、文化・価値観の共有、均質化は格段に進んでいる
- このような状況下で「過剰包摂」は生じるのであり、かかる文化的統合力の拡大と政治的、経済的統合力の収縮のギャップとそこから生じる軋轢が「他者」を生成し、今日の根本矛盾を構成しているのだという
- 二分法だと均質的な存在だと扱われるが、現実のアンダークラスはきわめて異質性に富んだ集団
- 過剰包摂社会では、包摂と排除がいっぺんに起きている
- 貧困層は、富裕層コミュニティに入れはするが一方通行で召使いとして働くだけ
- 階級政治は多くの場合、アイデンティティの言説に覆い隠されている
- 他者化と悪魔化
- テロは非難されても、先進国側の反テロ戦争は決して非難されない
電子化×
- テロは非難されても、先進国側の反テロ戦争は決して非難されない
<講座>現代キリスト教倫理シリーズ 神田健次
- 日本基督教団出版局から出版されている全4巻のシリーズ(1999年刊行)
- 現代の社会問題をキリスト教倫理(主にプロテスタント)の立場から考えている論考集
- また、大きな特徴として、布教やキリスト教の教理より個人がそれぞれしっかり問題と向き合うことを第一としている
- キリスト教に帰依するかどうかは、そうやって考えてからで良いという、開かれたスタンスをとっているのが素晴らしい
- 問題の整理においても多くのページが割かれていて、詳しくわかりやすい
- 社会問題への批判だけでなく、キリスト教内部への批判もあったりする
- 『1 生と死 』
- 中絶、体外受精、臓器移植、安楽死、自殺、死刑そして先端医療技術とバイオエシックスと、アと関連するテーマを多数扱っている
- キリスト教倫理としては「人間は神の似姿」であり、全ての人間に侵し得ない尊厳があるというのが、その基本理念らしい
- 中絶では、まず悩み苦しむ女性に寄り添うべきとしており、実質的に中絶許容派に分類されそうだ
- 匿名のエイズ患者のコラムもあり、HIVウイルスと共生するしかない己の人生を「HIVを妊娠した」と、独特の視座を表明している
- キリスト教倫理、「神の大きな物語」のなかで、人間の物語を理解すること
- パーソン論でカバーされない自己決定の能力を持たない人々も含まれる
- 神を信頼し、キリストに従っていく冒険
- 世界も生も死も全ては人間のもの、人間はキリストのもの、そしてキリストは神のもの(コリントの信徒への手紙)
- 女性が中絶に追いやられるのは、安心して子を生んで育てられる状況にないから
- 社会が女性を中絶に追いやっているのに、中絶は犯罪とされてしまう
- 女性を自分で考え、決断のできる存在として認めるべきなのだ
- ホスピスケアは死なせるためではなく、残された生命をいかに充実して、納得の行く行き方を貫くかを再重視
- そのために苦痛の緩和
- 安楽死とは相容れない
- 安楽死の形でしか緩和できない苦しみは、ありえない
電子化×
構築主義とは何か 編・上野千鶴子
- 様々な構築主義・構成主義についての論文を集め、論者に共通する確かな定義がないconstructionismを定義づけて説明しようとしている本
- 序章は読みにくいが、例が多いので構築主義についての理解を深めるには役立ちそう
- 構築主義は、社会学のみならず学際的な分野に広い影響を与えてきた知のパラダイムであり、現在の知の布置を知るには避けては通れない里程標である
- 構築主義の基本的な前提は、現実は社会的に構成され、現実は言語によって構成され、世界は物語によって組織化されるというもの
- 一言で言えば、現実は言説によって構成される
- 構築主義が問題にするのは、言語というカテゴリーを欠いては実在に達することが出来ないこと、そしてそのカテゴリーは透明・中立的なものではありえない、という「カテゴリーの政治」なのである
- カテゴリーの政治は、「おまえは何者か」という同一性の定位を要求する
- 「他者性を内包している自己の複数性」が前程されているところでは、同一性を求める問いに答えることそのものを拒絶することが戦略となる
→シナモリアキラの自己同一性(アイデンティティ)?
- 臨床のナラティヴ:病は物語のかたちで存在している。だとすれば、治療や回復は物語の変更としてとらえられる
- だが、ナラティブ・セラピーが行うことを許されているのは、セラピストがクライエントと共に、新しい物語を共著で書き進めることだけ
- 病が物語だとすれば、治療もまたひとつの物語だから
- 記述は、物語の形式をとると同時に、記述する自己を物語として構成する
- 自らの言説がもつ政治性をめぐる議論の余地を、つねに開いておくこと
- 記述という実践に徹する「真実」という言説の持つ政治的効果について知ってしまった後にどのような実践が有りうるのか、明快な答えがあるわけではない
- だが、社会構成主義を実践するということは、このような自己言及性を引き受けるということを意味する
- スペクターとキッセ:社会問題「何らかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動」であり「クレイム申立活動とそれに反応する活動の発生や性質、持続について説明すること」が社会問題の理論の中心的課題である
- 誰がどのような状況下において、どういうクレイムを申し立てたか、逆に何が申し立てられなかったのか、それが構築主義の経験的研究が目指すべき地平
- E・H・カー:歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」歴史は常に「再審」に対して開かれている
- 「見る角度が違うと山の形が違って見えるからと言って、もともと、山は客観的に形のないものであるとか、無限の形があるものであるとかいうことにはなりません。
- 歴史上の事実を決定する際に必然的に解釈が働くからといって、また、現存のどの解釈も完全に客観的ではないからといって、どの解釈も甲乙がないとか、歴史上の事実はそもそも客観的解釈の手に負えるものではないということにはなりません」
→【猫の国】の歴史学とゼオーティアの歴史の違い
- フェミニズムが目指すべきは、ジェンダーの意味作用の構築性を明らかにし、その作用を無効化することである
- 本質主義に対抗する言説は、性差の存在を否定する必要はない。性差は存在してもかまわない
- ただしそれは人間社会にとって所与たる『本性=自然』ではない。半本質主義者はただそのように主張すればよいのだし、実際ジェンダーという概念はそのための道具として開発されたのだった
- もしも性別ー性差ー性役割が、真に人間を分け隔てる本質として自然なる身体そのものに書き込まれてあるならば、どうしてこれほどの社会制度と暴力とが、その維持と拡大のために動員されなければならないのだろうか
- 本質が語られなければならないのは、本質などどこにも存在しないからである
- それでもなお、人は身体としての自己に本質を見出そうとすることがあるだろう
- だがそのように言えるのは、すなわち抵抗のさなかで、生きていくために必要なものとしてのアイデンティティを肯定できるのは、女や男というカテゴリー無効であるような世界を遥かに、微かにではあれ展望しうるからこそではないだろうか
- そのような批判の可能性すらが存在しないところでは、アイデンティティであれ本質であれ、いまだ肯定/否定のいずれもが意味を持たない白明の中で、ただ曖昧な現状追認に資するほかはない
- 本質主義:多様であるはずの諸特性を、時空を超えた本質に還元し、内部においては同質性を、外部に対しては異質性を絶対化する思考
- しかしそもそも、本質主義とは、構築主義による批判の対象としてもっぱら措定され、その差異が示す内容もコンテクストに合わせて可変するものである
- よって、本質主義は何の本質も持たない
- 構築される現実を自明視しないとき、「いま、ここ」での在り方とは別様な構築の可能性は残されている。ここに希望を繋げたい
幸福はなぜ哲学の問題になるのか 青山拓央
- 選択の基準として必要な概念である、幸福と幸福論を分析した本
- あるいは、幸福という【邪視】についての本である、と言っても良いかもしれない。
- この本は、幸福論を快楽説・欲求充足説・客観的リスト説に分けたあと、さらにそれに「何」と「なぜ」の階層構造を加え、私たちの幸福の捉え方を整理している
- また、ミヒャエル・エンデ『モモ』に出てくる「時間」は、灰色の男たちの「〈上昇〉に価値を置く時間」とモモやその仲間たちの「〈充足〉に価値を置く時間」に分かれるが、
- そのどちらか一方だけが「本物の時間」だと考えるのは、きっと間違いだとも、この本の著者は述べている
- 加えて、この本は筒井康隆『モナドの領域』へのアンサーでもある(その部分は、おまけとして書かれていて、無視することも可能)
- 『モナドの領域』は、ライプニッツ由来の「可能世界論」を発想の起点にしており、そこに登場する「GOD」は、選択ということをしない創世主である
- この本と『モナドの領域』を合わせると、そこにもう一冊の本が浮かび上がってくるそうだ
幸福論、小倉千加子、中村うさぎ
- 心理学者と欲望を追求した作家、女二人のゆかいで深い対談の本
- 自分そのものの美の追求に行き着くと、嗜癖(依存症)は終わる
- 私という外見から、私を読み解くな、と
- 他者の視線に映るもの、そのものになりきることによって、もはや他者の視線を必要としなくなる
- オウムの人だって、他者に依存しながら他者と差別化したい。軽蔑すべき俗世間があるからこそ、自分のプライドを保てている
- 「絶対的な真理がこの世にあって、それを手にいれないと人間には生きてきた意味がない」は中村も同じだが、彼女は全ての欲の追求(嗜癖)でそこへ辿り着こうとしている
- とくに女性にある生き方のジレンマ。「実現されなかったもう一人の私」から何を選んでも逃れられない
→ルウテト?コルセスカ? - 匿名のネットでは、毒を吐き散らす人間と癒されたい人間は、個人の中で別HNで共存している
- どうやって孤独や不安に耐性を持ちながら、なおかつ人に毒を吐き散らさないような理性を維持できるか
- 自分に与えられた苦を、単に他人に移し変えたい
- 誰かに毒を吐き散らしたい。責任は誰かに取ってもらいたい
→サイバーカラテ願望?
- 先鋭な、イデオロギーと関係ない方向に向かう感受性が、ほんとうに微妙な差異化に一生をすり減らすために使われている。鈍感を笑い、自分が誰かに優越するために
- オタクは「誰にも理解されなくてもいい」と思わなくてはやっていけないが、理解されたいわけだから、オタクどうしでより集まっちゃう。
- そうしたら優劣のつけあいが生じて、オタクの社会が女子校化する
- 女子校社会の原理、自分が個性化するために、他者(新しい価値観を導入する子や上にいる人たちを)をつねに模倣し続けねばならない
- 桐野夏生『グロテスク』:怪物的な美人が女子校ヒエラルキーを揺るがす
- 社会的存在としての人間は、達成感、達成動機を持つ。効率の法則では説明できないものが、人間にはある。
- 損失をこうむるかもしれないけれども目標を設定してそこに到達するための努力をする。それが神に代わる超越的な存在を求めたがるカリスマ求める傾向
- カリスマが完璧でなくても、その人から学んだ自分は、必ずその分だけなにかが増加している。自分の中で意味を見出だしたいと思う限りにおいては、着実に何かが蓄積していく
- きっと必ず、女性の中から女子校的価値観を俯瞰する人が現れる
- 小倉さんの心理学の先生「人生というのは自殺を一日伸ばしにするプロセス」「もし、それが明日でもかまわないなら、今日一日生きてみればいい。そう思って、少なくとも三日間生きてみなさい」
- 人生の意味は「僕だってその意味を探してる」「先人たちも、皆、探してきた」
- 中村:殉職すべきものが見つからないこと、それ自体が生命力になってるかも
恋する文化人類学者 鈴木裕之
- フィールドワーク先で、結婚してしまった文化人類学者の話
- 「われわれ意識」は「他者意識」と対になって発生する
- 他者→自分の呼称を自分自身が名乗ることで、その場におけるアイデンティティを得ることが出来る
- 他者を意識することによって、自らを意識している
- 巻末の参考文献が、すごく豊富な本でもある
高校倫理からの哲学4 自由とは 直江清隆
- 「選択」の前提として必要な「自由」についての本
- ウィトゲンシュタインの引用に加え、さらにロボット義手のケースを考察「私が腕を『上げる』という事実から、私の腕が『上がる』という事実を引いたら何が残るのか」=自由意志はあるか?
- 随意運動において、無意識的なプロセスが重要な働きを担っていたとしても、だからといって「手を動かそうと意志した」という自覚がなくなるわけではない
→サイバーカラテと、腕だけになるシナモリアキラ(特に『断章編』の演劇において) - 私は私を考えることが出来るが、それは「右手がその右手自身をつかもうとしている」のと同じ
- 「命令される私」がいて命令者が外にあるとき「命令される私」には自由が無い
- その「外の命令者」には、他人だけでなく掟や常識、空気や神、そして私に命令する「私自身」も含まれるのだ
→自分の意志で自由に行動するとき、そこには常に自分に操られるという不自由がある - 言葉と共に共有されるものの例としての、フランス兵捕虜が心の支えとして創り出した「架空の女の子」のエピソード。
→呪文によって、存在認識を共有される幻想の魔女たち - 自由とは、自然から出て自然を超えるもの。本能ではなく、悩んで自己犠牲したり他者を助けられるのは、人間だけ
- 運命と意志は、二者択一ではない。
- 近代は、経済上り調子だったから、意志と努力的な生き方がもてはやされた
〈個〉からはじめる生命論 加藤秀一
- 「生命」を前提にした倫理、いわゆる「生命倫理」の問題設定を批判している論考本
- 『ドラえもん』から、よしもとよしとも『ツイステッド』漫画版『風の谷のナウシカ』フレッド・セイバーヘーゲンの短編SF『バースデイ』などのフィクションについても触れており、分かりやすく面白いが当然ネタバレがあるので注意
- 中絶、生まれないほうが良かったという主張をめぐる「ロングフル・ライフ訴訟」、私という存在にまつわる不安など、その独自の視点からの考察には、一考の価値がある
- また〈誰か〉をめぐる倫理には、ロボットにまで射程が及ぶところがあるし、アにも出てくるコヘレトの言葉が引用されているところもあったりもする
- 存在してなかった場合との比較は論理的には出来ない
- だが、「生まれないほうが良かった」と思ってしまうその苦痛は、感情的に放っておけないのもまた確か
- 我々が本当に問題にしているのは「生命」などではなく、呼びかけることが出来る〈誰か〉なのではないだろうか?
- 倫理にとって重要なのは「生命」ではない
- 私たちが互いに呼びかけあうとき、あるいは呼びかけようとするときに、その呼びかけが差し向けられる点としての〈誰か〉であり、そのような〈誰かが生きている〉という事実こそが、守るに値する唯一のものなのだ
- 私たちは、自分が、自分の手の全く及ばない他人のある特定の目的のために、その手段として生み出されたと知ったときには、いいようのない心のざわめきを感じるのではないだろうか
- それは、私たちは、自分がかけがえのない人称的存在者――〈誰か〉――であることを求めているからではないだろうか
- そして同時に、もうひとりの〈誰か〉である相手に向かって呼びかけ、また呼びかけられることをこいねがっているからではないだろうか
→ラクルラールに操られたアレッテとミヒトネッセ、アマランサス、超越者たちに振り回されるユディーア?トライデントの目指す青い海の否定?
- 〈非在者の騙り〉=存在者があたかも非在者であるかのようにして語ることに対する批判
- 存在しない者は、いかなる意味でも語ることが出来ない
- だから、そのように非在舎(死者や中絶された胎児など)の名を主語として一人称でなされる発話はすべて、ある生者が自分の主張に特別な重みをもたせる効果を狙った〈騙りなのである
- 語ることの出来る死者は単に死んでいないのであり、語ることの出来る胎児はもはや胎児ではない
- これは、もし死者が生きていたらという種類の反実仮想一般とは異なる
- そうした発話の問題点は、ほんとうにそうかどうかは(残念ながら)わからないというだけのことである
- だか、きっとそうであろうと生者たちが信じることはできるし、そこに矛盾はない
- これにたいして、例えば「死者の無念」といった概念が使用される発話は、典型的な〈非在者の騙り〉である
- もはや語ることも、感情を(「無念」であれなんであれ)抱くことも出来ないということこそが、まさしく死者であるということの意味であり、そうであるからこそ氏は無残なのだ
- 私たち生者が使う死という概念は、死者との隔たりを絶対的なものと認めながら、それゆえにその隔たりを乗り越えたいと願う両義性をその本質的な構成要素としている
- それにも関わらず、〈非在者の騙り〉がその隔たりを軽々と乗り越えたようなふりをして、実は死者を生者自身の政治に動員し、利用することを、われわれは批判してきたのである
→『死者の代弁』の否定
- 私たちが別の誰かから生まれたこと、別の誰かを生むということは、「生命」の平面で退屈に反復される「生殖=再生産」などではなく、まったく新しいことのはじまりとしての「誕生」である(『人間の条件』
- あえて乱暴に言えば、一個の人とは、それだけですでに一個の「新種」であり、空前絶後の「怪物」なのだから
- アーレントによれば、「活動」の人間的条件は「多数性」に、すなわち「地球上に生き世界に住むのが一人の人間ではなく多数の人間であるという事実」に対応している
- それは単に複数のヒト個体がいるということではない
- もしも人間というものが、単一のモデルを際限なくコピーしてつくられるようなものであれば、それぞれの人の本性や本質は全て同一で、一人を調べれば他の個体のことも予測できてしまうことになるだろう
- そしてもしも、人々がそのようなコピーの乱雑な束に過ぎないなら、活動、とりわけ言葉による議論などはほとんど無意味だということになるだろう
- なぜなら、そこでは同じような意見が延々と交換されるだけだろうから
- けれども、現実の人間はそのようなものではない
- 誰一人過として、去や未来にいる他人と決して同一ではない
- 差異ある者同士のあいだで交わされる活動は、世界のなかに、それまでは予測されなかったような新しい契機「始まり」をもちこむ
- しかし、その新しさは人間の唯一性に始源するのである
- したがって、新しい人の「誕生」は、つねに奇跡という相を帯びる
- なぜかというと、それはまるで到底起こりうるとは思えなかったことが、わずかな確率の網をくぐり抜けて、こともなく起こったようにみえるからだ
- 「種」のレベルで捉えられた「生命」にはそのようなことが起こらない
- 種においては、ヒトからはヒトしか生まれず豚からは豚しか生まれないというように、保守的な再生産の論理が支配しているからである
- 人を「生命」という大いなる実体に還元することで権威づけることが人間的なのではない
- まったく反対に、無人称な「生命」の論理を超え出た次元で生きることができるという事実こそが、最終的な人間の条件なのである
- このことをさらに深く理解させてくれるのが、アーレントの「赦し」をめぐる議論である
- 復讐は生命の自然であり、それを止める原理は元来存在しない
- それにも関わらず、あなたは相手を赦し、復讐の応酬を断ち切ることが出来る
- そのときあなたは生命の論理を超え出たのであり、ひとつの奇跡をなしたのである
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心の分析 バートランド・ラッセル
- 世界五分前仮説
個性を捨てろ!型にはまれ! 三田紀房
- 東大合格を請負う漫画『ドラゴン桜』の作者による「型」賛美
- 個性を捨てて「型」にはまれば、とりあえず上手くいく
- どんな内容の表現にせよ、なんらかの制約があった方が上手くいく
- 真に「個性的」であるとは「人の役に立つ」ということ
- 発明よりも模倣と応用
- 成長が止まらないように、常に新しい「型」を見つけて「脱皮」しよう!
→【サイバーカラテ道場】のスタンス
この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代 雨宮処凛:編著
- 障害者施設での大量殺人事件をめぐる対談集
- 「私自身の「内なる植松」との対話」など、事件に影響を与えている近年の社会的風潮に重点を置いている
- わずかだが、優生学的な価値観に対抗する思想が、しっかり語られているのが良い
- 自己責任バッシングの15年:誰かを蹴落とし続けないとリアルに死ぬという危機感
- 「剥奪感」:社会的排除に社会的包摂で対抗しようとしていた時代から、被害者意識で敵を攻撃しようとする時代に
- 障害者の集会での発言「生まれ変わっても障害のあるじぶんがいい。障害のある自分が好き」
- だけど、障害があろうとなかろうと、いまの世の中には、「このままの自分」でいることがでいることが「罪」とされるような空気が満ちている
- 自己肯定感を持つことが、内なる優生思想への歯止めになるだろう
- 植松被告のようなマイノリティをモンスターのように見て社会から排除することは、むしろ問題を解決から遠ざける
- 「死ぬなら一人で死ね」という言説は、むしろ同種の凶行を誘発してしまう
- 植松被告の統治者目線/権威主義的パーソナリティ、
- 彼自身がAIかBOTのようにも思えます
- ネット上を飛び交う言説を吸収してディープラーニングをくり返すうちに、そういう発想を偶然持ってしまった、というような
- ネトウヨはデマ情報と同じ、助けようと思うならそれを信じている人を頭から否定しないで、背景にある不安や苦しさに共感するところから始めるべき
- ひきこもりやオタクだとか、一律の属性であいつはあぶないと決めつけてはいけない
- 植松被告は、障害に対する理解があまりに不十分で、「心失者」なんていう粗雑な定義を勝手に作って、彼らに生きる価値がないと決めつけてしまった
- 障害を持つ人たちの発する言葉を、彼は聞くことが出来なかったし、自分の声すら無視して大きなストーリーに没入していたのでは?
- 障害とは「社会と個人の間のミスマッチが生み出すもの」
- 急速に変化する社会構造が、身体的に障害を持たない人をも障害者にしているのではないか?
- 潜在的な障がい者であるにも関わらず、自分の皮膚の内側にそれを説明できるものを持たない彼らは、それを代替するストーリーを求めてしまうのではないか
- どうしてがんばっても親世代のような生活が出来ないのか、その理由を探しあぐねるうちに「あいつらが特権を持っているからだ」というような特定の層への敵意を見出してしまったのでは?
- マジョリティの当事者研究、マジョリティ固有の苦しさを言語化出来る場が必要
- マジョリティのほうが自分の苦しさを語る語彙を持たないがゆえに、おかしなストーリーを信じて、あたかも自分の本音かのように語る感性におちいっているのかも
- 自分は貧乏くじを掴んでいる、というマジョリティの被害者意識・排外意識を排外主義につなげるのではなく、もっと弱さや生きづらさを開示することで連帯できないか
- 本当の加害者はマイノリティではなくて、「生産性の高さ」で人の価値を測り、すべての人を「不要とされる不安」に陥れている思想なのだ
- 社会学者平井秀幸:慎慮主義:社会の秩序に順応的であることを過剰に求める傾向、先進国で強まっている
- LGBTQや障害といった多様性に対する理解が進む一方で、それらが尊重されるのはあくまで秩序に反しない限りで、少しでも問題を起こせば共同体から追いやられるというわけです
- コミュニケーションというのは摩擦のような部分があって、言ってみれば「和を乱す」ことからしか始まらないという麺があるのですが、それを避けようとするあまりに、コミュニケーションそのものが成立しなくなっていると感じます
- デフレなら足りないのは供給でなく需要のはず
- 素朴かもしれないが、本来あるニーズが十分に市場化されていないことが、この間起きている現象のストレートな解釈なのではないかと思うのです
- 生産性より必要性のほうが優位:誰かの必要性を満たして、はじめて二次的に価値が発生するのが生産性
- 言い換えれば、「堂々と生きていていい」ということ
- べてるの家、幻聴や近況を話し合うことでお互いの世界を共有しあう
- それぞれの見ている世界は違うが、それを持ち寄って共有する中で現実が立ち上がってくる
- 社会的な包摂だけでは解決されない実存的な不遇感というものも存在する
- 植松被告にも、醜貌恐怖あったのかも
- 自分が嫌いで肯定できない感覚がアディクション的に存在したセルフネグレクト/あるいはセルフヘイト
- ヘイトデモもアディクション、間接的な自傷行為、自分に対する虐待ではないか
- 青い芝の会の人たちは、鏡に映る自分を醜いと感じてしまう感覚を受け止めつつ、そのまなざしをふたたび社会に向けることで、そこから社会を変えていくべきだと考えました
- 加害と被害が同居する自分の内面に向き合うなど、差別やヘイトにも異なるアプローチが必要だと思っています
- そういう実存を生きた人物の性を見つめることで、それを突き破るようにして克服する道を考えたいんです
- それは、「純粋な日本人」を求めて誰かを排除していく社会ではなくて、障害者と移民、さらには動物やAI、ロボットとも家族関係を結ぶような、キメラ的な人間観の上に立つ雑多な社会を創造することかもしれません
→トリシューラが目指す第五階層?
- べてるの由来となった障害者の町ベーテル、ナチスに対抗
- 生きづらさ界のラスボス、べてるの向谷生良
- 統合失調症の人たちの聞く声というのは、その社会の現実を反映している可能性がある(メルロ・ポンティ:文化を取り込みながら人間は自分を作っている)
- 「無差別殺人をしたい」という青年とも、対話して仲良くなれたし社会に溶け込ませられた
- 幻聴のため、小学生の子どもを蹴飛ばしてしまうお母さんとも、擬人化された幻聴と対話させることで和解出来た
- べてるの家:障害があっても、こんなに自由に、楽しそうに生きてられるぞという実例になっている
- べてるは「今日も、明日も、あさってもずっと問題だらけ、それで順調」と生きることの不確かさ、曖昧さ、苦労を大切にしてきました
- だからこそ研究に意味があり、決してユートピアではない
- べてるは「今日も、明日も、あさってもずっと問題だらけ、それで順調」と生きることの不確かさ、曖昧さ、苦労を大切にしてきました
- みんなが自分の言葉で、自分と社会に語り返していくことが大事だし、私達もそれぞれの立場から、あえて自分ごととして語り返していく必要があると思います
- そういうことでしか、この事件を乗り越えられないし、それをもしできたら、彼も変わるんじゃないかな
- 彼のことばを下支えしているローカルカルチャーを、ゆっくりと揺さぶるんです
- 生ごみを黒土に変えるミミズのように
- 彼は、もしかしたら、表向き語られない社会の不確かな現実を取り込んで、ヒーローのようなつもりで"崇高な"役割に逃げ込んでいるのかも
- だとすれば、むしろ矛盾や理不尽なことが多い社会で生きている私たち自身がその現実を語り返すことで、彼も変わらざるを得なくなる
- 「自分は寂しかった」と一言つぶやけるようになるかもしれない
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コミュニケーション 大澤真幸
- 株式会社弘文堂2019年刊行
- さまざまなテーマについての論文をまとめた本であり、主にコミュニケーションを可能にする条件についての仮説が載せられている
- アと関連する話も多く、特に「沈黙の双子姉妹」と「フレーム問題」は、「外部」の参照が重要であるとする点など、かなりアを思わせる
- 研究やデータから客観的な証明を行うような論は、あまりないのが残念だが、興味深い視点を示している本ではあると思われる
- ただし、社会学の専門書のため、大学受験レベルの数学や筆者独自の概念も使用されていて、あまり読みやすくはない
- それでも、文章全体を把握すれば、なんとか理解できる……のではないだろうか
- ジェーンとジェニファーの「沈黙の双子」
- コミュニケーションに本質的に含まれる嫉妬や権力性、ジラールの欲望の三角形あたりの話
- この姉妹は、自分たち以外とは会話することが出来ず、電話によるイタズラや文通、放火などの犯罪といった一方的なコミュニケーションしか取れなかった
- 双子は、お互いを鏡のように模倣して行動するしかないところに追い込まれており、どちらも自分だけの自己同一性を獲得することができなかったのだ
- また二人は、あまりに近接しているがゆえに、互いに感応しやすく、お互いの嫉妬の参照対象になりやすかった
- その肝心の他者が、まったく自分と同じ顔をした、もう一人の自己であったということが、二人を閉じた循環に閉じ込めてしまっていたのだ
- 彼女たちの両親も、西欧で働くために本来のアイデンティティを否定し続けるような矛盾と自己否認の生活を送っており、双子の価値指向の対象として参照されるには不適当であった
- 対等な(拒否・反撃されるおそれがある)相手とコミュニケーションを取るためには、超越的他者や、それに裏付けられた超越論的仮象(たとえば神)を獲得することが必要である
- それが出来なかった双子は、自分たち以外と対等なコミュニケーションを取ることが出来なかったのだ
→幻想参照姉妹がたどる可能性があり得るバッドエンドな未来?ラクルラール第一位とルウテト?自己を確立するために必要な他者を排除してしまうことが、愚かであることの証明? - 双子は、互いに相手に優越するために、異性を巡って争ったりもしている
→マクガフィンでもあるトロフィーな異性、アキラくん
- 自己が呈する二つの相反する性質をいかに説明するか
- 恒常的で安定的な主体性の核としての面と、持続的に変化する意識の流れ
- もし、自己を明示的に定義し、呈示しようとすれば、それは、その都度その都度転変していく何かであるしかない
- 結局、変転する多様な自己を貫くものは、ただの空虚であるというほかない
- 空虚によってこそ、自己の多様性・持続性が支えられているのだ
→幻想参照姉妹を支える空虚であるアキラくん
- 脳という〈社会〉
- 脳は、社会であり社会は脳
- 脳は、「内的な社会性」:互いに他者であるような諸要素の間の競合や奇跡的な調和によって成り立っている
- 脳に内在する他者だけでなく、脳全体に付する〈外的な他者〉が、人間の脳の働きの一貫性を捉えるには必要となる
- 脳科学の中に〈他者〉を組み込むということは、〈自己〉の方に還元したり、内面化することが出来ない、外的な視点を導入することである
- さらには、〈自己〉は、世界の意味を評価する主導権を、外的な視点であるところの〈他者〉に、奪い取られてしまうこともある
→トライデントの話?
- フロイトの「死の欲動」そしてその発想元であるトラウマの反復強迫は、ホメオスタシスを意識の理由とする説では説明できない
- 反復強迫は、苦痛の内に快楽を見出す現象である
- 苦痛のうちの快楽と言ったねじれを説明するためには、その有機体を外部から捉え、経験するような〈他者〉の視点を導入しないわけには行かない
- 快楽を覚える視点と苦痛を感じる視点とは、異なっていなくてはならないからだ
- 〈自己〉が、自身の行動を評価する基準を完全に〈他者〉においているとき、苦痛を快楽と感じる死の欲動のような現象が出現しうるのだ
→ルウテト?
- 無意識の審判は、外部である他者による判定という点で、相対性理論の「光」の位置付けと正確に符合している
- 「どの観測者もそこに追いつかない」という否定性によって、すべての観測者がその内部に入るような総体的領域を境界づける機能を担っているのだ
→紀元槍の穂先?コルセスカの邪視が時間停止である意義?
- 「どの観測者もそこに追いつかない」という否定性によって、すべての観測者がその内部に入るような総体的領域を境界づける機能を担っているのだ
- 人間がフレーム問題を回避している方式の仮説
- 人間が、フレーム問題を非問題化できるのは、無視するという驚異的な能力のおかげである
- 無視するということは、行為の対象の性質・関係を、再帰的・循環的に定義する方途に、よく似ている
- つまり、無視するということは、後続する出来事に対して、それらがこれまでの経験と「同じ」であるということを先取りする態度である
- しかし、その「同じ」ということ自体が、奇妙な構造を持っている
- 例えば、集合論の再帰性は、引き続いて現れるものが、本質的にはこれまでと同じである、ということにもとづいている
- しかるに、再帰的な定義は、かえって、そのような定義から逃れてしまうもの、つまりこれまでとは決して同じではありえないもの、の存在を示唆してしまうのである
- つまり、「これまでと同様な」という態度は、「同様では決してありえないもの」への参照を、随伴しているのである
→ループ世界っぽいゼオーティアにある変化の可能性?「似たもの」を「同じ」にしてしまう『邪視』は同時に差異をも前提としている?イメージの反映による異獣化や同化への抵抗の可能性?
- 「見るなのタブー」
- 見るな」の禁止が働いているとき、能動的なのは男の方であり、女は受動的な対象である
- だが、女が性器を、見るべきではない対象を、まさに、男の視線の受動的な対象として、自ら積極的に供するとき、因果の関係が反転するのである
- 西洋の昔話は否定的な表現しか無かったが、日本の昔話は、積極的に女性を表現している
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コロナと生きる 内田樹 岩田健太郎
- 思想家とダイアモンドプリンセス号の内部をYOUTUBEに流した医者の対談の新書
- 群れるのが苦手な二人が、個人的な印象や持論などを語りまくる
- もはや過ぎ去った時勢についての話だが、日本人の気質や日本のシステムについての話は参考になるかも
- 時間経過につれて、二人の考え方も変化しているが、その違いも含めて思考の糧にするべきものなのだろう
- 感染症は、「すべての国民が等しく良質な医療を受ける権利がある」という原理を採用しないと、解決不能
- アメリカ「医療は商品である」という新自由主義、医療資源は強者に優先配分するべきである
- お金がないと治療受けられない
→新型コロナで無効化された - グローバル資本主義のジャストインタイムの前提は、感染症には適用できない。
- いくらお金があっても手に入らないものがある
- お金がないと治療受けられない
- 日本は、逆に国民皆保険でモラルハザード
- 医療は商品なのか、それとも無料で提供すべきものなのか、この問題には答えがありません
- 医療者たちは、つねにこの矛盾に引き裂かれてきた
- でも、まさに医学と医療制度は、この矛盾に引き裂かれてきたがゆえに、医師たちは良質で安価な治療法を発明し、誰でも良質の医療を受けられる医療制度を考案してきた
- いわばこの矛盾を推力として、医学と医療制度は進歩してきたのだと思います
- 葛藤の中で人は成熟するし、技術や制度も同じこと
- 両立し難い二つの要請に同時に応えようとすることで、イノベーションやブレークスルーが起きる
- シンプルで葛藤のない解に居着いてしまうと、進歩は停止してしまう
→『上』と『下』の二大勢力に引き裂かれるゼオーティア?
- アメリカのディベートは相手を打ち負かすことが目的
- お互いの意見をすり合わせて、それぞれの意見を共に包括できるようなよりスケールの大きい仮説を形成したりはしない
- 自説を譲らないと、いくらディベートしても「最初からあったもの」を超える知見を手にすることはできない
- 議論する前に「もしかすると、あなたの言うことにも一理あるような気もする」ということを双方受け入れるべき
- そして、成否の判断をしばらく「棚上げ」して、それぞれの仮説を同時並行的に走らせ、時間をかけてその帰結を見るということをしたほうが生産的なんじゃないか
- 日本の無謬主義の間違い
- 間違いの定義を示さない
- アウトカムが存在しなければ、結果を出したとか出してないとかは指摘できないという誤った理屈
- コロナは、日本人のこれまでの同調圧力的な生き方を変えようと勧めてくるところがある
- 同調圧力がコロナを広げる
- 生態学的ニッチ(活動時間や空間)をずらすことが、対策として有効
- イノベーションは評価主義になじまない
- 他人とズレている人は、単一の規準で測れない。査定になじまない
- これまでの日本は、評価主義つまり単一規準による序列づけのために、イノベーションや学問を抑圧してきた
電子化○
こんな私が大嫌い! 中村うさぎ
- 自分が嫌いで整形を繰り返した筆者のエッセイ
- 書いてある内容はシンプルだが、実体験を反映しているゆえに説得力がある
- 自分を無理に好きになることもない
- たとえ自分のことが嫌いでも、ちゃんと生きていける方法はある
- 「自分好き」に見える人たちも、実はただの鈍感あったり、無理して虚勢を張っているだけだったりすることも
- 自分が大嫌いというのは、自分への執着の裏返しかもしれない
- 「自分のことを好きでいたい」と思うからこそ、私たちは自分の欠点を激しく憎む
- 「でも、こんなに自分を嫌っちゃう私って、ホントは自分が好きすぎて、自分を実物大以上に考えているのかもしれないな。だって、これが他人だったら、ここまで嫌いにならないもんな」
- 「なんだ、私、自分に期待し過ぎだよ」と思ってみると気がラクになる
- 私に言えるのは、二つだけ
- 「自己評価」というものが、いかに主観的で一人よがりで間違ってるかという事実を、ちゃんと自分でわかっておきましょう、ということ
- そして、そんなものに振り回されて自分が大嫌いなんて思ってる自分を外から眺めて「まーた、そんな大げさに悲観して。アホやなぁ」って笑ってあげる訓練をしてみよう、ということ
- それだけで、あなたはずいぶんラクになるはずだよ
- 「自分の悪いところを他人に指摘される前に発見して、自ら進んでギャグにする」:思ってもいないことをギャグにせず、冷静に自分を見つめれば使えるテク
- 新宿二丁目のオカマたちから、学んだこと
- 自分を笑えることは、ほんとうの意味での強さ
- そして、強さは苦しみの中からしか生まれない
- オカマのもたらす笑いは、自分を馬鹿にされながらも、それを逆手に取って人々を笑わせ、逆に世間に「オカマじゃないあんたたちは、そんなに立派な人間なの?」と問いかける、鏡のような性質を持つ
- 短所と長所は表裏一体
- 長所は視点を変えれば短所だし、逆に言えば短所も長所になるはず
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