推薦図書
- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
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- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
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- 編集カラテ入門
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*** タイトル
-説明1
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- 推薦図書
- 思想
- ロボット/人工知能/サイボーグ関連
- 狭義の呪術関連
- は行
- パース
- ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 マイケル・サンデル
- 廃棄された宇宙像―中世・ルネッサンスへのプロレゴーメナ C.S. ルイス
- 「排除と包摂」の社会学的研究 差別問題における自我・アイデンティティ 八木 晃介
- ハイラスとフィロナスの三つの対話 バークリー
- 働くことがイヤな人のための本 中島義道
- 反逆の神話 ジョセフ・ヒース アンドルー・ポター
- 反共感論 ポール・ブルーム
- 反ニーチェ なぜわれわれはニーチェ主義者ではないのか リュック・フェリー/アラン・ルノー他著
- 「反日」と「嫌韓」の同時代史 ナショナリズムの境界を越えて 玄武岩
- 反ユダヤ主義の歴史 レオン・ポリアコフ
- PEACE!PEACE!PEACE! わたしたちに戦争責任はないのか 編・わだつみ会
- 東アジア歴史認識論争のメタヒストリー 「韓日、連帯21」の試み 小森陽一/崔元植/朴裕河/金哲
- 非・西欧の視座 須恵器文美士 中島隆博・編
- 人はあなたの顔をどう見ているか 石井政之
- 人はなぜ傷つくのか 異形の自己と黒い聖痕 秋田巌
- 人はなぜ働かなければならないのか 小浜逸郎
- ヒトはいつ人になるのか 生命倫理から人格へ 村松聡
- 人は語り続けるとき、考えていない 河野哲也
- 人はなぜ物語を求めるのか 千野帽子
- 暇と退屈の倫理学 増補新版 國分功一郎
- 表現の自由に守る価値はあるか 松井茂記
- 「表現の自由」の明日へ 志田陽子
- ファッションと哲学 編:アニェス・ロカモラ&アネケ・スメリク
- ファッションの哲学 井上雅人
- 「ファット」の民族誌 現代アメリカにおける肥満問題と生の多様性 碇陽子
- 不快な表現をやめさせたい!? こわれゆく「表現の自由市場」 紙屋高雪
- 不健康は悪なのか 健康をモラル化する世界 J・M・メツル A・カークランド
- 不思議なテレポート・マシーンの話 なぜ「ぼく」が存在の謎を考えることになったか? 飯田隆
- ブッダの幸福論 アルボムッレ・スマナサーラ
- 部落差別を克服する思想 川元祥一
- プレイヤーはどこへ行くのか デジタルゲームへの批評的接近 編・限界研
- プロカウンセラーの共感の技術 杉原保史
- 文化としての暴力 服藤早苗 赤坂俊一:編
- 隔たりと政治 統治と連帯の思想 重田園江
- 暴力 手すりなき思考 リチャード・J・バーンスタイン
- 暴力と富と資本主義 萱野稔人
- 暴力をめぐる哲学 編著:飯野勝己 樋口浩造
- ぼくが発達障害だからできたこと 市川裕司
- ポストヒューマン 新しい人文学に向けて ロージ・ブライドッティ
- 母性のディストピア(文庫版) 宇野常寛
- ポピュリズムとは何か ヤン=ヴェルナー・ミュラー
- ポピュリズムの理性 エルネスト・ラクラウ
- ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 吉田徹
- ホワイト・フラジリティ ロビン・ディアンジェロ
- ほんとうの構造主義 言語・権力・主体 出口顯
- コメント
思想
ロボット/人工知能/サイボーグ関連
狭義の呪術関連
は行
パース
- 記号学の確立者
- 「思惟と論理は不可分の関係にある。なぜなら人間の思惟は類似を通して前に進んでいるからだ。」
- 遡及的推論(アブダクション)を帰納・演繹に先立つ推論として重視→「遡って、フィリス」
ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 マイケル・サンデル
- 2010年にNHKで大評判を呼んだ番組と東大で行われた授業の内容を書籍化したもの
- 東大での授業も前後編で上下巻に分割されているのは、少し読みにくいかもしれない
- サンデル教授が、学生同士の意見交換や議論をうながしながら、政治哲学、公共哲学について楽しい学びを実現させている様子が伝わってくる
- 講義の中でも、結局すべての人が合意できる答えは出ていない
- だが、教授はそれでも生きているかぎり正義について議論することは避けられないとして、議論を避けそれぞれの原理に閉じこもろうとする懐疑主義を否定している
→『道徳』、正義、『絶対言語』、自由、選択、安楽死や全てを金銭価値に零落させるグレンデルヒの闘争的資本主義、コミュニティへの忠誠、愛国心、『鮮血呪』など - また、東大での授業では、愛国心や現代人は所属するコミュニティの過去の責任を負うべきか、コミュニティの文化の連続性という議題を、
- 戦争責任やオバマ(当時)大統領が原爆投下を謝罪すべきか、といった具体的な例を通して考えている
- サンデル教授はコミュニタリアンではあるが、ある時代のある特定のコミュニティにだけ通用する考え方を正義として絶対化することには反対
- 「善ありし正義」特定の共同体に限定されずに、善との関係で正義を考えなければならない
電子化◯
- 「善ありし正義」特定の共同体に限定されずに、善との関係で正義を考えなければならない
廃棄された宇宙像―中世・ルネッサンスへのプロレゴーメナ C.S. ルイス
- 本書において読者の眼前に中世ヨーロッパに流れ続けた壮大・絢爛たる宇宙観が再構築される
- それは、聖書およびギリシャ・ローマの古典たちの相矛盾する記述を、「それでもすべて真実の描写であるはずだ!」と歴史上の賢者たちが寄せ集め建築した尊敬と愛の結晶である
電子化◯
「排除と包摂」の社会学的研究 差別問題における自我・アイデンティティ 八木 晃介
- 様々な学問の観点から、差別に関連する概念を研究している学術書
- その内容は、哲学に近い
- 専門用語などは少ないが、やや難解な内容
- 境界や他者、ゲカレなどを扱っている
- ケガレは再生的エネルギーに反転可能
- 開き直り、清浄化してはならない
- あえて受け入れ、そこから社会批判と変革を目指すべし
- 自己・非自己・他者のトリアーデ
- アイデンティティ論自我論の観点からの臓器移植批判
- 自己の中に含まれた他者性
- 免疫系が自己を規定している
- 外部から来た存在に対し、拒絶と寛容の二つを使い分けることで初めて生きることが出来るように
- 自己を滅却して、初めて無原則な他者受け入れが可能となる
- 自己は、社会と相互作用し、その改変だけでなく規定し返すことも可能
電子化×
ハイラスとフィロナスの三つの対話 バークリー
- 「存在することは知覚されることである」
- 邪視者。言語魔術ぶち殺すマン。
- 心の哲学まとめwiki>バークリー
電子化×
働くことがイヤな人のための本 中島義道
- 哲学系ドロップアウト組のための本
- どちらかと言うと【E・E】嫌いの人向け
- 他者との衝突を思索に不可欠とするあたり、『言震』のあるゼオーティアとは相容れない思想なのかもしれない
- きみが自分の固有の思索を展開したいのなら、他者を避けてはならない。
- きみの思索と異質な、天と地のように異なる他者に次々にめぐり合い、彼らからめためたに切りつけられなければならない
→世界槍を巡る対立、四魔女に必要な、ゼノグラシア/グロソラリアの使い魔の存在意義。 - 金との引きかえという容赦のない構造の中で、きみが自分に真摯に問いかけるとき、きみの抱いている理想が本物かどうかわかる
→トリシューラに対するアキラくん。あるいは、トリシューラの自己実現。
電子化◯
反逆の神話 ジョセフ・ヒース アンドルー・ポター
- ヒッピーやロハスなど、消費スタイルや奇行によって人々の意識を変革し、体制に反逆しようとする文化=カウンターカウチャーを批判している本
- 先進国であるドイツで生まれたファシズムへの恐怖やフロイトやマルクスの影響などのカウンターカルチャーが誕生した経緯と、その個別事例の記述が豊富
- かなり資本主義的だったアメリカ先住民族の話など、一般的なイメージを覆す記述も多い
→イアテムなど - 最終的には、消費主義対策として(根本的な解決にはならないとしながらも)累進的な所得税を提案している
- 抜粋・要約
- 旧弊な慣習への異議申し立てと、単に破壊や快楽追求するだけの逸脱は、区別しなければならない
- 人間の意識と文化の完全な変容には至らないどんな提案も拒むことで、カウンターカルチャーの活動家は、いたずらに問題を悪化させてしまった
- 結局のところ、文明とは、ルールを受け入れ他者のニーズと利益を尊重し私利の追求を抑えるという、僕らの意志のもとに築かれるものだ
電子化◯
反共感論 ポール・ブルーム
- 共感=他者が経験していると自分が考えるあり方で、自らが世界を経験するようになること。アダム・スミスの同感(sympathy)
- どちらかというと「共感絶対肯定派への反論」とか「理性にもとづく思いやりを再評価しよう論」といった方が正確な本
- 共感は、スポットライトを当てた個人をえこひいきしたり、戦争などの暴力を支持することにつながる
- 倫理学者テイジ・ライと人類学者アランフィスク:道徳的正当化が、暴力や残虐性の主要な原因である
電子化◯
反ニーチェ なぜわれわれはニーチェ主義者ではないのか リュック・フェリー/アラン・ルノー他著
- ニーチェとともに、ニーチェに反して考えようとしている論集
- 野獣、詭弁家、唯美主義者ーー「幻想に仕える芸術」/アンドレ・コント=スポンヴィル
- 真理を真理以外のものに従わせる思想を、広く詭弁術[ソフィスト論法]と呼ぶことが出来る
- 詭弁学とは論理学上の相対主義であり、その誘惑は要するに次のような三段論法から生じうる
- すなわち、あらゆる価値は相対的である
- しかるに真理は一つの価値である
- ゆえに真理は相対的である
- この推論を回避するには小前提、つまり真理がひとつの価値であることを否定するしかない
- もちろん、真理が個々の誰かにとって価値を持ちえないというのではない(真理を愛する者にとっては価値がある)
- しかし、真理は価値を持つから真なのではない
- 価値は真理の本質を規定するのではなく、真理に対するわれわれの主観的関係を規定するのである
- ニーチェ主義は転倒したプラトン主義であり、価値は存在するというプラトンに対して、ニーチェは存在は価値を持つ、言い換えれば、存在は一つの価値に過ぎない、と主張している
- 真理は存在しないと主張したとしても、その主張自体が真実か否か問われる
- 解釈しか存在しないという主張も一つの解釈に過ぎない
- ニーチェの「事実は存在しない、解釈しか存在しない」というのは論理学的あるいは哲学的に疑わしいだけでなく、道徳的に見て危険
- 蒙昧主義や無知とどうやって戦うのか
「反日」と「嫌韓」の同時代史 ナショナリズムの境界を越えて 玄武岩
- 日韓関係における「境界」の意味を問い直すことで、絡まり合う「反日」と「嫌韓」の同時代史としての歴史的空間を浮き彫りにし、「境界」の解体に向けた道筋を指し示そうとしている論考集
- 日本国民は戦争の被害を等しく耐え忍ぶべきだとする「戦後被害受任論」を否定することで、コリアンの被爆者やサハリン残留などの国境を越えた戦争被害者の連帯、ひいてはアメリカ主導ではない東アジア共同体の構築を提案している
反ユダヤ主義の歴史 レオン・ポリアコフ
- キリスト教とイスラム教、二つの宗教圏を生きたユダヤ人たちと反ユダヤ主義の歴史をまとめた本
- 神殺しの罪を問うキリスト教とイスラム教、二つの宗教の態度の違いも描いている
- ゴルゴダの丘から二十世紀まで、全5巻にわたって書かれている
- 「出エジプト記」が創作されたエピソードであることが前提とされていたり、読むには基礎知識が必要
- 反ユダヤ主義が強まったのは、かつてはユダヤ教内の地味な一宗派だったイエス派が、パウロによって過激な異端宗教として独立したから
- イエスが神としてみなされるに伴い、神殺しの重い罪と責任がユダヤ人に帰せられるようになった
電子化×
- イエスが神としてみなされるに伴い、神殺しの重い罪と責任がユダヤ人に帰せられるようになった
PEACE!PEACE!PEACE! わたしたちに戦争責任はないのか 編・わだつみ会
- 日本の戦争責任に対して、『きけ わだつみのこえ?日本戦没『きけ わだつみのこえ?日本戦没』を出した反戦団体・日本戦没学生記念会(わだつみ会)が寄稿文を集めた本
- 冒頭から「欺(騙)されていた責任」(渡辺清『砕かれた神 ある復員兵の手記』)という概念が引用されており、
- 本全体のムードを示している
- ただ唯一、在日朝鮮人の立場から語る竹田青嗣氏の「戦争と差別へのフィロソフィー」だけは異質であり、
- 理想主義や罪悪感のもたらす弊害を説いていて、見るべきものがある
- 竹田氏は、抑圧された共同体は、たいてい抑圧する共同体と同形のナショナリズムを作り、
- 政治的な排外主義と権力構造をもたらしてしまうと、自らの体験から語っている
- これは、抑圧する側よりはずっと正当性こそあるが、
- やはりそれを批判されない絶対的なものにしてしまうのは、問題であるというのだ
- そして氏は、戦争や差別をその原理を取り出して対策を考えよう、と主張しているが
- 日本の戦後思想は、やはり過去の戦争への罪悪感から、問題を冷静に考えられなくなっているとしてもいる
- 日本と朝鮮の問題の根本には、国民国家のナショナリズムや近代的国家原理という、近代国家全体の問題があり、
- それへの対策としては、いかに現在の国家からそれらを抜き取っていくか、を考えねばならないのだ
- また、氏は戦争の原因として、人間が自我をもつゆえに氏の不安と字が拡張欲を持つことを
- 差別の原因として、アイデンティティ不安による補償を挙げており、
- それらを、日本の思想のように「人間の醜い欲望」を否定するような理想主義的な対処ではなく、
- ルールや制度といった社会的な条件によって、漸減させていく現実的な対策を提言している
- 最後に氏は、自分たちが前の世代の概念や思想の用語を借りつつ、全く新しい思想を展開してきた経験を語り、
- これからの若者たちに同じようにふるまって、新しい時代を築いていくことを期待している
- はたして、その期待に応えられる若者は、現れるのだろうか……?
- 竹田氏の言説の要約・引用による補足
- ヘーゲル「自己意識の自由」=人間の欲望は「自我」への欲望であり、その確認には「他者の承認」が必要
- 承認はそう簡単には手に入らないため、人間は手っとりばやい方法で自分のアイデンティティを強めようする=差別
- たまたま自分が所属している共同体の一般通念を利用して相手を貶め傷つけることで、自分のアイデンティティを持ち上げる
- 自分の内心の操作だけによって、アイデンティティを補強しようとする行為
- 差別の心根は、人間社会のあらゆる序列を利用します
- だからといって、価値の序列自体が「差別」の本質ではない
- むしろ「差別」の本質は、価値の序列を利用して、ズルイ仕方で自分を持ち上げる、その心根にあるのです
- 差別をなくす原理
- どんな人間もルールのもとで対等であるという市民社会の原則を、社会派十分に実現すること
- ルールを守るかぎり誰でも社会の成員となることが出来るし、ルールを変更する権利も持つことが出来る社会にするべき
- そしてアイデンティティ不安への対処として、社会的な流動性と文化的な多様性を大きくすること
- 流動性の高い社会、多様な「生のゲーム」が可能な社会では、誰でも自己実現が容易にできる
- そうなれば、「差別」も、不必要でダサいものになっていくにちがいない
電子化×
東アジア歴史認識論争のメタヒストリー 「韓日、連帯21」の試み 小森陽一/崔元植/朴裕河/金哲
- 韓日の有志が4年間、真摯な討論と交流を続けたシンポジウムの成果であり、韓国でも出版された論文集
- 韓国側が、自国のナショナリズムを自省し被害者意識だけに囚われない歴史や韓日関係の検証をしているのに対し、日本側は韓日連帯を検討したり、つくる会を批判しているに留まっている感があるのだけが残念
- 結論は出なかったが、複雑に絡み合った解決困難な問題を、課題としてひとつひとつ解きほぐす試行錯誤を通じてのみ、実感されたことも多いという
- 「絶対的被害者」という韓国の文脈では上手く把握できない靖国のコリアンのことや、日本との不和で社会の主流となった人々のことにも触れている論文もある
- 「文脈の共同」:「歴史認識問題」という一つのテーマを論じて仮に「認識の共同」が成り立ったとしても、一方が他方の文脈に入るだけだったり、そもそも相互の文脈から切れた場で議論が行われるだけではダメ
- 実質的な「知の共同」に必要なのは、 相手方の発言をその拠って立つ基盤ぐるみで理解しようとする努力と、それによって得た相手方の文脈によって、今度は、自らの拠って立つ文脈を普段に相対化していく作業の繰り返しに他ならない
- これは「双方の文脈の掛け違いそれ自体を検討の対象として共同認識する」という、矛盾を孕んだ課題である
- そこからも、常に自らの思考や発言の基盤が揺るがされるような「居心地の悪さ」が浮かび上がってくることになる
- ある意味では、そうした「居心地の悪さ」に直面することが、「文脈の共同」の逆説的な本質といえるかもしれない
- 全体の把握を怠った「文化本質主義」批判は、逆に文化本質主義に陥っている
- 民族感情も、文化本質主義批判とバランス良く把握必要?
- 朴裕河:韓日間の過去の克服はいかに可能か
- 謝罪を謝罪として受け入れさせるものが、謝罪する主体に対する信頼であるとするならば、日本に対する不信が私たちの中に残っている限り、日本がいかなる謝罪をしても私たちはその謝罪を受け入れないはずだ
- 結局、謝罪は、謝罪する主体とは関係なく、受け入れる人によって成立するものとも言える
- だとすれば私たちは、私達自身のために日本を赦すべきではないだろうか
- 日本の謝罪が、必要でないといっているのではない
- デリダ:処罰と赦すことは別のこと、「許しは条件なき、(略)恩寵的な贈与でなければならない」
- 「被害者が罪人を理解するやいなや、和解の舞台は既に始まっており」「普通の意味での赦しも始まってい」るのだという
- 赦しのためには「理解」できる知的・情緒的「力」が必要なのである
- 何よりも、日本に対して赦しが必要なのは、私たちの中のジレンマである親日派に対する赦しを可能にするためでもある
- 赦しとは、加害者よりも被害者自身のために必要なものなのだ
- 疑念と警戒心と憎悪から自由になるために、それによる暴力的言葉と行動から自由になるために、ひいては、そのように私たちをいつまでも捕らえて離さない傷によって荒廃した私たち自身の胸を、温かくなぐさめるために
- 和解と共存のためには、不幸な歴史を一つの時代的な悲劇として見つめる姿勢が必要である
- もちろんそのような姿勢が、歴史の忘却と隠蔽になるわけではない
- 重要なのは、どのような状況が彼らを暴君に仕立てたのか=加害者に仕立てたのかを見ることであり、それを後代に伝えることである
- そのとき歴史教育は、過ちを犯した人が誰なのか言い当てるクイズ式教育よりもはるかに豊かなものになる
- そしてそのように育った次世代は、自分の傷とともに相手の傷についてもより深く考えられるようになるはずです
- 日本に対する赦しは、植民地国家としての矛盾を見詰めるという意味でも必要
- 植民地化されてからの、あるいは解放されてからの私達自身の心理の考察。内部の欲望や葛藤や矛盾。植民地化の経験が私たちをどのように歪曲し、新たな矛盾を作ったのか
- 経験を対象化することが可能になるならば、過去の傷を治癒し、新たたに歴史に向き合い直すことが出来るはず
- 『ヨウコ物語』:被害者としての日本人を描き、アメリカで教科書に用いられた小説
- 背景にある植民地主義を問わないストーリーは、植民地はアメリカ以外の国のこととして、アメリカの植民地責任を免罪している
- フィクション=虚構だからこそ、狭い意味での手記や証言に要求されない、一個人の体験を超えた大きな歴史の脈絡への言及や理解・歴史の批判的検討や省察といったことが、その優劣や審美的価値の評価とは別に要求される
- 物語の書き手の自由裁量には、どんなときにも歴史責任が生じているのである
電子化◯
非・西欧の視座 須恵器文美士 中島隆博・編
- 「西欧」/「非西欧」の間にある境界について考え、その上で二項対立をはみだすことを志した論文集
- 「宝積比較宗教・文化叢書」シリーズの8巻だが、独立した内容でこれだけでも読むことが出来る
- 「連帯」を掲げていたはずが「侵略」になってしまった日本の大アジア主義や中国での殺生戒をめぐる対立、マルコムXが所属していた「イスラームの民」の複宗教アイデンティティの可能性など
- アとも関連あるテーマも多い
電子化×
- アとも関連あるテーマも多い
人はあなたの顔をどう見ているか 石井政之
- 顔の美醜に対するコンプレックスを、飼いならす方法を伝えている新書
- 中高生向けではあるが、本人の経験からくる真摯なアドバイスとなっている
- 著者は、顔に大きなアザがある「単純性血管腫」のフリーランスのジャーナリストにして、NPO法人ユニークフェイスの発起人であり元会長
- 『3年B組金八先生』第7シリーズで登場した養護学校の先生、青木圭吾のモデルでもある
- ぼくは、コンプレックスを煽る情報をウイルスに、それを受け取る脳を、コンピューターのハードディスクにたとえてしまいたくなるのです
- 「コンプレックス・ウイルス」に感染すると、脳が誤作動を起こしてしまう、と
- 日本社会には、「アンチ・コンプレックス・ウイルスソフト」として優れた商品ラインナップがまだ揃っていません
- 本書をその試作品として書きました
- 人は、いつか必ず自分のコンプレックスと向き合わねばならない
- 鏡の中自分の顔や体から目を背けたくなる、その居心地の悪さを大切にして欲しい
- その居心地の悪さから逃げないことから、自分の外見をしっかり考えることが出来るようになるし
- 他人の外見を見て「汚い!」と思ってしまう自分の感情を、冷静に見つめるために必要な、大切な心構えができるようになるんだ
- 重要なことは「自分の顔」を起点に、顔について考えること
- しかし、それは難しい
- 鏡や写真を通じて、自分の顔を理解するしかないので、その鏡や写真のイメージによって、「自分の顔」のイメージがくるくる変化していく
- 人は、自分の顔を直接見ることは一生できません
- だから、あなたが知っている「自分の顔」は、自分が作り上げたイメージの塊です
- そのイメージまみれになった「自分の顔」を否定して、本当の自分の顔を見つめることはしんどい
- 不可能に挑戦するようなものだが、しかし自分の顔を見つめられない人は、他人の顔も見つめることができない
- みんな、他人の顔を見たとき、「自分にとって都合のいい顔であってほしい」となんとなく想っている
- 意識しようがしまいが、みんな、他人の顔を見て、気分を害されたくないし、ぎょっとしたくないと願っているようなんだ
- 人が何かを見るとき、意識しようがしまいがその人間がおかれている立場、環境に制約されているんだ
- だから、人間にとって顔とは何か?を考えるとき、その考えている本人の立場をはっきりさせておかないと説得力がなくなってしまう
- 女の子は、絶対に男の子の立場では考えられないかもしれないけれど、工夫次第で、男の子の立場に近づくことが出来る
- その逆もしかり
- 現代に生きる人たちは、みんな群衆の中で孤立している
- そんな孤独な群衆のひとりであるぼくたちが、ひとたび会話を始めることができれば、意外と気持ちが通じ会えるものです
- なぜなら、みんな、自分のことを特別な存在だと思っているが、同時に、自分たちがとりたてて変わったところのない「普通の人間」であることを知っているから
- だから、普通の人間が普通に「ひとりぼっちだなぁ」と感じても、わかりあえることが多いのです
- 理解しあえれば、ひとりぼっちの感覚はなくなります
- 共通点が多い人同士なら、理解できる部分が多くなり、共通点が多い人が集まれば、そこに「普通」ができてきます
- ぼくたちの脳の中には、自分だけの「理想の外見イメージ」がいつの間にか刷り込まれています
- 人間は、自分でつくったイメージによって自信をなくし、普通の暮らしを送ることができなくなってしまう生き物でもあります
- 筆者は、自分で自分の「理想の外見イメージ」に爆弾を投げつけて消滅させてしまった
- その爆弾とは、筆者がユニークフェイスの人びとから聞いたさまざまな事実だった
- 社会の多数派は、肉体や精神のどこかに欠落をもった人たちであることが分かってきたのだ
- 理想の自分とは、欠点ゼロな人間だった。そんな人間いるわけがない
- 一方、中村うさぎさんは、美容整形によって顔を「整形外科医の作品」にすることによって容貌コンプレックスから開放された
- 彼女は、「これは医師の作品であるから、自分はこの顔に責任を取らなくてもいい」と着想したのです
- 十代は、化粧などしない「ゼロ整形」の季節にして、ありのままの自分を好きになれるように、せめて嫌悪しないようにする時期にしよう
- 肉体の装飾や改造は、その成長が終わった二〇歳を過ぎた時にやってほしいと思います
- 成長の過程で、何も加工をしないのに美しくなる時期が、きっとあるから
- せめて大嫌いにににならないように、というぐらいで自分の外見を見つめて欲しい
- 樹木がしっかりと土に根を張っていないと枯れてしまうように、人間の美も、その美を支える肉体がしっかりしていないと、すぐに枯れてしまうのです
- 植物と違って、人間という動物は、他人からの評価、視線なしでは生きられない
- 他人の視線を糧にして、美を作っていく
- それは否定しても仕方がないこと
- ただし、人間にも夜の花のように、他人の視線を浴びないでリラックスして休む時間が必要なのです
- 美は他者との交流によって生まれる、あわい、もろい、はかないもの。美はすぐに手に入るものではない
- 「自分の体のことを一番わかっているのは自分だ。他人の視線が痛い、と思うのは一瞬。私くらい自分の顔や肉体を愛すことができるひとはいない。憎むことができる人はいない」
- コンプレックスの言語化
- 自分で自分の顔や肉体について語るのです
- そして、その言葉が伝わるものになるまで、語り続けるのです
- コンプレックスを解決するには、他人のまなざしをどうにかすることではなく、じぶんので自分の顔や肉体を卑下する悲劇的な考え方をなくすこと
- コンプレックスを語れば、その苦しみに共感する人は必ず登場します
- そうなれば、コンプレックスが生み出す孤立感から脱出することができるでしょう
- 現代の日本社会で、顔や肉体についてのコンプレックスは、個人的な問題ではないのです
- たったひとりで立ち向かっても、敗北するのは火を見るより明らかです
- 自分で自分の顔や肉体をほめる
- コンプレックスは、そのようにほめ続けることで、消えていきます
- 自分の顔や肉体をほめる人は、自分しかいないのです
- そこに選択の余地はありません
- 自分の顔も肉体も、社会のまなざし、評価に覚えるようなか弱いものになったように見えます
- しかし、それはコンプレックスが膨張した人間が狭い島国で密集しているから感じる、壮大な幻想に過ぎません
- 自分の肉体からちょっとでも普通と違う場所を探し出して、コンプレックスを増幅させても何も生まれません
- ちょっとだけ肉体が普通と違う状態こそが、普通の肉体なのです
- 人生のパートナーである、肉体とのつきあいを大切にしてほしい
- 「理想の肉体イメージ」を追い求めても、幸福にはなれません
- 身体コンプレックスという猛獣を飼い慣らせば、きっとそれは、あなたの人生のパートナーとして、大きな味方になるでしょう
電子化×
人はなぜ傷つくのか 異形の自己と黒い聖痕 秋田巌
- ユング心理学派の精神科医が書いた思想書
- マンガや映画などから、著者が見出した人間の理想像について語っている
- 言わば、個人の思いついた世界観についてのまとめに過ぎないが、
- それでも、善悪二元論の乗り越え方を提唱している点だけは注目に値する
- とはいえ、マンガの登場キャラクターである「ブラックジャック」をキリストの先を行くヒーロー「Disfligured Hero」(異形の自己/傷を生きる英雄)として位置づけていたり、
- その対であるピノコやかぐや姫などのヒロイン的元型「Praying Anima」による、彼方からの祈りに救いを見出している点を受け入れるかどうかは、人によるであろう
- キリストが背負った全人類の罪を、人々が自分の背に負いなおすことが、善悪二元論や他者への「悪」の投影をなくす手段てある、とする発想にしても、
- その例であるブラックジャックが体現しているという、「傷と舞う」(=傷とともに生きることで、自らの存在を高みに押し上げる)生き方は、どうみても常人が簡単に真似できそうにないという欠陥がある
- 傷の代償で異能を得たり、「黒い超自我」という邪悪さを得るという話にしても、実際にどう見習えばいいのか、
- あるいは、本当に見習っていいのかはよく分からないのだ
- 作者は、浦沢直樹『Happy!』に他者を変えていく「純粋で強靭な意志」という善性の力を見出し、
それが無知、悪意に「気づかないこと」や、不幸を天が決めたことと受け入れる姿勢によって支えられていると捉えているので、 - とにかく真っ直ぐであれば問題ないと考えているのだろうが……
- 他にも、「原罪」の底に「原傷」を見出す発想があり、独特
- ちなみに、この本のタイトルに対する著者の回答は「それは、人が人となっていくためである
- 人たるゆえんは「傷」にある」となっている
- また本の中では、「見るなのタブー」や、異類としてのアンドロイド、アンドロイド演劇、自分の名前の再解釈、文字を繰り返し書くことで身体になじませる
話も出てくる
電子化◯
人はなぜ働かなければならないのか 小浜逸郎
- 分かりやすい哲学系の新書
- 第五階層(シナモリアキラ)にとって重要な問いへの考察が、いくつか収録されている
- 「国家はなぜ必要か」
- 著者は、佐伯啓思の「一国の歴史的な知恵や文化的な象徴は、通常人が日常生活を組み立てる作法や常識の中にある」という意見には一理あると認めつつ、
- しかしナチスドイツのように「常識」はしばしば「狂熱」に転嫁しうる、というポピュリズムの問題を指摘している
→格闘技にとどまらず、全てのヒトの「振る舞い」をコピー&最適化して普及できるサイバーカラテ道場は、「国家」の維持・形成・文化侵略などにも応用が可能?
→ミームの混交と再編集が、「国民」を形成する。「サイバーカラテの民、シナモリアキラ」が一種の国民として確立できる可能性?
- 「戦争は悪か」
- どういう時に「戦争は道徳的な悪である」と宣言できるか
- 正義とは力の根拠が必要なもの
- 今はまだ空想的で成立に何百年かかろうとも、国同士の戦争を審判できる「世界連邦国家」の成立を目指すべき
電子化×
ヒトはいつ人になるのか 生命倫理から人格へ 村松聡
- 人体の多様な捉え方を通して、ヒトの胚や胎児を人間扱いする人びとの世界観を弁護している本
- イメージとしての体も文化としての体も、主観的なものではない
- 表現は、主観・客観といった認識を表す図式に収まらないタイプの関係である
- 文化としての体:振る舞い、あるいは体や動作を抜きにしては考えられない文化というものがある
- 道具としての体:体を背景として道具は登場する
- 墓へと連続していて、墓と一体な遺体
- 一つの身体観によって体全体を扱うことは、身体観を変容するし、ひいては人格の軽視につながる
- なぜ私たちはヒトの胚や胎児を承認しなければならないのか
- それは、彼らが私たちという他者の承認を必要としているばかりではなく、私たち自身の人格が、他者との関係なくしては成立しないからである
- ヒトの胚や胎児が人格であるためには、彼らにとっての他者、つまり私たちの承認が必要なのだ
- それは、「彼ら」が人格としての要件を満たしているかどうかという問題ではない
- 私たちが、彼らを承認するかどうかという実践的な問いである
- ただし、この前提は胚や胎児の承認を必然的に保障するものではない
- 他者を必要としていることは、どの他者を必要としているかを特定するものではないからである
- けれども、重度の障害をもつ新生児や胎児、そしてヒトの胚に他者としての人格を認める人たちがいる
- この現実は、誰しも無視できないだろう
- この現実がある限り、胎児やヒトの胚は既に人格として考えられなければならない
- なぜなら、ある人たちが胎児などに他者を認めたとき、彼らはその認めた人たちの自己意識の必要不可欠な契機をなしているからである
- 胎児やヒトの胚の人格を否定することは、胎児やヒトの胚を他者と認める人たちの自己意識を否定することになる
- つまり、その人たちの人格も否定することになる
- 自己意識は、私たちが自分をどのように理解しているか、という自己についての知である
- この自己理解が、しかもその基本的な理解が、誰を他者と認めるかによって変わる
- たとえば、生後数ヶ月の赤ん坊による反射的な微笑みに、まなざしを見出すとき、私たちは初めて他者の存在そのものに対する責任を感じるようになる
- 胎児などを他者として見つめるときにも、同様、いやもっと根本的な自己理解の変容が発生する
- ヒトの胚に他者を見ることは、私たちの通常の理解の世界を超えた地点から人間を捉えることだろう
- 人間を私たちの理解によって規定しないことで、自己もまた、自分の理解を超えた地点から意味を持つようになる
- ちょうど、宗教を持つ人々の自己理解のように
- こういう現実のうちに生きている人々がいることを、そして、その自己理解のうえに立つ人格を無視できるだろうか
- もちろん、信者の人格のために神さまを認めなければならないというつもりはないし、ペットを他者と考える必要もない
- 最初から、自己意識をもちえないものについて、人格を語ることは出来ない
- 問題は、有機体であるヒトの発展のどの時点に、自己意識を持ちうるものを見るか、なのだ
- 闇雲に、人が大切だと思っているものをなんでも承認すればよいということではない
- ペットや神に自己意識を持ちうるものという特徴をみることがない限り、そしてヒトと少なくとも同様な生物学的成長がないかぎり、他者ではないか、という問いかけの対象にはならない
- 私たちは何かを認めるとき、その何かにある固有の特徴を探したくなる
- 無理もないことだが、認識は常に承認に先立つ物ではない
- 今の私たちの社会が、すべての人が成人となれば理性的である、と認めているように
- 人体のさまざまな捉え方を通して、胎児や胚を人間扱いする人の見方を理解し、それを尊重しようと説いている生命倫理の考察本
- 注意していただきたいが、ヒトの胚や胎児を承認したからといって、生命倫理の問いに分かりやすい解答を与えるわけではない
- 承認の最後の問いは、さまざまな判断基準を考え対処しようとしても、すり抜ける現実にぶつかってしまうからである
- 例えば、重度の障害を持つ胎児の場合、その子の人生を考えて、中絶することがあるだろう
- こうした場合、胎児を認めることは、決して容易な解決をもたらすわけではない
- 認めるからこそ、中絶を決意するのだから
- 承認は、そうすれば上手くいくという手引きを与えるようなものではない
- しかし、最後に考えていただきたい
- 「何らかのマニュアルやガイド・ラインに書かれていることを守るならば保障される」そういうものが、倫理的なものなのか?
- それは、規則に従っているだけのことであって、速度制限を守っているから法律違反にはならないといった程度のことである
- 倫理は、何らかの基準を守れば保障が与えられる話でもないし、守れば倫理の問題が無くなるというものでもない
- 承認するかしないか、最後には、ちょうど小説『ソフィーの選択』で垣間見たような、どこにも寄る辺ない風景が広がる
- 行くも地獄、引くも地獄といった状態に、そこでは否応なく立つことになるだろう
- 倫理的なるものの現場は、ここにある
- そして、ここには、あらかじめ用意された安心できる答えなどない
- わかりにくさは認識の不明瞭さにちがいない
- だが、認識に対する態度は認識の問題ではない
- むしろ、わかりにくさをどのようなものとしてみつめるかという、私たちの承認と非承認の問題である
- 曖昧さのよって立つところは、他者という現実の困難に由来しているのであって、これを素通りして明快な答えを求め、ヒトの胚にまつわる不明瞭さを切り捨てていってよいわけではない
- 他者の分からなさを認めることは、自分自身が透明でないことを認めることであるし、
- そしてそれは、私たちの自己理解を決定することである
- 例えば魂なら、わからないものを承認したという基本的な姿勢の伝統、それが重要なのだ
- 他者は、そのわからなさ、異質性によって、自己の内側へ浸透する
- 自分へと求心的に閉じていこうとする自分自身の理解の整合性を打ち砕き、自分の感性に親しみのないものを放り込み、逆立てる
- 言わば、自己を無理やりこじ開け、閉じることのないように語りかけてくる
- 自己は閉じることのないもので、「鎖国」によっては成立しなかったのではないか
電子化×
人は語り続けるとき、考えていない 河野哲也
- 対話の試み「哲学カフェ」に関わってきた大学教授が、思考や合理性とは何か、そして対話の必要性について語っている本
- 特に、感情や身体性は理性と対立するものではなく、むしろ不可分のものであるとする視座が面白い
- 筆者が定義するような対話は、そのためのルールや権威・利害の排除が必要でありどこででも出来るものではない
- だが、その重要性を否定することは出来ないだろう
- 対話は、戦争を、互いに結びついた差異へと変換する
- 対話は平和を作り出し、維持する条件であり、戦争を止める最後の平和的手段なのだ
- 対話する相手を限ってしまうことは、その外部に敵をつくることに結びついていく
- 対話を拒否する者、対話の中に入ろうとしない者に対して、どのように対話のなかに誘っていくのかが問題
- 制度による一種の強制によらずに、すべての人に参加を促し、対話の輪を広げ、そこで誰もが話しやすいルールを生成し、共通の問について論じ合う自律的な過程である必要がある
- 対話的な教育は、民主教育の基礎であり、平和の基礎である
- 私は結論として、学校がある国と地域では子どもの哲学は必修化すべきであり、学校が無い地域でも草の根で実施すべきだと考える
- 現代の日本社会で人びとを結びつけているのは「普通」と呼ばれる基準だが、それは暗黙のうちに強制されている他律的な基準であるうえに、実は、特定の権威や権力に恭順することすら意味している
- 多くの人々は、この他律的な基準を内面化しようとしてそうなりきれないでいる
- そして、そこから生じた自己否定的な感情を他者へと投げつけ、「普通ではない」他者を排除しようとする
→他者の排除
- 日本の社会は、この「普通」、すなわち権威や権力への恭順によって個人が結びついている階層的な構造をしている
- 「普通」に従わない人びと、障害のある人や移民にスティグマが貼られるのは、「普通」によってしか社会が成り立たないと信じられているからである
→『上』?『上』はもっと明示的なヒエラルキーな気もする
- 「普通」に従わない人びと、障害のある人や移民にスティグマが貼られるのは、「普通」によってしか社会が成り立たないと信じられているからである
- 「普通」によって成り立っている社会に対話はない
- 哲学対話の問いは、現在の私たちの社会における物事の区別の仕方とそれに伴う物事の扱い方を再検討しようとするもの
- 対話をするならば、何が尊ぶべき規範であるかを議論できるだろう
人はなぜ物語を求めるのか 千野帽子
- 人間は「物語を求める」のではなく、生きていくために「物語を作って」しまう
- 「物語(ストーリー)」自体は、ただの人間の認知に組み込まれたフォーマット(認知形式)であり、善でも悪でもない
- 「物語」は、人を救いも苦しめもするが「人間とは物語る動物である」ということを自覚すれば、その害を減らすことが出来るという【呪文】の書
- 巻末の参考文献が豊富
暇と退屈の倫理学 増補新版 國分功一郎
- 『アリュージョニスト』自体とは、全く関係が無い本。
- しかし、次の更新が来るまでの間には、すごく関係がある本
- 歴史的に言って、暇=退屈ではない。
- 決断のための孤立を否定。キルケゴール「決断の瞬間とは一つの狂気である」
→アキラくん向け - ウィリアム・モリス「自由と暇を得たら、その生活を飾ろう。生きることはバラで飾られなければならない。」
→【キュトスの姉妹】と【再生者】。不死という暇を得た人向け
表現の自由に守る価値はあるか 松井茂記
- 表現の自由に関する各論や判例をまとめた本
- ヘイトスピーチ、テロリズム・促進敵表現、リベンジ・ポルノ、フェイクニュース、忘れられる権利、そしてネット上の選挙活動とその範囲は多岐にわたる
- 難点としては、その性質上どうしても法律の引用も多くなり、文章も学術書寄りで難しめのものになってしまっている
- タイトルは反語であり、著者はむしろ表現の自由の価値を確信し、その最低ラインを守ろうとしている人物
- ただこの著者は、各論はまだしも結論をまとめるのは苦手らしく、その主張はやや分かりにくい
- 「保護に値する表現を真に保護するためには、本来保護に値しない表現でもある程度手段敵ないし政策的に保護しなければならない
- さもなければ、(表現規制がいたずらに萎縮をもたらしてしまうので)人びとは安心して本来保護に値する表現を自由に行うことが出来ない」
- 「表現の自由の乱用に対する最も有効で安全な対抗手段は、より多くの表現と、国民による相互監視と相互批判である」
- 「どうして国民は信用できず頼りないと思われるのに、政府は大丈夫だと思われるのか」
- 「表現の自由の保障が、何よりも政府に向けられているのには理由がある。それは、政府に国民の表現の自由の制約を託すことの危険性を重視したからである」
- 「ぜひこのことをもう一度振り返っていただければと思う」
電子化◯
「表現の自由」の明日へ 志田陽子
- 表現の自由をくわしく分かりやすくまとめている本
- 概念誕生の歴史から個別事例と表現の自由の関わりまで、表現の自由の全体像が分かりやすい構成になっている
- 名誉毀損、プライバシーの権利、ヘイトスピーチ、わいせつ、そして公共の福祉と表現の自由を制約する権利にも一通り触れている
映画や文芸のイメージで表現の自由の大切さを分かりやすく解説 - 表現の自由の制約は、海のイメージで捉えると分かりやすい
- その海には、他者の権利の島がいくつもあるが、それにぶつからないかぎりは原則は「自由」であり、
- この島を総合的に表す言葉として「公共の福祉」という言葉が使われるのだ
- 一人ひとりがさまざまな現実と対峙しながら、コミュニケーションをつないでいくことが、この世界を支えていると思います
- 表現に関わる法的ルールは、自分を縛るためのものではなく、上手に解放するための足場になるべきものだというイメージを持って欲しい
- みんなが議論に踏み込まない表現、類型化された表現だけに流れていけば、民主主義の土壌となるべき「表現の自由」が、もろいものになってしまうかも
- むしろ、どんな表現が他者の人格を傷つけたり、社会の安全や信頼を損なうもので、それを防いだり解決したりするためにどんな法律があるのかを、一人ひとりが知るべき
- ただし、あくまでルールは人のためにあるもので、ひとがルールのためにあるのではない
- ルールが本来の「自由」をふさいでいるときは、本当に必要か、自由を縛りすぎてないか、疑問視していい
- 一人ひとりが社会の中で自分の位置づけを掴むためになくてはならないものが、表現の自由
- 自分たちの社会を自分たちで作るために必要
- 一人ひとりのイキイキとした精神的自由と社会の「表現の自由」への回路の両方が必要
- 表現することの楽しさ・素晴らしさと、さまざまな他者との共存の道を探ること、この2つを同時に追求することが、「自分と世界の関係」をより豊かにする道に、そして明日につながると信じています
電子化◯
ファッションと哲学 編:アニェス・ロカモラ&アネケ・スメリク
- 16人の思想家から学ぶファッション論入門
- マルクス、フロイト、ベンヤミン、フーコー、バトラーなど有名どころからミハイル・バフチンやブリュノ・ラトゥールまでさまざまな思想家ことに一章を割いて、そのファッション(衣服やスタイル・外見)についての思想をまとめている論考集
- ファッションか思想家や哲学に興味がなければ読み通すのは難しいであろうが、序章に各章のまとめもあるし、文章自体はかなり読みやすい本である
電子化×
ファッションの哲学 井上雅人
- ファッションについて多方向から考察している本
- 読みやすいが、話題が多すぎてひとつひとつはあまり深堀り出来ていない感がある
- また、サイボーグのような身体拡張についても扱っている
電子化×
「ファット」の民族誌 現代アメリカにおける肥満問題と生の多様性 碇陽子
- 文化人類学を研究する筆者が、肥満観の歴史と反・肥満差別の運動をまとめた本(2018年刊行)
- 肥満を病気や障害としてではなく、多様性の一部として認めるように訴えている
- 実際にアメリカを訪れたその研究は詳しく、その内容は多様で価値ある情報に満ちているし、(読みにくい文や専門用語はあるが基本的には)文体も読みやすく分かりやすい
- 反・肥満運動の必要性、つまり、「ファット」の原因には、遺伝的な不治の病も含まれることもあることや、
- ただ単に太っているだけの人物が差別されたり、痩せるように圧力をかけられることが問題であることも、しっかりと伝わってくる
- また、フェミニスト史におけるファット・アクセプタンス運動(以下FA)の位置付けなども解説されており、
- そうした意味でも貴重な価値ある本でもある
- ただ、分かりやすく概論や現状をまとめてはいるが、その結論部分、思想関連のまとめ方はやや強引
- イデオロギーと個人的な思い入れに引っ張られるあまり、分析や考察が不足しているように思われる
- その最大の問題点は、肝心の「ファット」当事者にとって何が最善なのかを、きちんと分析しきれていないことである
- 「ファット」を多様性として称揚し反差別を訴えるのは良いのだが、
- 「肥満は問題ない、死は寿命の問題に過ぎない」という運動家の主張は載っていても、それを検証するような医学的な情報は一切調べられていない
- また、著者の調査結果は、肥満の背後に多様な問題が隠れていることを示唆してもいるのだが、
- 反差別に主張を絞っているため、それらについて追究することも出来ずにいる
- 要するに、著者は自分の主張のため、問題の解決を遠ざけるという本末転倒を行ってしまっているのである
- 「ファット」を多様性として称揚し反差別を訴えるのは良いのだが、
- 他にも、この本に記述された情報は、さまざまな重要な問題点を示唆している
- 格差の問題、福祉の問題、そして、多様性が本当に価値あるものなのかという問題
- だが、著者が支持するFAは、イデオロギーや感傷にこだわるあまり、そうした問題を放置し果ては悪化させてしまうのである
- 確かに、FAが独自のイデオロギーにこだわるには、十分な理由はある
- 「やせる」ことを至上とするアメリカ社会では、肥満者は、常に「ダイエットに失敗している or 挑戦していることになっている」としかみなされず、常に言い訳をしながら生きねばならないし、
- その苦しみには、共感すべきものはある
- また、FAには「他者との対話を通じて自己を構築する」という、(攻撃性の悪循環を起こしやすい)フェミニズムとは真逆の建設的なスタンスがあり、
- それは注目に値する
- 科学や文化相対主義(単一の自然と複数の文化という二項対立の世界観)の否定にしても、歴史的にはゲイをロボトミーで「治療」しようとした転向療法や逃亡奴隷を病気とみなした「ドラペトマニア」などの例もあり、
- 完全にその否定に理が無いわけでもない
- 「科学的/客観的で公正中立」とされる言説については、本当にそうなのかつねに疑われる必要性があるのである
- そして、もちろん体格や遺伝病などでどうしてもやせられない体質の人も多く存在するだろうし、
- 「ファット」を強く否定することが、かえって不健康なダイエットやリバウンドで体を壊すことにつながりかねないことも、否定は出来ない
- 過度に「やせる」ことを強要したり、ファットな人びとを蔑視したりするべきではないだろう
- とはいえ、いくら「地球は平らだ」という世界観を持っても、実際の旅行では球体を前提としなければならないように、
- いくら頭で否定しても、肥満に由来する病や科学的なその治療などを否定しきることは、不可能であろう
- また、いくら個人が肥満を「当たり前のこと」と定義しても、保険や医療の世界では、それはリスクとして扱われたり保険料支払いの対象として扱うしかない
- FAは、国民皆保険の国家などとは、相性が悪すぎるのである
- それゆえに、現代の科学を基本とする社会においては、自らの生きやすさのため、現代科学と相容れずに生きるどころかそれを否定しようさえしているFAは、
- カルト的な信仰としてしか、扱えないのである
- 残念ながら、この本も資料としては一級品でも、研究としては「優れた反面教師」として扱うしかないであろう
- 抜粋・要約
- カリフォルニア州アラメダ・カウンティの公衆衛生部局が主催する「ソーダ・フリー・サマー」
- 家にある炭酸飲料をもってきて、みんなで捨ててさわぐ
→娯楽が不足しがちな低所得者層にとって、すでに不可欠なお祭りになっているのでは?
- 家にある炭酸飲料をもってきて、みんなで捨ててさわぐ
- 肥満問題を貧困層に見出し介入するのは、人種や女性差別やエリート主義の押し付け、白人的な規範的身体への同化ではないか、という批判
→筆者、現場では「白人エリート(による権力)」と「マイノリティや女性などの貧しい人々」の対立はないと主張 - 肥満予防のカウンセリングの話で「人によって食や栄養についての知識はまだら」と柔らかく表現されてはいる事象
- (少なくとも)貧困層だけでも、「ヨーグルトならどれだけ砂糖を入れても健康に良い」というような、独自かつ強固な信念を持ったアメリカ国民がかなり多い
→「個人個人でそれぞれ食への『信仰』が異なりすぎて介入・指導が不可能」だという多様性国家・アメリカの負の側面なのでは?
→こういったケースでは、多様性は、健康増進・維持の敵になってしまっている?
- (少なくとも)貧困層だけでも、「ヨーグルトならどれだけ砂糖を入れても健康に良い」というような、独自かつ強固な信念を持ったアメリカ国民がかなり多い
- 責任主体と累積的リスク
- ある個人が、決定者として責任主体に仕立て上げられることによって、その個人の生に「未来の操作可能性」が持ち込まれる
- しかしながら、その人が「真の」決定者と言えるかどうかは、かなり不明瞭である
- 食べすぎたから太ったということを、「肥満になる選択/決定をした」とみなすこと自体に、問題の根本があるのではないだろうか
- 肥満のリスクは、食事をするたびに蓄積される継続的なもの
- 「正常」と「異常」のカットオフ値(=陽性陰性を分ける病態識別値)などはなく、実際は連続している
- もう一口食べるかどうかのミクロの決定はあっても、肥満や高血圧になるかならないか、という決定は存在しないのではないか?
→選択と責任の問題、「結果」からどこまで「罪」を問うことが出来るのか?
- 人類学は、圧倒的な支配と被支配の権力関係の上に成り立った自己構築であった
- 対して、フェミニズムは、他者との不平等な権力関係による抑圧や支配に抵抗することを通して、自己構築を目指す
→単なる同じコインの裏表では?「主人」が「奴隷」への恐怖や蔑視から妄想に取りつかれることもあれば、「奴隷」の反抗が「主人」をより邪悪にすることもあるのではないか?
→権力関係を前提にして自他を認識したり、相手に働きかけているかぎり、どちらも構造自体を変革は出来ないのでは?
- 対して、フェミニズムは、他者との不平等な権力関係による抑圧や支配に抵抗することを通して、自己構築を目指す
- 昔はラディカル・フェミニストだったFA活動家リンの言葉
- 「われわれは、皆、コミュニケーションをする者としての責任があって、他者が根底に持つ倫理を見つけ、それを理解し、尊敬しなければならないのです。
- われわれは対話することが出来るのですから」
電子化×
- われわれは対話することが出来るのですから」
- 「われわれは、皆、コミュニケーションをする者としての責任があって、他者が根底に持つ倫理を見つけ、それを理解し、尊敬しなければならないのです。
不快な表現をやめさせたい!? こわれゆく「表現の自由市場」 紙屋高雪
- 「あいちトリエンナーレ2019」と『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスターについて、表現の自由について素人なりに調べ考えた本
- 問題を細かく分析し、読者に近い立場から考える筆者の文章は、読みやすく分かりやすい
- 筆者は、コミュニスト(左派)の立場に立ち、表現への不快感は認めるものの、それを軽々に法律で規制するようなことは、すべきではないとしている
- ただ、「表現の自由市場による淘汰」を重視するということは、民間人同士での激しい批判の応酬を推奨するということでもある
- 国家による規制から国民を守るというのは、生易しいことではないのだ
- あるいは筆者が暗黙の了解としているのは、「表現の自由市場」とは、強い発言力とタフな精神力(あるいは厚顔無恥さ)を持つ者だけが生き残る闘争の場であるということなのかもしれない
- 現代アートは実際に見てみないとわからない
- 政治的な表現と芸術を切り離すことは出来ない
- 外側から「ポリコレ棒」を持ち込むから問題になる
- 現代では、柴門ふみ『女ともだち』に出てくるセクハラ描写や奴隷制が赦されないように、外側から持ち込まれた規範「ポリコレ棒」だったものは、批判を続けたことで内面化された
- 表現が取り下げられることは絶対的な悪ではありません
- 自由な言論や表現の活動にもとづいて、自分に向けられた批判をよく吟味して表現を直したり、あるいは表現を撤回したりすることは、むしろ「市場」の健全な働きだと言えます
- わいせつとは「見ていて、いたたまれなくなっちゃう」こと
- 実は楽しみたがっていることが分かってしまわないように、隠しておきたい
- 憲法学・芸術法の専門家・志田陽子教授へのインタビューもある
- 「思想の自由市場」の健全さを維持し、その「市場」において「社会の自己治癒力」の発揮を待つためには、自分たちにとって「不快な表現」を当面耐え忍ぶしか無く、それは「多様性を維持するためのコストとして受け入れるしか無い」のです
- 規制が生まれるのは「市場」の敗北
- ただし、自由謳歌を続け、それへの批判さえ「表現規制(弾圧)」だと言って封じてしまうようなことがあれば、これまた「社会の自己治癒力」が発揮できなくなったとして、規制を呼び込んでしまう危険性を十分に考えるべきです
- どういう立場の人たちであっても、表現そのものにまず触れて見る機会を奪わないようにすること、そして「思想の自由市場」を守る方向で一致し、その中で、差別や人権の侵害を無くしていくという「社会の自己治癒力」の発揮に努力すべきだということなのです
電子化×
不健康は悪なのか 健康をモラル化する世界 J・M・メツル A・カークランド
- 原題を「Against Health」=「健康に異議を唱える」
- さまざまな点から、イデオロギー化した「健康」概念を批判している論文集
- 「健康」イデオロギーの良い面も認めつつ、その弊害を指摘し他のありようを考えている
→ヴァージルの王権『健康』 - 修辞的撞着(オクシモロン)
- 語義をそのまま並べると「はっきりと愚かなことを述べること」
- 論理的に健康に異議を唱えることが出来なくても、「健康」という言葉の定まった使用や概念それ自体の誤用に異議を唱えることも出来る
電子化×
不思議なテレポート・マシーンの話 なぜ「ぼく」が存在の謎を考えることになったか? 飯田隆
- 子ども向けの哲学本
- やや難しい文章は、中学生以上が適正かもしれない
- テレポートと複製、そしてそれらを可能にする装置を仮定し思考実験をしている
- マインドアップロードやポストヒューマンの話もある
- シミュレーテッドリアリティ関連では、
- 心の数はシミュレートされた方が多いだろうから、そっちの確率の方が大きい
- だから自分がシミュレーションされているのは確実だ、とするニック・ボストロムの説や、
- そんな技術を持つなら倫理観も発達しているだろうから、それはあり得ないという反論を紹介している
→四章断章編「集い」のガトカレクの話、上位世界の可能性、無限ループするかのような断章の再帰性
- 参考図書も少し紹介されているが、グレッグ・イーガンの『祈りの海』などあまり子ども向けとは思えないラインナップ
電子化◯
ブッダの幸福論 アルボムッレ・スマナサーラ
- スリランカ仏教界の長老が書いた新書
- 「生きることの意味や価値」を否定しているのが大きな特徴
→生命にしか価値を見いだせないゼドの思想の否定? - 重要なのは、なぜ生きるのかではなく、「生きるということは何なのか」を観察することであり、
- すべての生命とのつながりを大事にし、ただ目の前のことをこなしていくべきなのだとしている
- 呪文のように同じ文を繰り返し唱えさせたり、競争や嘘を全否定するなどその思想は人を選ぶ
電子化◯
部落差別を克服する思想 川元祥一
- 「ケガレ」の概念を変えることにより、部落差別のみならず環境問題や日本文化の内部変革まで解決できるとする、独自の視座を持つ本
- 仏教思想の影響を受ける前の「ケガレ」は「気枯れ」つまりエネルギーの不足であり、それは個々人によって解消出来るものだった
- そして[気枯れ」を「ハレ」の浄めを通して解消し「ケ」(日常)に戻す再生機能、いわば自然と人をつなぐリサイクルの役割を担っていた者達こそが、後の被差別部落の人びとであったのだ
- 「ケガレが伝染する」という考え方をやめて本来の「気枯れ観」に戻し、部落の役割を見直して失われた日本文化を取り戻そう!
→シナモリアキラ(鵺)?第五章の課題? - 人間の文化とか文明というのは本来ケガレ=カオスに触れ挑戦することで築かれ開発されてきた
- ケガレ=カオスの本質には、"難しさ"と"面白さ"の両面がある
- "難しさ"とはこれまで暗かったとされていたが、実は単に解明が難しかった部分のことであり
- "面白さ"とは、その"難しい"ものに挑戦し、試行錯誤することである
→アキラくんとトリシューラの混沌?
プレイヤーはどこへ行くのか デジタルゲームへの批評的接近 編・限界研
- さまざまなゲームをいろいろな側面から分析し、問題提起や解決策、さらにゲームの魅力や影響力をも提示している本
- 「ゲームと身体」や死にゲーの難易度など、アと関係ある話もある
- リアリティ・ミルフィーユに偏在するVTuber(以下V)たち
- プロテウス効果:ゲーム内で演じるアバターの特徴が、現実のプレイヤーの行動やアイデンティティに影響する
- Vは、ミメーシス的な芸術観をも発展させうる
- アリストテレスは、ミメーシス(芸術)はイデアを超える可能性があると考えた
- 人間はミメーシスを好み、ミメーシスで現実を把握する
- しかしVの場合、ミメーシス同士、そしてミメーシスと現実との間の連関をもって世界認識を行っている
- これは複数のリアリティの上に生きている新時代の人間の大きな特徴ではないか
- Vはキャラクターを何重にも生み出すことで、面白さを生み出すことが出来る
- テーラーメード・リアリティ:メタAIによって個人個人のプレイに合わせてゲームが変わるようになって、ゲームの面白さは個人に特化できるようになった
- この場合、プレイヤーの無意識とゲーム世界全体のあり方が対応している
- しかもこの場合の無意識は、その仮想空間への認識からのフィードバックによって大きく変化する
- ここでのゲーム世界は、AIと自分が無意識に協力して生み出す不思議な空間だ
- プレイヤーの投影像はこうして無限に増えていく
- 自分だらけの世界のなかで、僕たちは自分と自分との連関のズレを楽しみ、気づかないうちに、複数のリアリティを生きているのだ
- ゲームをプレイすることは、自分を知ることだ
- 様々なゲームで様々なキャラクターを演じ様々なリアリティに偏在していても、「自分」というものがふとしたときに漏れ出てくる
- ゲームのプレイヤーは、自らのアイデンティティの意外なカケラをゲームから見出す
- また一部のVは、複数のスタッフによって作られている存在でもある
- 複数の自己から作られ、自己を分裂させてゲームを行うVの自己像は、従来のアイデンティティ認識とは全く違うものになってゆくだろう
→グレンデルヒ、シナモリアキラ - リアリティ・ミルフィーユに偏在するVTuberたち、そのゲーム実況は、自らを探す者の終わりなき旅路なのである
→冷血(コールドゲーム)のコルセスカの冒険?
- 複数の自己から作られ、自己を分裂させてゲームを行うVの自己像は、従来のアイデンティティ認識とは全く違うものになってゆくだろう
- Vは、ミメーシス的な芸術観をも発展させうる
- 草野原々:人生のむなしさから逃れることは不可能
- デジタルゲームのむなしさ:虚構的ストーリーと現実的ストーリーの矛盾。残るのは現実だけ
- 二種の対抗策
- 消去戦略:格ゲーのeスポーツ大会など。虚構を無視して現実的ストーリーに注目する
- 還元戦略:『ドキドキ文芸部』など。虚構的ストーリーを現実的ストーリーに対応させ、同一化する
- 消去も還元も使えないので、人生のむなしさから逃れることは不可能
- 心はメタファーと同じような、プロップを理解するために使われるプロップ志向的な虚構である
- 我々、つまり心とはゲームの中の虚構的キャラクターであるため、人生というゲームの内部にとらわれており、外に出ることは原理的にできず、人生のむなしさから逃れることは出来ない
→妄想が現実化するゼオーティアでは脱出可能では?コルセスカの浄界『コキュートス』で還元は可能
- ゲームとオルタナ右翼の関連性
- ゲームとイデオロギーの関連は、美学によって考察できる
- 実証的でなくても行動しなければならないことはいくらでもあり、そういうとき人は「信念」に従う
- プラグマティズム:議論や実証に検討されて、社会や集団にメリットがあるとわかったものを事後的に(とりあえずの)「真理」とみなそうというもの
- だからゲームによる行動への影響(有害性)が、実証されていないという批判は通用しない
- ポストトゥルース:客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的事実へのアピールのほうがより影響力があるような状況
- その原因はネットだとされる
- オルタナ右翼、4chanなどのスレッド掲示板に集まる若いネットユーザーたち(Ait-Right)
- ゲームに似たネット上の政治行動・陰謀論
- ゲーマーゲート事件:一般的な感性では不評なゲームが賞で高評価されて、枕営業を疑われた。炎上。殺害・レイプ予告まで。ただし参加者の多くは自称リベラル
- ゲームへの不満のはけ口として、ラディフェミが見つけられた
- ピザゲート事件:デマニュースで自動誘拐疑惑からピザ屋襲撃
- ゲーミフィケーションによる政治が、無視できないほど強大な影響力を持つように
- ゲームとネットを通じた政治的アクションにはかなりの共通性がある
→友敵判定など、もともと政治がゲーム的な性質を持っているのでは?
→派手さや、インタラクティブ性の演出はテレビやリアルな政治集会からであり、ゲームとの関連性はそこまで高くないのでは?
→トランプが勝つはずがないという思い込みが、トランプ支持層の存在を見落とさせ、別の陰謀論に走っているだけなのでは? - 私見では、「フェミニスト」に何かを奪われているという意識をベースに、ミソジニーを刺激し、政治的行動を行う集団へと組織化する(あるいは自己組織化されていく)という現象は、日本や韓国でも観察可能なように思われる
→全否定はしないが、「フェミニズム」も奪われているという意識をベースにミサンドリーを刺激しているのでは?
→正統性はあるにしても、「男性が独占しているとされる特権を得よう」というフェミニズムの基幹方針は、本来自分が持っているはずのものを「奪還する/奪う」スタンスに立つことなのでは? - 思想や動員のテクニックが伝播してきた?
- 全世界的にフェミニズムが隆盛してきたことへのバックラッシュ?
- 不安や危機の感覚が蔓延する中で、剥奪感を覚え、それを行う敵を(妄想的に)探して攻撃したくなる世界情勢なのかもしれない
- 気づかない間に悪しきゲーミフィケーションの中に取り込まれてしまう事態を避けるためには、アメリカの事例を他山の石として、ゲームとどのように接するべきなのかを批判的に検討したほうが良いのでは
- 「ゲーム」は「ポスト・トゥルース」の状況に(全面的にではないが)責任があると思っている
- 現代人は、(それまでの本などのメディアに代わって)ゲームやスマホなどの「インタラクティヴ・メディア」に内面や欲望や習慣や主体を形成されている
- 善にも悪にもなりうる「ゲーミフィケーション」をどう制御してよい社会を目指すのか、、どうゲームと付き合うのか善いところも悪いところも含めて考えよう
- 批判とは吟味、そのような当たり前の試みをゲームに対してもするべき
- CODEとMOD
- CODE:ネット上に存在する、意識させることなく市民の行動を制御・規制できるアーキテクチャ
- CODEのちからが強くなり、我々がそれに従うしかなくなることは、ネット本来の美点とされる「自由」が失われることを意味する
- MODは、不正規な改変だが、それは単なる改造ではなく、ユーザー体験を改善したり新しい体験をもたらす
- ハッカー文化は「自由」を称揚し、MODを作りゲームを改変する
- MODはオリジナルのゲームなくしては存在し得ず、CODEに寄生する存在だ
- だが、一方で、MODによってユーザーの体験は拡張されうる
- そこにあるのはCODEとMODの共存であり、それはユーザーと製作者の関係にも通じる
→一種の二次創作であるゲーマーコルセスカの存在意義?
- CODE:ネット上に存在する、意識させることなく市民の行動を制御・規制できるアーキテクチャ
- ゲームが真の意味でユーザーのためにあるとするならば、MODというユーザーに開かれた選択肢が存在していること
- そしてCODEとMODに寄生されつつ、MODと共に成長していくその状況こそが、ゲームというメディアにもう一つ固有の価値を与えているのだと、私は信じる
- ゲームとは、単にボタンと快感報酬をひも付けるだけのスキナーボックスではない
- 叙事詩的ゲームはその差異によって、ゲームプレイの意味をプレイヤーに再考させる
- デジタルゲームのボタンの下には支配が埋まっている
- これは信じていいことだ
- しかし、ゲームがその支配の存在をプレイヤーに暗示し、支配から離れた行動をゲームに入力するよう誘導するところに複雑な思想を埋め込めるということもまた、信じてもいいことなのではないか
→支配の道具として使われるが、同時に解放のための『杖』にもなり得るサイバーカラテ/シナモリアキラの可能性?
電子化○
プロカウンセラーの共感の技術 杉原保史
- 技術というより、筆者のカウンセリング方針や共感という概念についての解釈を書いている本
- 共感とは、矛盾する面を持った複雑な概念
- 共感は、あなたとわたしの間に響き合う心の現象=「人と人が関わり合い、互いに影響し合うプロセス」
- 問題なのは「共感のしすぎ」ではなく「共感の焦点がロックされている」こと
- 共感は、積極的に参加し、関わること
- 「共感できない」とありのままに感じることこそが、共感の始まり
- まずあなた自身が、自分自身にポジティブな感情の体験を赦していることが大事
- 共感は話し手と聞き手の共同作業であるため「平均的な共感能力」というものは存在しない
- 共感は、自然に感じ取ることだが、その「自然」とは努力して身につける技術でもある
文化としての暴力 服藤早苗 赤坂俊一:編
- 埼玉学園大学の学際的な学科、人間文化学科のそれぞれ専門が異なる教員仲間が、一つのテーマに向けて若者向けに協力して書いた本
- 革新的な結論などはないし。占いを拒否することによる陰陽師の「不作為の暴力」など内容薄めのものもあるが、さまざまな方向から暴力を掘り下げている
- キリスト教徒の魂を救おうとする説教の中にある、ユダヤ人に対する暴力
- イエスに加えられた暴力を描く、メル・ギブソン監督映画『パッション』:イエスが受けた凄惨な暴力を、自分たちの信仰の正当性を証明し、勢力の拡大を図るための最も有効なツールとみなしている
- イエスに加えられた暴力が、その正しさへの確信を視聴者に植え付ける=中世の受難劇/サイクル劇から続く伝統
- 我々の心の奥底にあるかもしれない人間性の闇の部分をみせつける
- イエスを虐待する側の愚かしさを強調する暗い笑い:拷問官役の振る舞いの愚かさを笑うことが、その暴力の容認につながる
- フィルムの帝国と物語の暴力:被害者
- 記憶回復療法の流行
- 過去に向かった時間の旅を通して、今の不調の責任を転嫁できる原因(てき)を見出し、患者たちを被害者にすり替える「癒やし」とカウンセラーたちが立ち向かうべき「悪」を捏造できた
- 封印された国家のトラウマ:アメリカは、ハリウッド映画を通して加害者である自己を被害者として語り/騙り直している
- フロイトの「隠蔽記憶」(スクリーン・メモリー):不快な事実の記憶を遮断するために捏造される記憶
- 自分たちが先住民を虐殺した加害者であったというトラウマは、映像が忘れさせ、アメリカが侵入者たちの被害者へとすり替えられるのである
- 『国民の創生』:登場する黒人は、実は全てメイクした白人であり、KKKを演じる役者でもあった
- 黒人という怪物的他者は、白人の内部の闇を投影した存在にほかならない
- 侵入者に蹂躙(レイプ)されることで、米国は被害者としての国家のアイデンティティを形成している
- 男らしさを振りかざすアメリカという国家の主体形成は、奇妙に女性的ではないのか
- 「映像がすり込む物語の暴力」これこそがアメリカが行使している最大級の暴力だ
- それゆえに、我々は、我々の物語/解釈(ナラティヴ)でアメリカの暴力を問い直さねばならない
- 「忘れていることを忘れていませんか」「現在アメリカから憎まれている原因は何ですか」、と
- 外からの攻撃を受けるときが、その防護壁となる境界線が最も強化されるときである
- 侵入者がもたらす危機によって、国家は外部と内部の区分を意識し、被害者として団結するのである
- 生と死の区分を失ったゾンビの恐怖とは、皮膚の色による人種の区分が消失する恐怖でもあった
- ところが皮肉なのは、異種混淆の恐怖を表彰するゾンビが、逆に境界線による区分を強化してしまうことである
→異獣?
- ところが皮肉なのは、異種混淆の恐怖を表彰するゾンビが、逆に境界線による区分を強化してしまうことである
- 記憶回復療法の流行
- 内在化する暴力:現代のバラエティー番組に潜む闇:とにかく笑いを強要する
- このような番組を大量に視聴し続けることで「おもしろいこと=善 場を乱すこと=悪」「笑いのためなら他者を犠牲にすることは許される」といった信念が培養される可能性は十分にあると思われる
- そこでは社会正義や常識といったものまでが、おもしろいか否かという次元で同列に判断されるかもしれない
- このような現象が繰り返されていくことにより、何事も真剣に考えず、場の雰囲気だけを重視し、他者の痛みも笑ってやり過ごしてしまうことが当たり前の人間たちで溢れかえるときが到来するかもしれない
- 対等な男女の性愛が、男性優位な性愛へと変容する過程:女性史
- 強姦の始まり(男性による女性所有のはじまり?)
- 靖国のシンボル操作。死が名誉、性が惨めと思い知らせることによって、戦闘に動員された学徒隊などを拘束した
- 医療技術暴力性の抑制
- それは人間の主体性そのものの回復によってしか成し得ない=患者の自己決定権の確保
- そのためには、法律の改正が必要
- 患者側も、個人として司法や行政に打開を求めるだけでなく、同病者の要望を集約して公表し、立法に改善を求めることが肝要
- 自己決定が自分固有の決定にたどりつくには、社会の各層各段階の媒介を要する
電子化×
隔たりと政治 統治と連帯の思想 重田園江
- 政治思想の研究者が、「いま」がどういう時代なのかを考えるために書いた論考集
- 「統治」という観点から、市場化や新自由主義をめぐる言説を再解釈している視座が独特
- どうすれば「つながり」を語る言語を再構築できるのか、神と自然人のあわいである、人が生きる場所・すなわち良い国政を作って長持ちさせる「わざ」などが、考察されている
- 第三部は、漫画版ナウシカや映画タクシードライバーなども例として出てくるので、かなり読みやすい
- 政治とは、孤独だがひとりではない人間たちがくりひろげる生の闘争、そこから帰結する暴力と抑圧を矯めるためにある
- 隔たりながらもひとりになれないことが、人間にとって避けがたい条件である以上、政治が必要とされるのだ
- フーコーとポランニーの市場批判
- 市場化を推進する統治と市場化に対する統治として、近代社会における市場と社会の攻防を捉えるべし
- 市場とは、自己調整する自然なものなどではない
- フーコーの統治性論:自由主義は、統治のテクノロジーのひとつであり、政治的な干渉の様式であった
- 市場化に不可欠な土地・労働・貨幣の商品化は、それまで社会に埋め込まれていた経済を、無理やりそこからひきはがすことで可能になる
- したがって、そのひきはがしには、強力な人為的介入(国家の干渉など)が要請されることになる
- 市場化はつねに一つの政治的な選択であり、決してそれが自然に実現されたことなどない
- 自由放任経済は、意図的な国家行動の産物であったが、その制限はそうではなかった
- 金本位制:干渉と規制なしには市場社会が成立しない例
- 維持するために犠牲と矛盾が蓄積され、最終的に戦争に突入した
- ファシズムも市場化を巡る攻防から出現してきた
- それは、一方で国際的な市場システムの猛威に対抗するように見せながら、実は資本家および産業家の利益の擁護として機能したと捉えられている
- そして、それに対抗するものとして、社会の運動が展開されてきた
- 大学改革における統治性
- 文科省は、市場化を進めているかのようなレトリックに訴え、自らの権限と指導力の拡大に成功した
- その過程で導入されたのは、市場とは無関係な統制と管理であった
- 大学改革とその結果起きたことを理解するには、「規律」そして「専制」という用語を用いるべき
→『呪文』
- 森友問題での官僚の忖度=「政治主導」の弊害
- 内閣人事局で人事権を握られた官僚は、今では官邸の思考に逆らえなくなった
- 外部であるはずの「政治」が、官僚の生殺与奪権を握っている
- 政治家は責任を取らなくて良いのに対して、官僚だけが貧乏くじを引かされている
- 楽観的かもしれないが、つながり、支え合うことは難しいことではない
- 人は、自分のためだけにエネルギーを消費することに虚しさを感じるからだ
- 人びとに足りないのは利他心ではなく、具体的で現実に存在する繋がりの回路
- つまり、つながりの欠如を、制度や社会の問題として考えたほうが良いということ
- 連帯の仕組みづくりを根気よく続けていけば、そこに加わる人は大勢いるはずだ
- 他者がいることで争うが、他者がいなければ助け合う相手も存在しない
- そして、集合性によって、ひとりでは決して得られない力と可能性をそれぞれが手に入れられる
- とりわけ、「リスク」に関わる事柄を前にするとき、人びとは連帯と繋がりのメリットに否応なく気付かされ、そこに繋がりの契機が生まれる
- それを必ずしも自己利益やエゴイズムの延長と考える必要はない
- 見ず知らずの人を含めた連帯が立ち上がるとき、人は自分自身でありながら、ひとりであることをどこかで超えているからだ
- 例:協同組合は、協働そのものが互酬的なものとして組織される結果、公平な配分が約束される組織として始まった
- 異質であることを前提にしたつながり=連帯を困難でも模索すべき
- 連帯は無償ではなく、お互い様
- 自己利害や共感とは違う想像力を広げていけば、極めて非対称な関係の中に連帯を見出すことも可能ではないか
- 連帯の思想史を遡及することが必要
- 思想史を描き直そうとする試みは、現在への関心とどこかでつながっている
電子化○
- 思想史を描き直そうとする試みは、現在への関心とどこかでつながっている
暴力 手すりなき思考 リチャード・J・バーンスタイン
- 五人の思想家の暴力についての思想を分析し、それをつなげて独自の見解を提示している思想書
- 著者は、プラグマティズムを中心に、広い学識を持つアメリカの哲学者
- ちなみに、タイトルはアーレントの言葉であり「新時代の思想を作るには、既存の思想は頼りにならない」という意味なのだが、
- 実際のところこの本は、既存の思想家の思想の解説と批判なしには成り立たないため、内容は完全にその真逆であると言える
→外力
- 実際のところこの本は、既存の思想家の思想の解説と批判なしには成り立たないため、内容は完全にその真逆であると言える
- 基本的には、それぞれの哲学者についての事前知識が必要な細かい解説だが、
- 最終章のまとめだけなら、(アーレントの権力と暴力の区別、ベンヤミンの神的暴力、そしてそれぞれの簡単なプロフィール程度の)最低限の知識さえあれば、
なんとか理解出来そうな分かりやすいものになっている - 中でも、フランツ・ファノンを批判してたハンナ・アーレントの言葉から、ファノンが記したかもしれない言葉を拾い上げるところが面白い
- ファノンが強調するのは、入植者達によって虐待され非人間的な扱いを受けてきた被植民者が、はじめてみずからのうちに覚えた怒りや暴力の重要性だが、
- いくつかの文章では、アーレントも同様に、怒りや暴力の必要性を肯定しているのだ
- アーレントは、暴力と権力を峻別することを主張していたが、ナチスから逃れてニューヨークにたどり着いたときは国際ユダヤ軍の設立を呼びかけたこともある
- また、彼女はファノンを暴力を礼賛する者として皮斑するようになっていったが、実際にはファノンにとっても暴力は植民地解放の手段でしかなかった
- アーレントと同じくファノンも、報復的暴力の連鎖を断ち切ろうとしていたのだ
- 著者は、いくら二人が互いに補完しあう点があるにもかかわらず、その違いを調停できるとは思わないとしつつも、
- アーレントをファノンの調停役に立てることで、暴力の制御の必要性という、論の共通点をあぶり出している
- 著者の考察は、まさにさまざまな暴力の暴走に悩む現代に必要なものであり、素晴らしい
- たとえば彼は、暴力が「変幻自在(プロテアン)」な点を上げているが、現代では「被害(傷つき)を訴える暴力」という形でその懸念はまさに的中しているのではないだろうか?
- つまり、「被害」をもたらす「見えない暴力」を暴力として認識し言挙げしていったその結果、その延長の先こそが、ポリコレや「マイクロアグレッション」といった新たな摩擦であり、
- (カロリーヌ・フレスト『傷つきました戦争』やグレッグ・ルキアノフ ジョナサン・ハイト『傷つきやすいアメリカの大学生たち』に取り上げられているような)新たな価値観にもとづく、「正義/『道徳』」を盾にした新しい暴力を発生させているのではないだろうか?
- そうした「新たな暴力」である批判や炎上こそが、多くの人を傷つけ、あるいは文化と民族を分断して、互いに混ざりあったり影響し合うことのない、隔離された博物館の標本めいた有り様にしようとしているのではないか?
- そうしたことを考えると、この考察の方針だけでは、暴力に対処するにはまだ足りないのかもしれない
- 現在のSNS炎上社会でみられるような、互いに相手の「暴力」を非難する地獄絵図を防ぐには、さらにこれを補完する何らかの対応が必要なのだろう
- また著者は、ヤン・アスマンの革命的一神教についての分析から、一神教が潜在的にもつ暴力を常に警戒すべきだという警告を引き出している
- これは一見、俗に無宗教と言われる日本とは無縁に見えるが、
- 排他的な新興宗教や元・現人神様はおいておくとしても、阿弥陀如来だけを拝む浄土真宗をはじめ、
- 日本にも、一神教的な思想・信仰、すなわち、唯一無二の排他的な価値を信奉するコミュニティやクラスタは数多く存在する
- また、日本が欧米から輸入してきた思想や文化の背後にも、もちろん一神教は深く関わっている
- それに、昨今の「文化盗用批判」が人種と文化を一対一で結びつけようとしているにも関わらず、文化は常に混交してきた
- それを考えると、アスマンの警告は、日本にも決して無縁ではないと思われる
- 暴力概念が、「言葉の暴力」や無視などの「関係性の暴力」に拡張されていることだけではない
- 民主主義や『道徳』、あるいは宗教の名のもとに戦争やテロが起きる現代では、暴力への警戒はあらゆるところで必要になるのではないだろうか
- 抜粋・要約
- 本書の挑戦のひとつは、暴力の新たな形態を意識すること、その構造と力学を理解すること、そしてそれらを公共的な自己意識へもたらすことであった
- 暴力を分析し理解するさい、それにふさわしい応答をすることをひたすら真摯に心がけてきた
- ファノンが植民地暴力について述べたことも、そうした応答にあたる
- 植民地主義を暴力の一形態として示すことは、冷酷で残酷な振る舞いを暴露するという問題にとどまらず、
- 植民地主義の複雑な支配がどのように機能しているのか、またそうした支配が先住民に組織的に恥辱を味わわせ、彼らを非人間化する算段をいかに制度化しているかを意識にのぼらせるためにも、必要なのである
→応答とは、責任(responsibility)の意でもある?
- 植民地主義の複雑な支配がどのように機能しているのか、またそうした支配が先住民に組織的に恥辱を味わわせ、彼らを非人間化する算段をいかに制度化しているかを意識にのぼらせるためにも、必要なのである
- 植民地主義を暴力の一形態として示すことは、冷酷で残酷な振る舞いを暴露するという問題にとどまらず、
- ベンヤミンは、暴力の「合法的な」使用と「非合法的な」使用の区別がどれほど問題をはらんでいるかを教えてくれている
- しかしこうした知的作業は、暴力的態度に対処するべく大衆を教育し、動機づける真剣な試みがなされないかぎり、無駄なものになる可能性がある
- もし、暴力に対する有効な対応策が存在していないなら、大衆のなかに、行動を起こすための動機となる変化が生じなければならない
- 暴力の限界
- ひどい犠牲を強いられ恥辱を味わってきた人びとの怒りは非理性的になることもあるが、それはまた公正な義憤という個人的ないし政治的感覚の表現にもなりうる
- 犠牲を強いられてきた人びとのこうした「自然な」感情の経験を治療にとって取り去ることは、彼らを「非人間化」することである
- しかし、たとえ自発的な怒りや暴力の機能を認めるにしても、そこでは厳密な区別をおこなう必要がある
- 暴力を称揚し賛美するような誘惑に対しては、慎重でなければならない
- 暴力は創造的ではない
- 暴力は本質的に破壊的である
→怒りの話
- 暴力は本質的に破壊的である
- ファノンの憂慮
- 国家の独立が実現されて以降の革命運動への裏切り
- 最大の危険は、植民地的なメンタリティが残存してしまうことである
- 新たな統治者は、解放というレトリックを使用しながら、実際には自国民に対して暴力を揮うのである
→スーリウム?
- 著者は、(ベンヤミンの「暴力批判論」に出てくるような)例外的事例における暴力の容認ないし正当化を「人が孤独のなかで格闘する倫理的な問題」として考えるのは誤っており、
- 潜在的には危険であると考える
- 暴力の使用の正当化はいずれも、政治的判断の問題であり、そうした判断を下すためのアルゴリズムなどは存在しない
→前世で自殺/転生幇助を行い、ゼオーティアでカインの嘱託殺人/安楽死を行ったアキラくん?サイバーカラテとトリシューラの出番? - 政治的判断はつねに危険を伴うが、それを適切におこなうには、
- 議論や説得に関与する大衆を、特殊な具体的状況を考慮する大衆を、自分自身の誤りやすさを敏感に意識している大衆を生きながらえさせる
(あるいは新たに創造する)ことができるかどうかにかかっている - そうした大衆が外部の利益によって操作され歪められるとき、公的議論への参与が死に絶え衰退するとき、暴力の勝利を阻むものは何もなくなるのである
電子化×
- 議論や説得に関与する大衆を、特殊な具体的状況を考慮する大衆を、自分自身の誤りやすさを敏感に意識している大衆を生きながらえさせる
暴力と富と資本主義 萱野稔人
- 暴力は「善いか、悪いか」という議論をいったんカッコに入れなければ、暴力を思考することは出来ない
- 「国家とはそもそも何なのか」という理論的考察無しに「国家は悪だから、なくなる可能性を少しでも探そう」という願望に基づいた主張をするのも間違っている
- 暴力を管理する方法として、人類はいまだ国家以上のものを編みだしていないし、理論的に言っても編みだすことは出来ないだろう
→シナモリアキラ【天狗】、そして彼らソーシャルジャスティスウォーリアーの願望 - 暴力の制御と活用は、コインの表裏のように決して切りはなせないもの
- 暴力とは、身体によって行使される一つの物理的な力であり、他の全ての力と行為を抑止することが出来る最終手段
- 国家は、その領土において唯一の「合法性の源泉」であり、自分に基づかない法を決して認めない
- また国家は、他の行為主体が暴力を使って、決定を貫徹しようとしたり紛争を解決しようとすることを、基本的に認めない
- アメリカ市民の銃の所持も民間軍事会社も、国家の承認によって初めて許されている暴力に過ぎない
- その結成目的ではなく、「合法なもの」と「不法なもの」を区別し「不法なもの」を取り締まる「手段」こそが、国家にしかない特徴なのだ
暴力をめぐる哲学 編著:飯野勝己 樋口浩造
- 暴力について、その語り自体が暴力にならないように気をつけながら語ろうとしている論考集(一部失敗しているものあり)
- 暴力はいかにして哲学の問題になるのか
- 赤坂真理「暴力それ自体は悪ではない。ただ、あるものだ。発生することが、あるものだ。人はそれと、折り合いを付ける必要があるだけだ。」『愛と暴力の戦後とその後』
- 「暴力を、ないことにはできない。暴力を撲滅しよう、という日本によくある試みは、暴力だ」
- 人間的な「この世界」が立ち上がる一契機としての暴力
- 暴力と呼ばれるのは、知的生命体が行使するものだけ
- すべてをたんなる自然現象として眺めるまなざし、神やはるかに高度な知的存在の視点から見れば、戦争も自然の力のうねりとして「ただそうなっているだけ」の世界に見えてくるのではないか
- 他人に心や意図を認めなければ、暴力はない
- 他人と自己に、並行的に心を定位させる「心の理論」が成り立ってこそ、暴力は暴力として立ち現れる
- むしろ、害を被るという原初的な暴力の経験――「ただ、ある」だけの暴力――こそが、他者や自己の成立をうながしたり、あるいは同時生成的だったりすることも、考えられるのではないか?
- 世界が苦労のない楽園ではなかったからこそ、人は物を考え、技術や科学を編み出してきた
- 同じように、もし人々がおだやかに共生していたら、他人の心の内を深く考えることがあったろうか
- 人々の共生なるものが、楽園的なものでは全くないからこそ、独自の、そしてときに図り知れない内面をもつ他者というものが、まさに他者として立ち現れる次第になったのではないか
- 他者がいるから暴力があるというだけでなく、暴力があるからこそ他者がいる
- 一般的な力の観点から:力と暴力
- この世界は、さまざまな力がバランスを保って、まずはほどよく安定している場所/半楽園
- 暴力が暴力として際立ついわば背景的な条件として、あるいは「図」にたいする「地」として、「大筋のところの安定」が必要なのではないか
- 特異点としての暴力は、その背景であるノーマルな秩序と対立するものではなく、むしろそれとの連続性にあるということだ
- この世界の可能性の一部は、そのままで暴力の可能性そのものでもある、という認識
- 私たちは、こういう地点から始めることこそが、リアリティのある姿勢だと考える
- 撲滅などと言った歯切れのよい言葉ではなく、回避や対応といった語彙を軸にしたもので、暴力への対処を語ることになるだろう
- 技術的な対処などそうやすやすとはできまいという立ち位置は、暴力の根深さ、その現れの多様性、その概念的多層性などをリアルに見据えていく拠点になるはずである
- 暴力におけるミメーシスとアイデンティティー
- 『あらしのよるに』に見る暴力の回避
- ジラールが暴力の根源として指摘した「似ていること」(類似性)を反転させ、むしろ似ているからこそ暴力の回避が可能になる、という方向を模索
- 美的対象への愛における類似こそが、暴力を回避するための条件となるのである
- ここでの美的:対象の所有を目的とせずに見続けることを可能とする価値
- 愛にも様々な程度があるし、そうした類似を見出す可能性は広がるのでは?
- 複数のアイデンティティを重ね合わせていくように、多様な層や質を認める姿勢こそが暴力を回避するために必要とされるのである
- 友達を大事にする二匹の高い倫理性とそれを支える環境が、友情の基盤となっていることにも注目すべき
- 文化と暴力
→近代以降のシミュラークルで審美主義な芸術を暴力的として否定している(ほぼクーマラスワーミーの引用)- 永遠で絶対・無限の「非顕現」:それ相対しうるいかなる「外部」「他者」も存在しない絶対不可侵の真実在、究極の均衡
→唯一神?イデア? - 「原初の犠牲」:暴力の根源的契機。「非顕現」から森羅万象が出ること
- 「均衡」の「破れ」/「永遠」から「時間」への「崩落」:森羅万象のために神々によってなされた犠牲獣の供犠。神の無償の愛による自己犠牲
→キュトスやガリヨンテの殺害? - 「快」を自己目的とする審美主義の「ロジック」自体に「暴力性」がある
- 現在のアートは新奇なもので置き換えられている(あるいは「新奇性」として、審美主義的なフレームワークで眺められるように再配置されている
- それは、超越的「起源」を完全に忘却すべくその記憶を抹消したうえで、なお死滅はせずに人間の「文化」を維持していこうとする企て
- 積極的表現で言えば、人間自らが「起源」であり、すべてのものは人間による創造以外の何ものにも由来を持たないと宣言すること
- 審美主義的「文化」は、より恐ろしく根源的な意味で「暴力」の様態に他ならないのではないか?
- 「自転車操業」のうちに「新奇性」を追求する審美主義的「文化」の前進の道は、実際には、より根底的次元での「世界崩壊」の過程に他ならないのではないか?
→トリシューラのブランドのテーマ「破壊」?
- 本来、審美的は受動的なもの
- 快感の追求は、アートを「人間以下」のもとにおとしめる「アートのためのアート」になっている
- それは、万物の「所与性」「被造物性」を否定することであり、リアリティの根源的な破壊・抹消に相当する。VRが代表例
- 超越的起源がないと、自然と文化が対立せざるを得ない
→根源の想定自体が、それぞれの文化独自の真理の対立を招く破壊的な行為であり、旧体制の維持をもくろむ保守・反動的な姿勢なのでは?
- 人間にとっての「リアル性」は、その「所与性」として現れる
- 暴力の贖い方:人間の一切の営為を、原初の犠牲を行った神々にならって行うこと。そこにすでに一体としてある諸物の「本質」をつかんで、それに従って制作物を具現化する
- 伝統的なアート
- 古いタイプの芸術では、アーティストは自然物の変形しかしない「神」の「媒介」であり「代弁者」
- 常に「知的」にのみ把握される諸物の本質(エッセンス)=超経験的実在を「普遍的象徴体系」に基づいて表現することが規範
→神学?槍神教の世界観やそれに基づく『神働術』? - 「美」超越的「起源」に由来する知(真理)のもつ「人を引きつける側面、あるいは力」
- 「完成された表現」において客観的に「認識」されるもの
→超越者リーヴァリオン?『世界槍』の穂先で眠る「彼女」?
- ルネ・ゲイン「逆さのアナロジー」:現象をあらしめるすべての「質」の由来である(超越的)「統一性」とそれら一切の「質」を奪われたところの量的「画一性」は、まさに「正反対」であるがゆえに「似て」見える
- 常に同一の源泉から湧き出る水のような「オリジナリティ」と新しい感覚的刺激を求めて自転車操業を続ける「新奇性」は、似ている
→コルセスカとトリシューラ『邪視』と『杖』の相互参照姉妹?
- 常に同一の源泉から湧き出る水のような「オリジナリティ」と新しい感覚的刺激を求めて自転車操業を続ける「新奇性」は、似ている
- 永遠で絶対・無限の「非顕現」:それ相対しうるいかなる「外部」「他者」も存在しない絶対不可侵の真実在、究極の均衡
- 暴力の行使と制止の行動科学:ミルグラムとジンバルドーの実験。アイヒマンの再現。
- アブグレイブ刑務所についてジンバルドーは語る「腐っていたのはリンゴではない。樽のほうだった」
- 人間は同種への暴力と正義感の両方を生まれつき持ち、常にそれはせめぎ合い続ける
- ヘイトスピーチ:構造的暴力。静かに丁寧に語っても、迫害を導くならヘイトスピーチ
- 暴力の根底には、「場所への暴力」があるのでは?
- 語りをめぐる暴力:囚人であっても当事者に語らせるべき。フーコー。監獄情報グループGIP
- 謡曲「葵上」:暴力をもたらす情念の解消
→二次創作における救い- 仏の教えを唱えることは、自らの声を媒介とした身体変容である
- 抑制された情念が怨霊となる
- いいかえれば、情念は、意思を宿す身体を離れることによって、抑制されないものになっていく
- それに対して謡曲は、明確な意思をもって打ちすえるという場面を作ることによって、意思を宿す身体と情念が再び結びつく瞬間を描き出した
- 逆説的ではあるが、身体と意思が抑制を放棄し、身体において情念がまったき形で表現されることによって、体の全面的な変容を通して、情念の新たなゆくえを開示することが可能になるのです
- 情念は、一人ではどうすることも出来ず、自分で自分を否定するという戦いに、勝利をおさめることは出来ない
- 戦ってくれる存在が謡曲ではいたから、情念を開放して成仏することが出来た
→クレイによるルウテトの撃破? - 謡曲において、六条の御息所が「他者に自分の思いを伝えようとする人物」として造型され得たのは、六条の御息所に抑制を強いたのが、世の人々ではなく仏の教えだったから
- 仏教によって人間の抱える情念が否定的に受け止められているからこそ、他者が自らと思いを同じくする存在として捉えられるようになったのである
- 謡曲において仏教は、自らが抱え込んだ情念を、自分ひとりで引き受けるのではなく、他者との関わりの中で具体的に表現しようとする方向に人を促すものとして捉え返されている
- 不動明王の過剰な慈悲(情)が、六条御息所の根底にあった光源氏への思い(情念)を上回り、慈悲が情念包み込んだ
- そう捉えることによって、荒ぶる思いのゆくえにひとつの希望を見出すことが出来たのだ
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ぼくが発達障害だからできたこと 市川裕司
- 『いま、会いにゆきます』などの恋愛小説がアジアで人気な小説家が、自分の障害/特性を肯定する自伝エッセイ
- あまりにもまっすぐな恋愛を描ける理由が、自身の障害にあるとしており、そこから発展して自身の人間観を人類の進化にまで広げて理由づけている
- 他人と関わりたくない、つねに過覚醒、過剰な感情、愛する人からも逃げてしまう癖など、その障害は結構ハード
- 小説を書き始めたのは、自己治癒のためだった
- センチメンタリズムやロマンチシズムは、悲しみによく聞く薬
- 脳神経が極度に活性化していて、あまりに感じやすくなっている人間には必須ビタミンにのように欠かせない
- 巻末には、自身も発達障害者の心療内科医の解説もついており、筆者の幻覚を見るサーダカウマリ能力(シャーマン体質)の説明だけでなく、キリスト教徒の立場からも発達障害者の存在を肯定している
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ポストヒューマン 新しい人文学に向けて ロージ・ブライドッティ
- 白人男性を基準とする人文学(ヒューマニティ)に対抗して産まれた概念、ポストヒューマンを考察している本
- 未来存在であるポストヒューマンについて実例や反証が出せるわけもないため、抽象的で難解な文章となっているが、考える糸口にはなるかもしれない
- ヴォルテールの『カンディード』に出てくるような楽観主義で終わるし、実はこれは、みんな内容を理解してない『裸の王様』的な本である可能性も否定はできないが
- ウィトルウィウス人体図(ダヴィンチが描いた、円に入った白人男性の絵)をパロディした猫と犬の図が掲載されていることが、端的にこの本の立ち位置を示している気がする
- ポストヒューマンになるということは、人間たちに無関心になるとか、脱人間化されるとかいったことではない
- それとは逆に、ポストヒューマンになることは、むしろ倫理的な諸価値を、領土的ないし環境的な相互連結を含む広い意味での共同体の福利へと、新たに結びつけ直すことを含意するのである
- こうした倫理的紐帯は、古典的ヒューマニズムにおける個々の主体の自己利益とも、道徳的普遍主義(人権を、すべての種やヴァーチャルな存在物、分子的な合成体へと拡張することに彼らが寄せる信頼)とも異なる
- ポストヒューマン理論はまた、倫理的関係の根拠を共同のプロジェクトや活動といったポジティヴな基盤におくのであって、脆弱性の共有というネガティヴないし反動的な基盤におくのではない
- 「共同制作の道徳性」:非営利性、集合的なものの強調、関係性およびウイルス的な汚染の容認、潜在的ないし潜勢的(ヴァーチャル)な選択肢で実験し、それらを現勢化(アクチュアライズ)させようと協働すること
- そして理論と実践を新たに結びつけ、その中心的な役割を創造性に付与すること
- ポストヒューマン的思考は、変化しつづける世界とシンクロしつつ、ポジティヴな差異を作り出そうとするその営みを支えることができるのだ
→アキラくんとトリシューラの国造り?
- たとえば方法論的ナショナリズムという確立した伝統に抗して、それとは異なる思考のイメージ(ヨーロッパ普遍主義を退け、そのかわりに惑星規模の多様性が持つ力能を信頼するような思考のイメージ)を活性化することができる
- そしてこの世界は、わたしたちが共同で努力し集合的に創造力を発揮した結果である以上、端的にいってポストヒューマン的可能世界すべてのなかで最善のものなのだ
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母性のディストピア(文庫版) 宇野常寛
- 日本の問題を「肥大した母性」と「矮小な父性」の共犯によって成立した世界=「母性のディストピア」構造によるものとして、そこからの脱却を呼びかける、オタク文化と日本の批判書
- 全ての問題をそこに集約してしまう【邪視】の本なので、そこで考えを止めるのではなく、むしろこの本への批判から思考を再始動させるべきなのかもしれない
- 上下巻となった文庫版には、筆者のインタビューと富野由悠季監督との対談が収録されており、前者はそれを読むだけで本の内容や筆者の意図が掴めるのでオススメ
- 後者の対談も、それまで様々な人を批評してきた筆者が、逆に富野監督から批評される箇所があるので、わりと面白い
- 「母性のディストピア」とは(アメリカ追従の現実から目をそらした)一国平和主義と「普通の国」志願の対立であり、見たいものだけを見れる環境を提供するデータベース(母)に依存して20世紀イデオロギーに回帰するという矮小な父性でもある
→ルウテト/ディスペータの庇護? - 著者がその解決策として提示しているのは、世界を物語ではなく情報の束として把握するような、80~90年代前半オタクな成熟だ
- 物事を硬直したイデオロギーのような物語で片付けてしまうのではなく、実利的に判断するリアルポリティクス、『シン・ゴジラ』の技官たちが代表するような失われた知性こそが日本に救いをもたらす真の「ニュ-タイプ」の資格なのだ
- 彼らが持つ、ただ目の前にある情報を整理し、謎を解き明かし、情況をコントロールする快楽を得ることから公共性へとつながる回路こそが、「母性のディストピア」を支える「父」にならない成熟の形なのである
→『サイバーカラテ』の機能、経験のビッグデータ化による選択肢の作成?
- 戦後サブカルチャーの想像力には、時間的永続を司る夫婦/親子的な対幻想ではなく、空間的永続を司る兄弟/姉妹的な対幻想、横のつながりの記述する関係性が必要
- 家族という閉じた関係性の中に収まらない、相補性の片割れ達による、寄り添いのアイデンティティ・ゲームを維持し続ける関係=同性間の友愛的な関係が必要なのだ
- かつて吉本隆明が切り捨てた兄弟/姉妹的な対幻想こそ、イデオロギー回帰への抵抗の拠点となりうるのである
→アズーリア=マリーとセレクティ=ベアトリーチェ?
- 現代はあくまで個と個として、性格には相補性の片割れとして、境界を超えて誰かとつながることが要求される時代だ
- 地域コミュニティからテーマコミュニティへの、中間的なものの変化とも言える
- 媒介なく直接つながるのが「境界のない世界」であるネットワークの世紀だが、共同幻想を通じてしかつながれないオールドタイプたちが「壁を作れ」と叫んでいる
- 世界が非物語的なデータベース≒市場となったとき、世界と個人、公と私は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」として結ばれることになる
- このとき私たちに要求される成熟は、物語の語り手/読み手としての成熟ではなく、ゲームのデザイナー/プレイヤーとしての成熟に他ならない
- 世界と個人をつなぐものは、静的で、一方向的で、開放的な文学ではなく、動的で、双方向的で、開放的なゲームに他ならない
- 他人の物語への感情移入によって成立するものから、自分の物語を自分で演じるものへの変化と言い換えても構わない
- ジョン・ハンケ/Googleの「思想」:世界の全てを情報化し、検索可能にすればこの現実の世界は無限に拡張され、それに触れることで人々は成熟し、感動し、創発性を引き出されていくという確信
- 十分な情報かと検索能力を授け、適切なゲーミフィケーションを施して環境整備を行えば、人々はこの豊かな現実世界に触れることで自発的に自分だけの物語を発見していく
→コルセスカの【コキュートス】?
ポピュリズムとは何か ヤン=ヴェルナー・ミュラー
- 一級の政治思想史研究者による、ポピュリズムを「反多元主義」と定義し、民主主義への脅威とする独自説
- 訳者解説を含めても140Pと短いが、内容はぎっしり充実している
- 批判だけでなく、ポピュリズムがのさばる原因分析や、さしあたってどう振る舞うべきかまでしっかり触れているところが実に素晴らしい
- 著者は、ポピュリズムが、民主主義に役立つものや民意の反映だとする解釈を、全否定している
- それは、「人民」から隔たってしまった現代民主政治を活性化させる好機などでは、決してない
- ミュラーは、、ポピュリズムを政治世界を道徳主義的に認識するものと捉えている
- そしてポピュリズムは、ある特定の言語を用いる政治でもある
- すなわち「自分たちが、それも自分たちだけが真の人民を代表する」という主張こそが、ポピュリズムなのである
- さらにポピュリストは、「真の人民の意志」というお題目によって、自分たちが権力を握る事を正当化し続ける
- 彼らは、選挙に敗北しても、それは「真の人民の意志」ではなかったと言い訳し、権力を握れば自分たちに都合がいいように選挙制度を改変する
- ポピュリストは、陰謀によって人民から乖離していると「エリート」を批判するくせに、最終的には自分たち自身が批判していた「エリート」そのものとなってしまうのだ
→一種の神格を使い、自分たちの振る舞いを正当化する『呪文』
- 民主主義は、決定が民主的な手続きを経て形成されたからといって、それが「道徳的」というわけではないこと(逆に言えば、あらゆる反対派が非道徳的とみなされなければならないわけではないこと)を前提としている
- 民主主義においては、マジョリティの判断は誤りうるし、議論の対象になると想定され、マジョリティの交替が前提とされている
- 他方でポピュリズムにおいては、あらゆる制度の外にある同質的な実態の存在が前提とされ、そのアイデンティティと理念は完全に代表されうると想定れている
- 最後に、そして最も重要な点だが、民主主義においては、「人民」は、非制度的な方法では決して現れることはないと考えられ、さらに、議会における多数派は「人民」ではなく、人民の名において語ることは出来ないということが受け入れられている
- 他方でポピュリズムは、ちょうど逆のことを想定しているのだ
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- 他方でポピュリズムは、ちょうど逆のことを想定しているのだ
ポピュリズムの理性 エルネスト・ラクラウ
- 「ポピュリズム」が負のレッテルとしてしか扱われない状態を批判し、その実態を真摯に探求している研究書
- 解説の人も半ばさじを投げる難解さだが、あくまで中立的にとしてポピュリズムを問うその視点は、重要だと思われる
- フロイトの集合的アイデンティティ形成の理論(「集団心理学と自我分析/1921年」)にも触れている
- ポピュリズムこそが、政治的なものそれ自体の存在論的な構成について何かを理解するための王道である
- 実践編として、著者の友人かつ共著者であるシャンタル・ムフが、左派のポピュリズムによって熟議民主主義を実現しようと呼びかける『左派ポピュリズムのために』がある
- リーダーに対して、群衆が自分たちとの類似点を見つけるから、集団としてまとまる?
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ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 吉田徹
- ポピュリズムに「民主主義の自己回復運動」としての肯定的な面を見出しているNHK出版の本(2011年刊行)
- 適切な扱いをすることで、その長所を活かし、現代の閉塞した政治を改革することを呼びかけている
- 読みやすく、ポピュリズムが発生した事情や背景がよく分かる
- ポピュリズムは、私たちが人々の意思を「人民主権」という至高の存在として戴く「民主主義」に生きる限り、その強度や程度は異なっても不可避的な形で生じる現象
- その現象は、現状に対する「否定」を原動力にして、現状の民主主義の活性化に資することができる
- それは、ある地点から見ればきわめて独占的で一方的な支配関係に置かれている現状を、「人々」のちからを統合することで打破しようとする、破壊的かつ革命的な力である
- むしろ政治に必要とされるのは、ポピュリズムだけでも、民主主義だけでもなく、この両者を接合する論理をこれから編み出していくことである
- もちろん、ポピュリズムにも強みと弱みがある
- 強みは、それまで社会の中で明確に可視化されず、表出されていない人々の不満を俎上に載せ、既存の支配層やエリート層にこれを突きつけることが出来ることである
- 弱みは、不公平さと敵対を煽り、人々の利いかに損なわれているのかを強調して、シンボリックな敵を排除しようとすることである
- もし、このポピュリズム民主主義が内包している現状否認のちからを、より積極的な価値を生み出す力へと転換していくことが出来れば、ポピュリズムと民主主義ははじめて一体となる
- ルーズヴェルト大統領のニューディールやイギリス労働党の第三の道、民主党がネオリベ社会に「友愛」の重要性を説いたように、
- 理性に対する情念の適切な逆襲こそが、民主主義に必要なバランスを回復することに成る
- つまり、政治の情念的な次元にあるポピュリズムと理性的な次元にある参加民主主義との間で戦線協定を結び、変革の意志とすること
- これこそが、ポピュリズムの危険性を避けつつ、その目標を達成する方法である
- ルーズヴェルト大統領のニューディールやイギリス労働党の第三の道、民主党がネオリベ社会に「友愛」の重要性を説いたように、
- ポピュリズムを否定することは、現代の民主主義が抱えているジレンマや問題を無視することににつながる
- この現実から脱却できなければ、ポピュリズムはこの世から決して消去されない
- 徹底したポピュリズムこそが民主主義を救う
- 私たちに残されている希望は、ここにある
- ポピュリズムにおける「人々」概念は伸縮自在
- だから、「人々」のなかに異質性を認め、それを普遍的なものに向けて再構築することが出来るようなポピュリズムを構想するべき
→ポピュリズムの化身であるルーシメア(レオ)
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ホワイト・フラジリティ ロビン・ディアンジェロ
- 密かに存在する人種差別とそれを指摘されることに耐えられない「白人の脆さ」(ホワイト・フラジリティ)を自覚し、自分の意識から社会を変えていくことを訴えている本
- 「白人性」が社会的な構築物であり特権を守るために後から作られたことに加え、いかに自分たち白人が、差別意識を通じた結束や特権を享受しているかを明確に書いている
- この本の最大の特徴は、現在の反人種差別(レイシズム)活動の限界をはっきりと示していることである
- なんと、著者が人種差別の解決法として語る「無限の自省」は、宗教と呼べるほどの努力と献身を必要とするものなのだ
- 確かに、「差別をなくすために、白人たちが謙虚に自省するべき」「社会を変えるために一人ひとりの個人が変わろう」と呼びかける、彼女の理論には一理ある
- だが、その「トレーニング」が社会の根本的な変化につながることは、おそらく無いであろう
- 旧ソ連のように、人間に過大な努力や献身を要求するシステムは、(宗教以外)ほとんど滅びていったからだ
- 例外的な事例である著者は、人種差別を指摘する矯正講座を開くことで生計を立てている
- そのため、彼女自身にとっては、無限に自省し「悔い改めている倫理的な白人」を演じることにはメリットしかない
- しかし、連合赤軍の「総括」がそうであったように、こうした動きは、しばしば暴走するものである
- 著者の発言で特にそれが表れているのは、"「白人の脆さ」は「弱さ」ではない""レイシズム(偏見自体)は悪ではない"といった、実態とかけ離れた断言である
- 自らの欠点を自覚することに痛みが伴うことが、「弱さ」以外の何だと言うのだろうか?
- そして、この本にもあるように、人種差別発言が発覚すれば即座に解雇や停職される社会において、レイシズムが「悪」以外の何だと言うのだろうか?
- 著者の語るように、レイシズム自体は、人間から切り離せない偏見という欠点、そして社会的システムの産物なのだろう
- けれど、その「罰」を受け責任を問われるのは、不運にもレイシズムを表出させてしまった個人であり、社会ではない
- この状況下で「あなたにはレイシスト的な部分がありますよね?」と質問したところで、自己を素直に見つめてそれに正直に答える者などまずいないだろう
- 実質的に「あなたは、社会から排除されるべき邪悪ですよね?」と詰問しているのと同じことだからだ
- 厳罰、評価の下落、コミュニティからの追放、そして自己認識(アイデンティティ)の損傷が待ち受けているなか、自己の偏見を冷静にチェックするのは不可能に近い
- そのため、彼女自身にとっては、無限に自省し「悔い改めている倫理的な白人」を演じることにはメリットしかない
- 著者には、人間の弱さへの配慮が無く、個人に過大な責任を負わせすぎる傾向があるように思える
- 彼女自身が「個人主義イデオロギー」を批判しているにも関わらず、個人の自省に期待をかけすぎているのだ
- (その全てが彼女のせいではないが)罪の「赦し」と社会復帰への保証を伴わないような差別意識の追求は、単なる異端審問でしかない
- せめて「差別意識があってもそれは社会や文化のせいだからあなたは悪くない。今から一緒にリハビリして、少しずつ直していきましょう」ぐらいの発言が欲しかったところである
→『地下』の反差別が強制される社会体制? - また、筆者は「(ネオナチのようにあからさまな)悪いレイシスト」像を比較対象にすることで自己の保身を図る「善悪二元論」の世界観を否定しているが、
- 彼女自身も(恵まれた教育環境によって)「正しいレイシズム知識/観点」を持つ「良い白人」の立ち位置にいることには、全く気づいていないようである
- 著者は、「白人性」を人間のデフォルトとすることで人種問題を他人事にしている白人を批判しているが、自分と同じ「正しい知識」を誰もが持つものと決めつける彼女の無邪気な姿勢は、
- (貧困などのため「進んだ人権教育」を受けられなかった)他の白人たちに対して、新しい「白人性」をもって優位に立とうとしているようにしか見えないのである
→【レイシズム変数】
- 彼女自身も(恵まれた教育環境によって)「正しいレイシズム知識/観点」を持つ「良い白人」の立ち位置にいることには、全く気づいていないようである
- 白人の脆さ:白人に見られるある固有の現象。「支配の社会学」。単なる自己防衛や愚痴ではない
- それは白人至上主義に向けた社会化の結果であり、白人の優越性を守り、維持し、再生産する方法なのだ
- ブルデューの理論のうちの三つ、「場」と「ハビトゥス」と「資本」が白人の心の脆さに関係あるとされる
- 場:その人がいる特定の社会的文脈
- 資本:特定の場において人が有する社会的価値、権力や立場の麺で自分をどう見るか、そして他者からどう見られるかということ
- 受付係が用務員室へマジックペンをもらいにいくときは、権力ラインがシフトする
- ハビトゥス:行為者が繰り返す実践ならびに、行為者同士や社会環境上の他者との相互作用
- それは反復されることで社会化され、我々の考えや認知や表現や行動を作り出し、再生産し続ける
- その人が習慣的に知覚したり、解釈したり、周囲からの社会的合図に反応したりすることが、ハビトゥスだと考えられる
- 他者の立場への反応だけでなく、自分自身の内面化した認知も含まれる
→『邪視』?
- 私たち白人は。社会化を理解していない
- 文化のレンズを通さなくては、人の目は、どんな人間社会でも機能することが出来ない
- しかし、西洋文化においては、こうした文化の枠ぐみについてじっくり考えることが困難だ
- その原因は、個人主義と客観性という二つのイデオロギーである
- 個人主義とは、一人ひとりが特別な個人であり、人権や階級や性別といった集団の一員であることと、各人に与えられる機会とは無関係であるという考えを作り、伝え、広め、強化する筋書きである
- 個人主義は、個人の成功を妨げる本質的な障壁などは存在せず、失敗は社会構造が引き起こすものではなく、個人の特性によるものだと主張する
- ゲイツの息子が労せずに特権を得たことが歴然としていても、私たちは自分が労せずに得た優位性について問われた際には、必死で個人主義のイデオロギーにしがみつくのだ
- また客観性は、あらゆる先入観から人は逃れられるということである
- これらのイデオロギーによって、白人が自分の集団としての体験について探求することが非情に困難になっている
- 社会集団など重要ではないし、誰もが平等なんだと抗議したとしても、主流文化の中でどう定義されるかによって、個人の体験は大きく異なることが分かっている
- 残念なことに、こうした信念が私たちの偏見を逆に守っている
- 白人のアイデンティティは本質的に人種差別的であり、白人の存在は白人至上主義の制度の外にはない
- だから私は「白人未満(レスホワイト)」になろうと努力する
- それは、人種をめぐる非白人の現実に目を開き、興味を抱き、共感を持つことである
- 私は、自分の人種差別的な行動パターンを受け止めることも出来る
- むしろ、より改善できるように、より明確にパターンを見つめることに興味をかきたてられるのだ
- 最終的に、私は自分自身の解放と正義感のために白人未満になろうとしているのであって、それは非白人を救済するためではない
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- 私は、自分の人種差別的な行動パターンを受け止めることも出来る
ほんとうの構造主義 言語・権力・主体 出口顯
- あまり分かりやすくはないが、わりと独特のエピソードが紹介されている本
- 構造主義は、強固な体系の構築を目指したり、他者との相互作用によって主体が形成されるという思想ではない
- 自己はすでに他者を巻き込んでいる存在
- 他者や他者との関係のネットワークが展開する場は、個人から切り離された独立の外部に存在するのではなく、個人の内部に巻き込まれている
- 言語の拘束や言語を媒介にした関係性に拘束されることこそが、主体の出発点である
→アズーリア?
- レヴィストロース「人を喰う(アントロポファジー)社会」逸脱者から集団との絆を奪ってしまわない社会:脅威となる存在や異質な他者を排除してしまうのではなく、自らのうちに取り込み、それらとの対において自らをとらえ返し、組み替えようとする
- 単一性を分解する「双子の思想」自己を「一」ではなく「二」とする
→相補の魔女セレクティフィレクティ?相互参照の幻想姉妹? - シベリアのユカギール族、生まれ変わりだが同時にその人自身でもある
- アイビー(影または魂)は、体中に分散して、お気に入りの身体部位にやどり、それぞれが別の人格となる
→シナモリアキラと左手のディスペータ?
- アイビー(影または魂)は、体中に分散して、お気に入りの身体部位にやどり、それぞれが別の人格となる
- 構造の中身は変化しても、構造同士の関係は変化しない
- 神話と量子論は、人間が日常とは異なる現実をどうとらえ、それにどうかかわっていくことが出来るのかを示す形式の二様態というべき
- それらは、有用性や課題解決を求める硬直した価値観(権力と言っていい)に揺さぶりをかけるのである
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