推薦図書
- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
- 最下部のコメントボックスで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
- ほんの少しでも推薦図書に見えたのならそれが推薦図書です(邪視)。追加しましょう。五十音順に並んでいます。
- 編集カラテ入門
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*** タイトル
-説明1
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- NOKOTTA! 文章が出来たら、Webブラウザに戻り、画面の一番上の「編集」を押します。
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- COMBO! 「プレビュー」を押して、うまくいってるか確認します。まだこの段階では、誰にも見られません。
- EXCELLENT! 「ページの更新」を押せば、完成です!!
思想
ロボット/人工知能/サイボーグ関連
狭義の呪術関連
や行
U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面 森達也
- 筆者は、オウム真理教の実像に迫ろうとしたため、テレビの世界で干された
- そんな彼が、今度は相模原の障がい者大量殺人事件の犯人に迫ろうとした本
- 様々な専門家との対話を通じて、日本の司法・行政・メディアそして国民の抱える欠点を浮き彫りにしている
- 筆者の批判は鋭く、政府やメディアの愚かさや単純な二分法思考にしても、結局は私たち国民に由来する、とその責任を追求している
- 正常と異常の間には、グレーゾーンが広がっており、恣意的な境界線しか引くことが出来ない
- それでも、線を引かなければ、裁きを下すことは出来ない
- 日本の裁判では、精神病などの可能性があっても、有罪にするために責任能力を認める鑑定だけを採用する
- そしてそんな裁判も、国民感情に配慮してのものだとされているのだ
- 植松が社会に提示しようとした無慈悲でいびつな世界の断面は、多面的に多重的に多層的に解釈されないまま、東京葛飾区にある拘置所の一室で今も閉じ続けている
- ただし、まだ終わっていない
- たとえもう植松にはあえなくても、今の思いや気持ちを確認できなくとも、今ある材料だけで新たな解釈はこれからも可能だ
- 憂鬱ではあるけれど、その望みはある
- 『歎異抄』の親鸞の言葉「業縁」を、著者は「環境設定」と訳す
- ある条件下で環境が設定されたとき、人は善良なままで、ありえないほどに残酷な行いをしてしまう瞬間がある
- もちろんだからといって罪は軽減できない
- 司法の手続きは規定通りに行われるべきだ
- でも悪を断罪しながら社会は同時に、安易な善悪二元化に身を任せるのではなく、
- 人は(業縁さえ働けば)優しく善良なままで人を殺すことができるという事実を、しっかりと認識しなくてはならない
- これを認めることはつらい
- なぜなら、自分と犯罪者の境界が曖昧になるからだ
- でもそれは現実だ
- だからこそメディアも加害者の悪辣さや冷酷さを煽り、被害感情を強調する
- こうして善悪の二元化が加速する
→呪術『レイシズム変数』
- 植松の犯罪は、差別意識やヘイトに根ざしているとは思えないのです
- 彼自身には差別的な意識はないけれど、ネットで氾濫している差別的で邪悪な言葉や意識を拾い集めて、深く考えないまま身につけた可能性はありますね
- ミノムシだと僕は思う
- 深く何も考えないまま、身の回りにある素材で自らのアイデンティティを形成する
- でもそれはミノムシ本体のアイデンティティではない
- いわば環境設定だ
→アキラくん?サイバーカラテ的ブリコラージュ? - そして親鸞にあやかれば、人は環境が変われば悪人にもなるし善人にもなる
- ただ、自分で自分に反論すれば。この発送を拡大解釈してしまうと、例えばホロコーストだってヘイトや差別と言えなくなる
- あらゆる事象は境界線上にある
- つまりグレイゾーンであり、まさしくスペクトラムです
- それこそ無理やりにカテゴライズしないほうがいい
- でも彼の犯罪の動機を安易にカテゴライズする世相やメディアに対しては、やはり異を唱えたくなる
- クメール・ルージュの虐殺の狂気を支えていたのは。差別やヘイトではなく、誰もが平等な理想の社会への過剰な希求だった
- 全体への奉仕、集団に埋没する個といった補助線がなければ現象を読み解けない
- ポルポトもヒトラーも毛沢東やスターリンも同様だ
- それにそもそも、差別とカテゴライズは何が違うのか
- カテゴライズする行為と差別性は分けられるのか
- ヘイトはないと断言できるのか
→三章ラスト、アズーリアがたどり着いた思想
- 発達障害児支援組織代表・郡司真子
- 軽い発達障害の人は、自分の思い込んだ妄想を現実と思い込んでしまうことがよくある
- そんな発達障害の引きこもりも、対話ができる相手に出会えてオープンダイアローグすれば改善する
- 被害者からすると死刑にしたいと思うことは当然です
- でも私は自分の子供とか担当している子供たちが、悪意がないままに事件を起こすかもしれない子供たちなので、
- 死刑ではなく彼らを治療していく方向性を真剣に模索しないと、事件は今後もなくならないと思っています
- 彼らの命は不要であるという思想を、死刑によって社会と国家が実践しているわけで、ならば人を殺すことを肯定していることになる
- また事件を起こすかもしれないから殺してしまえという思考ではなく、なぜこれほどに凄惨な事件を起こしてしまったのか、それをもっと分析して、
- できれば治療をして、彼らが罪を侵さずに生活ができるような社会に変えなければいけないと思っています
- いずれにしても、今の学校制度や教育システムが、彼らを歪めたり追い詰めたりしている大きな原因なので、それを変えなければならない
- もうすでに傷つけられたり認知が歪んでしまって破壊的行動をやってしまう人たちに対しても、改善をするための療育とか治療につながる活動は可能だし、必要だと思っています
- 彼らは何らかの学び直しが必要な人達
- でもそれで変わるんです
- 本当に。びっくりするほど劇的に
- 学びの機会を失った人たちにもっともっと投資することが、必要なんだと思います
電子化◯
ユーザーがつくる知のかたち 西垣通・監修
- 分かりやすい新時代の「知」の入門書
- 集合知には、二つの意味がある
- 1つ目が、集団的知性(ダグラス・エンゲルバード提唱)多数のユーザーの知性を接続することによって現れる新しい知であり、アップル系
- 2つ目は、群衆の叡智(ジェームズ・スロウィッキー提唱)一握りの専門家が下す判断よりも、普通の人の普通の集団の判断を集合する方が、実は賢いというもの
- これは多数の人の参加により、専門家の知が不要になり、人類全体の知が発展していくという考えであり、ユーザー参加型芸術とも関係ある
- 機械と生物が遭遇するところでは、生物は機械によって一方的に機械に合うように変化させられてしまう
- 生物は散逸系であり機械は決定論的なため、機械と生物は共感し得ない
- 参考文献豊富だが、内容のわりに分厚いので、図書館か電子書籍を利用推奨
電子化◯
優生学の名のもとに ダニエル・J・ケルヴズ
欲望の現象学 ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実 ルネ・ジラール
- 人間の欲望はライバルの欲望の模倣であり、欲望の対象は実は競い合いのための単なる当て馬に過ぎない、とする「欲望の三角形」説で有名な本
→「三角形」は、幻想再帰姉妹とシナモリアキラ、断章編の王たちなど、アのあちこちで出てくる構図 - その実態は、ジラールさんの個人的な分類による文学批評である
- 前述の「三角形」を意識して分かりやすく表現しているものがロマネスクで良いものであり、
- その逆がロマンティークであり名作と言えど劣っていると言わざるをえない
- それが著者の持論である
- ただこの本、かなり読みにくいうえに論の立証も危うい
- なにしろ、ジラール氏は注もつけずに次から次へと複数の作家の名作を引用し、独自定義で評価を下していくのである
- しかも、その中には超大作で知られるプルーストの『失われた時を求めて』まで含まれるのだから、これはもう原典にあたるだけでも大変であろう
- もちろん、スタンダール『赤と黒』においてかき立てられる欲望の分析など、シンプルに分かりやすく興味深い話も存在しているし、
- ただ、恋愛のみならず、成り上がりのブルジョア階級が上流階級に憧れる心理などは「三角形」の説がよく当てはまるので、
- そのあたりに興味があるなら読んで損はしない
- 「三角形」の概要をつかむだけなら、本の初めの部分を読むだけでも十分である
- 虚栄と空虚を表す語「vanite(ヴァニテ)」が出てくるし伝道の書(ソロモンの書?)の名前も少し出てくる
電子化×
夜と霧 ヴィクトール・フランクル
- 強制収容所で、精神科医の著者が見出した「人生の意味」の見つけ方
- 生きがいの外部依存
→外力 - また、著者が開発した心理療法「実存分析」(のちにルートヴィヒ・ビンスワンガーによりロゴセラピーと改められる)の原点としての発想も記述されており、
- 「苦悩の冠」の章に、収容所の中でさえ最後まで残る倫理的に高い価値の行為
- つまり、人間が、外部から強制された存在の制限に対して、いかなる態度をとるか、という価値について書かれている
- 同様の例として、自らの死を悟った女性の友人となった、ある樹の話もある
- その樹は、ただそこにあるだけで、女性にとっては十分に価値があった
- 女性の話によれば、樹は「私はここにいる。私はいるのだ。永遠のいのちだ……」と答えたという
→イマジナリーフレンド?人間に最後に残された『自由』、『邪視』
- 「苦悩の冠」の章に、収容所の中でさえ最後まで残る倫理的に高い価値の行為
- こうした「手法」を見いだせなかったり、それに頼ることを許せなかった人々がいることも忘れてはならないが、かといってこうした「手法」を極端に嫌うべきでもないだろう
- 筆者の思想が書かれた本には、他にも『それでも人生にイエスと言う』などがある
電子化◯
ら行
〈リア充〉幻想 仲正昌樹
- 2008年6月に起きた「秋葉原通り魔事件」に関してのエッセイ
- 「自分は今限界状況にある」と思い始めると、自分の置かれた状況を客観視出来なくなる
- 「本当の●●」を純粋に追い求め過ぎてはいけない
- 「まわりだけは楽しいんだ、そこから自分は疎外されている」という発想を相対化し「本当に」楽しい人なんていないんだと思った方が良い
- 無理に連帯する必要も無いし、友達とか彼女といったものに、過剰な憧れを抱く必要も無い
- たとえ「酸っぱいブドウ」のような開き直りの心理でも、他人の目を気にせず生きられるとしたら、それでいいではないか
リーディングス日本の教育と社会18 若者のアイデンティティ 監修・広田照幸 編著・浅野智彦
- 1990年代における、様々なアイデンティティの論をまとめた本
- 中島梓・宮台真司・大澤真幸のオタク論や、阿部真大の職場に適応した夢を見るようになる若者研究など、それなりに幅広くまとめられている
- 本を通しての結論は無いが、アイデンティティの「論じられ方」を振り返るには適している
- 土井隆義『〈非行少年〉の消滅ー個性神話と少年犯罪』の「個性的な自分という強迫観念」や
- 宮台真司『制服少女たちの選択』の、オタク差別は、流行を主導するイケてる「リーダー」とイケてない「フォロワー」を区分するための人格類型差別だった、という話などは現代でも読むに堪えるかもしれない
利己的な遺伝子 リチャード・ドーキンス
- 本来とは意味が少し離れてしまったがミームの発祥元ということで
- タイトルからはSFホラー『パラサイト・イヴ』のような印象を受けるかもしれないが、実際には「不滅の遺伝子」(タイトルボツ案)とした方が適切に思える遺伝子についての学術書である
- 内容はごく分かりやすく読みやすいが、そのぶんやたらと長く、ミームについての記述は遺伝子が「複製子」の一つでしかないことを説明するための一例として挙げられているに過ぎない
- というか、遺伝子だけでは人間の性質は決まらないとか、表現される特徴は遺伝子の複雑な性質によるもので容易には計算できないとか、遺伝子自体も組み合わせをバシバシ変えていて「不滅の粒」という概念だけではその性質は捉えられないとか、「遺伝子が全てを操る」的なオカルト陰謀論とは真逆の内容である
- それでも、遺伝子に興味があれば楽しめることは間違いないだろう
- ◯周年ごとに新しい版が出ているので、追加の解説が気になるなら最新版を入手するのがオススメ
倫理 〈悪〉の意識についての試論 アラン・バディウ
- ポリコレ(1990年代フランス当時)を批判している本
- 説明不足な悪文であり、解説で挙げられている参考文献を読んでもたぶん理解できないが、ポリコレについて考える参考にはなるかも
- 「〈悪〉とは複数の真理の影」など、そのユニークな視座は面白い
- amazonのレビューが良質なのでオススメ
- 「倫理という」イデオロギーは、〈人間〉を犠牲者と捉えるものの見方、異国趣味、「西欧」のさもしい自己満足である
- いったい誰が、人道的派遣や慈悲深い外人部隊の介入といった事態に、普遍的とみなされていた〈主体〉の分裂を見ずに済ませられるだろうか
- 犠牲者には、憔悴しきった動物がスクリーンに写し出されているといった役割が、また慈善家には、良心に基づく介入という役割が――こうした分裂が、同じ事態に同じ役割をいつも割り振ってしまう理由とは何か?
- 世界の悲惨にもたれかかったこの倫理が、犠牲者としての〈人間〉の背後に、良き〈人間〉つまり白-〈人〉を秘匿していることを、誰が感じ取らずにいられるだろう?
- こうした文明-市民化という口実の下でなされる介入は、この状況を犠牲にさらされている状況と理解する、最大級の侮蔑を要請している
- 状況の野蛮は「人権」という視点からしか考慮されない――いつだって政治的な思考-実践を必要とするよううな政治状況が問題だというのに
- 真の人権とは、それ自体の権利においてみずからを肯定する「不死なるもの」への権利であり、あるいは、その主権を苦痛や死の偶発性に対して行使する〈無限なるもの〉への権利なのだ
- 「死を免れないもの(犠牲者)とは他なるものとしての自己という存在」に踏みとどまろうとする抵抗にこそ、〈人間〉がある
- 倫理的「合意」が〈悪〉の承認にもとづくとしてしまうことに問題がある
- ア・プリオリに承認された〈悪〉に対抗し倫理的な政治参加(アンガージュマン)に価値を賦与することだけが問題なら、現状に対するなんらかの改革を構想するために、どこから出発すればよいというのか?
- さまざまな差異とは、首尾一貫しない当たり前の現実があるということにすぎない
- 「他者の承認」というモチーフによっては、いかなる具体的状況も解明されえない
電子版×
- 「他者の承認」というモチーフによっては、いかなる具体的状況も解明されえない
零度の社会 詐欺と贈与の社会学 荻野昌弘
- 明確な規範が通用しない余白の世界=詐欺師の視座=「零度の社会」の概念を、社会学に持ち込むべきだと主張している本
- 扱う資料が多めのわりに、詐欺師の実態などのデータ不足だが、興味深い視点だと思う
- 社会を成立させている規範は、隅々まで浸透しているわけではなく、規範が通用しないような余白・社会のスキマが必ず存在する
- そこでは社会の規範が通用せず、その状況に応じた決断をしていかなければならない
- 社会の余白=零度の社会は、不確定性に満ちた世界であり、暴力が噴出することもあれば、ある意味で自由な人間関係が築かれることもある
- 零度の社会では、友情と敵意、贈与と詐欺が明白に分かれていない
- 詐欺への作為と贈与への意志は、未分化でどちらにも転びうるし、ある状況が詐欺のようにも贈与のようにも見えるときさえある
- 詐欺的行為が可能となる、この余白の世界こそが、本源的ではないか
- 社会の現実が不確定な部分を持っているとしたら、社会について考える者は、詐欺師と同じ視点に立つ必要があるだろう
- 道徳に覆われた世界を、今一度その原点にある純粋な詐欺、純粋な想像力、純粋な変身が可能な状態に立ち返って考えるのである
→ゼド?変身者?王殺し?
- 道徳に覆われた世界を、今一度その原点にある純粋な詐欺、純粋な想像力、純粋な変身が可能な状態に立ち返って考えるのである
- ある道徳的な立場を取ると、みずからの道徳が絶対的であることを絶対的であることを示すために、それにしたがわない者を差別することになる
- ところが、ある道徳の差別性に対し戦おうとする反差別の道徳道徳・思想も、差別は悪であるというという道徳に準拠する限り、反差別の思想にしたがわない者を攻撃し、差別することになる
- 反差別の道徳は、逆説的に差別を生み出してしまう可能性をはらんでいるのである
- この悪循環に対して、社会学者は、限りなく道徳とイデオロギーから遠ざかることで、差別の有無を論じること自体が無意味であるような場を模索するであろう
- そのような立場にとっての理想は、道徳も規範もなく、しかも統一が取れているような零度のイデオロギーの世界=純粋な詐欺師の「公平と寛容性を兼ね備えた視点」である
レイシズム 小森陽一
- 思考のフロンティアと題されたシリーズの一冊であり、人種差別に関する思想や参考資料を比較的簡潔にまとめている本
- まえがきで「六本人」という(出版当時はやったらしい)キャッチコピーについて熱く語っていたりするあたり、著者の主張の要点は、人種差別を利用した階級対立の隠蔽や排除の構造にあるようだ
- 前半は、ルネ・ジラール経由の赤坂憲雄「スケープ・ゴート理論」と、見下しと他者化を「共有」するように求める言語コミュニケーションとしての解釈である佐藤裕の「差別行為の三者関係モデル」の2つの説の紹介、
- 後半では、永井荷風の『悪寒』を用いて、アイロニーによる差別の乗り越えを提唱している
- しかし、この本自体が「差別者」を嫌悪させることで、著者の主張に共感する同類を増やすテクストであることへの自覚がなさそうなあたり、著者本人がこの主張をあまり消化できているようには思えないのが、難点
- 用いられている「動物の脳」と「人間の脳」のアナロジーにも、「差別者」に対する差別意識を強化する要素がある
- また、紹介されている参考文献は豊富だが、その中には、難解なことで有名な哲学書などもあるので注意のこと
- アイロニーは、既存の言語システムの中における、価値評価を伴った二項対立の自明性に疑いを突き刺していく
- 人種差別主義を克服する営為は(それぞれの言語システムの中で「自明」のこととして使用されている)肯定と否定の価値評価を伴った/言葉相互の結合関係の網の目全体に対して/「なぜ!?」という問いを発し続け、その耐久性を検証することなのだ
- そして、その耐久性の限界が明らかになったとき、言葉相互の結合関係の網の目全体を転覆する勇気と技量を持つことをためらわないこと
電子化◯
魯山人の美食 山田和
- 才人であり美食家だった北大路魯山人、その思想とレシピを紹介している新書
- ただ、そのレシピにはもともと正確な分量の表記が無く、彼の基本的な方針を示すのみとなっている
- また、素材の味を重視し上質にこだわる彼の料理は、山葵をすりおろしたり、高級な鰹節を鉋で削り難しい温度管理を果たした出汁を作ることを前提としており、
- 現代日本人では、納豆雑炊すらその方針通りに作ることは、難しいことであろう
- とはいえ逆に言えば、その一線さえ越えてしまえば、調理法自体は極めてシンプルであることも確かである
- また、その思想が反映された彼のレシピ自体も、読み物として独特の味わいがあるし、『美味しんぼ』の海原雄山のモデルになった横暴なエピソードも紹介されていて、面白い
- 魯山人は、自然の味覚を完成されたものとして捉え、それを体内に取り込んで自然と一体化することが食の歓びであり、
- 確かに魯山人は、人工的に作り上げた味を「下手物料理」と否定し、弟子の料理を「これは食材が旨い」と褒めず、
- 名店の料理を否定して持ち込んだ山葵醤油で食べたうえで「欧米に美味いものなし」と言い放つような、傲岸不遜な人物でもあったが、
- 同時に、客の残り物を調理し直して食べるような「美味いものを食べるのではなく美味く食べる」人物でもあった
- 不義の子として生まれ、養子先を転々としていた彼にとって、その美食思想こそが「暖かい巣」を得るための唯一の方法であったのであろう
- そしてまた、彼には当意即妙なところもあり、
- 能書きだけでしか判断できない味音痴には、名産地の食材だと嘘をつく方便を勧めるようなところも、あったのである
→情報の外力
電子化×
- 能書きだけでしか判断できない味音痴には、名産地の食材だと嘘をつく方便を勧めるようなところも、あったのである
老人力 赤瀬川原平
- 老いゆえの記憶力の衰えを、「老人力」とポジティブに捉え直しているエッセイ集
- 忘れることで、かえって吸収がよくなったり、活性化する
- 新しいものが入りやすくなる
- 物理的なものだけじゃなく、感覚に関しての話
- 忘れることのしょうがなさと言うか、面白さというか
- 老人力とは、ある意味で眠る能力のこと
- 「反努力」
- 意識しすぎると逆に眠れない
- 努力を目標から外して別の方に迂回する
- その結果、疲れて眠くなる
- 忘れることで、かえって吸収がよくなったり、活性化する
- 他にも、自分の力の限界が分かったからこそ、無限に広がるその限界内の世界の話など、
- 老いを経て得ることが出来るものについて、楽しく軽妙に語られている
- 溜息の確信犯的な性質
- あえて出す、一種の言語機能
- じっさいの疲れ以上に溜息をつくと、溜息が疲れを追い抜いていく
- 疲れの重圧がなくなってくる
→振る舞いの力?
- ちなみに、老人力の発見者は著者ではなく、彼以外の「路上観察学会」のメンバーである
- 著者は、発見の対象となった「発見物」だそうだ
電子化×
- 著者は、発見の対象となった「発見物」だそうだ
ロラン・バルトの著作
- アリュージョニスト世界の情報や記号の動きは記号論的にわかりやすい。
ロレンス研究 『羽鱗の蛇』 編:D・H・ロレンス研究会
- 作家、D・H・ロレンスの著作『羽鱗の蛇』(これまでは「翼ある蛇」と訳されてきた)を分析した論考集
- 日本においてロレンスは、わいせつ裁判の対象となった小説『チャタレイ夫人の恋人』の作者として知られている
- この本では、対象作品に含まれる性と宗教・精神的探求の要素などを、深堀りしている
- 他にも、ロレンスが追求したリーダーシップとファシズム的な要素、作品の舞台であるメキシコの歴史および文化的背景などを追求しているのが、良い
- ア関連としては、二元論、つまり男女や内部で二つに引き裂かれている自己を、
- 「聖霊」に象徴される力の媒介によって調和させ、「相対立するものの結婚」を成立させるというロレンスの思想が興味深い
- 論者の浅井雅志によれば、この「結婚」というのは通常イメージされるものとは異なり、
- 互いが互いを呑み込むことなく、また相手の中に自己を没入させることもなく、
- 比喩的に言えば、常に「闘う」ことによってしかその真の姿を維持できないような、ダイナミックな関係であるという
→『聖婚』、幻想再帰姉妹をつなぐシナモリアキラ?
- また、この作品における「聖霊」こそが、表題の 『羽鱗の蛇』=「鳥」と「蛇」をより高次の次元で統合させたものであり、
- アステカ族の主神ケツァルコアトルをモデルとした「神」である
→創アにおけるアキラくんとコアの共闘?
- アステカ族の主神ケツァルコアトルをモデルとした「神」である
- そして、もう一つの「昼」と「夜」の対立を止揚する存在として「明けの明星」が挙げられているのも興味深い
- にも関わらず、論者の知識不足なのか悪魔信仰的な誤解や偏見を避けたのか、堕天使ルシフェルへの言及が無いのは残念ではあるが……
- 他にも、ロレンスの宗教性の点では、彼は「万民に共通の宇宙的宗教」を追い求めていた、とされている
- それは、アニミズム的な世界そのものに意味がある世界観であり、人間に生の驚異を知らしめる力を持つ信仰であり、
- 「パン神の力」とも表現されている
→パーン? - ロレンスは、キリスト教を唯一の救いとするようなヨーロッパの世界観に限界を感じており、そこから抜け出そうとしていたのだ
電子化×
論語
- 「言理の妖精、語りて曰く」の元ネタ
- 儒教の開祖・孔子の言葉をまとめた入門書である
- それゆえに、多くの文章が子(し)、曰く=「先生はこうおっしゃった」という書き出しで始まる
- 下剋上の乱世を治めるため、「仁」=思いやり・優しさの思想を説いている古典
- 言い方を変えると、官僚(貴族)が民衆を統治するために必要とされる心構えを説いた、古代の人生訓である
- 「不惑」「温故知新」「義を見てせざるは勇無きなり」「民は由らしむべし知らしむべからず」「王道」など、その出てくることばの一部は、すでに日本文化に溶け込んでいる
電子化◯
論争 若者論 文集新書編集部
- 2008年の秋葉原無差別殺傷事件を契機に、さまざまな論者の若者論を集めた本
- 的外れな論もも多いが、大半は真摯に時代に向き合って書かれている
- 重松清:「若者よ、殺人犯を英雄にするな」:「加害者もまた被害者」でいいのか?彼と自分は同じだと思わないでほしい、
- 「背景」や「状況」は「理由」と厳然と特別しなければならない、「理由」からも「動機」や「引き金」を慎重に取り分けなければならない、それと同様に「理解」を「同情」や「共感」と混同してはならないと思うのだ。
- 親の世代として、若いひとにお願いしたいのだ
- もしもきみと加藤容疑者の「背景」や「状況」が重なり合うのであれば、なおさら、「結果」が重ならなかったことに安堵して、それを誇ってくれないか
- たとえ「なぜひとを殺してはいけないか」の明解な答えがなくても、あなたはひとを殺してはいない
- 〈あの男と自分との違いを探し〉ていく必要などない
- 〈答えが見つからない〉のではなく、そもそも答えなど要らないのだ
- 被害者と自分との違いだって、じつは見つからないはずではないか
- 「無差別」とはそういうことだ
- 「誰でもよかった」加害者にたまたま加藤某が選ばれ、「誰でもよかった」被害者を殺傷するなんて――ぞっとするぐらいリアルに感じられるからこそ、それを認めてはならないと思うのだ
- 書き手としての自戒を込めて言うなら、最大公約数的な物語とは、読み手を否応無しに事件に引き寄せすぎてしまうものなのだ
- たとえ対岸の火事であっても、その炎を眼前で燃え上がらせてしまう力を持っているのが、僕の言う最大公約数的な物語である
- 加藤容疑者と自分に重なり合うところがあると感じるひとたちに、そして僕自身も含む最大公約数的な物語に慣れて/馴れているひとたちに「物語をつくり直してくれないか」と言いたいのだ
→言理の妖精による解体、呪文の【静謐】? - ニュースの受け手一人ひとりがー決して興味本位という意味ではなく、自分にとって最も切実な問題を引き受けて、いわば「私たち」ではなく「私」として、この事件をとらえ直すこと
- それをしておかないと、とにかくこの事件は最大公約数的な物語があまりにもすんなりと紡がれすぎるのだ
- 間もなく若者となる子どもを持つ親として、この時代を生きるおとなとして、僕たち(あえて複数形で言わせていただく)は、無責任な「夢を持て」ではなく、「絶望するな」と言い続け、そのためのシステムを整備し、情報を出し、物語を生みつづけるしかないのではないか
- 加藤容疑者はちゃんと家を出た。ちゃんと働いていた。非正規雇用の「非正規」は企業側の理屈でしかない。けれど、彼は絶望した――――その重みと苦みを忘れてはならない
- 仲正昌樹「アキバ事件をめぐる「マルクスもどきの嘘八百」を排す」
- 容疑者の暴走の原因をオタク性とか現代の若者気質に求めるのも安易だが、その逆に「「格差」が原因であると考えるのが知識人としての良心だ」とでも言わんばかりに決めつけ口調で語るサヨクも同じくらい安易である
- 世の中何か不条理な事件が起こるたびに、強引に、下部構造(=経済的生産様式)にその原因を求めようとするのは、かなりレベルの低いマルクス主義者の発想である
- よく考えてみると、資本主義社会には構造的な矛盾があり、その矛盾に万人が囚われているという前提から出発すると、”おかしな行動”や”おかしな出来事”は全てその構造的矛盾と関係していることになるのは当たり前である
- 多少哲学っぽい言葉遣いを知っていたら、簡単に下部構造原因論の作文をすることが出来る
- 下部構造原因論は、殆どの場合、何も説明していない
わ行
「わからないことは希望なのだ」 新たな文化を切り拓く15人との対話 編著:春原憲一郎
- 日本語教育の専門家が、新しい文化や言葉、そして誰もが安心して暮らせる社会の可能性を探して行った対談集
- 対談相手は、ソーシャルワーカーから現代アラブ文学研究者やルワンダの義肢装具士、動物園の名誉園長に至るまで、実に多彩
- 内容には他の本との被りも多いが、対談を通して見えてくる共通項や社会の問題点は、希望とはどんなものなのかを私たちに教えてくれるものなのかもしれない
- あとがきは、筆者による対談のまとめとなっており、全てを解決できる正解など分からないけれど、それを探す「模索の過程」こそが希望なのだということを実感させてくれる
- 命は無量価値
- 無量だから量れない、だから命の価値はゼロかもしれないし、どんなに価値を考えてもそれを越えちゃう価値もある
- また、命は命令しない、とも
- 内発的義務、本能と自発のあいだにあって、どっちともつかないものなのだと言う
- 近代を支える〈私有〉は、逆にひとを物や成果に束縛する制度でもある
- 私有の牢獄から「『わたしがやった』というところを通り抜けて『わたしではない』というところ」へと解き放っていくひとつの可能性が、本能と意思のあいだにある内発的義務ではないだろうか
- 虐待を引き起こす最大の理由は孤独と孤立
- 誰もそばにいない感覚というのはものすごい恐怖で、人とのつながりがないのは空気がなくて息が吸えない状態に近い
- だから誰かのそばにいる感覚を取り戻すために、誰かを困らせたり何かを壊したりする
→交流分析で言うところの「マイナスのストローク」?
- もうひとつの突き抜け方、山下洋輔のジャズのセッション
- やりたいことは全部やる
- 相手がやったことは、全面肯定を第一のルールとする
- 「わたしがやった」と「わたしではない」の間を光速で揺り動くとき、わたしのものでもあなたのものでもない世界が開ける
- その希望は、限りのないエネルギーを与えてくれる
- そのエネルギーは、強くなって戦争に勝つという類の力ではない
- 世界の窓を開き、さらにその外に降り立っていくエネルギーなのだ
- 間違っていてもおもしろい外国人の日本語
- ことばがあったほうがいいが、トランプのゲームみたいに同じことを一緒にやるだけでも人間はつながっていく
→一章のアキラくんのゲームによる闘争の解消?
- ことばがあったほうがいいが、トランプのゲームみたいに同じことを一緒にやるだけでも人間はつながっていく
- 「いかにして勝つか」ということばかりを追求する価値観ではなく、「負けた」という事実、あるいは根本的に「そもそも負けているのだ」という、敗北から出発する思想をつくっていくことが必要だと思います
- それは、人間という存在がもっている、何か根本的な壊れやすさ、もしくは死から逃れられないという人間のあり方につながる気がします
- 「無能の人」にすがって生きる
- 内発的義務、泣いている赤ん坊を思わず抱き上げるように、ふだんから自分を開いておいて、無能な人に応えていく
- ぼくら(日本列島人)は、人間の尊厳ということについては疎いけれども、なんと言っても「やわらかくてあったかければ生きている」というのが大事なんです
- それが、安楽死で「家族のために生きてて欲しい」「私たちの生きる励みになるから、意識があろうがなかろうがどうでもいい」となる
- 天皇も無能な人でないといけない
- 自己決定とか自己責任という「個」を中心にしたアメリカ型の社会と「無能な人」を中心にした社会は、やはり相容れない
- 異文化は世界の外にある
- そして、世界の外、価値観の外にも意外とあっさり出ていける
- それはたとえば、子供に愛情を持てない自分を発見したときや、そもそも愛情が持てないとき
- 「わからない」という認識は、現実に多様な価値観があること、現実がそのままで多文化であることを認めることだ
- 多様性を活かした国作り、地域の活性化というときには、すでに文化や価値観は強さや上昇へと方向づけられてしまっている
- しかし、無価値だ、無駄だ、ごくつぶしだという、そもそも価値基準の外に放り出された、老いや依存症、外人性や異文化を抱える当事者の体験のなかにこそ、
- 社会を再生、変革、創造していく大切な情報や知恵が集積されているという可能性を信じるとき、「わからない」ことは希望となる
- それは、肯定し難いことのなかにも希望を見出すことにもつながる
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わからないまま考える 山内志朗
- 哲学研究をしている大学教授のエッセイ集
- 壮大な真理や深い考察といったものはそれほどないが、読みやすく、どこか文学批評のようなまとまりと川柳を思わせるような文章がある
- その話題は、セカイ系やカラマーゾフ、エヴァンゲリオン(映画版含む)にまで話は広がる
- 特にア関連では、スピノザの著書『エチカ』の行間から、そこに直接書かれていない「赤いスピノザ」を見出す著者の姿勢が興味深い
- 著者は、人間の欠陥や愚行を幾何学的方法で取り扱って、人間のすべてを「白い光」で照らそうとしたスピノザを「白いスピノザ」と呼ぶ
- スピノザの時代の哲学者たちは、自然や神の行為には目的があり人間も自由を持っていると思っていたので、感情を呪詛し、感情を制御しようとしてきた
- しかしスピノザは、そこに認識による救済を提示する
- いかなることも神が原因である以上、いかなる悲しみもまた神を原因として認識することによって喜びに転ずるというのだ
- それゆえ彼の『エチカ』は、善と悪、闇と光の二元論、そして意志までをも幻として否定し、論理を信奉するように書かれている
- だが、著者はその文字に現れた「白」を否定し、実は情念の黒い海を描いているに違いない「赤いスピノザ」を信じる
- 情念なしに人間は世界で生きることは出来ない、と語る筆者にとって、その「隠され抑圧された」情念的人間像こそが、彼のスピノザ像なのだ
- 「理性の有」:「理屈上の存在」著者は「理虚的存在」と訳する。
- 物事を比較して、事物の中にあるかのごとく妄想してしまう幻のこと
- 虚構の側面を持つ
- 知性が構成し、外界において対応する事物のない概念。
- 慣習上の訳語に「理性」と含まれるにも関わらず、実際には理性とはあまり関係ない
- スピノザは、善も悪も「理性の有」だと断言する
- 善や悪は、ある事物に設定された目的に合致しているときに、または目的にどちらがより接近しているかという比較において生じているだけだ
- 価値評価を与えるのは人間が投影している幻想
- 精神の中の想いでしかないものを、精神の外部に投影して実際に存在するように思いこんでしまう
- 自然から善と悪という観点を取り除くためにも、目的論(自然の出来事をも人間の意志的出来事と類比的に考えること)の否定は重要
- また、その事物を知性の外に求めるならば純粋の無でありながらも、「思惟様態」(思惟のあり方・様子)としてみる限りは、真の実在的存在であるとも
→『邪視』、そして異獣や神・精霊成立の原理?
電子化◯
わたしが正義について語るなら やなせたかし
- 正義についての考えが語られた自伝
- 創作者としての生き様と色々あった彼の人生が、コンパクトな新書にまとめられている
- ほんとうの正義というものは、決して格好の良いものではないし、そしてそのために必ず自分も深く傷つくもの
- それでも、正義のために戦わないと、世の中はどんどん悪くなってしまう
- 飢えた子どもにご飯をあげるのが本当の正義
- 「必要悪」もある
- 自伝としては『アンパンマンの遺書』の方が詳しくてオススメ
〈私〉だけの神 ウルリッヒ・ベック
- 「個人化」が宗教に与える影響や、現状の宗教の形態を考察した本
- 近代の発展の先に、かえって宗教が必要とされるようになった現代のために、宗教の形態を分析している(キリスト教中心)
- 教団や教会を必要としない信仰、それによる改革を期待している
- ユダヤ人のために献身的活動を続け、アウシュヴィッツで虐殺されたエティ・ヒレスムの日記:自分の一番奥深いものを神と呼ぶ「〈私〉だけの神」
- 「世俗的宗教性」という矛盾に満ちた物語:自分の生、自分の規範、自分の同一性を、個人の自由と責任において選択するという世俗的啓蒙主義の原則を堅持しながらも、人はなお宗教的でありうるという事実
- エティにとってその神は、壊れやすく傷つきやすい一個の独立した他者である
- その神は、いかなる意味でも、エティ自身の責任や自立を肩代わりしてはくれない
- それは救済を約束する神ではなく、むしろエティの助けを必要としている、慈愛に満ちた弱々しい神である
- その神は、(神を愛さないという選択肢をも与えられた完全なる自由な)人から愛されることを、求めている
- だからその神は、あまりに放って置かれれば、やむなく自分のもとを離れていくかもしれない
- それゆえ、エティはこの神に語りかけるのである
- エティは、このような神とともに「私達の運命の記録者」となりたいと願っていた
- なぜなら「怨恨も憎悪も抱くことなく生き延びられたならば、そのときこそ私達には、戦争終結語、発現に加わる権利」があるからだと確信していたからである
→ディスペータ?
- なぜなら「怨恨も憎悪も抱くことなく生き延びられたならば、そのときこそ私達には、戦争終結語、発現に加わる権利」があるからだと確信していたからである
- 岩波書店版の解説(鈴木直):エティの「自分自身の神」とスピリチュアリズムの間には深い亀裂がある
- 信仰の個人化は私人化ではなく、個人化された信仰が新たな公共的役割を担うことが十分にあり得ると述べている
- その関係は、エティが社会で結ぶ他者との関係を写し取ったもの:自律的存在としての他者への愛情と責任感
- 自己対話の中に他者とのコミュニケーション世界を構造的に摂取し、写し取りえていることが、「自分自身の神」に命を吹き込む
→強くて(中略)セクシーな彼氏?
- 自己対話の中に他者とのコミュニケーション世界を構造的に摂取し、写し取りえていることが、「自分自身の神」に命を吹き込む
- 宗教には、元々自己の改革者や異端者を育て上げる再帰性がある
- 「自分自身の神」への信仰も原点回帰に過ぎない
- 著者は、超国家組織などにおける共同作業によって、人びとが境界を超えることを期待している
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私とは何か「個人」から「分人」へ 平野啓一郎
- 人間は、複数の人格である「分人」から構成された、中心が無いネットワークである
- 分人は、コミュニケーション相手(本なども含む)との相互作用の中で半自動的に生じ、相手との関係性とともに変化するもの
- 「個人」は、西洋の唯一神と向き合うために作られたものに過ぎず、生きるのに不便な概念
- 柔軟で可変的な「分人」概念でいきいきと生きて、「本当の自分」をたくさん持とう
- 筆者の小説:『決壊』『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』などは「分人」概念を使って書かれているらしい
→各【サイバーカラテ】ユーザー向けにカスタマイズされた「ちびシューラ」は「分人」に極めて近い存在だと思う
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