推薦図書
- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
- 最下部のコメントボックスで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
- ほんの少しでも推薦図書に見えたのならそれが推薦図書です(邪視)。追加しましょう。五十音順に並んでいます。
- 編集カラテ入門
- 発勁用意! 次の2行をコピペして、自分の文章で書き換えます。ここは、Webブラウザ以外のアプリでやるのがオススメ。
*** タイトル
-説明1
- 発勁用意! 次の2行をコピペして、自分の文章で書き換えます。ここは、Webブラウザ以外のアプリでやるのがオススメ。
- NOKOTTA! 文章が出来たら、Webブラウザに戻り、画面の一番上の「編集」を押します。
- GOOD! 編集ボックスが出てくるので、1で作った文章をコピペします。場所は、根性で探してください。
- COMBO! 「プレビュー」を押して、うまくいってるか確認します。まだこの段階では、誰にも見られません。
- EXCELLENT! 「ページの更新」を押せば、完成です!!
思想
ロボット/人工知能/サイボーグ関連
狭義の呪術関連
ま行
マーシャル・マクルーハンの著作
- "【異界の黙示録グーテンベルクギャラクシー】"
- テクノロジー=メディアが人間の身体性の拡張という発想はメディア論によるもの
- マクルーハンによれば言葉もまたメディア(霊媒)であるから【杖】だけでなく【呪文】にも応用可能
マインドコントロールからの解放 編著:オウム真理教信徒救済ネットワーク
- テロを起こし、その悪名を轟かせたカルト教団、オウム真理教
- この本は、そのマインドコントロールの実態とそれとの戦いの本である
- 「なぜ救出が必要なのか」からきちんと説明を始め、脱マインドコントロールの困難さや「家族」の問題にしっかりフォーカスしているのが良い
- また、伝統的な宗教の宗教者複数人による、オウムの教義の検証をしているのも良い
ー自分自身が生きている仏教を語る仏教学者、「ハルマゲドン」も黙示録も、聖書の文脈では象徴に過ぎないと語るキリスト者など- その言葉からはいきいきと社会に根づいている信仰生活の存在が感じ取れる
- 特に、仲間との修行の中でどこにでもいる凡人の中に仏がいることを実感するからこそ、自分の修行にも希望を持つことが出来るという「大乗の心」や、
- 寺より、俗世の修行の方が大変だと語る仏教者の思想は、オウムの教理とは真逆であって、楽しさと人間らしさに満ち溢れている
- チベット仏教の権威が語る(オウムが行っていた)クンダリニーヨーガにある「罠」=微細なエネルギーの認識など二元性を作り出すこと
- ヴァジラヤーナの教えで重要なことは、直接体験の連続性にとどまることであり、二元的な思考を越えて意識の根底に存在する心の本性を見つめること
- 心を対象として捉える限り、心の本性を捉えることはできない
- 師の役割は、データ注入でも自分のクローン人間化でもない
- 真の師とは、弟子の心の中に秘められた仏性、空なる心の本質を指し示す存在なのだ
- 内なる二元的対立が消え去ったとき、
- 「無限なるもの」「真理なるもの」は水に映える月のような虚像として見え、もともと自らのうちにあるまばゆいばかりの輝きが見えてくる
- そして心の底から笑いが溢れ出てくる
→二元論の否定、『邪視』の拒絶?
- 本当の「ポワ」とは、肉体を失ったときでさえ、心の本性という自覚を保ち続けること
- ヴァーチャルな虚構、イメージの世界に対する「二者択一」の問いは戯論であると、その問い自体を否定しなければならない
電子化×
- ヴァーチャルな虚構、イメージの世界に対する「二者択一」の問いは戯論であると、その問い自体を否定しなければならない
街場の教育論 内田樹
- 教育のような惰性が強いシステムは、「一旦止めてオーバーホール」が出来ないため、現在の基本的なところが順調に機能してないと、改革することも出来ない
- 学ぶものにブレークスルーをもたらすのが、メンターの役割
- 学びというのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられ、その人がしている「ゲーム」に巻きこまれるというかたちで進行する
- その「巻き込まれ」が成就するためには、自分の手持ちの「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることは出来ない
- 永遠に自分のままでいたい人、自分の「ものさし」で価値が計量できるものだけを希求する者は、学びに向いてない
- 儒教の「六芸」を見直すべき
- 「音楽」:音楽とは「もう消えてしまった音」がまだ聞こえて「まだ聞こえない音」がもう聞こえているという、過去と未来との時間の広がりの中に身を置かないと経験できないもの
- 今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは、演奏することも聞き取ることも出来ない
→三章幻影カタルマリーナの攻撃? - 「礼」:祖霊を祀る儀礼:生きているもののふるまい次第で死者のふるまいが変わる。つまり、死者とのコミュニケーションが成立しているということ。存在しないものともコミュニケーションすること
- 「御」「射」:敵を対象としない武術
- ①自分の身体の精密コントロールと意識化の向上
- ②他者とのコミュニケーション
- 非ー自己と一体化することによって、パフォーマンスを爆発的に向上させる
→【サイバーカラテ】?
- 義務教育とは、要するにコミュニケーション、それも存在しないものとのコミュニケーションの訓練であるべき
- 学びの基本:わからないことがあれば、分かっていそうな人に聞く
- 自分が何を知らないのか、何が出来ないのかを適切に言語化し、その答えを知っていそうな人やその答えにたどり着ける道筋を知っていそうな人を探り当てる
- そして、その人が「答えを教えても良い気にさせる」こと=教えてくれるように丁寧に頼むこと
- 競争を通じて学力の向上を果たそうという競争戦略は、結果的に全員が全員の足を引っ張り合うという『蜘蛛の糸』的状況に行き着き、学力の向上につながらない
- 学力を上げるためには、自分たちのいる場所とは違う場所、「外」とのかかわりが必須です
→『天獄』?(『地上』) - 教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない
- なぜなら、教育は葛藤を通じて果たされるから
- 子どもたちが時間を賭けて学ぶべきは、すっきりした社会のすっきりした成り立ちではなく、ねいくれたしゃかいのねじくれた成り立ち
- 成熟というのは「表面的には違うものに聞こえるメッセージが、実は同一であることが検出されるレベルを探り当てること」
- すべての重要な教えは「そのオリジナルはもう消失したが、それを聞き取った記憶は残っているので、それを祖述する」というかたちをとる
- 私は「先賢の語った言葉」を繰り返しているに過ぎないと言うと信頼されるし、人間のパフォーマンスは、課題が「一度出来たこと」であるか「一度も出来なかったこと」であるかによって大きく変わる
- 「私の外部」にある叡智の境位を信じること
→アリュージョニスト?
- (中枢的なコントロールや査定や予測を必要とする)トップダウン・システムは「平時・好天のシステム」に過ぎず、危機的な状況「カタストロフ」には対応できない
- 危機的というのは、中枢敵・一元的にコントロールし、最適解を選択することが出来ない状況のこと
- カタストロフやもつれた問題などの「火事場」は、火事場の馬鹿力、給料以上の力をオーバーアチーブするしかないし、それはトップダウンでは不可能
→【サイバーカラテ】とトリシューラの脆弱性?課題?
- 学校の仕事、教師の仕事とは、「色と欲の俗世間」とは異なる「外部への欲望」を起動させること
- それは「世俗の価値観」とは違う文法で叙され、違う度量衡で計量される
→ゼノグラシア、グロソラリア?
- それは「世俗の価値観」とは違う文法で叙され、違う度量衡で計量される
- 現代の若者が求める「やりがいのある仕事」というのは、マニュアルの決まった作業ユニットに分けた「モジュール化」した仕事のこと
- 「外部は存在しない世界はあますところなく〈市場〉に埋め尽くされている」という認識、学校と世間を隔てる壁が崩れたため
- 「外部の境位」ではなく「商品」を欲望するように教えられている
→アキラくんの世界観? - 殆どの仕事は、集団作業であり「クリエイティヴでパーソナルな仕事」とは違い、責任も成果や利益も分かち合うもの
- 「準いじめ構造」集団に適応できなくても過剰適応しても、どちらでもいじめの対象になってしまう
- 教育現場における「集団の形成」と(グローバル資本主義由来の)「個性の発現」=集団を作るな、他人にウカツに共感するな、個別化せよ、自分のタグをつけよ、自分の受け取るべき報酬を他人と分かち合うな、の「ダブルバインド」
- 集団の形成は自我の拡大をもたらし、それは子どもたちにある種の全能感を与える
- 共ー身体の形成によって、自分が「大きなネットワークの中の一つの結節点」であるという感覚を子供は学ぶ
- 誤解されやすい比喩だが「組織の歯車」になることによって初めて「組織を動かす」歯車装置の成り立ちが分かる
- 「個性的であれ」と教えるのはその後で良い
→プリエステラたちティリビナの民の【大樹巨人(エント)】?トライデント?
- 仕事のモジュール化は、他人の分担作業がブラックボックス化してその意義がわからなくなったり「誰の担当でもない」ニッチ(隙間)におけるミスや余計な仕事を片付ける人がいなくなったりする
- その仕事と仕事の間のニッチは、同時にイノベーションをもたらすビジネスチャンスのニッチでもあったりする
- 「自己決定・自己責任」すること「個性的であること」への病的なこだわり「協働」という生き方に対する強い忌避とそれがもたらす「協働的に生きる能力の不足」が、若者たちを劣悪な労働条件に追い込んでいる
- そうしたモジュール化は、企業たち日本社会が、商品を売るためグローバリゼーションと孤立化を押し進めてきたために生まれた副産物であり、それを学生のせいにするのは無責任
- 仲間を作る能力の開発、ルームシェアなどを行う能力が、貧乏な若者には必須
- 私が考える霊的であるとは、全身全霊を上げて「外」と交通したいという志向に満たされていること
- だから、したり顔で「死者がして欲しいこと」を代弁しようとする靖国問題の論者は、傲慢でありちっとも霊的ではない
- 全知全能を上げて、自分の理解も共感も絶する境位へ向けて越境しようとする志向だけが、人を霊的たらしめる、そう信じている
→死者の代弁?
街場の芸術論 内田樹
- 言論や表現の自由から、アーティスト論や平田オリザとの対談まで、硬軟さまざまなテクストを集めた本
- 匿名でのネット利用が当たり前の人々にとっては見当外れに思えそうな意見もあるが、著者独特の見解が述べられている
- 解釈が多様であること、話がより多くのアイディアの生成をうながす創発的なものであることが、著者のモットーらしく、
- 多様なアイディアを生成するために、誤解やすれ違いをも許容している
- そして「表現の自由」もこの文脈において肯定されており、「さらなる表現の豊かさ、多様性、開放性を目指す遂行的な働き」として、
- さらなる多様なアイディアと自由をもたらすプロセスとして称揚されているのだ
- またこの思想は、筆者の大滝詠一論にも当てはめられており、
- 彼のラジオ番組『日本ポップス伝2』は、「明治以来の近代音楽史の読み直しをめざした壮大な企図のものであり、構造主義系譜学の方法を実践している」とされている
- それは、「最新の音楽が最高の音楽である」という素朴な進歩史観、音楽ビジネス業界が収益のために流布したイデオロギーを否定するものであり、
- 系譜学者のように、「私」から「無数の先達」をたどる「逆ー系図」を描くという、歴史学者とは真逆のスタンスに立つものなのだという
- 歴史学者は、レディメイドな「ひとつの物語」のうちにデータを流し込むもの
- だが系譜学者はそれとは逆に、私を構成している遺伝的なファクターをできる限り算入している
- 彼らは、ランダムに増殖するファクターのうちに、繰り返し反復されるある種の「パターン」を検出して、ファクターをコントロールしていき、
- そのつど新しい、思いがけない物語を創成してゆくことができるのだ
→アリュージョニスト的?単一祖先や家父長制的なヒストリーに対抗できる物語?
- そのつど新しい、思いがけない物語を創成してゆくことができるのだ
- 民主主義をめざさない社会
- 民主主義は、私達が今ここで手作りするしかないもの
- 民主主義は「それをこの世界に実現しようとする遂行的努力」というかたちで、つまりつねに未完のものとしてしか存在しない
- ある概念の持つ指南力は、それが現実化する蓋然性とは関係がない
- メシアが永遠に到来しなくてもメシアニズムは今ここで機能する
→今は、まだ。弥勒菩薩、トリアイナ?
- 「自分の生活を変えることと国を変えることが一つのものであると信じられること」それが民主制国家における主権者の条件
- 一種の関係妄想だが、このような妄想を深く内面化した「主権者」を一定数含まない限り、民主制国家は成り立たない
→『国家』という『使い魔』?
- 一種の関係妄想だが、このような妄想を深く内面化した「主権者」を一定数含まない限り、民主制国家は成り立たない
- 著者が、表現の適否を公共機関が判断することに反対なのは、それが国民の適切な判断力の涵養に役立たないから
- 「あなたが判断しなさい」と権限を委ねないかぎり、人はその判断力を育てようとしないもの
- 「言論の自由」とは、「場の審判力に対する信認」のこと
- 「言論の自由」は、自分の発する言葉について査定するのは、私ではなく他者たちであるという約定に同意する人間だけに請求権がある
- 著者は、自分の主張が相当数の人にとって「耐え難いもの」(「理解しがたいこと」)であると思われる場合には、できる限り言葉を選ぶようにしている
- 「言論の自由など存在しないと言い放つ」自由や「呪いの言葉を吐く自由」は、「言論の自由」の基盤を掘り崩してしまうので、十分警戒すべき
- ゆえに、「さらなる表現の自由」を志向しないヘイトスピーチをする人は「表現の自由」を掲げるべきではない
- 沈黙する知性
- 著者は、言葉を一意的に定義をしてから議論を始めたりしない
- 真剣に議論をしているとき、そこで行き交っているキーワードの理解は論者全員において不一致なのが普通
- というか、その文字列を目にしたときに、それについて他の誰も言っていないことをいいたくなるというのがキーワードの生成的な機能
→特殊な『呪文』?言理の妖精的?
電子化◯
未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために ドミニク・チェン
- 学祭情報学の博士にして、NPO法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現コモンスフィア)理事の書いたエッセイ
- 言語・言葉を環世界の一種として捉える視座が面白い
- 著者は、表現とは何かという疑問を追求し、多言語の経験や娘の言語教育、自身の軽度の吃音、そしてゲームなどを通じて、思索を深めてきた
- なにかの「おわり」は必ずなにかの「はじまり」
- 子どもの誕生によって、予祝される約束された親の死
→ブレイスヴァとは似て非なる螺旋? - 共生や共話、サピア・ウォーフ仮説やサイボーグの話も出てくる
- 持っていけない馬の贈与を通じてつながる、共在感覚の話も
→『使い魔』? - タイプトレース:遺言をタイプする様子を再現することで、観た人に「共に在る」感覚を抱かせる
- ベイトソンと娘のメタローグ、親子を仮想の対話相手とすることで思考を深化させる架空の対話
- 話者同士の関係性に応じて内容が決定する、対話形式の文章
- 互いの存在を拠り所としながら、二人の関係性そのものを変化させたのでは
- 深い関係を結ぶ相手の視点を自分のなかに住まわせて、そこから世界を見ようとする営みだとも言えるだろう
→死者との対話、イマジナリーフレンド?
- 自分が、また他者が、どこからどのようにして現在の地点にまでやってきたのかを理解しようとすること
- この営為を通してはじめて、ほんとうの意味での関係性が生じる
- あらゆる存在を他の存在との関係性のなかで捉えられれば、ある存在の記憶が他の存在との関係性の歴史に織り込まれている風景が展開するだろう
- それは決して容易なことではないかもしれない
- しかし、わたしたちは、人生ですれ違う数え切れない他者たちと、存在を映し合いながら生きている感覚を具現化するための方法を、いくらでも提案し、実験し、育てられる時代に生きている
- わたしたちは逆に、さまざまな分裂を超えて、他者と共に在ることを実感しながら生きられる未来をも作れるはずだと信じている、
- 読者の内にも、そのような希望が芽吹いてほしい
- まずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことが重要
- 差異を強調する「対話」以外にも、自他の境界を溶かす「共話」を使うことによって、関係性の結び方を選ぶことが出来る
- 「わかりあえなさ」は、埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である
- すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとするのではなく、じっと耳を傾け、眼差しを向けよう
- そこから、互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる
- わたしたちは、目的の定まらない旅路を共に歩むための言語を紡いでいける
- 見知らぬ他者と共在感覚を得るためには、「言語」が必要になる
- それによって、スクリーンの向こう側にも自分と等しく生命的なプロセスを生きる同輩が存在しているのだという当たり前のことを、理性だけでなく身体にも訴えねばならない
- そのためのヒントは歴史の中に満ち溢れている
- 生のプロセスを託す相手、関係性のなかでわたしたちは共に在ると感じられる場をつくりあげる
- わたしたちは、自分たちが使う「言葉」によって自身の認識論を変えられる
- 互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、状況ごとに役割を変えて関係することが出来る
- そう望みさえすれば、人は誰とでも縁起を結び、互いの「わかりあえなさ」を静かに共有するための場を設計できるのだ
- 結局のところ、世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理があるのだ
- そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではない
- わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である
- わたしたちは完全にわかりあうことなどできない
- それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる
- 共話:ワキとシテ、互いに未完成の文章を投げあい、協働して語りを進めていく
→『使い魔』的な『呪文』? - ぬか床と接続し、その状態を音声で訴えたり、質問に答えてくれるロボット「NukaBot」
- 自分自身の中にも吃音という「わからなさ」が同居している
- わたしたちは、自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくるのだ
電子化○
- わたしたちは、自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくるのだ
無為の共同体 ジャン・リュック・ナンシー
- 難しすぎてよく分からなかったが、神話について分析し、思考を展開している箇所があることだけは分かった
- 近代の「新しい神話系」そしてナチ神話にも少し触れている
- 神話とはその誕生以来、自らを構造化するロゴスの名であり、あるいは同じことになるが、ロゴスのうちで自らを構造化するコスモスの名なのである
- 神話とは、まさしく、世界を立ち上がらせ言語を到来させ、言語の到来のうちに世界を立ち上がらせる呪文である
- 神話とは常に神話を発明し分有することができる合一…………幾人もの人びとの唯一の声…………の神話だということである
- 作家の神話の途絶は、作家の消滅ではない
- 作家とは、ある一つの特異な声
- 特異な、徹頭徹尾還元不可能な形で特異な(死すべき)一つの声、作家とは共同でこの声なのである
娘に語る人種差別 新装版 タハール・ベン・ジェルーン
- 子供との対話形式で書かれた、著者の人種差別についての考え方と対応方針をまとめた分かりやすい本
- 人種差別は、第一に恐怖、第二に無知、第三に愚かさから生まれる
- 人種差別か治るかどうかは、自分を問い直すことが出来るかどうか
- 自分自身を問い、疑い、「私のように考えることはたぶんまちがいだろう」と自分に言い聞かせ、考え方や行動の仕方を変えるために反省の努力をすること
- 人間は変わらないが、まちがいに気づいて、それを乗り越えることを受け入れることはできる
- だからといって、本当に変わったわけではなく、合わせているだけだが
- 気づくためには、旅行すること、他の人を発見しに行くことを受け入れるだけでいい
- 人種差別主義者は勇気がない
- 臆病さを認めるにも勇気がいる
- 子供のみが持つ変化の可能性に期待したい
- 付録のこの本を読んだ人々の言葉が、フランスの様々なリアルを示していていい
冥顕の哲学 末木文美士
- 死者を他者の延長線上に位置づける、独特な思想の書(全二巻)
- 物事を、明確に把握できる「顕」とそれが出来ない「冥」に分け、前者に相互に了解可能な「公共性の領域」を、そして了解不可能な「他者の領域」を後者に分類している
- この世界観の枠組みは、「死者との関係」や「自分にとっても未知で制御しきれない自分自身」をも一つの図の中に位置づけ、考えることが出来ることが大きな特徴となっており
- 「死ねば無になる」と捉えていても、なおも問題となる「死者と生者の関係」を語ることも出来るようになる
- また、この世界観では、一神教における絶対的な唯一神も「冥」の極限、到達不可能な彼方として多神教の神仏の先に位置づけることが出来るため、共存が可能であるとしている
- 発展途上な思想ではあるが、葬儀や慰霊、グリーフケア、了解不可能な他者との共生、さらには「死者になった後の未来における責任」=世代間倫理をも考えることが出来るようになるため、その可能性は大きい
- 基本的に読みやすい本だが、説明抜きで仏教・浄土真宗由来の概念や専門用語が出てくるので、Wikipediaや教科書・入門書を参考にする必要はある
- また、日本の伝統に基づいた哲学を目指しアジア由来の普遍的な思想の成立を目指してはいる本ではあるが、「菩薩」のあり方を理想としているので、どうにも宗教ぽいことは否定できない
- 『法華経』法師品第十「見宝塔品」:死者と生者の一体化
- 宝塔内でミイラ化した多宝如来、その横にまだ生きていた釈尊が座ることで、死者と生者が一体化し、はじめて両者の本来のはたらきが実現する
→【聖婚】に近い?
- 宝塔内でミイラ化した多宝如来、その横にまだ生きていた釈尊が座ることで、死者と生者が一体化し、はじめて両者の本来のはたらきが実現する
- (我々は)死者によって、初めて動かし得ない過去に直面することになるのではないか
- 死者は、(「終わらない日常」や巡る季節的な時間感覚の)循環の秩序を壊し、未来は不定形となる
- 死は、アラタマからニギタマへと幅をもって訪れる
- それゆえ、死者の変容に合わせて、生者の側も態度を変えていかなければならない
- そうでないと、死者の発するメッセージを正しく受け止めることが出来ない
→ルウテトとアキラくん(第五階層の生者)との関係?
- 新しく迎え入れた新生者もまた、流動する未来に新しい秩序を作り、これまでと異なる明日を迎えさせる力を持つ
- 死者の取り返し不可能性と時間の断絶に比べ、新生者は、むしろ循環する時間をパワーアップさせて継続させていく力を持っている
電子化×
- 死者の取り返し不可能性と時間の断絶に比べ、新生者は、むしろ循環する時間をパワーアップさせて継続させていく力を持っている
もしも老子に出会ったら 山田史生
- 少女と老人の対話形式で描かれる『老子』の自己流解釈書
- カラッポなもの、無が有を支えている
- 「草を見ている」とき「草を見ている私」は存在しない
- 存在するのは「草を見ている私」というパースペクティヴ、視座のみである
→【邪視】? - 「一切の情報が無い」という意味の無は、まだ「相対的な無」
- 「ある・ない」の一切がそこから生まれる「絶対の無」、生まれるべき一切はそこにある
- その絶対的な全体性は、時間・空間の埒外のものであり、あらゆる意味で論ずるまでも無い
- あえて論じようとすると、全体を対象化するという「包む者が包まれる」といった矛盾に見舞われかねない
→有り得べからざる黄緑(ライム) ?
モチベーションで仕事はできない 坂口孝則
- 最後に書かれている「ヨブ記」のパロディみたいな「神話」こそ出来は悪いが、サイバーカラテに思想が近い本
- (一時しのぎのカンフル剤や現状肯定系の)自己啓発書を否定しているが、テクニック寄りとはいえこれも自己啓発書である
- 思想だけでなく、仕事をこなすための、細かいテクニックも具体的に書かれている
- モチベーションを上げようとするより、仕事のやり方を改善することに集中しよう
- 性格は今更変えられない。心が折れたりても構わない。悩んでいる自分を、そのまま肯定しよう
- 嫉妬はべつにいいが、イソップの『すっぱいブドウ』のキツネのように自分をむりやり勝者にしても、努力の余地がなくなるだけ
- 幸せは将来的なものではなく、そのひとが「楽しい」と感じるかけらを集めた集合体でしかない
- やる気を問われるようになったのは、構造的な不況で上手くいかない時代だから。やる気追求は、上手くいかない現状を納得するための「合理化」に過ぎない
- 成功の肝要は、成功した後に「これこそが本当にやりたいことだった」と勘違いすることであり、人間とはそうした勘違いをするものである
- 不満の9割は、金で解決する
物語論批判 竹田青嗣 岸田秀
- 竹田青嗣と岸田秀、世界を幻想と捉える二人の対話
- 「全ては幻だ」とすると、どうしても「どこかに『現実』がある」のではないかという反動を産み出してしまう
→幻想の世界【ゼオーティア】は? - 現実と幻想は「二項対立」ではない
- 人間の思考は「二項対立」のパターン。そこからスタートするしかない
→地上(天獄)と地底(地獄) - 竹田:〈欲望〉は〈意識〉の〈外部〉であり、生の『自由』の基底
→確かなもの=【杖】? - 続編にあたる『現代日本人の恋愛と欲望をめぐって』の方が、話の内容が具体的で濃い
モラル・サイコロジー 心と行動から探る倫理学 編:太田紘史
- 哲学と科学の交差点、とりわけ倫理学と心理学の融合分野としての「モラル・サイコロジー(道徳心理学)」の本
- その中でも本書は、倫理にまつわる人間観を探求し、その心理や行動を記述することに焦点を当てる「記述倫理学」に分類されている
- 科学的な知見に裏打ちされるような記述考察に踏み込んでいるだけでなく、そうした記述が他の倫理学諸分野にどのように関わりどのような意味合いを持っているのか、をも問うているのだ
- 革新的な結論はないし、脳科学などと関連が強いのに2016年刊行と少し古い本でもある
- だが、それでも道徳直観や利他主義は存在するのか、判断への理性と感情の関わりなど、論争の概略には触れているのため、読めばそれなりに得るものがある本だと言える
- 「文化相対主義の克服に寄せて」
- 文化の多様性を擁護しつつ、文化相対主義を克服する方法を検討している
- 道徳性/慣習的規則の区別に関する論争とそこで提示されたシュウィーダーの「異なる合理性」概念を手がかりに用いている
- 確かに、道徳と慣習の区別には文化差が存在するのかもしれない
- ただし、その文化差は程度の問題として捉えられるべきであり、それぞれの文化に全く異なる合理性が存在するのだとまで主張するのは無理がある
- 確かに、異なる文化の行為や慣習を頭ごなしに非合理的であるとか野蛮であるといって断罪することがあってはならないのは、そのとおりである
- それぞれの文化に良い面があるのは言うまでもない
- しかし、それと同時に悪い面もある
- 全てを問題のないものと見なしたり、称賛に値するものとして受け入れてしまうのは、それぞれの文化の現実を真正面から捉えているとは言い難い
- そのうえ、行き過ぎた文化相対主義には、内部からの批判も外部からの批判も難しくしてしまうという大きな問題がある
- さらに、それぞれの文化が全く孤立して存在することが可能だった昔ならともかく、現代のように異文化間の交流が盛んに生じている状況では、
- 文化相対主義を言い立てることで、相互批判の可能性を書いてしまうことのほうが問題である
- むしろ必要なのは、お互いの違いを認めつつ、それでもなお、お互いの良い所や悪い所を指摘しあえるような環境を作ることだろう
- それぞれの文化に異なる合理性を付与するシュウィーダーたちのやり方では、そのような環境作りには、寄与し得ない
- 相互批判が単なるすれ違いにしかならなくなってしまうからだ
- その意味では、合理性をレベル分けすることによって、お互いがお互いを批判的に評価しあう環境づくりが可能になるのではないかと思われる
- お互いがお互いの良い所や悪い所を自由に指摘し批判しあうことにこそ需要な意義があり、そのうえで寛容の精神が発揮されなければならないのである
- イアン・ジャーヴィーとジョゼフ・アガンによる合理性のレベル分け
- それによって、同レベル帯における共通性を見出し、合理性という基準で比較・評価が可能
- 合理性を程度の問題だと考えれば、ある文化がより合理的であっても、一方が他方より常に優れているわけではない
- たとえある文化が私たちからすると非合理に見えるとしても、その文化にはある程度の合理性があり完全に非合理的であるわけではない
- つまり、文化間の違いは、より合理的であるのか、あるいは合理的でないのかということになる
- だからこそ相互批判が必要なのである
- お互いに完全に合理的であるわけではないのだから、お互いの見解を改善していかなければならない
- 自己批判と他者批判は車の両輪のようなものである
- お互いを軽蔑するためにではなく、お互いの違いを尊重しつつ問題のあるところを指摘し修正していくためにこそ、相互批判による対話が必要なのである
- こうした形で文化の多様性を擁護することが可能になるだろうし、それによって文化相対主義を退けることも出来るだろう
- ある文化習慣に欠陥があると判断することと、それを報道し、キャンペーンを行い、外交圧力を加え、それに対して何か働きかけるために軍を派遣すべしと考えることには違いがある
- ある文化慣習が劣っているからといって、その社会のすべてが劣っているわけではない
→価値基準を統一しつつ、『地上』と『地下』を融和させる考え方?理想的な対話姿勢?
電子化×
モンク思考 自分に集中する技術 ジェイ・シェティ
- 読む精神修養と言うべき、僧侶の生き方と考え方を学べる本
- 筆者は、エリートコースから外れて僧侶の道を選び、今はマインドフルネスなどを人々に教えている
- この本には、さまざまな人物の言葉が引用されており、池田大作の言葉まであるが、特に宗教の勧誘とかカルト的な要素はない
- その、心の平穏を目指す生き方や、短時間ずつでも出来る訓練法は、現代の忙しいビジネスマンが心から欲するものかもしれない
- この本は読みやすく、「モンク・マインド」に関心がある者ならば、読むだけである程度の精神の落ち着きを得られるかもしれない
- もっとも、それを実行していくのは楽な道ではない
- まずそれは、無限の成長と発展を目指す現代の資本主義社会と相性が悪い生き方であるし、
- なにより、五百ページを超えるこの本を読み通し、生き方を変える練習を継続していくことは、そうたやすくはないからだ
- 僧侶の精神を身につけられるのは、それを心より必要とする者だけであろう
- 明日を視覚化する瞑想:理想をイメージ
- 過去に受けた傷を癒やす視覚化瞑想:喜びや幸せを感じた瞬間に戻る
→『邪視』? - バイオススフィア2:揺らす風がない密閉空間では、木は高く育つほど丈夫にはならなかった
→外力?
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