推薦図書
- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
- 最下部のコメントボックスで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
- ほんの少しでも推薦図書に見えたのならそれが推薦図書です(邪視)。追加しましょう。五十音順に並んでいます。
- 編集カラテ入門
- 発勁用意! 次の2行をコピペして、自分の文章で書き換えます。ここは、Webブラウザ以外のアプリでやるのがオススメ。
*** タイトル
-説明1
- 発勁用意! 次の2行をコピペして、自分の文章で書き換えます。ここは、Webブラウザ以外のアプリでやるのがオススメ。
- NOKOTTA! 文章が出来たら、Webブラウザに戻り、画面の一番上の「編集」を押します。
- GOOD! 編集ボックスが出てくるので、1で作った文章をコピペします。場所は、根性で探してください。
- COMBO! 「プレビュー」を押して、うまくいってるか確認します。まだこの段階では、誰にも見られません。
- EXCELLENT! 「ページの更新」を押せば、完成です!!
- 推薦図書
- 童話・寓話
- 赤ずきん
- あらしのよるに 作・木村裕一 絵・あべ弘士
- 赤ん坊大将シリーズ 佐藤さとる
- 青い鳥 モーリス・メーテルリンク
- アンパンマン やなせたかし
- 石のスープ
- オズの魔法使いシリーズ ライマン・フランク・ボーム
- おとうさんがいっぱい 三田村信行 絵・佐々木マキ
- かいじゅうたちのいるところ モーリス・センダック
- くるみ割り人形
- 幸福な王子 オスカー・ワイルド
- ジャックと豆の木
- 新板 宿題ひきうけ株式会社 古田足日
- 政治的に正しいおとぎ話 ジェームズ・フィンガーナー
- 竹取物語
- ちいさなちいさな王様 アクセル ハッケ
- 長靴をはいた猫
- 裸の王様 ハンス・クリスチャン・アンデルセン
- 葉っぱのフレディ レオ・バスカービリア
- ヒットラーのむすめ ジャッキー・フレンチ
- 100万回生きたねこ 佐野洋子
- 不思議の国のアリス・鏡の国のアリス ルイス・キャロル
- ブレーメンの音楽隊
- ぼくは王さまシリーズ 寺村輝夫
- ぼくを探しに(The Missing Piece.) シェル・シルヴァスタイン
- マザーグース
- 桃太郎
- メアリー・ポピンズシリーズ パメラ・L・トラヴァース
- 目をさませトラゴロウ 小沢正 絵・井上洋介
- 雪の女王 ハンス・クリスチャン・アンデルセン
- ラプンツェル
- るすばんばんするかいしゃ 寺村輝夫
- ルンペルシュティルツヒェン
- わらしべ長者
- 思想
- ロボット/人工知能/サイボーグ関連
- 狭義の呪術関連
- 性・性愛・聖婚関連/思想
- 愛について 竹村和子
- 男であることの困難 恋愛・日本・ジェンダー 小谷野敦
- 男は邪魔! 「性差」をめぐる探究 高橋秀実
- 「男らしさ」の人類学 デイヴィド・ギルモア
- 河合隼雄著作集10 日本社会とジェンダー
- 孤独とセックス 坂爪真吾
- ザッヘル=マゾッホ紹介 ジル・ドゥールズ
- 証言現代の性暴力とポルノ被害 ポルノ被害と性暴力を考える会
- 性愛 大人の心と身体を理解してますか 渥美雅子 村瀬幸治
- 聖なる快楽 リーアン・アイスラー
- 戦闘美少女の精神分析 斎藤環
- 男性同盟と母権制神話 カール・シュミットとドイツの宿命 ニコラウス・ゾンバルト
- フェミニズムの困難 吉澤夏子
- ペニスの文化史 マルク ボナール,ミシェル シューマン
- ぼくらのSEX 橋本治
- マゾッホという思想 平野嘉彦
- モテる構造--男と女の社会学 山田昌宏
- レイプ/男からの発言 ティモシー・ベイニケ
- あ行
- か行
- 海賊と資本主義 ロドルフ・デュラン ジャン=フィリップ・ベルニュ
- 快楽の哲学 木原武一
- 家族の違和感 親子の違和感 春日武彦
- 貨幣という謎 西部忠
- 完全言語の探求 ウンベルト・エーコ
- 河合隼雄著作集
- 消えたい (ちくま文庫版) 高橋和己
- 希少性と欲望の近代 ニコラス・クセノス
- 〈希望〉の心理学 白井利明
- きみの脳はなぜ「おろかな選択」をしてしまうのか〈意思決定の進化論〉 ダグラス・T・ケンリック ウラダス・グリスクヴィシウス
- 吸血鬼イメージの深層心理学 井上嘉孝
- 共産党宣言 カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス
- クロード・レヴィ=ストロースの著作
- ゲーデル、エッシャー、バッハ- あるいは不思議の環 ダグラス・ホフスタッター
- 啓蒙の弁証法 ホルクハイマー アドルノ
- 現代文明論(上下) 佐伯啓思
- 権力と人間 ハロルド・ラスウェル
- 構築主義とは何か 編・上野千鶴子
- 幸福はなぜ哲学の問題になるのか 青山拓央
- 幸福論、小倉千加子、中村うさぎ
- 恋する文化人類学者 鈴木裕之
- 高校倫理からの哲学4 自由とは 直江清隆
- 心の分析 バートランド・ラッセル
- 個性を捨てろ!型にはまれ! 三田紀房
- さ行
- 差別感情の哲学 中島義道
- 自我論集 フロイト
- 〈自己責任〉とは何か 桜井哲夫
- 自殺論 デュルケーム
- 死生学 東京大学出版会
- 死とむきあうための12章 日本死の臨床研究会・編
- 「自分」を生きるための思想入門 竹田青嗣
- 邪悪なものの鎮め方 内田樹
- 社会は存在しない セカイ系文化論 限界小説研究会
- 集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ 西垣通
- 自由とは何か 佐伯啓思
- 神曲 ダンテ・アリギエーリ
- 神慮について ルキウス・アンナエウス・セネカ
- 神話と人間 ロジェ・カイヨワ
- 進みながら強くなるーー欲望道徳論 鹿島茂
- 聖なるものの刻印 科学的合理性はなぜ盲目なのか ジャン=ピエール・デュピュイ
- 「責任」はだれにあるのか 小浜逸郎
- 千の顔をもつ英雄 ジョゼフ・キャンベル
- 千のプラトー―資本主義と分裂症 ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ
- 贈与論 マルセル・モース
- 贈与論再考 岸上伸啓・編
- 増補 母性愛神話の罠 大日向雅美
- 存在と時間 ハイデガー
- た行
- な行
- は行
- ま行
- や行
- ら行
- わ行
- コメント
童話・寓話
赤ずきん
- 賢者イヴァ=ダストとエスフェイル
あらしのよるに 作・木村裕一 絵・あべ弘士
- 分断と対立、そして友情の物語
- 映画・アニメから歌舞伎に至るまでのメディアミックスに加え、シリーズをまとめた完全版や特別編、文庫版も出ている
赤ん坊大将シリーズ 佐藤さとる
- 主人公のタッチュンは肉体的にはただの赤ちゃんだが、モモンガ服を着ると自由に動き回れるようになる
青い鳥 モーリス・メーテルリンク
- 幸せの青い鳥はどこにいたかと考えると?
- 戯曲形式の童話。
アンパンマン やなせたかし
- アキラくんの新しい首
- ダエモデクの僕の体をお食べよ
- 愛と勇気
石のスープ
- 詐欺の方法、あるいは、人を動かす企画や意思さえあれば成果へ到達することが出来るという民話
- 実態が「空」のスープ
→シナモリアキラ(【サイバーカラテ】)?
オズの魔法使いシリーズ ライマン・フランク・ボーム
- ブリキの木こりは、労災で肉体を失ったサイボーグである
- 12作目の「オズのブリキの木こり」では、かつての恋人を探しに出かけるが・・・
- 2作目で、そこらにあった物を組み立てて作られた人造生物「カボチャのジャック」と「木挽き台の馬」
おとうさんがいっぱい 三田村信行 絵・佐々木マキ
- ある日突然、おとうさんが三人に増えてしまう話
- どの「おとうさん」もどう見ても同一人物であり、彼ら自身にも区別がつけられない
- 彼らは、「代わり」がいる存在となってしまったのだ
- 協議の結果、家族投票で「ほんもの」を決めて「よぶんなおとうさん」は国に引き取ってもらうことで、事態は解決することになる
- しかし、翌日、主人公は「もうひとりの自分」と出会ってしまう
- そう、次は・・・・・・・・
かいじゅうたちのいるところ モーリス・センダック
- 主人公の行動が、植民地主義だと言われたことがあるらしい絵本
- 【邪視】な想像力で冒険に出かけた、わんぱくな子どものお話
くるみ割り人形
- くるみ割り人形が美しい王子様に変身する
- 主人公の少女がスリッパを投げつけ、ネズミの王様を打ち破る
- 王国を継ぐ条件: 醜い人形を醜いまま愛すこと、ネズミの王を追い払うこと
- 美しい夢を見ようぜってお話です
幸福な王子 オスカー・ワイルド
→ダエモデクの肉体分与
- 王子の善行の媒介となるツバメは「シナモリアキラ」的?
ジャックと豆の木
- 交換と略奪の話
新板 宿題ひきうけ株式会社 古田足日
- 小学生たちが、自分たちだけで考え出し自分たちだけで運営したビジネス、そしてそれをきっかけに社会について考え出すようになった成長の物語
- 作者の左翼思想はあからさまだし、宿題のアウトソーシングについての考察は不足しているが、その着眼点は悪くないと思う
- 作者の本としては、『ロボット・カミイ』『ぽんこつロボット』などのロボット話や、瀬織津姫を元にした女神が出てくる未完の和風ファンタジー『甲賀三郎・根の国の物語年譜』の方が面白い
- しかし、これはこれで様々な子どもが描写されていて、児童文学としてはそれなりに良い作品になっている
- 天国の門による格差のアレゴリー
- 優等生になれない代わりにガキ大将になろうとした少年の用いた比喩
- 通信簿の相対評価(作品が執筆された当時)批判
- 天国の門は成績で人を審判しふるいわけるが、貧乏人は、天国の門で審判を受ける資格すらない
- 新板への改変は、旧版にアイヌ差別要素があったためであり、その批判や批判を受けた作者の思いは、新しいエピソードとして作品に生かされている
政治的に正しいおとぎ話 ジェームズ・フィンガーナー
- ポリティカル・コレクトネス(多元文化的/マルチカルチュラル)による文章への制約を、逆に全力で盛り込んでみた童話集
- 呪文の呪術使ってる感がめっちゃある
- 自分こそが罪を背負おうと争い合う『三匹のヤギ』や登場人物がロハスな人びとばかりの『白雪姫』などが特にオススメ
竹取物語
- 月から来た美形の罪人
→ヴァージル - 永遠の命はあるが人の情が無い月の世界と、命は儚いが「もののあはれ」がある地上との対比
- 永遠の命を約束する不老不死の薬では、美女との永遠の別れの代替にはならなかった
ちいさなちいさな王様 アクセル ハッケ
- 齢をとるごとに小さくなる王様の話。夜の民感ある。
長靴をはいた猫
- 成功のための努力や智恵は、全て猫に任せきりのサイバーカラテな話
裸の王様 ハンス・クリスチャン・アンデルセン
- "「女王様は、裸だ」""「僕には服など見えないな」"
葉っぱのフレディ レオ・バスカービリア
- 死と”いのち”について描かれた絵本
- ”いのち”の巡りは一種の転生と言えなくもない
ヒットラーのむすめ ジャッキー・フレンチ
- 現代のオーストラリアで子どもたちが退屈したとき、ある女の子が、存在しないはずの「ヒットラーのむすめ」の話をし始めた
- もし自分が「ヒットラーのむすめ」だったら、独裁者の悪に気づけただろうか?戦争や虐殺を止められただろうか?
- 女の子の物語が、現代と二次大戦中のドイツを繋いでいく
100万回生きたねこ 佐野洋子
- 100万回生きたことが自慢だった、一匹の猫の物語。
- 猫は、100万と1回だけ生きて、それ以上は決して生きることがなかった
- 最後に、自分よりも大切なものを見つけることが出来た猫の転生者の話
→断章編で語られた、再生者に必要な区切り?
不思議の国のアリス・鏡の国のアリス ルイス・キャロル
- 【賢天主】アリスのフォービットデーモンが押韻<ライム>
- 『不思議の国』は、もともと『地下の国のアリス』という題名だった
- リールエルバの仮想使い魔きらきら蝙蝠
- トゥイードルディーとトゥイードルダム(元はマザーグース)
ブレーメンの音楽隊
→シナモリアキラ?
ぼくは王さまシリーズ 寺村輝夫
- 『魔法使いのチョモチョモ』
- 魔法で幽体離脱しているために目を覚まさない王さまの肉体を、科学で無理やり動かそうとして「もう一人の王さま」が生まれてしまう
- もう一人の王さまはとても乱暴でわがままであり、普段とは真逆に臣民たちをこき使って大暴れする
→シナモリアキラ【火車】、■■■■■(元アルト王)、ヴァージル?
- 『王さまロボット』
- 王さまの仕事をなんでも代行してくれるロボットが登場する
ぼくを探しに(The Missing Piece.) シェル・シルヴァスタイン
- 自分の欠けている部分を埋めるために旅立った「パックマン」みたいな図形の話
- 余計な解説は、無視して読むのが一番
- まあ一応解説しておくと「他人は自分の欠落を埋める補修材ではない」というあたりが、アリュージョニストっぽい
マザーグース
- ズタークスターク感
- トゥイードルダムとトゥイードルディー
桃太郎
- 原初の【使い魔】とサイバーカラテ的な戦力の外部依存
メアリー・ポピンズシリーズ パメラ・L・トラヴァース
- 聖書やマザーグースが出典の人物や物語
- メアリー・ポピンズには、魔女疑惑がある
- オススメは、「隠された本当の姿」を巡る話「どのガチョウも白鳥」(『公園のメアリー・ポピンズ』収録)
目をさませトラゴロウ 小沢正 絵・井上洋介
- どこか哲学的というか、ときに夢と現実の境目が分からなくなるような、そんな童話集
- 自分は確かにここにいるが、実は、よそにいる「自分」が見ている夢の自分なのではないか、という疑い
- トラゴロウは「きば」をなくせば、虎は虎ではないので、他の動物を食べることはない
- しかし「きば」を取り戻せば、トラゴロウは立派な虎なので、これまで普通に話してきた動物をあっさり食べてしまう
雪の女王 ハンス・クリスチャン・アンデルセン
- コルセスカによるアキラくんの感情制御
ラプンツェル
- アレッテ・イヴニル
- ペトロシネッラ/ペルシエット>円環伝承(信頼性不明だが面白い記事)
るすばんばんするかいしゃ 寺村輝夫
- 初めて一人で留守番することになった男の子が、遊びに行くために、自分の留守番を「るすばんばんするかいしゃ」にアウトソーシングしてもらおうと電話で依頼した
- しかし「るすばんばんするかいしゃ」の正体は「子供を見張ってしっかり留守番させる会社」であり、男の子は逆にしっかり留守番をするハメになってしまう
ルンペルシュティルツヒェン
- グリム童話
- バケモノの名前を当てて倒す話の典型
- 日本版には、絵本『だいくとおにろく』がある
- こちらの元ネタは『ヴィンランド・サガ』に関係あるノルウェー王オーラヴ2世らしい
ブログの解説記事>まず米、そして野菜
わらしべ長者
- 交換で大きな価値を手に入れる話
思想
ロボット/人工知能/サイボーグ関連
生まれながらのサイボーグ アンディ・クラーク
- 肉体を改造するまでもなく、わたしたち人間は、既にサイボーグと呼べる存在だと主張する本
- 脳の【杖】的な側面、身体性認知科学の話。
- 脳は、その高い可塑性によって、テクノロジーや文化を自己の身体や自己の一部として取り込んでいく性質を持っている。
- どうして、パソコンや携帯電話が壊れると、人はこれほど痛みを感じるのだろうか?
- 人間の思考は、物質的な脳、物質的な身体、そして複雑な文化的・技術的環境の間のループする相互作用から生じているのだ
- テクノロジーを媒介とした世界との関係は「脱身体化」というより「変容・拡張した身体化」である
- 身体性は不可欠だが、融通が利く
- ルンバのようなロボットなどについて書かれた『現れる存在』も、著者の「脳の捉え方」を把握するのに役立つ
人工知能時代を〈善く生きる〉技術 堀内進之介
- 「あたらしい技術」が進化するほど私たちが疲弊させられるのは、「つながりっぱなし」のあり方と「人的資本」としての価値を高めるために「絶え間ないアップデート」をすべしという強迫観念のため
- 進化する技術に乗り遅れることは個人の努力不足と見なされ、それは自己責任なのだから競争社会から脱落しても仕方がない、と片付けられてしまう
- 人間中心の技術観をやめ、技術のあり方を、身体拡張(常時接続による複数タスクの同時的な処理技術)から環境拡張(タスクを時空間的に適切に再配分)へと転換するべし
- 「amazon go」のような環境に出たり入ったりすることで、自分が好きなときにオンオフを選べるようにすれば、強い意志の力がなくても、技術への依存状態から抜け出すことができる
- ビッグデータによる「欲しいもの」の予測は、マターナリズム経由の共依存関係「私の言うことを聞けばいいのよ」という善意による支配になりやすい
→ルウテト?トリシューラの「私はアキラくんのママじゃないよ」? - 共依存の問題は、自分と他人の境界線が消えてしまうこと
→トライデント? - つまるところ「技術をどのように利用/活用するか」という問いの答えは、「いかに生きたいのか」という問いにも答えるものでなければならない
- 私たちには技術との関係の中で、技術とうまく付き合っていける「主体」を発明することが必要なのだ
- 「人間とは、人間であることをやめたがっている存在だ」
→シナモリアキラ - 「技術による解放論」私たちをより怠惰にする技術ではなく、もう少しだけ利口にする技術を求めるべきだという論
- 現代では全知全能の神という「外側」ではなく、人間にできてロボットやAIができないことは何か、と対比することを通して、私たちは人間を理解しようとしているのだ
- 「もっと人間性を大事にしよう」と、人間の価値を強調すればするほど、人間性を獲得しようとするAIの価値もまた高められ、人間とAIの区別がつけられなくなるということだ
→トリシューラとアキラくんの関係?
ロボットとの付き合い方、おしえます。 瀬名秀明
- 子供向けだが、読んでいて楽しい本
- ロボットについて考えることは、同時に多くのことについて考えることでもある。(人間とは何か。コミュニケーションとは、生命とは、未来とは、そしてこの世界とは一体何であるのか?)
- ロボットは、現実と空想が、螺旋階段を作って共に発展してきた非常に珍しい分野
- ロボットとの協力関係は大切:得意な事苦手な事を補い合うこと、適材適所であり、仕事を奪われるかどうかではなく「本当に役に立つとは何か」を考えることが必要。
- 人間とロボット、それぞれにしか出来ないこととは?
- ロボットを作る三目的:役立つ、楽しませる、人間を理解する
- ドラえもんは、社会性があるから、複数の関係性を持つから「飽きられないロボット」なのではないか?
- サイボーグへの違和感・モヤモヤする気持ちを大事にしよう
- ロボットは「つくる」と「つかう」両方の考え方が揃ってこそ、想像力大切、未来を考える
- 看護師の仕事は、調和(ハーモニー):なすべきことや意見をまとめ上げ、調整することであり、それは不可逆な加工・限定的破壊なのかも
→サイバーカラテ?
知の創発 ロボットは智恵を獲得できるか 伊藤宏司
- 発刊が2000年と古いが、ボトムアップで統一した機能を発揮するシステムについて色々載っていて、分かりやすい本
- 小型のロボットが寄り集まって知性的な振る舞いをする「群知能」や、それらが環境の変化への柔軟な対応が出来るようなるための研究もある
- 化学の重合反応を模擬した「重合型創発」
- それが発生するためには(これから結びつく)それぞれの物に、最低二本以上の他と結びつくための「手」が必要
- (王子にシンデレラのための手しか存在せず)王子とシンデレラだけしか結びつかないのでは、単なるハッピーエンドで終わってしまう
- だが、そこに不倫相手(と結びつくための余った手)が加われば、新しい物語が始まる
→魔女二人と手をつなぐ使い魔、シナモリ・アキラ
→まあ、不倫相手を見つけるのは、王子ではなくシンデレラの方かもしれない。
→というか、トリシューラとコルセスカには、もう既に、他の人のために使える手がたくさんあるし
<弱いロボット>の思考 岡田美智男
- ロボット研究本『弱いロボット』の続編的なエッセイであり、こちらでは、ロボットを通したコミュニケーションの研究をしている
- 掃除ロボットには、いきあたりばったりな行動を続けることで、人間や周囲の環境の手助けを引き出す力がある。
- ロボットが声高に助けを乞うようでは、気持ち良く助力してくれる人は現れない
- むしろ、ロボットが「一生懸命に頑張っているのに、上手くいかない」その姿が、人間の共感を招いて、その手助けを引き出すのだ
- ロボットの歩行(動歩行)も、人間との対話も、自己完結しようとするとぎこちなくなってしまう
- 自らの内なる視点から発話や行為を繰り出す際に、その意味や役割を完結することは出来ない
- 人間の場合、そうした〈不完結さ〉や〈弱さ〉を内包した身体は、ドキドキしつつも、他に委ねつつ、一緒に行為を産み出していくという方略を選びとっていた
- 人と人は、孤立した個体同士が対峙し合うだけでなく、むしろ同一の身体的基盤を有する〈オープンなシステム〉同士が相互に支えつつ、支えられるようなカップリングを作り上げている
- それは、ビーチボールバレーのように、土台も継続可能性も不安定な〈賭け〉と〈受け〉の相互カップリングなのだ
- 〈並ぶ関係〉でのコミュニケーション:親子で読む絵本やテニスの乱打練習のボールなど、人と人の間にあるもの=「媒介物」を通じて相互に調整を図り合う、人間同士の関わり
→シナモリ・アキラ - 相手の思考を推測する「社会的参照」と、自分の身体が感じていることを基準にして相手の気持ちを探る「自己参照」
ヒトと機械のあいだ 廣瀬通孝
- 機械化は、人間のなすべきことを減ずるために実施するのではなく、より高いレベルの活動を行うためになされなければならない
- その哲学無しの導入は、我々を幸せにしないであろう
- 我々が機械に歩み寄るということと、我々の行動パターンが機械的になるということも混同してはならない
- 逆に「ヒューマン」も単に「良い価値」と断することは出来ない
- ヒトの不得意な部分を機械が肩代わりする「能力拡張型」の機械には、ヒトと機械の違いを翻訳する技術=ヒューマンインターフェースが必要
- 機械による感覚へのアシストは、人体が持つ適応能力・ブリコラージュな補完能力に、機械が適応する必要がある(意訳)
- 特に、ノイマン型コンピューターは、人間の脳とアーキテクチャが全く違うため、より馴染むコンピューターを開発する必要がある
- (リアルタイム描画の立体)映像とロボットは、実は連続的な存在であり、ディスプレイという意味においては全く一緒
- パラレル・リアリティ論:リアルとバーチャルの距離が縮まり、リアルが多数の世界の中のひとつに
人と機械の共生のデザイン 稲垣敏之
- 人と高度技術システムのミスマッチを解決するため、人間中心の自動化を提案する本
- 人と機械が、互いの長所を伸ばしながら能力不足を補いあうことによって1+1=3を実現するシステムを模索している
- 航空機の自動操縦など、取り上げられている自動化の例は、豊富で具体的
- 機械へ依存すること自体は、間違っていない
- 機械の機能以上の事を要求する「過度の依存」が間違っている
未来のモノのデザイン ドナルド・A・ノーマン
- 賢い機械と、人間の共生する方法について書かれた本
- 文章は少し冗長だが、自動化の例や必要性が分かりやすい
- 自動化された機械と人間の間には、対話や相互理解が無い
- 機械は、人間に「今なにが起きているのか」をもっと伝えるようにしなければならないのだ
- 人間の立場だけでなく、機械の立場に立った「人間とのインタラクションの改善ルール」も書かれている
狭義の呪術関連
呪術の人類学 白川千尋/川田牧人・編
- 呪術のリアリティについて研究している本
- 「言葉と行為」のズレから「呪術と日常」のリアリティへ
- 「信じて」いなくても「効果がある」から、病院に呪術師を呼ぶ例など
- 中世魔女狩りの時代では視覚に基づく「リアリティ」ではなく「トゥルース」が審判の基準だった
- 呪術以前に、日常そのものも虚実皮膜の間にあるのかもしれない
盗まれた稲妻 呪術の社会学 ダニエル・ローレンス・オキーフ
- 広汎な資料にあたって呪術全般を分析した本であり、上下巻
- 呪術とは、宗教から盗まれた稲妻である
- 呪術は、社会に対して自己を守る
- 宗教がグループの圧倒的勢力の投影なら、そして呪術が宗教に由来し、しかし個人を助けるという独立した基礎から発生するならば(そして宗教としばしば対立するならば)答えは明らか
- 呪術は、個人あるいは小グループのために行われる集団的な宗教表現の借用であり、自我が精神的消滅に抵抗し、あるいはサブグループが認識的崩壊に抵抗するためのものである
→アリスの〈失明稲妻〉? - 宗教は、社会のために呪術をモデル化する制度
- そもそも供犠は、イニシエーションの一部であり、成人前の若い男女の「死と再生」が原型だった
→トリシューラの鮮血呪?
呪いの時代(文庫版) 内田樹
- 現代日本は、相手を否定する批判の言説=呪いばかりだが、それではいけないというエッセイ
- 他の本で、呪いに詳しくないと語っていた筆者だが、ここでは呪いの専門家を自負している
- 「強い根拠は無くてもとりあえず仮説を決めつけて、おかしいと思ったら仮説を変更する」のが良いというのが著者のスタンスなので、まあそういうことなのだろう
- 呪いが機能するのは、それが記号的(一般的・反復的)に媒介された抽象物だからである
- 具体的、個別的、一回的な「身体による限界づけ」を失ったとき、記号は過剰に氾濫し、抑制の利かない呪いが機能し始める
→トリシューラとアキラくんは? - 祝福は、呪いの真逆の概念であり、終わりなき具体的な語りである
- 白川静『詩経』の「賦」こそが祝福の原型、ただ荒々しい自然の風景を列挙して、エネルギーを励活し、自分の中に取り込むもの
- =日本の「国誉め」の価値判断抜きでのエンドレスな列挙や、複式夢幻能『山姥』ただ良く分からない怪物が山巡りをするだけの話なども「語りきられない」語りである。
- 写生的列挙の美点は、詳細に記述すればするほど「人間の行う記述によっては「生」を汲み尽くすことは出来ない」という不能を覚知出来るということ
- それは「語り尽くすことができない」ということを語ること、限界を、把握しきれないほどの豊かさを把握すること
→四章・断章編? - 他者との共生の基礎は、我が内なる他者との共生の経験
自分を細かく「割り」他者との共有が増える人、それらを統合できる人がオープンマインドを持っている
→分裂を続けるシナモリ・アキラ? - 解説:人間の論理は、身体という混沌とした自然過程の上に立ちあがる二次的なパターンに過ぎないが、コンピュータの論理は純粋な論理であり、それを支える(抑制する)下位の言語を持たない
- 同じ著者の『現代人の祈り 呪いと祝い』では、祝福の一種である「予祝」を生態学的心理学の「アフォーダンス」や相撲の股割り、門付け芸、バイクのコーナーリングテクニックなどの具体的なものに例えていて、より詳しくなっている
魔女論 大和岩雄
- 写真やイラスト多く、論というより引用のまとめ
- 著者の『魔女はなぜ空を飛ぶか』と『魔女はなぜ人を食うか』という二つの本を合本にしたもの
- 魔女は零落した女神であり、生と死の両方をもたらす存在だった。
- 彼女たちは、女性上位のセックスで箒(男根)を手にいれて完全な存在となって飛翔し、産んだ赤子をまた食らって再生させたのだ。
- 魔女は「垣を飛び越える女」善悪内外を超える者であり、それゆえ両性具有でもあった
- 箒と男根、飛ぶ男根、女性上位のセックスや、女性が男を性的に襲う祭り、血の神を飲み干す女神カーリー、ディオニソス祭、メディア、子どもを食してまた産み直す、すなわち転生させる女神、神を八つ裂きにして共食する祭り、歯の生えた膣、とすごくアリュージョニスト
- うつぼ舟など箱舟漂着譚も棺や母胎と関連あるし、リールエルバかも?
性・性愛・聖婚関連/思想
愛について 竹村和子
- 男性の性の視点から書かれたラカンの理論を、自分なりに読み替えて普遍性を目指しているジェンダー見直し系の本
- ラカンが説明した「不感症」と「性的不能」のメカニズムは、男女両方が経験する、愛の普遍的な二つの側面である
- エロスは本質的に不可能性のうえに成り立つものであり、わたしたちが経験できるのは、その不可能性しかない
- あなたが欲望しているわたしは、あなたの欲望のなかにのみ存在し、そのような幻想のわたしを差し出すわたしは、つねにわたし自身の愛から疎外される
- またすでにあなたの欲望が書き刻まれている私の欲望は、その幻想をあなたに重ねているために、わたしの愛はあなたへの愛につねに失望し、その失望がまた愛を生む
- だがこの愛の疎外と失望こそ、エロスを構成するものである
- 愛と隣合わせの憎しみや臆病さは、わたしが愛するほどにはあなたは私を愛してくれない、わたしはあなたが愛するような者ではない
- つまり、あなたの歓びのなかにわたしがわたしの歓びのなかにあなたが存在している、このウロボロスの輪の中に、愛の経験があるためではないだろうか
- けれども愛の経験が、愛を〈受け取る〉ことと〈与える〉ことからなりたち、その両者が同じことを意味するのであれば、わたしはつねに「不感症」であるとともに「性的不能」でもある
- なぜならわたしは、つねにすでにあなただから
→アキラくんとトリシューラをはじめ、色々な関係
男であることの困難 恋愛・日本・ジェンダー 小谷野敦
- 「男らしさ」は男にとって負担だという思いから、フェミニストとなった過去を持つ男性文学研究者の著書。文学評論や自伝的なエッセイ集
- 「恋愛が西洋から輸入された観念」「イエ制度は近代から作られた人工的なもの」「恋愛や結婚は制度に過ぎない」などの説に反論している
- 漱石の『こころ』は、意図的に西洋作品をパロディしたものであり、裏の「実は「お嬢さん」が先生のこころを得るための駆け引きをしていた」という真実を隠したものであるという説
- 男同士が作り上げるホモソーシャルな世界では、「もてる」ということはその当人の優越を示すのみならず、正しさを示すものとしてさえ了解される傾向がある
→グレンデルヒの童貞蔑視など - 「情熱恋愛における『他者』」
- 「私」と「他者」が持つべき関係として、何らかの理想的形態が前もって提示されているなら、それは「共同体イデオロギー」であって、そこで他者性は消えてしまう
- 「他者」とは、「私」と「他人」との既成の関係が崩壊し、未だ新たな関係の形が見えてこないときにもがきながら差し出す手つきの先(「未来」という「時間」)に現れるものだ。
- 「姦通」を嘆く男たちが求めていたのは「女」ではなく「母」ではないか?
- かつて母がしてくれたように、常に男を中心として思考を巡らし、男の表明されない内心をいち早く察して、彼が嫌がるそぶりを見せようともどこまでも追求してきて、無理無体にその思いごとを聞いてくれることではないのか
→オルヴァ?
男は邪魔! 「性差」をめぐる探究 高橋秀実
- 男性の筆者が、学者から男装女子やサラ男まで、色々な人に「男が邪魔な理由」を尋ねてみたエッセイ
- 後ろ向きだが、ユーモラスなノリ
- 「ジェンダーフリー」や「男女のらしさ」への批判もあるが、基本的に「性差は存在する」そして「女性の方が男性より優れている」という立場
- ドロシー・ディナスタインの筆者解釈「男女を問わず、私たちには赤ん坊の時に抱いた「自由であると同時に世話されていたい願望」を叶えたいという欲求がある
- 男を「主人」に仕立てることで、「主人」である男を屈服させる喜びと、奴隷としての潜在的な自由を享受するのだ
→ミヒトネッセの間接的な男性差別呪文? - 「男は(女にとって)邪魔であり、邪魔であるからこそ活かされる」
- 女性の脳は、あまりに機能が高いため自家中毒を起こしてしまう
→男を、女性と女性のあいだの「緩衝材」とする視座が、二人の魔女の使い魔であるシナモリ・アキラと似ている - なんだかんだで、Mな筆者のノロケ話に終始した本だった気もする。リア充爆発しろ
「男らしさ」の人類学 デイヴィド・ギルモア
- 世界中に広がる「男らしさ」の文化について比較分析した本であり、「男らしさ」の価値を見直すのに役立つ
- 出版は1993年と古いが、「男らしさ」に取り組んだ文化人類学の開拓者的な本であり、その視座が興味深いので紹介する
- (「男らしさ」について)断言できることは、男が戦うように条件付けられると、「男らしさ」が重要となり、一方男が逃げるように条件付けられると、その反対に重要でなくなるということだ
- おそらく、大部分の社会では、資源の全般的不足と広大な荒野などへ逃亡することが不可能であるため、戦うことが選択されたのだ
- 戦わねばならない戦争があり、成し遂げなければならない厳しい仕事がある限り、私たちの何人かは、おそらく「男のように行動し」なければならないのだ
- しかしまた、どうして一体、このような命令が女を除外しているのであろうか?
- どうして男だけが「本当の男」になって、うまくリスクを処理して栄誉を獲得するのが許されることになるのだろうか?
- これは哲学者の問題であって、社会学者の問題なので、追求をやめねばならない
- 可能性が無限にあるわけではなく、私たちはゼロから役割を作り上げてもいないから、問うべきではない
- 「真の」男性性を強調する社会では、たとえわずかな強調であっても、また理由が何であれ、三つの道徳命令が繰り返し強調されているように思われる
- ほとんどの社会で一人前の男になるには、女を妊娠させ、被保護者を危険から守り、親戚一同に食料を供給しなければならない
- 「真の」男とは、社会の基本的単位である家族を再生強化するために、自然を手懐けるコト――――つまり、無から価値あるものを想像するために、社会秩序を人為的に作り変え、それを永続させてくれるものだと期待されているのだ
- 男性性とは一種の男の生殖作用であり、その英雄的特性は、男の自己決定と自己鍛錬つまり絶対的な自己依拠性のなかに、一言で言うと、その主体的自律性のなかに存在する
- 攻撃的な性行動がここでは重要になってくる
- 「真の」男性性とは、乏しい資源を獲得するための社会的闘争の中で、行為を強力に遂行して行くための誘因である、つまり、内的抑制を克服することによって集合的利益を促進させてくれる行動基準なのである
→『天獄』?槍の原理?
- 男になるためには、まず第一に彼らが消耗品であるという事実を受け入れねばならない
- 男性性のイデオロギーの中には、自己犠牲ともいえるほどの没我的寛大さと言う基準が含まれている
- 「真の」男は、受け取る以上に与え、奉仕するもの
→シナモリアキラ?
- 男の支援は間接的であるから、概念化するのが難しい
- 男が貢献するために必要な人格的特性は、逆説的であり、我々欧米人が通常養育しようとするパーソナリティとは真逆のもの
- 家族を養うためには、男は、遠くまで出かけていって狩猟や戦闘をしなければならない、気前よくするためには、男は利己的になって相手の男たちを打ち負かして品物を集めねばならない。
- 愛するためには、男は女に言い寄り、巧みに誘い、妻を「勝ち取る」まで、攻撃的でなければならない
→アズーリアが想像した『天獄』の成り立ち?
- 私の主張は、男は生得的に女とそれほど違っておらず、自己の存在をアピールするための動機を必要としているのだということなのだから、フェミニストの基本的な主張を応援するもの
- 新(ポスト)フロイト派の解釈:男らしさは、子供っぽい行動・退行を阻止する手段であり、内なる永遠の子供さらにピーターパン・コンプレックスに対抗する防衛策
- 母親との依存的な一体化を断ち切る、退行願望に対する戦い
- 男性性とは、ウォルター・ペーターの用語を用いれば、男の構築的精神を神聖化する神話的な語りとして特徴づけることができると、私は思う
- 男女の相違は、女が一般に男の管理下に置かれていることにある
- 男はたいてい政治的権威とか法的権威を行使し、また女より身体が大きく力があるために、もし因習道徳によって女を管理できなくても、力や力の脅威によって、強制的に女を服従させることが出来る
- しかし、男は(特に各人が独立してばらばらに社会関係をもつところでは)いつも他人の支配下にいるとは限らないから、社会的に管理することが難しくなる
- このような相違のために、特別な道徳体系(「真の男性性」)というものが、男に適切な行動を自発的に促し、それを確実なものとするために必要とされるのであろう
- イデオロギーというのは、いったん形成されると、その環境と上手く調和し適応して、さらにその環境を強化していくというフィードバック関係というものが発生するという仮説が考えられる
- 世界の男らしさは一枚岩ではない
- しかし)世界の多くで見かける)男らしいイメージやコードの連続体、つまりスライディング・スケール(滑尺)とか多色のスペクトルについて語ることは出来る
→万色?
- しかし)世界の多くで見かける)男らしいイメージやコードの連続体、つまりスライディング・スケール(滑尺)とか多色のスペクトルについて語ることは出来る
- 例外的に攻撃的でなく女性を守ったりもしない男性性=ポリネシアのタヒチ島民とマレーシアのセマイ族=攻撃から逃亡できる広大な空間がある社会
河合隼雄著作集10 日本社会とジェンダー
→か行参照のこと
孤独とセックス 坂爪真吾
- 成人男性の「孤独と性の悩み」への対応指南書
- 筆者の経験則であるため若干クセが強いし、真摯に問題と向き合っているし、「性犯罪者になる寸前だったがそうならなかった体験記」として貴重な本
- 異性とのセックスに全ての救済を求めていた筆者が「東大とセックスした!」という救済にたどり着くまでの過程は、読み物としてもそこそこ面白いと思う
ザッヘル=マゾッホ紹介 ジル・ドゥールズ
- マゾッホ論の古典であり、当時同一視されていたサドとマゾッホの思想を切り離した本
- サド論やフロイト批判、ラカンを踏まえた記述があるし、文章自体も分かりにくいが、マゾヒズム論としてはかなり的確な論に思える(自称マゾヒスト)
- マゾヒズムにおける拷問者の女性がサディストであり得ないのは(中略)まさしく彼女はマゾヒズム的な状況において必要不可欠な部分であり、マゾヒズムの幻想が実現された要素だからなのだ
- 彼女がサディストには決して見られない「サディズム」をもっているからであって、それはマゾヒズムの分身や反射としてのサディズムなのである
→アキラくんにとってのルウテト? - マゾヒストは、自分が受けた処罰の中に、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見するのだ
- マゾヒズムのユーモアは、欲望の実現を禁じ、それに違反するなら処罰を下すその同じ法がいまや、まず処罰を行い、その帰結として欲望を満足させるよう命ずる法となることだ
→ルウテトのアキラくんへの嗜虐的な処罰? - フロイト引用:興奮の拘束のみが、興奮を快へと「解消しうる」ようにする、それのみが興奮の放出を可能にする(『快原理の彼岸』)
- 《エロス》を構成するこの拘束を、私たちは「反復」として定義しうるし、またそうしなければならない
- すなわち興奮と連関する反復であり、生の瞬間の反復、あるいは単細胞生物にすら必要な結合の反復である
- 苦痛は、その使用法を条件づける反復形式との関係ではじめてその価値を獲得するのだ
- すなわち、いまや快のほうこそが、独立するおそるべき力能としての反復に随伴し、つきしたがうのである
→アキラくんとアズーリアのPTSD的なトラウマの無限再生、断章編とルウテトのループ?
証言現代の性暴力とポルノ被害 ポルノ被害と性暴力を考える会
- ポルノ規制派の(一部)の思想がよく分かる本
- この本を出した団体は、暴力ポルノで有名な監督・バクシーシ山下の著書『ひとはみな、ハダカになる』が、児童文学で知られる出版社から売られたことへの抗議活動から始まったもの
- 男性が虐待されるポルノグラフィもまた、支配と従属をエロチックにするという男性的なセクシャリティと結びついているとするなど、その規制基準は独自の【邪視】にもとづく
- ポルノの暴力性についての記述は豊富だが、性のアブノーマルや危険な要素についての考察、ポルノを滅ぼした後にそれを求める欲望にどう対応するのかという対策、代わりのロールモデル準備などの視点に欠けている
- 「人間性を投げ捨てる自由」や性と人間のアブノーマルな部分に対する見識がないのも、気がかり
- また、ポルノを排除する手本として、児童図書関連の雑誌の表紙から「パイプをくゆらすおじいさん」が削除された嫌煙の事例を挙げているが、そのファシズム性を感じ取れていないあたり、その問題意識はかなり危うい
- ポルノ被害を新しく定義し分類しているが、その「被害」はかなり広範囲にわたるため、全てを防ぐには強大な権力を必要とするだろう
性愛 大人の心と身体を理解してますか 渥美雅子 村瀬幸治
- 講談もやる女性弁護士と、性教育の専門家である男性大学講師による、書簡形式の対話集
- エロス以外の季節感豊かな話題に加え「不倫をしたことがありますか?」や「セルフプレジャー(オナニー)は必要」など、大人同士のガチなトークが繰り広げられている
- 貧困のために日本で売春をするしかなかった女性たちや、男友達だけで心中した社長たち、DVや母子不分離、オランダの公費による障害者向けの性的サービス事業など話題も幅広くて楽しい
- 男と女が、死ぬのでもなく、恨むのでもなく、へこたれずしたたかに人間を生きる、そうした取り組み
- 日本人は、性を相手の人との”関係”を育てながら、快楽と結びつけて肯定的に考えたり学んだりしてこなかった
- 生涯を通じた教育によって、セックスを「暴力と支配のイメージや意識」から「強調とコミュニケーションのイメージ、意識」に切り替えなければならない
- (互いに相手の気持に配慮しあって)快感を得たい、与えたいという願いを持つこと、それはとても大切な人間的な願いであって、それを「いやらしい」とか言って相手を非難、攻撃するようなことは相手の人間、人格への侮辱だと思います
- 女性にとっては、日常生活全部が前技であり、そこで良好な関係が築けてなければセックスなど論外(要約)
- オーガズムは良いワインを造るようにじっくりと時間をかけ、手順を踏んで創りあげてゆくもの、そうやって初めて味わうことのできる「祭りの時間」
→聖婚などアリュージョニストいろいろ - 暴力は、相手の原論や存在を力によって押さえ込み支配しようとする行為”敗者の行為””コンプレックスの表現”
→イアテムなど - 重い障がい者男性:人生にとっての性(セックス):肉体的精神的にくつろげ自己を再確認できるという意味で性は重要です。
- とくに自分で体を動かすことが出来ない人にとって性的接触は自分の体を肯定的にとらえるチャンスです
聖なる快楽 リーアン・アイスラー
- 西洋史の歴史書『聖杯と剣』のテーマを発展させたもの
- 現代の世界は、支配形態の世界観に支配されているとして、古代に遡って協調形態の世界観への移行を目指す本
- 暴力と支配をエロティシズム化するのではなく、エロティックなものを霊化する世界、暴力と苦痛を通じての救いという神話ではなく、いたわりと快楽を通じての救いという神話を目指し
- 盲従、苦悩、自己卑下を要求する神が居ない未来を描いている
- また、聖婚を協調形態の世界観ならではのものとして肯定している
- 精子と卵子の結合に対する記述なども、支配的・攻撃的なステレオタイプに支配されている
- 生物学には、サイバネティクスという別のモデル(見方)が存在するのだから、そちらを採用するべき
- 精子は「モリを打つ」ではなく「橋をかける」や「糸を投げる」と表現することが出来る
戦闘美少女の精神分析 斎藤環
- オタク論の古典のひとつ
- 「萌え」を実感できない筆者は、戦闘美少女を「もう一つの現実」に「セクシュアリティの磁場」をもってリアリティをもたらす存在であると定義し受け入れている
→コルセスカ? - 戦闘美少女=ファリック・ガールは外傷や必然性なしに戦闘力を与えられた空虚な存在であり、異世界を媒介する巫女あるいはメディアである
- 戦闘美少女の発揮する力は、彼女の主体が操るものではなく、異世界感ではたらく一種の斥力のような作用を体現しているのではないか
- 「空虚であること」によって欲望やエネルギーを媒介する女性=力動精神医学における「ヒステリー」
- 「無根拠であること」こそがマンガ・アニメという徹底した虚構空間の中では逆説的なリアリティを発生させる
→シナモリアキラ?
- 筆者は、この本におけるアイディアを『キャラクター精神分析』などの後の著書で発展させている
男性同盟と母権制神話 カール・シュミットとドイツの宿命 ニコラウス・ゾンバルト
- ドイツの思想家カール・シュミットや彼に似通っていると思われる人物たちを通じて、ドイツを支配した思想を分析している本
- その内容は、筆者の【邪視】であり裏付けとなるデータなどはほとんど無いが、一つの解釈としてはアリかもしれない。
- 定義があいまいな「軍人」対「市民」の構図、「女々しい男性」や「ホモセクシュアル」「平和主義者」への憎悪、「友」と「敵」の区別、それらの背後には、性的抑圧から来る近親憎悪や女性性に対する恐怖があった
- 血液神聖説:血によって人間は罪を負うのであり、血によって人間は救済される
- 犠牲は無垢であるほど、象徴的な贖罪の機能にふさわしい
- 国家主義者の理想は、「無性化した人間」宦官と子宮を摘出した女性だった
- 彼らが恐れたのは、性の解放やそれによる女の解放、そして「カオス」「アナーキー」「女による支配」「自由な愛」を渾然一体と溶け合わせた「天上的な原始状態」すなわち「母権制」である
- 『テオドーア・ドイブラーの『北極光』』:シュミットの秘め隠した思想の現れ、両極である男性と女性の融和を描いた詩『北極光』、その意義を示唆したエッセイ
- ヨーゼフ・フォン・ゲレス「ヘルマフロディテ(=ヘルマフロディテス)は、人類の課題である
フェミニズムの困難 吉澤夏子
- 「理想的」にかわいらしさを追求した〈女の子〉の代替可能性や、二重の差別がある差別構造、平等が必要とする最低限の差異の話など、アリュージョニストなテーマが展開されている本
- 私にとって「平等な社会」とは(中略)「女だけ」というかたくなな態度をとる必要のない社会である
- フェミニズムは、「平等な社会」とはいったい何かという根本的な問いに答えることなしには、暫定的な実践すらできないという段階にきている
- 平等は、差異を必要とするが、同時に差異そのものの還元でもある
- 「人間はみんな平等」という理念は、人間の行為や状態に対して「人間(的)であること」とそれ以外を区別するという(暗黙の)操作を前提にして、初めて成立する
ペニスの文化史 マルク ボナール,ミシェル シューマン
- 古今東西、古代の呪術から現代のスナックまで、ちんちんにまつわる話をこれでもかと詰め込んだ一冊
- 図をつけて説明されている割礼のところは読んでてとても痛いぞ
ぼくらのSEX 橋本治
- 既製品の「正しいSEX]というのは存在しないから、これから「あなたのための正しいSEX]を考えようという本
- 上手く内容をまとめられないが、全体的にやさしくてユーモラスな精神が感じられて、読んでいるうちに性に対する暴力的な意志が薄れて行く本
→ミヒトネッセやイアテム、グレンデルヒの暴力的性差別発言への解毒に使えるかも?
マゾッホという思想 平野嘉彦
- マゾッホのマゾヒズムとその作家性のつながりや、彼のマゾヒズムが「母権的マゾヒズム」だとするマゾッホ観を主張している
- 内容はいまひとつまとまりがないが、マゾッホが結んだ三つの契約を詳しく分析しており、マゾッホの生涯にも詳しい
→契約による自己の自由放棄とか、アキラくんっぽい - マゾッホ研究の先駆者であるドゥルーズの解説もあり、分かりやすい
- 『毛皮のヴィーナス』における、模写に対する欲情
→とりあえず、トリシューラは、マゾッホの理想である「毛皮をまとった女主人」にしか見えない - 女の姿を借りて語りかける自然
→キュトス的な大地母神?
モテる構造--男と女の社会学 山田昌宏
- 本書の目的は「レッテルを貼る」のではなく、自分たち人間を縛る「社会的制約」を明らかにすること
- 筆者は、全ての抑圧を無くすことが可能だともそれで幸福になれるとも思わないが「社会的制約」を明らかにすることで「枠への態度を決める自由」
- つまり、多様な生き方を選択する条件=主体性を手に入れることが出来る、と考えている。
- 枠を変更することを目指すのも良いが、枠の存在を指摘すること自体を非難しても、何にもならない
- 仕事が「できない男」はモテず、逆に、仕事が「できる女」も男性から倦厭されがちなのは、なぜか?
- それらの現象の背後には、仕事が「できる」ことが、男女の差別化の目印として扱われてきたことがあったのだ。
- しかし、現代の西洋そして日本では、男だけが「価値が計れる労働」=市場労働を専門にこなす生き方は、経済的に難しくなっている。
- これからは「できる」と「もてる」は、切りはなされていくことであろう。
- 男女差別の感情が抱える2つの問題
- 1 好き・嫌いに埋め込まれた規範:自分の意思で選択できない。
- そして、異性愛を前提にすると、男女は感情に基づいてお互いに選び合う必要がある。
- 2 男性である・女性であるというアイデンティティの問題:社会の中で、自分の男としての/女としての居場所を保つことは基本的な欲求であり、それによってプライドや安心感が保たれている。
レイプ/男からの発言 ティモシー・ベイニケ
- 男性のレイプ観の背景にある先入観を研究した本
- 集められている男性たちの発言は統計学的に公正ななものではないが、バラエティ豊かで示唆に富む
- 付録の対談:・強姦は女性の存在そのものに対する殺人行為
- 強姦ができることが男らしさの証明だという社会の鋳型、男性性の神話のなかで、男性もどれほど苦しんでいるかというところの証明がなされている
- 性行為のバリエーションであるという解釈があるために、強姦の犯罪性が立証できにくい
- またそれを助長するようなサブカルチャーがあるので、男には強姦願望があり、女には被強姦願望があるという神話と幻想が再生産されやすい
- レイプとは言えないまでも準レイプ状況はほとんどの人が体験しているのではないか?
- レイプというのは階級制のもとにおける強者の、弱者に対する支配と暴力の形態
- レイプは実際には日常的なものなのに、レイプは自分とは無縁なものと思い込みがち
- 怒りと結びついたアンガーレイプ、自分の社会的に去勢された部分を回復したいというパワーレイプ
- レイピストを弁護するわけではないが、男性の抑圧を見なければ、レイプの発生原因から目をそらすことになる
- レイプは加害者に罪を償わせて終わりではなく、なぜなのかという問いかけを一番多く必要とする犯罪
- 男らしさ、積極的アプローチやお金を男に要求する女性向け作品も
- 女性の方でも、ひとりの人間として生きていく生き方というのをどこまで自分のものにできるのかという問題がある
- レイプの被害を隠さなきゃいけない社会とは?
- 性暴行というのは、個人とその個人をとりまくあらゆる人間関係も破壊してしまうほどの、恐ろしい犯罪
- じらしているのではなく臆病なだけだったり、男性からは合意に見えても同情でセックスしたり根負けして後で強制されたと語られることもある
- 男性はたえず女性の外見から行動を仕掛けられているように感じている
- 男も女も、自分のほうが行動を仕掛けられている、自分は受動的だ、と感じているのかもしれない
- 女性の外見は武器であるという考え方は、性的快感は人を無力にするという考え方と、切っても切れない関係にある
- 女性の外見は武器であるというテーマは、レイプを正当化し、レイプされた女性に対する冷たい態度を正当化するのに用いられる
- 多くの男はこんなふうに考える――――俺に対して力をおよぼし、その力を濫用するような人間たちには同情できない
- ジョージ・ラーコフによると、女性の外見は武器であるという考え方は、もっと一般的な、すべて知覚は受動的であるという見方の一部である
- 知覚は、感覚器官に働きかける外部からの刺激によって説明される
- すなわち、何か私の身に起き、私には選択の余地がないとされるが、これは嘘である
- 人間は自分の知覚するものに対して、意識的であれ無意識的であれ、能動的に知覚し、選択している
- 男たちはしばしば、女性の身体をこそこそ盗むようにして知覚することを選択する
- これが、女性を欲望の対象としてポルノグラフィー化する、あるいは「物」として観る人間性を無視した「まなざし」であり、レイプを女性の責任にする思考の原因である
- 女性の身体部位のみに性的な興奮を感じることは、その女性を物におとしめ、ポルノグラフィーとして盗んでいるのと同じこと
→【邪視】、ミヒトネッセの固有呪術?
あ行
遊びと人間 ロジェ・カイヨワ
- 模倣(ミミクリ)と言えばコレな気がする
- 眩暈感もある
- しかし、カイヨワは模倣(ミミクリ)と眩暈(イリンクス)の結び付きに対しては、否定的だったりもする。
網野善彦著作集第十二巻(岩波書店)
- 著者の代表作である『無縁・公界・楽』とその関連の論文集であり、著者の資本主義についての思考が全て収められているようだ
- 公権力の及ばない避難所であり、日本独自の「自由」の場であった「アジール」と、そこでの「資本主義」について語られている
- 貨幣は元々呪術的な存在であり、出産に不可欠なアイテムでもあった
- 銭を地中に埋め、いったん神仏のもの「無主物」とすることで、銭は「資本」となった。
た - 物を交換することによって自分自身の一部を相手に渡し、相手自身の一部を自分にもらうことになるので、切りはなしがたいきずなが、両者の間に出来てしまう
- 「交易」が成立するためには、そこに入った人や物から俗世の縁を断ち切る「無縁の場」である市庭の存在が不可欠だった。
- 物をいったん神のものとすることで、後腐れのない物の交換である「交易」(市庭)が初めて成立したのだ。
- 金融、利息も本来は「神に対するお礼」であり、そうでなければ存在しえなかったであろう
- 「悪」は人のたやすく制御出来ぬ得体の知れない力
→紀竜レーレンターク? - 仕切られた空間では「ケガレ」になることも、道や橋、市のような解放された場所では「「ケガレ」にならないし、電線もしない
生きるための経済学 安富歩
- 市場経済学は、原理を演算するために必要な時間やエネルギーを無視しているため、物理学を無視した机上の空論に過ぎない。
- だから、この経済学が庇護する「選択の自由」も存在しない。
→それらを演算可能な人工知能が存在すれば、空論でなくなる? - 正当なコミュニケーションは、相互に、常時相手の想定イメージを修正しながら行うもの
- M・ポラニー創発=「暗黙知」=tacit knowing =知るという事象の詳細は、決して明文化出来ない。
- 知性は明文化出来ない
- 「住み込み」こそ正義。物や人と相互にコミュとって、相互に変化せよ。
- 孔子の「道」は 「選択の道」であるため、そこから逸れても「罰」はなく「正しさから無意識に逸れた自分への恥」しかない。
「生きるに値しない命」とは誰のことか カール=ビンディング アルフレート=ホッヘ
- ナチス安楽死政策の参考になった本『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』を和訳し、解説をつけたもの
- 知的障害者や認知症患者を「絶対的に無価値な存在」と激しく差別する本文は、それゆえに読み進めにくいが、だからこそ自分の中にある差別意識を見つめたり安楽死について考えるためには,避けて通れない本であろう
- たとえ誤謬の恐れがあろうとも、善きことや道理に適ったことは実行されなければならない(ビンディング)
- 安らかな死による救済を認めようとしないとすれば、それはもはや同情ではなく、その反対の非情に他ならない(同上)
- 精神的に死せる者(知的障害者など)は、内側から主観的に生きたいと請求できないため、その殺害は通常の殺害とは異なる(ホッヘ)
- 生きるに値しない命に寄せられる同情の根底には、認識不足がある(同上)
- そのせいで、大半の人々は自分とは異なる生きもののなかに思考や感情を投影するのだが、それは行き過ぎた動物崇拝の源泉となっている(同上)
- この本の背後には、知性によってコントロールされた意志を優位におく人間観=自己意識中心の存在観がある(解説者:森下直貴)
- 自己意識中心の存在観には「無の視点」:私の生では無いものごと=無から全てを見ることで、全てを「ひと」とみなすセンスなどで対抗可能(同上)
→アキラくんとカイン、キロン、ヴァージルそしてゼド
意識する心―脳と精神の根本理論を求めて デイヴィッド・チャーマーズ
- 現象的意識(心)がどこから発生するのかを問う哲学的問題。
- 客観的な脳の振る舞いから、意識を説明できるという古典的解釈を「哲学的ゾンビ」という思考実験を以って批判した。
- 類似の「全ての情報は物理情報である」とする物理主義批判に、フランク・ジャクソンの「マリーの部屋」という思考実験がある。
- 心の哲学まとめwiki>デイヴィッド・チャーマーズ
衣服は肉体に何を与えたか 北山晴一
- 『日本経済新聞』のコラム「衣身伝心のはなし」を加筆修正したもの。
- 衣服の話に手が抜かれているわけではないが、採用されている数々の画像のせいで、衣服よりはるかに肉体の印象が強い
- 衣服論に興味があるなら、ギュスターヴ・クールベ『世界の起源』の章は後回しにした方が良いだろう
- 平等思想は、社会的な差別から人間を解放したが、同時に社会のネットワークから切り離し、人間をアトム化、つまり匿名でバラバラな存在にさせた
- モード現象とは、差異化への必要と同一化への誘惑の両方を、同時に満足させてくれる社会的な装置である
- 近代社会は、変化を経済的価値に換算するようになって、歯止めを利かなくさせた
- しかし社会の基礎をひっくり返すような変化は困るので、近代社会が採用した「変化の制御装置」こそが、モード現象なのだ
- 言いかえれば、モードとは、個人を序列化された秩序に巻きこみつつ、結局は横並びのユニフォーム化状態を出現させる、そういうシステムなのである
- 流行とは、すなわち変化の制度化なのだ
いまを生きるための教室シリーズ 角川文庫編集部
- 各教科を専門家が本気で論じる、大人も読める教科書シリーズ
- 『今ここにいるということ』
- 芸術:後ろ姿や闇がもたらしてくれる想像力を大事にしよう
- 青森県での少年犯罪シンポジウム:高校生の「人間をなぜ殺してはいけないのでしょうか?」の続き、想像と思考の大切さ
- 社会:大澤真幸
- 冷戦を通じて証明されたのは、〈自由〉より重要な価値がないということだが、自由社会には「責任」が不可欠
- 選択の結果が偶然に等しいなら、その責任を問うことが、自己責任を問うことが出来ない
- 責任は、原因がないところに、それがあるように想定するところに生まれる
- 真の赦しとは、原因(罪人)があると知りつつ、それがないかのようにみなす決断である
- 真の赦しを通じて責任を、ひいては〈自由な社会〉を再生させる事ができるはず
- 推薦者による私見:赦しとは(個人を無条件で受容する)共同体あるいは居場所の「かたち」を演じる者によって与えられるものだということではないだろうか?
映像文化の社会学 長谷正人
- 写真、映画、TV、映像を社会活動の一種として分析した本
- ベンヤミンは、大量複製技術が、芸術作品のアウラを凋落(零落)させると主張した
- しかし、現代のスターは、むしろ大量複製される映像によってそのアウラを支えられている存在なのだ
- 大量複製される映像の文化には、無名の大衆が「無名なまま、その人生を肯定される可能性」と「有名になり、スターに近づく可能性」の二つの道が開かれている
- つまり、アウラが凋落する喜びと、アウラを感じ取る喜びの両方が存在するのだ
- だからこそ、映像文化について考えることは、魅力的なのである
オタ文化からサブカルへ ナラティヴへ誘うキャラクター アライ=ヒロユキ
- アニメにおける宮崎駿の限界から『少女革命ウテナ』や『宇宙海賊キャプテンハーロック』『銀河英雄伝説』まで様々な作品を通して、運命に抗う「英雄」あるいは「役者」として振る舞うキャラクターと、批評性を持つサブカルチャーの可能性を論じた本
→四章断章編・学園編など、「役者」として振る舞うキャラクターたち - 行為体=キャラクターの三つの役割。
- 私たちを公的領域へ「つなぐ」こと、「自由な振る舞い」によって媒介し抗って一元的なイデオロギーに回収されない複数性を確保すること、そして、物語世界を注視し鑑賞する「鑑賞者」として私たちをも世界の鑑賞/注視へと誘うこと
- 世界は効率で支配された消費物ではなく、生き生きとした意味のあるもの。私たちは消費者ではなく、人間という存在
- そこに至る道は、鑑賞/注視から始まる
- そして、サブカルチャーは本質的に社会的領域にあって、公共領域に侵食する稀有な存在であるがために現代社会の本質を浮き彫りにする
- それが、サブカルチャーと呼ばれるものの持つ可能性である
→神話的キャラクターであるコルセスカ、および『幻想再帰のアリュージョニスト』自体が持つ可能性? - 『装甲騎兵ボトムズ』と『THE ビッグオー』ありあわせのメディアイメージの応用(アプロプリエーション)によって作られた舞台の、時代性とその意義
→サイバーカラテ?
か行
海賊と資本主義 ロドルフ・デュラン ジャン=フィリップ・ベルニュ
- 資本主義には、組織が必要
- 海賊組織は、資本主義システムの周辺に出現する必要悪であり、どんな時代にも現れる
- 海賊組織が既存の組織が定めたルールを侵さなければ、資本主義システムは停滞してしまう
- アウトローが既存の法と利権を侵害することによって、新しいビジネスが生まれ、新陳代謝が行われるのだ
→盗賊王ゼド?
快楽の哲学 木原武一
- 快楽を追求することには色々問題あるけど、知的快楽なら反動も無いし問題ないよ!と説く本
- まあ、筆者の主張に賛同するかはともかく、快楽についての哲学史のまとめとしては、わかりやすくコンパクトに纏まっている
- エピクロスの求めた平静な心境「アタラクシア」
- 快楽も感じないストア派ゼノンの「アパテイア」(無感動)
→『E・E』 - 快楽と苦痛は表裏一体
- 軽度の欲求不満こそ、生きることへの活力源である。
- 苦悩は、人生のバラストであり、苦悩が無い軽薄な人間には、転倒の危険がある
- 諦念から安らかな境地が産み出され、その境地こそ幸福に等しい
- 快楽原理が涅槃原理につながり、涅槃原理は、死の欲動につながる
→ルウテトとデストルドー
家族の違和感 親子の違和感 春日武彦
- 親子と家族の価値と病理の話
- アリュージョニストもある意味家族の話なので、関係あるはず
貨幣という謎 西部忠
- 貨幣は「観念の自己実現」として存在する
- 内なる制度である人々の欲求・欲望と、外なる制度である貨幣は、相互に相手を規定しあうような循環関係を形成している
→相互参照 - 貨幣とは、貨幣として扱われるから貨幣である
→再帰性? - 物々交換を、市場の始まりとする新古典派の考え方は間違っており、貨幣が無ければ市場も存在しない
- 言葉が、意志疎通のための便利な「道具」というより、他者との困難なコミュニケーションを成立させるための「前提条件」であるように、貨幣もまた、市場が存在するための「前提条件」である
- 貨幣以前には、貨幣によって購入される「商品」は存在しない
- 「貨幣」と「商品」は、同時にその概念が確立されて、成立するものなのだ
- 現在の貨幣のあり方を変えることは、市場のあり方、ひいては私たちの文化や倫理を変えることにつながる
- グローバル時代は、コミュニティへの(見知らぬメンバーへの)信頼にもとづく「コミュニティ通貨」や電子マネー、ビットコインなど、多様な「質」の面で貨幣が競争する時代になるだろう
- その「質」にはきっと、これまで考えられなかった非経済的な利用動機ーー社会的、文化的、エコロジー的、人間的な価値を提供するものが含まれるのではないだろうか?
完全言語の探求 ウンベルト・エーコ
- 普遍言語あるいは完全言語と呼ばれているものの探求の歴史
- 人工言語、グロソラリア、ピジン語。いろんな言語があるよ。そして、無駄にカバラに詳しい。そう。「イェツィラー」のな!
河合隼雄著作集
- ユング心理学の権威であり、日本に箱庭療法を導入した心理学者の著作集
- 『10 日本社会とジェンダー』
- 「中空構造日本の構造」(→か行を参照のこと)をはじめとして、筆者のジェンダー関係の文章をまとめている
- 特に、男女両方に異性的な面があり、両性の交際にはそうした部分同士の交流も必要とする考察が印象的
- 人間は、その本性が自然に反する傾向がある
- 性別は分かりやすい差異であるため、多くの文化圏で自然物を二分するのに使われている
- ひとりの人間としての統合性(インテグリティ)を保つためには、身体ということもコミにして生き無くてはならない
- 「男らしさ」にしても「女らしさ」にしても、自分にとってそれが「おさまっている」また、他人から「さまになっている」と感じられる生き方であることが必要
- 身体性を問題にする時は、本人の主体的に感じる感覚のようなものが一番大切であろう
- ひとつの身体をもった人間として、自分は自分の感じる身体とうまくつながっているか
- 両性具有を志向する生き方もアリだが、その実現にやたらと焦らないことが必要
- 「らしさ」に囚われない好きな生き方を選ぶのもいいが、それがなんでもあるが味気ないフルコースになってはいけない
- 自分の人生、広さと深さをどうバランスを保つか、両方のらしさが必要
- 概念的に両性具有を追求するのではなく、あくまで自分の身体性との関連を確かめつつ両性具有を求めてゆくためには、やはり生きた相手を必要とすると思われる
消えたい (ちくま文庫版) 高橋和己
- 虐待経験のために「普通の人」とは異質な世界観を持つようになってしまった「異邦人」の苦しみと、その「回復」の話
- 心理的な世界は、「普通の世界」「辺縁の世界」「宇宙」という三つの世界が同心円状に重なって構成されている
- 「普通の人」は「普通の世界」という心理的なカプセルに守られているため、自分の存在や人とのつながりを確信出来る
- しかし虐待によって傷ついている「異邦人」は「辺縁の世界」しか感じられないため「普通の人」の価値観を共有出来ず、奇妙に見える行動をとってしまう
- 「異邦人」は、人とは違う視点や感情を持つため、社会に新しいものをもたらす者にもなれる
→世界内異世界人【グロソラリア】? - 橋本治先生の解説も必読。
希少性と欲望の近代 ニコラス・クセノス
- 欲望と流行、そして「希少性」という概念の誕生と歴史を説いている本
- 希少性から、解放されれば自由になれる
- 「いつも何かが足りない」という観念は、近代の発明である
- 豊かさという概念は、希少性という概念と双生児の関係にあるのだ
- モノの価値は、それを所有する個人あるいは集団が、その所有ということに与える「社会的意味」にあるのである。
- 流行=模倣の競争は、より上位の階級に追いつくため、そして、いま自分が居る階級に留まるための手段であり、目的そのものであった
- 希少なモノを手に入れることは、上位階級を模倣することであり、自分の価値が承認されるための手段でもあったのだ。
- 18世紀ヨーロッパでの「流行の発明」により、商人たちは常に「流行最先端の品が希少である」状況を作り出し、絶えざる需要を産み出すことが出来たのだ
〈希望〉の心理学 白井利明
- サブタイトルの「時間的展望をどうもつか」とあるように、希望と時間的展望についての本
- (未来のために現在の行動を意味づけることが重視される)未来指向は、物事の決定の主体として自分を重視する個人主義の文化と関係がありそう
- 「これをしなければならない」と強迫的に考えていると、将来展望の柔軟性を欠きやすく、現実に対応することを諦めがちになる
→ルウテト? - 目標に建設的に取り組むには、同じ対象に対して、未来の希望と不安がセットになっていなければならない
- 過去・現在・未来といった時間の往来を対象として捉え、自己の中に統合させることは、自分の存在価値を見出す姿勢へとつながっている
- 普遍的な希望は(中略)、個を超えることではなく、異質な個どうしがつながり、世界を共有していくことなのである
- 時間的展望の持ち方のコツ
- 第一に(中略)眼の前に他者がいなくとも、自分の中に他者を呼び求めて、時間的展望の広がりを確保し、現実と向き合うための支えを創り出すこと
- 第二に、毎日の生活では、いつかどこかにリズムをつけて、体験した過去を過去として味わい、未知なる未来を未来として味わうようにすること
- 第三に、人生は自分一個の人生で完結すると考えるのではなく、人々と過去と未来を共有し、それによって刻みを入れ、歴史を作っていくことである
きみの脳はなぜ「おろかな選択」をしてしまうのか〈意思決定の進化論〉 ダグラス・T・ケンリック ウラダス・グリスクヴィシウス
- 人は七つの下位自己を持ち、それに判断を左右されている
→六王とクレイ
自己防衛、病気回避、配偶者獲得、配偶者保持、親族養育は一対一で対応出来そう。
地位は、オルヴァよりパーンっぽい(より高い地位を目指す)けど - 内容は薄いので、図書館での利用推奨
吸血鬼イメージの深層心理学 井上嘉孝
- ユング派の著者による、吸血鬼イメージの歴史
- それは、吸血鬼の歴史であるとともに、人間の「こころの歴史」でもあった
- 異界と神を失った我々は、自我の境界線をも失ってしまったのだ
→リールエルバとリールエルブス
共産党宣言 カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス
- 地獄
クロード・レヴィ=ストロースの著作
- 「ブリコラージュ」という概念が作中に登場。
- それだけではなく物語論的にも、あるいは「神話」概念についても構造主義に寄って立つところは大きい。
ゲーデル、エッシャー、バッハ- あるいは不思議の環 ダグラス・ホフスタッター
- 人工知能・メタ概念・ゲーデルの不完全性定理等についての参考に
- うなる自己言及!
啓蒙の弁証法 ホルクハイマー アドルノ
- 啓蒙とは、合理性と自己保存原理が統一支配するディストピアを産み出してしまったもの――――という話だと思う
- 人間を支配者の座につけるはずだった啓蒙が、逆に人間が支配される世界を作ってしまうというパラドックス
- 具体性に欠けていて、やたらと読みにくい本。オススメしない
- (真理要求を持った)太陽を頂点とする家父長的な神話は、それ自体啓蒙である
→槍神教? - 神話の生贄には、選ばれし者としての一回性があり、それは、身代わりでありながら唯一の存在でもあった
- 啓蒙の「作用と反作用の法則」は、神話時代の呪術を超えた代替可能性をもたらし、人間を循環の内に閉じ込める
- 日の下に新しきものなしと、醒めた智恵は言う
- 機械の形をとりつつ疎外された理性は、硬直化した思考を生命的なものと宥和させ、思考の真の主体としての社会そのものへ関連させる社会を目指す
→トリシューラ?
現代文明論(上下) 佐伯啓思
- 保守系の社会経済学者である筆者の近代観を書いた本
- アを読む前提的な知識として役立つかも?
- 著者の思想だけを理解したいなら、講義録の『現代文明論講義』などのより読みやすい本を読んだほうが良いが、著者の歴史観や思考の流れを追いたいならこちらがオススメ
- 西洋独自の文化から生み出された「近代」の理念は、普遍化することによってその根源を見失い、ニヒリズムに陥っている
- ニヒリズムに対処する正解はないが、せめてやり過ごしておくためにも、その現状を認識して警戒しておくことが必要である
- 「西欧近代とはなにか」という問いに実証的な解答を出せる訳などないが、一定の見通しを立てることは出来るし、それこそが重要
- 現代の混迷のもとにあるのは「自由」と「秩序」(「欲望」と「規律」、「解放」と「権威」)を認識する観念のフレームの機能不全である
- 西欧近代は、合理的精神や自由を求める欲望ゆえにもたらされたものではなく、「確かなもの」の足場=生の意味づけを求めようとして出現したもの
- (単純化して言えば)キリスト教が西欧近代社会を生み出し支えているにも関わらず、近代は、宗教的な権威への信仰そのものを失わさせる
- 近代科学はあらゆるもの「根拠」を疑うが、近代科学では決してある物事の「根拠」を示すことは出来ない
- 二十世紀は、近代以前が持っていた「確実性」を見失い、生や認識の確かな「根拠づけ」が出来なくなってしまった時代
- 宗教的原理主義や熱狂主義(ファナティシズム)もニヒリズムの一形態だが、それに対抗する自由や民主主義の市民秩序もすっかりニヒリズムに侵されてしまっている
- ニヒリズムの問題に正面から対峙できないのに、自由や民主主義の世界的普遍化だけが声高に叫ばれる時、それもまたひとつのファナティシズムに陥ってしまうのです
- 自由や民主主義は、本来はそれ自体が目的でなく手段に過ぎないのに、それが自己目的化してしまう
→『天獄』と『地獄』?
- エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』:政府はゼロから作り出すことが出来ない。社会契約などという合理主義で作り出すことが出来ない
- 世襲の原理:偏見の擁護、非合理なゆるやかな偏見の中にこそ、統治の知恵や社会の秩序を作る秘訣がある
- 存在するのは、具体的なフランス人やイギリス人の歴史伝統と結びついた権利であり、抽象的な人間の権利ではない、という人権批判
- 新たな価値を創出する「能動的ニヒリズム」
- 新たな価値創造のためには、価値破壊と価値転換がなければならないが、 ニヒリズムは、この価値転換を準備するもの
- 従来価値があるとされていたものの無価値さに気づき、それでも残る「力への意志」により、今ある状況を抜け出して、より高いもの、より高貴なものを求める
- ナチスがユダヤ人を激しく憎悪したのは、ナチスの中にユダヤ人的な部分=種族的ナショナリズムがあったため
- 東欧進出に用いられたナチスの論理がユダヤ人に適用されると、ユダヤ人が世界を支配することこそが正当になってしまう
- ファシズムに結集した人びとは、基本的にこの世界に帰る場所がないと感じている故郷喪失者だったが、そうした故郷喪失者の典型こそユダヤ人なのだ
- 確かなものが、貨幣による交換価値しかなくなってしまった
- まずは、自分の存在の根拠、家というものを探すほかはないでしょう
- 自分の家とは、自分が親しくあるもの、自分がそこで心安らげるもの
- そういう家とともにあることが、倫理(エシック)
- ハイデガーによるヘラクレイトスの引用:「エートス・アントロポイ・ダイモーン」=人間にとって親しくある場所は神の近くにいることである
- 人間にとっては自分が安心できる親しい場所が大事で、そこには神々もいるということ
- ハイデガー:「神は絶対者である」というのは、西洋の形而上学的な思考で間違っている
- 「神に絶対的価値がある」といったとき、実は主体は人間にある
- 神に服従するようなフリをしながら、じつは人間のほうが上位に立っている
- その延長上に、人間があらゆるものを支配することが出来るとする技術主義的な思考が出てくる
権力と人間 ハロルド・ラスウェル
構築主義とは何か 編・上野千鶴子
- 様々な構築主義・構成主義についての論文を集め、論者に共通する確かな定義がないconstructionismを定義づけて説明しようとしている本
- 序章は読みにくいが、例が多いので構築主義についての理解を深めるには役立ちそう
- 構築主義は、社会学のみならず学際的な分野に広い影響を与えてきた知のパラダイムであり、現在の知の布置を知るには避けては通れない里程標である
- 構築主義の基本的な前提は、現実は社会的に構成され、現実は言語によって構成され、世界は物語によって組織化されるというもの
- 一言で言えば、現実は言説によって構成される
- 構築主義が問題にするのは、言語というカテゴリーを欠いては実在に達することが出来ないこと、そしてそのカテゴリーは透明・中立的なものではありえない、という「カテゴリーの政治」なのである
- カテゴリーの政治は、「おまえは何者か」という同一性の定位を要求する
- 「他者性を内包している自己の複数性」が前程されているところでは、同一性を求める問いに答えることそのものを拒絶することが戦略となる
→シナモリアキラの自己同一性(アイデンティティ)?
- 臨床のナラティヴ:病は物語のかたちで存在している。だとすれば、治療や回復は物語の変更としてとらえられる
- だが、ナラティブ・セラピーが行うことを許されているのは、セラピストがクライエントと共に、新しい物語を共著で書き進めることだけ
- 病が物語だとすれば、治療もまたひとつの物語だから
- 記述は、物語の形式をとると同時に、記述する自己を物語として構成する
- 自らの言説がもつ政治性をめぐる議論の余地を、つねに開いておくこと
- 記述という実践に徹する「真実」という言説の持つ政治的効果について知ってしまった後にどのような実践が有りうるのか、明快な答えがあるわけではない
- だが、社会構成主義を実践するということは、このような自己言及性を引き受けるということを意味する
- スペクターとキッセ:社会問題「何らかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動」であり「クレイム申立活動とそれに反応する活動の発生や性質、持続について説明すること」が社会問題の理論の中心的課題である
- 誰がどのような状況下において、どういうクレイムを申し立てたか、逆に何が申し立てられなかったのか、それが構築主義の経験的研究が目指すべき地平
- E・H・カー:歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」歴史は常に「再審」に対して開かれている
- 「見る角度が違うと山の形が違って見えるからと言って、もともと、山は客観的に形のないものであるとか、無限の形があるものであるとかいうことにはなりません。
- 歴史上の事実を決定する際に必然的に解釈が働くからといって、また、現存のどの解釈も完全に客観的ではないからといって、どの解釈も甲乙がないとか、歴史上の事実はそもそも客観的解釈の手に負えるものではないということにはなりません」
→【猫の国】の歴史学とゼオーティアの歴史の違い
- フェミニズムが目指すべきは、ジェンダーの意味作用の構築性を明らかにし、その作用を無効化することである
- 本質主義に対抗する言説は、性差の存在を否定する必要はない。性差は存在してもかまわない
- ただしそれは人間社会にとって所与たる『本性=自然』ではない。半本質主義者はただそのように主張すればよいのだし、実際ジェンダーという概念はそのための道具として開発されたのだった
- もしも性別ー性差ー性役割が、真に人間を分け隔てる本質として自然なる身体そのものに書き込まれてあるならば、どうしてこれほどの社会制度と暴力とが、その維持と拡大のために動員されなければならないのだろうか
- 本質が語られなければならないのは、本質などどこにも存在しないからである
- それでもなお、人は身体としての自己に本質を見出そうとすることがあるだろう
- だがそのように言えるのは、すなわち抵抗のさなかで、生きていくために必要なものとしてのアイデンティティを肯定できるのは、女や男というカテゴリー無効であるような世界を遥かに、微かにではあれ展望しうるからこそではないだろうか
- そのような批判の可能性すらが存在しないところでは、アイデンティティであれ本質であれ、いまだ肯定/否定のいずれもが意味を持たない白明の中で、ただ曖昧な現状追認に資するほかはない
- 本質主義:多様であるはずの諸特性を、時空を超えた本質に還元し、内部においては同質性を、外部に対しては異質性を絶対化する思考
- しかしそもそも、本質主義とは、構築主義による批判の対象としてもっぱら措定され、その差異が示す内容もコンテクストに合わせて可変するものである
- よって、本質主義は何の本質も持たない
- 構築される現実を自明視しないとき、「いま、ここ」での在り方とは別様な構築の可能性は残されている。ここに希望を繋げたい
幸福はなぜ哲学の問題になるのか 青山拓央
- 選択の基準として必要な概念である、幸福と幸福論を分析した本
- あるいは、幸福という【邪視】についての本である、と言っても良いかもしれない。
- この本は、幸福論を快楽説・欲求充足説・客観的リスト説に分けたあと、さらにそれに「何」と「なぜ」の階層構造を加え、私たちの幸福の捉え方を整理している
- また、ミヒャエル・エンデ『モモ』に出てくる「時間」は、灰色の男たちの「〈上昇〉に価値を置く時間」とモモやその仲間たちの「〈充足〉に価値を置く時間」に分かれるが、
- そのどちらか一方だけが「本物の時間」だと考えるのは、きっと間違いだとも、この本の著者は述べている
- 加えて、この本は筒井康隆『モナドの領域』へのアンサーでもある(その部分は、おまけとして書かれていて、無視することも可能)
- 『モナドの領域』は、ライプニッツ由来の「可能世界論」を発想の起点にしており、そこに登場する「GOD」は、選択ということをしない創世主である
- この本と『モナドの領域』を合わせると、そこにもう一冊の本が浮かび上がってくるそうだ
幸福論、小倉千加子、中村うさぎ
- 心理学者と欲望を追求した作家、女二人のゆかいで深い対談の本
- 自分そのものの美の追求に行き着くと、嗜癖(依存症)は終わる
- 私という外見から、私を読み解くな、と
- 他者の視線に映るもの、そのものになりきることによって、もはや他者の視線を必要としなくなる
- オウムの人だって、他者に依存しながら他者と差別化したい。軽蔑すべき俗世間があるからこそ、自分のプライドを保てている
- 「絶対的な真理がこの世にあって、それを手にいれないと人間には生きてきた意味がない」は中村も同じだが、彼女は全ての欲の追求(嗜癖)でそこへ辿り着こうとしている
- とくに女性にある生き方のジレンマ。「実現されなかったもう一人の私」から何を選んでも逃れられない
→ルウテト?コルセスカ? - 匿名のネットでは、毒を吐き散らす人間と癒されたい人間は、個人の中で別HNで共存している
- どうやって孤独や不安に耐性を持ちながら、なおかつ人に毒を吐き散らさないような理性を維持できるか
- 自分に与えられた苦を、単に他人に移し変えたい
- 誰かに毒を吐き散らしたい。責任は誰かに取ってもらいたい
→サイバーカラテ願望?
- 先鋭な、イデオロギーと関係ない方向に向かう感受性が、ほんとうに微妙な差異化に一生をすり減らすために使われている。鈍感を笑い、自分が誰かに優越するために
- オタクは「誰にも理解されなくてもいい」と思わなくてはやっていけないが、理解されたいわけだから、オタクどうしでより集まっちゃう。
- そうしたら優劣のつけあいが生じて、オタクの社会が女子校化する
- 女子校社会の原理、自分が個性化するために、他者(新しい価値観を導入する子や上にいる人たちを)をつねに模倣し続けねばならない
- 桐野夏生『グロテスク』:怪物的な美人が女子校ヒエラルキーを揺るがす
- 社会的存在としての人間は、達成感、達成動機を持つ。効率の法則では説明できないものが、人間にはある。
- 損失をこうむるかもしれないけれども目標を設定してそこに到達するための努力をする。それが神に代わる超越的な存在を求めたがるカリスマ求める傾向
- カリスマが完璧でなくても、その人から学んだ自分は、必ずその分だけなにかが増加している。自分の中で意味を見出だしたいと思う限りにおいては、着実に何かが蓄積していく
- きっと必ず、女性の中から女子校的価値観を俯瞰する人が現れる
- 小倉さんの心理学の先生「人生というのは自殺を一日伸ばしにするプロセス」「もし、それが明日でもかまわないなら、今日一日生きてみればいい。そう思って、少なくとも三日間生きてみなさい」
- 人生の意味は「僕だってその意味を探してる」「先人たちも、皆、探してきた」
- 中村:殉職すべきものが見つからないこと、それ自体が生命力になってるかも
恋する文化人類学者 鈴木裕之
- フィールドワーク先で、結婚してしまった文化人類学者の話
- 「われわれ意識」は「他者意識」と対になって発生する
- 他者→自分の呼称を自分自身が名乗ることで、その場におけるアイデンティティを得ることが出来る
- 他者を意識することによって、自らを意識している
- 巻末の参考文献が、すごく豊富な本でもある
高校倫理からの哲学4 自由とは 直江清隆
- 「選択」の前提として必要な「自由」についての本
- ウィトゲンシュタインの引用に加え、さらにロボット義手のケースを考察「私が腕を『上げる』という事実から、私の腕が『上がる』という事実を引いたら何が残るのか」=自由意志はあるか?
- 随意運動において、無意識的なプロセスが重要な働きを担っていたとしても、だからといって「手を動かそうと意志した」という自覚がなくなるわけではない
→サイバーカラテと、腕だけになるシナモリアキラ(特に『断章編』の演劇において) - 私は私を考えることが出来るが、それは「右手がその右手自身をつかもうとしている」のと同じ
- 「命令される私」がいて命令者が外にあるとき「命令される私」には自由が無い
- その「外の命令者」には、他人だけでなく掟や常識、空気や神、そして私に命令する「私自身」も含まれるのだ
→自分の意志で自由に行動するとき、そこには常に自分に操られるという不自由がある - 言葉と共に共有されるものの例としての、フランス兵捕虜が心の支えとして創り出した「架空の女の子」のエピソード。
→呪文によって、存在認識を共有される幻想の魔女たち - 自由とは、自然から出て自然を超えるもの。本能ではなく、悩んで自己犠牲したり他者を助けられるのは、人間だけ
- 運命と意志は、二者択一ではない。
- 近代は、経済上り調子だったから、意志と努力的な生き方がもてはやされた
心の分析 バートランド・ラッセル
- 世界五分前仮説
個性を捨てろ!型にはまれ! 三田紀房
- 東大合格を請負う漫画『ドラゴン桜』の作者による「型」賛美
- 個性を捨てて「型」にはまれば、とりあえず上手くいく
- どんな内容の表現にせよ、なんらかの制約があった方が上手くいく
- 真に「個性的」であるとは「人の役に立つ」ということ
- 発明よりも模倣と応用
- 成長が止まらないように、常に新しい「型」を見つけて「脱皮」しよう!
→【サイバーカラテ道場】のスタンス
さ行
差別感情の哲学 中島義道
- あらゆる悪意が消し去られた社会は、味気ない
- 差別は、肯定的な価値観の裏返しであるため、不可避で発生してしまう
- 何かを重視することは、それを持たない者を見下すことと表裏一体なのだ
- 差別論は、個人の快・不快の感情には立ち入らないが、差別感情はその延長に存在する
- 「差別したい自分」と「差別したくない自分」とのせめぎ合いを正確に測定し、向き合うことが必要
- 差別に苦しむ人と「対等の位置」に達するまで、差別感情と戦い続けるべし
- それを「課せられたもの」と覚悟していれば、やり遂げられるはず
- それが、誠実に生きるということ
自我論集 フロイト
- "死人たちが有する死への衝動を反転させて性的衝動に変換、吸血鬼化させることも可能だ。性的衝動はあらゆる欲求に変換可能。"
- 死の欲動の理論と、なんでも性に結びつける精神分析のパロディ的な運用。探せば他にもあるかも。
〈自己責任〉とは何か 桜井哲夫
- 思想というほどではないが、色々な参考文献にあたって、色々語っているエッセイ
- ヨーロッパにおける責任とは、ある約束に対する応答、保証のこと
- 人と人との約束、社会での人間関係を互いに規定する意味といえる
→アキラくんとアズーリアの再会の約束、ルウテトの誓約 - 漢字文化圏では、責任とは権力者から一方的に重荷を負わされる意味であり、耐え忍ぶイメージ
- 結婚も就職も自己責任と言うには無理がある
- 自由な恋愛は幻想、人間は社会関係の中に生きている
- ヨコのつながりを失い、タテの究極の価値をへの接近をだけが方向として設定された日本社会では、「私」は決定的に卑しむべきものとされた
- ドイツ的個人主義の影響もあり、うしろめたい私事を正当化するために、すべてが「お国のために」という決まり文句で彩られたのだ
自殺論 デュルケーム
- 自殺の根本的な原因には、社会の力が絡んでいると説いている自殺研究の古典
- 自殺の種類は三種類に分けられるが、どの種の自殺の原因にも社会が絡んでいる
- 「自己本位型自殺」は、社会の拘束力が弱まったために、社会的な自我を持て余すもの
- 「集団本位的自殺」は、個人の人格より社会の価値の比重が遥かに重いため、あっさり自殺したり義務で死んでしまうもの
- 「アノミー的自殺」は、社会の流動性が高まり、「ふさわしい財産の量」という限度が無くなったため、無限に欲望を刺激され続けて満足を見失って死ぬものである
- 筆者は、こうした自殺を防ぐには、個人を精神的孤立状態から引き出せる社会、同業組合の再興が必要だとしている
→アキラくんの仕事である転生の幇助は、自殺の手助けでもあり、本人にも自殺の疑惑がある
死生学 東京大学出版会
- 死生学についてまとめた全五巻のシリーズ
- 「死の受容」を唱えたが、本人は受容出来なかったキューブラー・ロスの話や、歴史的な死生観のまとめなど、その範囲は広くて深い
- 重いので図書館推奨だが、死生学について学ぶにはかなり良い本である
死とむきあうための12章 日本死の臨床研究会・編
- 様々な人による死についての講演をまとめた本
- 死生観というのは、生きた人間の営みと結ばれた考え方
- 冷え固まった溶岩のようなものではなくて、熱く煮えたぎるマグマのように「なりつつあるもの」、「創られつつあるもの」
- 哲学でいちばん大切なのは、教えられることを鵜呑みにすることではなくて、自分で考えること
「自分」を生きるための思想入門 竹田青嗣
- 個々の人間の中にある「よいこと」を求める心と「快」を求める心を敵対的なものとして対立させると、その答えは決して見つからなくなる
- 人がもしこの問題を「自分自身の中で」きちんと決着をつけ納得できれば、その人は自分の生を肯定できる
- この納得と肯定は欲望の自由という本性に則ったものであり、救済の物語より大きなエロスを与える可能性がある
- 逆に、この問題をはっきりさせないと、人間は「生が何であるか」決して分からないし、したがって、決して生の全体を肯定することも出来ないこと
- これは実存の問題であり、社会の問題と違って、個々人がどうしても自分で考え、自分で納得するほかないような問題なのだ
→アキラくんやトリシューラの悩みの基盤にある問題? - 人間は、自分の欲望がどこから生じてくるのかを最後までは分析できない存在
- 機械のように、必然的な因果関係から出てくるものであれば、それは欲望では無く論理判断に過ぎない
- 意識の「非知」がなければ、人間は、自分が自由に生きているという生の自由感を失ってしまう
→サイバーカラテの行く先? - 社会を改変する基本は、あくまで今あるルールを合理的なルールに変えていくことだが、それは「システム」それ自体を諸悪の根源と見る視点からは決して出てはこない
邪悪なものの鎮め方 内田樹
- 断定的だが、独自の視座を持つエッセイ
- 著者の思想を理解するには『一人では生きていけないのも芸のうち』や『村上春樹なんてこわくない』などの、他の本で慣れたおいた方が良いかもしれない。
- 「父権制イデオロギーが諸悪の根源である」という命題を語る人は、そう語ることで父権制イデオロギーの布教者になってしまう
- どれほど善意であっても、弱者や被抑圧者に同情的であっても「この世の悪は『マニピュレイター』が操作している」という前提を採用するすべての社会理論は「父権制イデオロギー」なのだから
- 精神分析的な意味での「父」とは、「世界の意味の担保者」=世界の秩序を制定し、すべての意味を確定する最終的な審級=「聖なる天蓋」のことである
- 私たちが「父」を要請するのは、「世界には秩序の制定者などいない」という「真実」に、私たちが容易には耐えることができないからである
- 私が今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めない」その言葉を発見した人間だけに「父の支配」から逃れるチャンスが訪れる
→クレイ? ラクルラール? - 「自分の不幸を説明する仮説」の正しさを証明することに熱中しているうちに、人は自分が「どのような手段によっても救済されることがないほどに不幸」であることを願うようになる
- 反復が気持ちいいのは「生きていながら死んでいる」状態をモデル化したものだから
- タナトス的に最も気持ちがいいのは「もう死んでいる」状態ではなく、むしろ「今、死ぬ」瀬戸際にいるときの方だろう
→断章編? ブレイスヴァ? - ミラーニューロンを薬剤で強化したところ、幽体離脱体験した
- 他者への共感度が高まり過ぎたせいで「自分が他者であっても自己同一性が揺るがない状態」になってしまったのである
社会は存在しない セカイ系文化論 限界小説研究会
- 2009年発行の本なので使われているデータは古いが、それぞれ異なる枠組みを用いて「セカイ系」を分析している
- 「セカイ系」と「シリコンバレー精神」は、60年代文化を親とする兄弟である
→「トリシューラ」となったリールエルバ? - その親とは、60年代カウンターカルチャーの「意識の拡大(拡張)」であり、サイケデリック・ドラッグを服用して得られた感覚だ
- それは、現在の自分では無い変性意識=異世界にこそ、開かれた空間がある(ありうる)という考えだった
→【邪視】の「世界観の拡張」の元ネタ? - 「セカイ系」が求める「崇高さ」は、自分でも外部でもなく「きみ」の中にある
- 上記のような文章を恥じらいもなく書いてしまえるゼロ年代系サブカルポモどもによる極めて悪質なサブカル史の捏造の手腕自体が極めてプレモンダンな呪術的思考の産物であるという点がアリュージョニストにて描か
れる歴史改変戦に相似
- 邪視の世界観の拡張とはアリストテレスやプラトンなどの時代の世界を認識する手法としての哲学(ex.四元素説)やそれ以前の時代の呪術的思考・認識がベースだから騙されないでね!
集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ 西垣通
- 今のところ集合知が機能する状況は限られているが、安易に見限るのではなく、新しい集合知の可能性を模索するべき
- 「知」とは、ほんらい生物的なものであり、身体的な経験を統合した主観的なものである
- 知的活動における機械の導入は魅力的だが、それは、人間の主観的な知を阻害するものであってはならない。
- 切望されるのは、人間の主観的・暗黙的な知を活性化して、集合知としてまとめ上げることが出来る機械である
- 身体技能を明示化する技術や、各種のセンサーとデータベースをそなえた「ユビキタス技術」などがその候補なのだ
→サイバーカラテ? - 記号と論理で新しい命題を導出する機械、権威ある知をもたらすラモン・リュイの「円盤機械」のようなものは、作るべきではない
→トルクルトアの神託機械?
自由とは何か 佐伯啓思
- 自由が抱えるパラドックスと、その解決法を模索した本
- 「自由」に関わるテーマは、その多層性において論じなければならない
- 現代のわれわれは、つい自由を「個人の選択の自由」として理解してしまう
→サイバーカラテ - しかし、その背後には「社会の是認」(「他者からの評価」)と「義にかなう」という二つの次元がある
- 自由という概念の意味をそこまで拡大する必要はないが、自由を論じるには、それらがあることを忘れてはならないだろう
- 何ものにも拘束されず意思決定をすること、つまりある選択をすること、ここにこそ今日の自由の最大の意味がある
- だがその自由も、共同体が規定する価値観や、その共同体をも超越する「義」に支えられなければ、価値あるものにはならない
- 「自由な選択」「価値の主観性」といってもなどといっても、それには一定の様式やルールやシステム、つまり価値基準による選択の評価が不可欠なのだ
→シナモリ・アキラ
神曲 ダンテ・アリギエーリ
- 汝らこの門をくぐる者は一切の望みを捨てよ
- マレブランケ
- コキュートスの封印(カイーナ、アンテノーラ、トロメーア、ジュデッカ)
- ベアトリーチェ、聖なる数字3、3章の33話構成も引用か?
神慮について ルキウス・アンナエウス・セネカ
- 「炎は黄金を証明する」の元ネタ。
- 非業の運命バンザイ!神よ我に艱難辛苦を与え給え!運命に立ち向かう強さを見せてくれる!的なマッチョ思想が爽快な一作。
- わりと短いので『怒りについて』のおまけについてきたりします。気軽に読みましょう。
- 訳によって『摂理について』というタイトルだったりします。
神話と人間 ロジェ・カイヨワ
- 神話はアナロジーの産物
進みながら強くなるーー欲望道徳論 鹿島茂
- なんでも書くライターさんによる、資本主義時代の道徳エッセイ
- インプットはアウトプットをしながら行おう
- 承認欲求が、格差の解決策になる
- パスカルの引用「人間の最大の卑しさは名声の追及にあるが、それこそが人間の卓越さの最大のしるしでもある」
- 自分「だけ」に得になることをやろうとすると、かえって損になることも多い
- 「正しく理解された自己利益(自己愛)」からスタートしないといけない
- 寄付勲章や、寄付者の名前が永劫に残る寄付システムなので「ドーダ(自慢)の競争]を行わせるべし
聖なるものの刻印 科学的合理性はなぜ盲目なのか ジャン=ピエール・デュピュイ
- 反アリュージョニスト的であるし内容はあまりないが、独自の視座がある本
- その最も特徴的な部分は、パニックに陥った群衆が同じ方向に逃亡するように「カオスから秩序が自発的に生成される」というものである
- 筆者は、ルネ・ジラールの論争相手であり、その影響も大きいようだ
- ブートストラップ:ミュンヒハウゼン男爵の自分で自分を引っ張って沼から脱出した逸話にもとづく概念:オペレーション・システムのブートの語源
- 物質的世界においても非物質的世界においても、市場はそれ自身の外部を生み出すことができる
- もはや差異はない。というのは、暴れる者たちは自分たちを互いに区別しようとすればするほど、互いに似てくるからだ
- もはや差異がないというブラックホール、あらゆる事象が発する原初のカオスからこそ、自己超越によって人間社会が生み出されるのだ
- パニックの名前の中には、全体化のプロセスの場だという観念が含まれている。それは指示とか方向づけとかのかたちで、新しい秩序を出現させることができる
- たとえそれが逃走の方向であったとしてもだ
→黒血呪?【言震】?黒の色号?パーン? - 外部性、ルイ・デュモン、聖なる秩序としてのヒエラルキー、反対物の包摂、上下内部反転
- ヒエラルキーは、いつ転倒されるかもしれないという脅威に直面している
→【レイシズム変数】 - 善とはむしろ、自分と離れたところぬ身を置いて自分自身を統御していた悪であったことが判明する
→レストロオセ? - 正義論の欠陥:自らを正しいとみなす社会においてこそ、劣位のものはルサンチマンを抱かざるを得なくなる
→【地獄】? - あらゆるものを経済的に見ると、利益を人間本性とする価値観を乗り越えられない、純粋な暴力を想像しなくなる
- ノウハウと思考の分離は、人間を思慮を欠いたアイヒマン的な被造物とする
- 健康というのは諸器官の沈黙に限らず、自律的な能力、人間の有限性と苦痛に面と向かい、それに意味を与え、それをまた歴史のなかに挿入する能力だということを理解しなかった
→シナモリアキラ?
「責任」はだれにあるのか 小浜逸郎
- 「責任」概念は一見曖昧で理不尽なものだが、これを強力に支えるものは、人びとが日々の生活慣習のなかで培ってきた、生きた具体的な人倫の精神である
- そしてそれは絶対的なものではなく、生活の流れや他の共同体との混交によって、いくらでも変動するもの
- 絶対的な精神などどこにもないが、古くからの慣習を現在に活かそうとする私たちの「日々の理性的な生活努力」があれば、人倫精神は確かなものであり続ける
- 私たちが自由を実感できるのは、解き放たれたときではなく、逆に法則や関係の制約をとおして、それらを我が身の実存に引き寄せつつ生きるときだけ
- 自由は、制約との相関ではじめて具体的なものとして現れるもの
- ある事態に関して、その当事者にとっての偶然性が高いと思われる度合いに比例して、その人の責任は軽いものとされると考えるのが妥当だと思います。
- 責任は、人間身体の空間的・時間的広がり、すなわち権力や地位・その身体のおかれていた関係に制限された有限的なものであるべき
→拡張を続けるシナモリ・アキラと女王となり地位を確固にしていくトリシューラ、前世の責任を追求されるアルマとコルセスカ - 責任、その事態に関わるお互いの関係のあり方は、当事者間の理性的な言語ゲームによって、その都度その輪郭をはっきりさせていくべき
- 「責任」の見積もりは、単に毀損感情(傷つき)の大きさにだけ依存するのではなく、理性的に当事者のその時々のかかわりのあり方を判断すべき
千の顔をもつ英雄 ジョゼフ・キャンベル
- "邪視と杖の複合呪術、【千の顔を持つ英雄】"
- 元々は一つの原質神話(モノミス)が数多の仮面をかぶって表れる、すべての神話は英雄神話に還元可能である、といった内容。
- 構造主義神話学の流れからはやや逸れており、スターウォーズやマッドマックスに参照されたことで、学術書としてよりサブカルのバイブルとして近年呪力が高まっている。
千のプラトー―資本主義と分裂症 ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ
- 目次を引用します
- 序――リゾーム
- 一九一四年――狼はただ一匹か数匹か?
- BC10000年――道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか)
- 1923年11月20日――言語学の公準
- BC587年、AD70年――いくつかの記号の体制について
- 1947年11月28日――いかにして器官なき身体を獲得するか
- 零年――顔貌性
- 1730年――強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること
- 結論――具体的規則と抽象機械
贈与論 マルセル・モース
- 高いもの貰うとなんかお返しの義務感じちゃうね、あれも呪術だよ。って感じの呪術書
- 法律も経済もなんもかんも根底に呪力があるよ!
- アリュージョニストでもポトラッチとか贈与どうこうとかあったのでたぶん参照してる
贈与論再考 岸上伸啓・編
- モースの『贈与論』を土台として研究された、様々な研究が載っている本
- 歴史学者ブローデル:資本主義は「市場」ではなく「反ー市場」である
- 競争原理が働く平等な「市場」と、独占販売だが互酬性の原理がある「反ー市場」が対立しているという捉え方など
- かつての競争的なポトラッチは、先住民が白人国家の福祉に組みこまれ、一方的に「施しを受ける側」に組み込まれたために行われた「返礼」だったのでは?
- パナマ東部の先住民・エンペラの文化において、死者の贈る食べ物は確実に毒であり、見知らぬ者の贈る食べ物も、また毒である可能性を持つ
- また、贈与の力自体も多様であり、それは、毒と類縁関係を持つことさえありうる
- 毒ではない食べ物を与える行為は、自らを受け手に対する「良い人」へと変えることであり、
- 決して完全には安定することのない他者との関わり合いを、それでも良いものへと変えるために他者へ働きかけることである
- タンザニアでは「借りを回すシステム」があり、それは携帯電話による気軽な送金をも組みこんで、相互扶助の文化を維持している
増補 母性愛神話の罠 大日向雅美
- 母性愛の崇高な面だけを賛美する風潮「母性愛神話」を批判する本
- 神話:理念と現実のくいちがいが覆い隠され、理念が現実に生きているかのように信じ込まされたものを指す(学研の国語辞典)
- 子育ては産みの母親にこそ最も適性が備わっているものだと主張し、その母の愛情を絶対的で崇高なものであると賛美してきた母性観は、実態とかけ離れた幻想に過ぎない
→ルウテト? - それは、人々を、特に女性を失意や苦悩に陥れる罠の側面を持ち、社会病理の原因となっている
- そしてその背後に、子育てを母親一人に押し付けることで、効率化を図ってきた社会のシステムがある
- 筆者は、そうした神話への対抗として、一人だけの「孤」育てから地域ぐるみの育児へ、移行を実践していくことを宣言している
存在と時間 ハイデガー
- アリュージョニストによくでてくるハイデガーの代表作。20世紀最大の哲学書の一つであり、実存主義のはしり。アリュージョニスト以外にもよくとりあげられており、笠井潔の『哲学者の密室』や京極夏彦の『陰摩羅鬼の瑕』、筒井康隆の『文学部唯野教授』も個人的にお勧め。
- 自信がないのでおかしいと感じたら消してください。『存在と時間』の世界観では、まずはじめに世界が存在して、次に、その世界の中に自分が存在している。つまり、デカルトの『方法序説』の中にでてくる「我思う、ゆえに我あり」的な邪視者にとって、この考えは到底受け入れられないものだと考えられる。
- この本は未完であり、勢い良く欠けていて挫折している。アリュージョニスト感ある。
- 存在への批判。「アズーリアがある」という言葉で思い浮かべるような、独立した「アズーリア」という存在はない。「アズーリアがある」というのは、語られない「過去」「可能性」「他者」の連関であり総合。作中のアズーリアやシナモリアキラやコルセスカっぽさある。
た行
退屈 ピーター・トゥーヒー
- サブタイトル(息もつかせぬその歴史)ほど面白くはないが、ある程度参考になるエッセイ
- 退屈は、普通の退屈とインテリがありがたがる「実存的な退屈」に分けられるが、後者はうつ病に様々な感情が複合した幻である。
- 退屈は、子どもっぽいとか怠惰の表れとして切り捨てるべきではないが、同時に哲学で飾り立てる必要も無い。
- 退屈は治療するとかではなく、この感情が発しているアドヴァイスに「注意を払う」といった考え方をするのがベストなのだ
- それは危機の回避をうながし警告してくれる「弱い嫌悪」であり、自分へ向かいそうな怒りや敵意を(自分に対して)隠すための自己防衛のたまものであり、なにより退屈な経験を与えてくれるのだ。
→アレッテ? - 退屈は些細なものとして扱われるべきではないし、些細なものと扱われて良い感情など、ひとつもない
- なぜなら、われわれ人間は感情を通じて世界を知り、自分自身を知るようになるからだ
→ルウテトの後悔するアキラくん推し - 退屈は、知的な面で陳腐になってしまった視点や概念への不満を育てるものであるから、創造性を促進するものでもあるし、批判的内省や思索、夢想、空想の余地を与えてくれる
- そして退屈には、人とその周囲の世界を分かち、人を自分自身へ立ち戻らせる傾向がある
- ただし、慢性的退屈は、気力を吸い取られるし、興奮や怒り、鬱へと悪化しうるものでもある
→アリュージョニスト更新がない時
退屈のすすめ 五木寛之
- 遊び心をもって、どうでもいいことをやる時間を過ごすすすめと、そのサンプル
- 必要なことだけをやって過ごす人生などというものは、むなしい
- ちょっとしたことで心が弾めば、また次の週も元気で働くことが出来るのではないか
- 休日のながい一日を、うつうつと〈ふさぎの虫〉と向き合ってすごすというのも、これはこれでなかなか味わい深い人生の一シーンではあるまいか
脱アイデンティティ 上野千鶴子・編
- アイデンティティに関しての論文を束ね、アイデンティティが「どのように捉えられてきたか」という学説史をまとめたもの
- 母語や既存のカテゴリと自覚するアイデンティティのズレや、アイデンティティの複数性などが、しっかりと語られており、編者のもの以外の論文はわりと読みやすい
- アイデンティティの理論そのものが開放的であったり抑圧的であるわけではないように、脱アイデンティティの理論も、それ自体はただのツールに過ぎない
- 一貫した自己も、自己の発達も、それが社会の役割と同一化するというのも、全て仮説に過ぎない
- 私が何者であるのかという感覚(アイデンティティ)と、他者との関係で自分がどのような者として立ち現れてくるのか(ポジショナリティ・位置性)の関係
→役やツールとしてのシナモリアキラ - 自分の加害者性を指摘することは、苦痛であると同時に快楽である
- なぜなら、自らのポジショナリティを明示的に示すことにより、自己は、示していない同一カテゴリーの他の人間から切り離され「他の無自覚な仲間とは違う、自覚的なよい人間」になれるからである
- 自分の立場を他の立場に置いて満足するのではなく、立場自体を、責任を引き受けることが必要
→シナモリアキラの責任 - ジュディス・バトラーの「エイジェンシー」概念:「主体が語る」ではなく「言語が主体を通じて語る」
- 「私」が表現をするより、むしろ、表現をすることで「私」が生起するのだ
- 私とは、「私」にとって最初の観客であり、主役でもある
- 言葉とは、「私」の親友であると同時に、最大の敵でもある
- 原体験としての言葉を、自分のものとして話せないという”断絶”
- 他者の存在なしに、人は”実存する過去”を手中に収める事はできない
<脱恋愛>論 草柳呼早
- 純愛:死なないと不変のものにならないため、究極の純愛はしばしば心中として描かれる
- 恋を衰えさせないようにするには、互いに変わり続けることが必要だが、そうなると独占出来ない
→シナモリ・アキラ? - モテ:個性消して、つぎつぎ変わる人の好みに合わせる必要がある。
- 特に、個性出したらダメ。自我が強くてもダメ
→他人の欲望に対して受動的なミヒトネッセ?
中空構造日本の深層 河合隼雄
- 日本神話の世界観は、中央が空白
- 上下左右、男性原理と女性原理といった対立するものを、無為の神々が対立させずに共存させている
- 日本の中空構造は、西欧が持っている「中心による統合のモデル」のように絶えざる「異物」の排除を必要とせず、対立構造や矛盾と共存できる可能性をもつ
- その反面、中央が空で力を持たないため、無責任の体系になったり、中枢に外敵が侵入してしまいやすいのも、また日本の構造の特徴である
→媒介としての【シナモリ・アキラ】
- 現在、その中空構造は危機的状況だが、手軽な解決策などはない。地道に現状を把握して改善すべし
- 母性は全てのものを全体として包み込む機能をもつのに対して、父性は物事を切断し分離してゆく機能をもっている
- 西洋の父性と、日本の父性は異なる。ヤンキー的全体主義は日本的なものであり、その導入よく考えてやったほうが良い
- 西洋の父性は近代科学を発展させた「論理と個人責任」であり、いわば「自己主張できる強い個人」
- それに対して過去の日本にいた「強い父」というのは社会制度に守られた家長というシステム的なものであり、なんでも受け容れる母性社会の補償としての制度に過ぎない
- 日本にはもともと西欧的な「父性」などは存在しなかった
- ありもしなかった「日本の父性の復権」を唱える人物は、実は日本とは異なる西欧のシステムで、日本の構造を破壊しようとしていると言える
→イアテム?
- 日本の「母性社会」は、相対的なものであり、アジアの他の国に比べると、父性と母性のバランスが取れているということも出来る
ツァラトゥストラはかく語りき フリードリヒ・ニーチェ
- 永劫回帰というループの元祖的概念
- 己のみを頼みにする「超人」は、サイバーカラテの理念とは真逆の存在だが、ループを超越するという意味では案外近い存在なのかもしれない
- まあ、おそらくルウテト様の方は「超人」とは絶対に相いれないだろうけど
ティマイオス プラトン
- 二つのものが第三のものなしに二つだけでうまく結び合わされることは不可能です。というのは、それら二つのものを結合させるためには、両者の間に一種絆のようなものがなければならないからです
哲学は資本主義を変えられるか 竹田青嗣
- 個人の承認と世界の繁栄を繋げる本
- 簡単にまとめると人類はみんな【邪視者】。【邪視】で闘争しないで、なんとか折り合って共存共栄しようよ!
- トリシューラやリールエルバ向け
- 哲学は、真理では無く共通了解「原理」を探し求める学。原理は、自然科学の法則のように、暫定的なゴールであり新しい説のスタート地点
- 資本主義と近代国家は、暴力による解決を避けるために産み出された「自由」を守るルールゲームであり、その代替システムは無い
- 近代国家の原理が「自由」にあることを周知させて、欠点を是正すべく話し合うことが大切
- 基本的な考え方は『人間的自由の条件』の方が分かりやすい。
- というか、著者独自解釈の「現象学」について知らないと分かりにくいかも
読書について ショーペンハウアー
- 読書して他人の意見の受け売りをやるより、自分の頭で考えた方が良いという(存在が矛盾ぎみな)本
- 習得しただけの真理は、義手や義足、義歯、蝋製の鼻のようなもの
- 本から拾い集めた他人の意見で構成された説は、異質な素材を集めて作られた自動人形のようなものだ(まず自説を立てて、自説の補強のために文献を学ぶ場合を除く)
ドストエフスキーの詩学 ミハイル・バフチン
- 曰く、「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー(注:多声楽)こそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである」
- 三章で歌われたエスニックポリフォニー。【連関合成】。みんなの力を繋ぐけれど融血呪とは違う。それってこれを参照してるのでは?
友だちは永遠じゃない 森真一
- 「無縁社会」説は、真実なのか?
- 社会学者である著者が、一時的協力理論(PCT)プロヴィジョナル、コーポレーション、から見た社会の話
- PCTは、(教育分野)の活動理論で提唱される「ノットワーキング」概念に近い考え方
- 「ノットワーキング」:人々が、「関係の糸」を結んでほどいたり、また結んだりする運動のこと
- 現代は「多縁社会」であり、社会はあらゆるモノとの(不完全な)一時的協力によって(不完全なかたちで)成り立っている
- 組織の「境界」を越えることで、逆に組織の存在意義を守り、問題を解決している具体例も紹介
- 一時的協力はほとんど上手くいかないが、リトライすること、無理だと決めつけないことが大切
- ただし、不完全さを肯定することと、不完全さに居直ることは違う
- 「共創」:サービスを即興劇に例えるものであり、提供者と受け手が積極的にかかわり合い、場と空間、時間をともに作り出す
- 客がサービスの利用に対して主体的にかかわることを「損」とする「お客様」社会化こそが、共創の価値を享受するチャンスを手放す真の損である
な行
なぜ、お札でモノが買えるのか 高橋洋児
- 人びとが、一緒に働くことでもたらされる価値である「協働価値」説を説いている本
- 貨幣への「国民信用」を、自分達国民が一緒に働いたことの信用=価値の認識だとする邪視は、学術的にどうかは知らないが、ちょっと面白いと思う
- 残念ながら、その立証まで手は回っていないが「労働価値説」を発展させて、経済に「人間の(働きの)価値」を含めようとする意図は、評価されるべきだと思う。
- 人びとのワイワイガヤガヤ(認識)に高値がつくという着眼点は、かなりゼオーティア的
ナショナリズム論の名著50 大澤真幸・編
- ナショナリズム論についての書かれた東西の古典を紹介している本
- 入手困難なアイラ・ケミライネンの『ナショナリズム』の概要から、言語と国民のつながりを主張したことで有名なフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』まで、様々な本を紹介している
- シャーマンの役割も分析している吉本隆明『共同幻想論』アンダーソン『想像の共同体』サイード『オリエンタリズム』スピヴァク『ポストコロニアル理性批判』など、アリュージョニストと関係ありそうな本がたくさん載っている
なぜ日本人はとりあえず謝るのか 「ゆるし」と「はずし」の世間論 佐藤直樹
- 日本における刑法と文化の関係、すなわち「罪」と「罰」のあり方についての考察
- 日本を支配しているのは「世間」であり、この「世間」が「ゆるし」と「はずし」を使い分けて人を裁いてきたのだ
ニーチェ・キルケゴール間の実存主義の思想史変遷
- ツァラトゥストラはかく語りき(ニーチェ)・死に至る病(キルケゴール)、この著作というよりも両者間の実存主義の思想史変遷が、トリシューラのプレ・ヒューマンっぷり(2章)に近い
日本文化の模倣と創造 山田奨治
- 日本文化の特殊性に留まらず、模倣とオリジナリティの本質を論じている本
- 著者は、国民国家による利益の独占と共にあったこれまでの独創(クリエーション)性を否定し、共同体による模倣と不可の創造である「共創」(レクリエーション)を奨励している
- 言語体系と類似性を判断する直観の関係、著作権の成り立ちとその利害関係、ハッカーのオープンソースにも影響を与えた日本文化など、そのカバー範囲は広い
- 真似をすることは、人と人あるいは文化と文化のあいだの情報伝達、さらには創造性とは何かという問いに直結する課題をも含んでいる
- 似ていつつ、異なりつつ、似ているという連鎖が重要
- 「バザール」に例えられるオープンソースも、創作のための共通の基盤「伽藍」が必要
呪われた部分 ジョルジュ・バタイユ
- 経済の本質は、太陽から与えられる無尽蔵のエネルギーの余りを使い切ること、「蕩尽」にあるとした経済の思想書
→『下』のエネルギー源である地上太陽? - 全てのエネルギーはまず個体の成長に用いられ、それに使いきれない分は、好むと好まぬとに関わらず破滅的な方法で損耗されねばならない
- 三部作だが、これだけでも形になっている
- 深く理解するには、『目玉の話』(『眼球譚』)などのバタイユの他の作品や、バタイユの個人史に触れた解釈本か必要かも
は行
パース
- 記号学の確立者
- 「思惟と論理は不可分の関係にある。なぜなら人間の思惟は類似を通して前に進んでいるからだ。」
- 遡及的推論(アブダクション)を帰納・演繹に先立つ推論として重視→「遡って、フィリス」
ハイラスとフィロナスの三つの対話 バークリー
- 「存在することは知覚されることである」
- 邪視者。言語魔術ぶち殺すマン。
- 心の哲学まとめwiki>バークリー
働くことがイヤな人のための本 中島義道
- 哲学系ドロップアウト組のための本
- どちらかと言うと【E・E】嫌いの人向け
- きみが自分の固有の思索を展開したいのなら、他者を避けてはならない。
- きみの思索と異質な、天と地のように異なる他者に次々にめぐり合い、彼らからめためたに切りつけられなければならない
→世界槍を巡る対立、四魔女に必要な、ゼノグラシア/グロソラリアの使い魔の存在意義。 - 金との引きかえという容赦のない構造の中で、きみが自分に真摯に問いかけるとき、きみの抱いている理想が本物かどうかわかる
→トリシューラに対するアキラくん。あるいは、トリシューラの自己実現。
反逆の神話 ジョセフ・ヒース アンドルー・ポター
- ヒッピーやロハスなど、消費スタイルや奇行によって人々の意識を変革し、体制に反逆しようとする文化=カウンターカウチャーを批判している本
- 先進国であるドイツで生まれたファシズムへの恐怖やフロイトやマルクスの影響などのカウンターカルチャーが誕生した経緯と、その個別事例の記述が豊富
- かなり資本主義的だったアメリカ先住民族の話など、一般的なイメージを覆す記述も多い
→イアテムなど - 旧弊な慣習への異議申し立てと、単に破壊や快楽追求するだけの逸脱は、区別しなければならない
- 人間の意識と文化の完全な変容には至らないどんな提案も拒むことで、カウンターカルチャーの活動家は、いたずらに問題を悪化させてしまった
- 消費主義は、競争的消費の産物であり、それはゼロサムゲーム、誰かを蹴落とさなければクールになれない軍拡競争である
- その根本問題は、人生のあらゆる面における競争性の端的な表現であり、そこに根本的な解決策など存在しない
- だが、累進税を高めた所得税は、消費者たちの局地財を求める競争で、軍縮協定の役割を果たすかもしれない
- (外部性を内部化する税制は)さらなる自由の削減を伴うが、他人も同じことをする保証とひきかえに、個人が進んで自分の自由を手放すかぎりでは、まったく問題ない
- 結局のところ、文明とは、ルールを受け入れ他者のニーズと利益を尊重し私利の追求を抑えるという、僕らの意志のもとに築かれるものだ
反共感論 ポール・ブルーム
- 共感=他者が経験していると自分が考えるあり方で、自らが世界を経験するようになること。アダム・スミスの同感(sympathy)
- どちらかというと「共感絶対肯定派への反論」とか「理性にもとづく思いやりを再評価しよう論」といった方が正確な本
- 共感は、スポットライトを当てた個人をえこひいきしたり、戦争などの暴力を支持することにつながる
- 倫理学者テイジ・ライと人類学者アランフィスク:道徳的正当化が、暴力や残虐性の主要な原因である
人はなぜ物語を求めるのか 千野帽子
- 人間は「物語を求める」のではなく、生きていくために「物語を作って」しまう
- 「物語(ストーリー)」自体は、ただの人間の認知に組み込まれたフォーマット(認知形式)であり、善でも悪でもない
- 「物語」は、人を救いも苦しめもするが「人間とは物語る動物である」ということを自覚すれば、その害を減らすことが出来るという【呪文】の書
- 巻末の参考文献が豊富
暇と退屈の倫理学 増補新版 國分功一郎
- 『アリュージョニスト』自体とは、全く関係が無い本。
- しかし、次の更新が来るまでの間には、すごく関係がある本
- 歴史的に言って、暇=退屈ではない。
- 決断のための孤立を否定。キルケゴール「決断の瞬間とは一つの狂気である」
→アキラくん向け - ウィリアム・モリス「自由と暇を得たら、その生活を飾ろう。生きることはバラで飾られなければならない。」
→【キュトスの姉妹】と【再生者】。不死という暇を得た人向け
部落差別を克服する思想 川元祥一
- 「ケガレ」の概念を変えることにより、部落差別のみならず環境問題や日本文化の内部変革まで解決できるとする、独自の視座を持つ本
- 仏教思想の影響を受ける前の「ケガレ」は「気枯れ」つまりエネルギーの不足であり、それは個々人によって解消出来るものだった
- そして[気枯れ」を「ハレ」の浄めを通して解消し「ケ」(日常)に戻す再生機能、いわば自然と人をつなぐリサイクルの役割を担っていた者達こそが、後の被差別部落の人びとであったのだ
- 「ケガレが伝染する」という考え方をやめて本来の「気枯れ観」に戻し、部落の役割を見直して失われた日本文化を取り戻そう!
→シナモリアキラ(鵺)?第五章の課題? - 人間の文化とか文明というのは本来ケガレ=カオスに触れ挑戦することで築かれ開発されてきた
- ケガレ=カオスの本質には、"難しさ"と"面白さ"の両面がある
- "難しさ"とはこれまで暗かったとされていたが、実は単に解明が難しかった部分のことであり
- "面白さ"とは、その"難しい"ものに挑戦し、試行錯誤することである
→アキラくんとトリシューラの混沌?
プロカウンセラーの共感の技術 杉原保史
- 技術というより、筆者のカウンセリング方針や共感という概念についての解釈を書いている本
- 共感とは、矛盾する面を持った複雑な概念
- 共感は、あなたとわたしの間に響き合う心の現象=「人と人が関わり合い、互いに影響し合うプロセス」
- 問題なのは「共感のしすぎ」ではなく「共感の焦点がロックされている」こと
- 共感は、積極的に参加し、関わること
- 「共感できない」とありのままに感じることこそが、共感の始まり
- まずあなた自身が、自分自身にポジティブな感情の体験を赦していることが大事
- 共感は話し手と聞き手の共同作業であるため「平均的な共感能力」というものは存在しない
- 共感は、自然に感じ取ることだが、その「自然」とは努力して身につける技術でもある
暴力と富と資本主義 萱野稔人
- 暴力は「善いか、悪いか」という議論をいったんカッコに入れなければ、暴力を思考することは出来ない
- 「国家とはそもそも何なのか」という理論的考察無しに「国家は悪だから、なくなる可能性を少しでも探そう」という願望に基づいた主張をするのも間違っている
- 暴力を管理する方法として、人類はいまだ国家以上のものを編みだしていないし、理論的に言っても編みだすことは出来ないだろう
→シナモリアキラ【天狗】、そして彼らソーシャルジャスティスウォーリアーの願望 - 暴力の制御と活用は、コインの表裏のように決して切りはなせないもの
- 暴力とは、身体によって行使される一つの物理的な力であり、他の全ての力と行為を抑止することが出来る最終手段
- 国家は、その領土において唯一の「合法性の源泉」であり、自分に基づかない法を決して認めない
- また国家は、他の行為主体が暴力を使って、決定を貫徹しようとしたり紛争を解決しようとすることを、基本的に認めない
- アメリカ市民の銃の所持も民間軍事会社も、国家の承認によって初めて許されている暴力に過ぎない
- その結成目的ではなく、「合法なもの」と「不法なもの」を区別し「不法なもの」を取り締まる「手段」こそが、国家にしかない特徴なのだ
ほんとうの構造主義 言語・権力・主体 出口顯
- あまり分かりやすくはないが、わりと独特のエピソードが紹介されている本
- 構造主義は、強固な体系の構築を目指したり、他者との相互作用によって主体が形成されるという思想ではない
- 自己はすでに他者を巻き込んでいる存在
- 他者や他者との関係のネットワークが展開する場は、個人から切り離された独立の外部に存在するのではなく、個人の内部に巻き込まれている
- 言語の拘束や言語を媒介にした関係性に拘束されることこそが、主体の出発点である
→アズーリア?
- レヴィストロース「人を喰う(アントロポファジー)社会」逸脱者から集団との絆を奪ってしまわない社会:脅威となる存在や異質な他者を排除してしまうのではなく、自らのうちに取り込み、それらとの対において自らをとらえ返し、組み替えようとする
- 単一性を分解する「双子の思想」自己を「一」ではなく「二」とする
→相補の魔女セレクティフィレクティ?相互参照の幻想姉妹? - シベリアのユカギール族、生まれ変わりだが同時にその人自身でもある
- アイビー(影または魂)は、体中に分散して、お気に入りの身体部位にやどり、それぞれが別の人格となる
→シナモリアキラと左手のディスペータ?
- アイビー(影または魂)は、体中に分散して、お気に入りの身体部位にやどり、それぞれが別の人格となる
- 構造の中身は変化しても、構造同士の関係は変化しない
- 神話と量子論は、人間が日常とは異なる現実をどうとらえ、それにどうかかわっていくことが出来るのかを示す形式の二様態というべき
- それらは、有用性や課題解決を求める硬直した価値観(権力と言っていい)に揺さぶりをかけるのである
ま行
マーシャル・マクルーハンの著作
- "【異界の黙示録グーテンベルクギャラクシー】"
- テクノロジー=メディアが人間の身体性の拡張という発想はメディア論によるもの
- マクルーハンによれば言葉もまたメディア(霊媒)であるから【杖】だけでなく【呪文】にも応用可能
街場の教育論 内田樹
- 教育のような惰性が強いシステムは、「一旦止めてオーバーホール」が出来ないため、現在の基本的なところが順調に機能してないと、改革することも出来ない
- 学ぶものにブレークスルーをもたらすのが、メンターの役割
- 学びというのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられ、その人がしている「ゲーム」に巻きこまれるというかたちで進行する
- その「巻き込まれ」が成就するためには、自分の手持ちの「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることは出来ない
- 永遠に自分のままでいたい人、自分の「ものさし」で価値が計量できるものだけを希求する者は、学びに向いてない
- 儒教の「六芸」を見直すべき
- 「音楽」:音楽とは「もう消えてしまった音」がまだ聞こえて「まだ聞こえない音」がもう聞こえているという、過去と未来との時間の広がりの中に身を置かないと経験できないもの
- 今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは、演奏することも聞き取ることも出来ない
→三章幻影カタルマリーナの攻撃? - 「礼」:祖霊を祀る儀礼:生きているもののふるまい次第で死者のふるまいが変わる。つまり、死者とのコミュニケーションが成立しているということ。存在しないものともコミュニケーションすること
- 「御」「射」:敵を対象としない武術
- ①自分の身体の精密コントロールと意識化の向上
- ②他者とのコミュニケーション
- 非ー自己と一体化することによって、パフォーマンスを爆発的に向上させる
→【サイバーカラテ】?
- 義務教育とは、要するにコミュニケーション、それも存在しないものとのコミュニケーションの訓練であるべき
- 学びの基本:わからないことがあれば、分かっていそうな人に聞く
- 自分が何を知らないのか、何が出来ないのかを適切に言語化し、その答えを知っていそうな人やその答えにたどり着ける道筋を知っていそうな人を探り当てる
- そして、その人が「答えを教えても良い気にさせる」こと=教えてくれるように丁寧に頼むこと
- 競争を通じて学力の向上を果たそうという競争戦略は、結果的に全員が全員の足を引っ張り合うという『蜘蛛の糸』的状況に行き着き、学力の向上につながらない
- 学力を上げるためには、自分たちのいる場所とは違う場所、「外」とのかかわりが必須です
→『天獄』?(『地上』) - 教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない
- なぜなら、教育は葛藤を通じて果たされるから
- 子どもたちが時間を賭けて学ぶべきは、すっきりした社会のすっきりした成り立ちではなく、ねいくれたしゃかいのねじくれた成り立ち
- 成熟というのは「表面的には違うものに聞こえるメッセージが、実は同一であることが検出されるレベルを探り当てること」
- すべての重要な教えは「そのオリジナルはもう消失したが、それを聞き取った記憶は残っているので、それを祖述する」というかたちをとる
- 私は「先賢の語った言葉」を繰り返しているに過ぎないと言うと信頼されるし、人間のパフォーマンスは、課題が「一度出来たこと」であるか「一度も出来なかったこと」であるかによって大きく変わる
- 「私の外部」にある叡智の境位を信じること
→アリュージョニスト?
- (中枢的なコントロールや査定や予測を必要とする)トップダウン・システムは「平時・好天のシステム」に過ぎず、危機的な状況「カタストロフ」には対応できない
- 危機的というのは、中枢敵・一元的にコントロールし、最適解を選択することが出来ない状況のこと
- カタストロフやもつれた問題などの「火事場」は、火事場の馬鹿力、給料以上の力をオーバーアチーブするしかないし、それはトップダウンでは不可能
→【サイバーカラテ】とトリシューラの脆弱性?課題?
- 学校の仕事、教師の仕事とは、「色と欲の俗世間」とは異なる「外部への欲望」を起動させること
- それは「世俗の価値観」とは違う文法で叙され、違う度量衡で計量される
→ゼノグラシア、グロソラリア?
- それは「世俗の価値観」とは違う文法で叙され、違う度量衡で計量される
- 現代の若者が求める「やりがいのある仕事」というのは、マニュアルの決まった作業ユニットに分けた「モジュール化」した仕事のこと
- 「外部は存在しない世界はあますところなく〈市場〉に埋め尽くされている」という認識、学校と世間を隔てる壁が崩れたため
- 「外部の境位」ではなく「商品」を欲望するように教えられている
→アキラくんの世界観? - 殆どの仕事は、集団作業であり「クリエイティヴでパーソナルな仕事」とは違い、責任も成果や利益も分かち合うもの
- 「準いじめ構造」集団に適応できなくても過剰適応しても、どちらでもいじめの対象になってしまう
- 教育現場における「集団の形成」と(グローバル資本主義由来の)「個性の発現」=集団を作るな、他人にウカツに共感するな、個別化せよ、自分のタグをつけよ、自分の受け取るべき報酬を他人と分かち合うな、の「ダブルバインド」
- 集団の形成は自我の拡大をもたらし、それは子どもたちにある種の全能感を与える
- 共ー身体の形成によって、自分が「大きなネットワークの中の一つの結節点」であるという感覚を子供は学ぶ
- 誤解されやすい比喩だが「組織の歯車」になることによって初めて「組織を動かす」歯車装置の成り立ちが分かる
- 「個性的であれ」と教えるのはその後で良い
→プリエステラたちティリビナの民の【大樹巨人(エント)】?トライデント?
- 仕事のモジュール化は、他人の分担作業がブラックボックス化してその意義がわからなくなったり「誰の担当でもない」ニッチ(隙間)におけるミスや余計な仕事を片付ける人がいなくなったりする
- その仕事と仕事の間のニッチは、同時にイノベーションをもたらすビジネスチャンスのニッチでもあったりする
- 「自己決定・自己責任」すること「個性的であること」への病的なこだわり「協働」という生き方に対する強い忌避とそれがもたらす「協働的に生きる能力の不足」が、若者たちを劣悪な労働条件に追い込んでいる
- そうしたモジュール化は、企業たち日本社会が、商品を売るためグローバリゼーションと孤立化を押し進めてきたために生まれた副産物であり、それを学生のせいにするのは無責任
- 仲間を作る能力の開発、ルームシェアなどを行う能力が、貧乏な若者には必須
- 私が考える霊的であるとは、全身全霊を上げて「外」と交通したいという志向に満たされていること
- だから、したり顔で「死者がして欲しいこと」を代弁しようとする靖国問題の論者は、傲慢でありちっとも霊的ではない
- 全知全能を上げて、自分の理解も共感も絶する境位へ向けて越境しようとする志向だけが、人を霊的たらしめる、そう信じている
→死者の代弁?
無為の共同体 ジャン・リュック・ナンシー
- 難しすぎてよく分からなかったが、神話について分析し、思考を展開している箇所があることだけは分かった
- 近代の「新しい神話系」そしてナチ神話にも少し触れている
- 神話とはその誕生以来、自らを構造化するロゴスの名であり、あるいは同じことになるが、ロゴスのうちで自らを構造化するコスモスの名なのである
- 神話とは、まさしく、世界を立ち上がらせ言語を到来させ、言語の到来のうちに世界を立ち上がらせる呪文である
- 神話とは常に神話を発明し分有することができる合一…………幾人もの人びとの唯一の声…………の神話だということである
- 作家の神話の途絶は、作家の消滅ではない
- 作家とは、ある一つの特異な声
- 特異な、徹頭徹尾還元不可能な形で特異な(死すべき)一つの声、作家とは共同でこの声なのである
もしも老子に出会ったら 山田史生
- 少女と老人の対話形式で描かれる『老子』の自己流解釈書
- カラッポなもの、無が有を支えている
- 「草を見ている」とき「草を見ている私」は存在しない
- 存在するのは「草を見ている私」というパースペクティヴ、視座のみである
→【邪視】? - 「一切の情報が無い」という意味の無は、まだ「相対的な無」
- 「ある・ない」の一切がそこから生まれる「絶対の無」、生まれるべき一切はそこにある
- その絶対的な全体性は、時間・空間の埒外のものであり、あらゆる意味で論ずるまでも無い
- あえて論じようとすると、全体を対象化するという「包む者が包まれる」といった矛盾に見舞われかねない
→有り得べからざる黄緑(ライム) ?
モチベーションで仕事はできない 坂口孝則
- 最後に書かれている「ヨブ記」のパロディみたいな「神話」こそ出来は悪いが、サイバーカラテに思想が近い本
- (一時しのぎのカンフル剤や現状肯定系の)自己啓発書を否定しているが、テクニック寄りとはいえこれも自己啓発書である
- 思想だけでなく、仕事をこなすための、細かいテクニックも具体的に書かれている
- モチベーションを上げようとするより、仕事のやり方を改善することに集中しよう
- 性格は今更変えられない。心が折れたりても構わない。悩んでいる自分を、そのまま肯定しよう
- 嫉妬はべつにいいが、イソップの『すっぱいブドウ』のキツネのように自分をむりやり勝者にしても、努力の余地がなくなるだけ
- 幸せは将来的なものではなく、そのひとが「楽しい」と感じるかけらを集めた集合体でしかない
- やる気を問われるようになったのは、構造的な不況で上手くいかない時代だから。やる気追求は、上手くいかない現状を納得するための「合理化」に過ぎない
- 成功の肝要は、成功した後に「これこそが本当にやりたいことだった」と勘違いすることであり、人間とはそうした勘違いをするものである
- 不満の9割は、金で解決する
物語論批判 竹田青嗣 岸田秀
- 竹田青嗣と岸田秀、世界を幻想と捉える二人の対話
- 「全ては幻だ」とすると、どうしても「どこかに『現実』がある」のではないかという反動を産み出してしまう
→幻想の世界【ゼオーティア】は? - 現実と幻想は「二項対立」ではない
- 人間の思考は「二項対立」のパターン。そこからスタートするしかない
→地上(天獄)と地底(地獄) - 竹田:〈欲望〉は〈意識〉の〈外部〉であり、生の『自由』の基底
→確かなもの=【杖】? - 続編にあたる『現代日本人の恋愛と欲望をめぐって』の方が、話の内容が具体的で濃い
や行
ユーザーがつくる知のかたち 西垣通・監修
- 分かりやすい新時代の「知」の入門書
- 集合知には、二つの意味がある
- 1つ目が、集団的知性(ダグラス・エンゲルバード提唱)多数のユーザーの知性を接続することによって現れる新しい知であり、アップル系
- 2つ目は、群衆の叡智(ジェームズ・スロウィッキー提唱)一握りの専門家が下す判断よりも、普通の人の普通の集団の判断を集合する方が、実は賢いというもの
- これは多数の人の参加により、専門家の知が不要になり、人類全体の知が発展していくという考えであり、ユーザー参加型芸術とも関係ある
- 機械と生物が遭遇するところでは、生物は機械によって一方的に機械に合うように変化させられてしまう
- 生物は散逸系であり機械は決定論的なため、機械と生物は共感し得ない
- 参考文献豊富だが、内容のわりに分厚いので図書館利用推奨
ら行
〈リア充〉幻想 仲正昌樹
- 2008年6月に起きた「秋葉原通り魔事件」に関してのエッセイ
- 「自分は今限界状況にある」と思い始めると、自分の置かれた状況を客観視出来なくなる
- 「本当の●●」を純粋に追い求め過ぎてはいけない
- 「まわりだけは楽しいんだ、そこから自分は疎外されている」という発想を相対化し「本当に」楽しい人なんていないんだと思った方が良い
- 無理に連帯する必要も無いし、友達とか彼女といったものに、過剰な憧れを抱く必要も無い
- たとえ「酸っぱいブドウ」のような開き直りの心理でも、他人の目を気にせず生きられるとしたら、それでいいではないか
リーディングス日本の教育と社会18 若者のアイデンティティ 監修・広田照幸 編著・浅野智彦
- 1990年代における、様々なアイデンティティの論をまとめた本
- 中島梓・宮台真司・大澤真幸のオタク論や、阿部真大の職場に適応した夢を見るようになる若者研究など、それなりに幅広くまとめられている
- 本を通しての結論は無いが、アイデンティティの「論じられ方」を振り返るには適している
- 土井隆義『〈非行少年〉の消滅ー個性神話と少年犯罪』の「個性的な自分という強迫観念」や
- 宮台真司『制服少女たちの選択』の、オタク差別は、流行を主導するイケてる「リーダー」とイケてない「フォロワー」を区分するための人格類型差別だった、という話などは現代でも読むに堪えるかもしれない
利己的な遺伝子 リチャード・ドーキンス
- 本来とは意味が少し離れてしまったがミームの発祥元ということで
レイシズム 小森陽一
- 思考のフロンティアと題されたシリーズの一冊であり、人種差別に関する思想や参考資料を比較的簡潔にまとめている本
- まえがきで「六本人」というキャッチコピーについて熱く語っていたりするあたり、重点はどちらかというと人種差別を利用した階級対立の隠蔽や排除の構造にあるようだ
- 前半は、ルネ・ジラール経由の赤坂憲雄「スケープ・ゴート理論」と、見下しと他者化を「共有」するように求める言語コミュニケーションとしての解釈である佐藤裕の「差別行為の三者関係モデル」の2つの説の紹介
- 後半では、永井荷風の『悪寒』を用いて、アイロニーによる差別の乗り越えを提唱している
- しかし、この本自体が「差別者」を嫌悪させることで、著者の主張を同類を増やすテクストであることへの自覚がなさそうなあたり、著者本人がこの主張をあまり消化できているようには思えないのが難点
- 用いられている「動物の脳」と「人間の脳」のアナロジーにも、「差別者」に対する差別意識を強化する要素がある
- また、紹介されている参考文献は豊富だが、その中には、難解なことで有名な哲学書などもあるので注意のこと
- アイロニーは、既存の言語システムの中における、価値評価を伴った二項対立の自明性に疑いを突き刺していく
- 人種差別主義を克服する営為は(それぞれの言語システムの中で「自明」のこととして使用されている)肯定と否定の価値評価を伴った/言葉相互の結合関係の網の目全体に対して/「なぜ!?」という問いを発し続け、その耐久性を検証することなのだ
- そして、その耐久性の限界が明らかになったとき、言葉相互の結合関係の網の目全体を転覆する勇気と技量を持つことをためらわないこと
ロラン・バルトの著作
- アリュージョニスト世界の情報や記号の動きは記号論的にわかりやすい。
わ行
わたしが正義について語るなら やなせたかし
- 正義についての考えが語られた自伝
- 創作者としての生き様と色々あった彼の人生が、コンパクトな新書にまとめられている
- ほんとうの正義というものは、決して格好の良いものではないし、そしてそのために必ず自分も深く傷つくもの
- それでも、正義のために戦わないと、世の中はどんどん悪くなってしまう
- 飢えた子どもにご飯をあげるのが本当の正義
- 「必要悪」もある
- 自伝としては『アンパンマンの遺書』の方が詳しくてオススメ
私とは何か「個人」から「分人」へ 平野敬一郎
- 人間は、複数の人格である「分人」から構成された、中心が無いネットワークである
- 分人は、コミュニケーション相手(本なども含む)との相互作用の中で半自動的に生じ、相手との関係性とともに変化するもの
- 「個人」は、西洋の唯一神と向き合うために作られたものに過ぎず、生きるのに不便な概念
- 柔軟で可変的な「分人」概念でいきいきと生きて、「本当の自分」をたくさん持とう
- 筆者の小説:『決壊』『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』などは「分人」概念を使って書かれているらしい
→各【サイバーカラテ】ユーザー向けにカスタマイズされた「ちびシューラ」は「分人」に極めて近い存在だと思う
コメント
コメントで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 作中で参照があると思われる参照作品と類似作の推薦図書は分けたほうが良いと思う。
- 項目が増えて見づらくなってきたので漫画、ゲーム、小説(古典、SF、ラノベなど)、その他ぐらいにはわけれればいいですね
- とりあえず雑に分割してみました。SF/ライトノベルの定義は面倒なので集合知に任せます
- SFとラノベの定義は集合知でも難しいと思う。いっそこれも四大系統で分けてしまうとか
- 作品の傾向を四大系統で分けるの楽しそうですね
- とりあえず小説をまとめて思想のカテゴリを立てたよ でも神曲とか明らかに思想じゃないけどノリで入れてしまったので、後は誰か頼んだ
- 小説を五十音順に整頓。コルセスカもレーティングは守れって言ってたのでゲームを十八禁/非十八禁に分けたよ
- 残りも五十音順に整理しました
- 小説作者の名前で五十音順にしてたのに気付いてもらえなかった…
- あと押井守の人狼シリーズは発表順に3つまとめておいたのだ…
- それとビデオゲームと卓ゲーは明確に別物だし分けたままにしておいてほしい、さすがにまとめてしまうのは意味がわからない
- 注文多くてごめんよ
- ゲーム内サブカテゴリとして卓ゲとビデオゲームに分けたよ。
- 人狼シリーズもシリーズでまとめた後に時系列順へ戻した。あとさすがに長過ぎるのでカテゴリ別にページ分けたほうがいいと思う
- 小説の順番についてはすいません。こちらが悟れなかったせいです。
- 小説に電子化してるかどうかを書いた
- 魔界塔士サガはサガシリーズとして統一せいや
- 流石に追記時につらみを感じたので分割
- かさばってきたので、とりあえずその他を分割しました。他も分割した方が良いでしょうか?
- ゲームの記述量が長めなので分割してもいいかも?
- ゲームの項目を分割しました。他にも、長いと思ったら、思った人が適当に分割すれば良いと思います!
- 失敗したら?「失敗は次に活かす。改善をもって償いとさせて欲しい」byシナモリ・アキラ(4-32)より
- ゆらぎの神話を項目にしてみました。
- ページ分割の件ですけど細分するより「推薦図書」と「推薦図書/邪視」で分けるのはどうだろう?具体的には本編に参照が明示されているか否かで。
- 面白い案だと思いますが、実際にやると多分「邪視」のページだけが超肥大化すると思います。あと、邪視者にとって邪視の内容は現実そのものなので、そもそも分割自体が不可能だという根本的な問題が・・・
- それはそれとして、参照が明示されているものを抜き出すこと自体はアリでしょう。しかし、はっきりと本文中で明示されてたものといえばハイデガーとボルヘスぐらいだったような・・・?とりあえず、アを読み直して来ます
- レジンキャストミルクくらいかな…
- リストアップして砂場に置いといたよー。このページを改題して後釜に据えたら~という考えでまとめたけど、やっぱ現状くらい取り留めない方がアリュージョニストなのでは・・・って気も
- 本編で明確に引用されているものは、該当話へのリンクと引用つけてみるとか
- アニメの項目を分割しました。気を付けましたが、何かしら不備はあるかもしれません。不備に気付かれた方は、最適化にご協力いただければ幸いです。