みんなの新武将/五胡十六国/五胡十六国(西方・南方)

Last-modified: 2023-08-28 (月) 03:09:17

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

五胡十六国(西方・南方)(304~439)

  • 前秦 351~494(氐)
  • 後秦 384~417(羌)
  • 成漢 301~347(氐)
  • 前涼 317~376(漢)
  • 西涼 400~421(漢)
  • 北涼 397~439(匈奴)
  • 後涼 400~421(氐)
  • 南涼 397~414(鮮卑)
  • 西秦 385~431(鮮卑)

※以下の7国は「五胡十六国時代」を参照

  • 前趙 304~329(匈奴)
  • 後趙 319~351(羯)
  • 前燕 337~370(鮮卑)
  • 後燕 384~409(鮮卑)
  • 南燕 398~410(鮮卑)
  • 北燕 407~436(漢)
  • 夏  407~431(匈奴)


前秦

苻洪(広世)

生年登場没年死因
284?350不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8184644371

【フコウ(コウセイ)】
略陽郡臨渭県の人。蒲懐帰の子で氐族の酋長。元の姓は蒲。
施しを好み、権謀術数に優れていた。また、勇猛で武芸に優れ、特に騎射の腕に秀でていた。
永嘉の乱で漢(前趙)につく決断をし、前趙が滅びると、石虎に後趙への帰順を申し出た。
333年、後趙から自立して前涼に帰順したが、麻秋の討伐を受け再び後趙に降伏した。
その後は石勒の元で戦功を挙げ、使持節・都督六夷諸軍事・冠軍大将軍に任じられた。
石虎の養孫である石閔(冉閔)は、脅威なので蒲洪を殺すよう進言したが、石虎は
「東呉(東晋)と巴蜀(成漢)を攻め取るのに必要なのに、何故殺す必要があるのか」と蒲洪をますます厚遇した。
しかし、石虎が朱軌を殺そうとしたことを諫めたり、仏僧の仏図澄も石虎に蒲洪を殺すよう勧めたことから、
石虎も次第にその気になり、蒲洪は病と称して出仕しなくなった。
石虎の死後、石閔の差し金で都督を解任され、憤慨した蒲洪は東晋に帰順した。
後趙の内紛で秦州・雍州からの流民は西へ帰還しようと謀り、蒲洪を盟主に押し立てた。
350年、自立を企図して苻洪と改名し、大都督・大将軍・大単于・三秦王を自称した。
しかし、先に降っていた麻秋によって毒殺された。

苻健(建業)

生年登場没年死因
317355自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8173628075

【フケン(ケンギョウ)】
五胡十六国時代の前秦の初代皇帝。元の姓は蒲。蒲洪(苻洪)の子で氐族の出身。
蒲洪は後趙に仕えていたが、石虎はその勢力を警戒し、苻健の兄達を殺した。
蒲洪が東晋に寝返ると、苻健も鄴を脱出して父に従った。
父は麻秋に毒を盛られ、苻健はただちに麻秋を討ったが父はそのまま死んでしまった。
跡を継いだ苻健は、東晋と後趙の双方と繋がりがあったが、長安に割拠していた杜洪を倒すと、
長安を都として自立し、大秦(前秦)天王、ついで皇帝に即位した。
東晋と許昌・洛陽をめぐって争い、桓温の北伐で一時は長安に迫られたが、
辛うじて退け、関中一帯の支配を確立した。
後趙の苛政で荒れた国土を復興するため、法三章を約し、減税して節約を心がけ、住民の活気を蘇らせたという。

苻雄(元才)

生年登場没年死因
354自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9084744566剛将督励羌氐胆力強奪

【フユウ(ゲンサイ)】
苻洪の末子。苻健の弟。
始め後趙に仕え、建武年間に龍驤将軍となる。苻健の元では輔国将軍となり、
長安攻略では杜洪軍の張先を破るなど大きな功績を挙げた。
苻健が前秦を建国すると、丞相となり、さらに東海王に封じられた。
東晋や前涼との戦いでしばしば功績を挙げ、一方で略奪を行った。
東晋の桓温の北伐では、緒戦で敗北し、長安城南に退却して守りを固めた。
また、桓温が兵糧のあてにしていた麦畑の青田刈りを行い、東晋軍が飢えたところで
桓温を撃破し、さらに陳倉で司馬勲・王擢を破った。そして、桓温に通じて雍で挙兵した
喬秉の討伐に出陣したが、陣中で没した。苻健は喀血して「天は我に四海を平定させるつもりはないのか?
どうしてこんなに速く、我から元才を奪うのだ!」と慟哭したという。

苻生(長生)

生年登場没年死因
335?350357不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
88952011闘将粗暴悪名酒乱強欲侵略荒廃10我道

【フセイ(チョウセイ)】
前秦の2代目皇帝で、初代皇帝・苻健の第3子。
生来「眇(すがめ、片目が極端に小さい、あるいは盲目を意味する)」の人相だった為に、
祖父の苻洪に虐待されて憎悪の中で生育。
成長すると他者に恥・屈辱を与える事を好み、己が僅かでも与えられたと感ずると殺人スイッチが入る、劣等感の塊な狂人と成った。
また素手で猛獣と格闘し、奔馬には走って追い付き、騎射剣戟の腕は当代で並ぶ者が居なかったと謂う。

355年に践祚すると直ぐ改元したが、諫めた臣下と同調した群臣を鏖殺し、更には以前から不満だった皇后・妃・女官など500人以上を鏖殺、
また容貌への劣等感から「残」「偏」の字を使うと惨殺、面皮を剥いだ死刑囚などを踊らせた。
酒乱でもあった彼は悪逆非道な言動を繰り返し、最期は彼を恨む大臣一家に惨殺された

暴君としての逸話が多く残るが、桓温を破る等、戦に秀でていた。重臣の粛清は父の遺言が原因と言われている。
また、戦死した敵の姚襄を悼む等、度量の深い逸話も残る。

苻堅(永固)

生年登場没年死因
338351385不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8772859299任才英名文化仁政慈悲大器大徳斉射激励挑発罵声先従隗始2王道

※別案1 王猛死後も淝水までは敗北していない+華北統一の実績を考慮し能力UP

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9272909499任才英名文化仁政慈悲大器大徳斉射激励挑発罵声先従隗始2王道

【フケン(エイコ)】
前秦の第3代君主。
ニ代皇帝の苻生が暴政と乱行に走ったため、異母兄の苻法と共に苻生を弑して即位、大秦天王を称した。
漢族出身の王猛の補佐を受け、前秦を興隆させる。
全民族が平等に暮らせる統一国家を理想とし、民族融和の壮図を目指した。
内政では儒学による教育の普及・戸籍制度の確立・農業の奨励・街道整備などに力を注ぎ、
軍事では王猛に軍権を与え前燕・前涼を滅ぼし勢力を拡大した。
だが、南征を批判した王猛の急死後、弟の苻融と共に五十万の兵で南下するが、淝水の戦いで大敗を喫し、
さらに造反した慕容沖にも敗れ、姚萇に捕縛され禅譲を迫られるが、拒否して縊殺された。

王猛(景略)

生年登場没年死因
325375自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9870979987伏龍督将能吏王佐柱石神機妙算足止混乱罵声井闌経世済民3王道

※別案1

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9878979987伏龍神機能吏王佐柱石神機妙算足止混乱罵声井闌経世済民3王道

※別案2

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9886989978伏龍神機能吏王佐柱石神機妙算足止混乱罵声井闌経世済民3王道

【オウモウ(ケイリャク)】
五胡十六国時代の前秦の宰相。
漢人の名門の出で、博学で殊に兵書を好んだ。
東晋の名将桓温が前秦を北伐した際に訪ね、天下の大事を堂々と論じ合ったという。
東晋への仕官を勧められたが断り、異民族の王苻堅の枢機に参与し、
苻堅は彼を、劉備?に対する諸葛亮?に譬えて重用した。
内政では儒学による教育の普及・戸籍制度の確立・農業の奨励・街道整備などに力を注ぎ、
軍事では前燕・前涼を滅ぼし華北統一に成功。
民族間の融和を図り、当代では稀な平和を築き上げた。
生涯無敗+治政上の功績から中華史上屈指の名将・名宰相とされる。
聖王として名高い苻堅だが、その功績の多くは王猛に帰する。

苻融(博休)

生年登場没年死因
383不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8382848088

【フユウ(ハクキュウ)】
五胡十六国時代の前秦の将。苻堅の異母弟。陽平公。
王猛が丞相になると、後任として冀州牧を拝命。
兄・苻堅からの信頼が篤く冀州全域を統括しその秩序を保ち、優れた統率力で将兵の信望を得た。
王猛の没後、長安に召還され、侍中・中書監・司隷校尉・太子太傅・録尚書事などを歴任。
王猛の遺言を守り南征への諫言を繰り返したが、容れられず淝水の戦いを招く。
降将の朱序の裏切りに逢い、同時に東晋本隊の攻撃を受け前秦軍は総崩れとなり、
兄と共に敗走するが戦死した。

鄧羌

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8998625776掃討驍将威風一騎法律万人敵斉射大喝撹乱投石地域巡回覇道

【トウキョウ】
五胡十六国時代の前秦の将。
苻堅に仕え、その武勇は「の流、万人の敵」と称された。
羌族の姚襄を破り、前燕の慕容垂と共に東晋の桓温を破り、
さらに前燕を降して、北方で劉衛辰が反するとこれも破った。
苻堅の下で常に最前線で戦い続け、前秦の領土拡大に貢献した。

張蚝

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7397401753疾走崩壁一騎胆力粉砕万人敵鯨波大喝撹乱地勢研究我道

【チョウコウ】
前秦の武将。鄧羌と共に万人之敵と称された。
牛を引いて走れる程の膂力と城壁を飛び越えられる程の跳躍力を誇った。
養父の妾との密通を恥じて自ら性器を裂いて宦官となった。
苻堅が来寇すると呂光と鄧羌の二人がかりで捕虜とされ、以降は苻堅に従った。
前燕の晋陽攻略では壮士数百で地下道から潜入し城を陥れた。
6万の軍で30万の前燕軍と戦った際は敵陣に突撃すること四度、
傍若無人の勇猛ぶりで勝利に貢献した。
淝水の戦いでは先鋒を務めたが、味方の混乱を制しきれず敗走。
その後は并州に移って苻丕の下で司空、大尉を歴任した。

※蚝は表示できないので[虫毛]などを代わりに用いること。

苻登(文高)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7890571861

【フトウ(ブンコウ)】
前秦の第5代皇帝・太宗高帝。苻堅の族孫。
淝水で前秦が大敗すると、任地だった関中も動乱に巻き込まれ、涼州に逃れる。
苻丕より南安王に封じられるが、苻丕が敗死したため皇帝として擁立される。
後秦への報復を誓い、涼州の氐族を糾合して後秦包囲網を形成する。
連戦連勝の末、後秦を長安安定の二都市のみに追い込む。
しかし、安定の攻囲戦の最中に本営を襲われ大敗を喫した(大界の戦い)。
その後は、後秦への離反が相次ぎ包囲網は瓦解。
姚萇の死に乗じて決戦を挑むが敗れ(廃橋の戦い)、姚興に馬毛山で包囲され殺害された。

毛氏

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7684514087

【モウシ】
前秦の苻登の皇后。
美しいながらも勇壮で騎射に長け、苻登の皇后に立てられた。
苻登が毛氏と輜重を砦に留めていたところ、姚萇の襲撃を受ける。
砦はまもなく陥落するが、毛氏は砦が陥落してもなお壮士数百人と共に抵抗。
敵軍700人余を殺したが、衆寡敵せず捕虜となった。
姚萇は毛氏を後宮に納めようとするが、
「姚萇は無道で既に天子(苻堅)を殺しておきながら今度は皇后を辱めようとしている。
皇天后土がどうしてお前を許すだろうか」と罵倒して殺された。

後秦

姚萇(景茂)

生年登場没年死因
331394自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7881636185梟雄驍将威風功名悪名

【ヨウチョウ(ケイモ)】
五胡十六国時代の後秦の創建者。姚弋仲の子。姚興の父。姚碩徳・姚緒・姚旻の兄。
異母兄の姚襄が前秦と戦い敗死すると苻堅に帰順し、前秦の将として各地を転戦した。
苻堅が淝水の戦いで大敗した後、造反した西燕の慕容泓討伐に向かうも敗走し、
逃亡先の馬牧で漢・羌の諸長から盟主に推戴され前秦から自立。
史家はこれをもって後秦の成立とする。
長安から脱出した苻堅を捕らえ禅譲を迫るが、拒否されたため殺害し、
優秀な弟達や、尹緯・狄伯支など天水郡出身の漢人豪族の活躍で長安へ入城。
自ら即位したが、まもなく死亡した。

姚興(子略)

生年登場没年死因
366416自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8985766687

【ヨウコウ(シリャク)】
五胡十六国時代の後秦の第ニ代皇帝。羌族の出身。姚萇の長子。姚顕・姚嵩の兄。
父姚萇の没後、大秦皇帝に即位。
侵攻してきた前秦の苻登を撃退後、同年、馬毛山に討って処刑し、後秦の関中統一が実現した。
この後も盛んに外征を繰り返し、オルドスを占領し洛陽?を陥落させ、西秦を滅ぼし、
後涼を降して河西諸政権を従属させた。
北魏との戦いには大敗したが、東晋から淮河以北の広大な地域を占領し、
後仇池を降伏させるなど、華北に一大勢力を築き上げた。

尹緯(景亮)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8657898971

【インイ(ケイリョウ)】
後秦の政治家、武将。
尹赤が姚襄に従ったため前秦では重用されなかった。
苻堅が淝水の戦いで大敗すると、姚萇に対して自立するよう説得した。
姚萇が苻堅を捕らえると禅譲を求める使者として赴き、苻堅から王猛に匹敵する宰相の才能と評された。
苻登に通じた苟曜を誅殺し、苻登討伐の際には太子の姚興を起用するよう姚萇に勧めた。
廃橋の戦いでは歩兵を指揮し、後秦軍が廃橋に陣取るよう計略を掛けて苻登の撃破に貢献した。
鮮卑の薛勃の反乱では姚崇とともに討伐したが、輜重が滞ったため杜成らを斬って軍規を正している。

成漢

李特(玄休)

生年登場没年死因
303不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7685707780山戦求心長駆強奪直情長蛇強化割拠

【リトク(ゲンキュウ)】
成漢の実質的な創始者。景帝。
涼州略陽郡臨渭の人で、巴賨族の出身。
身長八尺で武勇に秀でていた。
当初は州に仕えたが、298年に斉万年の乱によって関中が飢饉となった際に他の一族や多数の
流民と共に漢中を経て益州へと入った。
当初は反乱を起こした益州刺史趙廞の配下であったが、兄弟を殺された
為に離反し、趙廞を打倒した。
その後は新たに益州刺史となった羅尚に属するも流民を帰還させよう
とした羅尚と次第に対立し、流民達の支持を集めて大将軍と益州牧を自称して
自立、一時は成都を占領したが、羅尚の策略によって戦死した。

李輔(玄政)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6073634157昂揚鋒矢強化割拠

【リホ(ゲンセイ)】
李特の兄。
勇猛で武略があった人物で、李特に従って益州刺史趙廞の配下を経て
李特が自立した際には驃騎将軍となった。
しかし、羅尚の軍によって李特が戦死した際に共に戦死した。

李庠(玄序)

生年登場没年死因
247301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8592737482威風規律求心慰撫召募三軍強化割拠

【リヨウ(ゲンジョ)】
李特の弟、李流の兄。
若い頃から烈気溢れる事で有名で、弓馬は敏捷で膂力は人より強く
郡の役人であった際にはどこに仕えても上の官職に匹敵する働きを見せ、
当時の人に文鴦のようだと評された。
任侠に溢れる性格でもあり、飢えて貧しい人々に施しを行って人気を得た。
その後は兄とともに益州に入って益州刺史趙廞に仕え、かつての関張のようである
と評されて部曲督となり、一万人の兵を率いた。
しかし、趙廞に疑念を持たれるようになって殺害された。
※李庠が亡くなったとき、55歳と伝えられているため、逆算すると、兄である李輔と李特は247年以前の誕生となる。

李流(玄通)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8479776572
8684807583調練眼力慰撫消沈軍制改革割拠

【リリュウ(ゲンツウ)】
李特の弟。成漢の実質的な第二代君主。
若い頃から学を好み、弓馬に秀でていた。
東羌校尉・何攀に評価されて東羌督となり、後に兄と共に益州へと入って
行動を共にし、兄からは軍の調練を任された。
李特の戦死後は甥の李雄と共に残軍をまとめあげて羅尚の軍と戦い、
李雄を後継者に指名して病死した。

李驤(玄竜)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8377787563驍将柱石諌止先従隗始割拠

【リジョウ(ゲンリュウ)】
成漢の皇族。李特の末弟。
李特の挙兵時から付き従い、羅尚との戦いにて活躍した。
李雄の時代には太傳として重んぜられて梁州刺史李鳳の討伐や
南中攻略で活躍、成漢の勢力拡大に貢献した。
死後に子の李寿が皇帝となった際に献帝と追号された。

李雄(仲俊)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8280587974

【リユウ(チュウシュン)】
成漢の初代皇帝・太祖武帝。
父の李特の挙兵に従う。
李特が西晋の益州刺史羅尚(羅憲の甥)に敗死すると、叔父の李流とともに羅尚に抵抗を続ける。
李流の跡を継いで羅尚から成都を奪取し、成都王を自称する。
その後帝位に就いて成(成漢)を建国、前趙とともに五胡十六国時代を招来した。
羅尚に奪われた梓潼を奪回し、羅尚死後に巴西も平定する。
仇池の楊難敵と争い、漢中を支配下に置いて成漢の最大版図とした。
内政では天師道の范長生を丞相に据えて寛大な政治を行い、
動乱の中で四川を約30年に渡って安定状態に置いた。

李始(伯起)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6557726880

【リシ(ハクキ)】
成漢の皇族。李特の長子。
李特が独立した際に武威将軍となり、異母弟の李雄が即位した後は太保・折衝将軍となって弟を支えた。
よく士衆を撫した事から彼らの信頼は厚く、「老後を養いたくば太保に属すべし」とまで言われた。

李雄の死後に跡を継いだ李班が李期に殺害された際、当初は李寿と共に李期の打倒を
目指したが、受け入れられなかった為、李期側に転じて李寿を捕らえようとしたが
これも受け入れられなかった。

その後、成都を占領した李寿によって殺害された。

李蕩(仲平)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7283534868

【リトウ(チュウヘイ】
成漢の皇族。李特の次男。
父の挙兵に従って羅尚ら晋軍との戦いに活躍、広漢太守張徴が父の李特に
奇襲をかけた際には鎧を重ね着して長矛を手に自ら敵勢に突入して多くの
敵を討ち取って窮地を救い、さらに張徴を追撃して討ち果たした。
李特の死後は弟の李雄に従ったが、敵を追撃する際に戦死した。

范長生(元)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
224828788

【ハンチョウセイ(ゲン)】
成漢の政治家。天師道(五斗米道)の首領。天地太師。
蜀漢の代に涪陵で反乱が起き、鄧芝?の討伐を受け成都?に移住させられた。
その後、天師道に入信し、博学多才だったことから教徒により首領に推戴される。
西晋の代には、起兵していた李流・李雄らに糧秣を支援する。
李雄から君主として推されるも固辞し、李雄が成都王になると丞相に任じられる。
成漢が建国されると西山侯に封じられ、「天地太師」の号を贈られた。
李雄を補佐して四川の地で仁政を敷いて戦乱の世にあって四川を安寧に保ち、民から非常に崇敬された。

李班(世文)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3832566778

【リハン(セイブン)】
成漢の第2代皇帝・哀帝。李特の次男・李蕩の子で初代皇帝・李雄の甥。
温厚で人徳のある性格であったとされる。
李雄に正室との子が無かった事やかつて兄の李蕩を戦死させてしまった
負い目から李雄の子を差し置いて後継者に指名され、李雄の死により皇帝に即位した。

しかし、李雄の実子である李期や李越の反発を招いてすぐに殺害されてしまった。

李期(世運)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2847263236

【リキ(セイウン)】
成漢の第3代皇帝。初代皇帝・武帝(李雄)の四男。
父の死後、従兄弟である李班が即位した事に反発して兄の李越らと共に
李班を殺害して自らが皇帝に即位した。

しかし実権は一族の有力者である李寿によって握られ、最後は李寿に帝位を
廃された末に殺害された。

李越

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5558394542

【リエツ】
成漢の皇族。初代皇帝・武帝(李雄)の長男。
父の死後、従兄弟である李班が即位した事に反発して弟の李期と共に
李班を殺害して李期の即位後は相国及び建寧王となるが、李期が李寿によって
李越の殺害を迫られた事によって殺害された。

李寿

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
62686345

【リジュ】
李雄の一族の最有力者で、彼に才を認められ出世した漢人。李雄死後の擾乱の果てに338年に第4代皇帝に即位。
彼の暴君・石虎を尊崇し、彼の施策(と謂う名の暴虐)を悉く真似した。最期は祟り在ってか病没。

李勢(子仁)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
12176311

【リセイ(シジン)】
成漢の第5代皇帝。第4代皇帝・李寿の子。
342年に父の死によって皇帝に即位した。
自身の弟である李広を皇太弟に立てようとした臣を李広共々殺害した
のを始め、政治を顧みずに荒淫に耽った事で国内の状況は大いに不安定となり、
347年に東晋の桓温率いる軍の侵攻を受けて降伏した。
その後は建康に送られ、帰義侯に封ぜられて余生を過ごした。

劉玄

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1628513965

【リュウゲン】
劉永?の孫。蜀漢滅亡後、洛陽に移住した。西晋では奉車都尉に任じられた。
永嘉の乱で他の一族は絶滅し、劉玄だけが蜀の地に逃れた。成の李雄は、
劉玄を勝手に安楽公に任命し、のちに旧臣筋の李寿(成漢の李寿とは別人で、李福?の孫・李驤の子)を臣下に付けられた。
成漢が桓温率いる東晋軍に降伏すると、劉玄もまた軍門に降った。桓温配下の孫盛は、成都で劉玄と会ったと書き残している。

※蜀漢滅亡前に生まれ、没年は347年以降なのでかなりの長寿。

前涼

張軌(士彦)

生年登場没年死因
255265314自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8155768085運搬山戦農政輿望

【チョウキ(シゲン)】
西晋の政治家、前涼の創建者。安定郡烏氏県の人。張温の子で母は辛氏。
楊珧に召し出されて属官となり、散騎常侍・征西軍司に昇進した。
八王の乱が起きると、後漢の竇融に倣って涼州で割拠することを密かに考えた。
301年、希望通り涼州刺史・護羌校尉に任命されると、鮮卑の反乱を鎮圧し、農業を奨励する一方、地元豪族との融和を図った。
永嘉の乱が起きると、張軌はしばしば物資を供出し、北宮純らを援軍に派遣したが、洛陽が陥落すると退却した。
長安で司馬鄴(愍帝)が擁立されるとこれを支持したが、驃騎大将軍・司空・開府儀同三司への就任は固辞した。
愍帝はさらに太尉・涼州牧・西平公に封じたがこれも固辞した。
西晋の臣下のまま死去したが、張氏で涼州に割拠した初代であることから、事実上の前涼の建国者として扱われている。
文章の才能もあり、仕官前は皇甫謐と親交があり、仕官後は親交のある杜預?に『易』の注釈を献呈している。

親愛武将:皇甫謐、杜預

張寔(安遜)

生年登場没年死因
271320不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7971677872

【チョウショク(アンソン)】
前涼の2代君主。張軌の長男。子に張駿。
西晋に仕え、懐帝の元で郎中となり、驍騎将軍に任命されたが固辞した。
307年、朝廷に故郷に戻ることを願い出て、認められると涼州に戻ったが、張越・曹祛らによる反乱が起きていた。
張寔は父の命令で曹祛を討伐し、敗走させた。その後、尹員・宋配らと共に曹祛を討った。
父の死後、涼州刺史を代行すると、長安の愍帝政権はこれを追認し、西平公に封じた。
ある時、配下が「皇帝璽」と刻まれた印璽を献上した。張寔に自立を勧める者がいたが、
「我は袁本初が玉印を(曹操の)肘に向かって挙げた(劉虞の擁立を企てた事件)ことに怒りを禁じ得ない。
諸君らは何故そのように勧めるのか」と取り合わず、印璽を愍帝に献上した。
隗瑾の進言で広く意見を取り入れ、善政を敷いた。また、王該を愍帝の援軍に派兵している。
愍帝が漢(前趙)に殺されると、司馬睿の即位を支持した。しかし東晋の元号は使わず、西晋の建興元号を使い続けた。
晩年は自立の姿勢を見せるようになった。ところが、新宗教の指導者である劉弘(西晋の荊州刺史とは別人)が国を乗っ取ろうとしたので、
先手を打って劉弘を殺したが、その夜、劉弘の同郷の閻沙に暗殺された。子の張駿は幼かったので、弟の張茂が跡を継いだ。

親愛武将:曹操、宋配
嫌悪武将:袁紹

張茂(成遜)

生年登場没年死因
277324自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7857798073築城地利親羌論客浪費割拠

【チョウモ(セイソン)】
前涼の3代君主。張軌の次男。
落ち着いた性格で学問を好み、世間の功利を気に掛けなかった。
308年2月、父・張軌が中風で会話が不自由になると、上洛していた兄・張寔に代わって政務を代行した。
南陽王・司馬保の招聘を固辞し、愍帝政権に侍中に任じられたがこれも固辞した。
320年、張寔が閻渉らに殺されると、張寔の子の張駿が幼いことから、左司馬の陰元らは張茂を涼州刺史・西平公に推挙した。
張茂はこれを受けず、使持節・平西将軍・涼州牧を称し、閻渉ら数百人を誅殺すると、張駿を撫軍将軍・武威太守・西平公に推挙し、
後継者とすることを明らかにした。
323年、前趙の劉曜が襲来すると、臨洮県の翟楷らは呼応して寝返り、前涼は震撼した。張茂は参軍・馬岌の進言に従い出陣し、
陳珍の計略で前趙軍を撃退した。しかし、すぐに前趙に称藩を表明し、馬一千五百匹を始め、家畜や財宝などを献上した。
前趙は張茂を涼州牧・涼王に封じた。一方で、東晋への称藩も続けており、前涼は双方に服属する状況となった。
涼州の豪族の賈摹は、張寔の妻の弟であり、大きな権勢を持っていた。「手莫頭が、涼州の主の地位を狙っている」という謠言が流行ると、
張茂は賈摹のことと考え、他事にかこつけて誅殺した。こうして領内の豪族はなりを潜めたという。
張茂に子は無く、約束通り甥の張駿が後を継いだ。

張駿(公庭)

生年登場没年死因
307316346自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7551838783地利名声慰撫仁政浪費割拠

【チョウシュン(コウテイ)】
前涼の4代君主。張寔の子。前涼の全盛期を築いた。
幼少より立派な体格で、文才があった。他方で気ままで淫乱な性格で、領内を遊び歩いていた。
叔父・張駿の死後跡を継ぎ、東晋より涼州牧・西平公、前趙より涼州牧・涼王にそれぞれ任じられた。
東晋の元帝(司馬睿)が死去すると、右長史の氾禕は独自の元号を立てて自立するよう進言した。
張駿は従わず、しかし東晋の改元にも従わず、西晋の建興年号を使い続けた。
327年、前趙が後趙に大敗すると断交し、秦州に侵攻した。しかし前趙の劉胤に大敗し、かえって河南の地を失った。
330年、前趙が滅亡すると、再び河南を回復した。後趙が征西大将軍・涼州牧に任じると、一度は拒否したが、結局後趙に称藩した。
343年12月、後趙の石虎が侵攻したが、将軍の謝艾らが撃退した。
他方で、東晋へ使者を派遣するために成漢の通行を求めたが、成漢に断られた。そこで成漢に称藩するフリをして使者を突破させることに成功し、
東晋で賞賛を受けた。
ある時、張駿が刑罰や取締を厳しくしようとしたが、参軍の黄斌の反対を受けて取りやめた。
張駿の時代、内政は安定し、領内に戦乱は少なくなった。他方で西域の亀茲国・鄯善国を服属させた。
王位を公称することは避けたが、配下の者たちは臣を称し、百官の職名を少しだけ変えさせた他は、ほとんど王者と変わりなかった。
死後、次男の張重華が跡を継いだ。

張重華(泰臨)

生年登場没年死因
330339353自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7151607274慎重地利浪費軽率覇道

【チョウチョウカ(タイリン)】
前涼の5代君主。張駿の次男。
332年、世子に立てられた。寛大かつ温和で、慎重で毅然としており、口数は少なかった。
346年、父の跡を継ぎ、涼州牧・西平公・仮涼王を称した。後趙は代替わりを好機とみて
再度の侵攻を企てた。張重華は使者を送り恭順を願い出たが、石虎は耳を貸さず、王擢・麻秋・孫伏都らに攻撃させた。
牧府相司馬の張耽は、謝艾の起用を進言し、謝艾は期待通り麻秋を撃破した。しかし、張重華の側近は謝艾のことを讒言し、
謝艾は酒泉太守に左遷された。347年、再び麻秋らが侵攻したが、謝艾・索遐らの活躍で撃退した。
張重華は後趙の侵攻を退けたことで、政務よりも賓客との交際に現を抜かすようになった。
同年、東晋の使者・兪帰に対し、沈猛を通して前燕の慕容皝が燕王を公認されたことを挙げ、自分も涼王を公認されるべきだと主張した。
しかし、兪帰は「異姓の王はありえない。戎狄(異民族)は例外だが、さもなくば討伐されて当然の失言だ。もし王位を望むなら、
巴・蜀(成漢)と趙・魏(後趙)を掃討し、旧都(洛陽)を回復して天子をお迎えすれば、普通の褒賞では足りない
(ので、初めて王位を検討される)だろう」と反論し、張重華は王位を断念した。

張祚(太伯)

生年登場没年死因
339355不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2549472015言毒短慮悪名強欲粗暴覇道

【チョウソ(タイハク)】
前涼の7代君主。張駿の庶長子。
博学・雄武であり、政務の才能があった。張重華の寵臣の趙長・尉緝と義兄弟の契りを結んだ。
甥の張耀霊が君主になると、趙長らは張重華の遺命を偽って張祚を持節・督中外諸軍・撫軍将軍に任命させ、実権を握らせた。
その実、張重華が後事を託したのは謝艾であったが、張祚は自分を危険視していた謝艾を殺した。
尉緝はさらに、年長者を君主に立てるべきと主張し、張祚の擁立を企てた。張祚は張重華の生母の馬氏と浮気しており、馬氏を抱き込んで
張耀霊から地位を奪った。さらに張重華の妻の裴氏と姦通し、宮中の女性に手当たり次第手を出したので顰蹙を買った。
354年1月、趙長・尉緝らの進言で涼王(涼皇帝とも)を称し、東晋からの自立を宣言した。また、和平と改元した。
隴西の王擢は、前涼・東晋に両属していた。東晋の桓温が北伐を開始すると、王擢は張祚に、桓温を脅威と報告した。
張祚は桓温が前涼まで侵攻し、王擢が桓温に与するのでは無いかと恐れ、その暗殺を企てたが失敗。王擢を攻撃して勝利し、王擢は前秦に亡命した。
枹罕を守る張瓘は張祚の一族だったが、張祚は軍事力を恐れ粛清しようとした。張瓘は張耀霊の復位を掲げて挙兵し、張祚の討伐軍は大敗した。
張祚は張耀霊を殺したが、敦煌の宋混らが張瓘に呼応して宮城に迫った。趙長らは寝返って張玄靚(張耀霊の庶弟)の擁立を宣言した。
しかし趙長はその場で殺され、張祚は張瓘の弟・張琚らによって殺された。

義兄弟:趙長、尉緝
嫌悪武将:謝艾

張天錫(純嘏)

生年登場没年死因
346354406自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3534641340詩想消沈浪費優柔惰弱名利

【チョウテンシャク(ジュンカ)】
前涼の9代君主。張駿の末子。
元の字を「公純嘏」といい、東晋に帰順後、三字の字を笑われたことから改めた。
354年、兄の張祚が涼王(涼皇帝とも)を称すると、長寧公に封じられた。張祚の死後、甥の張玄靚が擁立されると中領軍に任じられ、
中護軍・張邕と共に実権を握った。張天錫の腹心である郭増・劉粛の二人は、張邕が謀叛を企んでいると主張し、
張天錫は進言に従って張邕の暗殺を企て、自害に追い込んだ。張天錫は実権を握ると、361年、西晋の建興年号の使用を取りやめ、
初めて東晋の升平5年に改元した。363年、張玄靚を殺して君主の地位を奪い、涼州牧・西平公・涼王を号した。
張天錫は政務を顧みず、地震や土砂崩れなどの災害に見舞われても、声を荒げるばかりで手を打とうとしなかった。
前秦が華北を席巻し、涼州にも圧迫を加えるようになると、東晋の桓温と連携して対抗しようとした。
376年、前秦の侵攻を受けて降伏し、前涼は滅んだ。前秦には帰義侯に封じられ、侍中に任命された。
383年、前秦の東晋遠征に従軍したが、淝水の戦いで大敗すると、東晋に降った。
東晋では改めて西平公・金紫光禄大夫となった。張天錫は文才があり、若くして名声があった。しかし東晋では、
敗残の張天錫はしばしば愚弄された。司馬元顕が東晋の実権を握ると、しばしば張天錫を呼び出してはからかった。
403年、桓玄が帝位を簒奪すると、張天錫を護羌校尉・涼州刺史に任じたが、まもなく桓玄は討たれた。406年、死去した。

宋配(仲業)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7980574858

【ソウハイ(チュウギョウ)】
西晋・前涼の武将。敦煌郡の人。
世の乱れを憂い、大志を抱いていたという。背が低く、皮膚に鱗甲のような物があった。
張軌が涼州刺史として赴任すると、宋配・陰充・氾瑗・陰澹らは張軌を謀主とし、股肱の配下となった。
永興年間(304-306年)、鮮卑の若羅抜能が反乱を起こすと若羅抜能を斬り、十万余を捕虜とした。
張越・曹袪らが張軌に取って代わろうと反乱を起こすと、張寔に従って討伐し、曹祛を斬った。
漢(前趙)によって洛陽が陥落すると、312年、主命で2万の兵で長安に出陣し、皇太子・司馬鄴を護衛した。
通り道の秦州刺史・裴苞らが交通を遮断して自立しようとしたので、引き返してこれを討った。
最期は不明だが、西平太守にまでなった。

張詵

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6056736570

【チョウシン】
西晋・前涼の武将。破羌都尉。
愍帝が漢(前趙)の捕虜となると、南陽王・司馬保と晋王・司馬睿はそれぞれ帝位を窺い、張寔の元にも打診があった。
張詵は「南陽王は莫大な恥を忘れ、自ら尊号を称しようとしていますが、時勢を厄難から救える人物ではありません。
晋王は明徳を備え、朝廷と昵懇であり、先帝が頼りにして後を託した相手でもあります」と、司馬睿を支持するよう進言した。
張寔は進言に従い、司馬睿に即位を勧める上奏文を送った。
しかし、張寔は東晋の元号は用いず、西晋の元号を使い続けた。また、司馬保の勢力と隣接していることから、司馬保が晋王を称すると
ひとまず征西大将軍・儀同三司の任命を受けた。

親愛武将:張寔
嫌悪武将:司馬保

親愛武将:張軌

謝艾

生年登場没年死因
353不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9468958777神威堅守地理求心威風機知奇策虚誘掩殺大喝撹乱急襲兵站改革割拠

【シャガイ】
前涼の武将。涼州敦煌郡の人。
5代目張重華が嗣ぐと、好機と見た後趙の石虎は軍を派遣。
前涼は大混乱に陥るが、その際に文武兼備・明識があり兵略に長けると推挙され総大将として抜擢される。
後趙軍の度重なる侵攻を奇計を用いて全て打ち破り、石虎に「前涼に有能な将軍が居る限り手が出せない」と嘆かせた。
前涼の要となるも、戦功を妬んだ張重華の側近の讒言により、酒泉太守に左遷。
張重華が病に倒れると臣下に呼び戻そうとしたが、張祚・趙長が握り潰した。
張祚が張耀霊を廃して君主の地位を奪うと、その才を恐れられ誅殺された。

親愛武将:張駿
嫌悪武将:張祚

後涼

呂光(世明)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9087723763勇将長駆一騎猛者捕縛奮戦斉射大喝撹乱衝車兵站改革割拠

【リョコウ(セイメイ)】
前秦の武将、後涼の太祖懿武帝。
東晋に降った張平の討伐で戦功を立て勇名を上げる。
苻双の反乱では敵将の苟興を破り、苻双の反乱を鎮圧した。
陝西・四川・幽州の乱を平定し、驍騎将軍に上った。
苻堅により西域都督に任じられ大宛諸国へ出征する。
焉耆、亀茲を撃ち破り西域を震撼させ、僧の鳩摩羅什を得て兵を返した。
帰還中に苻堅が淝水で大敗して後秦が興ったため、高昌・敦煌・武威?を攻め落として独立。
苻堅の死を聞くと後涼を建国し天王となったが、
匈奴(北涼)や鮮卑(南涼)の離反により、支配基盤を固められぬまま没した。

北涼

沮渠蒙遜

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7857928380虚実堅守策士詭計詐謀精練策数斉射鎮静撹乱井闌兵站改革割拠

【ソキョモウソン】
北涼第二代君主。太祖。
実質的な北涼の建国者で、最初期は同族の沮渠男成と協力し漢人の段業を擁立し後涼から独立。
その後沮渠男成と段業を謀略で陥れ第二代君主となる。
西涼の独立、南涼からの攻勢、西秦との争いなど四方を敵にしつつ北魏や夏との同盟等
外交政略を駆使して勢力を挽回しかつての前涼を超える領域を支配した。