みんなの新武将/西晋・東晋/異民族(十六国以外)

Last-modified: 2023-04-06 (木) 20:51:00

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

異民族

西晋の時代には、異民族が中国国内に住み着くことは珍しいものでは無くなっていた。
并州では、豪族が異民族を大々的に労役に動員していたことから、司馬炎によって禁止令が出されている。
関中では、100万あまりの人口のうち、異民族が半ばを占めるまでになっていた。
異民族の移住の背景には、三国が労働力確保のために強制移住を行わせた側面もあったが、世界的に小氷期と呼ばれる寒冷期で、
北方の異民族が、比較的暖かい中原を目指して移住した事情もあった。
296年、氐の斉万年が反乱を起こすと、斉万年は皇帝を称し、氐・羌が一斉に背いた。さらに、反乱に巻き込まれた住民が流民となり、益州に逃げ出す事態となった。
反乱鎮圧後、江統は『徒戎論』で、異民族の排除と強制送還を主張した。しかし、既に住み着いた異民族の排除は現実的では無く、
八王の乱でそれどころでは無くなった。以後、永嘉の乱を経て、漢民族と異民族を大規模に巻き込んだ内乱の時代、五胡十六国時代となる。

ここでは、西晋時代の異民族の他、五胡十六国時代の「十六国」に含まれない異民族諸勢力を扱う。

※三国時代までは「異民族・賊徒」を参照。
※五胡十六国時代の「十六国」に相当する人物は「五胡十六国時代」を参照。
※鮮卑拓跋部の北魏建国以降は「南北朝時代」を参照。鮮卑宇文部の北周も同様。



鮮卑

樹機能

生年登場没年死因
279不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9297843680疾走猛者鮮卑親鮮強奪急襲斉射
8588743660疾走猛者鮮卑親鮮強奪急襲斉射

【ジュキノウ】
西晋初期の時代に活動した禿髮鮮卑の首領。
270年に西晋に対して涼州にて反乱を起こし、秦州刺史の胡烈?を討ち、
翌年には涼州刺史の牽弘?を討ち果たした。
文鴦?らの活躍によって277年に一時降伏したが、279年に再び反乱を起こした。
馬隆?の活躍によって敗れ、寝返った配下の没骨能に殺害された。

※『新唐書』では拓跋力微の弟の曾孫とされているが、『三国志』ではこの時の反乱を「羌虜」によるものとし、『晋書』でも羌の出身とする。
子孫は「五胡十六国時代(西方・南方)」の南涼も参照。

没骨能

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6679263018鮮卑

【ボツコツノウ】
樹機能配下。
馬隆の攻撃を受けて降伏し、自ら樹機能を討った。

若羅抜能

生年登場没年死因
305?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6872414971鮮卑

【ジャクラバツノウ】
樹機能の反乱に加わった一人。
278年、武威?で涼州刺史・楊欣?を討った。
その後、西晋に降伏したと思われるが、永興年間(304-306)、再び反乱を起こした。
張軌は司馬の宋配を遣わしてこれを討ち、10万人あまりを捕虜としたという。

拓跋力微

生年登場没年死因
174277自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8472756080矍鑠鮮卑強奪頑健

【タクバツリョクビ】
のちに代・北魏を建国する鮮卑拓跋部の実質的な祖。并州に拠って一度は離散した部族を結集。魏・西晋に服従しつつ勢力を拡大した。
100歳以上の長寿であったが、晩年は衛瓘?の策略による内紛に悩まされた。
北魏は神元皇帝と諡した。

※104歳で死去しているので、実際にゲームに出すには生没年の調整が必要となる(新武将の寿命を数えの99歳までしか設定できないため)。生年をずらして179年生まれとした場合には、「揺らぐ漢朝」「反董卓連合」「二袁の思惑」シナリオには最初から登場しなくなるが、生年はそのままで272年没とした場合に影響が出るシナリオは現時点では存在しない(仮に今後呉滅亡シナリオが設定されるとしても死亡後のエピソードになる)ため、前者をお勧めしたい。

拓跋沙漠汗

生年登場没年死因
277不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6068446050鮮卑

【タクバツサバクカン】
拓跋力微の長男。北魏による諡は文皇帝。
261年、朝貢の使者として魏に赴き、そのまま人質として洛陽に留まった。
西晋成立後も洛陽に留まり、267年、父の高齢を理由に帰国を許された。
275年、再び西晋に朝貢したが、衛瓘は拓跋沙漠汗を警戒して、
洛陽に留めておくよう主張した。司馬炎はこれを却下したが、衛瓘は拓跋部の弱体化を図るため、
大人(たいじん。有力者)に賄賂をばらまき、離間を謀った。
277年、拓跋沙漠汗が帰国すると、西晋で学んだ弾弓を披露したが、大人達は漢化を嫌い、
また衛瓘の離間策の効果もあって、拓跋力微に「沙漠汗は国や民を乱す存在になる」と告発し、
拓跋力微もまた、沙漠汗を疑うようになった。そこで大人達は、力微の命と偽り、沙漠汗を殺してしまった。
力微はこれを聞いて甚だ悔やんだという。

拓跋悉鹿

生年登場没年死因
286自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6056515955鮮卑

【タクバツシツロク】
拓跋沙漠汗の弟。北魏による諡は章皇帝。
父の死後跡を継いだが、衛瓘の工作で大人達は離散し、国内は乱れていた。
特に実績は残っていないが、国内の安定に奔走していたのだろうか。

拓跋綽

生年登場没年死因
293自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6367625869鮮卑

【タクバツシャク】
拓跋沙漠汗・拓跋悉鹿の弟。北魏による諡は平皇帝。
兄・悉鹿の死後跡を継いだ。雄武と智略があったという。
293年、宇文普撥(莫槐の弟)が宇文部の大人となると、拓跋綽は宇文普撥の子の宇文丘不勤に娘を嫁がせた。
同年死去し、拓跋沙漠汗の末子の拓跋弗が跡を継いだが、拓跋弗も1年ほどで死去した。

拓跋禄官

生年登場没年死因
307自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8373607171鮮卑

【タクバツロクカン】
拓跋綽の弟。北魏による諡は昭皇帝。
拓跋弗の死により跡を継いだ。『魏書』によると西晋との友好を維持し、騎兵40万を号する勢力になっていた。
295年、拓跋部を3分割し、東部を自身が、中部を拓跋猗㐌(沙漠汗の長男)に、西部を拓跋猗盧(沙漠汗の次男)に統治させた。
また、宇文遜昵延に娘を嫁がせた。
304年、匈奴の劉淵が挙兵し、漢王を称した。并州刺史の司馬騰は、拓跋部に援軍を要請し、拓跋禄官はこれに応じて
拓跋猗㐌を派遣し、自らも出馬した。拓跋軍は西河、上党で漢軍に大勝した。

拓跋猗㐌

生年登場没年死因
267305自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9392534367鮮卑

【タクバツイイ】
拓跋沙漠汗の長男。北魏による諡は桓皇帝。名は「猗駞(イダ)」とも。
容姿が立派だったが、あまりにも重すぎて馬に乗れず、大きな牛に車を曳かせていた。
拓跋禄官のもと、拓跋部の中部を支配した。
漠北にたびたび攻め入り、20あまりの部族を服属させた。
304年、拓跋禄官の命令で司馬騰救援に出陣し、劉淵の漢軍に大勝した。
拓跋猗㐌は、司馬騰と盟約を交わして帰国した。
305年、再び司馬騰の要請を受け、軽騎兵数千を率いて出陣し、漢軍の将・綦毋豚を斬った。
この功績で、西晋より大単于の印綬を与えられたが、まもなく急死した。

拓跋猗盧

生年登場没年死因
316不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8979596779鮮卑

【タクバツイロ】
拓跋沙漠汗の次男。初代・代王。北魏による諡は穆皇帝。
容貌・才覚に優れ、勇気と智略は人並み外れていた。
当初は拓跋部西部を支配していたが、拓跋禄官の死後、再び拓跋部を統一した。
310年、西晋の并州刺史・劉琨は、子の劉遵を人質に差し出して協力を要請した。
拓跋猗盧は匈奴の劉虎を撃退後、劉琨と義兄弟の契りを交わした。
さらに、劉琨の上表で、懐帝(司馬熾)に代公に封じられた。しかし、幽州刺史・王浚は、
任地の一部を拓跋部に取られた形になったため承服せず、以降、両者は争うことになった。
さらに、拓跋猗盧は劉琨に要求して、5県を割譲させた。
劉琨は司馬越に手紙を送り、匈奴を南北で挟み撃ちにするよう要請した。しかし司馬越は、
懐帝の意を受けた苟晞らに背後を突かれることを恐れ(『魏書』では飢饉で兵糧が無いためとする)、要請を断った。
司馬越が憤死し、洛陽が陥落すると、漢軍は北部戦線でも巻き返し、劉琨・拓跋猗盧は激しく争った。
315年、愍帝(司馬鄴)によって代王に封じられた。
拓跋猗盧は末子の拓跋比延を寵愛し、跡継ぎにしようとした。長男の拓跋六脩はこれを恨んで離反し、父を殺した。

拓跋普根

生年登場没年死因
316自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5678503942鮮卑

【タクバツフコン】
拓跋猗㐌の長男。2代・代王。
父の死後、拓跋部の中部を支配したが、拓跋猗盧にその地位を追われた。
拓跋部の盟友・劉琨が、漢(前趙)の劉粲・劉曜らの攻撃を受けると、拓跋猗盧の命令で、拓跋六脩らと共に救援し、劉粲らは逃走した。
316年3月、拓跋猗盧が拓跋六脩に殺されると、拓跋六脩を殺し、大人らに推されて代王の地位を継いだ。
しかし国内は混乱し、漢人で拓跋猗盧の腹心になっていた衛雄・箕澹は、晋人・烏桓らを引き連れて劉琨に投降したため、
戦力を大きく削がれることになった。
翌月、拓跋普根は急死した。母の祁氏は、生まれたばかりの拓跋普根の子を強引に代王に擁立したが、これも12月に死去した。

拓跋鬱律

生年登場没年死因
321不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7571674470鮮卑

【タクバツウツリツ】
拓跋弗の子。拓跋猗盧の甥。4代・代王。北魏による諡は平文皇帝。
容姿は勇壮で、威信と謀略があったという。
拓跋猗盧の時代、白部の大人と鉄弗部の劉虎が劉琨を攻めた。拓跋鬱律は叔父の命令で、劉琨の援軍として両者を退けた。
316年、拓跋猗盧が殺され、跡を継いだ拓跋普根(拓跋猗㐌の子)、さらにその子も立て続けに亡くなると、拓跋鬱律が大人に擁立され跡を継いだ。
劉虎が再び侵攻したが大勝し、劉虎の従弟の劉路孤が帰順した。
西晋の愍帝(司馬鄴)が前趙の劉聡に殺されると大臣にいった、「今、中原は乱れ、支配者が不在である。天は我に救援せよと言っているのか」。
前趙、後趙から相次いで講和の使者が来たが、いずれも従わず、後趙の使者を斬って国交を断絶した。
また、東晋から改めて爵位に封じる使者が来たが、これも追い返して国交を断絶した。
これらの行動を、『魏書』は南方を平定する志があったからとする。
しかし、伯母の祁氏(拓跋猗㐌の妻)は、自分の子が跡を継げないことを恐れ、拓跋鬱律と有力者数十人を殺した。
さらに、祁氏は鬱律の遺児も殺そうとしたため、散り散りになって逃げ延びていった。

※東晋との断交については、北魏による粉飾説もある。

拓跋賀傉

生年登場没年死因
325自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4861363945鮮卑

【タクバツカノク】
拓跋猗㐌の次男。母は惟氏。5代・代王。北魏による諡は恵皇帝。
母の惟氏に擁立され、若年を理由に実権を握られていた。
母の死後親政を開始するが、諸大人が従わないので、東木根山に城を建てて本拠を移した。
また、涼州刺史の張茂が死去し、張駿が跡を継ぐと、張駿は代替わりの使者を拓跋賀傉に送った。

祁氏

生年登場没年死因
324?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5830767336鮮卑論客強欲

【キシ】
拓跋猗㐌の后。惟氏とも。
凶猛で疑い深い性格だった。普根・賀傉・紇那の3人の男子をもうけた。
拓跋普根が死去すると、幼い孫を強引に後継に擁立した。これは鮮卑の風習にそぐわぬ物だったが、
その孫も8ヶ月後に死去し、やむなく甥の拓跋鬱律の後継を認めた。
しかし、拓跋鬱律が人望を得ていることを恐れ、わが子に跡を継がせようと殺してしまった。
次男の拓跋賀傉を後継に擁立すると、自らは実権を握った。
後趙との友好を深めたが、祁氏が実権を握る様は「女国」と称された。

宇文莫槐

生年登場没年死因
293不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6876313339匈奴鮮卑

【ウブンバクカイ】
鮮卑宇文部の大人。元は匈奴であったが、鮮卑と同化したため、後世には宇文部も鮮卑と認識されるようになった。
鮮卑慕容部と対立し、しばしば侵攻・掠奪していた。慕容廆は西晋に討伐の許可を願い出たが、司馬炎は許さなかった。
そのため慕容廆は西晋に背いたが鎮圧され、やむなく宇文部に対しても贈り物をして融和を図ったという。
のちに宇文莫槐は、住民を虐待したため有力者によって殺された。

※宇文莫槐は『魏書』では匈奴、『晋書』では鮮卑とする。ひとまず鮮卑として扱う。
のちに西魏を簒奪して北周を建てた宇文覚(孝閔帝)は、宇文部の出身である。

宇文普撥

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6266364453匈奴鮮卑

【ウブンフハツ】
鮮卑宇文部の大人。宇文莫槐の弟。
兄の死後跡を継いだ。

宇文丘不勤

生年登場没年死因
302?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6361463647匈奴鮮卑

【ウブンキュウフキン】
鮮卑宇文部の大人。宇文普撥の子。
宇文普撥が大人になると、拓跋部の大人・拓跋綽の娘を娶った。

宇文莫珪

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6474365549匈奴鮮卑

【ウブンバクケイ】
鮮卑宇文部の大人。宇文丘不勤の子。宇文莫圭とも。
宇文部の勢力を拡大し、単于を自称して塞外の諸部は彼を恐れ憚った。
299年、宇文遜昵延を拓跋部に朝貢させ、拓跋禄官の長女と婚姻させた。
302年12月、弟の宇文屈雲に命じて慕容部の周辺の城を攻撃させた。
しかし慕容廆に大敗し、遼東人の孟暉が宇文部から離反し、慕容部に寝返った。

※『魏書』では拓跋珪の名を避けて「宇文莫廆」と表記。

慕容吐谷渾

生年登場没年死因
246?317自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7057465171鮮卑

【ボヨウトヨクコン】
慕容渉歸の長男で前燕の慕容氏と同族。慕容廆の庶兄。
庶子だったので後継者にはなれず、1700戸(700戸とも)を分与されていた。
ある時、慕容廆と放牧した馬同士が喧嘩になり、それが元で慕容廆に叱責され、追放された。
慕容廆は後悔して呼び戻そうとしたが、従わずに陰山に移住した。
永嘉の乱が起きると、涼州・枹罕まで逃れた。
子孫は吐谷渾を国名として自立し、吐谷渾は唐代まで存続した。

慕容吐延

生年登場没年死因
295?329?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4481631527鮮卑高慢

【ボヨウトエン】
慕容吐谷渾の長男。吐谷渾の首長。
身長七尺八寸、勇気と膂力が優れていた事から、羌族は「項羽?」と呼んで恐れた。
才気が高く、自らを韓信?・彭越・呉漢・鄧禹と引き比べ、辺境に逼塞している事を嘆いた。
しかし性格は残忍で、才智はあったが他人を憐れむ事がなく、昂城羌の首長の姜聡に刺殺された。
剣が体に刺さったまま、子の葉延を呼び、将軍の紇抜泥に幼い葉延を補佐するよう後事を託して死去した。

段務勿塵

生年登場没年死因
310?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7289593658掃討鮮卑強奪強欲

【ダンムモチジン】
鮮卑段部の大人。段乞珍の子。段疾陸眷・段匹磾・段文鴦の父。『魏書』では段務目塵と表記。
遼西の地に拠り、西晋に従った。
西晋の都督幽州諸軍事である王浚は、八王の乱に際して段務勿塵に接近し、娘を段務勿塵に娶らせた。
304年8月、王浚が成都王・司馬穎討伐の兵を挙げると召集され、晋・鮮卑の連合軍は鄴を攻略した。
しかし、鮮卑人の婦女誘拐が多発したため、王浚が「婦女を我が物にする者は斬る」と厳命した結果、8千人あまりの婦女が易水に沈められたという。
306年、懐帝が即位すると、王浚の上表で大単于・遼西公に封じられた(遼西公は、恵帝の代に封じられたという記述もある)。
309年、王浚の命令で漢(前趙)の石勒と戦い、飛龍山で万余の兵を討ち取る勝利を挙げた。
遅くとも311年11月までに死去し、段疾陸眷が跡を継いだ。

段疾陸眷

生年登場没年死因
318自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6484263849鮮卑地利消沈粗忽

【ダンシツリクケン】
鮮卑段部の大人。遼西公。段務勿塵の長男。
西晋末期、并州刺史・劉琨と幽州刺史・王浚の内輪もめが起きていた。王浚は劉琨が住民3万を連れ去ったことに激怒し、
段疾陸眷に劉琨軍の劉希を討たせた。
311年、王浚配下の王昌と共に疾陸眷兄弟は襄国の石勒を攻め、大勝した。しかし、石勒の反撃で段末波が捕虜となり、
捕虜解放と引き換えに石勒と兄弟の契りを結び、同盟した。その結果王浚の怒りを買った。
洛陽が陥落すると、段疾陸眷のもとに多くの避難民が訪れた。しかし、段部は武勇一辺倒で、士大夫を尊重しなかったので、
彼らの多くは慕容廆のもとに再流出していった。
313年、王浚は石勒討伐を命じたが、応じなかった。そこで王浚は拓跋猗盧・慕容廆に段疾陸眷討伐を要請したが、
両者の攻撃を撃退した。王浚が石勒に敗死すると、その旧臣の陽裕を迎え入れた。
317年には、東晋の司馬睿の皇帝即位を勧める上奏文に名を連ねた。同年、弟の段匹磾は、劉琨と共に石勒討伐を
段疾陸眷・段末波らに呼びかけた。しかし、石勒に恩を受けた段末波は従わず、さらに段疾陸眷に「父兄が子弟に従うのは恥です。
仮に成功しても、段匹磾が功績を独占するでしょう」と参陣を反対したので段疾陸眷も同意し、段匹磾は出兵を諦めた。
318年1月、病死した。子が幼少だったので、叔父の段渉復辰が後を継いだ。

親愛武将:段末波
嫌悪武将:段匹磾

段匹磾

生年登場没年死因
322不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7480374978鮮卑再起胆力短慮

【ダンヒキテイ】
段務勿塵の次男。
西晋の懐帝が即位すると、左賢王となった。
王浚の死後、幽州刺史代行となり、後に正式に幽州刺史となった。
317年、司馬睿の皇帝即位の上奏文に名を連ねた。同年、段匹磾は劉琨を大都督に推戴し、一族に石勒討伐を呼びかけた。
石勒は段末波に賄賂を贈り、段匹磾に含むところのあった段末波は討伐に参陣しないよう段渉復辰(段匹磾の叔父)・段疾陸眷に進言した。
そのため段匹磾も出陣を取り止めた。
段疾陸眷が死ぬと、段渉復辰が後を継いだが、段末波は段匹磾が国を簒奪しようとしていると言いふらし、
兵を出して段匹磾を敗走させた。さらに段末波は段渉復辰らを殺し、自ら簒奪した。この結果、鮮卑段部は二つに分裂した。
さらに、段末波は劉琨に内応を促す使者を送った。使者は捕らえられたが、段匹磾は内心劉琨を疑うようになった。
東晋の王敦は、劉琨を殺そうと段匹磾をそそのかした。結局劉琨を殺し、配下の者は漢人も胡人も多くが離散した。
さらに後趙(石勒)・拓跋鬱律に敗走し、楽陵の邵続を頼った。邵続と力を合わせて再起を図り、段末波に大勝した。
321年、後趙の石虎に厭次を包囲され、段匹磾は単身東晋に逃れようとしたが、邵洎に阻止され、石虎への降伏を決めてしまった。
後趙は段匹磾を冠軍将軍に任じたが、段匹磾は東晋の朝服を着て、東晋の節を持ち、不服従の姿勢を取り続けた。
翌年、段匹磾を擁立する謀反計画が発覚し、後趙に殺された。

義兄弟:劉琨
親愛武将:邵続
嫌悪武将:段末波

烏丸(烏桓)

庫賢

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6165624443扇動烏桓親烏

【コケン】
西晋初期の烏丸王。
『魏書』(北魏の歴史書)によると拓跋力微の傘下で、拓跋力微が死の床に伏すと軍を任された。
拓跋力微は衛瓘の離間策によって、息子の拓跋沙漠汗を死に追いやっていたが、
衛瓘はさらにだめ押しとして、庫賢にも賄賂を贈っていた。
衛瓘の意を受けた庫賢は、これ見よがしに斧を研いで見せ、大人(たいじん:有力者)達に「可汗(ハン)は、
あなたたちの讒言で太子を殺したことを後悔している。今、大人達の長男を殺すように命令を受けた(ので斧を研いでいる)」
と述べた。大人達は庫賢のいうことを信じ込み、拓跋力微の元から離散してしまった。

羯朱

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7382463543強奪烏桓賊徒

【ケツシュ】
西晋後期の烏丸大人。「渴末」とも。
304年、幽州刺史・王浚に依頼され、東嬴公・司馬騰、鮮卑段部の段務勿塵らと共に成都王・司馬穎を攻撃した。
司馬穎軍の王斌・石超・李毅らを破り、司馬穎は洛陽に逃れた。羯朱は朝歌まで追撃したが、諦めて引き返した。
懐帝・司馬熾が即位すると、王浚の上表で、兄・大飄滑らと共に親晋王の称号を与えられた。

匈奴

李恪

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5365382627匈奴

【リカク】
匈奴の左部帥。劉猛の配下。
271年、劉猛は西晋に背き、并州に侵入したが并州刺史・劉欽らに打ち破られた。
何楨は李恪を利益で調略した。その結果、李恪は劉猛を暗殺し、西晋に降った。

郝散

生年登場没年死因
294不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4669233859匈奴強奪

【カクサン】
匈奴の族長。
294年5月、上党郡で反乱を起こし、長吏を殺害した。
8月、馮翊郡(長安周辺)で降伏を願い出たが、許されず誅殺された。

郝度元

生年登場没年死因
299?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5680453965匈奴強奪

【カクタクゲン】
郝散の弟。
恐らく兄と行動を共にし、彼は許されて馮翊郡に移住したようである。
しかし296年5月、再び背き、現地の異民族である馬蘭羌・盧水胡(いずれも族名)と共に
北地太守の張損を攻め殺した。さらに8月、雍州刺史・解系の討伐軍も撃退した。
同じ頃、氐の斉万年が反乱を起こした。以降の郝度元の消息は途絶えるが、あるいは斉万年に合流したのかも知れない。

侯弾勃

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6169625458羌氐強奪

【コウダンボツ】
樹機能配下。
277年、西晋は司馬駿に涼州の屯田兵を帰還させ、交代させるよう命じた。
侯弾勃は、樹機能の命令で交代前に屯田兵を拉致しようとしたが、司馬駿は先手を打って文鴦に進軍させた。
樹機能・侯弾勃らは、恐れをなして降伏を願い出た。
その後、樹機能が再度背いた時に従ったのかどうかは不明。

※「侯」が姓で「弾勃」が名。

斉万年

生年登場没年死因
299不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7876583864羌氐

【サイマンネン】
チベット系の異民族である氐族の首長。読みはセイバンネンとも。
296年秦・雍州の氐・羌族が飢饉の影響で関中にて反乱を起こした際に皇帝に
推戴されて反乱の指導者となり、梁山を拠点とした。
朝廷から派遣された梁王司馬肜率いる西晋軍を撃破し、周処を戦死させたが
孟観率いる討伐軍に敗れた末に殺害された。

湳徳

生年登場没年死因
299?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6572243642

【ナントク】
斉万年に従って反乱を起こした一人。
潘岳『関中詩』によると、孟観は戦功を誇張しており、湳徳・甲吉を討ったと上奏したが、
偽りだった。しかし、斉万年を生け捕った功績に免じて不問に付されたという。

楊飛龍

生年登場没年死因
296自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6166455468羌氐

【ヨウヒリュウ】
百頃の氐王。千万?の孫。
西晋が成立すると、祖先の地である略陽に移住した。
楊氏の部族は飛龍の代にようやく強盛となり、『宋書』によると非公式ながら、司馬炎?に征西将軍(『魏書』では平西将軍とする)
の名乗りを許されたという。

※蜀漢滅亡後、蜀漢内の移住先から略陽に戻ったということだろうか。

楊茂捜

生年登場没年死因
317自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6561565875羌氐

【ヨウモソウ】
仇池の氐王。前仇池の祖。元は令孤氏の出で、楊飛龍の外甥。
楊飛龍に子が無く、養子に迎えられた。
296年、斉万年が反乱を起こすと、反乱には加わらず、部族4千戸あまりを引き連れ、略陽から仇池に移住した。
また、輔国将軍・右賢王を自称した。
当時、関中から戦乱を避けた人士が大勢おり、楊茂捜は彼らの面倒をよく見た。
楊茂捜の元を去ろうとした者にも、物資を与えて送り出してやった。
西晋の愍帝が、長安で亡命政権を組織すると、驃騎将軍・左賢王に任じられた。
梁州刺史・張光と楊虎が漢中で争うと、双方共に楊茂捜に援軍を求めた。
楊茂捜は長男の楊難敵を張光の援軍に派遣したが、楊難敵は楊虎の賄賂を受け寝返った。

白虎文

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6883343146

【ハクコブン】
涼州の胡王の一人。
247年、治無戴らと共に蜀漢の姜維?に降った。
『宋書』によると、蜀漢滅亡後は樹機能の反乱に加わり、薬蘭泥と共に西晋の秦州刺史・胡烈?、涼州刺史・牽弘?を討った。

薬蘭泥

生年登場没年死因
271不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
667651136

【ヤクランデイ】
『宋書』によると、樹機能の反乱に加わり、白虎文と共に西晋の秦州刺史・胡烈、涼州刺史・牽弘を討った。
しかし西晋の遣わした、田璋(田章?)によって討たれた。

吉軻羅

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6271323459

【キツカラ】
安定・北地・金城周辺を根拠地にした異民族。
樹機能の反乱に加わった。277年、西晋の司馬駿・文鴦?の討伐を受け、降伏した。

侯金多

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6672252952

【コウキンタ】
安定・北地・金城周辺を根拠地にした異民族。
樹機能の反乱に加わった。277年、西晋の司馬駿・文鴦の討伐を受け、降伏した。

西南夷(南蛮)

山越