注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願します。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
1275年、長講堂領を中心とする持明院統、八条院領を中心とする大覚寺統と、大規模荘園を擁する
天皇家の2つの皇統において皇位を巡った対立が頂点を迎える。時の執権であった北条時宗の差配により、
持明院統、大覚寺統それぞれが交互に天皇を輩出するということとなった。これが世にいう両統迭立である。
両統迭立により、天皇が2つの家系から輩出され、天皇を譲位した人間が治天の君となり、その子孫からまた天皇が擁立される、
という両統迭立は、1308年に転機を迎える。大覚寺統の尊治親王が即位し、後醍醐天皇として君臨した。
しかし、後醍醐天皇は、いずれ天皇に即位する幼少の邦良親王の代役に過ぎなかった。そのため、後醍醐の子孫から天皇は擁立しない、
という既定路線があった。これを知った後醍醐天皇は激怒し、後醍醐天皇の父である後宇多が死去すると、邦良親王との対立は激化した。
鎌倉幕府が後宇多・邦良両人の味方をしたことにより、後醍醐天皇はその後幾度となく倒幕を計画する。そして1333年、
楠木正成、足利尊氏、新田義貞らの協力によって、鎌倉幕府の滅亡となった。鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐は自ら
政治を取り、武士、公家の権勢を抑える天皇専制政治を志した。これを建武の新政という。しかし、建武の新政は
鎌倉幕府残党であった執権北条家の北条時行の反乱から崩壊が始まり、時行討伐に向かった足利尊氏が離反すると、
にわかに倭国大乱となる。足利尊氏は弾圧されていた持明院統の豊仁親王を光明天皇として即位させ、ここに
「一天両帝南北京」とされる南北朝時代が始まることになる。
その後、1392年に足利義満の手によって南北朝合一となり、南北朝時代は終わりを迎える。しかし、その後も後南朝と
呼ばれる南朝遺臣達の復興運動はしばらく続いた。最終的には、10代将軍の父である足利義視や、北条早雲(伊勢盛時)の手によって衰退している。
南北朝時代は豪華絢爛、傍若無人を是とする、いわゆる「婆娑羅」の風潮が強く、また権力闘争や血統争いの側面から
南朝・北朝どちらにも味方した勢力は数多い。その他、詳細は南北朝時代のWikipediaなどを参照
古代→中世→近世→近代
南北朝時代(日本)、戦国時代(東日本)、戦国時代(西日本)、江戸時代、戦後
足利家(足利尊氏家・室町幕府)
室町幕府の創始者である足利尊氏を祖とする勢力。北朝である持明院統を擁立し、支持することで正当性を確保した。
始祖の尊氏は鎌倉幕府滅亡に功をあげ、後醍醐天皇から「尊」の諱を下賜されたが、やがて両者は対立し、
1338年、足利尊氏は持明院統の光明天皇から征夷大将軍に任命された。当初は弟の足利直義とともに
両将軍という地位を以て幕府を運営していたが、最終的に直義と対立して観応の擾乱を起こす。その後、
2代将軍足利義詮の代になって多くの守護大名を糾合。南朝に対する決定的な優位を確保するに至り、
幾ばくの内乱を経て、3代将軍足利義満の代に南北朝合一を果たす。のち京都室町に居を構えた。以後、
15代将軍である足利義昭が織田信長に追放されて権威を失うまで、室町幕府は存続したと言われている。
足利尊氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 | 性格 | 口調 | 素質 |
90 | 68 | 82 | 83 | 88 | 遁走・不屈・詩想 | S | A | A | S | C | C | 1305 | 1358 | 足利義詮・高師直 | 足利直冬 | 剛胆 | 豪放 | 開眼(武力)・早熟・短(政治)・維持・長(それ以外) |
【アシカガタカウジ】
室町幕府の創始者。源義家を祖とする清和源氏の末裔。
後醍醐天皇の決起に呼応して鎌倉幕府を離反。討幕に功績をあげる。
討幕後は武士を蔑にする後醍醐天皇と対立。北畠顕家、楠正成らに敗北を繰り返し九州まで追われたが、
多々良浜の戦いで10倍の兵力を覆し再起を果たす。その後、上洛を果たし征夷大将軍に就任した。
戦前の皇史観では極悪人と評されたが、何度敗北しても人望を失わない優れた将器の持ち主であった。
※その他候補となった特技:名声・騎神・槍神・威風
足利義詮
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 口調 |
82 | 51 | 81 | 89 | 80 | 遁走・徴税・徴収 | A | B | A | A | B | B | 1330 | 1367 | 足利尊氏・楠木正行 |
【アシカガヨシアキラ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。足利尊氏の嫡男。室町幕府第2代将軍。執権北条氏の御一門でもある。
母とともに鎌倉に人質となっていたが、父の高氏が六波羅探題を攻めた際に足利家臣に連れられ、
鎌倉攻撃を企図する新田義貞の軍に合流。鎌倉幕府の滅亡後は叔父の直義とともに鎌倉を統治し、
足利尊氏が建武政権から離反した後も父に従った。観応の擾乱で叔父直義が離反すると、尊氏によって
京に呼び戻され、以後足利軍の政軍における中核を成す。叔父であった足利直義の死後は、その後を継いだ
異母兄の足利直冬と対立。神南の戦いで中心的な役割を果たし、直冬勢力を滅ぼすことに成功した。
父の死後将軍職を継ぎ、南朝に与した勢力を次々と傘下に入れたが、1367年早逝。南北朝の合一は息子義満によって果たされる。
足利義満
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
95 | 42 | 98 | 99 | 91 | 虚実・連環・論客 | B | C | C | A | C | C | 1358 | 1408 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長(それ以外)・開眼(武力) |
【アシカガヨシミツ】
室町幕府3代将軍。足利尊氏の孫であり、足利義詮の嫡男。
生まれる前に祖父を亡くし、数え年10歳で父を亡くした為3代将軍に就任する。
細川頼之や斯波義将らを巧みに操り幕府体制を整える一方、山名氏、土岐氏、大内氏などといった
有力守護大名を次々に討伐、削減し足利幕府の権勢を確立し最盛期を築いた。
また朝廷政治にも関与し、南北朝の合一を果たしている。中国・明との勘合貿易を進め
日本国王に封じられた。一説には皇位簒奪を企んでいたとも言われている。
※その他候補となった特技:威圧・富豪・徴税・明鏡・百出・神算
足利義持
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
55 | 37 | 71 | 79 | 81 | 威圧・論客・祈願 | C | C | B | C | C | C | 1386 | 1428 |
【アシカガヨシモチ】
室町幕府4代将軍。足利義満の次男。
側室腹の生まれで異母兄がいたが、斯波義将の後援により将軍職を継承する。
将軍就任経緯もあってか、父である義満と異なり守護大名とのゆるやかな関係を築き
安寧をはかった。一方で日明貿易を取りやめて外交断絶を行ったり、皇位継承問題などに
介入するなど、強圧的態度も備えている。父とは違う形で安定政治を行ったが、
晩年は弟である義嗣との対立や、嫡男義量の夭折など後継者問題などが発生。
権勢が衰退しつつある最中、43歳で早逝した。後継者にはくじ引きで同母弟義教が選ばれている。
高師泰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 親愛 |
81 | 95 | 65 | 57 | 2 | 攻城・威風・神将 | S | C | A | S | C | C | ? | 1351 | 剛胆 | 尊大 | 足利尊氏 |
【コウノモロヤス】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。高師直の実兄。父祖の代から仕えた足利家に変わらず仕え、
足利尊氏の重臣として鎌倉倒幕に貢献。建武政権では尾張権守に任官され政治の一翼を担ったが、足利尊氏の離反に同調。
同時期に北条時行と戦い中先代の乱を鎮定、新田義貞に一度敗れるが、足利尊氏と合流して箱根で撃退する。
その後は足利尊氏に付き従い、軍事の中核を担った。尊氏九州落ちの際には多々良浜の合戦で先陣を務め、
尊氏再起の後に楠木正成、北畠顕家、新田義貞に対する討伐軍の重鎮としてそれぞれ討ち果たし、
1347年には楠木正行を討った後南朝本拠の吉野を襲撃して焼き討ちにした。足利尊氏の重鎮として権勢を誇ったが、
観応の擾乱で南朝方と手を組んだ足利直義に敗れ、排斥される。その後、直義方の上杉能憲らに一族諸共暗殺された。
※ 弟と言われる高師直とともに、武家勢力の拡充を図ったが、一方で驕りによる傍若無人な振る舞いも起こした。婆娑羅の影響を受けていたとも言われている。
※その他候補となった特技:威圧・火攻・徴税・徴収
高師直
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 親愛 |
87 | 65 | 75 | 68 | 27 | 強奪・妙計・補佐 | A | C | B | A | C | C | ? | 1351 | 剛胆 | 尊大 | 足利尊氏 |
【コウノモロナオ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
足利尊氏の側近として倒幕に参加。後に尊氏を武士の旗頭に担ぎ室町幕府成立に多大な功績を残した。
幕府の成立後、尊氏の弟・直義と対立。観応の擾乱を引き起こし殺害される。
非常に野心家で権力を軽んじる傲慢な人物だったと言われ、
人妻であろうと奪えるものは奪い、主君だろうと天皇だろうと構わず背く中世最大の悪玉と称される。
※その他候補となった特技:金剛・鉄壁・昂揚・名声
赤松円心
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
90 | 55 | 81 | 79 | 73 | 乱戦・待伏・不屈 | A | B | A | C | C | C | 1277 | 1350 |
【アカマツエンシン】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。もとの名を則村。
後醍醐天皇の挙兵に際し、護良親王の令旨を受けて参戦。
瀬川の戦いでは3千の兵力で20万の鎌倉幕府軍を撃破した。
建武の新政に反発し、足利尊氏に接近。
九州へ逃れる尊氏軍を助け、 追撃してきた追討軍を撃退して時間を稼いだ。
土岐頼遠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
89 | 94 | 60 | 1 | 71 | 飛将・猛者・昂揚 | S | B | S | S | C | C | ? | 1342 |
【トキヨリトオ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。土岐頼貞の息。
当初は鎌倉幕府に従っていたが、やがて足利尊氏に仕えた。
武勇に優れ、「婆沙羅大名」の異名を取り、美濃青野原の戦いでは数万の
軍勢に対してわずか一千の軍勢で戦い、獅子奮迅の働きを見せる。その後
家督を相続してからも足利尊氏の重鎮として活躍するが、権勢に驕って
光厳上皇の牛車に矢を射かけたため、足利直義の要請により処断された。
土岐頼康
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
85 | 84 | 83 | 80 | 89 | 詩想・築城・洞察 | S | B | A | B | C | C | 1318 | 1388 | 冷静 | 冷静 | 威厳 | 維持・長 |
【トキヨリヤス】
南北朝時代の武将。父は土岐頼清。土岐氏中興の祖。従兄弟に明智氏の祖である明智頼重。
土岐家惣領であった叔父である土岐頼遠に早くから従い、各地の合戦に参加した。
土岐頼遠が刑死すると、断絶を惜しんだ足利尊氏によって再興され、土岐家当主となった。
その恩から観応の擾乱では一貫して足利尊氏を支持、尊氏・義詮を補佐して南朝との戦いで
軍功を立てる一方、京から逃れてきた後光厳天皇を迎え入れるなど幕府軍重鎮として活躍。
晩年は美濃・尾張・伊勢の守護職に任じられ、侍所頭人となるなど土岐氏最盛期を築く。
武勇に優れた一方で、勅撰和歌集に多くの和歌を残した。
※ 足利尊氏、足利義詮、足利義満から重用されたが、細川頼之と対立し、康暦の政変など一悶着を起こす。後に跡を継いだ甥の土岐康行は足利義満に警戒され、領地を削減された
島津貞久
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
71 | 70 | 85 | 92 | 87 | 能吏・富豪・名声 | A | C | S | B | C | A | 1269 | 1363 | 冷静 | 冷静 | 威厳 | 維持・長 |
【シマヅサダヒサ】
鎌倉時代及び南北朝時代の人物。九州島津氏第5代当主であり、中興の祖。
9代執権である北条貞時から偏諱を与えられ、貞久と名乗った。元弘の乱では当初鎌倉幕府に
属していたが、足利高氏の勧誘により離反し、太宰府を攻撃して北条英時を自害に追い込む。
その功により高氏から悲願であった薩摩大隅日向の守護に任命され、以後は足利尊氏に追従。
尊氏が九州に逃れてきた時もこれを支援し、多々良浜の戦いにおける尊氏躍進に貢献する。
その後は南朝勢力と戦いながら、足利氏の観応の擾乱も乗り越えて島津氏繁栄の祖となった。
京極道誉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
85 | 61 | 88 | 92 | 86 | 不屈・反計・捕縛 | A | B | A | A | B | C | 1296 | 1373 | 剛胆 | 開眼(武力)、維持・長(それ以外) |
【キョウゴクドウヨ】
鎌倉・南北朝時代の武将。佐々木道誉とも。諱は「高氏」
はじめ北条高時に仕え、高時の「高」を偏諱に賜った。のち元弘の変でも幕府に従軍し、
後醍醐天皇の隠岐配流も見送っている。しかし楠木正成討伐や後醍醐天皇の帰還を機に、
足利高氏と語らって幕府を離反。この際北条仲時を捕え自害させた。建武新政でも朝廷に貢献し、
中先代の乱に対しても朝廷軍として従軍したが、のちに足利尊氏と語らい再び離反。以後、足利尊氏とともに
北朝派の主戦力として、南朝派や直義派との戦いに従事して活躍する。尊氏死後は義詮を支え、政所執事となった。
その後も幕府内で不動の権力を築き、後世人を食った態度とともに「婆沙羅大名」と言われる。
細川清氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
67 | 92 | 63 | 61 | 72 | 勇将・猛者・駆逐 | S | B | S | S | C | B | ? | 1362 | 猪突 | 猪突 | 威厳 | 維持・長 |
【ホソカワキヨウジ】
足利一門細川家の出身。細川和氏の子。足利尊氏、足利義詮に仕える。
北朝方有力武将として南朝との数々の合戦に参加し、観応の擾乱でも尊氏方として奮闘。
1353年には都落ちする後光厳天皇を護るべく殿をつとめた。その後、足利直冬追討に軍功を上げる
傍ら、評定衆、相模守をつとめて足利幕府の重鎮として内政面でも貢献。2代将軍足利義詮の
就任後は執事管領となる。1360年の南朝追討の際には総大将をつとめ、楠木正儀の本陣奇襲に対して
自ら太刀を持って撃退している。だが、政敵の佐々木道誉の讒言により南朝に投降し、
以後は南朝方の重鎮として北朝方を窮地に陥れる。が、最期は従弟の細川頼之によって討伐され、敗死した。
※ 細川清氏の父である和氏の死後、叔父の細川頼春の後見を受けたが、最期はその頼春の息子である頼之に策として用いられ、敗死の原因となる。優れた猛将であったが、政敵を多く作り対立も多かった。
※その他候補となった特技:護衛・怒髪
細川頼之
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
89 | 78 | 96 | 97 | 85 | 詩想・神算・能吏 | A | C | S | A | C | B | 1329 | 1392 | 冷静 | 冷静 | 威厳 | 維持・長or早熟・長 |
【ホソカワヨリユキ】
足利一門細川家の出身。細川京兆家中興の祖。足利尊氏、足利義詮、足利義満の三代に仕える。
父が南北朝の動乱で戦死したため23歳で当主として尊氏、義詮の軍事行動を助けた。
阿波守護として四国・畿内の南朝勢力と戦い、神南の戦いでは義詮を助けて軍功をあげた。
観応の擾乱が長期化すると足利直冬の根拠地である中国地方征討軍の大将として活動し、軍謀両面で勢力拡大に貢献。
中国平定後は四国征伐軍の大将となり、四国も平定して管領に推挙された。政治面では
義詮死後の幼い足利義満を支え、半済令の制定や朝廷の対立宥和に尽力、戦略面でも中枢を担った。
晩年は反対派の圧力緩和のために一時的に失脚したが、義満の絶大な信頼は揺るがず、重用され続けた。
※ 失脚後は出家したこともあり、細川頼之は幕府の重職につかなかった。しかし足利義満は重職にない頼之を中枢に参加させるため、御前沙汰評定を頻繁に開いたという。一族に細川晴元らを輩出。細川藤孝、細川忠興らは弟である細川頼有の末裔
※その他候補となった特技:論客・築城・洞察
大内義弘
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
90 | 93 | 84 | 71 | 86 | 勇将・駆逐・強行 | S | S | A | S | C | B | 1356 | 1400 |
【オオウチヨシヒロ】
南北朝、室町時代の人物。守護大名大内家の当主であり、大内家最盛期の礎を築く。
1374年には当主である父の反対を押し切り九州へ向かい、今川了俊を救援して菊池武朝らを破った。
その後父、弟との対立を経て家督を相続。その後も足利義満の軍事の中枢を担い数々の合戦に
従軍してその勢力拡大に貢献するが、その器量を危険視されて政治的圧力を受ける。
鎌倉公方の足利満兼や今川了俊を頼みに挙兵するが、応永の乱で幕府軍に敗れて敗死した。
常に戦闘で物怖じしない剛勇無双の人物でありながら、当代屈指の教養人であったと伝わる。
※ 多くの戦陣で愛用した薙刀は、その後大内家の家宝として後代に伝えられた。大内家滅亡後、毛利隆元によって厳島神社に奉納される。
今川了俊
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
94 | 82 | 85 | 68 | 72 | 威風・昂揚・妙計 | A | C | S | B | C | B | 1326 | ? |
【イマガワリョウシュン】
足利一門今川家の出身。今川範国の次男。足利義詮に仕え、
義詮が病没すると義満に仕えた。1370年に九州探題に推挙され、九州にて南朝勢力と戦った。
一方で島津、大友、小弐ら日和見勢力にも剛柔合わせた対処を行い、大内氏らの援助もあって
1391年に九州をほぼ平定、1392年の南北朝合一により完全平定に至った。
しかし晩年は昵懇であった大内氏の幕府に対する反乱などから足利義満に警戒され、
駿河遠江の半国守護を兼任するに留まった。子孫は堀越氏、瀬名氏を名乗った。
※その他候補となった特技:急襲・射手・勇将・明鏡
藤原政宗
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
81 | 87 | 75 | 73 | 84 | 遁走・不屈・勇将 | S | B | S | A | C | C | 1353 | 1405 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【フジワラノマサムネ】
南北朝時代、室町時代の武将。伊達氏の出。「大膳大夫政宗」とも。
1377年に家督を相続し、鎌倉公方と関係を密にする長井氏を攻め滅ぼした。
足利義満の叔母を正室とし、幕府よりの姿勢を示して鎌倉公方と対立。
大崎詮持、蘆名満盛と共謀して鎌倉公方に反乱を起こした。乱は長期化し、
上杉禅秀率いる大軍に大損害を与えたが、時勢に恵まれず降伏した。
南北朝の動乱で衰退していた伊達氏中興の祖と呼ばれる。
※後年、戦国時代に彼に肖った伊達家17代当主「伊達政宗」が登場する。藤次郎政宗と区別して「大膳大夫政宗」とも呼ばれる。藤原は伊達の本姓
細川満元
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
58 | 44 | 69 | 81 | 78 | 明鏡・補佐・能吏 | B | C | A | C | C | C | 1378 | 1420 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【ホソカワミツモト】
南北朝・室町時代の武将。細川頼元の嫡男で、細川頼之の甥。
足利家一門かつ細川京兆家当主。足利義満、足利義持を支え、
摂津土佐讃岐丹波と4カ国の守護を兼任。1412年には管領にも就任し、
足利義持に重用された。就任中は主に北畠氏、上杉氏らをはじめとする
在地勢力の反乱に対処する傍ら、将軍家の対立問題の対処にも追われた。
1421年に管領を辞任して隠居した。その執政ぶりは貴賤なく賞賛されたという。
足利家(足利直義家・鎌倉府)
室町幕府創始者である足利尊氏の弟である足利直義を祖とする勢力。もとは建武の新政下において、
後醍醐天皇の皇子であった成良親王を補佐する機関を起源としており、この時に足利直義が実権を握っていた。
その後、後醍醐天皇から足利尊氏が離反すると、足利直義らもこれに追従し、尊氏躍進の一翼を担う。ことに
政治手腕に優れていた足利直義は、建武式目を始め足利幕府の法令整備や内政補佐を数多く行い、足利尊氏と
あわせて「両将軍」と呼ばれるほどであった。しかし程なく足利尊氏・足利義詮を中心とする勢力と、
足利直義・足利直冬を中心とする勢力は対立、戦争となり、直義死去、直冬隠遁となる。その後、足利尊氏の四男にあたる
足利基氏が鎌倉公方として君臨。直義体制を払拭し親幕府体制を期待した体制刷新は、むしろ幕府からの半自立、反幕府へと突き進み、
その後も内乱や権力闘争で室町幕府を悩ませた。戦国時代になると、北条氏康らを中心とする関東北条氏の傀儡政権となった。
足利直義
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
78 | 67 | 77 | 94 | 86 | 能吏・名声・反計 | A | B | A | B | C | B | 1306 | 1352 | 足利直冬 | 高師直 |
【アシカガタダヨシ】
南北朝時代の人物。清和源氏の末裔。足利尊氏の実弟。
兄の尊氏に従って六波羅探題を攻撃。建武政権下では鎌倉の実質的支配を任された。
中先代の乱の際は北条時行の軍勢の前に敗れ、混乱の中で護良親王を殺害した。
その後、救援にきた足利尊氏と合同で鎌倉幕府の残党を撃破し、南北朝の動乱後も兄を支持。
「両将軍」と言われるほどの北朝の中心的人物として、建武式目を制定し室町幕府初期の政治を担った。
だが、足利尊氏が重用する高師直と対立、結果的に尊氏からも離反し観応の擾乱を引き起こす。
南朝に降伏して尊氏方を圧倒し、高師直らを殺害することに成功するが、自身も南朝と組んだ尊氏による
追討令を受け、足利尊氏と戦うが敗北。鎌倉にて降伏し、その後急死した。太平記によると、足利尊氏による毒殺という。
足利直冬
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
85 | 89 | 57 | 33 | 68 | 猛者・勇将・不屈 | S | B | A | S | C | B | 1327 | 1387? | 足利直義 | 足利尊氏・足利義詮 |
【アシカガタダフユ】
鎌倉時代末期・南北朝時代の武将。足利尊氏の庶子であり、足利直義の養子。
足利尊氏の子として生まれるが、母親の身分が低かったと言われ、生涯を通じて父尊氏から冷遇される。
尊氏と面会すらできず、相模・京で寺につとめる喝食として過ごした。実子ができなかった叔父直義が
不憫に思い彼を養子とし、元服後は「直冬」と名乗った。南北朝の動乱が激化すると、足利尊氏が
渋々取り立て、直冬は南朝勢力との戦いで軍功をあげたが、尊氏はなお冷遇した。叔父の直義の差配により
長門探題として西国の重鎮となる。観応の擾乱の際は一貫して直義に味方し、足利尊氏・義詮らを追い詰めた。
しかし、直義の死後は勢力を挽回され、最終的には義詮方の細川頼之による討伐軍に追われた。
晩年は安芸ないし石見に隠棲し、足利義満に庇護されたというが、定かではない。
※ 太平記によると、直冬の母とされる越前局は「古ヘ将軍ノ忍テ一夜通ヒ給タリシ」とあり、かなり身分の低い(研究者の中には否定する人もいる)、それも足利家の庇護を受けていない一夜限りの関係である女性とされている。直冬が寺勤めの頃に落魄のなか病死したと言われる。
足利基氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 口調 |
63 | 69 | 76 | 83 | 88 | 名声・詭計・楽奏 | A | A | B | B | C | B | 1340 | 1367 | 足利直義・足利氏満 |
【アシカガモトウジ】
南北朝時代の人物。足利尊氏の四男。実兄に2代将軍である足利義詮。甥に3代将軍である足利義満がいる。
はじめ兄の義詮の後任として、叔父にあたる足利直義の側近くに置かれた。観応の擾乱で直義が没落すると
そのまま鎌倉に居座り、鎌倉府の重鎮として足利幕府を補佐しつつ、独自の勢力を築いた。
その後は関東に居座る北条時行・新田義興ら南朝勢力と抗争を続け、これを滅ぼした。
薩埵山体制と呼ばれる鎌倉府独自の体制を築き上げ、鎌倉府の祖となったが、後に
畠山国清の失脚、宇都宮氏綱や関東管領となった上杉氏との権力対立などもあり、
不穏分子を抱えたまま28歳で早逝した。武勇の誉れ高く、教養人であったと言われている。
足利氏満
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
64 | 58 | 70 | 83 | 48 | 反計・不屈・強行 | A | A | B | A | C | C | 1359 | 1398 | 足利義満 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【アシカガウジミツ】
南北朝時代の武将。父は足利基氏。足利尊氏の孫。従兄弟に足利義満。
父の早逝により9歳で鎌倉公方に就任。父の勢力を引き継ぎつつ、一方で武蔵平一揆に対し
若干10歳で出陣し、鎮圧させる。中央幕府で政変が生じるとしばしば独立を志し、
当時の将軍であった足利義満への謀叛を考慮するが、側近であった上杉憲春の死によって頓挫した。
その後も足利義満ら幕府中央政権に対し反発路線をしき、足利将軍家と結びつきの強い小山氏を滅ぼして北関東に覇権を唱えた。
関東から出羽・陸奥にいたるまでの強大な権力を有したが、このことは将軍家の不信感、対立を堅実なものとなり、
足利氏満の死後、孫の持氏になって幕府将軍家と鎌倉公方家の全面戦争を引き起こす要因となった。
桃井直常
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
83 | 97 | 36 | 41 | 55 | 騎神・乱戦・白馬 | S | B | S | S | C | C | ? | 1376 | 足利直義 | 剛胆 | 剛胆 | 豪放 | 維持・長 |
【モモノイタダツネ】
南北朝時代の武将。足利氏一門。足利尊氏・足利直義らに仕える。
南朝方との合戦に従軍し、1336年、1338年にいずれも北畠顕家の上洛軍相手に奮戦。
奈良般若坂の戦いでは、北畠顕家軍を退ける活躍を見せるが、恩賞には預かれなかった。
足利直義に重用され「直」の偏諱を下賜されると、直義派有力武将として、主に北陸方面で活躍。
観応の擾乱では直義派の中心武将として活躍し、足利尊氏に辛酸を嘗めさせた。その後も
足利直義、足利直冬に仕えたが、両名が没落すると足利基氏の庇護を受け、幕府に復帰した。
しかし幕府内で斯波義将との権力争いの末に越中長沢で戦うも敗北を喫し、以後消息を絶つ。
※ 南北朝時代を扱った著書「太平記」では、鬼神の如きとあり当代随一の猛将として書かれている。
※その他候補となった特技:槍神、勇将、強行
吉良満義
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
64 | 58 | 87 | 81 | 69 | 護衛・論客・明鏡 | A | C | A | A | C | B | ? | 1356 | 足利直義 | 冷静 | 冷静 | 威厳 | 維持・長 |
【キラミツヨシ】
鎌倉時代及び南北朝時代の人物。足利御一門吉良家の出。
足利尊氏、足利直義兄弟に付き従い、各地を連戦。建武の新政に際して直義とともに
関東統治を任される。足利直義に重用されるが、中先代の乱に際して一族の吉良時衡を
派遣して北条時行の鎮圧を目論むも失敗、北条氏の鎌倉占拠の一因を作る。その後、
北朝方の武将として信濃守護を努めつつ、南朝勢力との戦いに貢献。観応の擾乱では
足利直義に一貫して従い、直義派有力者として尊氏と争う。直義死後は苦悩しつつも、
嫡男である吉良満貞、三男である吉良尊義を上手く引き立て、吉良家存続に貢献した。
斯波高経
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
86 | 87 | 79 | 74 | 81 | 威風・捕縛・急襲 | S | B | A | S | C | C | 1305 | 1367 | 足利直義 | 京極道誉・細川頼之 |
【シバタカツネ】
鎌倉・南北朝時代の武将。足利家一門。尾張足利家とも。
鎌倉幕府に仕えていたが、同族の足利高氏が離反するとこれに同調し、六波羅探題を攻撃する。
建武政権では朝廷の差配に従い、畿内各地の反乱鎮圧に貢献。越前守護となった。
南北朝の動乱が発生すると北朝方となった足利尊氏に追従し、北朝方の北陸軍中枢となり、
南朝方の楠木正成や新田義貞らと争った。尊氏九州落ちの際には長門国に在陣して南朝に備え、
足利尊氏が再起をはかるとこれに追従し、湊川の戦いでは楠木正成の退路を絶った。その後
藤島の戦いでは新田義貞を戦死させるなど活躍するが、観応の擾乱では尊氏方直義方を右往左往した。
晩年、足利義詮を支え、幕府権力の向上に腐心したが、反対派の圧力により失脚を命じられ、失意のまま没した。
※ 後年、四男の義将が尾張守護、管領として権力を固めた。斯波武衛家の祖として知られ、のちの戦国時代で、織田信長の主筋にあたる斯波義銀は彼の子孫にあたる。
斯波義将
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
79 | 84 | 91 | 93 | 88 | 威風・鬼謀・百出 | S | C | A | S | C | B | 1350 | 1410 | 斯波高経・足利義満 | 細川頼之 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【シバヨシマサ(シバヨシユキ)】
足利一門斯波家の出身。管領、越前守護。義詮、義満、義持と足利3代に仕える。
斯波高経の四男として生誕し、父にその才能を重用され、わずか13歳で管領(執事)につく。
しかし、父の強引なやり方に反発した諸侯の煽りを受けて失脚。
父の死後足利義詮に許されて返り咲いた。その後は越中北陸征伐の要として出陣し、
足利直義に属していた桃井氏を討伐。周辺勢力も駆逐し北陸の重鎮として君臨した。
康暦の政変では因縁のあった細川頼之を糾弾し、彼を失脚させて、斯波氏最盛期を築いた。
晩年は足利義満、足利義持の2将軍から重用され、時に将軍をも諫止し、
越前加賀信濃尾張遠江と五州を領するその栄華は諸侯をも恐れさせた。
※ 細川頼之は最終的に養子で弟の細川頼元を通じ、地位を回復させたが、彼の没後は斯波家が足利一門最大勢力となった。織田信長を輩出した織田氏を取り立てたのは嫡男義重である。
※その他候補となった特技:明鏡・補佐・深謀
山名時氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
86 | 83 | 92 | 91 | 79 | 強運・勇将・明鏡 | A | A | S | S | C | C | 1303 | 1371 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【ヤマナトキウジ】
南北朝時代の武将。父は山名政氏、母は上杉氏の出身。山名氏中興の祖。
家系上は新田氏の一族であるが、母方の縁戚関係を重視して足利氏に付き従った。
鎌倉幕府の滅亡、建武政権と南北朝の動乱に際しても足利尊氏に従い、湊川の戦いなど
足利方の軍事行動に従軍して功を立てた。その後も足利氏の勢力拡大につれて、塩冶高貞などを
討伐し、自らの勢力も拡大し山陰地方に独自の勢力基盤を築く。足利氏が観応の擾乱で分裂すると、
尊氏、直義、直冬、義詮と巧みに主君を変えながら自ら勢力を蓄え、山陰を中心とする5ヶ国の守護と、
引付頭人、侍所頭人など幕府の要職を兼任。のちに一門合わせて11ヶ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた。
※ 時氏の没後も勢力は衰えず、当初は所領安堵を承認した室町幕府も、山名氏の勢力を脅威と感じ、3代将軍足利義満の時代に明徳の乱が起きる。
※その他候補となった特技:威風・猛者・名声
上杉氏憲
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
77 | 74 | 86 | 75 | 83 | 沈着・強行・怒髪 | B | C | A | S | C | C | ? | 1417 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【ウエスギウジノリ】
南北朝・室町時代の人物。犬懸上杉家の出身。「上杉禅秀」とも。
鎌倉公方足利満兼を支え、幕府方として対立した伊達政宗らの討伐に大きく貢献した。
その後は有力氏族と血縁関係を築きつつ、政軍両面で鎌倉府を支え続けたが、
満兼の子である持氏の代になって鎌倉府と対立し、乱を起こした。有力氏族を
多数味方につけ、鎌倉を占領して鎌倉公方を追い落として奮戦したが、
4代将軍足利義持の派遣した追討軍に敗れ、鶴岡八幡宮で自刃した。
※後年「上杉禅秀の乱」と呼ばれるこの戦いは、甲斐の武田氏や関東の千葉氏、宇都宮氏など多くの有力勢力が彼に同調した。
南朝(吉野朝・大覚寺統)
邦良親王との皇位継承争いを制した後醍醐天皇を祖とする勢力。現在は「南朝」呼称が一般的であるが、
戦前の皇国史観などでは「吉野朝廷」と呼ばれることが多く、戦前のいわゆる「南北朝正閏問題」では
明治天皇の沙汰によって一応こちらを正統王朝としている。後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼして
建武の新政を開始したが、足利尊氏の離反によって最終的に頓挫し、南北朝の動乱の最中1339年に薨去する。
その後、後醍醐天皇の第七皇子が後村上天皇として皇位を継承するが、既に劣勢甚だしく、1348年には吉野も
追われて大和賀名生に居を構えた。1353年に観応の擾乱が起こると三者鼎立となり、一時的に勢威を復するが、
協調勢力の離反は止まらず、次代の長慶天皇の頃には唯一優位であった九州をも今川了俊らの手によって失陥させられ、
最終的に足利義満の講和条件を受諾して南北朝は合一した。しかし、4代将軍足利義持によって南朝勢力は悉く衰亡し、以後復古することはなかった。
尊治親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 |
16 | 2 | 73 | 44 | 80 | 遁走・名声・昂揚 | C | C | C | C | C | C | 1288 | 1339 | 阿野廉子 | 猪突 | 開眼(魅力、知力など)、維持・長(それ以外)or維持・長 |
【タカハルシンノウ】
鎌倉・南北朝時代の天皇。後宇多天皇の第二皇子。のちの「後醍醐天皇」。
1318年に父親の院政下で即位したが、朝廷方針から邦良親王と皇位継承権を巡って対立。
鎌倉幕府が邦良親王を支持したため、倒幕運動を幾度と無く計画する。
正中の変、元弘の変といずれも失敗に終わり、隠岐に流されるが脱出。楠木正成、足利高氏、新田義貞らの
力を借りてついに鎌倉幕府を滅亡させた。以後実権を握り、「建武新政」を開始するが、天皇専制の体制に
対する各地の不満や、鎌倉幕府の残党勢力に悩まされ、ついには足利尊氏の離反を招いて南北朝の動乱を招く。
足利尊氏率いる北朝の勢力を対処できないまま、1339年病に倒れ崩御。
阿野廉子
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 |
3 | 1 | 79 | 35 | 33 | 傾国・楽奏・連環 | C | C | C | C | C | C | 1301 | 1359 | 後醍醐天皇 | 猪突 | 開眼(知力)、維持・長(それ以外)or維持・長 |
【アノレンシ(アノヤスコ)】
鎌倉時代、南北朝時代の人物。阿野公廉の娘で、後醍醐天皇の後宮、皇妃。
身分の低い貴族の娘に生まれ、後醍醐天皇の中宮嬉子に仕えた。その後、
持ち前の美貌と器量でのしあがり、後醍醐天皇からその寵愛を一身に受け、
隠岐配流や吉野遷宮にも同行。後醍醐天皇が実権を握り建武の新政を志すと、
内政干渉を行い自らの子である恒良親王を立太子するよう唆した。後醍醐天皇の死後、
自らの子である義良親王を即位させ、南朝皇太后として勢威を振るった。
その権力壟断は南北朝問わず多くの人々から非難されている。
※ 彼女の子のうち、3人の皇子はいずれも立太子された。後醍醐天皇の第七皇子である後の後村上天皇は、彼女を母に持つ。なお後醍醐天皇の隠岐脱出には彼女が大きく関わっていたと言われており、後醍醐は妊娠する彼女に乗じて脱出したと「太平記」には記されている
※その他候補となった特技:遁走・詭計
護良親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
85 | 74 | 79 | 54 | 86 | 威風・怒髪・遁走 | A | A | C | C | C | C | 1308 | 1335 |
【モリヨシシンノウ】
建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子。
比叡山で兵法を会得し、武芸の腕は余人を圧倒。天台座主始まって以来の変わり者と評される。
朝廷軍の軍事指導者として討幕軍を組織し、赤松円心の子・則祐らと共に各地を勇戦。
鎌倉幕府打倒の悲願を達成した。戦後は征夷大将軍に就任するも、
足利尊氏との政争に敗れて失脚。鎌倉に幽閉され殺害された。
懐良親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
80 | 72 | 71 | 77 | 88 | 名声・明鏡・論客 | A | B | A | A | C | B | 1329? | 1383 |
【カネヨシシンノウ(カネナガシンノウ)】
南北朝時代の皇族。後醍醐天皇の皇子。
父である後醍醐天皇の意向により、幼少期の頃から九州へ派遣され、
南朝の地方勢力拡大における主導的地位を与えられる。1341年には征西将軍として
九州薩摩に上陸。菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、1348年隈本に征西府を置き
勢力拡大を志した。1359年の筑後川の戦いでは親王自ら陣頭指揮を取り勝利をおさめる。
1361年に大宰府を制圧し、足利幕府に味方する一色氏、渋川氏の九州征伐軍を跳ね除け
九州に覇を唱えたが、足利義満の代になって派遣された今川了俊、大内義弘の前に劣勢となり、そのさなか筑後矢部で薨去。
楠木正成
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
87 | 73 | 91 | 43 | 82 | 百出・不屈・金剛 | S | A | A | C | C | C | ? | 1336 | 開眼(武力)、維持・長(それ以外) |
【クスノキマサシゲ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。大楠公。
後醍醐天皇を助け建武の新政の原動力となった。
武士とは思えない奇想天外な戦術で鎌倉幕府の大軍を翻弄し散々に打ち破る。
鎌倉では彼を「天王寺の妖霊星」と呼んで恐れたという。
倒幕後はかつての戦友・足利尊氏と対立。一時は尊氏を九州まで追いやったが、湊川の戦いで敗北。
新田義貞の殿となり戦死した。尊氏はその死に涙したという。
※その他候補となった特技:乱戦・槍神・虚実
新田義貞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
71 | 86 | 68 | 70 | 45 | 強行・遁走・騎将 | A | C | C | S | C | C | 1300 | 1338 | 新田義宗 | 足利尊氏・足利義詮・北畠顕家 |
【ニッタヨシサダ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。源氏の出。
新田宗家を相続するが、以前から鎌倉得宗家とは折り合いが悪く、
領国問題から後醍醐天皇と連携を取り、鎌倉幕府に対し挙兵。
北条高時を自害させて鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。建武政権下では
鎌倉に残って戦後処理などを行うが、朝廷からはあまり重きを置かれなかったようである。
その後建武政権から離反した足利尊氏と抗争を開始、一時は尊氏を追いやるも最終的には敗れる。
湊川合戦の敗走後は北陸に遁走するが、やがて足利尊氏らに追い詰められ、最期は越前藤島で戦死した。
※その他候補となった特技:反計・不屈
北畠親房
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
58 | 37 | 95 | 92 | 76 | 深謀・遁走・詩想 | B | C | A | C | C | B | 1293 | 1354 | 後醍醐天皇・後村上天皇 |
【キタバタケチカフサ】
鎌倉・南北朝時代の公卿。後醍醐・後村上両天皇の重鎮。伊勢北畠家の祖。
後醍醐天皇が即位すると「後の三房」の一角として大いに重用され、
権大納言、源氏長者となるが、世良親王の逝去により一度隠遁する。
のち、後醍醐天皇が建武の新政を開始すると復帰し、後醍醐天皇を硬軟交えて補佐した。
南北朝の動乱では一貫して南朝支持を貫き、後醍醐天皇、後村上天皇を補佐しつつ、新田義貞、楠木正成らと
協調して足利尊氏追討を志すが果たせなかった。その後、関東東国で南朝支持勢力を募りつつ、
「神皇正統記」を記した。晩年、大納言でありながら准三宮となり、南朝を統括してその勢威を復した。
※ 彼の記した「神皇正統記」にある万世一系論は、その後の水戸学や皇国史観に大きな影響を与えたと言われている。また武家政権も「徳治」を以て容認するなど、社会の安定を第一とした。
※その他候補となった特技:能吏・詭計・明鏡・仁政
北畠顕家
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
93 | 79 | 77 | 53 | 85 | 強行・飛将・不屈 | A | A | C | S | C | C | 1318 | 1338 | 早熟・長or維持・長or開眼(政治・統率など) |
【キタバタケアキイエ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。
「風林火山」の旗印を歴史上初めて使用した人物としても知れる。
建武の新政が始まると16歳でその鋭才を見込まれ奥州支配を任される。
足利尊氏の決起に際して、奥州から5万の兵力を率いて僅か20日で上洛。
豊島河原の戦いで20万の尊氏軍に2万足らずの兵力で勝利した。
湊川の戦いで南朝が大敗すると要請を受けて再度上洛。
度重なる遠征と連戦で軍団は疲弊し、奮闘虚しく敗死した。享年21歳。
※その他候補となった特技:明鏡・騎神・百出・急襲
北畠顕能
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
86 | 71 | 75 | 89 | 77 | 不屈・連戦・能吏 | B | A | S | A | C | C | 1326 | 1383? |
【キタバタケアキヨシ】
南北朝時代の武将。父は北畠親房、兄に北畠顕家、顕信がいる。異説として父が中院貞平とも。伊勢国司北畠家の祖。
南朝勢力の拡大の一貫で、兄たちと別れて伊勢に入る。地元国衆の支持を得つつ、北朝方であった
高師秋を撃退するが、既に南朝勢力は衰亡しつつあり、本拠であった玉丸の地を捨て多気に移った。
多気に移った後も北朝への反抗を継続し、楠木正行らとともに南朝の中核を担う。
1352年には北朝方で2代将軍の足利義詮を近江に追い落とし、南朝の京洛凱旋を成功させるが、
既に北朝優位の状況は変わらず、同年に再び都落ちとなっている。その後も北朝勢力相手に善戦を続け、
南朝方の重鎮として貢献したが、1383年頃に死去。以後、南朝は反抗の決定力を失い、南北朝合一へと傾くことになる。
菊池武光
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
93 | 96 | 70 | 82 | 89 | 飛将・猛者・威風 | S | B | A | S | C | C | 1319 | 1373 |
【キクチタケミツ】
南北朝時代の武将。肥後の名族菊池氏の出身。
南北朝の動乱で南朝方に味方し、菊池氏を再興させ当主となる。
その後、北朝方の九州探題を悉く撃退し、後醍醐天皇の皇子であった
懐良親王を迎え入れ、南朝の九州支配を確立。1359年には反旗を翻した
少弐・大友連合軍を筑後川にて劣勢を覆して勝利し、1361年には太宰府を陥落させた。
しかし、幕府方の大内義弘や今川了俊に勢力拡大を阻まれて衰退。征西府の衰退の最中1373年に病没した。
※ 北朝の後光厳天皇は「鎮西宮並びに菊池武光以下、凶徒追討の事」と綸旨を出し、武光の威光を脅威と捉えていた。劣勢著しい南朝の中優勢を保っていた九州だが、武光の死後今川了俊によって鎮定される。
※その他候補となった特技:金剛・鉄壁・不屈
楠木正儀
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
85 | 70 | 78 | 52 | 61 | 不屈・詭計・明鏡 | A | B | A | A | C | C | 1330? | 1391? |
【クスノキマサノリ】
南北朝時代の武将。楠木正成の三男。父と2人の兄の戦死により家督を継承する。
父譲りの優れた戦術家で、南朝の重鎮として活躍、各地の合戦に参加した。
1349年には高師泰の軍勢を押し止め、翌年には観応の擾乱に乗じて足利義詮を
京から駆逐した。斜陽の南朝を軍事的に支え続ける一方、国難を憂いて
南北両朝の和睦にも関与していたと伝わっている。
その他
北条時行
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
66 | 74 | 41 | 55 | 78 | 連戦・長駆・名声 | A | B | B | A | C | C | ? | 1353? |
【ホウジョウトキユキ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。鎌倉幕府第14代執権である北条高時の次男。
鎌倉幕府の滅亡時に叔父の北条泰家らに連れられて鎌倉を脱出し、信濃国で潜伏した。
その後成長すると北条氏再興を掲げて挙兵。建武体制に不満を持つ武士を糾合しながら鎌倉へ進軍し
足利直義を破って鎌倉を占拠した。しかし、再起を図った足利尊氏らに敗れ、再び鎌倉を離れることとなる。
その後、南朝と融和して関東で勢力を張る足利氏との戦いを繰り広げるが、1352年に足利勢力に敗れて
捕えられ、翌年に処刑された。彼の死をもって北条家は事実上の滅亡を迎えた。
※ ただし、史料によっては生存説もある。いずれにせよ、軍事勢力としての執権北条氏は1353年を境に衰亡したとされている。また一説には、北条行氏なる子がおり、その子孫に後北条氏が養子に入り北条氏康など「氏」を名に冠するようになったという。