注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願します。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
平清盛の死後、平氏打倒の風潮が流れ、落ち延びていた源頼朝とその弟、範頼と義経。
そして頼朝の従兄弟でもある木曽義仲らの挙兵もあり、平氏政権は打倒され、平家は没落した。
かわって源氏の源頼朝が鎌倉に幕府を開き、新たな武士政権が発足。頼朝の死後、
源氏は将軍を2人続けて早くに失い、事実上滅亡となったが、かわって執権の北条氏が台頭。
後鳥羽上皇率いる朝廷軍との争いに勝ち、武士政権を確立させる。8代執権北条時宗の代に
元の軍勢が来襲し、以降鎌倉幕府は衰退。1333年に滅亡する。
その後倒幕に功のあった足利尊氏が勢力を伸ばし、3代将軍足利義満の代に室町幕府が確立する。
しかし応仁の乱などを機に衰退し、将軍に実権がなく内乱状態に突入する。
古代→中世→近世→近代
南北朝時代(日本)、戦国時代(東日本)、戦国時代(西日本)、江戸時代、戦後
中世(鎌倉時代~戦国時代、諸説あり)
【鎌倉時代(12世紀~14世紀前半)】
源頼朝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
78 | 70 | 89 | 96 | 86 | 強運・威圧・詭計 | B | C | A | B | C | C | 1147 | 1199 | 冷静 | 維持・長 |
【ミナモトノヨリトモ】
鎌倉幕府の初代将軍。平治の乱で敗れた源氏の嫡男として伊豆に流罪となるが
平氏は高倉宮以仁王が平家追討を命ずる令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知り自分が危機の中にある事を悟った頼朝は挙兵。
関東を平定した後に平家、奥州藤原氏を滅ぼし、朝廷から征夷大将軍に任命された。
「天下」の呼称を初めて使った人でもある。
※その他候補となった特技:明鏡・眼力
源範頼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
85 | 83 | 76 | 67 | 80 | 威風・威圧・補佐 | A | A | B | S | C | B | 1150 | 1193 | 冷静 | 普通・長 |
【ミナモトノノリヨリ】
平安末~鎌倉初の武将。源義朝の六男。頼朝の弟。
頼朝軍の総司令官を務めた。源平合戦では義経の活躍が有名だが、
本軍を率いた範頼も堅実な用兵で一度も敗北する事なく平家討伐を成功させている。
一般に凡将のイメージがあるが彼を平凡と扱っている資料は14世紀に記された『源平盛衰記』のみであり、
信憑性は低いとされる。なお彼も平家滅亡後に義経同様、頼朝に幽閉・殺害された。
※その他候補となった特技:金剛・長駆
源義経
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
97 | 99 | 88 | 20 | 87 | 疾走・飛将・待伏 | A | B | A | S | C | A | 1159 | 1189? | 維持・長 |
【ミナモトノヨシツネ】
平安末の武将。源義朝の9男。頼朝の弟。
兄・頼朝の挙兵に奥州より駆け付け、木曽義仲の討伐や平氏討伐に功績。
余人の思いも寄らぬ斬新な奇作の数々や、時には無謀とも思える戦術を駆使し、瞬く間に義仲、平氏を滅亡に追い込んだ。
正に後世の英傑たる指揮官であったが、軽率な行動と政治力の欠如が、
朝廷から距離を置きたい頼朝の足枷となり頼朝と対立。
極端な合理主義的思想から名誉を重んじる武士たちからは嫌煙され、従う兵もなく奥州へ逃げるが欺かれて殺害された。
現在において悲劇の英雄として人気が高い。
※その死については諸説あり、江戸時代では水戸光圀をはじめ盛んに研究が行われた。詳細はこちら
※その他候補となった特技:急襲・乱戦・連戦・洞察
源義仲
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
74 | 100 | 52 | 38 | 69 | 飛将・連戦・疾走 | A | B | A | S | C | C | 1154 | 1184 | 開眼(統率)、維持・長(それ以外) |
【ミナモトノヨシナカ】
平安末の武将。源義賢の次男であり、源頼朝の従兄弟にあたる。
2歳の時に大蔵合戦で父の義賢を失い、斎藤実盛らの手引で木曾谷で庇護された。
その後、兄の仲家が以仁王の乱で戦死するに及び、源氏の一角として平氏に対して挙兵。
倶利伽羅峠の戦いで10万の平氏軍を破り、以後怒涛の進撃を繰り返して京へ入洛。平氏の都落ちを誘発する。
だが、その後は朝廷勢力との対立、平氏方の反撃、食料飢饉などに悩まされて孤立衰退、
最後は関東で力をつけていた源頼朝が派遣した、範頼・義経兄弟の軍勢に粟津の戦いで敗れ、戦死した。
その生涯は史料でも項羽、呂布にしばしば比される。
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非ともTe-PersonEditorなどでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
源行綱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
72 | 84 | 65 | 54 | 73 | 騎将・連戦・遁走 | C | B | C | A | C | C | ? | ? |
【ミナモトノユキツナ】
平安末の武将。摂津国多田源氏の人間。
木曽義仲に呼応して反平氏の軍を挙げ、摂津河内を瞬く間に勢力に取り組み平家の都落ちに貢献。
義仲が朝廷と敵対すると朝廷軍につき、やがて源頼朝に味方し打倒平氏の活動を継続。
一の谷の戦いでは、源義経とともに戦い絶対的不利な状況を覆した。しかし平氏が滅亡すると
対立した義経と昵懇な関係であったと頼朝に咎められ、所領を没収の上追放された。
源頼政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 | 性格 | 口調 |
85 | 69 | 78 | 83 | 74 | 鉄壁・論客・不屈 | A | A | A | B | C | C | 1104 | 1180 | 雅仁親王・守仁親王 | 平宗盛 |
【ミナモトノヨリマサ】
平安末の武将。摂津源氏の人間。
後白河天皇および二条天皇など朝廷天皇家に傍近く仕え、保元の乱および
平治の乱でも彼らを支えた。平治の乱では同じく源氏であった
源義朝と袂を分かっている。平清盛が実権を掌握しても変わらず
朝廷に仕え続け、老齢かつ源氏の身でありながら清盛の信任は厚かったと
言われている。しかし院と平氏政権の対立が顕著になってくると院に同調し、
また平氏後継の平宗盛と対立したこともあり、以仁王と語らって挙兵、奮戦するも敗死した。
※ 乱自体は早期に終息したが、以仁王の綸旨は源頼朝、源義仲らの平氏討伐における大義名分となる。子孫は頼朝に味方した。
源頼家
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 | 性格 | 口調 |
37 | 65 | 33 | 41 | 56 | 怒髪・威圧・楽奏 | B | C | B | B | C | C | 1182 | 1204 | 北条時政・北条義時 | 猪突 |
【ミナモトノヨリイエ】
鎌倉時代の武将。鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝の嫡男。母は北条政子。
梶原景時や比企能員の後ろ盾を得つつ、将軍後継として育てられてきたが、
源頼朝の急死後に将軍職を継ぐと、十三人合議制とされ重臣たちとの対立をうむ。
頼家自身も反発したが梶原景時の失脚を食い止めることができず、1203年重病にて倒れる。
この際北条氏による比企氏襲撃があり、自身の嫡男一幡も殺害された。激怒して
北条氏討伐を実行しようとするも、従う者は少なく将軍職を廃され幽閉される。
のち、幽閉先の修禅寺にて殺害された。
源実朝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
46 | 29 | 74 | 58 | 65 | 詩想・祈願・楽奏 | C | C | C | C | C | C | 1192 | 1219 |
【ミナモトノサネトモ】
鎌倉時代の武将。鎌倉幕府第3代将軍。源頼朝の四男。母は北条政子。
兄である頼家の失脚後、北条氏の後援を得て3代将軍となる。
新古今和歌集を運ばせて和歌や京風文化を重んじ、自らも金槐和歌集を編纂して
朝廷との関係向上に腐心した。北条氏の実権や軍勢によって、和田氏や
畠山氏らを討伐したが、1219年鶴岡八幡宮拝賀の際に甥で養子でもあった公暁に暗殺された。
雅仁親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
14 | 8 | 91 | 87 | 94 | 虚実・鬼謀・連環 | C | C | C | C | C | C | 1127 | 1192 |
【マサヒトシンノウ】
平安・鎌倉時代の天皇・上皇。のちの後白河天皇。
鳥羽上皇の四男として生誕し、鳥羽法皇の崩御後に兄の崇徳上皇と皇位を争った。
その後二条天皇に譲位して自らは上皇として権力を握るが、双方の支持する公家勢力の争いが生じ、
結果的に政局中枢を外れることとなった。しかし二条天皇が若年で崩御すると再び息を吹き返し、
孫の六条天皇、ついで自身の七男であった高倉天皇を皇位に据えた。また群臣の平清盛と協調して
政権運営にあたるが、清盛の嫡男であった平重盛の死後から徐々に対立、一時期は治承三年の政変を
おこされて政局を清盛に牛耳られるが、反平氏勢力を巧みに利用して平家の没落を裏から行った。
源平や他勢力を巧みに牛耳ったことから、源頼朝は後白河天皇を「日本国第一の大天狗」と評したと言う。その後、1192年に崩御。
藤原秀衡
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
82 | 45 | 94 | 88 | 83 | 論客・富豪・繁殖 | B | C | B | A | C | C | 1122? | 1187 | 冷静 |
【フジワラノヒデヒラ】
平安・鎌倉時代の武将。奥州藤原氏当主。
陸奥・出羽の両国を領し、奥州十七万騎といわれる軍事大国を築く。
また朝廷とも昵懇な関係を築き、藤原基成の娘を迎え入れた。
鎮守府将軍として源氏・平家の中央の争いを傍観しつつ、源義経を庇護
するなど力を蓄えた。平家が滅亡すると源頼朝から圧力をかけられるが
悉く跳ね除ける。しかし、圧力が弱まることのないままその途中で死去
※ その発展ぶりは当時第二の規模を誇る平泉に代表される。のちにそこにある中尊寺金色堂の存在がマルコポーロによって東方見聞録に記された
※その他候補となった特技:徴税・築城・沈着・眼力
藤原泰衡
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
22 | 28 | 27 | 45 | 33 | 怒髪・急襲・威圧 | C | C | C | C | C | C | 1165? | 1189 |
【フジワラノヤスヒラ】
平安・鎌倉時代の武将。奥州藤原氏当主。
次男であったが、唯一の嫡出子であったために後継者として育てられる。
秀衡の死後家督を相続するが、兄弟親族と対立し、弟たちを次々に殺害。
また源頼朝の圧力に屈し、衣川で源義経を闇討ちし自害に追い込み、彼と
協調路線を志す弟の忠衡らも殺害した。しかし、頼朝の奥州征討の意は固く、
鎌倉幕府の奥州征討軍の前にわずか3日で敗北した。その後、家臣に裏切られて討たれた。
佐藤継信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
52 | 78 | 46 | 49 | 63 | 護衛・沈着・不屈 | B | C | B | A | C | C | 1150? | 1185 | 源義経 |
【サトウツグノブ】
平安末期の武将。奥州藤原氏の家臣。
奥州藤原氏に仕える佐藤基治または藤原忠継の子として生まれる。
平家に敗れた源義経が奥州藤原氏に庇護されるとその郎党となり、
源平合戦が起こると源義経に付き従って参戦した。
しかし、屋島の戦いで戦死。一説には平教経が放った矢から
義経を庇って戦死したと伝えられている。
※その忠孝ぶりは後世にまで讃えられた。一説には義経が佐藤氏の娘を娶っていて、縁戚関係だったともいわれる。
佐藤忠信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
64 | 79 | 42 | 27 | 77 | 血路・猛者・待伏 | A | C | B | B | C | C | 1153? | 1186 | 源義経 |
【サトウタダノブ】
平安末期の武将。奥州藤原氏の家臣。
奥州藤原氏に仕える佐藤基治または藤原忠継の子として生まれる。
平家に敗れた源義経が奥州藤原氏に庇護されるとその郎党となり、
源平合戦に従軍する。兄である継信の戦死後も変わらず義経に仕え続けた。
その後、源頼朝と対立し、朝敵となった義経を逃がすべく京で奮戦するも
多勢に無勢で鎌倉方の襲撃によって自害した。
足利義清
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
68 | 85 | 29 | 41 | 67 | 強行・猛者・怒髪 | A | A | B | A | C | B | ? | 1183 |
【アシカガヨシキヨ】
平安末の武将。源義仲の家臣。足利義康の長男。細川氏、仁木氏の祖。
源頼朝の庇護を受けた異母弟足利義兼と異なり、京で朝廷に仕え、
その後は源頼政らと語らい以仁王の挙兵を促した。頼政の敗死後は落ち延びて
源義仲に仕える。源義仲が上洛した際には西側から攻囲に参加し、平氏の都落ちを
誘発した。義仲から重用され、平氏討伐軍の一軍を率いて西方へと向かうが、備中水島にて
平知盛、平教経らと戦い、敗死した。平氏軍の策と用兵に苦戦した味方の救援を行った矢先の事であったという。
今井兼平
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
58 | 90 | 51 | 34 | 79 | 血路・護衛・猛者 | A | B | A | A | C | C | 1152 | 1184 | 源義仲 |
【イマイカネヒラ】
平安末の武将。源義仲の家臣。義仲四天王の1人。
中原兼遠の四男として生まれ、義仲の乳兄弟として彼を支える。
義仲が長じて挙兵すると、彼を補佐し、横田河原で城長茂を破る。
以後義仲の破竹の進軍に貢献して、倶利伽羅峠の戦いをはじめ
主要な戦に参加。平氏都落ちを誘発して義仲入京を助けた。
法住寺合戦では特筆すべき軍功をたてるが、平氏と頼朝の板挟みにあい
粟津の合戦で義仲をただ1騎で守るも、義仲が敗死すると彼に殉じた。
梶原景時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
75 | 60 | 73 | 82 | 21 | 長駆・能吏・連戦 | A | B | C | S | C | B | 1140? | 1200 |
【カジワラカゲトキ】
平安・鎌倉時代の武将。もと大庭景親の家臣、のち源頼朝の家臣。
石橋山の戦いで大庭景親につき、源頼朝を散々に打ち破るが、洞窟に籠る頼朝をあえて見逃し、
この恩から源頼朝に重用された。その後、上総広常の謀殺や平氏・木曽討伐で軍功を挙げ、
特に宇治川の戦いや一ノ谷の戦いでは抜群の働きを見せた。実務に優れ、官僚的な役割を
果たす一方、奇抜斬新な発想を持つ源義経と度々対立し、義経を讒言したことから後世に悪人扱いを受ける遠因となった。
頼朝の死後、2代将軍である源頼家に疎まれ失脚。京に向かう途中、駿河国で在郷武士に襲撃され、自害。
北条氏らと同じく、頼家排斥と実朝擁立を考えていたからと言われている。
梶原景季
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
72 | 91 | 46 | 25 | 83 | 猛者・騎将・強行 | A | C | A | S | C | C | 1162? | 1200 |
【カジワラカゲスエ】
平安・鎌倉時代の武将。梶原景時の嫡男。
父とともに源頼朝に仕え、頼朝の側近馬廻りとして活動する。
その後、頼朝と義仲の対立が表面化すると、源範頼・義経兄弟の義仲追討軍に随行。
宇治川の戦いでは先陣を争い、その後の平氏討伐でも一ノ谷の戦いで大いに奮戦するなど
軍功を立てた。屋島、壇ノ浦では源義経軍に属して平家滅亡に貢献。義経と同じく
後白河法皇から任官され頼朝の不興を買うが、すぐに許された。その後奥州藤原氏討伐にも参加している。
源頼朝の死後、鎌倉武士らと対立して追放され、駿河で在郷武士に襲撃された。奮戦ののち自害。
※ 源平合戦における花形武者として講談では人気が高い
※その他候補となった特技:連戦・急襲・規律
上総広常
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 |
74 | 69 | 61 | 75 | 78 | 名声・富豪・繁殖 | A | C | A | A | C | C | ? | 1184 | 平清盛 |
【カズサヒロツネ】
平安時代の武将。坂東平氏のうちの房総平氏出身。
東国最大の兵力を擁し、平氏ではあったが平清盛との対立もあり
源義朝、源義平らの郎党として活動。平治の乱では義朝の要請によって
出陣した義平十七騎の1人として従軍した。その後平氏の追手を振り切り
領国へと帰還するが、中央の平清盛との対立をますます深める。
源頼朝が挙兵して安房へ入ると、同族の千葉常胤とともに大軍を率いて
頼朝に恭順。源頼朝の関東基盤の中心的存在となるが、その力を恐れられ頼朝に謀殺された。
※その他候補となった特技:遁走・威圧・猛者
千葉成胤
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
75 | 94 | 68 | 56 | 65 | 騎将・猛者・沈着 | A | B | A | S | C | C | 1155 | 1218 | 剛胆 |
【チバナリタネ】
平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。千葉氏の第5代当主。
源頼朝挙兵の際に祖父や父と共に平清盛の姉婿である藤原親政と戦い、この時親政は千余騎を率いていたが
成胤は僅か七騎で出陣、窮地に陥るも遂に親政を生け捕ることに成功した。
奥州合戦にも参加し、1213年には泉親衡の乱を未然に防ぎ、同年の和田合戦でも活躍した。1218年死没。
大庭景親
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
55 | 70 | 36 | 42 | 58 | 名声・威圧・血路 | A | B | A | A | C | C | ? | 1180 | 剛胆 |
【オオバカゲチカ】
平安時代の武将。坂東平氏の末裔の1人。兄に大庭景義。
兄とともに源義朝に仕え、保元の乱では源為朝に兄とともに挑みかかるが、
為朝の強弓に敗れ、負傷した兄景義を助けて退散した。その後源義朝が没落すると
平清盛に仕え、以仁王の乱では足利忠綱らとともにこれを鎮圧する。
源頼朝が挙兵すると石橋山の戦いで10倍の軍勢をもって源頼朝を破るが、当時部下であった
梶原景時の差配で頼朝を取り逃がす。以後破竹の勢いの頼朝軍の前で徐々に孤立。
富士川の戦いで平氏軍が惨敗すると頼朝に降伏するが、許されず刑死した。
葛西清重
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
78 | 83 | 75 | 81 | 77 | 強行・操舵・駆逐 | A | B | A | A | B | A | 1161? | 1238 | 剛胆 |
【カサイキヨシゲ】
平安時代の武将。桓武平氏の末裔。奥州葛西氏の祖。
治承・寿永の乱では早くから源頼朝に味方し、富士川の戦いに従軍。
その後頼朝の関東鎮定に貢献し、源義高らの勢力鎮圧に貢献する。
平氏軍との戦いでは、主に主軍の源範頼の郎党として活躍。九州に渡って
平氏の後方を遮断、北条義時や小山朝政らとともに頼朝から激賞された。
奥州合戦でも従軍し先陣をつとめ、戦後奥州総奉行となった。以後も幕府に尽くし、初期幕臣の重鎮となる。
※ 豊島清元の三男として生まれ、葛西御厨を領したことから葛西三郎と言われる。のち豊臣秀吉の奥州仕置に至るまで約500年の間葛西氏は奥州に君臨した。
※その他候補となった特技:勇将・威圧
工藤祐経
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
30 | 23 | 76 | 44 | 48 | 言毒・楽奏・論客 | C | C | C | C | C | C | 1147? | 1193 |
【クドウスケツネ】
平安・鎌倉時代の貴族。藤原南家の出身。
はじめ叔父の伊東祐親の助言により京仕えとなるが、その間に
叔父に所領を奪われ、権力争いを起こす。のち再起を掲げて鎌倉に下り、
弟の縁で源頼朝に仕えた。京での実務能力やその経験を買われ頼朝に重用され、
主に朝廷公家衆との交渉などを勤めている。治承・寿永の乱では源範頼の山陽軍に
従軍したが、武功を立てることはなくもっぱら事務働きを勤める。1193年、かつて
権力争いを起こした伊東祐親の孫に襲撃され、暗殺された。
※ 後世その最期は「曽我兄弟の仇討」と言われ、「曽我物語」などをはじめ広く民衆に親しまる結果となった。子孫は戦国大名伊東氏の祖となる。
大江広元
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
18 | 11 | 88 | 97 | 75 | 補佐・能吏・論客 | C | C | C | C | C | C | 1148 | 1225 |
【オオエノヒロモト】
平安・鎌倉時代の貴族。もとは朝臣だったが、のちに鎌倉幕府幕臣となる。子孫に毛利元就。
藤原氏、中原氏の出とされるが定かではない。1184年に鎌倉へと下向し、
公文所別当に就任。のちに政所別当となり、源頼朝のもとで鎌倉幕府の政治全般を司る。
頼朝に守護、地頭の設置を提案したとも伝えられ、京の公卿衆との交渉役を兼任した。
のちに実権を握る北条氏にも同調し、執権である北条義時と連署するなど初期鎌倉幕府の中核を成した。
和田義盛
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 | 性格 | 口調 |
86 | 92 | 31 | 54 | 78 | 弓将・怒髪・白馬 | A | B | S | S | C | A | 1147 | 1213 | 源頼朝・和田義直 | 梶原景時・畠山重忠・北条義時 |
【ワダヨシモリ】
平安・鎌倉時代の武将。三浦氏の出身。頼朝挙兵に早くから従っていたが、
当時平氏方であった畠山重忠に敗れ北条時政ら頼朝方と合流。
その後頼朝再挙に大きな貢献を残し、関東武者の協力を取り付けることに成功した。
平氏や義仲の討伐では主に主軍であった源範頼の郎党となり、範頼の相談役として彼を補佐したという。
壇ノ浦の合戦では自ら船に乗り込み平氏軍をなぎ倒すなど大功を立てた。奥州合戦では先陣を務め藤原国衡を
追撃したが、畠山重忠と対立。頼朝死後も幕府重鎮として、梶原比企畠山討伐にも従軍して功を立てたが
北条義時の挑発にのって和田合戦を起こし、敗死した。愛息であった義直の死を知り落胆したところを討たれたという。
※その後、子孫は義盛の嫡孫である朝盛の子である家盛が佐久間家村の養子として存続。後世尾張佐久間氏に続き、佐久間信盛や佐久間盛政らを輩出した。
畠山重忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
91 | 98 | 67 | 85 | 89 | 勇将・威風・沈着 | A | B | S | S | C | C | 1164 | 1205 | 剛胆 |
【ハタケヤマシゲタダ】
平安・鎌倉時代の武将。坂東平氏の出身。
源義朝に仕えていたが、彼の敗死後は平家に仕えた。源頼朝が
挙兵するとはじめは敵対したが、のちに臣従する。その後、
源義仲や平宗盛らを討伐するべく源範頼、源義経の郎党として従軍し
宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いなどで特筆すべき軍功を残した。
奥州藤原氏との戦いでも先陣をつとめその滅亡に貢献。頼朝死後の鎌倉幕府でも
重鎮として支えていたが、北条時政と牧の方らに讒訴され、130騎で数万騎相手に挑み、奮戦後自害した。
怪力無双の豪傑でありながら清廉潔白と讃えられ、「坂東武士の鑑」と言われた。
※その死は北条家の内部分裂の遠因ともいわれる。史料講談問わず、美談の多い人物。
※その他候補となった特技:急襲・猛者・強行・騎神
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非ともTe-PersonEditorなどでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
熊谷直実
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
68 | 91 | 26 | 23 | 58 | 猛者・遁走・強行 | A | B | S | S | C | B | 1141 | 1207 |
【クマガイナオザネ】
平安・鎌倉時代の武将。はじめ源義朝・義平親子に仕えた。
平家が隆盛すると平家に仕えるが、石橋山の戦いを機に源頼朝に仕え、
以後源氏軍の重鎮として活躍。佐竹氏との戦いで大功を立て、
源義仲、平家討伐にも従軍して源範頼、源義経兄弟を支えた。
宇治川の戦い、一の谷の戦いではそれぞれ先鋒を務めて奮戦し大功をあげる。
だが、若年の平敦盛を討ち取ったことや、叔父との所領争いに悲観して晩年出家した。
北条時政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
70 | 59 | 86 | 90 | 77 | 機略・威圧・詭計 | B | C | B | B | C | C | 1138 | 1215 |
【ホウジョウトキマサ】
平安・鎌倉時代の武将。鎌倉幕府初代執権。
もとは伊豆の在地豪族として配流された源頼朝の監視役であったが、
娘の政子の影響で頼朝の後援者となり、謀略面で彼を支える。
挙兵後の山木館襲撃にも加わり、そのまま頼朝に従軍。石橋山合戦で
敗れた後は甲斐武田家と交流を結び、頼朝に同調させた。その後頼朝の命で
京都守護を任され、朝廷交渉や政務をおこなった。頼朝死後は政敵を
悉く失墜させたが、牧氏事件にて実子の北条義時らと対立。敗れて失脚した。
※後年、北条時政は豪族の娘を母にもつ義時ではなく、貴族の娘を母に持つ政範を嫡子に考えていたといわれ、これが北条氏内部対立の遠因になったとも。
北条政子
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
7 | 8 | 72 | 87 | 66 | 傾国・洞察・威圧 | C | C | C | C | C | C | 1157 | 1225 |
【ホウジョウマサコ】
鎌倉時代の人物。北条時政の長女。実弟に北条義時。夫は源頼朝。
伊豆へ配流されていた源頼朝と恋に落ち、監視役であった実家の反対を押し切って彼の正室となる。
その後は源頼朝の正室としての権力を手にし、源頼家、源実朝を産んで確たるものとした。
また嫉妬深く、側室、妾になろうとする人間を排除していたとも言われる。
頼朝との間に4人の子をもうけたが、いずれの子にも先立たれ、特に源実朝の死去は源氏嫡流の断絶を招いた。
その後は実家である執権北条氏の権力固めを本格化させ、尼将軍として4代将軍を傀儡にし、実権を握った。
「右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い」の文言でも有名。
北条義時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
69 | 65 | 97 | 94 | 89 | 百出・虚実・強運 | B | B | B | C | C | C | 1163 | 1224 |
【ホウジョウヨシトキ】
鎌倉幕府の二代執権。北条時政の次男。嫡男の戦死後に後継者に指名され、
父とともに源頼朝を支える。源頼朝の死後は権謀術数を発揮し、父親である時政をも
廃して北条家の権力拡大に多大な功績をのこした。3代将軍源実朝が暗殺されると
幕政をほぼ一手に牛耳り、これを異とする後鳥羽上皇ら朝廷軍と交戦。
武家政権を日本の頂点に確立し、武家政権の祖とも言われる。
※その他候補となった特技:明鏡・威圧・連環
北条時房
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
77 | 64 | 82 | 86 | 90 | 能吏・深謀・論客 | B | B | A | C | C | B | 1175 | 1240 |
【ホウジョウトキフサ】
鎌倉時代の武将。北条時政の三男。兄に北条義時、姉に北条政子、甥に北条泰時。
2代将軍であった源頼家に近侍し、頼家追放後も鎌倉幕府で重きをなした。
畠山重忠、和田義盛の乱では兄の義時から離れて一軍を率い、奮戦して武功を立て、乱鎮圧に貢献。
その後は後鳥羽上皇と関係を持ち、朝廷と幕府の交渉も行うが、承久の変では幕府方の主軍として甥の泰時を補佐。
幕府方大勝利に貢献している。戦後六波羅探題南方、鎌倉幕府連署の初代にも就任。北条氏大仏流の祖となった。
北条泰時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
75 | 52 | 80 | 93 | 84 | 能吏・仁政・論客 | B | B | B | C | C | C | 1183 | 1242 |
【ホウジョウヤストキ】
鎌倉幕府の三代執権。裏切りイメージの強い北条氏にあって中国伝説上の名君・尭舜と比較され、
人々から「まことの賢人」と評された名君。御成敗式目を制定し、仁政を敷いて源頼朝が築いた鎌倉幕府を
更に発展させた。承久の乱では幕府軍の司令官として17万の大軍を率い、朝廷軍を打ち破る。
この勝利は朝廷と幕府の優位性を決定づかせ、武士の台頭を改めて諸国に知らしめた。
北条実時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
32 | 29 | 95 | 84 | 72 | 詩想・仁政・指導 | C | C | C | C | C | C | 1224 | 1276 |
【ホウジョウサネトキ】
鎌倉時代中期の武将。父は北条実泰、3代執権である北条泰時の甥。
父が27歳で出家したため、若干10歳で元服し家督を継承する。
聡明さを見込まれ11歳にして小侍所別当となり、北条泰時から孫である北条経時の補佐を託された。
以後、4代執権となった北条経時から、8代執権の北条時宗に至るまで幕政を補佐し北条氏政権の中軸を成した。
晩年は蔵書を集めて金沢文庫を創設。生涯学問と政務に貢献し続けた。
北条時輔
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
32 | 74 | 61 | 67 | 58 | 騎将・射手・怒髪 | C | C | A | A | C | C | 1248 | 1272? |
【ホウジョウトキスケ】
鎌倉時代中期の武将。北条時頼の長男。異母弟に北条時宗、北条宗政。
騎射・蹴鞠に秀で、武将としての才覚は申し分なかったが、母が側室であり
正室の子で器量申し分のない北条時宗に比べ父から冷遇されていた。1256年に元服し三郎時利と名乗る。
将軍である宗尊親王に近侍し、翌年に小山氏の娘を娶った。この間流鏑馬、笠懸の騎射を務めている。
1264年、北条時宗の連署就任に同じく、六波羅探題南方に任命され、京に出向。しかし1272年に北条教時らが
謀叛の疑いで誅されると、数日後に執権職に就任していた北条時宗に軍を差し向けられた。時宗の命を受けた
北条義宗の襲撃を受け、誅殺されたと言われているが、吉野へ逃れたとする生存説もある。以降、史料に名は出ない。
北条時宗
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
76 | 45 | 81 | 89 | 85 | 機略・威圧・祈願 | C | C | C | C | C | C | 1251 | 1284 |
【ホウジョウトキムネ】
鎌倉時代中期の武将。北条時頼の次男にして嫡男。のちの鎌倉幕府第8代執権。
若干7歳で元服し、以後別当、連署といった要職を歴任。北条政村が執権職を辞任すると、その後を継いだ。
安達泰盛、北条実時ら重臣衆や、御内人の平頼綱、そして前執権の北条政村の補佐を受けて幕政の中心となる。
二月騒動を始めとする得宗専制の体制強化に励み、元との対外交渉も強硬路線を貫いた。
弘安の役では事前の対処から実際の軍事行動に至るまで一貫して指示を出し、元軍撃退に多大な貢献を残す。
だが、元寇による国情疲弊を回復できぬまま、若干33歳にして病死した。
少弐景資
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
77 | 82 | 65 | 62 | 71 | 射手・築城・待伏 | A | C | A | C | C | C | 1246 | 1286 |
【ショウニカゲスケ】
鎌倉時代中期の武将。藤原秀郷を祖とする。
元冠襲来の文永の役において九州連合軍の総大将としてモンゴル軍4万の兵と対する。
モンゴルの集団戦法に翻弄され大敗するも、撤退の最中モンゴル軍の副司令官を射落とす大功をあげた。
来る弘安の役に際しては北九州の防備計画を練り上げ、前回の失敗を生かした鉄壁の防御陣地を完成させる。
17万のモンゴル軍が襲来すると前線指揮官として堅実な守備に徹し、モンゴル軍を決して上陸させなかった。
長く海上を漂ったモンゴル軍は季節通りの台風に引き裂かれ、一夜にして海の藻屑と消えたという。
後に兄との内紛で敗死した。
平頼綱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
52 | 14 | 85 | 68 | 6 | 威圧・徴税・徴収 | C | C | B | C | C | C | 1241 | 1293 | 北条時宗 | 安達泰盛orなし |
【タイラノヨリツナ】
鎌倉幕府中期の武将。内管領。北条時宗、貞時の二代に仕える。
御内人でありながら有力御家人をも凌ぐ力を持ち、特に安達泰盛と度々対立。
執権であった北条時宗が早逝すると後継の貞時が幼少であることにつけこみ、霜月騒動で
安達泰盛を滅亡に追い込んだ。最盛期は執権である北条家を凌ぐほどの権力を手にし
寵愛する次男の飯沼助宗を昇進させ続けたが、この動きを不安視した執権の北条貞時に
軍を差し向けられ、混乱の中で自害した。
北条貞時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
27 | 24 | 45 | 69 | 53 | 規律・楽奏・眼力 | C | C | C | C | C | C | 1272 | 1311 | 早熟・短 |
【ホウジョウサダトキ】
鎌倉幕府第9代執権。北条得宗家出身。北条時宗の嫡男。息に北条高時、北条泰家など
父が早逝したため、わずか13歳で家督を継ぐ。しかし後ろ盾となるべき
有力一門が既に死没しており、得宗家の権力形骸化によって多くの政争が起こった。
霜月騒動や平禅門の乱の後は得宗家の権力強化に乗り出し、鎮西探題の設置や永仁の徳政令など
を発布。出家して執権職を退いてからも大きな権力を持ち、事実上の総領として君臨。
しかし晩年は、自身と懇意であった北条師時の早逝、自身と対立していた北条宗宣の執権就任、
息子2人の夭折などで心労をきたし、側近の長崎円喜に政治を任せて酒色乱行の日々を過ごした。
北条高時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
21 | 2 | 51 | 36 | 69 | 詩想・楽奏・論客 | C | C | C | C | C | C | 1304 | 1333 |
【ホウジョウタカトキ】
鎌倉幕府第14代執権。北条得宗家出身。北条貞時の三男。
兄2人の夭折や父、貞時の早逝もあり14歳で14代執権に就任するが、
実権は後見人となった長崎高綱らが握っていた。生来病弱であり、24歳で執権職を辞任し出家。
しかし北条泰時に連なる得宗家の出であり、執権辞任後も北条家を纏め上げる地位に存在した。
辞任後は嘉暦の騒動などもあって幕政を混乱させ、各地で反鎌倉幕府の軍事行動を呼び込んだ。
高時は軍を派遣してこの鎮圧にあたるが、最終的に後醍醐天皇の挙兵、足利尊氏の離反、新田義貞の鎌倉襲撃などもあり
多くの北条氏一門が戦死。菩提寺である東勝寺に退き、そこで自刃した。
北条守時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
61 | 83 | 47 | 22 | 75 | 規律・不屈・怒髪 | A | C | B | A | C | C | 1295 | 1333 |
【ホウジョウモリトキ】
鎌倉幕府第16代執権。鎌倉幕府最後の執権である。赤橋家の出身。
父方曽祖父に6代執権北条長時、母方曽祖父に5代執権北条時頼がいる。妹婿に足利尊氏。
謹厳実直な人物と言われ、嘉暦の騒動で混乱した執権後継に擁立されて16代執権となった。
しかし実権は得宗である北条高時や御内人の長崎高資に握られていたという。1333年の
元弘動乱では妹婿の足利高氏の離反や、甥である足利義詮に妹赤橋氏の脱出によって幕府内で孤立。
執権でありながら幕府軍先鋒として出陣し、反乱軍に挑みかかるが衆寡敵せず自害した。
太平記によると死を賭した守時の突撃は65回に及んだという。
【南北朝時代(14世紀)】
【室町時代(15世紀)】
足利義教
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
45 | 17 | 90 | 86 | 51 | 威圧・詭計・強奪 | C | C | C | C | C | C | 1394 | 1441 | 剛胆 | 威厳 | 維持・短 |
【アシカガヨシノリ】
室町幕府6代将軍。足利義満の三男。
将軍親政と幕府権威の向上を志し、将軍を中心とする幕府制度を推し進めた。
また延暦寺・園城寺や鎌倉公方・関東管領のような勢力間の内部対立に干渉を進め
幕府裁定に従わない勢力を滅亡、弾圧させ幕府の権力を強化。守護大名の
内部統制にも干渉し、幕府権力のもとで一元化した体制を構築すべく奔走した。
しかし結城合戦の鎮定後に招かれた守護大名、赤松氏邸で行われた「御成」中に
赤松氏の武者によって殺害された。
山名宗全
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
80 | 86 | 65 | 77 | 72 | 猛者・急襲・連戦 | A | B | A | S | C | C | 1404 | 1473 | 剛胆 | 剛胆 | 維持・長 |
【ヤマナソウゼン】
室町時代の人物。室町幕府四職「山名家」の出身。出家前の諱は「持豊」
三男であったがその資質を評価され山名家の家督を継ぎ、室町幕府によって抑圧されていた
山名家を再興。将軍義教が暗殺されると、率先して主犯の赤松満祐討伐を行い、完遂させて
10ヶ国の守護を兼任した。足利幕府で権勢を振るうが、赤松氏を滅ぼしたことで赤松氏の再興運動により
幕府や細川家と対立。一度は難を逃れるが、日野富子による足利義尚擁立に加担し、応仁の乱に巻き込まれた。
劣勢の状態の中、高齢でありながら自ら具足を着て指揮、敵の迎撃を行ったと言われている。しかし1473年戦いの最中に死去。
細川勝元
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
74 | 52 | 88 | 85 | 81 | 論客・妙計・連環 | A | A | S | B | C | C | 1430 | 1473 | 冷静 | 冷静 | 維持・長 |
【ホソカワカツモト】
室町時代の人物。室町幕府管領「細川家」の出身。
13歳で家督継承後、9ヶ国の守護を兼任し、23年にわたって管領を歴任した。
畠山氏と対立した関係で、初め山名家と手を結び、山名宗全の養女を正室に迎えた。
しかし畠山氏が分裂を起こすと、山名家の勢力を危険視し、山名家に滅ぼされた赤松氏を再興する。
その他斯波家の家督争いも宗全と対立する方針を選び、山名宗全が勝元と対立した大内家を支援したことで
関係が修復不可能なものとなった。足利将軍家の家督争いでは将軍義政の弟である義視を支持。
幕府を掌中に収め周辺大名と連携して山名宗全との全面戦争を行った。戦況は優勢であったが、宗全の
粘りのため決定打を欠き、戦争長期化に伴い和睦を模索するも決裂。宗全の死後わずか数ヶ月で死去した。
今川義忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 口調 | 素質 |
65 | 73 | 61 | 38 | 72 | 急襲・掃討・長駆 | A | C | B | A | C | C | 1436 | 1476 | 伊勢盛時(北条早雲)・足利政知 | 剛胆 | 剛胆 | 維持・長 |
【イマガワヨシタダ】
室町時代の人物。足利家一門にして駿河守護今川家8代当主。
嘉吉の乱や享徳の乱で父に代わって出陣し、早くから存在感を示す。
享徳の乱では鎌倉攻略において抜群の軍功を立て、足利義政から感状と「義」の偏諱を受けた。
室町幕府では将軍庶兄の足利政知や、幕府有力者である伊勢盛定と親しくし、後に盛定の娘を正室に迎えた。
応仁の乱では前者2人との関係や、対立する斯波義廉の動きもあって東軍に属するが、混沌とする戦況もあり
東軍所属の斯波氏をも敵に回した。斯波氏の被官を数多攻め滅ぼしたが、1476年遠江塩買坂で戦死。
※ 今川氏と斯波氏の争いは、のちに義忠の孫である今川義元と、斯波氏被官である織田信長の代まで続いた。なお義忠戦死後の今川家復興は、彼の義兄弟である伊勢盛時に託される。
松平信光
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
76 | 71 | 87 | 78 | 79 | 妙計・攻城・指導 | S | B | A | C | C | C | 1404? | 1488? | 冷静 | 剛胆 | 維持・長 |
【マツダイラノブミツ】
室町時代の武将。三河松平家の第3代当主。室町幕府政所執事伊勢氏の被官。
武勇と智略に富み、叔父である泰親に従って三河岩津城を攻略した。
1465年には三河守護であった細川成之の要請を受け、額田郡一揆を鎮圧する。その功で三河深溝を与えられた。
応仁の乱では東軍に属し一色氏を破る。また畠山氏の安祥城を奇計を使い簡単に陥落させた。
48人の子供がいたと言われ、十八松平の基礎を築く。また五男を後の松平氏の本拠地となる岡崎城主に嫁がせた。
足利義政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
32 | 9 | 57 | 74 | 59 | 楽奏・詩想・能吏 | C | C | C | C | C | C | 1436 | 1490 | 小心 | 丁寧 | 早熟・短 |
【アシカガヨシマサ】
室町幕府8代将軍。足利義教の次男。
早逝した兄の義勝の後を受けて8代将軍に就任。将軍親政をこころざし、守護大名や
関東公方の内紛に度々介入、仲裁を行った。しかし側近勢力の分裂化や守護大名の
勢力拡大を抑えることができず、文正の政変で守護大名に反発され、将軍親政は頓挫した。
以後は政治主導の意欲を失い、守護大名同士の闘争を傍観。やがて将軍後継者同士の対立をも誘発させ
応仁の乱を引き起こした。9代将軍足利義煕が亡くなると後を追うようにして病を発し、後事を
10代将軍で甥の足利義材に託した。
日野富子
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
1 | 3 | 71 | 6 | 5 | 強奪・詭計・機略 | C | C | C | C | C | C | 1440 | 1496 | 剛胆 | 尊大 | 早熟・短 |
【ヒノトミコ】
室町時代の人物。日野重政の娘。
8代将軍足利義政に嫁ぎ、足利義政の乳母や側室を追放し地位を確立。
義政との間に実子が誕生すると、やがて後継者と定められていた義視との対立に関与。
両軍の参戦大名に金を貸し付け、莫大な資金を蓄えていたと伝えられている。
応仁の乱後は実子の足利義尚が9代将軍に就任するが、夫の足利義政とは対立し後に別居。
兄の勝光とともに日野家の権勢を拡大させ、兄や義尚の死後も御台として幕政に重きをなした。
その後は10代将軍に足利義材を推挙するが、彼とも後に対立。明応の政変を起こし義材を追放した。その3年後に病没。
足利家はその後、追放された10代義材の勢力と、後釜の11代義澄の勢力にわかれ、室町幕府滅亡時まで尾を引いた。
※その他候補となった特技:徴税・徴収・富豪
畠山義就
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
86 | 91 | 77 | 73 | 38 | 駆逐・急襲・飛将 | S | A | A | S | C | C | 1437 | 1491 | 剛胆 | 剛胆 | 維持・長 |
【ハタケヤマヨシナリ】
室町時代の人物。室町幕府管領「畠山家」の出身。
畠山持国の子と言われていたが、母が桂女の出であったため不実子説が
囁かれた。しかし、父持国に重用され、畠山家の後継者とされ足利義政の
承認を受ける。だが、本来の家督継承者であった持豊および政長と対立し
戦争をたびたび起こす。細川勝元や山名宗全の介入を招き、一時期は朝敵にされるなど
苦境にあったが、不屈の闘志でこれを乗り越えて権勢を誇った。晩年は
将軍家の差配に従わず河内大和で軍事力による実効支配をつづけた。
※その内乱と抗争期間の長さは、応仁の乱ひいては戦国時代の到来における元凶とされることもある。
※その他候補となった特技:築城、不屈、遁走