ソ連軍自走砲シリーズ

Last-modified: 2024-04-24 (水) 10:17:13

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SU-76

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SU-76はドイツ軍の三号突撃砲を参考に開発された歩兵支援軽自走砲である。SU-122は同類の開発指令の「中自走砲」であり、SU-152は「重自走砲」であるため、見方によってはこれらは姉妹作と呼べるかもしれない。

76.2mm砲を搭載する軽自走砲の開発は1942年3月より開始され、T-60軽戦車ベース、生産が開始されたばかりのT-70軽戦車ベース、そして新造車台ベースの三種類が開発されたが、最終的に車内スペースとコストの問題からT-70軽戦車ベースの車両が採用された。これがSU-76である。
SU-76対戦車自走砲は車体後部に戦闘室を設ける関係で、T-70軽戦車では車体後部にあった機関室は車体中央部に移され、車体が延長されたのに呼応して転輪と上部支持輪は片側1個ずつ増やされ、車体の幅も増加しており、したがって足周りと車体前部の形状を除けば、T-70軽戦車の面影はほとんど無かった。
SU-76対戦車自走砲の初期生産型は、2基のエンジンを左右それぞれの起動輪に繋げるため並列配置するというT-70軽戦車の初期生産型と同じ型式を採っていたが、推進力の調節がうまくいかずトラブル続きで充分な戦力にはならなかった。ゲーム内に登場するSU-76は主生産型であり改良型のSU-76Mではなく、このタイプである。分かり易い特徴としては、SU-76Mでは右側一枚となっている車体正面のアクセスパネルが、二つあることが画像でも確認できる。
 なおSU-76の評判は芳しくなく、そのせいかは不明だが、設計技師のセミョーン・ギンズブルグ氏は前線送りにされクルスク戦で戦死している。


SU-122

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SU-122はドイツ軍のⅢ号突撃砲の影響を受け作られた。1942年10月に開発が命じられ、年末には量産に入る。僅か2ヶ月!「こんなの作れ」とか「1ヶ月でなんとかしろ」とか。出来なければシベリア送り。だったのかな?この戦車は要するに122mm野砲を装甲板で囲って載せたわけだ。分離薬筒式で係員がどうしても多くなる。同時に別の工場で作られたものの中には鹵獲Ⅲ号戦車にそのまま122mm砲を乗っけたものもある。何分初めてなので改良点は出てくる。初陣では砲を上下する装置が壊れた。本来は歩兵支援用。1つのハッチから緊急脱出は難しそうだ...。例によって操縦手からは右が全く見えない。発射速度が遅いので実は対戦車戦闘は苦手。クルスク戦ではズラーっと並べて待ちぶせ攻撃してちゃんと活躍してる。その後作った対戦車自走砲はいきなり改良されている。(SU-85 ハッチも3つになった。)戦後はブルドーザーとかにして使い倒される。現存するのはモスクワ郊外に1台だけだそうで。

 

ドイツ軍の新鋭戦車をいきなり二流品としたT-34を作り出したソ連軍はしかし、ドイツが創造し陣地攻略や対戦車戦闘で大戦果を上げた「突撃砲」を生む発想はなかった。Ⅲ号突撃砲の成功を見たソ連軍は類似車両の開発を始め、密閉式の戦闘室を設けたT-34の車体に122mm野砲を搭載したSU-122を完成した。T-34ゆずりの高い機動力と防御力、大口径野砲の威力は陣地攻撃に最適だったが、砲弾と発射薬が分離した野砲の連射速度は低く、より対戦車戦闘に向いたSU-85が開発されることになる。ちなみにクルスク戦での進軍はフェルディナント(後に改修されてエレファントになる)の強さに衝撃を受け、今度はドイツ軍突撃砲の全てをフェルディナントと呼ぶようになったという。

ちなみに SU-122の「SU」とは、[Samokhodnaya Ustanopvka :自走砲架]から来ている。

同志向けの解説

知っての通り、兵器というのは必要がない限り開発がされることは無い。
現場もしくは指揮官から「これこれこういう場面で使うこういう兵器が欲しい」とアイデアが出て、それを兵器局のような開発の元締組織がまとめて仕様要求として具体案にし、会社なり工廠なりが要求を元に開発を進める。
たまに会社が独自に開発を進める場合もあるが、基本的には兵器の開発というのはこういう流れを踏むわけだ。
ではこの考え方をソ連軍に適用してみよう。するとソ連軍に突撃砲が無かった理由が良く解る。
開発力や発想力が劣っていたわけではない……そう、ソ連軍には突撃砲が必要なかったのだ。

 

実は独ソ戦が始まる前の段階では、ソ連の歩兵師団は戦車大隊と砲兵戦車大隊を編成に組み込んでいたので、戦車の出来損ないである突撃砲など開発する必要はなかったのである。
戦間期のフランス、日本、イギリスに突撃砲や類似の装甲戦闘車輌がないのも同じ理由だ。歩兵戦車・砲戦車・砲兵戦車があるなら、突撃砲なんて必要ないのである。(各国とも試作や研究をしていることは言うまでもない)

 

さて、ソ連軍においては、さすがに冬戦争のころには76mm砲装備のT-26やBT-7の砲兵戦車型だと厳しくなってきてはいた。
とはいえ新しく生産の決まったT-34は1kmで50mmクラスの対戦車砲を制圧できるし、また同時に生産の決まったKV-1には同じく1kmで自軍の76mm師団野砲を制圧できる能力が与えられた。
そのため、39年時点でもやはり突撃砲or自走砲の開発は見送られた。
ところが独ソ戦が始まるとソ連軍はドイツ軍の戦車集中運用によって大打撃を蒙り、ドイツ戦車へのカウンターのために大慌てで戦車をかき集めて運用することになった。(カツコフの第1親衛戦車旅団なんかは良い例だ)

 

驚いたのはソビエト歩兵師団である。
「戦車や砲兵戦車がいるから突撃砲なんていらないぜ!」と思っていたら、独ソ戦勃発後の改編令で全ての戦車部隊を取り上げられてしまったのだ。
……それでも41年の後半と42年の前半はそれで何とかなった。
戦車大隊を取り上げられた代わりに対戦車砲・カノン砲・野砲が大量にもらえたからだ。
攻め寄せるドイツ軍を食い止め追い返す戦いなので、機動力の無い大砲でも十分だったのである。

 

だが42年の末になってくると事情が変わる。ソビエトとドイツの攻守が、徐々に逆転しだしたからだ。
こうなると攻撃のために大砲を運ぶ必要が出て来てしまう。
トラックはアメリカからガンガン送られてくるものの、ドイツ軍の防御を破るために必要な砲や砲弾を運ぶのにはまだ足りなかった。

 

そんな状況でドイツの3突を見たソ連軍人の誰もが思ったわけだ。
「こういうの(自分で砲と砲弾ごと移動できて、ついでにある程度の装甲もある戦闘車輌)が欲しい……!!」
と。
「こんなの作れ」とか「1ヶ月でなんとかしろ」だけだと思いつきに感じられるかもしれないが、実はこの言葉にはソビエト軍(特に砲兵)が置かれた現状を冷静に見極めた上での切実な願いがこもっていたのである。

 

かくしてソビエト製突撃砲の開発が……始まるとほぼ同時に完了した。
以前から3突の研究を含めて案はあったのである。
メインの設計者はレニングラードキーロフ工場のチーフデザイナーであるゴルツキー。
彼はこれまでにKV-9の砲塔を担当しており、SU-122、SU-85、SU-100などを手がける。
戦車というよりは砲もしくは砲架の分野が専門だったようだ。

 

搭載した砲は122mmの”榴弾砲”。
この砲の砲弾は至近弾での破片の貫通能力が20~30mmあったため、T-34譲りの装甲と相まって、ドイツの榴弾砲や対戦車砲との撃ちあいになった場合は一方的に打ち勝つことが出来た。
造りは3突のコピー……ではなく、参考にした上でT-34の車体にKV-9の砲塔を埋め込んだもの。砲の俯仰角と後座長を稼ぐために戦闘室が大型化している。
狙いは前述の通り「そろそろ始まるソビエト軍の攻勢において直射火力支援にも機動力が必要になるのでそれを満たすため」である。
「1ヶ月でなんとかしろ」というのも当たり前で、ソビエト軍のターンに間違いなく投入できるようにという期限設定なのだ。

 

こうして主に砲兵の期待を背負いながら生まれたSU-122だが、残念ながら開始から10ヶ月ほどで生産は中止。
理由は重戦車への攻撃力が不足していたからであった。
というのも、ソ連には全砲兵の対戦車直接照準ドクトリンというのがあって、突破してきそうな戦車には全ての砲が直射行動にでるのだが、SU-122はそれの威力が不足していたのである。
対象には自軍のKVを想定しており、それに対する威力は十分だったのだが……出てきたのはKVを超える虎だったので、122mm榴弾砲が通用しなかった。
実験では虎の正面装甲板に500mから15発叩き込んだものの全て損害軽微であったという。
そのためSU-122はSU-85へと対戦車能力を強化されることになり、生産中止と相成ったのである。

 

早々にお役御免になったとはいえ、ソビエトの自走砲の基礎を形作ったという点でソビエト装甲戦闘車輌史に欠かすことの出来ない重要な自走砲といえよう。

  • 言うほど同志向けじゃないですが、ソ連寄りの開設を追加 -- 2016-01-20 (水) 00:23:58
  • 相変わらず凄い知識量 -- 2016-01-20 (水) 09:22:05
  • 親切のつもりで直してくれたのかもしれないけど、砲兵戦車の話なのでT-26やBT-7は76mm砲装備であってるのだ -- 2016-01-20 (水) 11:14:50
  • T-26-4とBT-7Aの事か -- 2016-01-20 (水) 14:02:06

SU-85

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1943年、ソ連軍内に衝撃が走った。ドイツ軍が投入した新型、ティーガー重戦車の装甲はT-34やKV-1の
76,2ミリ砲では貫通は困難である、との調査結果が出たのだ。しかも1943年以降、ドイツ軍の精強な新型重戦車部隊による大反攻が起こることは想像に難くなかった。
そこでD-5S対戦車砲を搭載する対戦車車両の製造が命令される。このD-5Sは元々85ミリ高射砲で、ドイツ軍の88ミリ砲と通ずるものがある。(いや、無いかもしれないけど)
このD-5SをSU-122の砲架を改造し搭載した。その他、直接照準器を装備、48発の85ミリ砲弾を格納できるように弾薬庫を拡大したりと細かい改良が施され、なにより脱出ハッチが(やっと)増えてとっさの脱出が容易になった。
こうして有効な対戦車車両として完成したSU-85は初陣のドニエプル河戦においてドイツ軍のパンター戦車を撃破し、赤軍、そしてドイツ軍にその名を知らしめた。その後、T-34/85が戦線に行き渡るまで有効な対戦車兵器、歩兵支援兵器として使用された。


SU-100

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 SU-100はT-34をベースとしたSU-85対戦車自走砲の武装強化型である。SU-85に似た固定砲塔に艦砲を改造した56口径100mm対戦車砲D-10Sを搭載している。
 車体形状は前型のSU-85とほぼ同じであるが、見た目の大きな違いとして、車体右側に車長用キューポラが追加されている。これにより車外の視認性が向上した。前面装甲はSU-85の45mmから75mmへと強化された。
 主砲の56口径100mm砲D-10Sは当時ソ連軍が搭載してた火砲の中では最も高い貫通力を有してた。

 

装甲貫通力は着弾角60°で
BR-412(AP-HE) 初速895/ms
距離/貫通力
500m/125mm
1000m/110mm
1500m/95mm
2000m/80mm

 

であり、距離1000mでティーガーやパンターを撃破することが可能であった。搭載弾数は34発である。
後にこの主砲の改良型がT-54/55に搭載されることとなる。
初陣は大戦末期の1945年1月で、3月から本格投入された。
戦後もチェコスロバキアで生産され、エジプトや中東に輸出された。合計1,675両が生産された。
中東の周辺で今も使用されている姿が目撃されており、T-34-85と並んで息の長い車両である。(対戦車火器持たない相手なら移動砲台として十分使えるしなあ...)


SU-152

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SU-152は、KV重戦車の車体に固定戦闘室を設け、152mm砲を搭載した自走砲である。

 

1939年の冬に勃発した冬戦争においてソ連はフィンランドの要塞線(マンネルハイム線)の突破に苦労させられた。そこで、敵の対戦車砲弾を弾き返す重装甲と、トーチカ等の防御施設を一撃で破壊できる重砲を搭載した自走砲の開発が命じられた。

 

それまでもKVの車体に152mm榴弾砲を搭載した砲塔を備えたKV-2やT-100試作重戦車の車体に固定戦闘室を設け130mm砲を搭載したSU-100Yなどが存在したが前者は活躍こそすれど大重量の砲塔ゆえに扱いづらく、後者はT-100自体量産されなかったために量産されることはなかった。そのため、KV車体に固定戦闘室を設けた重自走砲、という案はそれほど違和感のあるものではない。

 

一方KV車体の自走砲はそれまでにも固定戦闘室に76mm砲と45mm砲を備えたKV-7が存在しており、量産には移されなかったものの固定戦闘室のノウハウはある程度得ることができ、その後152mm砲を搭載したKV-14が設計された。最終的にKV-14の設計をもとにSU-152が完成した。1943年2月のことであった。

 

その時期、ソビエト機甲部隊は大きな脅威に直面していた。ティーガーの出現である。のちに対ティーガー用として85mm砲や122mm砲が出現するが、当時現実的にティーガーを正面から撃破できるのは152mm砲を有する本車だけであった。そのため本来は歩兵支援を目的とするSU-152が対戦車戦闘に駆り出されることも少なくなかった。
クルスクの戦いにおいても資料によって大小あれどSU-152は対戦車戦闘における戦果を残している。

 

しかしSU-152は本来歩兵支援に従事する車両であるため、対戦車戦闘に向いているとは言い難いものであった。搭載するML-20Sの弾頭は榴弾でも40kgを超え、徹甲榴弾は50kg近い重量であった。この重量がその破壊力の源であるとはいえ、これを狭い戦闘室内部で装填するのは大変なことであり、装填速度は非常に遅いものであった。当然搭載弾数も限られていた。

 

このように大火力に特化した自走砲ではあるが、その弾頭重量ゆえにティーガーⅡを相手にしてさえ装甲を叩き割ったなどという伝説を残した名自走砲である。


ISU-122

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ISU-122はISU-152に搭載予定の152mmML-20の生産が遅れていたため、ISU-152の車体に122mmA-19または122mmD-25Tを搭載した車両である。前者の122mmA-19を搭載したものをISU-122、後者の122mmD-25Tを搭載し、防楯を変更したものがISU-122Sである。
122mmA-19が搭載砲として選ばれた理由は、当時152mmML-20と共用できる砲架を用いた122mmA-19の生産に余裕があり、前線に一台でも多くの車両が望まれていたからである。
主砲の威力は同砲を搭載するIS-2と同等である。122mmA-19は尾栓が断隔螺式(装填して砲尾の蓋したあとにクルッと回すやつ。KV-2とかも同じ。)のため、発射速度が1.5~2発/分と遅かった。しかし、122mmD-25Tの尾栓は鎖栓式(装填したあとに蓋が横とか下から出てくるやつ。多くの戦車砲がこのタイプ)になり、発射速度が3~4発/分に向上した。
1943年12月以降、ISU-122はISU-152と共に運用され、独立自走砲連隊に21両ずつ配備された。1944年11月からは独立重自走砲旅団に65両ずつ配備された。1944年のバグラチオン作戦より本格投入された。
戦時中はISU-152と合わせて4,052両が生産された。終戦後生産は終了したが、1947年~1952年にかけて3,130両のISU-122Sが追加生産された。
ゲーム中ではISU-122が登場する。


コメント欄

  • SU-100とISU-122の解説を追加しました。ミス修正・補足等どんどん編集してくださいませ。 -- 2017-03-23 (木) 19:51:09