ソ連軍軽戦車シリーズ

Last-modified: 2017-01-03 (火) 04:18:22

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T-26S(1939年型)

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本車はソ連戦車史にとって極めて重要な戦車の1つである。T-26開発以前の1920年代後半
にはソ連軍において初めて制式化された「T-18」を始めとした戦車が在籍していたが
その多くは内戦時代の置き土産であり一次大戦中の中古戦車が殆どであった。
また、ソ連自身も戦車の改良に乗り出してはいたものの戦車開発のノウハウに乏く
うまくいっていなかった。そこで、1930年にソ連軍機械化自動車化局のI.A.ハレプスキー
局長を団長とする兵器調査団を英国に派遣し、当時としては先進的であった英国戦車の
ライセンス生産を図った。そして、交渉の末ヴィッカーズ社製「カーデンロイド豆戦車」
と「ヴイッカーズ6t戦車」のライセンス生産権とサンプル車両数両の購入,両国間での
技師の交流が行われることが決定されこの内「ヴイッカーズ6t戦車」のソ連生産版が
1931年2月13日に「T-26軽歩兵戦車」として制式採用されることになった。
採用後も改良が続き、機銃から戦車砲への武装変更,エンジンの国産化及び改良,
戦車用無線機の追加,装甲厚の増強,傾斜装甲の採用による防御性の強化など様々な改良が
多岐にわたって施されていった。本車の初陣はスペイン内戦であり強力な45mm戦車砲は
ドイツ製Ⅰ号戦車やイタリア製CV33といった豆戦車を蹴散らし高い火力を発揮したが
防御性能の低さはこの頃から指摘されるようになり後のポーランド侵攻や冬戦争においても
慢性的な防御性能不足に悩まされることとなる。
1940年代に入ると増々旧式化が進むこととなり独ソ戦の序盤においてその多くがドイツ戦車との
交戦によって失われることとなった。
本車は終始防御性能に悩まされたがソ連にとって本格的な戦車の開発や改良のノウハウを学ぶ
のに大きく貢献しており、T-34が現れるまではソ連戦車としては最多の10000両以上が生産され
ていてソ連軍が本車を重要視していたのが伺える。
本ゲームにて登場するのは、1937年から生産された「T-26S」と呼ばれる改良型であり、
砲塔前面及び全周にわたって円錐形に避弾経始を取り入れたもので重量増加を招くこと無く
防御性能の強化を図っていた。


T-38

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T-38は1936年に開発された水陸両用戦車である。
元々存在していたT-37の改良型として作られたのだが、T-37の欠点をそのまま引き継ぐ形となってしまっている。
装甲・武装の貧弱さや陸上での機動性の悪さ(これでもT-37よりは改善してはいるのだが)など、これらの欠点に関しては水陸両用である以上解決が難しい問題なのだが、偵察用でありながら車内からの視界が悪く、偵察が困難というある種致命的な問題も抱えていた。
ノモンハン事件やポーランド進駐、冬戦争など第2次世界大戦の緒戦に参加しているのだが、上記の欠点から大した活躍もできずに多くが失われた。フィンランドに鹵獲された車両もあったのだが、フィンランドもこれは実戦に投入する気になれなかったらしく訓練用車両として扱っている。
その後もあれこれと改良しようとしたのだが、結局ロクなものがなく、水陸両用戦車の後継は全く別の設計であるT-40になった。

 

なお、ゲーム中でもちゃんと水上を船のように航行できる。


BT-5

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BT-5は1932年に完成した快速戦車(BT)シリーズのうちの1両である。
そもそも快速戦車とは何なのか、という話だが、これはアメリカのジョン・クリスティーが開発したM1928という戦車が源流である。
M1928はクリスティーサスペンションというサスペンションを備えていた。簡単に言えば車体を2重構造にしてできた空間にコイルスプリングを仕込む、というもの(このサスペンションを採用した車両のなかにはスプリングが外部に露出した戦車も存在するが)である。これはリーフスプリングよりも路外走行性能に優れていた。しかし、クリスティー式の真価は「履帯無しで走行できる」というものであった。起動輪と転輪をチェーンで結ぶことで履帯無しでの走行を可能にしたのである。
そもそも装軌車両は不整地を走破することに特化した車両であり、高速を出すことには不向きである。そのため馬力の割に大して速度を出すことができない。クリスティー式は履帯そのものを外してしまうことで路上で高速を発揮できるようにするものであった。
アメリカ本国では大して見向きもされなかったがソ連とイギリスがクリスティー式戦車を研究のために輸入した。それをもとにソ連で作られたのがBTシリーズである。
さて、BT-5は最初の量産BT戦車であるBT-2の改良型である。改良は火力の増強がメインだったが、他にも各所が改良されていた。
BT-2はB-3(5K)37mm砲を搭載していたが、BT-5はM1932(20K)45mm砲を搭載した。これはB-3(5K)の単純なスケールアップであったが、火力が大幅に増強され榴弾を用いた歩兵への火力支援もこなすことが可能になった(砲弾解説のページにもあるが、この45mm砲用榴弾の威力は以外と高い)。
装甲面では砲塔が多少分厚くなってはいたが、車体は全く変更がなかった。ただし、装甲の材質が改善されヒビ割れが入りにくくなった(BT-2は走行時の振動でヒビが入るほど粗悪だったらしい)。
初陣はスペイン内戦で、100両程度が投入された。他国の軽戦車に対しては優位に立ったが、対戦車砲にはあっさりと撃破された(おそらくこの経験がKV-1の開発へとつながった)。
他、ノモンハン事件やポーランド侵攻、冬戦争などにも投入されているがいずれもやはり装甲の薄さが目立ちその快速と火力を活かすことが難しかったようだ。
独ソ戦にも参加してはいるが初期のドイツによる電撃戦の中で多くが失われ、残りも大半はT-34に置き換えられた。生き残ったBT-5は満州方面へと回され、満州侵攻にも参加した。
このように装甲の薄さが目立って大きな活躍はできていないが、T-26と共にソ連機甲軍の黎明期を支えた名車両であることは疑いようもない。なお、T-34はBTシリーズの系譜だということを考えればBT-5はT-34のご先祖様である。

  • BT2戦車の後継車で、45mm砲の搭載や装甲の強化が施された。ポーランド、フィンランドだけでなくモノンハンでも日本軍と戦闘をおこなった。 -- 2015-01-10 (土) 21:32:20
  • BTとKVには関係性ないぞ。スペイン内戦に派遣されてた戦車部隊のトップのドミトリー・パヴロフが1937年末にソ連に帰って労農赤軍自動車装甲戦車局の局長になる。ドイツで言えばグデーリアンのやってた快速部隊総監に近い。んで、その後すぐの会議でスペイン内戦の経験からT-26の更新でKV-1の、BTの更新でT-34の仕様要求を出す。つまり最後に書かれているようにBTと関係するのはT-34であってKVではない。また、装甲薄い装甲薄いと言うが、T-26にしろBTにしろ原型が設計されたのは対戦車砲の存在しない年代だから、機関銃が防げれば十分という設計だ。装甲が薄いんじゃなくて、新兵器である25~47mmの対戦車砲のせいで陳腐化しただけ。 -- 2016-05-29 (日) 13:42:27
  • ↑編集に制限はかけていないので、違う箇所があれば編集に協力してもらえると助かる。 -- 2016-05-29 (日) 14:47:51

BT-7

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BT-5の改良型で、車体の装甲が若干(車体正面で13mm→15mmと本当に「若干」)強化され全体的に大きくなった。砲塔は初期型はBT-5と同様の円筒に張り出しが付いたものであったが、後に被弾径始を考慮したプリン型となった。
エンジンは航空機用であるM-17、後にT-34に搭載されたV-2(こちらはT-34の生産が優先されたため少数)を搭載した。このエンジンの変更は火炎瓶などで容易に炎上するガソリンエンジンよりも引火し辛い軽油を用いるディーゼルエンジンの方が防御面で優れていると判断されたためである。
BT-7の初陣はノモンハン事件であったが、やはりというか、対戦車砲や野砲に容易に撃破されている。ただし本格投入されたのは戦局がソ連側に傾いた時期であったためBT-5に比べれば損害は少なかった。
その後の経緯はBT-5と同様で装甲の薄さが足を引っ張ってしまった。

 

なお冬戦争や継続戦争においてフィンランド軍に大量に鹵獲され、T-26と共にフィンランド軍の数的主力となっており、この車両をベースとして(Ⅲ号突撃砲やSU-122などに近い性格の突撃砲的な)自走砲としてBT-42という車両が作られた。車体は同じだが砲がイギリス製の4.5インチ榴弾砲となり、砲塔も後部に大きな箱型の張り出しが追加されたものとなった。もっとも、廃品利用にすぎないためすぐにⅢ号突撃砲にその座を奪われ、約半数はソ連軍との戦いであっさり失われたのだが・・・
なお現存車両は今でもフィンランドの博物館で見ることができる。

  • BT戦車最終形態。もとい集大成。リペット止めだった装甲は溶接式になり、より高出力の航空機用エンジンが搭載され、クラッチとブレーキは新型となった。後継のBT7―2は新造された砲塔と機銃が造られた。BT戦車のデータは後の傑作戦車、T―34に受け継がれた。 -- 2015-01-10 (土) 21:49:53

 

T-60

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本車は1941年の独ソ戦開戦後にアストロフ技師の第37工場設計局において開発された偵察用軽戦車で
T-40水陸両用軽戦車をベースに浮航機能を設計段階から廃止し、航空機用の20mm機関砲「TNSh」
を搭載した火力強化車輌として開発された軽戦車である。構造は生産を容易とするためシンプル
でT-40の車体下部をベースにしつつ車体容積を絞ってコンパクトなデザインにまとめ、
圧延鋼板による溶接・リベット止め併用組み立て方式を採用しており生産性の向上に一役買っている。
また、車体容積の低下によって装甲厚をT-40の13mmから25mmに強化しつつ重量の増加を0.5t増の6tに
抑えている。また、エンジンにはT-40から引き続きトラック用ガソリンエンジンである「GAZ-202」(70hp)
が採用されており整備性の向上・生産コストの低下に成功した。そして、本車はソ連軍が苦戦を強いられる中
1941年10月に「T-60軽戦車」として制式採用されることとなった。しかし、戦局の悪化により生産を担当する
第37工場のあるモスクワにもドイツ軍が迫ってきたことから、工場の疎開のギリギリまで生産開始の準備を進めつつ、
ゴーリキー市のGAZ(ゴーリキー自動車工場)や第38工場、第264工場もT-60軽戦車の生産に参加することとなった。
そして、41年12月には生産が開始され42年9月までに6045両が生産された。だが、初陣となったモスクワ攻防戦を
初めとした一連の戦闘ではソ連機甲軍は壊滅的打撃を被ったまま回復しきれておらず、主力中戦車であった
T-34の工場疎開の時期に重なったこともあり生産効率の良いT-60は時間稼ぎのため大量に戦線へと投入されるこことなった。
戦闘ではドイツ主力戦車であるⅢ号戦車や支援戦車であるⅣ号戦車相手には歯が立たず多くの車両が
戦車兵たちとともに消えていくこととなった。そして、42年にはGAZで製造される
T-60を改良(マフラーを追加し前面装甲厚を10-15mm増厚)した「T-60A」が開発されたものの焼け石に水であったことは言うまでもない。
しかし、戦局が転換期を迎えつつあった42年にソ連機甲軍を支え、その後も威力偵察などの用途に45年まで
運用されていたことは事実であり、本来の偵察任務ができない中でもソ連を支えるために戦った
戦車であるとも言えるだろう。


T-70

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T-70はT-60の改良型として開発された軽戦車である。
そもそもT-60は上記の項目の通り、水陸両用戦車からの発展型であり火力・装甲共に貧弱で偵察用車両としてはともかく、「戦車」としての性能は到底満足いくものではなかった。
アストロフ技師もこれを認識しており、T-60にZIS-19 37mm砲を搭載したものを作る。ZIS-19は高初速の砲で装甲貫通力が高かった。しかしZIS-19は砲・砲弾共に新型のものであり、生産の問題からZIS-19の採用は見送られる。
代わりに従来の45mm砲弾を利用するZIS-19BM 45mm砲が開発され、これを防盾の装甲厚が60mmまで強化された砲塔に搭載するT-60-2が完成した。
さらに車体の装甲も45mm程度まで強化されT-34のように傾斜し操縦手用ハッチを設けた。エンジンも重量増加に対応するため70馬力のGAZ-202に換装された。
こうして誕生した軽戦車がT-70であった。
しかし残念ながら45mm砲では恐竜的発展を遂げるドイツ軍の戦車に対抗することは叶わず、歩兵支援を行おうにも強化されたとはいえしょせんこの装甲では対戦車砲に返り討ちに遭う、ということで結局T-60と同様威力偵察などが主任務となる。
しかしT-70は大量に生産され、相当数の車体が自走砲へと改造された。この自走砲の名前はSU-76。76.2mm砲を搭載する車両で、軽自走砲として非常に大きな活躍をすることとなる。


コメント欄

  • T-26追加しました -- 61式? 2014-05-20 (火) 05:23:27
    • 御返事遅くなり申し訳ありません。解説追加ありがとうございます。細かい形式(年型など)を気にせずに記事を立ち上げたため、ソ連戦車は型式をほとんど抜けてますね。恐らく、車体上部側面にも傾斜が取り入れられた1939年型だと思うので、そちらに表記を変更しました。公式フォーラムにて1935年型のT-26のMod開発画像が上がっていたので、そちらも直に実装されるかもしれません。 -- ぱんふろ@記事主? 2014-05-25 (日) 23:26:36