Type 97 Chi-Ha

Last-modified: 2017-10-16 (月) 01:44:43

Chi-Ha.png

Tier 3 日本 中戦車

公式紹介ページ

スペック

車体

HP220
車体装甲厚(mm)25/25/20
最高速度(km/h)40
重量(初期/最終)(t)14,95/15,9
本体価格(シルバー)45,000
修理費(シルバー)

戦車パッケージ

パッケージ名
(必要経験値/購入シルバー)
Type 97 Kai
(2,730/35,350)
Chi-He
(3,730/136,000)
Chi-Ha
(1,460/45,000)
Type 97
(230/4,400)
Type 97 Chi-Ha Ichi-Hai
(1,270/14,750)
Type 97 ShinHoto Chi-Ha
(2,080/22,750)

詳細

パッケージ名エンジン武装履帯砲塔
出力弾種貫通力ダメージ総弾数弾代発射速度
照準時間
精度
旋回速度砲塔装甲旋回速度視認範囲HP通信範囲
Type 97 Chi-HaMitsubishi SA12200VD5.7 cm Gun Type 97Type 97 Chi-HaType 97 Chi-Ha220350
170AP
APCR
HE
29.60
55
28
75
75
95
11415
3G
20
20
2.29
0.46
3035/25/2530310
Type 97Mitsubishi SA12200VD37 mm Gun Type 100Type 97 Chi-HaType 97 Chi-Ha220425
170AP
HEAT
HE
48.09
68.69
18
45
45
60
15014
2G
10
26.09
1.70
0.40
3035/25/2530310
Type 97 Chi-Ha Ichi-HaiType 100 Suirei V-1237 mm Gun Type 100Type 97 Chi-Ha KaiType 97 Chi-Ha220550
200AP
AP
HE
48.09
68.69
18
45
45
60
15014
2G
10
26.09
1.70
0.40
3235/25/2530310
Type 97 ShinHoto Chi-HaType 100 Kuurei V-1237 mm Gun Type 1Type 97 Chi-Ha KaiType 97 Chi-Ha ShinHoto240550
240AP
AP
HE
58
73
19
50
50
65
15016
2G
10
26.09
1.50
0.37
3235/25/2530330
Type 97 KaiType 100 Kuurei V-1247 mm Gun Type 1Type 97 Chi-Ha KaiType 97 Chi-Ha ShinHoto240550
240AP
AP
HE
81
122
25
70
70
90
10020
4G
20
20
2.29
0.43
3235/25/2530330

解説

史実

97式中戦車 チハ
日本で始めて国産化した八九式中戦車でしたが、各国の主力戦車の進化はもはや、八九式では対抗が困難といえるようになってきました。
これに対し、1935年10月に次期主力戦車の開発が命じられ、三菱重工と大阪砲兵工廠が応じました。
三菱重工はチハ、大阪砲兵工廠はチニと言う名称で試作され、1937年6月(昭和12年)にそれぞれ試作車が完成しました。
この2種類が競作になった原因は、統帥本部・軍政当局が、ルノーFT購入時に「安い軽戦車を大量導入すればいい」という考えを持ったためで、これに反対する実戦部隊側が大馬力・重装甲のものを要求した事が引き金になっています。
話し合いは平行線を辿り、それぞれを競作する事が決定します。
参謀本部第三課がコンセプトを作り、大阪工廠の手により完成したチニは、ベースは九五式軽戦車で、当時の軍事費削減下でも量産できるよう性能を絞って軽量化に重点を置いたもので、少々洗練度には欠けていましたが、その分、ライバルのチハに比べて生産が低コストと言う点で、参謀たちの興味を引きました。
そもそも、要求が間逆な2両は、試作車を作った所で話がまとまるどころか、平行線のままでした。
しかし、1937年7月の日中戦争勃発で、軍備予算が3倍に跳ね上がったことを契機に、経済的なチニ車よりも性能の良いチハ車を生産することになり、1937年に九七式中戦車「チハ車」として制式化されました。
ちなみにチハの値段は、昭和17年度(1942年)で165,400円(武装除く)。 当時の物価で行くと、当時の1円=現在の1万円にほぼ相当し、16億5千4百万円となります、参考までに、同時期の零戦は3億円相当と言われています。
日本に輸入しようとしていたティーガー?は、対日価格約5億円ですから、五千億円に相当するレベルだそうです。

基本的には、三菱重工業が開発した九五式軽戦車の強化発展型といえるもので、全高は八九式よりかなり低く抑えられて、2名用砲塔には九七式57mm砲が装備され、車体前部と砲塔後部に7.7mm機銃が搭載されていました。
この砲塔後部機銃は日本髪になぞらえて、この方式を採用する砲塔はかんざし砲塔と呼ばれて日本陸軍戦車の特徴の一つに挙げられています。
被弾時の難燃性と、将来の燃料不足を見据えた戦車用空冷ディーゼルエンジンは、当時日本が列強国に先んじて成功した少ない例で、その170馬力のエンジンを車体後部の機関室に納め、時速38km/hの快速を発揮していました。
しかし、その快速の秘訣こそが重量軽減と軽量化を図る為に装甲を薄くされた結果でした。また、当時の輸送能力の限界から軽量化しなければならないといった側面もありました。
この、軽装甲が後々まで役立たずの欠陥戦車と、機甲部隊以外から囁かれるようになったのでした。

足回りは、コイルスプリングとリンクアームの九五式で採用されたものを、車体の大型化に伴い転輪を増やして使用されました。
装甲には六角ボルトの先端を尖らせてまで、対弾性を上げようと涙ぐましい努力までされました。
無駄に凝った為に、精緻な仕上がりになりましたが、逆にそれが仇になりました。
ノモンハンで投入された九七式が、ソ連軍が草原に撒いたピアノ線を輪状にした対戦車障害に、その精緻な仕上げの履帯が絡みやすく、行き足を止めた車両はことごとく集中砲火を受け、壮絶な最期を遂げる事になったのです。

そもそも、歩兵の支援として考慮されていたため、軍の要求が57mm短砲身と、八九式中戦車と同じままでした。57mm徹甲弾は対戦車能力に乏しく、ノモンハンで戦ったBT快速戦車の様な軽装甲戦車相手なら貫通できましたが、太平洋で戦ったM3軽戦車の装甲を貫通することができず、多数の榴弾を当てて装甲を内部剥離させる、割るといった方法で撃破する有様でした。

生産には三菱重工業のほか、日立製作所でも行われました。
生産中にノモンハン事件での反省を生かした発展型として、対戦車戦闘を考慮した長砲身一式47mm砲を搭載する1式中戦車が計画されましたが、生産に手間取ってしまい、完成したのは3年後になってしまいます。
この穴を埋めるために、新設計の大型砲塔に47mm砲を搭載した、九七式中戦車改が車体の細部に改良を加えられ生産を開始、1942年には実戦投入されていますが、このとき既に世界の水準からは大きく立ち遅れていました。
完成したプロトタイプは、イギリス軍が装備していたM3軽戦車に苦戦を強いられたフィリピンへ送られますが、すでに、連合軍はバターン半島に逃げ込んだ後で、活躍の場を逸してしまいました。

それでも、陸軍主力戦車として南方方面や満州などで苦戦しつつも、死闘を繰り広げていました。
ですが、米軍からはM4シャーマンの砲弾やバズーカ砲のHEAT弾が命中すれば、車内の即応弾薬が爆発して砲塔が吹き飛んでいくため、缶詰とかブリキのおもちゃと揶揄されていました。(そのM4シャーマンも、ヨーロッパでは同じ憂き目に遭っており、ライターやストーブと揶揄されていました。)

なお、九七式中戦車には幻の戦車伝説があり、太平洋戦争緒戦のシンガポール攻略に投入された際、マレー半島を目指して先陣を切り、配備されていた連合軍側の二線級機甲兵器を相手に大暴れしました。英軍陣地、ジットラ・ラインを1日で攻略した島田隊の活躍がその最たる例でしょう。(とはいえ、島田隊の活躍を見て真似をした五反田隊は、同じく英軍の敗北から学んだ豪軍の2ポンド砲は待ち伏せに会い全滅するなど緒戦でも決して一方的に勝ち続けていたわけではありません。)
軽装甲と言われる九七式中戦車ですが、当時の日本戦車では一番厚い25mmの正面装甲を持ち、アメリカの37mm砲相手でも400m程離れれば耐えることができたので緒戦ではその装甲が生かされる場面もありました。また、そもそも連合軍はジャングルでは戦車などが役に立たないと判断していたためで、ブレンガンキャリアなどの軽軌装や型遅れの軽戦車などが主でした。
日本軍はこれらを相手に快進撃で気をよくし、ドイツの電撃戦に対して電錐戦と名づけたほどでした。
九七式中戦車以上に、マレー進撃を支えたのが自転車を使用する銀輪部隊でした、しかし、暑さと荒れた路面のためにゴムタイヤがパンクしやすく、タイヤの補修をあきらめてリム(車輪)のみで走ったところ、ガラガラという派手な音を撒き散らかしたのですが、これを九七式中戦車の履帯の音と勘違いした連合軍兵士が、「戦車が来た!」とパニックを起こして逃走して行ったという、まことしやかな逸話が残っています。
幻の九七式最強伝説が出来たのは、このためと言われているほどだそうです。

九七式中戦車は、開戦百日の栄光から落日の終戦までを見続け、凍える満州から過熱の南海の島々を巡る地獄の苦しい戦闘をくぐり抜けて、その最期は徹甲弾に貫かれ穴が開き、榴弾を受けて瓦の様に割れた車体を横たえて、今も無惨なその躯は静かに眠りについています。
装甲の薄さからノモンハンでの教訓を全く活かしていなかった九七式中戦車は、後世から見れば時代の潮流から取り残されている戦車と言わざるを得ませんでした。 松本零士の戦争まんがシリーズでは「飛行機は飛べさえすればどんなにダメでも戦えるが、こんな戦車を作ったやつは戦車兵に謝るべきだ」と作中に書いていました。

変り種に海軍が海軍十二糎自走砲として艦載用の十年式12cm高射砲をチハの台車に搭載して試作、しかし、ほとんど無理矢理載せたためと粗悪な軽油により不具合が続出、鎌倉で走行試験中に民家の壁を砲身が当たって壊すなどしていました。
砲が大き過ぎるので戦闘室はなく搭乗員は剥き出しのプラットフォームで作業、砲弾はリヤカーに載せて運搬車としていました。 一射離脱の待ち伏せが基本とされていたにもかかわらず、車体安定のために車体ごと埋めねばならないという乖離性もあり疑問もあるものの、命中精度と火力は陸軍戦車と比べ非常に高く本土決戦時の対戦車戦闘に期待されていました、ただし、装填にはかなりの時間を要していたそうです。
終戦までに試作車1両が完成し、各種試験も行われ、量産(おそらく既製のチハより改造)され始めたところでした。昭和20年1月には、本車は館山海軍砲術学校の陸戦科、第六分隊に属していました。 同年4月、横須賀砲術学校に併合、陸戦教導隊の砲隊にて試験と訓練を行ったとされています。1945年7月1日に編成された横須賀第15特別陸戦隊に編入後、横須賀市で終戦を迎えました。

自衛隊創設の後には、九七式中戦車等に乗っていた戦車兵が教官をしていたこともあり、実戦を知る生の教訓等が訓練生に教え込まれたそうです。
ある時、搭乗訓練で訓練生の乗り込みが遅いと、教官から喝が飛んできて、「お前たちは気合が入っていない、敵弾が降る中ではやられるぞ! 見ていろ」と戦車に常備する機関銃を空に向けて撃ち、弾が落ちてくるまでにさっと乗り込んでハッチを閉じた後に、機関銃弾が降り注ぎ、辺りに土煙と車体に跳弾した音が残ったそうで、この教官は元陸軍少佐とか大尉とか言われていて、歴戦の勇士だったそうです。 今では考えられない様な方法ですが、当時のまだ管理体制がガッチリしていない頃は、こうした「戦場帰り」仕込みの教え方もあったと言います。

ちなみに、靖国神社の敷地内にある遊就館には、サイパンより有志によって持ち帰られた九七式中戦車が展示されています。 当初は屋外に置かれていたのですが、現在は屋内に他の火砲と共に資料展示として安置されています。

コメント

  • 英のTier3のLT -- 2015-03-04 (水) 01:41:56
    • クルーザーⅣに似てますね。装甲が薄いかわりにAP弾の貫通力が高い所とか。俯角が大きい点はチハの方が上かな。 -- 2015-03-04 (水) 01:44:45
  • 12cm自走砲ことキングチハ、ぜひともスコーピオンのライバルに欲しいw -- 2016-05-26 (木) 20:12:32
  • 大日本帝国陸軍の主力中戦車であり、みんな大好きチハ車である。初期パッケージが史実の九七式中戦車 チハの姿であるが、チニと同じ九七式五七粍戦車砲をTier5に使う事態は避けたいところ(57mmHEがM4やKV-1に効くはずが無い)。本車の本領発揮は最終パッケージ『Type 97 Kai』、九七式中戦車改・新砲塔チハになってからである。主砲である一式四七粍戦車砲はAP貫通81(金弾AP122)mmと、Tier3MTどころかTDと並べても遜色の無い性能を有する。精度が0.43とやや悪目なので遠距離狙撃は少々運が絡むが、Tier3MTの中では隠蔽も良い方なので、茂みや稜線などからの撃たれない立ち回りを徹底しよう。エンジンが少々非力ではあるが、車重が軽めな為(最終状態で約15t)出だしが少しモタつく程度で移動には困らない。最高速は40km/hで普通。装甲は無いも同然だが、日本LT・MTは紙装甲が普通なので気にすることでもない(なに、当たらなければどうということは無い)。紙装甲故格闘戦は苦手だが、大きく取れる俯角15度とMTとしては良い隠蔽性、貫通性の高い一式四七粍戦車砲を最大限活かせれば、史実で蹂躙してくれたM4にも痛打を浴びせられる。キミの大和魂を見せてやろう(用法・戦力配分を見て正しくお使い下さい)。 -- 2016-08-21 (日) 16:08:19