みんなの新武将/西晋初期(皇室・烈女・賊徒・在野)

Last-modified: 2023-04-18 (火) 23:19:27

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

西晋(265~316)

魏の内部で勢力を培った河内(豫北)の名族の司馬氏が、司馬懿の孫の司馬炎に至って265年に簒奪したもの。
司馬炎(武帝)は280年に呉を滅ぼして全国再統一を果たし、田制・税制の改革整備や、
魏を反面教師とした王族の藩屏化を行なったが、名族の優遇や統一後の奢侈など、初代から退廃性が顕れていた。
嗣子の恵帝の代には元勲・賈充の娘の賈南風の専権から、軍閥化していた諸王による八王の乱を惹起し、
統一の瓦解と内地の異民族の自立が急速に進行し、氐族の李雄が成(成漢)を、南匈奴を統合した劉淵が漢(前趙)を樹立した。
政権の実質的な終焉とされる311年の洛陽陥落では殆どの宗族が匈奴に殺され、長安に成立した亡命政権も316年に滅ぼされた。

中期の武将は西晋中期 を参照
後期(賈南風の死後)の武将は西晋後半を参照
末期の武将は 西晋末期を参照
孫呉・蜀漢の遺臣系は旧孫呉・旧蜀漢系を参照
異民族は異民族(十六国以外)および五胡十六国時代を参照



晋成立~司馬攸帰藩事件辺りまで

宗室(皇室)

司馬駿(子臧)

生年登場没年死因
233239286自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7461827983仁政慰撫屯田求心輿望地域振興王道

【シバシュン(シゾウ)】
魏晋の武将、政治家。司馬懿の第7子。扶風王。
清貞守道の人物で、晋の宗室でも俊望された。
8歳で曹芳の侍講となり、学問を教授した。武帝司馬炎が即位すると汝陰王に封じられる。
丁奉の離間策で石苞が寿春から召喚されると石苞を助け、丁奉の侵攻も撃退した。
関中に赴任すると民衆に恩恵を施し、農蚕を奨励して仁政を施した。
羌族の樹機能の反乱では文鴦を率いて討伐し、
西方の異民族を善く慰撫したため、樹機能らは投降し20万の民が帰順した。
司馬攸を中央から遠ざけるのを諌めるが聞き入れられず、病に倒れた。
司馬駿が没すると、民衆は悲嘆し碑を立てて拝したという。

親愛武将:石苞 文鴦

司馬輔

生年登場没年死因
284自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4047656362召募戸籍整備覇道

【シバホ】
西晋の皇族。司馬孚の三男。魏の末期に野王太守だった。西晋では渤海王となり、266年封国に赴いた。
277年、太原王に移り、并州諸軍事となった。283年入朝するが、翌年死去した。

司馬瓌(子泉)

生年登場没年死因
274自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3237606067改修城壁強化覇道

【シバカイ(シセン)】
西晋の皇族。司馬孚の六男。魏では振威将軍・秘書監の地位にあった。西晋では太原王となり、266年封国に赴いた。
268年入朝し、東中郎将となった。司馬炎の詔で「異民族を懐かせ、許都を鎮守した」と評価されている。
子の司馬顒は八王の一人。

※瓌は瑰の異体字。

司馬珪(子璋)

生年登場没年死因
274自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2827676650教唆縦横術1礼教

【シバケイ(シショウ)】
西晋の皇族。司馬孚の七男。若くして才能と声望があった。
魏では河南令・湞陽子・給事黄門侍郎を歴任した。
西晋では高陽王となり、北中郎将・督鄴城守諸軍事を歴任した。270年入朝し、高齢の父の世話のために洛陽に留まりたいと申請し、認められた。
賈充と任愷の派閥抗争では賈充に与し、上奏して任愷を免職に追い込んだ。
272年の父の死後も洛陽に留まり、274年に死去した。車騎将軍・儀同三司を追贈された。

親愛武将:賈充

司馬権(子輿)

生年登場没年死因
275自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3017536258軽率地域振興1割拠

【シバケン(シヨ)】
西晋の皇族。司馬馗の子。弟に司馬泰。
魏で父の爵位を嗣ぎ、冗従僕射となった。
西晋が成立すると、彭城王に封じられ、外地に出て北中郎将・都督鄴城守諸軍事となった。
のちに入朝し、275年に死去した。子の司馬植が後を継いだ。

『世説新語』によると、快速の牛を大事に飼っていた。ある時、王衍と射的の賭けをして、
王衍が勝ったら牛を差し出すことになった。結果、王衍が勝利したので、司馬権は
「君は乗るだけだよな? 食べたいなら、代わりに二十頭の肥えた牛をやるから」と持ちかけたが、
結局王衍に屠殺されて食われてしまったという。

司馬順

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2230593371直情政令徹底王道

【シバジュン】
西晋の皇族。司馬通の次男で司馬防の孫、司馬懿?の甥。
魏では習陽亭侯に封じられた。265年、司馬炎?が西晋の帝位に即くと、
司馬順は「事情は唐虞(堯舜)の時と異なっているのに、偽の禅譲を騙るとは!」と非難し、悲しんで泣いた。
この発言により爵位を没収され、涼州武威郡姑臧県へ流罪となった。しかし発言を撤回することなく、涼州で死去した。

賊徒・在野

張弘

生年登場没年死因
272不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5157444321癇癪功名長蛇強化割拠

【チョウコウ】
西晋の益州牙門。272年(『華陽国志』では274年)、益州刺史・皇甫晏は周囲の反対を押し切り
汶山の白馬胡討伐を強行した。兵士達は道中の険しさや、異民族への恐れから謀反を企み、
張弘を首謀者として皇甫晏を殺害した。張弘は洛陽に皇甫晏の首を送り、「皇甫晏が謀反を起こしたので斬った」
と奏上した。李毅は広漢太守の王濬?に、「急いで益州を救わなければ災いをもたらします」と進言し、
また何攀らが朝廷に皇甫晏の冤罪を証明した。かくして張弘は、王濬によって討たれた。

令狐豊

生年登場没年死因
276?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7163535763地利運搬開発割拠

【レイコホウ】
敦煌の名族。功曹の宋質らは敦煌太守代行の梁澄を追放し、令狐豊を勝手に太守にすると上表した。
涼州刺史の楊欣は令狐豊を討伐したが、宋質が撃退した。

令狐宏

生年登場没年死因
276不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5660354140親羌地域振興割拠

【レイココウ】
令狐豊の弟。兄の死後、地元で敦煌太守に擁立された。
涼州刺史・楊欣は代替わりを好機とみて討伐し、今度は討たれた。
しかしその後、樹機能らが再度背いており、令狐宏の討伐が、地元豪族のみならず、
異民族の反感を買った結果といわれている。

宋質

生年登場没年死因
自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7167605441扇動地利墨守研究3割拠

【ソウシツ】
敦煌郡の功曹。『資治通鑑』によると、敦煌太守代行の梁澄を追放し、令狐豊を太守にすると勝手に上表した。
さらに、涼州刺史・楊欣の討伐軍を撃退した。以降の消息は不明。

親愛武将:令狐豊
嫌悪武将:梁澄

皇甫謐(士安)

生年登場没年死因
215282自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
58873676名声医術虚弱太学礼教

【コウホヒツ(シアン)】
魏・西晋の文筆家・医学家。安定郡朝那県の人。皇甫叔侯の子で皇甫嵩の曾孫。号は玄晏先生。
20歳になるまで遊び歩いていたが、叔母の任氏の説教に感激して、一転して学問に励むようになった。
風痹疾(神経痛・リウマチ)に罹ったが、本を取る手を休めることは無かった。
ある人に、仕官に備えて有力者との交際を勧められたが従わず、ひたすら本を読みふけったので「書淫」と呼ばれた。
孝廉に推挙され、司馬昭に招聘されたが応じなかった。
西晋成立後、司馬炎はたびたび招聘したが、応じなかった。しかしある時、司馬炎に本を貸してくれるよう頼むと、
司馬炎は車いっぱいの本を貸してやった。のちに司馬炎は太子中庶子として皇太子・司馬衷の教育係にしようとしたが、応じなかった。
在野のまま死去したが、文学者として名高く、左思『三都賦』の序文を皇甫謐が寄せると、たちまち『三都賦』は大人気になったという。
著書に『玄晏春秋』『帝王世紀』『高士伝』『逸士伝』『列女伝』など。
自身の臨床知見を加えて編纂した鍼灸書『鍼灸甲乙経』は、鍼灸の古典として、現代に至るまで重んじられている。

孫登(公和)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
735732467楽奏沈着本草学2割拠

【ソントウ(コウワ)】
魏・西晋の隠者。汲郡共県の人。
天涯孤独で、一人で汲郡の北部の山に、土窟を作って暮らしていた。
『易』を読むことと琴の演奏を好み、彼と会う者は誰しも親しんだ。
怒ることの無い性格で、ある人が怒らせようと孫登を水の中に投げ込んだが、孫登は大笑いしていた。
時折下山すると、衣食を提供する者がいた。孫登は遠慮せずに受け取り、立ち去る時に全て捨てていった。
司馬昭が孫登の噂を聞き、阮籍に会いに行かせたが、孫登は話をしようとはしなかった。
嵆康もまた、孫登を訪問し、3年に及んだが、孫登が口を利くことは無かった。
嵆康が最後に「先生、どうしても口を利いて頂けないのでしょうか」というと、孫登は初めて口を開いた。
「今、あなたは才覚は多いが、(自然の道)を知ることにおいては少ない。今の時代において、
災難から免れることは難しいだろう。あなたは(自然の道を知ろうという)欲求が無いのか」。
果たして嵆康は処刑された。
ある人がいうには、孫登は魏晋交代期の災難を恐れて、口を閉ざすようになったのだという。
その後、どこで死んだかはわかっていない。

※中国語の「先生」は「~さん」程度の意味。

列女

楊艶(瓊芝)

生年登場没年死因
238274自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
67601869傾国強欲本草学覇道

【ヨウエン(ケイシ)】
司馬炎の正室。武元皇后。
大層な美貌を持ち司馬炎との仲も良好であった。
ただし嫉妬深く他の美女が後宮に入ると激しく妬んだとされる。
政治面でも司馬衷の廃太子を阻んだり彼の妃に賈南風を選んだことや、
自身の死後、楊芷を後任の皇后に指名したことで楊駿を外戚に加えたことが後に問題となっている。