原文と訳文の関係について、私はずっと同じ話を書き続けています。
書き続ける過程で「お前の書き方ではホンマに伝えるべき層まで伝わらん」と複数人からツッコまれ、しかしそのすべてを無視していました。
このページは、私がついに無視をやめ、手作業的限界まで表現をくだいた妥協点です。
- このページでもまだキツい
- ChatGPTがお前向けの素晴しく優れた要約を作ってくれました。
The Russian Point of View
そのようなヴァージニア・ウルフのエッセイがあります。
(ロシア文学論)
…の冒頭付近の記述
…
Not only have we all this to separate us from Russian literature, but a much more serious barrier—the difference of language. Of all those who feasted upon Tolstoi, Dostoevsky, and Tchekov during the past twenty years, not more than one or two perhaps have been able to read them in Russian. Our estimate of their qualities has been formed by critics who have never read a word of Russian, or seen Russia, or even heard the language spoken by natives; who have had to depend, blindly and implicitly, upon the work of translators.
…
ロシア文学から私たちを隔てているのは、こうしたこと*1だけでなく、はるかに深刻な障壁――言語の違いです。
過去20年間にトルストイ、ドストエフスキー、チェーホフの作品に舌鼓を打った人々の中で、ロシア語でそれらを読めた人は、たぶんせいぜい一人か二人でしょう。
彼らの作品の質に対する私たちの評価は、ロシア語を一語も読んだことがなく、ロシアを見たこともなく、ロシア人の会話を聞いたこともない批評家らによって、形成されてきました。
盲目的に、そして無条件に、翻訳者の仕事に頼らざるを得なかった人々によって。
What we are saying amounts to this, then, that we have judged a whole literature stripped of its style. When you have changed every word in a sentence from Russian to English, have thereby altered the sense a little, the sound, weight, and accent of the words in relation to each other completely, nothing remains except a crude and coarsened version of the sense. Thus treated, the great Russian writers are like men deprived by an earthquake or a railway accident not only of all their clothes, but also of something subtler and more important—their manners, the idiosyncrasies of their characters. What remains is, as the English have proved by the fanaticism of their admiration, something very powerful and very impressive, but it is difficult to feel sure, in view of these mutilations, how far we can trust ourselves not to impute, to distort, to read into them an emphasis which is false.
つまり、私たちがロシア文学に対して言ってきたアレコレとは、文体をまるっきり剥ぎ取られた文学作品に対する評価だったわけです。
文中の単語を一つ一つロシア語から英語に置き換え、それによって少しずつ意味を変え、さらに音を、重み付けを、互いに関係する語のアクセントを完全に変えてしまうと、意味内容の粗く雑なバージョン以外は、何も残りません。
かく扱われてしまえば、偉大なロシアの作家たちは、地震か鉄道事故に見舞われ、衣服だけでなくより繊細で重要なもの――振る舞いや性格の特質までも失った人のようなものです。
残るのは、イギリス人*2が熱狂的な称賛によって証明したように、とても力強く印象的な何かですが……これら切除を鑑みると、私たちが誤解釈したり、歪曲したり、誤った強調点を読み取ったりせずにいられるとどの程度まで信じられるか、確信を持つことは難しいのです。
あらゆる翻訳は翻訳に失敗している
文法のギャップ
上記評論は、特に(純)文学作品におけるロシア語/英語のギャップを指摘しています。
ロシア語/英語、(純)文学限定の問題でしょうか?
違いますよね。
あらゆる翻訳が、大なり小なり、
言語間のギャップからは、逃れられません。
私が↑に付けた和訳も同様です。
ギャップからは逃れられません。
あなたはサボって原文すっ飛ばし、私の訳文だけを読みましたか?
もしそうしたなら、あなたが読んだのはあくまで私の訳文です。
どれほど直訳されていようとも、それはヴァージニア・ウルフ記しし原文ではありません。
意訳を含んでいるなら尚の事原文ではありません。
評論、エッセイ。
あらゆる商業ライターは、あなたの脳に最大の読後インパクトを残すべく、単語や語順を細かく工夫します。
泣きながら400字分のマスを埋めて力尽きる小学生の作文とは、すこ~し事情が違う。
作家は文を洗練します。
翻訳者はできあがった文を噛み砕き、ターゲット言語の上に書き直します。
ある文が翻訳されるとき、作家オリジナルのこまごました創意工夫はほとんど…少なくとも部分的に…置き去りにされます。
もちろん、上手に転写できることもある。
旧コンテンツ翻訳系ページ内に、私はくりかえし「日本語と韓国語は文法の距離が近い」と書きました。
「距離が無い」とは一度も書いていません。
ブルーアーカイブにおけるギャップ
https://news.denfaminicogamer.jp/interview/240628b_jp
︙
まず、本作は膨大なテキストから構成されていますが、本作のようなアドベンチャーゲームは最大で数十文字しか表示できないテキストボックスで出力されます。
これはダイレクトに文字が出力される小説を執筆されていたヤンさんにとって大きな変化だと思いますが、『ブルアカ』はどのようにテキストボックスの表現を活用していますか?
ヤン氏:
私が思うに、小説の最大の長所であり、同時に弱点でもあるのは、文章の美しさです。
たとえば、川端康成の小説。語られる内容そのものはなんら複雑でないのに、文章は陶然とするほど美しい。
私はそうした文章の美しさを競う世界で落ちこぼれた人間だという気持ちがあります。そうして、ゲーム産業へ、プロットの世界へ亡命してきた。キャラクターたちが動いて、事件が起き、エンディングへと至る。映画や漫画といった媒体に近い世界です。
一方、小説の弱点は「翻訳」してしまうと、その美しさが失われることです。
仮に韓国語の小説を日本人に届けたいと考え、いかに美しい翻訳を行なったとしても、日本人に伝えられる原文の美しさは全体の三割か四割程度でしょう。昨今のエンターテインメントはグローバルに輸出することを前提に作られますが、「翻訳」という点で文学は大きく不利です。
こうした長所、弱点を鑑み、韓国だけでなく世界のプレイヤーに届けることを企図した『ブルーアーカイブ』では、文章自体の美しさよりプロットの効率性に気を払いました。三人称的な説明をできるだけ排除し、動きと掛け合いだけで見せていく。このノウハウは、前作にあたる『魔法図書館キュラレ』で培ったものを、継承しています。
どうでもいい脱線ですが、このインタビューを読んで「日本語版ブルーアーカイブには原文が三割か四割しか残っていない」と理解してしまう奴が当時のプリコネ💩スレには少なからず存在しました。びっくりするほどバカです。
商業シナリオライターたるisakusanは、ディレクターとしてブルーアーカイブを創る上で、言語間ギャップの発生を抑えるための工夫を採用しました。大胆な判断です。
ギャップを無くせたわけではありません。
YHWHが塔をぶち壊したせいで、そんな大魔法はもうこの世の誰にも使えません。*3
Wiki旧コンテンツに転がされた意訳/直訳/逐語訳を読み込んでいたかもしれないあなたは、原文をまったく読んでいません。
あれこれ
プリンセス
この語はprincessを音写した訳語であり、
中国語では公主に対応し、
韓国語では공주に対応する。
私たちはそう知っています。
私たちは、princessや公主や공주についてどれほど知っていますか?
プリンセスコネクトと公主連結 「プリンセス」と「公主」は完全に同じ概念ですか?
違いますね。
日本語ネイティブの脳に根付きし礎は、どこまで行っても和語としての「姫[hime]」です。
princessや公主や공주ではありません。*4
現代日本で私たちが「姫」から感じ取る様々な文化的記号…今お前が思い浮かべた健全非健全ありとあらゆるイメージ…のすべて。
韓国中国アメリカイギリスその他別リージョンで生きる人々は、完全にはそいつを理解できません。ズレる要素が必ずあります。
逆もまたしかりです。
「プリンセス」と「princess」も確実にどこかでズレています。
princessの背後に流れる歴史・文化をプリンセスは継承できません。
逆もまたしかりです。
知識と理解は別です。意識は母語に縛られている。*5
私たちは他言語を知り、
とりあえず深刻なエラーを回避できる程度まで覚え、
必要に応じて使います。
完全な理解には至りません。
他人の頭を真に理解できないのに、どうして他言語のそれを真に理解できるでしょうか?