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二次元美少女キャラクターを子ども/人間と位置付ける限り、倫理として肯定できないから。
Q.なんでこのページ丁寧語なの
A.そのようなトーンで書いていたボツ草稿を流用したから
Q.精度
A.ChatGPT「まあええんとちゃいますか」
- 原作
- 主要スタッフ大脱走以前の区間を指します。その先がどうなっているのか私は知りません。
導入︰いつものisakusanインタビュー
https://news.denfaminicogamer.jp/interview/240628b_jp/3
私が自分自身を「オタクカルチャーの異邦人」と呼ぶのも、決してネガティブな意味合いで言っているわけではありません。
あくまでかつてオタクカルチャーのメインストリームだった日本に対する「他者」として──メタ的に認知の可能な外部に立つものとして、世界的な大きな流れに参与し、自分たちもまたそのカルチャーを広げていきたいと願うからこその、「異邦人」です。
そうした視野において、私は『ブルアカ』の先生を家父長制のなかでのプライベートな父子関係ではなく、もっと社会的な責任を持つ存在として回収したいと考えていました。大人だから子どもを守る構図は、父と子の関係とはまた別のものです。
そして、私にはひとつ、切なる願いがあります。それはキャラクターを人として扱ってほしいということ。
社会的な責任を持つ存在/大人だから子どもを守る
「世代間正義intergenerational justice」と呼ばれる、比較的新しい概念があります。
注目する要素によっては世代間倫理intergenerational ethicsとか世代間公平intergenerational equityとか呼ばれたりもしますが、まあアイデアとしては似たようなものです。
ある時代を形作る大人たちは、
同じ世界で次の世代として育つ人々である子どもたちに対し、
人権で充たされた生存環境を提供する責任を負う。
ある子供の<世界>が幸せではなく苦痛で満たされているなら、
その世界に責任がある者たちのせいであって、子供のせいではない。
それはいつだって、
子供たちと同じ世界を生きていく大人の責任でなければならない。
子どもの権利条約。
あるいは、明快にこう叫びましょうか。
リビドーと家父長制
リビドー。精神分析学におけるこの概念は、かつてフロイト[1856 - 1939]が提唱したモデルに登場します。
| イド(快楽に従う本能) | エゴ(自我) | スーパーエゴ(超自我) | |
|---|---|---|---|
| 前期 | リビドー≒性欲の源泉 | ←を制御する意識や規範 | 内面化された社会規範による抑圧 教師/親/神の目 |
| 後期 | 生の本能(エロース)vs死の本能(タナトス) 衝動の貯蔵庫 エロースは様々なリビドーとして表出 →生、性欲、創造性、愛情など | 本能と規範の調整役 |
「やっぱ性欲で何もかも説明するのちょっと無理があったのでは?」と言わんばかりの自己修正痕跡が窺えますね。初めから気付け。
- 見ての通り、これは家父長制を前提とする分析モデルです*1。フロイトは1939年に死んだため、第二波フェミニズムの登場や家父長制社会の揺らぎを見ていません。
- オタクが性欲の言い換えとしてよく使う「リビドー」は最初期定義へ素朴に準拠しており、現代でも家父長制の内にあります。
- ユングはリビドーを行動のモチベーション全般まで拡張します(このページとは無関係)。
- 第二波フェミニズム、ボーヴォワール[『第二の性』の人]は、フロイトの家父長制的な偏見[女性=男性性の欠落した客体/母]ごと上記モデルを非難します。
後の精神分析フェミニストらは家父長制を分析/分解する道具として逆用します。- 家父長制を否定する言説……フェミニズムやフェミニズムと交差した現代の人文科学分野……は、初期フロイト型の性欲=リビドーモデルを肯定しません。密接に家父長制やってるし。
私は『ブルアカ』の先生を家父長制のなかでのプライベートな父子関係ではなく、もっと社会的な責任を持つ存在として回収したいと考えていました。大人だから子どもを守る構図は、父と子の関係とはまた別のものです。
- 家父長制を否定する言説……フェミニズムやフェミニズムと交差した現代の人文科学分野……は、初期フロイト型の性欲=リビドーモデルを肯定しません。密接に家父長制やってるし。
現代では人文科学や社会科学による家父長制解剖がさらに進み、必ずしも理論として家父長制=男性の性欲ではありません。でも父権主義的支配欲と無関係でもない。
人文科学と性欲
現代の多くの人文科学分野は、性欲=悪と一律に倫理的否定を下すわけではありません。
- 多くの
- 無いわけではない。虚無虚無しているニヒリズムとか、世代の再生産→権力構造再生産→男性性への加担と見るラディカルなマルクス主義フェミニズムとか。
「生殖手段ではない性欲」についても、即座に在り方が否定されるわけではありません。無条件に肯定されるわけでもありません。
個人の自由であり、
相互の合意であり、
社会における合意形成であり、
すなわち人権が主要な検討の切り口です。
オタクと性欲
ここにオタクを怒らせないなんかいい感じのキラキラした解説を挿入。
二次元美少女文化圏のジレンマ
家父長制と癒着していないオタク
ここはどうとでもなる。
- あんまり見かけない。
- 21世紀的ジェンダー平等教育を受けてきた世代には相対的に多い。
ブルーアーカイブってソシャゲの主要ユーザーも一応はここに被る世代でした(今は知らん)。
家父長制と癒着したオタク
開き直って一体化、倫理に殴られつつ20世紀前半に留まって寿命。
そんな道もオタク出口の一つではあるでしょう。
ここ辛辣なコメントが山ほど溢れてきましたが我慢して全部削ったし何も触れません。
作品を作る人々
シナリオを書く人々
人類社会の倫理観は急激に変動しています。
「あれ? 俺たち文明人とか気取ってた割に、よく見渡せばやべー話だらけじゃね?」意識がグローバル化と共に生じました。すなわち新たな規範。*2
ベテランオタクが泣こうと笑おうと、時事に敏感な人々が時流感じないはずもなく。
二次元美少女文化の一次生産者は、必ずしも旧来的オタク文化コードに留まってはいません。
家父長制切り捨てしブルーアーカイブ原作然り、消費者層組み換えしプロセカ然り、倫理コード可搬性意識せしぼっち・ざ・ろっく!アニメ版脚本家の人然り。
世相に適応すべく、あるいはポップカルチャーとしてのスライドを見越すべく、様々な人々が様々に模索を重ねています。
そして少なからぬ作品が商業作品における実践として新しい世代の倫理適用を試し、成功してもいます。
メタ的に認知の可能な外部に立つものとして、世界的な大きな流れに参与し、自分たちもまたそのカルチャーを広げていきたいと願うからこその、「異邦人」です。
まあ、二次元美少女シナリオはそれほど既存文化との摩擦なく先へ進めます。というかもう進んでいる。
ジレンマとの距離は市場選択の問題です。二次元美少女を人間として扱えば、必要な倫理も相応に付いてくるので。
というか、実は「二次元美少女文化におけるシナリオ」って元からオタク文化にはそれほど縛られていません。
二次元美少女が100年前からやってきたような家父長制丸出しの言動を取ろうと、二次元美少女が真面目な顔でフェミニズム含めた現代倫理を語ろうと、二次元美少女レベルはそれほど変わりません。前提として二次元美少女だから。
イラストを描く人々
こちらが真の摩擦面。
二次元美少女イラストは、シナリオのそれとは事情が変わる。二次元美少女は唯一最大要件として魅力的な美少女であるため、その定義がゆえの倫理的課題に陥ります。
すなわち、何者の目を基にした美少女であるか。
美術界では50年、文学界では100年の論争。もっと言えばこれは概念や論争ではない。
嫌な予感がしてきましたか。