旧コンテンツの記述をあるべき形に肉付け再編シリーズ。
Tag: 書架
「名の掌握による存在の支配」という概念はもちろん現実世界において自然科学的実体を持ち得ぬ呪いなんだけど、しかし同時に21世紀現在の日本において元気に持続している文化コードでもある。*1
前提知識:混乱を避けるために
混同しやすい人名
- テナー Tenar
- シリーズ2巻("The Tombs of Atuan")では「名もなき者たちの巫女*2」の立場で視点人物を務め、外から来た英雄(Ged)と対峙しながら主体性を取り戻すキャラクター。
作中で25年経過した4巻("Tehanu")では一般中年女性の姿で再び視点人物の座に立つ。- 2巻時点でもゲド/男性である魔法使いに与しない体系、女系としての権能を纏うキャラクターではあった。
(狭義の「ヒーローに救い出されるヒロイン」ではなかった)
しかし「英雄叙事詩の上に存在し得る型」を完全に逸脱した存在でもなかった。
- 2巻時点でもゲド/男性である魔法使いに与しない体系、女系としての権能を纏うキャラクターではあった。
- テルー(テハヌー) Therru/Tehanu
- シリーズ4巻("Tehanu")における最重要キャラクター。虐待によって火傷を負い、心身共に深い傷を抱えている。カタカナ表記だと名前似てるけどテナーとは別人。
- Therru/Tehanu
- 一応ネタバレの類だけど許してね。
ゲドと聞いてジブリだけ思い浮かぶ人。
頭の中の情報ぜんぶ忘れて。
- あなたは何も思い浮かばない人よりなお不利なスタートラインに立たされている。
『Tehanu』
おーいChatGPT
私:
アーシュラ・K・ル=グウィンの"Earthsea"シリーズ四巻、すなわち1990年の"Tehanu"はファンタジー作品としてどのような点が異例であったか。精緻かつ詳しく解説。
- [注:入力段階で具体的な論点を何も指定しなかった点の確認。/後で訂正するけど、「異例」は入力する単語としてちょっと良くなかった。「非規範的」とか書くべき箇所。]
ChatGPT:
要点(結論)を先に述べると、『Tehanu』(1990)でル=グウィンが行った異例さは、「ファンタジーの物語的・倫理的前提(英雄中心・暴力礼賛・魔力=支配)」を意図的に解体し、代わりに「日常性・ケア・負傷と回復・女性の視点」を中心に据えたことにある。形式面では叙述のトーンが抑制され、プロットは“冒険”から“生活の細部”へ移行する——この変化がジャンルの慣習に対する根本的な問いかけを生む。以下、主題・人物・魔法観・叙述技法・文学史的位置づけの順に精緻に分解して解説する。
1. 主題的転換:結果と責任、ケアの倫理へ
初期三作(『ゲド戦記』系列の1~3巻)は「名を知ること・力の均衡・英雄的試練」を通じて成長と試練を描いた。一方『Tehanu』は、過去に行使された力(=暴力)とその後の「結果」を主題に据える。つまり、行為そのものの栄光ではなく、行為がもたらす傷(身体的・精神的・社会的)と「それにどう応答するか(責任・修復)」を問う作品である。これにより物語の倫理的基軸が根本から反転する:勝利や征服ではなく、ケア(世話)と保護が中心に来る。
2. ジェンダーと権力――男性的魔術観の解体
『Tehanu』は明確にフェミニスト的再読を含む。初期作における「魔法=男性的な公共的能力」「英雄(男)の旅」は、本作で問題化される。
- 女性の力は「目に見える支配」ではなく、日常的な実践(介護、養育、家事、沈黙の抵抗)として描かれる。
- 主人公格が若き魔法使いではなく、成長し年齢を重ねた女性(テナー)であること自体が異例。年齢・性別ゆえに従来の栄誉や地位から排除されてきた経験が、物語の知恵と倫理の源泉として再評価される。
- 魔術的「能力」をめぐる問いがジェンダー化される:力を行使して世界を変える(征服する)ことは必ずしも正当化されず、むしろ抑制・撤回・受容の倫理が重要視される。
これらは単なる主題の変化にとどまらず、ファンタジーが従来頼ってきた「力の達成=価値」の語り方自体を揺らがせる。
3. 魔法観・英雄像の再定義
『Tehanu』は魔法を「万能の解法」から「限界を抱えた術」に戻す。具体的には:
- 主人公格の魔法使い(例:ゲド)は、本作では魔力を喪失・縮小された存在として描かれ、過去の英雄譚がもたらした代償を体現する。
- 魔法がしばしば「支配=他者を変える手段」として機能してきたことを批判し、逆に「言葉や名」による支配の倫理性を疑問視する場面がある(真名を知ることが即ち支配する権利なのか)。
- 「ドラゴン」「火」などの象徴も、単純な征服対象でなく「異質さ/他者性」として扱われ、その共存のあり方が問題となる。
このように、魔法の機能そのものを道徳的に再検討する点で、従来のハイ・ファンタジーとは一線を画す。
4. 負傷・老い・沈黙の文学的扱い
ル=グィンは本作で“負傷した身体”と“沈黙”を繰り返し描写する。これには複数の効果がある。
- 身体的/心理的トラウマが物語の推進力となる:回復は一朝一夕に起こらず、日々のケアにより少しずつ成立する。英雄的クライマックスが提示されない代わりに、修復の時間が積み重なる。
- 老いや不全の描写は、力の喪失を恥や敗北ではなく「新しい在り方」の契機として表す。年長の女性(テナー)の視点は、若い英雄が到達し得ない倫理的洞察を提供する。
- 沈黙や言葉の欠如(トラウマから来る沈黙、または言葉では表せない経験)は、物語的に重要な空白を作る。ル=グィンはその空白を埋めるのではなく、そこに意味を読むよう読者を誘う。
こうしたモチーフは、「冒険の外側」にある人間の現実をファンタジーの中心に据えるという点で異例である。
5. 叙述・形式の変化:小さな場面の重視と抑制的トーン
形式的にも『Tehanu』は従来のシリーズ作と異なる。
- プロットは“大河の冒険”から“家の中の出来事”へと縮小される。事件のスケールは小さいが、その重みは巨大である。
- 文体は抑制的、瞑想的で、説明を過度に与えず読者に省察の余地を残す。劇的な戦闘描写やクライマックス的な仕掛けは減り、代わりに心理描写と日常的描写が密に配される。
- 視点は内面寄りで、特に女性の内的世界に深く入り込むため、従来の三人称「英雄的外部視点」とは質を異にする。
結果として、ジャンルの典型的期待(速い展開、明確な勝利、栄誉回復)は裏切られる。だがその裏切り自体が作品の批評的主張を担っている。
6. 文学史的・文化的意義(ジャンルへの影響)
- ル=グィン自身がかつての作品に内在したジェンダー的前提を再考し、修正を試みた点で、自作への応答作として重要。作家が自己の世界観を更新する「自己批評」の稀な例である。
- 1990年代のファンタジー界へ与えた影響は、ジェンダー/日常性/倫理の議題をジャンル内部で正当に扱えることを示した点にある。以後、ファンタジーで「ケア」「体の限界」「老い」を主題とする作品が増えた流れと響き合う。
- 批評的には賛否両論を生んだ。熱烈な支持者は本作を「成熟した再解釈」と評価し、伝統的な冒険譚を期待した読者は物足りなさを感じた。だがその論争自体が、ファンタジーの倫理的・政治的次元を可視化したという意味で値打ちがある。
7. 作品内モチーフの細部(象徴・反復)
- 火とやけど:破壊性と再生性が同居する象徴。被災した身体は、神話的“浄化”ではなく、慢性的な記憶として残る。
- 名(真名)の問題:以前の「名前=支配」の神話性を相対化し、名前が関係性や相互承認の側面を持つことを示す。
- ドラゴン/野のもの:征服すべき対象から、共存の相手へと倫理的意味が転換される。
8. 総括:何が「異例」か(箇条化)
1. 主役を年長女性に据え、女性的ケアを物語中心にすることで、英雄中心のファンタジー規範を覆した。
2. 魔法と英雄的力の喪失を肯定的に描き、力の行使に伴う代償と責任を主題化した。
3. 叙述のスケールを小さくし、日常の倫理と回復の時間を重視する物語構造を採用した。
4. トラウマ、老い、負傷という通常は脇役に回されるテーマを核心に置いた。
5. 物語世界の神話的前提(名前・支配・征服)を批判的に再読し、関係性と共生へと転換した。
9. 最後に(読書のための手がかり)
『Tehanu』は「何か派手なものを期待して読むと失望するが、世界の成り立ちや倫理について再考する読者には深い報酬を与える」作品である。読む際は「何が失われたか」ではなく「失われた後に何をするか/誰がそこに残るか」に注意を向けると、本作の革新性が最も明瞭に見える。
——以上が精緻な解説です。必要なら、作品の具体的場面(例:テナーと救われた少女の最初の出会い、ゲドの状態描写、終盤の象徴的場面)を取り上げて逐語的に読み解く「場面別精読」も作成します。どの場面を深掘りしましょうか(指定がなければ、テナーと少女の関係性を扱った章を詳解します)。
推論モデルによるレビュー
私:
専門的な目で、上記解説の精度や誤謬の有無をチェック。
ChatGPT(推論):
結論(要約)
元の解説は大筋で正確かつ洞察的だが、幾つかの過剰単純化と省略がある。主要な主張(英雄主義の解体、ケア/負傷/老いの中心化、魔法観の倫理的再検討、叙述トーンの抑制)は妥当だが、それらを補強・修正すべき細部がある――以下、専門家の目で点検・是正・補充する。
1. 正確で十分に支持される主張
- 「Tehanu が英雄中心のファンタジー前提を解体し、ケアと日常性を中心に据えた」という主要主張は妥当。物語の重心が“冒険”から“家と養育、傷の回復”へ移る点は的確に指摘されている。
- Ged が力を失い、過去の英雄譚がもたらした代償を体現するという観察も正しい。Ged の挫折と沈黙は物語の道徳的核を示す。
- 「魔法/真名=支配」という古典的な地図を相対化する描写がある、という読みも当を得ている。Le Guin は名前と権力の関係を再検討する方向へ明確に舵を切る。
- トラウマ・老い・負傷を中心主題に据える点、叙述の抑制と小スケール志向も実際のテクストに沿った指摘である。
2. 過度に単純化されている/修正が必要な点
- 「主役を年長女性(Tenar)に据えたことが全くの異例」──誇張がある。Tenar は『地下の安息所/The Tombs of Atuan』(第2作)で既に主人公経験があり、Le Guin 自身も女性主人公を扱ってきた。異例なのは“年齢を経た女性の介護日常”をシリーズ中心に据えたこと、そして以前の物語的価値観(力=善)への明確な自己批判を示した点であり、「単に女性を主役にした」という表現は不十分。
- 「初期三作で魔法=完全に男性的で公共的な力として描かれていた」という断定もやや単純化。確かにウィザード(wizard)像は男性中心に描かれ、公式な魔術階層は男優位だが、第二作『The Tombs of Atuan』は女性的な宗教的権能や祭儀的権力を扱っている。したがって“ジェンダー化された魔力”の問題は以前から存在したが、Tehanu はそれをより批判的・倫理的に問い直す作品である、という言い方が正確。
- 「Tehanu がジャンル全体に与えた因果的影響」をやや断定的に述べている点。影響は確実にあるが、1990年代以降のファンタジーの多様化は多因的であり、Tehanu が単独で潮流を作ったとは限定できない。より適切なのは「Tehanu はジャンル内でケア・老い・障害の主題を正当化する重要な先鞭となった/議論を促した」である。
- [注:理論と実践は常に相互作用の関係にあり、"Tehanu"は実践側の大きな一作であるという話。これは私の入力プロンプトに慎重さが足りていなかった。]
3. 省かれているが重要な補完点
- シリーズ内部の継続性と自己批評性:Tehanu は単なるスタイル転換でなく、作家自身による自己再読(自己批評)の性格を強く帯びる。Le Guin が自作のジェンダー観・神話観を再評価した経緯(作家としての成熟と反省)を明示すると説得力が増す。
- 哲学的背景(バランス思想/東洋思想):Earthsea に通底する「均衡(balance)」「命名と関係性」といった思想は Tehanu にも残存しており、単純な逆説(力→否定)ではなく「力の再配分/関係性の倫理」へ移行している点を押さえると理解が深まる。
- 社会的周辺性の扱い:テキストは女性問題だけでなく、被差別層(やけどの少女=Therru/Tehanu の身体化された社会排除)や年齢・障害(Ged の不全)といった交差的排除を扱う。ジェンダーに限定せず“周縁化”の倫理学として読む余地がある。
- 叙述の具体的手法:原解説は「抑制的」と言うが、どの語り技法(視点配置、場面選択、象徴反復――火、傷、名前、家の細部)でそれを達成しているかの具体例(該当章や場面)を示すと根拠が強くなる。
4. 表現上の小さな誤り(用語・人物名)
キャラクター名の表記や役割について注意。原解説中に「テナー」と表記があるが、英語表記は Tenar(テナール)、少女は Therru / Tehanu(テハヌー) であり、混同が見られる。本文解釈では誰が物語の中心になるか(Tenar と Tehanu/Therru の関係)は重要なので、名の混同は避けるべき。- [注:元解説の記述は完全に正確で、ここはむしろ推論モデル↑が混乱している。2,4巻の視点人物であるテナーと4巻の主要人物であるテルー=テハヌーは別人ね。]
5. 評価(総合)
総じて、元の解説は正鵠を射ており、Tehanu の「倫理的転回」「ケアの中心化」「魔法=権力観の相対化」といった核心を抑えている。ただし、過度の単純化(特に『三作が完全に男性中心だった』等)と人名混乱、ジャンルへの因果帰属の断定的表現は修正が必要。加えて、哲学的背景(均衡・関係性)や作家の自己批判性、具体的テクスト事例の補強を行えば「精緻かつ学術的に堅牢な解説」になる。
6. 推奨される改訂案(短め)
1. Tenar と Therru(Tehanu)の役割を明確に分ける。
2. 初期三作におけるジェンダー表象の複雑さ(例:The Tombs of Atuan の女性主体性)を承認した上で、Tehanu がそれをどう再読・修正したかを示す。
3. 「魔法=支配」の問題を扱う具体場面(Ged の沈黙、名前のやり取り、Therru の沈黙化)を引用的に示す。
4. 影響論は慎重に、「重要な契機/議論を促した」と表現する。
必要なら、原解説の各段落に対して逐語的な注釈(行ごとの精査)を付け、典拠となる具体箇所(章・場面)を挙げて細部検証します。どの方針で続けますか(例:逐語注釈/場面別精読/改訂草稿の提示)――指示があれば即座に実行します。
[手書き]
(参考)"Earthsea"シリーズにおける魔法
- あらゆるものには固有の真の名がある。
- 魔法使いは真の名を知ることで万物を支配しうる。
- でも濫りに弄ると痛い目に遭うので抑制を学ばねばならない。
- 魔法学校は女人禁制。他方で魔法使いたちは魔法を用いる女性(まじない師)たちをソフトに蔑視している。[物語スタート地点における状況]
『Tehanu』とはなんぞや
フェミニズム的な視座の投入が期待されない小説ジャンル(英雄叙事詩型のハイファンタジーシリーズ)にて真正面から純正フェミニズム文学ぶちかました作品。
「たしかにファンタジー小説なのに、『いわゆるファンタジー』の延長で読もうとした途端まともに読めなくなる(何が起きている話なのか理解できなくなる)」構造の攻め攻めな一冊。ファンタジー好きな子供とかが読むのはたぶん無理。
- 日本語タイトルは『帰還 - ゲド戦記
最後の書IV』 - しかしゲドの話ではないし、シリーズとしてなんら戦記ではないし[邦題設定の同時代的な誤り]、続刊が複数出て最後でも無くなった。
[旧コンテンツ復刻]字 / 諱
主に漢字文化圏の各地域で近代以前に見られた、本名呼びを避け通称で通す風習。各地域には日本も含むぞ。
「言霊を本気で信じていた」と書けば迷信深い古代人ムーブに見えるかもしれない。
しかし「ストレートな名指し=無礼な態度と捉えられた」と書けば現代まで名残は続いている。
- まったく親しくないのに対面で気軽に(下の)名前を呼び捨てしてくる輩が時々存在する。
うっかり本名でソシャゲ始めて後に引けなくなっているような奴がインターネット上で呼び捨てられる分には名乗る側の自業自得。
しかしリアルワールドにて下の名前を呼び捨てる場合、歴史的には呼ぶ側が呼ばれる側に対し非常に舐めた態度を取っている形になる。あまり良い気分がしないので出来ればやめていただきたっつーか普通に怖いわ俺はお前の何なんだ他人だぞ
- ブルアカにおいても生徒の神名は諱枠かもしれない
- 少なくともホシノやシロコ テラーは自身の神名を自覚しているし、なんなら韓国語ティザーではシロコの入学書類にアヌビスと書いてあったりした。
しかし生徒同士で呼び合う際に神名は原則用いられないし、1-1-17黒服も面と向かっての神名呼び=それなりの非礼とキヴォトス事情を認識していた。
これを書いた時の私は一つにはアースシー(ゲド戦記)、一つには大学入って初っ端遭遇したたぶんテニサーとか入ってそうな[偏見]妖怪の記憶、一つには万葉集を念頭に置いていた。
たぶんオタクは真っ先にFateあたり想像してるだろうけど文脈上はまあそれでもいいやとか諦めもしつつ。
(参考)籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳尒菜採須兒家吉閑名告沙根虚見津山跡乃國者押奈戸手吾許曽居師吉名倍手吾己曽座我許曽者告目家呼毛名雄母
- 読めねえ
- 読めるぞ。
https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=1
籠もよみ籠持ちふくしもよみぶくし持ちこの丘に菜摘ます児家聞かな名告らさねそらみつ大和の国はおしなべてわれこそ居れしきなべてわれこそませわれこそは告らめ家をも名をも
下線部は求婚アクションであると同時に「名の一方的掌握=支配関係の確立」として解される。
- 高校通ったけど目をぱちくりさせている奴は古文の授業寝てた勢。
そして選択的夫婦別姓。
女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約
女子差別撤廃条約と呼ばれているもの
16条1項(苗字選択の権利→選択的夫婦別姓)
Article 16
1. States Parties shall take all appropriate measures to eliminate discrimination against women in all matters relating to marriage and family relations and in particular shall ensure, on a basis of equality of men and women:
︙
(g) The same personal rights as husband and wife, including the right to choose a family name, a profession and an occupation;
第十六条
1 締約国は、婚姻及び家族関係に係るすべての事項について女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとし、特に、男女の平等を基礎として次のことを確保する。
︙
(g) 夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む。)(政府訳)
なぜ「およそ95%の婚姻ケースで妻が改姓している国」が人権問題の文脈下に置かれるか。
国会などで主要な争点となる実質的不平等=実利上の不利益(名義変更手続きやデータベース上のキャリア断絶など)……とはまた異なったレイヤー上に、このページに並ぶような文化コードとしての緊張(身体の支配をめぐる攻防)も存在する。
- 家父長制に親和的な層(統一教会含む)が選択的夫婦別姓に激しく反発する宗教・思想的背景。
- それゆえに60歳超えた既婚者の総理大臣であっても、家父長制に票田を持つ女性であるがゆえわざとファーストネームを多用したりされたりする。
(オマケ)あるいはブルーアーカイブVol.3(エデン条約編)4-1における秤アツコの戦い。
| 아츠코 アツコ | 이름을 걸어줘. 名をかけて。 |
| ??? | (치익) 이름을? 거기에 무슨 의미가 있다고? (シュー) 名を?そこに何の意味があると? |
| 아츠코 アツコ | 이름을 걸고 약속을 꼭 지켜달라는 뜻이야. 名をかけて、約束を必ず守ってほしいということ。 |
| ??? | (치익) ……. 모든 순례하는 자들의 환상인 나 <베아트리체>의 이름으로 약속하지요. (シュー) ……。全ての巡礼する者たちの幻想たる私、《ベアトリーチェ》の名で約束しましょう。 |
???ことベアトリーチェさんはこの時点で詰まされていたって話。
なんの話か。
2024年初頭、ブルーアーカイブ開発チームが原型を維持しており、このWikiもまだ世に無かった頃。
私は上記会話の「名にかけて誓う行為」について解題する部活動的コラムを作成、他コミュニティ借りて投稿した。
改行や文字サイズなどのフォーマットも含めて、(ほぼ)当時の文のまま転載。
- 投稿先コミュニティはこのWikiと些か異なる記述コードを有しており、私の記述も先方のそれに寄せていた。まあトーンを使い分けていたところで今更驚く人もおりゃんだろう。
エデン条約編4章でアツコは(どの程度自覚的だったかは別として)しっかり神話的文脈に沿った生贄としての犠牲を持ちかけたのに、ベアトリーチェは初手の反応からして基本中の基本(その名にかけて誓う行為の神話的意味)も理解していなかった。
ベアトリーチェがその名にかけてアツコに誓った「みんなを自由にする」という約束を速攻ぶっちぎり、あまつさえ事前に定めた儀式の手順まで無視してさっさとアツコを生贄にしようとしたのは神話的にどう考えても特級NG行為だった。
ばにたす…の出典である『コヘレトの言葉』にも
願をかけておきながら誓いを果たさないなら願をかけないほうがよい。
口が身を滅ぼすことにならないように。使者に「あれは間違いでした」などと言うな。
神はその声を聞いて怒りあなたの手の業を滅ぼされるであろう。
(新共同訳)
こんなのが書いてある。神話の型における有名な違反に「見るなの禁」(やらないと誓ったのに実行してしまう)があるけど、反対の行為(やると誓ったのに実行しない)も同じだけ破滅的な結果に繋がるようになっている。一般人でも利益を求めて口にした約束なら守らなきゃいけないのが古今東西いろんな神話宗教の基本ルール。
ましてや儀式の工程違反ともなれば命落としたって文句言えないのがむしろ当たり前。中途半端な儀式がろくでもない結果を産むのは別に100%創作だけどクトゥルフ神話みたいなろくでもない悪神に限った話ではなく、事前に決まった儀式の手順守れない奴はまとめて死ぬか下手すりゃもっと酷い目に遭って当たり前。呪いと呪いは紙一重、神(々)を相手にする宗教ってのはなんか理不尽な気がしようと大抵の場合において「そういうルール」の下で回っている。
決してばにたす含む旧約聖書全般に限った話ではない。
仮に王道の青春学園モノとかならこうした違反も全く違う意味合いに変わるけど本編のベアトリーチェ、アリウス支配して生徒に何教え込んでたっけ?
名の下に誓った約束をその場で破棄したり儀式の手順に無頓着だったりする高位の存在などあってよいはずもなく、アンブロジウスを使い回した中ボス程度にしかなれずテクストを最重要視するゴルコンダに「どうでもいい舞台装置に成り下がってやんのばーかばーか!(要約)」と煽り散らされたのも当然の帰結だった
神話のフィールドに立つ気なら守る気のない約束など絶対にしてはいけない。少女の姿とはいえ忘れられた神々を相手にしている自覚が無かったのはゲマトリア的にも論外、この描写だとたぶんなぜ黒服がひたすら書類ベースでホルスに回りくどいアプローチを仕掛けていたのかとかベアトリーチェは考えてもいなかったのだろうばーかばーか!
アツコのセリフについて伏線回収されなかったんですけど!!!!とか言ってるおそとの考察者も時々見かけるがそういう事なので
アツコが決死の覚悟で放ったセリフはしっかり所謂概念バトルレイヤーにおいてロイヤルブラッド的有効打をベアトリーチェに与え、物語の型としても綺麗に回収されている。
(疑う人は3章以前のエデン条約編が元来エデン条約を扱う話だった点、当初のアリウス側の切り札であったユスティナ聖徒会が交わされたエデン条約機構のルールに従い呼び出されその担い手の再上書きによって無効化された点、それから(これなんで急にゴルコンダ出てきたの…?)と疑問に思ったであろう例のシーンを思い返してみてほしい。テクストに拘るゲマトリアであるゴルコンダはむしろあの瞬間「アツコの言葉や先生の態度やミカの赦しがなぜ実際的に効き、それら全てを軽んじたベアトリーチェはなぜてんでダメだったか」という一連の物語におけるギミック的答え合わせを読者に伝え、(対策委員会編『大人の戦い』にて似たような事を言いつつ一人で納得してしまっていた)黒服では説明役として不十分だったと見なされた上で用意されたよりストレートな解説役……毎日見てるキヴォトスってのはとにかくそういう神話寄りのルールで動いてる場所だから読む側もそのつもりでいてくれ先生よ、少女たちの青春学園モノだと思う限りは時々説明の付かない現象を見るかもしれないけどテクスト解釈の前提条件変えて忘れられた神々の神話的空間だと思えば色々と納得だろ、でもあんたが話に関わると青春学園モノにされちまうよな何せ先生と生徒だしな! と画面の前に向かってストレートに告げるべく作られたキャラクターと読んでも決して深読みではないというか王道で妥当な読みではないだろうか。4章がそれ以前から浮いてる気がする問題も「キヴォトスにおける契約の効力が普遍的に示される話」と括ればすごく綺麗に収まるし、フランシスがジャンルの崩壊云々言うのもこうした前提の延長にあると考えれば分かりやすい。あいつら何もしないまま退場したのではなくエデン条約編終盤や最終編序盤で十分物語上の役目を果たしたからこそ各々次にバトンタッチしたんだよきっと(フランシスまだどうなってるか分からないけど、少なくともゴルコンダは) こうした観点に立つ限り、「忘れられた神々のためのキリエ」が「少女たちのためのキリエ」にすり替わった理由についても先生個人の態度を超えたキヴォトスのルール下で説明可能になる。神話・物語的な働きが実際に強い効力を持つキヴォトスは在ろうとする努力こそが存在を定める強い法則が働くから、本気で勇者を目指せば勇者になるし魔女と自棄になる限り本当に魔女だし青春学園モノの先生であろうと努める者は確かに先生であるし下着だと固く信じれば本当に下着になる、デカグラマトンも絶対者たらんとしたけど残念ながら誑かされて絶対者だと思い込んでしまった時点で筋違いだったので必死に仕切り直して預言者に正しいと信じた工程の完遂を託す、こうした前提や過程の努力を軽んじて結果だけ求めたおバカトリーチェはよく分からない使い回しの中ボスに成り果てる。一貫性あるじゃんね! こういぅのおそとに書くと独自研究とか言い出すのが出てきてじゃあおめえなんでキリエエレイソンに伴奏が付いて尻拭いみたいにゴルコンダが出てきたか他に説明できんのかおめえアツコが単なる約束ではなく名に誓っての約束を求めたシーンがどんな確たる意図を持って初っ端強調されていたのか、それとも単に絶体絶命の場面でアツコがベアトリーチェ的に守って何のメリットも無いどうでもいい言質に意味無く拘ってベアトリーチェが面倒臭がってただけのシーンだと思うのか、ちょっとそこに座ってテクスト解釈してみろこの分野は素人ですが質問してよろしいですか!!!!111👊👊👊👊👊って喧嘩になるけどここならきっと大丈夫だろうし、「忘れられた神々をそのまま神々扱いするのは作中だとゴルコンダ含めた敵側の立場だからゲーム内で先生やる間は相容れないけどアプリ閉じて一歩引いた距離からテクスト読むならそういった敵方のガイド通りにも読める書き方してるよねピカおじ達」ってちょっとした零れ話だし、なんか途中から半分ゲマトリアの話になってるけどなんでこんな文長々書いてるかと言ったら「契約が強い効力を持つ神話ジャンル前提で読むと4章でアツコが果たした積極的な役割が見えてくる」ってアツコの話だから書いておくね読んでくれてありがとう)
というかタイトルに使われているエデンの園からして神との約束を破ったせいでろくでもない目に遭う話の類型である点も思い出してほしい。ずっと契約の話だった!
だからね、
姫ちゃんも!エデン条約編4章で!!いっぱい戦ってました!!!断じて捕まってただけじゃありません!!!!いっぱい褒めてあげてね!!!!!そういうこった!!!
誰だこいつ。世界一ブルーアーカイブを気に入っているオタクが書いていそうな元気のよいコラム。
- こういった記述は誰が書いたかすら不明な状態でないと魔力を持てない。
- ↑の要約
- ベアトリーチェは生徒/忘れられた神々を人とも神とも見なさないダメダメな愚か者だった。ばーかばーか。
- 「それゆえに秤アツコは神話レイヤーにおける伝統的手法から咄嗟の致命打を挿し込めた」とも読める。
- かく読むならばキヴォトスにおける名と契約と支配の法則有効性が5つめの古則と連動して描かれる重要シーンであり、アツコもただ捕まってただ助けられた家父長制的お姫様キャラではない。
- より端的に:ピカおじが音頭取ってる限りブルーアーカイブは文学的に安泰であろうぐわっはっはっは。はあ。
上記コラムは神話方面からのみ限定的に説明している(現在このWikiにいっぱい転がっているジェンダー論・フェミニズム的な視点は末尾除いてほとんど含まれていない)けど、東洋文化において名と支配は表裏一体。
- ほとんど含まれていない
- と書いて思い直したけど、「信じて演じることで本当にそうなる」というアイデアはジェンダー論(パフォーマティビティの循環)に他ならない。
実存主義から直結してるし。
実践編。
おい鷗外、権力欲に負けただけのクソ行為を感傷で正当化するな。
おい森鷗外、権力欲に負けただけのクソ行為を感傷で正当化するな。
おい林太郎、権力欲に負けただけのクソ行為を感傷で正当化するな。
おい森林太郎、権力欲に負けただけのクソ行為を感傷で正当化するな。
おい石炭をば早や積み果てつ、権力欲に負けただけのクソ行為を感傷で正当化するな。
やりたいほうだい。
これら5つの文は自然科学的にほぼ等価(エイリアス)だけど、人文科学的にはまったく等価ではない。
- このWikiでは(少なくとも私が)こういった社会規範的呪いをよく使い分けている。(特に旧コンテンツ由来の記述)
- もちろん表層的な意味内容として配慮(ポライトネス)や礼儀正しさの差はある。あれど文化としてそれだけではないって話ね。