背番号19の呪い

Last-modified: 2023-10-29 (日) 17:39:06

横浜DeNAベイスターズおよびその前身球団である横浜ベイスターズの選手に降りかかる、その背番号を着けた選手が期待された成績を残せなかったり、大怪我をしたりしてしまう呪いのこと。


経緯

由来はスポニチの記事(2007年12月18日付)より。

1991年オフ、横浜大洋ホエールズ(ベイスターズの前身)の主力投手だった中山裕章がわいせつ容疑で逮捕され、年明けに球団を解雇された。それに伴い、彼が着用していた背番号19*1は1992年シーズンに欠番とされ、そのまま封印される予定だった。しかし球団名を「横浜ベイスターズ」に変更後初のドラフト会議で日本石油*2のエース(バルセロナ五輪日本代表)の小桧山雅仁を1位指名、その小桧山が「19」に関連する縁起の良いエピソードを多数有していたこと*3に加え、本人も「事件のことは気にしない」と19番の着用を快諾したために欠番状態は1年で解消された。

しかし小桧山は入団後故障に苦しみ、1998年限りで背番号19を剥奪される*4。それ以降も戸叶尚(1999-2000)*5・杉本友(2001-2003)*6エディ・ギャラード(2004)*7、染田賢作(2005-2008)*8と、期待とともに19番を背負った選手たちが次々と期待外れに終わったことから、チームの低迷も相まっていつしかベイスターズの背番号19は「呪われた背番号」として扱われるようになってしまう。

2009年から19番を継いだ藤江均(2009-2014)も一時は中継ぎエースに定着したものの経験値リセットの憂き目に遭い、呪いを払拭できなかった。

しかし2015年に背番号19を継いだ山﨑康晃が入団1年目から抑えで大ブレイク、「月間10SのNPB新人投手記録」「ルーキー最多の37Sで新人王受賞」「日本人投手最速の通算100S・150S達成」「史上最年少での通算200S達成」と大記録を次々に樹立。不振に陥る年があったり騒動を起こしたりしてこそいるものの、トータルでは一流選手と言える実績を残しており背番号19の呪いは無事解消されたと見ていいだろう。


背番号13の呪い?

背番号19の呪いが解かれるのと並行して、今度は「背番号13の呪い」が横浜ファンの間で囁かれはじめる。背番号13は「ヒゲ魔神」こと五十嵐英樹*9以降はまともに活躍した選手がおらず、岡本直也(2002-2004)*10那須野巧(2005-2009)・坂元弥太郎*11(2010)・大沼幸二(2011-2012)・吉川輝昭(2013)*12柿田裕太(2014-2017)と散々だった。しかもこちらは成績のみならず素行面にも問題のある選手が多く*13、余計にタチが悪いと言える。
また、柿田に代わって2017年に背番号13を着けた水野滉也も1年目に右肩痛で育成落ちし、支配下に戻れず2019年に引退。その後2019年ドラフトで3位指名され13番を受け継いだ伊勢大夢は入団早々交通事故に遭い負傷
あまりの呪いの強大さに横浜ファンの間では「背番号13を欠番にすべき」という声も上がっていたが、その伊勢は(背番号的な意味での)不安をよそに一軍で中継ぎとして登板を重ね、10月10日の試合で一軍初勝利を挙げ、最終的にシーズン33試合に登板*14して防御率1.80と好成績を残す。翌年以降も中継ぎとして一軍帯同を続け好成績を残しており、こちらもある程度呪いは解消されたと言っていいだろう。

余談

海外(特にキリスト教圏)では「13は不吉な数字」とされ忌み嫌われているが、これはキリストが処刑される寸前の所謂「最後の晩餐」が由来であり*15、当然ながらベイスターズは全く関係ない。キリスト教がさほど浸透していない日本では背番号13が敬遠されることはほぼなく*16岩瀬仁紀(中日)*17西口文也(西武)のように入団時からこの番号を着用し、長い現役生活を全うした選手もいる。


類似例

背番号7の呪い(巨人)

   名前       着用年           降りかかった災厄       
筒井修1936~1937・19411942年の戦争召集の際に左手の親指以外を失い選手生命を絶たれた。1990年に死去。
与那嶺要1951途中~19601960年にA級10年制度*18の資格を得て他球団交渉*19をしようとするもこの年オフに監督就任した川上哲治との確執もあり交渉前に自由契約となる。2011年に死去。
桑田武1969ヤクルト移籍後の1970年に黒い霧事件で3か月の出場停止処分を受けこれが引き金となって引退に追いやられた。1991年に死去。
柴田勲1970~1981V9時の1番打者として活躍も引退後ポーカー賭博で逮捕。現在は巨人OB会顧問。
吉村禎章1986~1998天才打者としての道を着実に歩んでいた矢先の1988年に守備中の選手同士の衝突により左膝靱帯断裂のもはや再起不能レベルとも言える重傷を負う*20。そのため今もなお「あのケガさえなければ」と言われ続けている。現在は巨人の編成部長。
二岡智宏1999~20082008年に山本モナとの不倫が報じられ、同年オフに追放同然で日本ハムへトレード。現在は巨人のヘッド兼打撃チーフコーチを務める。
長野久義2010~2018・2023~2度も入団拒否して念願の巨人入りを果たすも、丸佳浩のFA移籍に伴うプロテクト漏れによる人的補償指名により広島へ移籍。2023年より復帰。


関連項目


*1 中山は球界復帰後の中日時代(1995-2001)と台湾・中信ホエールズ時代(2002-2003)にも背番号19を着用した。なお、中山退団後の中日では久本祐一(2002-2005)・吉見一起(2006-2020)・髙橋宏斗(2020年ドラフト1位、2021-)が背番号19を着用している。
*2 現ENEOS。
*3 慶大時代に東京六大学リーグで通算19勝したことなど。
*4 30番に変更。この年はチームがリーグ優勝・日本一に輝く中一軍登板無し。その後2001年限りで退団し、2002年は台湾・中信で中山とチームメイトになっている。
*5 1997年に2桁勝利を記録し、1998年には7勝を挙げたが、1999年に背番号が63から19に変わった途端に成績が下降。2000年オフに杉本とのトレードでオリックスへ放出。2005年には楽天の初代メンバーの1人となり、2006年限りで引退。
*6 オリックス時代にはプロ野球史上初の国立大(筑波大)卒のドラフト1巡目指名選手として注目されたがブレイクできず、2000年オフに戸叶とのトレードで加入し19番を継承したが2003年オフに戦力外。2004年からはヤクルトでプレーし、2005年限りで引退。
*7 2000年から中日で抑え投手として活躍したが、2003年途中に起用法をめぐり当時の山田久志監督と対立し退団。ウエーバー公示され横浜へ移籍したが、背番号19を着用して臨んだ2004年に佐々木主浩の復帰により再び抑えの座を追われ閉幕を待たず退団
*8 2004年オフに那須野巧とともに自由獲得枠で入団。「関西六大学ナンバーワン右腕」と期待されたが、プロでは1勝もできず2008年限りで引退
*9 1998年に中継ぎエース格としてリーグ優勝・日本一に貢献。2001年引退。
*10 高卒のドラフト4位指名ながら1年目に10番台の背番号を与えられるなど高い期待を受けたが、背番号13を着用した3年間で一軍での登板機会はわずか7試合(2003年の5試合が最多)。2004年オフに13番を剥奪されて以降も結果を残せず、NPBでは未勝利のままヤクルトに在籍した2011年限りで現役を引退した。
*11 横浜時代の登録名は「弥太郎」。
*12 2004~10年の1度目の在籍時は背番号12。ソフトバンク移籍後は中継ぎとして結果を残すも、出戻りして13番を背負った途端経験値リセットされ戦力外・引退。
*13 那須野は入団前後ともに多数目立った意識の低さや契約金騒動、坂元(弥太郎)はフロントを批判した末にわずか1年で大沼とトレードされ、その大沼も私生活上のトラブルにより翌2012シーズン途中に引退、柿田は当て逃げ事故を起こして処分される、とここまでは岡本と吉川以外ことごとく問題を起こしており、そしていずれもグラウンド外での出来事である。もっとも弥太郎に関しては当時のフロント側にも強く批判されて当然と言えるだけの理由があり、本人だけの落ち度というわけでもないが。
*14 この時点で吉川(21登板)・柿田(登板なし)・水野(1登板)の(吉川はDeNA復帰後の)合計一軍登板数を超えた
*15 晩餐に集ったのが13人。その13番目の男が、かの裏切り者の代名詞であるイスカリオテのユダである。日本においても『北斗の拳』に登場するユダなどのモチーフになっている。
*16 キリスト教自体は織田信長が鉄砲輸入と反抗勢力である仏教勢力の弱体化を主な目的に受け入れキリシタン大名が多数生まれるに至るが、後の豊臣秀吉の禁教令と鎖国により、明治時代の高札廃止による撤廃まで280年間禁教とされていた為廃れかけていた。ただしそれでも、13回忌や同じく日本で嫌われる数字である「4(死)」と「9(苦)」の自然数の和が13になっていたりするなど、あまり良い意味で使われる事も少ない。
*17 現役時代は背番号をタロット占いでの大アルカナ13番目の「Death」のカードに引っ掛け、決め球であるスライダーを鎌に見立てて「死神」という異名をとっており、中日ファンからは縁起もののように扱われていた。
*18 10年間同一球団でプレーするともらえる権利。引退試合の開催、トレード拒否、ボーナス支給などの権利が与えられた。1975年に廃止。
*19 現在のFA権に近い制度。この制度を利用して移籍した選手は田宮謙次郎(大阪→大毎)、青田昇(大洋→阪急)、金田正一(国鉄→巨人)などがいる。
*20 左足は左打者の軸足であることから打撃面に深刻な影響を及ぼし、復帰後は1度も規定打席到達はおろか100試合以上出場すら果たせず、1994年には打率1割台に落ち込むシーズンすらあったほどだった。生涯打率は負傷前は.321だったが最終的には.296まで落ち込み、本塁打数も負傷前は7年間で100本も復帰後は10年間で49本だった。