26-0

Last-modified: 2022-05-15 (日) 22:43:55

2005年3月27日・千葉ロッテマリーンズ対東北楽天ゴールデンイーグルスの開幕2戦目におけるスコアの事。
2021年現在、「最も得点差がついた完封試合」である*1


【目次】


楽天の球界参入、チーム作り

2004年シーズン終了後に近鉄がオリックスに吸収合併され、12球団を維持するため楽天が新規参入。
そして11月8日時点でオリックスと近鉄に所属する選手を分配するドラフトが行われた*2が、まずオリックスが25選手を優先的にプロテクトするというオリックス側に有利すぎるルールであったために、主力クラスの選手はオリックスに根こそぎ奪われてしまう結果となった。
またオリックス・近鉄共に投手力に課題があるチームだったため、投手陣は特に悲惨なことになった。

分配後の戦力強化でも、各球団からの無償トレードなどで一軍での実績が無い選手や成績の落ちこんだ半ば戦力外と化していたベテランを集めるのがやっとで、最終的に主戦力として期待できたのは、

  • オリックス入団を拒否したため、オリックス分配後に金銭トレードという形で楽天入りした岩隈久志
  • 近鉄のリーダー的存在だったことからかねてよりオリックスからの指名を拒み、オリックスもそれを認める形で分割ドラフトでの指名を回避、楽天に入った礒部公一吉岡雄二
  • 近鉄でもそれなりの結果を残していたが、不動のレギュラー陣によって台頭を阻まれていた高須洋介、川口憲史、福盛和男、益田大介
  • 前年の近鉄で正捕手であったものの、強打の日高剛をはじめブルーウェーブの捕手が多くプロテクトされたことでプロテクト漏れ、楽天が獲得した藤井彰人
  • 分配ドラフト前にオリックスを自由契約になったため、分配ドラフトの対象にならず楽天入りした山﨑武司
  • 中日で2003年は規定打席未達ながら3割を打つも外野のレギュラーから外され出場機会が減少、オフに無償トレードで獲得した関川浩一
  • 他球団が指名回避した結果、楽天が(栄養費問題というマイナスイメージに四の五の言ってられずに)自由獲得枠で指名した一場靖弘

といった面子であった。楽天黎明期を支えた沖原佳典*3鉄平*4渡辺直人*5はこの時点では加入していない。

当初、楽天の三木谷浩史オーナーは「10億円近い補強費用があり、必要ならばポケットマネーも出して現役のメジャーリーガーを獲る」と戦力補強に意欲的なコメントを残していたほか、アレックス・ラミレス(当時ヤクルト)やアンディ・シーツ(当時広島、後に阪神)の獲得に動き、また同年オフにロッテを自由契約となっていたネイサン・ミンチーとは、入団交渉まで漕ぎ着けたことを報じられた。
が、ラミレスはヤクルトに残留し、ミンチー*6シーツ、ジョージ・アリアス(前阪神)との交渉も不調に終わる*7。結局、楽天はケビン・ホッジス*8、ゲーリー・ラス、アーロン・マイエット、マット・スクルメタ*9、ルイス・ロペス*10、デイモン・マイナー*11、アンディ・トレーシーと合計で7名もの助っ人を補強したが、彼らの年俸は高くても概ね5000万円程度であった。
そしてFA選手に至っては「金銭面で折り合わない」という理由で全く獲得に動かなかった*12

そんな楽天の記念すべき球団史上最初のカードの対戦相手は前年4位のロッテに決定*13。しかし、先述した編成の様子から楽天は3タテを食らうだろうと予想する野球好きも多かった。
しかし、その開幕戦は大方の予想に反し、先発・岩隈が9回1失点と力投し、3-1で楽天が勝利。NPBの歴史上初めて、完全に新規参入の球団が一軍戦の経験がある既成の球団を相手に初戦勝利を挙げるという快挙を達成した。このことから、「意外と1年間戦えるのではないか?」という声も上がっていた、のだが…


伝説の開幕2戦目

2戦目は投手陣が4発被弾を含む24安打・14四死球と大爆発炎上。打線もロッテ・渡辺俊介の前に1安打1四球と抑えられ26-0の完封負け、しかも出塁した2人の選手は併殺打でどちらも刺されたため、完全試合・ノーヒットノーランこそ免れたが、9回打者27人の完封負け*14という始末。この記録的な敗戦はメディアによって広く拡散され、開幕戦で僅かに期待したファンを絶望させ、田尾安志監督に「二軍レベルにすら達していない」と言わしめた。


試合結果

3月27日(日) 千葉マリン 2回戦(ロッテ1勝1敗0分)
試合時間3:35 観衆24,028

123456789RHE
楽天000000000010
ロッテ211101407X26240
 
バッテリー●藤崎(0勝1敗)、有銘、小倉、福盛、徳元、マイエット-藤井、長坂
○渡辺俊(1勝0敗)-橋本
本塁打西岡1号(3)、パスクチ1号(4)、2号(2)、ベニー1号(1)

出場選手の個人成績など、詳細はこちらも参照。


画像


ロッテはこの2005年よりベンチ入り25人に次ぐ「ファンの番号」として26番を準永久欠番としており*15、バレンタイン監督は背番号と得点をかけて強調している。


この試合のスコアボード。楽天ファンにとってのグロ画像である。


その後の楽天

開幕2戦目で見るも無惨な負けっぷりを晒した楽天だが、まだ地獄の序の口であった。
まず、打撃面で打てる選手が9人揃うことが少なく、シーズン中には通算打率1割台のカツノリがクリーンナップに起用されるという珍事も発生するなど、打順の固定に苦しんだ。
岩隈も前年から抱えていた肩の故障により期待程の成績を残せず*16、途中からは投手陣が完全崩壊、プロとは思えない負け方をくり返し、2度の11連敗などを重ねて最終的には38勝97敗・勝率.281*17、首位と51.5ゲーム差、5位にすら25ゲーム差という有様であった。
当然ながらパ・リーグ全5球団に負け越したほか、交流戦でも横浜戦は全敗(0勝6敗)。このほか阪神・巨人・広島にも負け越したため、9球団相手に負け越した*18

前述の助っ人たちも、まともにチームに貢献出来ていたのはロペスだけ*19という状況であった上、スクルメタ、マイエット、デイモンは成績不振でシーズン途中に解雇、残りの面子もシーズン終了後に解雇され全滅するという典型的な「安物買いの銭失い」としか言いようのないコントを演じてしまった。


田尾の解任発表とその後

このような見るも無残な成績を叩き出したことと采配の不手際*20から、複数年契約のはずだった田尾監督は上層部に見切りをつけられ、シーズン終盤とはいえ9月25日付けで今シーズンをもっての解任が発表。28日の最終戦まで指揮を執ったものの、僅か1年で退団に追いやられることとなり、監督としてのキャリアに大きく傷がつくこととなった。
ただし、野球評論家や当の楽天関係者ですら「この戦力で100敗を回避した事自体が奇跡」「誰が監督をやっても結果は同じだった」「この戦力では開幕前から最下位が目に見えていたが、誰かが指導者としてのキャリアが傷つく事を前提に引き受けなければならなかった」「たった1年で進退を決めるのはおかしい」などと語っており、田尾には同情の声も多い。そもそも田尾本人は楽天監督に就任するまでプロ野球チームにおける監督経験はおろかコーチ経験すら無く*21、指導者としての能力が未知数であり*22、監督就任を打診された地点で「俺を地獄に落とすのか」とドン引きしていた。また、後に田尾に代わって楽天の監督となる野村克也田尾の今後の指導者としてのキャリアを失わせてしまった*23と激怒している。実際問題田尾はその後2020年に琉球ブルーオーシャンズのコーチに就くまで指導者としての仕事は来なかった*24。なお楽天時代も成績はともかく、山崎武司を復活させるなど功績はあった*25
そんな哀れな監督への思いは、本拠地最終戦とシーズン最終戦の試合終了後に楽天ファンに加え対戦相手であるロッテファンとホークスファンも加わった田尾コールが起き、特に最終戦では楽天ナインはベンチ裏に下がる田尾を呼び止め、ぶっちぎりの最下位チームとしては異例とも言える監督への胴上げが行われるという形で具現化し、シーズン終了後には宮城県で解任に反対する団体東北若鷲会が発足し、署名活動が行われた。
しかしそんな中楽天の球団職員からは「田尾監督が辞めたら、楽天のファンをやめる人がいると思いますか。10日たったら忘れますよ」というあまりに冷めた発言が飛び出してしまい物議を醸した。また契約金についても球団側から「残り2年間の契約金は功労金という形で支払うが、楽天球団の名誉を棄損する言動を行った場合は減額する」という条件を出されたことに田尾は激怒しており、2006年の1年分の補償だけを受け取りそれ以外の功労金に対しては拒否する態度を示していた。
反面田尾は上述の通り就任時こそドン引きしていたものの、2005年当時は球団再編でプロ野球界が荒れていた事や心無い発言をしたオーナーから来る日本球界の印象悪化を憂いており「(監督として)守らなきゃいけないものがある」*26という意志から最終的に監督就任を受諾した経緯があることや、成績が優れなくてもヤジを飛ばさず応援してくれる地元のファンに感謝を示していたり、最後には胴上げをしてもらえるなど周囲から完全に嫌われていた訳でもなかったことから、一概に楽天という球団の監督を務めていた事自体に嫌悪感は示していなかったようである。
 
この惨状を見てフロントはさすがに認識を改めたのか、オフには新監督に野村克也を据え、NPBで実績のあるホセ・フェルナンデスやリック・ショート*27を獲得するなどチーム補強に本腰を入れるようになった。
その後も戦力が足りていなかったことあり、チームはしばらく低迷を続けるが2009年に初めてAクラスに入り、2013年に初のリーグ制覇と日本一を達成することとなった。
現在は頻繁にパ・リーグの優勝争いにも絡むほどのチームへと成長しているが、創成期からの楽天ファンには未だにこの試合のトラウマがあり、「楽天のセーフティーリードは26点」などとネタにされている。


関連項目

関連リンク



Tag: 楽天 ロッテ 馬鹿試合


*1 パ・リーグの最大得点差完封試合でもあり、1リーグ時代の1946年7月15日・近畿グレートリング(現ソフトバンク)対ゴールドスター(ロッテの前身のひとつ)戦で、グレートリングが26対0で勝利して以来のNPBタイ記録。負けたチームが完封されず最も得点差がついた試合は、1940年4月6日・阪急軍対南海軍の32-2。
*2 このドラフトに関与しなかった主な主力選手としては、ポスティングを使ったメジャー移籍を表明していた中村紀洋(当時近鉄、ドジャースが獲得)や、同じく近鉄で、「近鉄存続なら残留、近鉄消滅ならばFA」とかねてより宣言し、オフに宣言通りFAを宣言していた大村直之(ソフトバンクが獲得)などがいた。
*3 この年の6月に前田忠節とのトレードで阪神から移籍。
*4 この年のオフに中日から金銭トレードで移籍。
*5 2006年の大学・社会人ドラフトで5巡指名。この時の高校生1巡目が田中将大
*6 結局、楽天入りしなかったミンチーはそのまま引退した。
*7 2004年オフにはミンチー、シーツ、アリアス以外にも、ロベルト・ペタジーニ(前巨人)、ペドロ・バルデス(前ダイエー)、エディ・ギャラード前横浜)、マーク・バルデス(前中日)といった日本球界で実績を残していた外国人選手が多数放出されていた。
*8 2001年途中~2003年の間ヤクルトでプレーしており、2002年には上原浩治と同数で最多勝を獲得したほか、打者として本塁打を2本打っている。また、2004年には弟のトレイ・ホッジスが阪神に在籍していた。
*9 2003年にダイエー(現ソフトバンク)で11セーブをマークしており、抑えとして期待された。
*10 1990年代後半~2000年代初頭にかけて広島に在籍した選手とは同姓同名の別人で、両者に血縁関係は無い。ただし何の因果か楽天のロペスが解雇された翌年(2006年)に元広島のロペスが楽天のスカウトに就任したため、かなりややこしい事になってしまった。
*11 苗字である「マイナー」は縁起が悪いという理由で登録名はデイモンとされた。ちなみに弟はあの鉄人カル・リプケンの連続試合出場記録を途切れさせたことでも知られるライアン・マイナー。
*12 ただし、2004年のFA宣言選手は9人いたものの、9人中6人が所属チームに宣言残留、残る3人もメジャー移籍か残留の2択を公言していた藪恵壹(当時阪神、アスレチックスが獲得)、同じくメジャー挑戦を目指していた稲葉篤紀(当時ヤクルト、交渉がまとまらず日本ハムが獲得)、先述の経緯から楽天加入の可能性が極めて低い大村という面子だったため、楽天がFA戦線に参入する余地がほとんどない年ではあった。
*13 ちなみに、前年は5位が近鉄、6位がオリックスだったため、ロッテが既存4球団中最も順位が低いチームではあった。もっとも、ロッテはそれでも勝率5割だったのだが。
*14 「準完全試合」は出塁が1人だけを意味するため、この試合は該当しない。完全試合でもノーヒットノーランでも無い打者27人の完封負けは非常に珍しく、1998年4月3日、阪神が横浜・川村丈夫投手に喫して以来の記録。この試合は唯一安打した和田豊が、続く桧山進次郎の併殺でアウトになり、その後一人も走者が出なかったので「準完全試合」であった。
*15 一方の楽天も「スタメン9人に続くファンの番号」として10番が準永久欠番扱いになっているが、こちらは2005年の創設時から続いているため、事実上の永久欠番でもある。
*16 9勝15敗でパ・リーグ最多敗。しかし2008年に復活し、21勝4敗で最多勝。
*17 この年のパ・リーグ首位打者である西武・和田一浩の打率(.322)どころかチーム首位打者の吉岡の打率(.282)すら下回るという有様であった。また年間勝率が3割を切ってしまったのはドラフト制度導入後のパ・リーグでは唯一。
*18 しかし、屈辱の11球団全てに対する負け越しは免れた。残るヤクルト相手には3勝3敗の五分で終え、当時黄金期の中日相手には敵地ナゴヤドームでの3連戦で球団史上初の3連勝を記録するなど4勝2敗の成績で終え、11球団で唯一勝ち越しに成功している。一方、唯一楽天に負け越す格好となった中日は「降竜戦」と揶揄されるほどの交流戦での低調な成績が尾を引き、リーグ連覇を逸する結果となった。
*19 最終的に118試合に出場し打率.223、12本塁打、49打点、61三振、得点圏打率.314で得点圏でそこそこ打った以外は助っ人としては力不足であったが、これでもこの7名の中では最も優秀な成績であることがこの年の助っ人の惨状を物語っている。
*20 岩隈の酷使(もっとも、岩隈に頼らざるを得ない台所事情ではあった)、無駄にエンドランを多用するなど。
*21 2002年の第14回アジア競技大会で守備走塁コーチを務めたのがそれまで田尾にとって唯一の指導者経験であった。
*22 田尾の西武での現役時代に監督だった廣岡達朗は田尾の言動やチームメイトとの接し方を指し「相手のミスや弱点を見抜く目はあるがそこからどう改善していくのかを見出すことが得意ではない」「指導者に必要とされる根気強くサポートできるだけの器量や辛抱強さに欠いていると思われる部分が見受けられる」と評していた。
*23 その野村でさえ初年度の2006年は47勝85敗と、采配でどうにかなるレベルではなかったと言える。
*24 なおこちらも楽天時代と同様わずか1年で退団している。
*25 山崎本人も「田尾監督にフォームの指導を受けたことが再起のきっかけになった」と述べている。また、山崎を復活させた事で、2007年の最下位脱出や2009年の2位に繋がったたといえる。
*26 ただし上述の「二軍レベルにも達していない」という件や炎上を繰り返したホッジスを「もう使うことはない」と断ずるなど辛辣な発言を繰り返していた面もあり、上述の廣岡の述べていた「田尾は辛抱強さが足りない」という指摘はここにもあると思われる。
*27 2003年千葉ロッテ在籍時の登録名は「ショート」だったが、ポジションの『ショート(遊撃手)』との混同を避けるため楽天入団後はファーストネームの「リック」に変更した。