2005年3月27日・千葉ロッテマリーンズ対東北楽天ゴールデンイーグルスの開幕2戦目におけるスコアの事。
2021年現在、「最も得点差がついた完封試合」である*1。
【目次】
楽天の球界参入、チーム作り 
2004年シーズン終了後に近鉄がオリックスに吸収合併され、12球団を維持するため楽天が新規参入。
そして11月8日時点でオリックスと近鉄に所属する選手を分配するドラフトが行われた*2が、まずオリックスが25選手を優先的にプロテクトするというオリックス側に有利すぎるルールであったために、主力クラスの選手はオリックスに根こそぎ奪われてしまう結果となった。
またオリックス・近鉄共に投手力に課題があるチームだったため、投手陣は特に悲惨なことになった。
分配後の戦力強化でも、各球団からの無償トレードなどで一軍での実績が無い選手や成績の落ちこんだ半ば戦力外と化していたベテランを集めるのがやっとで、最終的に主戦力として期待できたのは、
- オリックス入団を拒否したため、オリックス分配後に金銭トレードという形で楽天入りした岩隈久志
- 近鉄のリーダー的存在だったことからかねてよりオリックスからの指名を拒み、オリックスもそれを認める形で分割ドラフトでの指名を回避、楽天に入った礒部公一と吉岡雄二
- 近鉄でもそれなりの結果を残していたが、不動のレギュラー陣によって台頭を阻まれていた高須洋介、川口憲史、福盛和男、益田大介
- 前年の近鉄で正捕手であったものの、強打の日高剛をはじめブルーウェーブの捕手が多くプロテクトされたことでプロテクト漏れ、楽天が獲得した藤井彰人
- 分配ドラフト前にオリックスを自由契約になったため、分配ドラフトの対象にならず楽天入りした山﨑武司
- 中日で2003年は規定打席未達ながら3割を打つも外野のレギュラーから外され出場機会が減少、オフに無償トレードで獲得した関川浩一
- 他球団が指名回避した結果、楽天が(栄養費問題というマイナスイメージに四の五の言ってられずに)自由獲得枠で指名した一場靖弘
といった面子であった。楽天黎明期を支えた沖原佳典*3、鉄平*4や渡辺直人*5はこの時点では加入していない。
当初、楽天の三木谷浩史オーナーは「10億円近い補強費用があり、必要ならばポケットマネーも出して現役のメジャーリーガーを獲る」と戦力補強に意欲的なコメントを残していたほか、アレックス・ラミレス(当時ヤクルト)やアンディ・シーツ(当時広島、後に阪神)の獲得に動き、また同年オフにロッテを自由契約となっていたネイサン・ミンチーとは、入団交渉まで漕ぎ着けたことを報じられた。
が、ラミレスはヤクルトに残留し、ミンチー*6やシーツ、ジョージ・アリアス(前阪神)との交渉も不調に終わる*7。結局、楽天はケビン・ホッジス*8、ゲーリー・ラス、アーロン・マイエット、マット・スクルメタ*9、ルイス・ロペス*10、デイモン・マイナー*11、アンディ・トレーシーと合計で7名もの助っ人を補強したが、彼らの年俸は高くても概ね5000万円程度であった。
そしてFA選手に至っては「金銭面で折り合わない」という理由で全く獲得に動かなかった*12。
そんな楽天の記念すべき球団史上最初のカードの対戦相手は前年4位のロッテに決定*13。しかし、先述した編成の様子から楽天は3タテを食らうだろうと予想する野球好きも多かった。
しかし、その開幕戦は大方の予想に反し、先発・岩隈が9回1失点と力投し、3-1で楽天が勝利。NPBの歴史上初めて、完全に新規参入の球団が一軍戦の経験がある既成の球団を相手に初戦勝利を挙げるという快挙を達成した。このことから、「意外と1年間戦えるのではないか?」という声も上がっていた、のだが…
伝説の開幕2戦目 
2戦目は投手陣が4発被弾を含む24安打・14四死球と大爆発炎上。打線もロッテ・渡辺俊介の前に1安打1四球と抑えられ26-0の完封負け、しかも出塁した2人の選手は併殺打でどちらも刺されたため、完全試合・ノーヒットノーランこそ免れたが、9回打者27人の完封負け*14という始末。この記録的な敗戦はメディアによって広く拡散され、開幕戦で僅かに期待したファンを絶望させ、田尾安志監督に「二軍レベルにすら達していない」と言わしめた。
試合結果 
3月27日(日) 千葉マリン 2回戦(ロッテ1勝1敗0分)
試合時間3:35 観衆24,028
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | R | H | E | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
楽天 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
ロッテ | 2 | 11 | 1 | 0 | 1 | 4 | 0 | 7 | X | 26 | 24 | 0 |
バッテリー | 楽 | ●藤崎(0勝1敗)、有銘、小倉、福盛、徳元、マイエット-藤井、長坂 |
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ロ | ○渡辺俊(1勝0敗)-橋本 | |
本塁打 | ロ | 西岡1号(3)、パスクチ1号(4)、2号(2)、ベニー1号(1) |
出場選手の個人成績など、詳細はこちらも参照。
画像 
ロッテはこの2005年よりベンチ入り25人に次ぐ「ファンの番号」として26番を準永久欠番としており*15、バレンタイン監督は背番号と得点をかけて強調している。
この試合のスコアボード。楽天ファンにとってのグロ画像である。
その後の楽天 
開幕2戦目で見るも無惨な負けっぷりを晒した楽天だが、まだ地獄の序の口であった。
まず、打撃面で打てる選手が9人揃うことが少なく、シーズン中には通算打率1割台のカツノリがクリーンナップに起用されるという珍事も発生するなど、打順の固定に苦しんだ。
岩隈も前年から抱えていた肩の故障により期待程の成績を残せず*16、途中からは投手陣が完全崩壊、プロとは思えない負け方をくり返し、2度の11連敗などを重ねて最終的には38勝97敗・勝率.281*17、首位と51.5ゲーム差、5位にすら25ゲーム差という有様であった。
当然ながらパ・リーグ全5球団に負け越したほか、交流戦でも横浜戦は全敗(0勝6敗)。このほか阪神・巨人・広島にも負け越したため、9球団相手に負け越した*18。
前述の助っ人たちも、まともにチームに貢献出来ていたのはロペスだけ*19という状況であった上、スクルメタ、マイエット、デイモンは成績不振でシーズン途中に解雇、残りの面子もシーズン終了後に解雇され全滅するという典型的な「安物買いの銭失い」としか言いようのないコントを演じてしまった。
田尾の解任発表とその後 
このような見るも無残な成績を叩き出したことと采配の不手際*20から、複数年契約のはずだった田尾監督は上層部に見切りをつけられ、シーズン終盤とはいえ9月25日付けで今シーズンをもっての解任が発表。28日の最終戦まで指揮を執ったものの、僅か1年で退団に追いやられることとなり、監督としてのキャリアに大きく傷がつくこととなった。
ただし、野球評論家や当の楽天関係者ですら「この戦力で100敗を回避した事自体が奇跡」「誰が監督をやっても結果は同じだった」「この戦力では開幕前から最下位が目に見えていたが、誰かが指導者としてのキャリアが傷つく事を前提に引き受けなければならなかった」「たった1年で進退を決めるのはおかしい」などと語っており、田尾には同情の声も多い。そもそも田尾本人は楽天監督に就任するまでプロ野球チームにおける監督経験はおろかコーチ経験すら無く*21、指導者としての能力が未知数であり*22、監督就任を打診された地点で「俺を地獄に落とすのか」とドン引きしていた。また、後に田尾に代わって楽天の監督となる野村克也は田尾の今後の指導者としてのキャリアを失わせてしまった*23と激怒している。実際問題田尾はその後2020年に琉球ブルーオーシャンズのコーチに就くまで指導者としての仕事は来なかった*24。なお楽天時代も成績はともかく、山崎武司を復活させるなど功績はあった*25。
そんな哀れな監督への思いは、本拠地最終戦とシーズン最終戦の試合終了後に楽天ファンに加え対戦相手であるロッテファンとホークスファンも加わった田尾コールが起き、特に最終戦では楽天ナインはベンチ裏に下がる田尾を呼び止め、ぶっちぎりの最下位チームとしては異例とも言える監督への胴上げが行われるという形で具現化し、シーズン終了後には宮城県で解任に反対する団体東北若鷲会が発足し、署名活動が行われた。
しかしそんな中楽天の球団職員からは「田尾監督が辞めたら、楽天のファンをやめる人がいると思いますか。10日たったら忘れますよ」というあまりに冷めた発言が飛び出してしまい物議を醸した。また契約金についても球団側から「残り2年間の契約金は功労金という形で支払うが、楽天球団の名誉を棄損する言動を行った場合は減額する」という条件を出されたことに田尾は激怒しており、2006年の1年分の補償だけを受け取りそれ以外の功労金に対しては拒否する態度を示していた。
反面田尾は上述の通り就任時こそドン引きしていたものの、2005年当時は球団再編でプロ野球界が荒れていた事や心無い発言をしたオーナーから来る日本球界の印象悪化を憂いており「(監督として)守らなきゃいけないものがある」*26という意志から最終的に監督就任を受諾した経緯があることや、成績が優れなくてもヤジを飛ばさず応援してくれる地元のファンに感謝を示していたり、最後には胴上げをしてもらえるなど周囲から完全に嫌われていた訳でもなかったことから、一概に楽天という球団の監督を務めていた事自体に嫌悪感は示していなかったようである。
この惨状を見てフロントはさすがに認識を改めたのか、オフには新監督に野村克也を据え、NPBで実績のあるホセ・フェルナンデスやリック・ショート*27を獲得するなどチーム補強に本腰を入れるようになった。
その後も戦力が足りていなかったことあり、チームはしばらく低迷を続けるが2009年に初めてAクラスに入り、2013年に初のリーグ制覇と日本一を達成することとなった。
現在は頻繁にパ・リーグの優勝争いにも絡むほどのチームへと成長しているが、創成期からの楽天ファンには未だにこの試合のトラウマがあり、「楽天のセーフティーリードは26点」などとネタにされている。
関連項目 
関連リンク 
- 当日のNPB公式記録
(閲覧注意)