2005年3月27日に行われた千葉ロッテマリーンズ対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(千葉マリンスタジアム)のスコア。
2026年現在でも「''最も得点差がついた完封試合''」となっている((1946年7月15日(1リーグ時代)の近畿グレートリング(現ソフトバンク)対ゴールドスター(ロッテの前身のひとつ)戦と並びNPBのタイ記録、パ・リーグの単独1位。「得点差が最大の試合」は、1940年4月6日の阪急軍対南海軍の「30点差」(32-2)。))。
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*背景 ~楽天の球界参入、苦難のチーム作り~ [#m4831b76]
2004年のNPBは[[大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発する球界再編問題>WikiPedia.ja:プロ野球再編問題 (2004年)]]を経て、オフに近鉄とオリックスの合併(新生オリックス・バファローズの誕生)及び[[宮城県仙台市>楽天絶命パーク]]を拠点とした東北楽天ゴールデンイーグルスの新規参入が実現した((同年にはダイエーも経営難に陥り福岡ダイエーホークスの球団経営ができなくなったため、ソフトバンクへの身売りを経て「[[福岡ソフトバンクホークス>邪悪帝國]]」が誕生している。))。自前の選手を持たない楽天のチーム編成措置として、11月8日にまず近鉄とオリックスに所属する選手を分配するドラフトが行われた。しかしこれは「''最初にオリックスが25人を優先的にプロテクトする''」という楽天にとって著しく不利なルールであり、楽天はこのドラフトで(主にブルーウェーブ側の)戦力たりえる選手をほとんど集められなかった((留意しておくとオリックスは近鉄球団を買収した立場にあるため、両球団の戦力を均等に分配もしくは近鉄所属選手を丸々楽天に移すことになるとオリックスが大損したことになってしまうため、選手会との話し合いでもオリックス側に分配が有利になる点については妥協されない結果となった。))。
加えて元近鉄の[[中村紀洋>白ノリ]]はメジャー挑戦、[[大村直之>イケメン]]は「近鉄存続なら残留、近鉄消滅ならばFA」の宣言通りFAでソフトバンクへ移籍し、主力選手の流出も重なった。また当時のオリックスと近鉄は共に投手力に課題を抱えて下位に沈んでいたチームだったため((特に深刻だったのはオリックスで、リーグ唯一の5点台となるチーム防御率''5.66''、こちらもぶっちぎりでリーグワーストの''807失点''を記録。ラビットボール全盛期で各球団の防御率が4点台以上とはいえ、投手陣に問題があることは明白であった。))、もとより投手陣の戦力不足が顕著であった。新規球団が参入した場合は戦力均衡を目的とした既存球団に所属する選手を新規球団に分配するドラフト、いわゆるエキスパンションドラフトが行われるのが一般的であり、選手会から実施を要望したが既存球団が難色を示したため行われず、他球団と比べて劣った戦力を調整する機会すら与えられなかった。
以降も各球団からの無償トレード((田尾が中日OBということもあって中日からの移籍選手は戦力として期待された選手が多かった。))などで一軍での実績が無い選手、もしくは選手としてのピークが過ぎて成績の落ち込んだベテラン(ほぼ戦力外レベルの状態)を集めるのがやっとであった。
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*開幕前の選手事情 [#b4869059]
**戦力として期待された選手 [#ked4edf4]
-''分配ドラフトで入団''
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|~名前|~詳細|h
|>|~旧大阪近鉄バファローズ|
|~[[岩隈久志>銭隈]]&br;[[礒部公一>ISOBE]]&br;[[吉岡雄二>リアル野球BAN]]|オリックスへの移籍を拒否((日本野球機構と選手会の労使妥結の前提となった「近鉄選手の移籍先には本人の意思を尊重する」という趣旨の申し合わせを引き合いにしたもの。岩隈の引き止め失敗も含め、消滅する近鉄の選手への同情から選手会はじめ世間的に認められたが、合併する側で移籍希望も出せない立場のオリックス選手の中には不満もあったという。))。オリックスは岩隈のみ交渉可能と踏んでプロテクトしたが分配ドラフト後[[態度を硬化させ>オ断リックス]]、金銭トレードで楽天へ移籍。|
|~[[高須洋介>打点乞食]]&br;川口憲史&br;[[福盛和男>福盛の21球]]&br;益田大介&br;[[鷹野史寿>マグネット]]|近鉄時代はそれなりの結果を残していたが、不動のレギュラー陣に台頭を阻まれていた。|
|~[[藤井彰人>インハイに…インハイに…]]|的山哲也との競争を制して近鉄の正捕手争いをリードしていたものの、オリックスでは強打の[[日高剛>戦犯日高]]が地位を確立しておりプロテクト漏れ。|
|~吉田豊彦|近鉄在籍時はリリーフの軸として3年で158試合に登板したものの、最終年に調子を落としたことでプロテクト漏れ。|
|>|~旧オリックス・ブルーウェーブ|
|~大島公一|2003年まで二塁手のレギュラー格だったが平野恵一のコンバートで出場機会を減らしていた。当時37歳という年齢もあってオリックスはコーチ転身を打診するも、これを拒否して現役続行を希望。|
-''その他''
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|~名前|~詳細|h
|>|~他球団から入団|
|~[[山﨑武司>○崎]]|分配ドラフト前にオリックス・ブルーウェーブを自由契約になり、分配対象にならずフリーの立場で入団。|
|~飯田哲也|ヤクルトから戦力外通告を受け、無償トレードで入団。当時36歳という高齢に加え、外野陣の層の厚さと[[青木宣親>青木引退]]の育成に注力する等の理由からの放出だった。|
|~[[関川浩一>関川の呪い]]&br;酒井忠晴|無償トレードで中日から移籍。共に若返りを目的として出場機会が減っていた。|
|~[[小山伸一郎>ナンカー]]|こちらも無償トレードで中日から移籍。一軍での実績こそ乏しかったものの、[[過去のドラフト1位>ロマン枠]]であったこと、[[二軍で2年連続最多セーブを獲得していた>ニグンノテイオー]]ことなどから期待は高かった。その後は2015年まで現役を続け、一期生最後の現役投手だった。|
|>|~新人選手|
|~[[一場靖弘>ロマン枠]]|「大社BIG3」の一角でドラフトの目玉と見られていた((残り2名は野間口貴彦(巨人)と[[那須野巧>5億3000万]](横浜)。[[なお、全員プロでの成績は(ry>なおマ]]))が、[[栄養費]]問題のため他球団が指名できなくなり、スキャンダルの影響を考慮する余裕がなかった楽天が自由獲得枠で指名。|
|~渡邉恒樹&br;[[平石洋介>あのGM]]|同年の新人ドラフト会議で指名された社会人卒ルーキー((渡邉・平石以外の指名選手も全員が大卒・社会人卒で即戦力として期待されたが、[[半数が一軍出場無しに終わった>即戦力外ドラフト]]ので省略。))。平石は後に球団史上初の生え抜き監督となる。|
※楽天の黎明期を支えた青山浩二、[[沖原佳典>28人目の悲劇]]、[[鉄平>小物]]、草野大輔、リック・ショート、[[ホセ・フェルナンデス>ポエム#ic954acf]]や[[渡辺直人>警戒シリーズ]]は2005年開幕時点では加入していない((いずれも2005年途中~2006年に移籍もしくはドラフト指名で入団。))。
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**外国人、FA補強の不発 [#v32e1c4e]
楽天の[[三木谷浩史>ファックス]]オーナーは「[[大物の外国人をとる場合は、ポケットマネーで10億円ぐらいまで出す>http://www.asahi.com/special/baseballteam/TKY200411100316.html]]」と戦力補強に意欲的なコメントを残し、[[アレックス・ラミレス>ラミミ]](ヤクルト)や[[ロベルト・ペタジーニ>おはD]]([[巨人>GIANTS PRIDE]])、アンディ・シーツ(広島)、ジョージ・アリアス(阪神)、ネイサン・ミンチー(ロッテ)の獲得に動いていた。
しかしいずれの交渉も不調に終わり、獲得したのは下記の計7人。好成績を残したシーズンから時期が開いている選手、NPBへの対応力が未知数な新外国人と、堅実な活躍を計算できる者はおらず彼らの年俸は高くても概ね5000万円程度であった。
-NPB在籍経験あり
ケビン・ホッジス(ヤクルト)((2002年に[[上原浩治>上原式プロテクト]]と同数で最多勝を獲得。[[打者として本塁打を2本打っている>ジエンゴ]]。))、ゲーリー・ラス(巨人)、マット・スクルメタ(ダイエー)((2003年に11セーブを記録。))
-新外国人
ルイス・ロペス(([[1990年代後半~2000年代初頭にかけて広島に在籍した選手>恐怖の内野]]とは[[同姓同名の別人>○○と○○は別人]]で、両者に血縁関係は無い。2005年オフに''楽天のロペスが解雇され、翌年に元広島のロペスが楽天のスカウトに就任する''ややこしい事態となっている。))、アーロン・マイエット、デイモン・マイナー((日本での登録名は「デイモン」。余談だが双子の兄のライアン(2023年没)は1998年にカル・リプケンJr.の連続試合出場が止まった時に代わりに三塁手として出場したことで知られる。))、アンディ・トレーシー
FA選手に至っては''「金銭面で折り合わない」という理由で全く獲得に動かなかった''((当年のFA宣言選手9人のうち、明確に国内移籍希望と報じられたのは先述の大村と[[真中満>リポビタン真中]]の2名であった。中でも真中は名指しで楽天入り熱望と報じられていたが、楽天がFA不参戦となったため[[オファーが無くなり残留する羽目に>セルフ戦力外]]。結局この年移籍したのは大村と、メジャー移籍が叶わず国内移籍となった稲葉篤紀(ヤクルト→日本ハム)の2名のみだった。))。
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*シーズン開幕 ~束の間の歓喜、伝説の開幕2戦目~ [#r608dc9d]
迎えた2005年シーズン、楽天球団最初の対戦相手は前年4位のロッテに決定。上述の選手陣から、開幕カード2連戦の連敗が濃厚と見られていた。
ところが大方の予想に反し、開幕戦は先発の岩隈が9回1失点と力投し3-1で勝利。''NPB初の、新規参入の球団が一軍戦の経験がある既成球団を相手に初戦勝利を挙げる''という快挙を達成した((楽天は2025年時点では通算成績で負け越しており、勝ち越していたのは「''1勝0敗で貯金1''」だったこの日のみである。))。
しかし翌日の第2戦目では、投手陣が4発被弾を含む24被安打、14与四死球と大爆発炎上。打線も[[渡辺俊介>渡辺俊介ちゃんを救う会]]((なお渡辺は[[同年の日本シリーズ>33-4]]第2戦でも阪神タイガースに10-0で完封勝利している。))の前に1安打1四球と抑えられ''26-0''の完封負け、しかも出塁した2人は両者とも[[併殺打>ツラゲ]]で刺されたため、完全試合/ノーヒットノーランこそ免れたものの9回打者27人で終了((「準完全試合」は出塁が1人だけを意味するため、この試合はあえて言うならば「準々完全試合」となる。完全試合でもノーヒットノーランでも無い打者27人の完封試合は非常に珍しく、2000年8月11日、[[許銘傑>許さん]](当時西武)がロッテに対し2安打1四球で達成して以来。))という始末。
記録的な敗戦はメディアによって広く拡散され、開幕戦で僅かに期待したファンを一気に絶望させた。元凶となった投手陣について田尾安志監督は「[[''1軍レベルに達していない''>プロじゃない投手]]」と[[評した>https://web.archive.org/web/20050327201528/http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20050327&a=20050327-00000033-mai-spo]]。
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**試合結果 [#r46ea455]
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|~[[2005年3月27日(日) 千葉マリン 2回戦(ロッテ1勝1敗0分)>https://npb.jp/bis/2005/games/s2005032700116.html]]|h
|試合時間3:35 観衆24,028|
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|BGCOLOR(#940028):~&color(White){楽天};|0|0|0|0|0|0|0|0|0||''0''|1|0|
|BGCOLOR(#818181):~&color(White){ロッテ};|2|11|1|0|1|4|0|7|X||''26''|24|0|
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|~&nobr{バッテリー};|BGCOLOR(#940028):~&color(White){楽};|●藤崎(0勝1敗)、有銘、小倉、福盛、徳元、マイエット-藤井、長坂|
|~|BGCOLOR(#818181):~&color(White){ロ};|○渡辺俊(1勝0敗)-[[橋本>里崎スレ]]|
|~&nobr{本塁打};|BGCOLOR(#818181):~&color(White){ロ};|[[西岡>金塊]]1号(3)、パスクチ1号(4)、2号(2)、ベニー1号(1)|
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**画像 [#udeb7d0c]
&attachref(./26-0_0.jpg);
ロッテは当年より''[[背番号26>MARINES IS YOU!]]''を「ベンチ入り25人に次ぐ『[[ファン>ハァン]]の番号』として」準永久欠番と定めており、バレンタイン監督は背番号と得点をかけて強調している。
&attachref(./26-0_1.jpg,zoom,45%);
当試合のスコアボード。楽天ファンにとっての[[グロ]]画像である。
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*2005年シーズンの楽天とその後 [#v9a1c284]
この試合後に「ゼロからの気持ちで明日からやる」と語っていた田尾監督だが、翌日からのソフトバンク3連戦でも2桁失点こそなかったが3タテされる。これ以降も圧倒的な戦力差は埋めようもなく、頼みの綱だったエース[[岩隈>家庭内FA宣言]]も一年間ローテーションこそ守ったもののシーズン途中に前年から不安を抱えていた右肩の状態が悪化。他にイニングを埋められる先発投手がいないことから不安を抱えたまま投げざるを得ないこととなり、前年の最多勝が見る影も無くリーグ最多敗を喫するなどチームは最下位を独走。
[[2度の11連敗>人気ホテル]]、[[被完全試合未遂>28人目の悲劇#be385239]]などを経て、最終的には''38勝97敗・[[勝率.281>どんなに弱いチームでも3割は勝つ]]((勝率はチーム首位打者の[[吉岡>リアル野球BAN]]の打率、およびロッテのチーム打率(.282)すら下回り、レギュラーシーズン勝率1位のソフトバンクとはゲーム差は''51.5''。5位の日ハムとのゲーム差ですら25.0だった。))''という悲惨な成績でシーズンを終えた。9月25日には田尾監督の複数年契約破棄による解任が決定。監督後任として[[野村克也>バッカじゃなかろかルンバ]]が就任した。
その後は野村政権下の2009年に[[初のCS出場>福盛の21球]]、[[星野仙一>1001]]政権下の[[2013年>絆○○]]には[[球団史上初のリーグ優勝および日本一>24-0-1]]を達成するなど、早くも数年後にはまともに他球団と渡り合えるようになった。
だが球団創設期からのファンには未だにこの試合のトラウマがあり、「''楽天のセーフティーリードは26点''」などとネタにされている((なお、楽天は本件から19年後の2024年5月21日にソフトバンク戦で''21-0''の敗戦を記録し、ファンの中でこの試合を[[思い出した>思い出しました]]人が続出した。詳細は[[33-0]]を参照。))。
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//1つの試合について取り上げたこのページタイトルで、シーズン評やら監督の進退への評価やらは明らかに蛇足
//↑邪魔にならん程度に最終的なチーム戦績だけ復帰しとくで。分配ドラフトの件だけ残してその後が一切ないのも片手落ち感があるし。
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*関連項目 [#hf0ca7e9]
-[[グロ]]
-[[29-1]]
-[[20-4]]
-[[2-26事件]]
-[[シナリオ]]
-[[挑発ポスター]]…新規参入チームの初対戦相手となったロッテが制作。後に平成後期の交流戦の風物詩となる。
-[[33-4]]…同年の出来事。ロッテが4試合で33点を記録した。ちなみにこの年の楽天の開幕3試合の合計スコアも33-4である((1戦目(ロッテ)1-3、2戦目(ロッテ)''26-0 ''、3戦目(ソフトバンク)6-1)) 。
-[[33-0]]…19年後の出来事。1試合目で21‐0を記録した。
-[[地獄]]…当時の楽天の蔑称のひとつ。田尾監督が就任を打診され、一度拒否した際の「俺を地獄に落とすのか」との発言が由来。
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&tag(楽天,ロッテ,馬鹿試合);