26-0

Last-modified: 2024-11-22 (金) 21:08:02

2005年3月27日に行われた千葉ロッテマリーンズ対東北楽天ゴールデンイーグルス戦のスコア。
2024年現在、「最も得点差がついた完封試合」である*1


背景 ~楽天の球界参入、苦難のチーム作り~

2004年のNPBはオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併構想に端を発する球界再編問題を経て、シーズンオフに両球団の合併(新生オリックス・バファローズの誕生)及び宮城県仙台市を拠点とした東北楽天ゴールデンイーグルスの新規参入が実現*2。自前の選手を持たない楽天のチーム編成措置として、11月8日時点でオリックスと近鉄に所属する選手を分配するドラフトが行われた。しかし「まずオリックスが25人を優先的にプロテクトする」という楽天にとって著しく不利なルールのため、楽天は本ドラフトで(主に旧オリックス側の)戦力たりえる選手をほとんど集めることができなかった。
加えて旧近鉄の中村紀洋はメジャー挑戦、大村直之は「近鉄存続なら残留、近鉄消滅ならばFA」の宣言通りFAでソフトバンクへ移籍するなど、主力選手の流出も重なった。また当時のオリックスと近鉄は共に投手力に課題を抱えるチームだったため、投手陣の戦力不足が顕著であった。新規球団が参入した場合は戦力均衡を目的とした既存球団に所属する選手を新規球団に分配するドラフト、いわゆるエキスパンションドラフトが行われるのが一般的であり、選手会から実施を要望したが既存球団が難色を示したため行われず、他球団と比べて劣った戦力を調整する機会すら与え得られなかった。

以降も各球団からの無償トレード*3などで一軍での実績が無い選手、もしくは選手としてのピークが過ぎて成績の落ち込んだベテラン(半ば戦力外扱いの状態)を集めるのがやっとであった。


開幕前の選手事情

戦力として期待された選手

  • 分配ドラフトで入団(イレギュラー入団の岩隈含む)
    名前詳細
    旧大阪近鉄バファローズ
    岩隈久志オリックスがプロテクトするも本人が入団を固辞したため、オリックス分配後に金銭トレードという形式で楽天入り。
    礒部公一
    吉岡雄二
    近鉄のリーダー的存在だったことからかねてよりオリックスの指名を拒み、オリックスもそれを認める形で分配ドラフトでの指名を回避。
    高須洋介
    川口憲史
    福盛和男
    益田大介
    鷹野史寿
    近鉄時代はそれなりの結果を残していたが、不動のレギュラー陣に台頭を阻まれていた。
    藤井彰人前年の正捕手だったものの、強打の日高剛をはじめとするオリックス捕手陣に阻まれプロテクト漏れ。
    吉田豊彦近鉄在籍時はリリーフエースとして3年で158試合に登板したものの、最終年に調子を落としたことでプロテクト漏れ。
    旧オリックス・ブルーウェーブ
    大島公一
    斉藤秀光
    前年のオリックスで準レギュラー級の活躍をしていたものの、大島は当時37歳という高齢の懸念が、斉藤は活躍がその1年のみであったことからいずれもプロテクト漏れ。
  • その他
    名前詳細
    他球団から入団
    山﨑武司分配ドラフト前にオリックス・ブルーウェーブを自由契約とされたため、分配対象にならずフリーの立場で入団。
    飯田哲也ヤクルトから戦力外後、無償トレードで入団。当時36歳という高齢に加え、外野陣の層の厚さ及び青木宣親の育成に注力する等の理由からの放出だった。
    関川浩一
    酒井忠晴
    無償トレードで中日から移籍。共に中日では若返りを目的として出場機会が減っていた。
    小山伸一郎無償トレードで中日から移籍。一軍での実績こそ乏しかったものの、過去のドラフト1位であったこと、二軍で2年連続最多セーブを獲得していたことなどから期待は高かった。
    新人選手
    一場靖弘「大社BIG3」の一角でドラフトの目玉と見られていた*4が、栄養費問題のため他球団が指名回避。マイナスイメージを考慮する余裕のない楽天が自由獲得枠で指名。
    渡邉恒樹
    平石洋介
    同年の新人ドラフト会議で指名された社会人卒ルーキー*5。平石は後に球団史上初の生え抜き監督となる。

※ 楽天の黎明期を支えた青山浩二、沖原佳典鉄平、草野大輔、リック・ショート、ホセ・フェルナンデス渡辺直人は2005年開幕時点では加入していない*6


外国人、FA補強の不発

楽天の三木谷浩史オーナーは「大物の外国人をとる場合は、ポケットマネーで10億円ぐらいまで出す」と戦力補強に意欲的なコメントを残し、アレックス・ラミレス(ヤクルト)やアンディ・シーツ(広島)、ジョージ・アリアス(阪神)、ネイサン・ミンチー(ロッテ)の獲得に動いていた。
しかしいずれの交渉も不調に終わり、獲得したのは下記の計7人。好成績を残したシーズンから時期が開いている選手、NPBへの対応力が未知数な新外国人と、堅実な活躍を計算できる者はおらず彼らの年俸は高くても概ね5000万円程度であった。

  • NPB在籍経験あり
    ケビン・ホッジス(ヤクルト)*7、ゲーリー・ラス(巨人)、マット・スクルメタ(ダイエー)*8
  • 新外国人
    ルイス・ロペス*9、アーロン・マイエット、デイモン・マイナー*10、アンディ・トレーシー

FA選手に至っては「金銭面で折り合わない」という理由で全く獲得に動かなかった*11


シーズン開幕 ~束の間の歓喜、伝説の開幕2戦目~

迎えた2005年シーズン、楽天の球団史上初の対戦相手は前年4位のロッテに決定。上述の選手陣から、開幕カード2連戦の連敗が濃厚と見られていた。
ところが大方の予想に反し、開幕戦は先発の岩隈が9回1失点と力投し3-1で勝利。NPB初の、新規参入の球団が一軍戦の経験がある既成球団を相手に初戦勝利を挙げるという快挙を達成した*12

しかし翌日の第2戦目では、投手陣が4発被弾を含む24被安打、14与四死球と大爆発炎上。打線も渡辺俊介*13の前に1安打1四球と抑えられ26-0の完封負け、しかも出塁した2人は両者とも併殺打で刺されたため、完全試合/ノーヒットノーランこそ免れたものの9回打者27人で終了*14という始末。
記録的な敗戦はメディアによって広く拡散され、開幕戦で僅かに期待したファンを絶望させた。投手陣は田尾安志監督に「1軍レベルに達していない」と評された


試合結果

 
123456789RHE
楽天000000000010
ロッテ211101407X26240
 
バッテリー●藤崎(0勝1敗)、有銘、小倉、福盛、徳元、マイエット-藤井、長坂
○渡辺俊(1勝0敗)-橋本
本塁打西岡1号(3)、パスクチ1号(4)、2号(2)、ベニー1号(1)


画像

26-0_0.jpg
ロッテは当年より背番号26を「ベンチ入り25人に次ぐ『ファンの番号』として」準永久欠番と定めており、バレンタイン監督は背番号と得点をかけて強調している。

26-0_1.jpg
当試合のスコアボード。楽天ファンにとってのグロ画像である。


2005年シーズンの楽天とその後

この試合後に「ゼロからの気持ちで明日からやる」と語っていた田尾監督だが、翌日からのソフトバンク3連戦でも2桁失点こそなかったが3タテされる。これ以降も圧倒的な戦力差は埋めようもなく、頼みの綱だったエース岩隈も一年間ローテーションこそ守ったもののシーズン途中に右肩を故障、チーム状況からそのまま投げざるを得ないこととなり前年の最多勝が見る影も無くリーグ最多敗を喫するなどチームは最下位を独走。
2度の11連敗被完全試合未遂などを経て、最終的には38勝97敗・勝率.281*15という悲惨な成績でシーズンを終えた。9月25日には田尾監督の複数年契約破棄による解任が決定。監督後任として野村克也が就任した。

その後は野村政権下の2009年に初のCS出場、星野仙一政権下の2013年には球団史上初のリーグ優勝および日本一を達成するなど、早くも数年後にはまともに他球団と渡り合えるようになっている。
だが球団創設期からのファンには未だにこの試合のトラウマがあり、「楽天のセーフティーリードは26点」などとネタにされている*16


関連項目



Tag: 楽天 ロッテ 馬鹿試合


*1 1946年7月15日(1リーグ時代)の近畿グレートリング(現ソフトバンク)対ゴールドスター(ロッテの前身のひとつ)戦と並びNPBのタイ記録、パ・リーグの単独1位。「得点差が最大の試合」は、1940年4月6日の阪急軍対南海軍の「30点差」(32-2)。
*2 同時にダイエーが経営難に陥ったことから福岡ダイエーホークスがソフトバンクに売却され、チームは福岡ソフトバンクホークスに改称された。
*3 田尾が中日OBということもあって中日からの移籍選手は戦力として期待された選手が多かった。
*4 残り2名は野間口貴彦(巨人)と那須野巧(横浜)。なお、全員プロでの成績は。
*5 渡邉・平石以外の指名選手も全員が大卒・社会人卒で即戦力として期待されたが、半数が一軍出場無しに終わったので省略。
*6 いずれも2005年途中~2006年に移籍もしくはドラフト指名で入団。
*7 2002年に上原浩治と同数で最多勝を獲得。打者として本塁打を2本打っている
*8 2003年に11セーブを記録。
*9 1990年代後半~2000年代初頭にかけて広島に在籍した選手とは同姓同名の別人で、両者に血縁関係は無い。2005年オフに楽天のロペスが解雇され、翌年に元広島のロペスが楽天のスカウトに就任するややこしい事態となっている。
*10 日本での登録名は「デイモン」。余談だが双子の兄のライアン(2023年没)は1998年にカル・リプケンJr.の連続試合出場が止まった時に代わりに三塁手として出場したことで知られる。
*11 当年のFA宣言選手9人のうち、明確に国内移籍希望と報じられたのは先述の大村と真中満の2名であった。中でも真中は名指しで楽天入り熱望と報じられていたが、楽天がFA不参戦となったためオファーが無くなり残留する羽目に。結局この年移籍したのは大村と、メジャー移籍が叶わず国内移籍となった稲葉篤紀(ヤクルト→日本ハム)の2名のみだった。
*12 楽天は2024年時点では通算成績で負け越しており、勝ち越していたのは「1勝0敗で勝率10割」だったこの日のみである。
*13 なお渡辺は同年の日本シリーズ第2戦でも阪神タイガースに10-0で完封勝利している。
*14 「準完全試合」は出塁が1人だけを意味するため、この試合はあえて言うならば「準々完全試合」となる。完全試合でもノーヒットノーランでも無い打者27人の完封試合は非常に珍しく、2000年8月11日、許銘傑(当時西武)がロッテに対し2安打1四球で達成して以来。
*15 チーム首位打者の吉岡の打率、およびロッテのチーム打率(.282)すら下回った。
*16 なお、楽天は本件から19年後の2024年5月21日にソフトバンク戦で21-0の敗戦を記録し、ファンの中でこの試合を思い出した人が続出した。詳細は33-0を参照。