1906年 大英帝国 戦艦 ドレッドノート
アップデート2.00.019にて遂に実装されたイギリスツリー低ティア戦艦。
革新的な設計によりそれまでの戦艦の概念を一変させ『弩級』という単語を作り出した、世界史上に燦然と輝く偉大な軍艦である。
竣工した瞬間に母国のイギリスを『旧式戦艦保有数世界一の国家』にしてしまったのはご愛嬌
現在、最大排水量・体力値・装甲厚がドイツ中ティア戦艦ケーニッヒと同じ数値になっている。おそらく設定ミス。
2019年1月16日の小アプデにより無事本来の数値に修正された。
斜め後ろから。マストと煙突に挟まれた形となっている四番主砲は、中心線上に配置されているものの射角が狭い。
以前の母港画面。船体色などに微妙な差がある。
基本性能
※括弧がある欄は【改修後の数値(初期値)】
年代 | 1906 | 国家 | 大英帝国 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
艦種 | 戦艦 | 対潜 | × | ||||
耐久値 | 26565(24150) | 戦闘成績(BR) | 310 | ||||
無装甲排水量(t) | 8750 | 無装甲速力(kt/h) | 27.6(24.8) | ||||
基準排水量(t) | 18410 | 最大速力(kt/h) | 21.2(19.0) | ||||
最大排水量(t) | 21060 | 最大舵角 | 45.4(42.0) | ||||
可視距離(km) | 9.3(8.5) | 絶対視認距離(km) | - | ||||
アンロック費 | 250000S | 購入費用 | 2500S | ||||
200G |
装甲防御
※単位はインチ(in)表示
※史実/技術ツリースペック準拠の場合。購入時は無装甲状態
防御区画 | 前部 | 中部 | 後部 | 装甲重量(t/0.1in) | ||
---|---|---|---|---|---|---|
甲板部 | 3.0 | 3.0 | 3.0 | 23 | ||
舷側部 | 11.0 | 11.0 | 11.0 | 23 |
搭載武装
主砲 | 名称 | 火力 | 射程 距離 (km) | 装填 速度(s) | 旋回 速度(°/s) | 重量(t) | 貫通力 | 基本弾数(HE/AP) | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
45口径 30.5cm Mark10 連装砲 | 1200 | 20.4 | 27 | 5 | 910 | 54 | 180/300 | |||
魚雷 | 名称 | 火力 | 射程 距離 (km) | 装填 速度(s) | 旋回 速度(°/s) | 重量(t) | 雷速(kt) | 基本弾数 | ||
45.7cm 水中魚雷 | 3000 | 6.4 | 60 | 10 | 8 | 35 | 3 |
部品改修
改修段階 | 火力 | 索敵 | 速度 | 装甲 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
Ⅰ | 副砲装填装置(副砲装填時間-15%) | 新型望遠レンズ(望遠鏡拡大倍率+20%) | ビルジキール(安定速+15%) | 消火器(自艦火災継続時間-10%) | ||
Ⅱ | 主砲装填装置(主砲装填時間-8%) | 特殊塗装(隠蔽性+5%) | 新型艦首(旋回抵抗-5%) | 傾斜装甲(装甲HP+9%) | ||
Ⅲ | 射撃管制装置(主砲射程距離+5%) | 電波探信儀(理想発見距離+4%) | 変速機(加速性能+10%) | 船体強化(HP+10%) | ||
Ⅳ | 改式榴弾(榴弾発火率+15%) | 電波探信儀(理想発見距離+5%) | 舵輪(最大舵角+8%) | × | ||
Ⅴ | 強化弾頭(装甲貫徹力+6%) | 精密探信儀(強制発見距離+5%) | ボイラー(巡航速度+11%) | × |
立ち回り
主砲
選択肢は12インチ連装砲一択。地味に30.5cm砲の中では装填が速く、アメリカのメインやドイツのカイザーが装備できる同格砲に次ぎ30秒を切っている。貫通力と射程も充分で、部品でさらに底上げ可能であることを考え合わせると、総合的に見て低ティア戦艦の主砲としては非常に優秀。
ドレッドノートはこの主砲を5基搭載しているが、配置の関係で舷側方向へ向けられるのは4基が限界。しかも後部艦橋と煙突に挟まれた4番主砲塔は射角がかなり狭く、8門で斉射を行うためには敵に対し大きく横腹を見せなければならない。
近距離での撃ち合いが主となる低ティア帯では艦の姿勢はさして問題とはならないだろう。むしろ被弾面積を小さくすることに意識が向いて、いざ砲撃をしようとした時に火力が落ちることをこそ心配すべきかも知れない。
副砲
本来なら水雷艇迎撃用の7.6cm単装砲を副砲として装備しているはずなのだが、なぜか無い。
あったとしても放火用程度にしか役に立たない装備ではあるが、このせいで部品の「副砲装填装置」が完全に無駄になってしまっている。
魚雷
この時期の戦艦の常として、近距離戦用に水中魚雷を装備している。
役に立つ場面はそう多くはないだろうが、軽いので御守り感覚で装備しておくと良い。
装甲
実装された時はスペックが中ティア戦艦ケーニッヒと完全に同一だったため、特に舷側部は凄まじい装甲厚を誇っていた。
修正された今は柔らかくなった……と思いきや、実は総合的にはあまり変わっていない。
確かに排水量自体は減って舷側装甲も薄くなったのだが、そのぶん甲板装甲が厚くなり装甲重量が微妙に減ったため、満載まで積み込むと以前と変わらぬ高い抗堪性を発揮してくれる。
機動性
速力そのものはデフォルト状態ボイラー込みで21ノット程度、満載すると19.4ノットと優れているわけではない。
しかし舵角はかなり広く、舵を切ると戦艦とは思えないほどぐいぐい曲がる。中距離で投下された魚雷の回避には困らないだろう。
ただし戦艦ゆえに艦体は大きく、また副砲も装備していないので、一旦駆逐艦に突入を許してしまった場合の対処は困難。敵に駆逐艦がいた際はその存在を常に頭に留めつつ、周辺警戒を怠らないようにしよう。
総評
その設計と高性能さで歴史に名を残した戦艦だけあり、ゲームでも低ティアにおいては屈指の強艦。攻撃よし、機動力よし、防御よしと全てが高レベルに纏まっている。
主砲射界の狭さだけは些かネックだが、無駄なく敵艦に弾を叩き込むことを徹底すれば自慢の防御装甲が破られる前に相手を海底送りに出来るだろう。
河内、カイザー共々、初心者の戦艦入門にもうってつけの艦と言えよう。
歴史背景
ドレッドノート(HMS Dreadnought)はイギリス海軍の戦艦。同型艦はない。1905年10月2日に起工、1906年2月10日進水。1906年12月2日に就役した。
“Dreadnought”とは本来的には『Dread:恐怖、不安』『Nought:ゼロ』の合成語であり、「勇敢な」「恐れを知らない」「恐怖心が無い」を意味する。しかし後に本艦の革新性から「(それまでに比べて)格段に大きい」「(非常に)大型である」を意味するようにもなった。
1900年ごろまでの戦艦は敵艦水線部の装甲を破ることを主目的とした連装主砲塔二基に加え、敵艦上部構造を破壊するための副砲や中間砲を舷側に並べる方式を多く採用していた。
各砲の照準はそれぞれの砲手が独立して担当していたが、このような射撃方法が有効なのは彼我の距離が数千メートル程度での砲戦においてが限界であり、砲性能向上により砲戦距離が延伸すると、命中率の高い新しい射撃方法が模索されるようになっていった。
当時のイギリスでは、多数の同一口径砲が同一のデータを元にした照準で同時に弾丸を発射し、着弾の水柱を見ながら照準を修正してゆく『斉射』の有効性が認識されつつあった。
そして、イギリス海軍第一海軍卿に就任したジョン・アーバスノット・フィッシャー提督の強い指導の元に『長距離砲戦に圧倒的に優位な』戦艦として建造されたのがドレッドノートである。
ドレッドノートはそれまで建造されていた戦艦のスタンダードとは異なり、中間砲・副砲を装着せず単一口径の12インチ連装主砲塔5基を搭載。これにより片舷火力で最大4基8門の砲が使用可能となり「本艦1隻で従来艦2隻分」の戦力に相当し、さらに艦橋に設置した射撃方位盤で統一して照準することで命中率を飛躍的に向上させた。
また英国の従来の戦艦の速力がレシプロ機関で18ノット程度なのに対し、それより小型軽量大出力な蒸気タービン機関の採用と搭載により21ノットの高速航行が可能であった。
本艦の登場は近代軍艦としての戦艦の設計に革新的な影響をもたらした。これはドレッドノート革命(Dreadnought Revolution)とも呼ばれ、本艦以前の戦艦をすべて旧式と認識させる一大変化を発生させたのである。
こうして列強の建艦競争は新たな段階へ足を踏み入れることになった。
竣工後、ドレッドノートは1907年から11年にかけて本国艦隊旗艦を務めた。1914年に勃発した第一次世界大戦においてようやく実戦参加する機会を得たものの、この時点では本艦は第一線を務める主力艦の座をすでに超ド級艦へと譲っていた。
1915年3月18日、ドイツの潜水艦U-29を体当たりで撃沈。これは戦艦が潜水艦を撃沈した唯一の事例で、皮肉にも体当たりによる戦闘を放棄して衝角を廃止した本艦がその唯一の当事者となった。1916年5月には、高速艦として建造されたにもかかわらず相対的に低速艦になってしまい艦隊随行が困難となったため、テムズ川の第3戦艦戦隊の旗艦となった。主任務はドイツの巡洋戦艦に備えることであったが、ユトランド沖海戦には改修のため実戦部隊を離れており、参加していない。
1918年3月から8月までグランドフリートに復帰し、戦後はロサイスで予備役となり、1920年3月31日に退役した。
1922年に本艦はT・ウォード・アンド・カンパニーに売却され、1923年にインヴァネスで解体された。