total ?
today ?
yesterday ?
No.052 | ||||
---|---|---|---|---|
クリックで拡大 | 古鷹(ふるたか) | 古鷹型 1番艦 重巡洋艦 | ||
艦船ステータス | ||||
耐久 | 36 | 火力 | 30 | |
装甲 | 25 | 雷装 | 12 | |
回避 | 33 | 対空 | 16 | |
搭載 | 6 | 対潜 | 0 | |
速力 | 高速 | 索敵 | 10 | |
射程 | 中 | 運 | 10 | |
最大消費量 | ||||
燃料 | 35 | 弾薬 | 50 | |
搭載 | 装備 | |||
2 | 20.3cm連装砲? | |||
2 | 7.7mm機銃? | |||
2 | 未装備 | |||
装備不可 | ||||
改造チャート | ||||
古鷹⇒古鷹改(Lv25) | ||||
図鑑説明 | ||||
重巡洋艦、古鷹です。 三川提督率いる第8艦隊の一員として、第一次ソロモン海戦では敵艦多数を撃破したんですよ! これが、重巡なんです! |
セリフ | CV:大坪由佳、イラストレーター:UGUME |
入手/ログイン | 古鷹と言います。重巡洋艦のいいところ、たくさん知ってもらえると嬉しいです。 |
母港/詳細閲覧 | 次の作戦海域の資料、見せてもらっていいですか? |
ここはとてもいい部隊ですね♪ | |
提督あわてないで。大丈夫です。 | |
ケッコンカッコカリ(反転) | 提督! 重巡部隊の活躍、どうですか? お役に立ってますか? フフッ、よかったぁ。嬉しいです! |
ケッコン後母港(反転) | やったね! |
編成 | 重巡古鷹、出撃します! |
出撃 | 重巡古鷹、出撃します! |
敵輸送艦を捕捉、撃破したいですね。 | |
遠征選択時 | やったね! |
アイテム発見 | やったね! |
開戦 | 左舷、砲雷撃戦、用意! |
夜戦開始 | 私、夜戦は得意なんだからっ! |
攻撃 | 加古は大丈夫!?そう |
主砲狙って、そう…。撃てぇー! | |
小破 | やだ、何…?潜水艦…!? |
予測の範囲内です! | |
中破/大破 | やっちゃった。まだ…沈まないよ! |
勝利MVP | 私達の役割が、たまたま目立っただけなんです。これが、重巡洋艦なんですよ。 |
旗艦大破 | やだ、何…?潜水艦…!? |
帰投 | 作戦完了です。お疲れ様。 |
補給 | これなら夜戦もバッチリです。 |
改装/改修/改造 | これなら夜戦もバッチリです。 |
三川艦隊の仲間にも、自慢できちゃいます。 | |
やったね! | |
入渠(小破以下) | 兵装の手入れをしてきますね。 |
入渠(中破以上) | 先日の戦闘で、少し無茶しちゃいましたね。 |
建造完了 | 新しい艦が建造されました。 |
戦績表示 | 提督にお知らせがあるようですよ。 |
轟沈(反転) | 加古…ごめんね…先に逝くね… |
時報 | |
放置時 |
ゲームにおいて
- 古鷹型は小型・旧式の重巡洋艦であり、残念ながら戦闘能力の最大値では新型の重巡たちには及ばない。ただし燃費は良好なので資源消費を抑えたい場合に有用と言える。
- 2013年10月16日アップデート以前は重巡の中どころか軽巡にも劣る能力だったが、同日アップデートで改善。夜戦補正と合わせれば軽巡には無い運用上の利点ができた。
- 2014年1月15日アップデートにて改造後の火力上限が70に上昇。軽巡改の最大値(球磨改?・長良改?・名取改?の69)を上回った。
- 2014年4月23日アップデートで「弾着修正射撃」が実装。4つの武装スロットのお陰であまり火力を落とさずに水?偵?を積むことが出来る重巡と抜群の相性の同システムのおかげで、改二で追い込みをかけつつあった軽巡とは一線を画する昼戦火力を比較的安定して叩き出せるようになった。やったね!!
- 重巡はその本懐たる夜戦において、フラ戦を一撃で屠る火力を発揮出来る。 夜戦MAPでは試行回数がモノを言う為、性能と引き換えに燃費が悪化した高雄型・利根型より、古鷹型・青葉型の方が優位と言える場合もある。 敵艦のスペックを確認した上で判断しよう。
- 本艦はクエスト「三川艦隊」「新三川艦隊」「第六戦隊」に含まれるため、クエストを消化するなら2-3をクリアできる程度に育成する必要がある。
- ドロップ場所は1-3ボスを皮切りに1-4および2-x全般。3-xではドロップしないが、4-xの方では全般的にドロップが見られる。
- 道中ドロップのみの海域
- 6-2
- ボスドロップのみの海域
- 1-3、1-5、2-3
- 道中でもドロップする海域
- 1-4、2-1、2-2、4-2、4-3、4-4、5-1、5-2、5-4、6-1
- このように西方・南方の海域で広くドロップする。古鷹が来ないと嘆いてる提督は先に海域攻略を進め、4-3での潜水艦狩り、5-2・5-4でのレア艦娘堀りを可能にしておくと良いだろう。
- 道中ドロップのみの海域
- 運営Twitterより「12月初旬に起工した初期型重巡姉妹の一番艦、そのさらなる改装を今冬予定」という発表があった。重巡一番艦の起工日は古鷹12月5日、青葉2月4日、高雄4月28日なので、古鷹と推定される。また、下記の加古型として見ても加古の起工は11月17日であり、事実上古鷹で確定といえる。
- ちなみに12/5はちょうどメンテ日が多い金曜日。ただ12/1にイベント終了メンテの関係上、少し起工日と実装日が同一になる可能性が低いだろう。
- 結論的に言えば12/1に重巡改二がアナウンスされているがこの日かもしれないし、別の日になるかもしれない。現在運営が12/1に実装する重巡改二が古鷹で確定とは言っていない。
- ちなみに12/5はちょうどメンテ日が多い金曜日。ただ12/1にイベント終了メンテの関係上、少し起工日と実装日が同一になる可能性が低いだろう。
小ネタ
- 列強国の巡洋艦(仮想敵として目標にされていたのはオマハ級)に対抗するため、
夕張?のノウハウを活かし小型の船体に重火力を詰め込んで開発されたのが古鷹型重巡洋艦加古型軽巡洋艦である。- ワシントン条約に基づき加古型の通告を受けて脅威に感じたのが英国である。なにせ英国には第一次世界大戦中に建造が開始されたホーキンス級以降、マトモな大型装甲巡洋艦を作っていなかったのだ。*1
なのでアメリカを誘ってイチャモンをつけ、ロンドン条約を結んで、巡洋艦のクラスを2分した。
重巡洋艦というカテゴリーは実にこの時誕生したのである。- 軽巡洋艦のCLに対して重巡洋艦の略号がCHではなくCAなのは、このロンドン条約において巡洋艦を6.1インチ砲を超える「カテゴリーA」と6.1インチ砲以下の「カテゴリーB」に区分したことに由来する。
- 従って加古型の計画はあくまで「20サンチ砲を積んだ軽巡洋艦」であり、書類上も軽巡洋艦の属する二等巡洋艦とされていた。
- さて裏で何やらやられつつも建造が進められていた加古型巡洋艦だが、この時1番艦である加古だけが艦名が決定していた。
これは「加古」はもともと川内型4番艦として予定されていたものが中止、そのまま次の巡洋艦にスライドしたためである。
ところがロンドン条約で加古型は軽巡洋艦ではなく、新カテゴリ重巡洋艦に移動することになった。
この為加古型は一等巡洋艦に艦種変更となり、命名基準が変わった。加古は慣例に基づいてそのままとしたが、二番艦は一等巡洋艦の基準である山岳名に基づいて「古鷹」となった。 - ここでなんの偶然か、
幸運にも不幸にも建造中の加古がクレーン事故で損傷。建造スケジュールが大幅に遅れることになった。そこでドサクサ紛れに1番艦と2番艦が入れ替えられた。
この時世界初の重巡洋艦・古鷹型が誕生したのである。- 睦月?型にあるように、日本海軍においても起工・進水・竣工が必ず同じ順序で行われないことは頻繁にあり、ネームシップと実際に一番早く完成した艦が異なることはよくあることだった。
しかし、タイプシップを入れ替えてしまった例はのちの海上自衛隊まで通して日本では空前にして絶後である。イギリスではしょっちゅうだが。
- 睦月?型にあるように、日本海軍においても起工・進水・竣工が必ず同じ順序で行われないことは頻繁にあり、ネームシップと実際に一番早く完成した艦が異なることはよくあることだった。
- 古鷹より古い艦で重巡洋艦に降られたのはホーキンス級にしろアメリカのセントルイス級にしろ、第一次世界大戦かそれ以前の老朽艦が、たまたま6.1インチを超える主砲を持っていたために便宜的に類別されたに過ぎず、火力装甲とも古鷹に及ぶものではなかった。(ホーキンス級の想定された敵に対抗するため大口径砲を搭載するという発想は、オマハ級に対抗するため大口径砲を積んだ古鷹型と似た部分もある。ホーキンス級の性能は古鷹型よりも大型なこともありそこまで劣る性能ではなかった。セントルイス級の艦種記号CAは重巡洋艦を示すものであるがロンドン軍縮条約以前の米海軍では第一次大戦後に艦種記号改正がされた際に装甲巡洋艦を示すものとされていた。セントルイス級は全艦がロンドン軍縮条約で重巡洋艦が定義される前に退役している。)
まさしく古鷹型が重巡洋艦の基本コンポーネントを確立したのである。
鳳翔?を日本の「すべての空母の母」とするならば、さしずめ古鷹は日本の「すべての重巡の姉」というところだろう。BBAとか言った奴はソロモン海の人柱にしてやる。 - 「艦これ」でも娘・少女というよりは肉感美女の多い重巡洋艦において、古鷹型・青葉型は比較的幼めに書かれているのはこの為と思われる。
- ワシントン条約に基づき加古型の通告を受けて脅威に感じたのが英国である。なにせ英国には第一次世界大戦中に建造が開始されたホーキンス級以降、マトモな大型装甲巡洋艦を作っていなかったのだ。*1
- 排水量が原設計の10%増しで完成したが、別にミスがあったわけではなく、今までにない革新的な設計だったため、施工側の造船関係者が現場で勝手に設計変更しちゃったのが原因。
ここまで排水量が変わると悪影響がモロに出るのだが、別にそんなことはなかった。基礎設計の時点で相当優秀だったらしい。- ただし重量増加による乾舷の低下だけは避けようがなく、下記のような浸水被害だけでなく水線上に出る装甲帯の高さが設計より2mも低くなってしまい直接的ではないとはいえ防御力まで悪化していた。
一応近代化改修の際にバルジが取り付けられたものの、改修による重量増加に打ち消され最期までこの欠点が解消されることはなかった。
- ただし重量増加による乾舷の低下だけは避けようがなく、下記のような浸水被害だけでなく水線上に出る装甲帯の高さが設計より2mも低くなってしまい直接的ではないとはいえ防御力まで悪化していた。
- 主砲にはオマハ級を圧倒する20cm砲を単装で6基搭載。艦の前後にピラミッド状に配置され、片舷6射線を実現。従来の常識を超える超火力に列強各国は目を剥いた。
- そう、新造時の古鷹(と加古)は単装砲艦だったのである。
小柄な単装砲と追加装備がまだ無くすっきりした艦上構造が相俟って、この時期の古鷹は大分スマートな印象を受ける。(※感想には個人差があります) - しかし、小さな体に大きな砲を載せればしわ寄せはどこかに来るのである。この20cm単装砲、弾薬の運搬揚弾の多くを人力に頼っていた。
揚弾機構を機械化すると砲塔が大きく重くなり艦がアンバランスになるので、平賀先生?はばっさり切り捨てたのである*2。
よって、予め揚げておいた弾を撃ちつくしてしまうと、発射速度は大幅に低下。20cm砲弾は日本海軍のド根性をもってしても重いのである*3。 - 昭和11年からの近代化改修で20cm単装砲A型から20.3cm連装砲E2型に変更(妙高型のものの再利用との説あり)、青葉?や衣笠?とそっくりの外観になった。
そっくりとはいっても見分けられないようなものではなく、艦橋や後部煙突が小さめだったり後部マストの位置が後ろに寄っていたり、魚雷運搬用のスキッドビームがなかったり(さらに青葉は戦訓で艦橋前の甲板に機銃が増設されていたり)と、慣れれば簡単に見分けられる・・・
というかどこ?かの重巡姉妹と同じ方法で見分けられる。逆に加古?とは艦首のフェアリーダーくらいしか差が無く、見分けるのは容易ではない。 - 大阪鉄工桜島造船所での改装中、同所で建造されていた駆潜艇の試運転を古鷹の妖精さんが手伝っている。時期を考えれば第五三号駆潜艇と第四号駆潜艇の可能性が高い。
後に続く古鷹の面倒見の良さは、この頃から発揮されていた。あんよがじょうず。でも就役したばかりなのに主錨を無くしたりドジっ娘な面もあるのはご愛嬌
- そう、新造時の古鷹(と加古)は単装砲艦だったのである。
- 帝国海軍の伝統に違わず、居住性は完全にスルーされた。友軍艇の行来で飛沫が飛び込むので常に舷窓を閉めていたという、わりとどうしようもないエピソードが存在する。
そんな残念な船体構造を揶揄され、加古?ともども水族館*4というありがたくないニックネームを授かった。
ソロモンの狼?という通り名とはえらい違いだ- ちなみにこのニックネームのネタは公式四コマ単行本二巻のオマケ四コマで「部屋に観賞魚とそれが入った水槽がたくさん有って水族館みたい」と言う形で再現されており、44話では雨が降って窓を叩く音がすると落ち着く(波飛沫が舷窓を叩く事のオマージュ)という部分まで再現されてしまった。
- ただそれでも「缶?室?直上の兵?員?室?が?灼?熱地獄?の5500t型に比べればずっとマシ*5」とも思われていたようである。
元海軍造船大尉で艦艇研究家の福井静夫氏は「5500t型から古鷹型に移乗してみれば、古鷹型の居住性は天国に思えるに違いない」とも書いている。- ただし浸水を防ぐために四六時中舷窓を閉めていたせいで通風性が台無しで夏は(特に缶室上などは)酷い暑さだったらしく、加古や青葉衣笠共々電動送風機を貸与されて難を凌いだりと四苦八苦していたようである。
- なお、カウンターパートとされたオマハ級の居住性はそりゃ酷いものである。
- さらに言えば、古鷹型のカウンターパートであるペンサコラ級も酷いうえに、古鷹型・青葉型より1門でも多く積もうとした結果の3連装の第二砲塔で…… 90度~270度の範囲で射撃すると艦橋が吹っ飛ぶ。
- 自己紹介にある第一次ソロモン海戦?では、第八艦隊の中核戦力として米英豪の連合艦隊をどつき回して南方部隊所属の重巡4隻に引導を渡し、被害報告として挙げられるような損傷も受けずに乗り切っている。
この時特に悲惨だったのが増援として駆けつけた連合国艦隊の北方部隊で、艦隊旗艦鳥海率いる本隊と交戦中に、炎上中の敵艦目指して突撃してきた*6古鷹率いる分艦隊の強襲を喰らい、両舷方向からフルボッコにされて文字通りの壊滅状態になってしまった。- 戦後に太平洋戦史を纏めたS.E.モリソン曰く、『これこそがアメリカ海軍の被った最悪の敗北のひとつである』のだとか。そりゃガダルカナルの美酒がマッハで敗北の苦杯に変わりゃあねぇ。
- 片目がオッドアイで輝いているのは史実(サボ島沖海戦?)での最期から。
五藤少将の戦隊司令部が敵艦を友軍艦と誤認し、集中砲火を浴びて大破、先制攻撃の混乱もあり事前の取り決めから外れ右旋回しながら同航戦状態で炎上する青葉?を救援するため、
青葉が送っていた信号と同じ物を発しながら衣笠?・初雪?とともに事前の取り決め通り左旋回を行っていたのを急遽変更、単身で探照灯を照射しながら敵艦隊の射線上に割り込んだ。これが彼女の運命を決定してしまう。- 「探照灯」とは青葉生存者の目撃証言より。その探照灯も敵の砲弾によって破壊されてしまう。中破で左目を閉じるのはそのためかと思われる。
- 「信号」の情報元が分かる方がいれば、コメント等で指摘して貰えると助かります。
- 敵艦の砲撃や魚雷の引火による激しい火災に身を染めながらも、青葉を撤退完了させるまで盾の役割を担った。
短時間の戦闘であり次々と砲塔が使用不能になっていく中であったがその状況下で主砲30発以上を猛射、敵の軽巡「ボイシ」に弾薬庫への直撃*7含む砲弾4発を叩き込むなど猛然と反撃するが、90発にも及ぶ直撃を受けた船体は満身創痍もいいところであり、日付変更直後の0時28分に沈没。旗艦の身代わりとなっての壮絶な最後であった。*8- 身を挺して旗艦を庇ったにもかかわらず、宇垣纏中将(聯合艦隊参謀長)曰く「まともに戦ったの衣笠?だけじゃないか」
古鷹さんが吶喊しなかったら旗艦撃沈も大いにありえたんですがそれは……
ただし、後日生還した古鷹の荒木伝艦長から実際に話を聞いた宇垣中将は「其の言う処至当(極めて当然)なり」という言葉を残している。
このとき荒木艦長が述べたのは、「夜戦が失敗したのは事前の偵察が不充分だったから」等ということで、五藤司令官らの責任には一切言及しなかったようである。
「事前の偵察」とは恐らく同日朝に受け取った味方哨戒機の報告と思われる。それによれば「輸送船・魚雷艇以外の水上艦艇は存在しない」はずだったのだ。 - 乗員のうち518名は初雪?に救助された。その中には修理のため内地に戻る青葉?に移乗し、その運航に関わった乗員もいた。
そして修理中のごく短期間ではあるが、荒木氏が青葉艦長を務めた(筑摩艦長と兼任)。 - また、一部の生存者は米軍に救助されたのち、捕虜収容所でフェザーストン事件に遭遇した。詳細はリンク先参照。
- 身を挺して旗艦を庇ったにもかかわらず、宇垣纏中将(聯合艦隊参謀長)曰く「まともに戦ったの衣笠?だけじゃないか」
- 彼女たちの設計者である平賀譲造船中将は、加古と古鷹の相次ぐ戦没を聞き、我が子を失ったかのように嘆き悲しんだという。
- 平賀氏はその後体調を崩し、翌年2月17日に愛娘達を追うように亡くなっている。
- 加古とともに生涯通して航空機からの攻撃には全く縁がなく、対空砲火を行ったこともあるか怪しいという珍しい戦歴を持つ*9。
また、沈没によってヘンダーソン飛行場への艦砲射撃もなされなかったということもあり、上記の戦歴と併せ「対艦戦闘しかやったことがない」という太平洋戦線参加艦としては非常に特異な経歴を持つに至っている。 - 生涯戦果は重巡洋艦4隻撃沈と軽巡洋艦1隻大破(全て共同、うち重巡クインシーに魚雷命中し致命打としている)。数だけでも世界トップレベルの戦果であるが、彼女の場合、開戦から一年でこの記録を叩き出している上相手は全て排水量・火力ともに格上であり、準姉妹艦含め非常に優秀な艦であったことをその戦果を以って証明している。
- なお彼女はアイアンボトムサウンドに眠る艦の中ではかなり北西に寄った位置に眠っており、一般的に想像される同海峡*10からは逸脱している。だが結果として海路で北西、つまり日本海軍艦艇が通ったルートでこの地に足を踏み入れる場合、鉄底海峡を切り開いた最初の8隻の1隻である彼女が最初に迎えるというある意味で彼女らしい位置関係となっている*11。
海の円卓を拓き、その円卓を駆け抜け、その円卓に散った時代の先駆者は、今もその円卓で戦った双方の数多の武勲艦たちと共に眠っている。*12
- 「探照灯」とは青葉生存者の目撃証言より。その探照灯も敵の砲弾によって破壊されてしまう。中破で左目を閉じるのはそのためかと思われる。
- 艦名の由来となった古鷹山は広島県・江田島の海軍兵学校を見下ろすような位置にあり、海軍の聖地のような山。
兵学校の行事として古鷹山登山があったほか、休日に自主的に登った者も多かった。在学中に100回以上登ったという広瀬中佐*13をはじめ、多くの海軍士官の心身を鍛えた。- 現在も同地には海上自衛隊の術科学校及び幹部候補生学校があるが、古鷹山登山は伝統として残っている。
- ちなみに、呉~江田島(小用港)を結ぶフェリーの一隻が、その名も「古鷹」である。呉や江田島には海軍から現在に至るまでの名跡が多く存在するので、この地に聖地巡礼に訪れた際は使ってみるのも良いだろう。
その昔、榛名や青葉が力尽きた場所を臨む穏やかな海で、今日も地域の足として頑張り続ける。- この他古鷹の名を継いだ艦は、海自黎明期に海上保安庁の航路啓開本部から引き渡された掃海艇「ふるたか(MS-04)」が存在する。
同艇は元をたどれば日本海軍の第241号駆潜特務艇であり、磁気機雷に反応しない木造艇であったため、掃海艇に転用されたのである。
- この他古鷹の名を継いだ艦は、海自黎明期に海上保安庁の航路啓開本部から引き渡された掃海艇「ふるたか(MS-04)」が存在する。
:結論から言うと重巡洋艦が残り、軽巡洋艦が消えた。
- 重巡洋艦の祖としての面ばかりが注目されがちな古鷹ではあるが、長期的に見た場合彼女の存在意義はもっと大きなものとなる。
短期的に見た場合は青葉型を経て妙高型から始まる本格的な重巡にしか繋がらないが、軍縮条約明けになると「巡洋艦としての古鷹型の後継」ともいえる阿?賀?野型軽巡の登場とともに日本巡洋艦は再び分化を始めることになる。- というのも軍縮条約の期間中、巡洋艦は天龍型から始まり準戦艦としての役割に定着した妙高?型重巡?を経て軽巡洋艦として就役した最上?型重?巡?に至るまで一本道の進化系でしかなく、特に妙高型以降は巡洋艦よりも超甲型巡洋艦に通じる巡洋戦艦に近いものになりつつあった。(それ以外にも巡洋艦は在籍していたがどれも旧式で戦力外状態)
- 一方で阿賀野型は妙高型以降の巡洋艦とは明らかに異なる「巡洋艦としての正統発展系」といえる設計であり、最上型などからのフィードバックこそあるがその艦容は「17年の時間を経て軽巡化した青葉型」に近いものである。
- これらは軍縮による拘束とそれからの開放による部分が大きいがその後の建造計画において両者は共存しており、それぞれ利根?型及び伊吹型/改阿賀野型、そして大淀型に発展している。それらの基礎乃至ベースとなった青葉型を含む古鷹型は重巡だけでなく自身以降のあらゆる新世代日本巡洋艦の基石と言え、彼女ら以降の重巡及び軽巡はそれぞれ「古鷹型重巡洋艦」と「加古型軽巡洋艦」の進化系といえるのではないだろうか。
- また、巡洋艦ではないが龍驤?の船体は青葉型のものを手直しした古鷹の系譜にあるものである。小さい小さい言われる彼女であるが実は古鷹直系の船体を使った5隻の中では一番排水量が大きかったりする。
でも胸部装甲は一番薄い。
- だが、言うまでもなく日本巡洋艦の直接の系譜はここで途絶える。
- 一方、古鷹の設計思想を間接に直接に多分に受け継いだのがアメリカ巡洋艦である。
アメリカは重巡洋艦でピラミッド配置の砲塔配置をよしとせず、古鷹をカウンターパートとして誕生したペンサコラ級以降、青葉型・改装後の古鷹型と同じ主砲配置をとり、砲門の増加は3連装砲塔の採用で補った。 イギリスの口車に乗って古鷹を重巡洋艦カテゴリーに追いやってほっとしていたのもつかの間、今度は最上型軽巡洋艦の登場に大いにビビった。どう見てもオーバースペックだからである(当たり前だ*14)。
そこで慌ててブルックリン級の建造に乗り出すのだが、最上の砲塔配置にはペンサコラ・シルエットではどうにもならず、米軍もピラミッド配置の前部主砲を採用するに至る。- 日本が最上型・利根型を特異点として阿賀野型では5,500トン級の設計思想に回帰したのに対し*15、ブルックリン級以降のアメリカ軽巡洋艦は“準重巡洋艦”となった。クリーブランド級はついに妙高型に迫る巨体になった。
ところがアメリカさん、ここで気が付いた。「あれ、これって不経済じゃね?」*16イギリスの酔狂で誕生した軽巡洋艦は脆かったのだ。日本側の被害でも潜水艦や砲撃戦で沈んだ艦が多い重巡洋艦に対し、軽巡洋艦は航空攻撃でかつ短時間で沈没している艦が多い。とはいえ、これは設計などに左右される問題でありクリーブランド級などは重巡洋艦に匹敵する防御力を持っていた。条約により主砲の口径で重巡洋艦と軽巡洋艦の分類がされており、軽巡洋艦だから脆いとは一概には言えないが、そもそもそれなら条約の産物でしかない6.1インチの縛りを受ける必要はなく、重巡洋艦一本の方が安上がりである。。
そこはロマンよりも大統領のイスシビアな損得勘定を優先するアメリカ海軍、必要以上に確保することをやめた。建造された艦は砲戦や防空、火力支援など様々な任務に投入された。- そして戦後、アメリカ海軍はカテゴリーCLを廃止した。以降、ミサイル巡洋艦時代が到来するまで、アメリカ海軍の巡洋艦の系譜はボルチモア級の系譜に連なる。
- つまり、古鷹型から直撃したペンサコラの妹たちが生き残り、最上型を経由したブルックリン級*17の系譜は途絶えたというか、ミサイル巡洋艦に収束した。
- 戦後は駆逐艦の大型化が著しく、スプルーアンス級では5500トン級並みの大きさになり、アーレイ・バーク級*18ではとうとう古鷹型とほぼ同じ規模になった*19。
- 現在艤装中のズムウォルトに至っては、排水量でボルチモア級に匹敵、多数のミサイルランチャーの横には、かつての条約形軽巡と同じ155mm砲が2門聳え立つという、もはや「駆逐艦?」というべきレベルの船に仕上がっている。
とはいうものの、現代の駆逐艦は日本のも含めて殆どが単艦での長期遠洋航海行動に耐えうる設計となっているため、巡洋艦というジャンルがそのまま駆逐艦に集約された、という見方もできる。
- 現在艤装中のズムウォルトに至っては、排水量でボルチモア級に匹敵、多数のミサイルランチャーの横には、かつての条約形軽巡と同じ155mm砲が2門聳え立つという、もはや「駆逐艦?」というべきレベルの船に仕上がっている。
- ペンサコラもまた古鷹に負けず劣らずの苦労人であった。
ルンガ沖夜戦では瀕死の重傷を負って辛くも沈没から逃れ*20、第一次ギルバート諸島沖海戦では護衛するインディペンデンスを傷つけられた。硫黄島の戦いでは護衛していた給油艦を潜水艦の攻撃*21で失っている。- 加古の後を追った古鷹と違い、ペンサコラは妹ソルトレイクシティとともに大戦を生き残った。だが、その苦労人にアメリカ海軍が課した最後の任務とは……1946年、長門を焼いたあの業火に、他の仲間たちとともに焼かれることであった。
- しかしペンサコラ級の姉妹は損傷こそしたものの沈まなかった。あの多くの艦を焼いた業火から生き延びたのである。
- 最後の任務から帰還した姉妹は、放射線が艦に与える影響等を調査され、1948年に標的艦として海没処分された。(ペンサコラは11月、ソルトレイクシティは6月)
- 加古の後を追った古鷹と違い、ペンサコラは妹ソルトレイクシティとともに大戦を生き残った。だが、その苦労人にアメリカ海軍が課した最後の任務とは……1946年、長門を焼いたあの業火に、他の仲間たちとともに焼かれることであった。
:やっぱり英国面丸出しでした!
- 日米に遅れて重巡洋艦の整備に着手し始め、植民地への通商路保護とその間の居住性確保のために排水量に比して大型の船体を持つ重巡洋艦グループたるカウンティ級の建造に踏み切ったイギリス。だがそこは英国、一筋縄ではいかさない。
- 弾薬庫だけは111mmの装甲ボックスで固めていたものの、これを大型の船体全体に施しては排水量が超過してしまうのでそれ以外は25mmの超軽装甲で済ませてしまった。これでは駆逐艦の砲撃くらいしか防げない。これをどうにかしようと大戦中に114mmの装甲を追加したら今度は凌波性と速度が悪化した上に乾舷も下がって先輩と同じく水族館状態に。お前ら先輩達の何を見てきたんだ!!
おまけに主砲は俯仰速度が速すぎてまともに狙いが定まらず、その砲弾も超軽量弾で威力が出ず・・・ - 後続に防御をまともにしつつ安上がりにするため小型化したヨーク級の建造に踏み切ったものの、性能が古鷹型とどっこいどっこいになってしまった上に1割程度しか節約にならず・・・
イギリスは二番艦であるエクセターを最後に重巡洋艦が保有制限量に達したことや、旧式化した軽巡洋艦の更新などから軽巡洋艦に一本化してしまった*22。もう空母と軽巡だけ造ってろ!!
- 弾薬庫だけは111mmの装甲ボックスで固めていたものの、これを大型の船体全体に施しては排水量が超過してしまうのでそれ以外は25mmの超軽装甲で済ませてしまった。これでは駆逐艦の砲撃くらいしか防げない。これをどうにかしようと大戦中に114mmの装甲を追加したら今度は凌波性と速度が悪化した上に乾舷も下がって先輩と同じく水族館状態に。お前ら先輩達の何を見てきたんだ!!
:そもそも何で欲しがったの?
- ドイツ第三帝国も1934年に重巡洋艦の計画を始める。それがアドミラル・ヒッパー級である。
20.3cm砲連装4基8門装備で、シャルンホルスト級、ドイッチュラント級の建造経験を経ての設計だったため、設計自体はビスマルク?より洗練され、まとまった艦である。- ところがここに問題があった。ヒッパー級はまるっきり日本重巡そっくりの艦隊型巡洋艦だったのである。
WWII勃発時、ドイツ海軍はまとまった戦力を整えることができず、結局通商破壊に終始するが、ヒッパー級は航続力が劣ったためシャルンホルスト級やドイッチュラント級と共同作戦ができなかった。
たとえ大洋艦隊の再建が間に合ったとしても、ビスマルクの足を引っ張ったであろうことは想像に難くない。(当初想定された戦場、バルト海や北海、大西洋での運用に限ればビスマルクなどの足は引っ張らなかったのではという意見もある。) - そもそも、ロンドン条約に参加していないドイツが8インチ砲を上限とする、まるっきり条約型巡洋艦でしかないヒッパー級を建造したことが不自然なんである。確かにイギリスに通告する必要があったとはいえ、だいたいが排水量の方は4,000トンも誤魔化していたのに主砲口径を少しデカくしたぐらいでなんのことやら。
しかも起工した翌年には軍備上の制約はすべてヒトラーがちゃぶ台返ししてしまうのである。(アドミラル・ヒッパー級はフランスなどの条約型巡洋艦に対抗できる艦として計画されたとされる。ヒッパー級が実際には1万5千トンクラスの排水量でありながら1万トンクラスと称されたのはドイツ再軍備宣言後に締結された英独海軍協定の影響があるという意見もある) - このため、数々の武勇伝を残す艦が多い第三帝国期のクリーグスマリーネの中で、3隻だけ完成したこの重巡洋艦の評価は、一等低い。
- ところがここに問題があった。ヒッパー級はまるっきり日本重巡そっくりの艦隊型巡洋艦だったのである。
- 古鷹に直接関係のあるものではないが、日露戦争時に編成された初代第六戦隊(艦これで有名な第六戦隊は六代目にあたる)に所属していた防護巡洋艦「和泉」*24は世界初の防護巡洋艦として有名である。
- 顔面左側の黒い部分は、上記のサボ島沖でのエピソードから火傷説もあったが、絵師本人のtwitterによると「古鷹の顔の左側、あれ影です...」「でも火傷痕って解釈も好きです」とのこと。
フライフェイスじゃなくてよかったね!おいバカ遊撃隊がくるぞ!
- 進水式を誕生日とするならば、古鷹の誕生花はカランコエ
花言葉は「幸福を告げる」「あなたを守る」「おおらかな心」「たくさんの小さな思い出」