大淀

Last-modified: 2014-11-18 (火) 17:31:17

14.1.9 円卓バーナー.JPG
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No.183
提督、軽巡大淀、戦列に加わりました。艦隊指揮、運営はどうぞお任せください。大淀(おおよど)大淀型 1番艦 軽巡洋艦
艦船ステータス
耐久34火力24
装甲19雷装0
回避35対空18
搭載12対潜0
速力高速索敵24
射程24
最大消費量
燃料35弾薬30
艦載装備
015.5cm三連装砲
610cm連装高角砲(砲架)?
6零式水上偵察機?
装備不可
改造チャート
大淀大淀改?(Lv35)
図鑑説明
艦隊旗艦として特化設計された新鋭軽巡洋艦、大淀です。
搭載予定の新型水偵の失敗や戦局の変化もあって、連合艦隊旗艦としてはあまり活躍できなかったの。
でも、北号作戦や礼号作戦では活躍したのよ。私も前線で、頑張りますね。
CV:川澄綾子*1、イラストレーター:藤川 (クリックするとセリフ一覧が開きます)
セリフCV:川澄綾子、イラストレーター:藤川*2
入手/ログイン提督、軽巡大淀、戦列に加わりました。
艦隊指揮、運営はどうぞお任せください。
母港/詳細閲覧はい。お任せください
提督、そこは通信機ではありません。勝手に触られると、艦隊指揮に支障が出ます
提督、その通信方法はどうなんでしょう。平文で良いかと思います。はい
(季節限定ボイス) 提督…秋の気配を感じますね。
ケッコンカッコカリ(反転)提督、大淀をお呼びでしょうか?えっ、これを私に?
ありがとうございます、提督。いつまでも、大切にします。
ケッコン後母港(反転)提督、大淀をいつも大事にして下さって本当にありがとうございます。
私、ずっと見ていたんですよ。気づいていました?
編成艦隊旗艦 大淀、出撃致します
出撃艦隊旗艦 大淀、出撃致します
連合艦隊旗艦 大淀、抜錨します
遠征選択時計算通りです
アイテム発見計算通りです
開戦敵艦隊見ゆ。砲戦、用意。お願いします
航空戦開始時
夜戦開始礼号作戦を思い出す。全艦、突撃!
攻撃敵艦隊見ゆ。砲戦、用意。お願いします
よーく狙って。てーッ
連撃/弾着観測射撃/夜戦攻撃艦隊運動。そう、上手よ、皆
小破やだ・・・右に傾斜。注水傾斜復元を!
やっ!や、やられた!
中破/大破くっ・・・やられました。でっでも、大淀沈みません、沈みは・・・しません
勝利MVPえ、私の武勲が一番? あら、意外なこと。でも何だか誇らしいですね、うふふっ
旗艦大破くっ・・・やられました。でっでも、大淀沈みません、沈みは・・・しません
帰投艦隊、作戦終了です。お疲れ様でした
補給補給と兵站、大切ですね
改装/改修/改造私の改装ですか? ありがとうございます
そうですね。雷装を積みたいような、そうでもないような・・・
計算通りです
入渠(小破以下)申し訳ありません。少し、後方に下ります
入渠(中破以上)大変申し訳ありません。少しお暇を頂けますと幸いです
建造完了新建造艦が完成致しました
戦績表示提督、我が艦隊の情報を整理しました
轟沈(反転)排水急いで!え…ダメ…?ダメなの!?提督…ここまでのようです…また、いつかどこかで…きっと…
時報(0時)
(6時)
(12時)
(18時)
放置時提督、次の任務のお時間です。…って、提督?提督?聞いていらっしゃいます?ねえ

ゲームにおいて

  • 2014年8月8日のアップデートにて新規実装。夏イベント:期間限定海域【AL作戦/MI作戦】?のE-2をクリアすると入手できた。
    しかし、新規実装と成ってはいるが通常海域でのドロップや建造では入手不可のため、現状新規/追加入手の手段が無い。
    • 2014年11月14日開始の秋イベント発動!渾作戦?のE-2において、ドロップが確認されている。ボス前夜戦マスとボスマスの2つでドロップするので、まだ入手していない提督はここで掘ろう。
  • 長らく任務娘として看板を背負ってきた彼女がついに艤装を背負って登場となった。
    • 明石同様、中破させて任務を表示させても任務娘の大淀は変化しないのであしからず。
  • 初期から10cm連装高角砲(砲架)?を装備済み、他の入手は大鳳?改装のみというレアな防空兵装なので大事にしよう。
  • 索敵機スロットが0,6,6と偏っている(搭載0とそれ以外が混在する艦は大淀が初)。
  • 史実では魚雷発射管や爆雷を装備していなかったため、艦これでもデフォルトの雷装・対潜値は0となっている。
    • 初期値の状態では雷撃・対潜攻撃が不可能だが、近代化改修やレベルアップにより値を1以上にするとどちらもできるようになる。ただし他の艦に比べて上昇値は心もとない。
    • ちなみに素の雷撃値が0だと魚雷を装備しても雷撃不可、対潜値0の場合、ソナー・爆雷を装備しても対潜攻撃をしない模様。
      • これはまるゆ?ちとちよ?が素の雷撃値0の時は雷撃しないのと同様の処理と思われる。
  • 阿賀野型と同様軽巡としては大型であることから、燃費は全軽巡洋艦でも最悪の水準。遠征には全くの不向き。史実では高効率で長大な航続距離を持っててけっこう輸送してるのに
  • 偵察巡洋艦としての出自から、索敵が非常に高い。レベルが上がれば正規空母並みにまで索敵が上昇する。
    • その高さは索敵の高さを長所とするとね?ちく姉妹に勝るほど。
      さすがに?には少々届かないものの、必要索敵値が苦しい場面では彼女の投入も検討しよう。
  • 装備スロットが初期で3つ、改造することで4つになるという夕張?と同じ特徴を持つ。
    • 火力は同等だが雷装が30も低い。このため夜戦で大物を相手取るのが苦手という軽巡らしからぬ弱点がある。
      • 素の対潜値も低いので最大対潜攻撃力も夕張に軍配が上がる。夕張のお家芸連撃&対潜装備でフラ潜を相手取るのは少々心もとない。
    • 代わりに6機のスロットがあるので弾着観測射撃が可能。その場合残り1スロットをフリーで使うことができる。
      • 主砲3を積んだ場合神通改二?を超えて軽巡最高の砲撃力の持ち主となる。
      • 主砲2副砲1を積んだ場合連撃・カットインの両面待ちで発動率を高めることができる。これは軽巡では大淀のみが可能な芸当。
      • 砲を3つ積むと主副副か副副副以外は夜戦が連撃でなくなるが軽巡中トップクラスの運を持つのでカットイン仕様でも悪くはない。
      • さらに偵察機を積むことで索敵値を底上げし羅針盤制御を助けることもできる。
      • 電探を積んで命中補佐、渦潮軽減等に使うことも可能。
      • ノーマル潜水艦程度なら三式水中探信儀?1つで蹴散らせるので命中の底上げついでにつけるのもあり。
    • ドラム缶ガン積みで低コストのドラム艦担当として5-4を回るのもまた良し。
    • 低耐久低回避の夕張と異なり防御能力が優秀。耐久・装甲・対空は平均以上で回避も平均並みにある。
    • 総合的には夜戦と対潜に勝る攻撃型の夕張と基本性能に優れた万能型の大淀で差別化できるだろう。
  • とんでもない脱げっぷりを披露してくれるのは、船体・艦上構造物ともにずたずたにされ大破、復旧されるも再び猛攻撃を受けて横倒しに着底という壮烈な最期からか。でもメガネは割れない。 強度が高すぎる...
  • ゲーム的な性能とは何の関係も無いが、彼女の実装によって、「伊勢?5隻」に引き続き2組目の「頭文字統一艦隊」が組めるようになった。「大淀・大鯨大和大鳳?大井大潮」で「大」艦隊が組める。

小ネタ

略歴
1941. 2.14呉工廠にて起工
1942. 4. 2進水
1943. 2.28竣工。艦長に富岡定俊大佐着任
1943. 5.31第27駆逐隊(時雨と『有明』)に護衛され姉妹最上?とともに西日本へ。桂島泊地に到着後、長門扶桑と共に停泊
1943. 6. 8陸奥の爆沈を目撃する
1943. 7. 9トラック泊地へ移動、南海第四守備隊をラバウルへ輸送
1943. 7.26トラック泊地へ戻る
1943. 8.29艦長に篠田勝清大佐着任
1943.10.17クェゼリン環礁へ進出、10日ほど警備したのちトラックに戻る
1943.12.26戊号輸送作戦*3大和へ横付けし同艦の運んできた陸軍部隊と軍需品を移乗
1943.12.29能代?、『秋月』、『山雲』とともにトラックを出発
1944. 1. 1早朝4時45分にカビエン到着。物資揚陸完了直後に米軍機約100機による空襲。爆弾、至近弾、機銃掃射により2名戦死、4名負傷者を出す
1944. 3. 6聯合艦隊旗艦となるための改装が始まる
1944. 3.31海軍乙事件。聯合艦隊司令長官・古賀峯一殉職、代って豊田副武が司令長官となる
1944. 5. 1改装完了。5月3日に豊田長官を迎え正式に聯合艦隊旗艦となる
1944. 5. 6艦長に阿部俊雄大佐着任
1944. 8.15艦長に牟田口格郎大佐着任
1944. 9.29聯合艦隊旗艦の任務を解かれる
1944.10.25レイテ沖海戦。小沢機動部隊所属。8時20分、爆弾と機銃掃射で死傷者22名を出す。8時53分、瑞鶴が大淀に通信代行を依頼。10時54分、瑞鶴より小沢冶三郎中将以下司令部を移乗。14時40分、瑞鶴戦没。この後奄美大島に向かって北上、戦線離脱
1944.10.27奄美大島に入港
1944.10.29『若月』とともにフィリピンに向かう
1944.10.31マニラ入港
1944.11. 5空襲の危険性を告げられミリ泊地へ移動。停泊中にB-24 3機による爆撃を受けるが被害なし
1944.11.18伊勢日向榛名?足柄羽黒?、『朝霜』とともにリンガ泊地へ移動
1944.12.24礼号作戦参加のためカムラン湾からミンドロ島へ向かう
1944.12.26礼号作戦。21時01分、爆弾4発(命中2、至近弾2、直撃弾はすべて不発)により軽傷者1名。最大速力32ktに低下。魚雷艇の雷撃を全回避後、23時より1時間ほどサンホセ港や飛行場を砲撃
1944.12.28カムラン湾へ帰還
1945. 2.10北号作戦。第四航空戦隊(日向・伊勢)と護衛の駆逐艦(霞・初霜・朝霜)と共にシンガポールから日本へ資源を強行輸送。損害無く成功する
1945. 2.15艦長に松浦義大佐着任
1945. 3.19第1次呉軍港空襲。至近弾1、直撃弾2により戦死者52名。缶6基のうち4基使用不能。応急修理後に江田島湾(飛渡瀬)に曳航され、浮き砲台となる
1945. 5.15艦長に田口正一大佐着任
1945. 7.24第2次呉軍港空襲。500ポンド爆弾3~4発命中、右に傾斜して着底。排水作業により傾斜復旧
1945. 7.28第3次呉軍港空襲。10時ごろ艦橋近くに被弾、浸水発生により右に傾斜。その後も次々に爆弾命中、傾斜復旧が間に合わず12時ごろ横転。死傷者は24日と28日を合わせて計403名
1945.11.20除籍
  • マル4計画で阿賀野?型と共に建造された、潜水艦隊指揮用の旗艦巡洋艦。
    • 阿賀野型姉妹と同じく戦争中期(43年2月)に就役した新造艦であるが、絶対不利な戦局となった戦争末期の、レイテ沖海戦(小沢囮部隊)、礼号作戦、北号作戦などに参加、無事に完遂。
      45年7月の呉軍港空襲で大破横転するまで戦い続けた強運艦である。
      また、帝国海軍最後の連合艦隊旗艦としても有名。
    • そして一部の提督の間では、「最後の軽巡(軽巡のラスボス的な意味で)」的な期待をもって実装が待たれていた有名艦である。*4
    • 艦名は都城盆地に端を発し、宮崎県南部を流れ、日向灘に注ぐ『大淀川』に由来する。
      • 地理的な理由で、艦内神社は強運艦として名を馳せた「日向」(こちらは宮崎県の旧国名)と同じ宮崎神宮を勧請していた。幸運に恵まれた所以はここにもある。
      • そんな日向とはレイテ沖海戦から共に呉で最後を迎えるまで行動を共にしている(詳しくは後述)
    • 「仁淀」という妹の計画もあったが未着工のまま終わってしまった。*5軽巡としては珍しく、姉妹でカップリングが感じられる命名だっただけに惜しい。加賀さんと仲良くなれそう*6
  • 次世代型駆逐艦とともに前線に出てこれらを指揮する「水雷戦隊旗艦」としての能力に特化した乙型巡洋艦(阿賀野型)に対し、
    彼女は索敵兵装に乏しい潜水艦に代わって索敵を行い、後方から通信で作戦指揮を執る「潜水戦隊旗艦」として設計された丙型巡洋艦である。
    • 当初の構想では飛行甲板を張った1万6000トンの航空巡洋艦だったが、
      あまりにも無茶だったので、主砲も魚雷も積まない、徹底的に水上機運用能力と旗艦としての通信能力に特化した中型巡洋艦にまとめなおされる。
    • その後、まがりなりにも最前線で活動するのだから水上戦闘能力がもっと欲しいという声があがり、
      最上?三隈から降ろした15.5cm三連装砲の砲塔が2基余っていたのでこれを搭載して主砲兼対空砲?とし、
      これに新型高性能の長10cm高角砲?連装4基8門と25mm三連装機銃?6基(後に12基)を合わせて強力な対空火力を得ることになった。
    • この15.5cm砲と10cm高角砲の組み合わせが生み出す防空力は軽巡としては破格のもので、十分な錬度と相まってその力は軽巡はおろか重巡すら上回り、対空設備を強化された摩耶以上とも言われるほどであった。
    • 外観上の特徴はなんといっても艦全長の4分の1にも達する巨大なカタパルトと箱形の搭載機格納庫。
    • 基準排水量は8,164t(満載11,433t)に達し、阿賀野型の6,652t(満載8,338t)と比較しても大きい、日本海軍で最大の大型軽巡洋艦である。
      • 参考に、米軽巡クリーブランド級、満載14,131トン。ファーゴ級、14,500トン。ウースター級、17,997トン。英軽巡エディンバラ級、13,175 トン。軽巡‥‥?
      • これら大型軽巡、実は『軽巡』最上型(基準11,200t、満載13,980t)に対抗するため設計されたクラスとその後継のため、規模で言えば日本の重巡サイズとなっている。
        周知の通り最上は8インチ砲に載せ替え重巡に変身する前提で建造された「軽巡洋艦」。そのため比較するならもがみん達の方が適当だったり。
        ガチンコの砲撃戦を主眼に置き設計されたマッスルな彼女達と、水雷戦を主眼に置いていた日本のコンパクトな軽巡達やあくまで潜水艦部隊の指揮艦であった大淀を比べるのはちょっと酷かもしれない。
  • 大淀は「軽巡」ではあるが、水雷戦隊旗艦として前衛を務める役割を求められなかったことから
    日本の軽巡洋艦の中では唯一魚雷発射管を持たず、代わりに旗艦設備と偵察用の水上機運用力が充実している。
    • 軽巡洋艦としては唯一水上機格納庫を持つため6機もの水上機を搭載でき(史実では軽巡の搭載機数は阿賀野型で2機、他は1機である)
      さらに実質大淀型専用機となる新型水上機「紫雲?」を射出する為の大型カタパルトに加え回収用のクレーンも搭載しており、破格の水上機運用能力を持つ。
      (これを否定する意見もあるhttp://www.warbirds.jp/truth/shiun.html
    • この結果を受け日本海軍は紫雲の生産中止を決定し、大淀での運用も諦める事となりカタパルトは竣工後直ぐに撤去され、従来型の呉二式射出機五型に置き換えられ、搭載機は従来の零式水上偵察機?2機という無難な装備となった。
      • そのため、イラストに描かれている水偵と初期装備は紫雲ではない。
    • なお、本職の水上機母艦を除けば、水上機格納庫を持つのは砲撃が強すぎて水上機を破壊してしまう大和型と航空戦艦である伊勢日向のみである。
  • 彼女の本来の目的は、日本列島に近づいてくる敵艦隊の戦力をじりじりとすり潰す「漸減作戦」において
    索敵が苦手な潜水艦に代わって強行偵察を行い、敵を発見次第潜水艦に指揮を飛ばして敵戦力を減らすことである。
    そのため偵察巡洋艦としての役割が求められていたこともあり、かなりの快足の持ち主。
    翔鶴型や阿賀野型と同様の高温高圧缶*7を搭載しており、公試記録での最高速度は35.5ノットだが実際には39.5ノットと島風に匹敵するほどの速力を出せたと言われている。
    • 一説には過負荷時には45ノットもの速力が出せたとも。(後述)
    • 理論的には、同じ重量で速力を35ノットから39.5ノットにするには所要出力は1.36倍、45ノットにするためには所要出力が2.1倍になる。
      大淀の速度の逸話については公式記録がなく、証言以外の証拠が残っていないため、判断には注意を要する。
    • そもそも阿賀野型は島風型の指揮を行えるということが前提にあるので、阿賀野型と同等以上の機関を持つ彼女もまたそれだけの速力を持っていて当然と言える。
    • 新型缶の採用、翔鶴型と同様のバルバス・バウの採用などで燃費も良く、航続距離は10180海里と設計段階の予想(8700海里)を遥かに超えるほどの長大さを誇った。
  • 長期間の偵察行動を前提としていたこともあり、艦内は空調が完備され、一部居室の冷房が省略された大和型以上の快適さを持っていた。
     
  • 第三次ソロモン海戦で戦没した比叡の元乗組員の多くがこの船に乗った。そのおかげで巡洋艦でありながら訓練や制裁は非常に厳しかったと言われている。
    一日の訓練スケジュールは分刻みで管理され、一瞬のたじろぎも許されない厳格さだったとか。
    • ただしその分乗組員の士気・錬度は共に十分で、幸運も味方につけた大淀は激戦地を転々としながらも45年3月の空襲まで損害らしい損害を受けず戦い続けた
  • また就役から戦没まで6人艦長が着任したが、結構有名な人が多かったりする。
    歴代艦長と概略(階級は着任当時の物)
    初代富岡定俊大佐艤装員長と兼務。後に軍令部に異動して戦争末期の作戦立案、終戦工作に従事。USSミズーリでの降伏文書調印式にも参加している。
    二代篠田勝清大佐前職は長良?艦長。大淀ではカビエンでの100機以上の敵機の攻撃をことごとく退け、乗員の信頼も厚かった。スリガオ海峡夜戦で乗艦の山城?と運命を共にする。同艦最後の艦長。
    三代阿部俊雄大佐太平洋戦争中は第八駆逐隊や第十駆逐隊司令を務めた。大淀が連合艦隊旗艦だった頃の艦長である。後に空母「信濃」の艤装員長兼艦長。同艦と運命を共にした
    四代牟田口格郎大佐大淀のレイテ沖海戦から北号作戦までの活躍を支えた人。45年7月24日の呉軍港空襲において伊勢の艦橋で戦死。同艦最後の艦長
    五代松浦義大佐マリアナ沖海戦で龍鳳を無事生還させたことで有名。だが45年3月の空襲(後述)で部下の反対を押し切り出港を強行した結果艦が大破。半ば更迭の形で辞任。
    六代田口正一大佐雪風の艤装員長と初代艦長を務めた経験有り。7月24・28日の空襲では転覆まで艦橋に留まり指揮、艦橋への直撃弾もあったが奇跡的に生還している。
     
  • ・・・そんな期待の新型として誕生したはずの彼女だったが、彼女が登場したのは既にミッドウェーの後。
    漸減作戦の後に艦隊決戦という青写真は既に破綻してしまっていたため本来の潜水戦隊旗艦としての能力を発揮できず、航空巡洋艦や巡洋艦隊旗艦として運用される事も無く、同型艦もなく隊もろくに組めないぼっちの彼女は新型艦にもかかわらず警備や輸送などの地味な裏方に回る不遇な日々を過ごしていた。那珂ちゃんと仲良くなれそう
    • 能代?らとともに行ったカビエンへの輸送任務の際、100機を超える敵機の襲撃に遭った事がある。この時大淀は物資揚陸完了直後で、50km先の敵機を発見し緊急出港。
    • 物資を降ろして身軽になった大淀は全力で加速していくと、速度計の針が45ノットの針当てを叩いていたという。*8これはあくまでも乗組員の証言でありもちろん公式記録ではないが、もしこの話が本当なら、大淀はこの時45ノット以上を発揮していた可能性がある。
    • この戦闘で、大淀は主砲対空弾300発を40分ほどで撃ち尽くしてしまい、徹甲弾や演習弾まで撃っていたという。
      敵機接近に気づくのが遅れた能代?が中破するも、大淀は100ポンド爆弾1発を浴びたが幸運にも不発で、これは不発処理の後艦内神社に飾られた。
  • そんな中で戦局はさらに逼迫し、海軍内で主戦力である戦艦を旗艦任務で遊ばせず前線に投入すべき、という論が立ちあがった。
    また、現実的な問題として戦況の拡大により大規模な組織改編を行い複雑化した連合艦隊司令部の機能を一隻の戦艦の設備だけを使って果たす事は不可能となりつつあった。このため、陸上に新しい司令部用の施設を設けるか、連合艦隊司令部専用の軍艦を用意する必要に迫られていたという事情があり、今の所特に具体的な運用計画が定まっておらず同型艦も存在しない大淀が、巨大な格納庫を連合艦隊司令部の常駐する施設に改装する事が出来ると判断され、連合艦隊旗艦として選ばれる事となった。
    大淀の連合艦隊旗艦への改装は1944年二月に開始され、格納庫を三段に仕切りそれぞれの階に連合艦隊司令部の設備が施され、2ヶ月後の4月には正式に連合艦隊旗艦として新たな任務に就くこととなった。
    こうして大淀は栄誉ある連合艦隊旗艦の任を武蔵?から受け継いだ。
    • 戦艦以外の連合艦隊旗艦は初代連合艦隊旗艦である防護巡洋艦「松島」に次いで2隻目である。
    • 豊田副武聯合艦隊司令長官を乗せて、あ号作戦(マリアナ沖海戦)を指揮、その後彼女は旗艦の任を解かれ、司令部は陸上*9に移っていった。
      以後連合艦隊旗艦は空席のままとなり、結果として彼女は日本海軍最後の連合艦隊旗艦となった。
    • 旗艦時代の大淀の評判はあまりいいものではなく、豊田司令長官からは、「(従来の戦艦と比べて)こんな小さな船で戦死してしまったら連合艦隊の足元を見られる」と嘆き、最大の特徴である航空運用力が減少したこともあり、現場からは「何をするにも中途半端な存在」と酷評された。
      無理やり格納庫に司令部機能を詰め込んだために復元性能が悪化し、最大船速発揮時の転舵のたびに大傾斜してしまう問題も抱えてしまった。(攻撃を受けたと勘違いするほど)
    • なお、連合艦隊旗艦としての息苦しさから開放されたとして乗組員は旗艦解任をむしろ歓迎していたという。
  • その後小沢囮艦隊の随伴艦としてレイテ沖海戦に参加。
    元々小沢艦隊旗艦になる予定だったのが、「囮とはいえ機動部隊を率いるからには旗艦は空母だ」という小沢中将の意向で旗艦は瑞鶴となり、大淀はその予備旗艦となった。
    • 機体無き囮となった空母たちに殺到する敵機に対し搭載していた主砲対空弾の8割を撃ち尽くすまでに奮戦(乗組員曰く、カビエンでの戦訓で、これでも発砲を控えめにしていたという。撃墜27機を主張)。
      囮の役目を全うし大破炎上した瑞鶴から小沢中将以下司令部を移乗させ、艦隊旗艦の任を受け継ぐ。そして彼女の最期を看取った。*10
      • 空襲の間隙を突いての作業であり、間一髪の移乗劇だったという。下記動画のカッターは大淀のもので、小沢長官を迎えに行く途中の映像である。
        ナレーションは不時着水した搭乗員を救出するためと言っているが実際は逆で、カッターの周りに戦闘機が相次いで不時着してきたものだった。
    • その後、千代田?や駆逐艦初月(未実装)を襲った敵水上艦隊を撃破すべく、日向伊勢ら生き残りとともに更に前進したが捕捉できず、奄美大島に帰投した。
  • 司令部が退艦し再び旗艦任務を解かれた彼女はマニラ、ミリ、ブルネイ、リンガとフィリピン方面の泊地を回る。
    レイテ海戦後に満足な補給も受けられないままの行動であり、特に主砲対空弾が不足したままの行動であった。
    • マニラに寄港していた大淀は、敵の情勢不穏を察知して、予定を前倒しして緊急出港した。
      その直後マニラに大空襲があり、大淀は間一髪で危機を脱した。しかし停泊していた重巡那智がここで撃沈されている。
  • 提督諸兄の合言葉「帰ろう、帰ればまた来られるから」でお馴染みの木村昌福中将指揮下で足柄?らと共に礼号作戦に参加する。
    • 緒戦の最中に爆撃機からの爆弾2発が直撃、至近弾2発を受けるも直撃弾は全て不発という強運を発揮した。お前はどこの8番艦だ
      • 直撃弾のうち1発は煙突から装甲板を貫通して機関室に飛び込み、ボイラーのわずか数十cm手前で止まっていた。
        強力な高温高圧缶もろとも炸裂していたら、沈没は免れなかっただろう。
        この爆弾は例によって不発処理されて艦内神社に祀られたという。*11
      • なお爆弾が不発だった理由だが、大淀に爆弾を落とした米軍のB-24のパイロットの証言によると、
        「自分達の出撃が突然決まったので、爆弾に自分で信管を取り付けて飛び立ち、大淀目がけて投下し命中したが、おそらくその信管の取り付け方が拙かったのだろう」との事。
      • この逸話も、この礼号作戦が完璧な奇襲であり、米軍側が大慌てであったことを裏付けている。*12
    • その快足で敵水雷艇の魚雷を全て回避しつつ迎撃し、サンホセ港の物資集積所および飛行場を20分あまり砲撃した。
    • その後旗艦霞より撤退命令が下るが、沈没した清霜?搭乗員の救助に当たっていた霞の安全を確保するため
      足柄とともに撤退命令を無視し周辺の敵水雷艇を掃討してから撤退。救助完了後霞も無事撤退し作戦を成功させた。
  • そして伊勢型姉妹率いる輸送隊の一員として北号作戦に参加。
    既に無用の長物だった司令部を今度は輸送庫に改造。元に戻しただけとも言う 物資を詰めたドラム缶を満載して日本へと向かい、
    「半分生き残ればいい方」とまで言われたこの無謀な輸送作戦で見事全艦無事で呉まで辿り着くという奇跡のごとき成果を残す。
    だが、呉まで辿り着いたはいいもののそこで作戦行動できるだけの燃料が尽き、この作戦が彼女の事実上最後の花道となった。
    • 北号作戦の詳しい経緯と幸運艦としての大淀の評判については伊勢改および日向改を参照。
  • 以後大淀は練習艦に格下げされ呉に残留することとなる。
    • 1945年3月19日。呉を襲った敵爆撃機隊を友軍と誤認して反応が遅れる。松浦艦長は航海長の反対を押し切り抜錨し迎撃を図ろうとし、
      迎撃自体は成功するも、呉に帰投しようと回頭中の所を狙われ至近弾により艦底より浸水、さらに直撃弾でボイラーと機関室、煙突が破壊され缶6基中4基を失う大損害を被る。
      穴を塞ぐ応急修理は行われたものの機関部の修理はされず、戦闘行動はおろかもはや動かすだけで精一杯になった事で浮き砲台として飛渡瀬*13に繋留される事になる。
    • 同7月24日。敵艦載機の襲撃を受け爆撃によって上は大炎上、下は浸水。高角砲一基に直撃弾を受け使用不能になった挙句右に傾斜したまま着底するも、消火と排水が行われなんとか復旧する。
    • 同28日。再び呉を襲った大空襲によってさらに爆撃を受ける。残った機銃と高角砲で死に物狂いで応戦するも、10時ごろの艦橋付近への直撃弾を皮切りに続々と被弾、傾斜がさらに増した事、連日の戦闘で酷使された機銃の故障が相次いだ事で、対空射撃がもはや不可能になってしまった。
      抵抗する術を全て失いさらに直撃弾を受けた大淀は、正午前についに完全に横転。横倒しのまま大破着底し、力尽きた。
      • 呉軍港空襲の話題となるとほぼ出てくる、左舷を上にして重油の帯を引きずりながら撹座した大淀の姿は、
        米軍の手によってこの時撮影されている。なお米軍は転覆後も執拗に爆撃を加えたり、脱出し負傷した水兵を載せて陸地に向かう内火艇に機銃掃射を行ったと言う。*14
    • 戦後大淀は転覆状態から復旧された後にドックまで運ばれて解体された。
      • 普通着底した艦はその場で浮揚し解体されるのだが、「一隻ぐらいは生まれ故郷で解体してやりたい」とドックまで曳航されたらしい。
      • また浮揚作業からドック入り、解体まで記録として写真に残されている。ドックで撮影された写真には、
        着底の衝撃で根元から曲がった艦橋や、3月の空襲の応急修理跡、最期まで敵を追いかけた高角砲が最大仰角で停止していることが見て取れる。
  • 広島県江田島市大柿町飛渡瀬、ここが大淀の最後の地である。浮き砲台になってから大淀の乗組員は、田口艦長の指示も有り住民たちの手伝いを行い、飛渡瀬の住人達もまた最後の戦闘の際、必死に大淀とその乗員を助けた。生き残った大淀乗員たちも、飛渡瀬を第二の故郷のように慕っているものも多いという。
    • また同地には大淀の慰霊碑とお堂が建てられ、それを囲むように桜の木が植えられている。この慰霊碑は終戦から日も浅い頃、住人達が占領軍に嘆願して黙認と言う形で建立したという話が残っている。
      そして大淀が空襲を受けた7月24日、毎年この日に、地元住民や乗組員とその遺族、そして海上自衛隊らによって供養が行われている。
       
  • なお、光人社NF文庫から「巡洋艦「大淀」16歳の海戦~少年水兵の太平洋戦争~」が出ている。戦列に加わったのが戦中だと言うことも有り残された資料や写真が極めて少ない彼女にとって、
    この本は彼女の足跡を知り、また水兵の目を通した乗組員たちの生活や訓練、戦闘の様子などを克明に伝える名著である。
    • 筆者は主砲発令所要員であったため、特に15.5cm3連装砲?についての記述が多い。
      傑作砲と謳われながら搭載された艦が極めて少なく、これまた逸話の少ない砲であり、その発射手順の詳細や活躍を知る意味でも貴重。
 
  • 現在は二代目「おおよど(DE-231 あぶくま型3番艦)」が現役である。あだ名は現地の不死鳥伝説に因み「Bright Phoenix」
    現代での姉妹は、ネームシップの「あぶくま」の他「じんつう」「せんだい」「ちくま」「とね」 どいつもこいつも猛者揃いな姉妹である。
    • ちなみに「大淀」が艦娘として実装された(2014/8/8)翌日、非常にタイムリーな事に「おおよど」が愛媛で一般公開される・・・予定だったが台風接近に伴い中止となってしまった。中の人は預言者か?
    • 艦内神社はより大淀川に近い「小戸神社」に変更された。
  • 航空巡洋艦最上?利根?型重巡などがよく「DDH(ヘリコプター搭載護衛艦)の先駆け」と言われるが、大淀の主砲2基→艦橋煙突→格納庫→航空甲板というレイアウトと、旗艦設備が充実して対艦攻撃力は最小限という性質は、最上・利根以上に後年の「はるな」・「しらね」型護衛艦にそっくりである。

*1 月刊コンプティーク2014年10月号にて公表。
*2 CVやイラストレーター加筆時はそれぞれCV・イラストレーターに出典を記載
*3 トラック泊地からカビエンへの輸送作戦
*4 他に未実装の巡洋艦としては、「出雲」などの装甲巡洋艦や「香取」型練習巡洋艦がある。大淀が「最後の軽巡」と言われたのは、帝国海軍軽巡として最後にロールアウトした艦型であることと、最後の連合艦隊旗艦であるというネームバリューが大きいため
*5 「仁淀」は、石鎚山を水源とし高知市・土佐市境で太平洋に注ぐ仁淀川に因む。この艦名は、戦後、ちくご型護衛艦7番艦「によど」としてようやく日の目を見た。
*6 「仁淀」と同じく「加賀」の妹になるはずだった「土佐」は高知県由来である。四国由来の艦名は補助艦艇を除けばこの2つしか存在しない。重巡衣笠?が徳島県という説はあるがはっきりしていない。四国由来の艦名を持つ戦闘艦は戦後に成立した自衛隊のちくご型護衛艦「によど」「よしの(高知県及び徳島県を流れる吉野川が由来)」にてようやく日の目を見た。なお、帝国海軍にも「吉野」という巡洋艦は存在していたが残念ながら奈良県の吉野山が由来である。
*7 ただし阿賀野型より大型な事もあり缶の容積はサイズアップされている。そのため1万馬力ほど阿賀野型より出力が高い
*8 『巡洋艦「大淀」~16歳の海戦~』より
*9 横浜市日吉台の慶應義塾大学構内(現:日吉キャンパス)の地下防空壕
*10 傾斜した瑞鶴から撮影された、移乗の為に近くを併走する大淀の姿を捉えた写真が残っている
*11 爆弾と艦首脳部との記念写真まで残っている。大淀副長内田中佐の回想では「乗組員全員、大淀神社のご加護と信じ、深い祈りを捧げずに居られなかった」とのこと
*12 通常爆弾を搭載する際にはあらかじめ兵器係の手によって信管は取り付けてある。しかもこのパイロットその日は元々偵察任務中で、ミンドロ島に降り立った際突如攻撃部隊に参加を命じられたので相当焦ったのだろう
*13 江田島と能美島を結ぶ所
*14 なお、操舵士が敏腕だったので全員無事に陸地へ送り届けられた