澄姫が遊びに来た その八

Last-modified: 2018-08-22 (水) 08:00:21

 冬のある日。
 澄姫が私の家に遊びに来て、一緒に炬燵に入って、一緒に蜜柑を食べて、たくさんお喋りをした日のこと。
 時を忘れてお喋りをして、そして――。
「澄姫どうしたの? 厠に行きたいの?」
 なんだかさっきから少しそわそわしてるような。
「違うわよ! ……そろそろ帰る時刻かと思って」
「ええー!!」
「もうそんな時刻ですか」
「そう、だからそろそろお暇するわね」
「え~そんなに経ったかなあ……」
「楽しい時はあっという間ですね……」
 でも確かに、障子に差し込む外の明かるさが、もうすぐ日暮れって感じかも……。
「う~……あっ、そうだ! どうせなら泊まっていきなよ。もったいない」
「もったいないって何よ……」
「だって、せっかく澄姫がうちに来たのに……」
「何よそれ。ちょっと遊びに来てあげただけで、大げさねぇ」
「ふふっ。あまり澄姫さんを困らせてはいけませんよとこよさん」
「でも、一日泊まるくらいなら別に大丈夫じゃない?」
「え、そんなの……いやでも何の準備もしてきてないし……」
 おお、澄姫も泊まるくらいなら大丈夫そう?
「それでしたら気にせずとも、この家にあるものを使って頂ければ大丈夫だと思います。食事も一人分増えたところで全く問題無いですし」
「ほら澄姫! 全く問題無いって!」
「いえ、その、でもやっぱり、私にも色々準備というかね」
(そろそろ日も暮れてる頃だけどと思って様子を見てみれば、何を言ってるのよあなた達は)
「えっ、この声は紫乃さん……?」
「あっ、紫乃ねえ」
「紫乃さんですか」
 やっぱり。ということは伝心の術か。
(とこよ。今日は澄姫がお世話になったわね。私からも礼を言わせて頂戴)
「えっ。い、いえ。そんなお礼なんて」
(澄姫ったら、あなたの家に遊びに行くだけのことに何日も決心がつかなくてね。私が転送をしようとする度、やっぱり明日にする! って)
「ちょっと! 紫乃ねえ!?」
(やっと決心がついてそっちに転送してからも、家の前で長い事もじもじとしててね)
「わー!! 言わないでー!!」
「へー」
「違うから!! 私はただ、門をくぐる時に何て声を掛ければいいのか分からなかっただけだから!!」
「そんなことで悩んでたの? 気にせずさっさと入ってくれば良かったのに……。そうすれば、もっと長くおしゃべりできたのになー」
「う、うるさいわね」
(許してあげて。この子、友人の家に遊びに行くなんて初めてのことだから)
「紫乃ねえー!!」
「それは知ってましたけど」
「なんでよ!?」
「そりゃあ、澄姫のことだし」
「そ、そう」
(それじゃあ澄姫。ちゃんと今日のお礼とお別れの挨拶をしなさい?)
「言われなくても分かってる」
(はいはい。ごめんなさいね)
 もう本当に、帰っちゃうのかあ……。
「こほん……。さて、とこよ」
「うん」
「今日は、ありがとう。楽しかった」
「うん。私も楽しかったよ」
「また、来るわね」
「いつでも来てね。ちゃんとまた、遊びに来てね?」
「ええ。もちろんよ。文も、小烏丸も、今日はありがとう」
「いえいえ、大したおもてなしもできず」
「私のほうこそ同席させて頂いてありがとうございます。澄姫様」
「じゃあ、そろそろ失礼します……」
「なーに、それ。急に畏まっちゃって」
「わ、笑わないでよ」
 澄姫が炬燵から出て立ち上がっちゃった。
 もうお別れかあ。
「じゃあ、お別れだね」
「うん。じゃあね」
「また遊びに来てよ?」
「来るわよ」
「よかった」
「うん」
 澄姫が帰っちゃう。
「じゃあ、紫乃ねえ。お願い」
「あの、澄姫さん、言い難いのですが……」
「なに?」
 どうしたんだろう文ちゃん。
(履物を玄関に忘れてる、じゃない?)
「あ、はい。そうです」
「あ」
 あ。確かに。
「そういえば玄関から入ってきてたっけ、澄姫」
「……そうだったわね」
「ぷっ、あはは」
「うう……! ちょっとうっかりしてただけよ!」
「うん、うん。そうだね、でも可笑しくて」
「う~っ」
「ええと、では澄姫様、玄関までご案内いたします」
 小烏丸ちゃんも立ち上がる。
「うう……よろしくお願いします」
 澄姫また畏まってる。
「じゃあ、行こっか」
「……どうしたの。立ち上がって」
「そりゃあ、お見送りしなきゃだし」
「……とこよにもそんな礼儀作法ができるのね」
「ひどくないかな!?」
 まあ礼儀作法じゃなくて、ただ見送りたかっただけだったけど。
 あれ? 文ちゃんも立ち上がった?
「あれ、文ちゃんも来るんだ?」
「失礼ですね。人がいつもはできるだけ部屋から出ないで済まそうとしているみたいに」
「実際その通りだと思うけどそこまで言ってないよ!」
「そうでしたか。でしたらいいです」
「そっかーよかったー」
 いいのかあ。
「文って実はものぐさなのね」
「もの……ゴフッ」
「わっ」
「違います。たんに出不精なだ……体が弱いからです」
「出不精なのね」
「体が弱いからです」
「今自分で出不精って言いかけたよね文ちゃん」
 むしろ全部言ってた気もするけど。
 ……そういえば、文ちゃんが血を吐くことに澄姫も慣れてきたみたいだなあ。
 うんうん。
「それではご案内いたします」
 いつの間にか小烏丸ちゃんが襖の前に待機してた。
 スッと襖が開いてくれて、廊下に出て案内の構えだ。
「うう、風が冷たいですね……」
「うん」
「別にここまででいいのよ」
「た、立ったからには、そんな訳には」
 廊下で小烏丸ちゃんが静かに待っている。
 さあ、行かなきゃな。
 でも玄関まで行ったら、澄姫とお別れかー。
 そう思うと、足取りが重くなっちゃうな。
「廊下、冷たいね」
 廊下の床板が冷たい。
「そうね」
「そうですね」
 みんな廊下に出て。
 小烏丸ちゃんが何も言わずに襖を閉めていく。
 誰もいなくなった炬燵に、積まれた蜜柑の皮。
 音も無く、襖がぴたりと閉じてしまった。
「……では、こちらへ」
 小烏丸ちゃんの静かに歩いていく背中。
 ……あとちょっとで澄姫とお別れかあ。
 別に、今生のお別れって訳でもないのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。
 澄姫が初めて遊びに来てくれて、それがすごく嬉しかったからかな。
 やっぱり今日は特別な日だったみたいだ。
 澄姫が遊びに来てくれた、初めての日。
 ……なら、これから澄姫が何度も遊びに来てくれたら……それが普通の日々になったら……。
 そうなったら……きっと……。
 もっと嬉しいのにな。
 って、あれ!?
 いつの間にかもう玄関だ!?
 うう……もうお別れなのに何も話してない。
「澄姫様の履物はこちらです」
「ありがとう」
 ああ、澄姫が帰っちゃう……。
「じゃあ、今度こそお別れね」
「あ、うん」
 今度こそ、お別れ。
「今日は楽しかったわ」
「うん」
「私もです」
 澄姫が小烏丸ちゃんを見てる。
「今日は色々とお世話になったわね」
「いえ……私もとても楽しい時をご一緒させて頂いて、本当にありがとうございます澄姫様」
「そう。小烏丸も楽しかったのならよかったわ。今日はありがとう小烏丸」
「いえ、何かと至らず」
「ううん。お世話になりました」
 澄姫が、もう、帰っちゃう。
「もう、とこよ。そんな寂しそうな顔しなくてもまた来るわよ」
「ほんとう……?」
「嘘ついてどうするのよ」
「それは……そうだね」
「じゃあ、ここで転送というのも味気ないから、一応外に出てからがいいかしら」
(そうね。分かったわ)
「うん、お願い紫乃ねえ。……じゃあね、とこよ。文も。小烏丸も。今日は楽しかった。またね」
「はい……またいつでもいらして下さいね。とこよさんも喜びますから」
「是非また、お会いできる日を楽しみにしています」
 澄姫が、戸に手を掛けて、帰っちゃう……。
「あ……わ、私、最後まで見送るよ!」
「え? いいわよそんな……」
 ええっと、私の草鞋は……あ。
「ありがとう小烏丸ちゃん!」
「いえ」
「ええ……? ええと、じゃあ。文と小烏丸は、またね。今日はありがとう」
「はい。また遊びに来てください」
「いえ、私の方こそありがとうございました」
「とこよは……外までついてくるのね……?」
「うん!」
「そ、そう、ええと、じゃあ、とりあえず出ましょうか」
 ああ、ついに澄姫が玄関から出てしまった。
 敷居を跨ぐ背中の、その長い後ろ髪を引いてしまいたい。
 さて、私も出なきゃ。
 玄関の敷居をまたいで、外はやっぱり冷えるなあ。
 さて、戸を閉めなきゃ。文ちゃんに怒られちゃうね。
 手を振る文ちゃんが見える。
 小烏丸ちゃんのきれいなお辞儀も。
「じゃあ、ちょっと見送ってくるね」
「いってらっしゃいませ」
「はい。あまり引き止めて、澄姫さんを困らせてはだめですからね?」
 外に出た澄姫が私の顔を見ている。ふふっ、なにその顔
「うん。大丈夫だよ文ちゃん」
 閉めていく戸の向こうに。
 文ちゃんが最後にまた手を振っていて。
 小烏丸ちゃんはまっすぐに見送っていて。
 ぱたり、と戸が閉まって。
 澄姫は、あっ、文ちゃんに手を振り返していたんだ。
 ゆっくりと手が降ろしていく
 手がゆっくりと降りていくのがなんだか名残惜しそうに見えるのは、気のせいじゃないよね。
「……じゃあ、いこっか」
「いこっか、ってどこに行くのよ」
「え?」
「え? じゃないわよ……」
「あ。そっか」
 もう外に出たんだから、あとは紫乃さんに転送してもらうだけなのか。
 それでさっき変な顔で私を見てたんだね澄姫。
「何も考えてなかったみたいね」
「だって……」
 お別れするの、寂しかったんだもん。
「……もう、仕方ないわね。じゃあ、門の外まで見送られてあげましょうか。そういうことだから紫乃ねえ」
(はいはい。伝心は繋げて置くから、お別れが済んだら声を掛けて頂戴)
 ……!
「うん! 見送ってあげちゃおうかな!」