夏の頃。小雨がさらさらと降っていた日。
「雨ッスねー」
「雨だねー」
外に出掛ける理由も無く、居間で座布団を枕に寝転がっていた時のこと。
雨はさらさら音も無く降っている。
小雨だし、吹き込んでくる風も無いから雨戸は開け放ったまま。
「雨ッスねー」
「雨だねー」
薄暗い部屋の中、狛犬ちゃんが座卓にでろーんと顎を載せて外を眺めている。
何も考えていないかわいい顔だ。
何も考えていない、という言い方はちょっと失礼かな?
じゃあ……無心?
無我?
……今度は悟りを開いているみたいになっちゃったな。
悟りを開いた狛犬ちゃんかあ……、座禅を組んで、恭しく目を閉じて、手はこうゆったりと広げて指は輪っかを作って、大きな蓮の花に座って後光が差して。
ふふっ、想像したら全然狛犬ちゃんじゃないみたいで、ちょっと面白いかも。
って、こんな風に考えるのも失礼かな。
「どうしたんスかー?」
狛犬ちゃんが座卓にでろーんとしたまま、顔だけこっちに向けた。
じっと見てたから不思議がられてしまったかな。
こっちを見つつも何も考えていない顔がかわいい。
「ううん。狛犬ちゃんを見てただけだよ」
「そうッスかー」
また顔だけでろーんと外を向いた。かわいいなあ。
私も寝返りッスー。ごろーん。
外は相変わらず雨が降ってるなー。
音も無く、さらさらと。
雨なのに、外が明るいのは小雨だからかな。
薄い明るさが縁側から居間の畳に少し映って、そこから内は薄暗い畳の色。
外から差し込む薄い明かるさと部屋の影との境界はぼんやりだけど、でも光の差し込む外と内では畳の青みがはっきり違って見える。
音も無く、外は薄明かりの白さに曇っていて、だから畳の青みがことさら違って見えるのかな。
風はないけど涼しくて、何となく柔らかな優しい、静かな感じだ。
と思っていたら廊下から誰かの足音。
そして襖が開く音。
顔だけごろーん。悪鬼ちゃんだ。
「ご主人様も狛犬も暇みたいだなー」
悪鬼ちゃん、退屈だーって感じの顔だ。
すたすたと座卓まで歩いて座布団にどかっと座って。
でろーんと顔を座卓に乗せて。
これは相当に退屈みたいだね。
「暇ッスねー」
「暇だねー」
「俺も暇なんだよー……はぁ」
ため息まで吐いて、とっても退屈みたいだなあ。
「じゃあ、悪鬼も狛犬たちと一緒に外を見るッスよー」
「えー、外ー?」
はて。外を見てどうするんだろう?
顔ごろーん。
……相変わらずの小雨模様だ。
「雨が降ってるだけじゃないか?」
うんうん。降ってるだけだよね。
「そうッスー、雨が降ってるッスー」
うんうん。やっぱり降っていた。
「雨が降ってるのを見て何が楽しいんだ?」
うんうん。そうだよね。
私も寝っ転がりながら外を眺めるのは嫌いじゃないけど、楽しいかと言われるとちょっと違う気がする。
「違うッス。ただ見るだけじゃないッス」
え? 違うの?
狛犬ちゃん。今まで、ただ雨を眺めてた訳じゃ無かったの?
「ただ見るだけじゃないのか?」
「ただ見るだけじゃないッス」
一体どういう見方をしてたんだろう?
まさか、悟りを開こうとしていたとか……?
「じゃあどう見るんだ?」
「雨が降ってるのを見て、雨ッスねー、って言うッスー」
「ふむふむ」
「ふむふむ」
「そしたらご主人様が、雨だねー、って言うッスー」
「ふむふむ」
「ふむふむ?」
私が雨だねーって言う……?
あ。でも確かに、狛犬ちゃんが雨ッスねー、って言うたびに雨だねーって、返事をしてたかも……?
「……」
「……」
……あ、あれ?
ひょっとして説明終わり?
「あれ? それだけか?」
「それだけッスよ?」
終わりだった!
「なんだ。それだけかー」
「そうッスー。それだけッスー」
「なるほど。それだけだったんだねー」
「じゃあ、俺もやってみていいかなご主人様」
「もちろん。いいよー」
「じゃあ悪鬼もやってみるッスー」
「おう!」
さて、じゃあ。
ごろーんと。
雨を眺めますかー。
……雨が降ってるなー。
「雨だなー」
お、早速悪鬼ちゃん。
「雨だねー」
「雨ッスねー」
さらさら降ってるなー。
ごろーん。
お、悪鬼ちゃんも狛犬ちゃんも、同じ顔になってる。
二人揃って何も考えていない顔だ。
何も考えていない顔で、座卓にでろーんってなって、二人ともかわいいなあ。
狛犬ちゃんは外に向かって真正面な位置。座卓にでろーんと顎を乗せて。
悪鬼ちゃんは外に向かって横向きの位置だから、横顔を座卓に寝そべらせてでろーんって。
何も考えていない顔。
かわいいなあ。
さて。ごろーん。
「雨だねー」
「雨だなー」
「雨ッスねー」
雨だなあ。
あれ? 襖の開く音?
ごろーん。
「ええと、これは、皆さん何を……?」
小烏丸ちゃんだ。
「皆で雨を眺めてるッスー」
「雨を眺めてるんだー」
「そ、そうなのですか」
「小烏丸ちゃんはどうしたの?」
「いえ、特に何かあるという訳ではなく。むしろ何かすることを探していました」
「小烏丸も暇なんだなー」
「そうですね。今のところ暇と言ってしまって差し支えありません」
「じゃあ、小烏丸も一緒に雨を見るといいッスー」
「雨を見る、ですか……?」
「そうッスー。雨を見るッスー」
「雨を……」
「じゃあ小烏丸はそっちに座るといいぞー」
「分かりました」
小烏丸ちゃんは悪鬼ちゃんの向かい側だね。
「じゃあ見るッスー」
「見るかー」
狛犬ちゃんと悪鬼ちゃんが、座卓にぐでーん。
私も雨を見るとしよう。
ごろーん。
ああ、雨が降ってるなー。
さらさらと静かに降る雨の、音の無い庭の景色。
静かだなあ。
「雨ッスねー」
「雨だなー」
「雨だねー」
雨だなー。
「え、ええと……?」
ごろーん。
ふむ。小烏丸ちゃん、よく分かっていない顔だ。
「雨ッスねー、って誰かが言ったら、雨ッスねー、って言うんスよ」
「なるほど……分かりました。次からは大丈夫です」
うんうん。小烏丸ちゃんも分かったみたいだね。
ごろーん。
さて、雨だ。
音も無く、静かに降る雨だなあ。
雲が空を覆っているけど、外は明るい。
きっと雲が薄いんだろうなー。
「雨ッスねー」
「雨だなー」
「雨だねー」
「雨ですね」
おお、小烏丸ちゃんもしっかりと言えたみたいだー。
ふふっ。
ごろーん。
あれ、小烏丸ちゃん。でろーんとしてない。
姿勢よく座って、真面目な顔で外を見てるや。
うーん、何か違うような……。
うーん。
「あの……ご主人様? ひょっとして何かまだおかしい所があるのでしょうか?」
「ヘっ?」
あっ、まじまじと見てたから変に思われちゃったかな。
「私をずっと見ていたようでしたので……何かまだ至らぬ所があるのではないかと」
「あ、いや、そういう訳じゃないんだけど」
狛犬ちゃんと悪鬼ちゃんがでろーんと何も考えていない顔のまま、なんだろうなんだろうって見てる!
かわいいなあ。
「ええと、小烏丸ちゃんはでろーんとしないのかなって思って」
「でろーん、……ですか?」
「うん。でろーんって」
こう。でろーん。
「あー確かに小烏丸、でろーんってしてないなー」
「してないッスねー」
「え、えっと。あの……でろーんとは一体なんでしょうか……?」
「でろーんってのはね。こんな風に……」
でろーん。
「ご主人様、それじゃごろーんッス」
「はっ。そうだった」
「でろーんってのはな。こういう感じだよ、でろーん」
「え、ええと」
「こんな感じッスー。でろーん」
「は、はい。分かりました」
狛犬ちゃんも悪鬼ちゃんも、でろーんだてしてるねえ。
「……つまり、座卓に顔を預ければよいのですね」
「そうッスねー?」
「では……」
「うんうん。小烏丸ちゃんもいいでろーんだよ」
まだ何かちょっと硬いけど。
表情とか。姿勢とか。
「ありがとうございます」
「じゃあまた雨を見るッスー」
「見るかー」
「見よっかー」
「いつでも大丈夫です」
小烏丸ちゃんったらすごい真面目な顔で外を見てるなあ。
ごろーん。
あー、外は雨だなー。
「雨ッスねー」
「雨だなー」
「雨だねー」
「雨ですね」
うんうん。
「雨だねー」
「雨ッスねー」
「雨だなー」
「雨ですね」
雨だなー。
あれ、また誰かが来た? 今度は二人分。
ごろーん。
襖が開けば天狗ちゃんに天女ちゃん。
「……何ですの、これは?」
「あらあら。皆さん寛がれていますねえ」
天狗ちゃんに天女ちゃんだ。
「雨を見てるッスー」
「雨を……?」
「うんうん」
「それでな。誰かが雨だなー、って言ったら皆で雨だなーって言うんだ」
「うんうん」
「……それの何が楽しいんですの?」
「え?」
「楽しい?」
「ッスかー?」
えーと……?
「……」
「何でみんなして黙り込むんですの!?」
はっ!
「あはは……。何が楽しいのかちょっと考え込んじゃって」
「……楽しい訳ではないんですの?」
「楽しくはないッスかねー」
「あっ、やっぱり楽しくないんだな。よかったー。あたしも、別に楽しくないんじゃないかなって思ってたんだ」
「うんうん。そうだよね」
「私はそうするものだと聞きましたので」
あ、天狗ちゃんが呆れ顔。
「やれやれですの……」
「まあ、やってることの何が楽しいかぁなんて。普通は考えませんもんねぇ」
天女ちゃんは笑い顔。
「じゃあ、一体なんでそんな事をしてたんですの……」
「? なんでと言われると……なんでッスかねー?」
「あたしは狛犬から誘われたからだぞ?」
「私は先程申し上げた通り、そうするものだと聞いたからです」
「なんだろうね。いつの間にか……そうする事になってたんだよね?」
「そうッスー。いつの間にか狛犬が雨ッスねーって言ったら、ご主人様が雨だねーって言うようになってたッスー」
「うんうん」
「えぇと……それはつまり、ご主人様が最初に始めた、ということではないでしょうかぁ」
「え?」
おお、皆の視線が私に……。
「ええと、そうなのかな……?」
「そうではないでしょうか」
「多分そうだと思いますの」
「狛犬もそう思うッスー」
「わ、私もそう思う!」
「僭越ながら、私もそう思います」
おお……、満場一致だ。
「そっかー。そうだったのかあ」
なるほどだなあ。
「そうッスよー」
「そうだなー」
「そっかそっかー。あははー」
「そうッスーそうッスー。あははー」
「そうだそうだー。あははー」
「そ、そうですそうです……?」
「混ざらなくていいんですの小烏丸……」
「そう、なのですか?」
「そうですの」
「そうだよー小烏丸ちゃん」
「えっ」
「そうッスー小烏丸」
「あっ、えっ」
「そうだぞー小烏丸」
「あ、あの」
「そうですよぉ小烏丸さん」
「えぇ!? 天女さんまで」
「何だか皆さん言っているからぁ、つい」
「私は別にそんなつもりじゃなかったんですの……」
「そんなつもりなくても、言ってたから同じだよー!」
「だからそれが違うって言ってるんですのバカ悪鬼!」
「ば、バカって言ったほうがバカなんだぞ! バカ天狗!」
「喧嘩が始まったッスー」
「喧嘩が始まったねー」
「始まりましたねぇ」
あ、天女ちゃんが空いてる座布団に座った。
「え、ええと、お二人とも落ち着いて」
「まあまあ。しばらくしたら落ち着きますよぉ」
「そ、そうかもしれませんが」
「そうだねー」
「そうッスねー」
「そうですよぉ」
「はっ! なるほど……つまり雨を見るのと同じように、お二人のことも静観すべきということですね?」
んん?
「そうですねぇ? そうなんですかぁ?」
「そうなんスかー?」
「そうなのかなー?」
「あ、あれ?」
それにしても。さっきまで静かな雨を見てたのに。
「バカバカバカバカバカ悪鬼!!」
「バカバカバカバカバカ……天狗!!」
「増えてないですのバカが一個足りないですの! 悪鬼はやっぱりバカ悪鬼ですの!!」
「うう~……だったら数え切れないくらい言ってやる! 天狗のバカバカバカバカバカバカバカバカ……ぜえぜえ……バカバカバカ――」
「あー! だったらこっちはそれより多く言ってやるんですの! バカバカバカバカバカバカバカバカ……ぜえぜえ……バカバカバカバカ――」
賑やかになったなあ。
「賑やかなのっていいなあ」
「そうッスねー」
「そうですねぇ」
「あ、あの?」