:二人の敗北者と血で染まる受注書

Last-modified: 2016-10-19 (水) 22:39:22

※試練を受注すると紙で受注書を受け取り、受注を取り消す時は受注書を依頼者に返す、または、受注者が破棄する。という体で話が進みます。
 例
「おはようございます校長先生!」
「おお、とこよか。おはよう」
「あの……。昨日、校長先生から受注した試練なんですけど……」
「あれか。ふむ、どうした?」
「今の私では達成する事ができなさそうなので、この受注書は一旦お返しさせてください」
「なんじゃ、そうか。まあよい、お主もいつか――」
「すみませんちょっと急いでいるのでこれで失礼します!」
「そ、そうか。まあ、精進を忘れるのではないぞ……って、既にいないではないか。さっさと助っ人戦にでも行きおったか。……まあ、それも仕方なかろうて。今はお祭の真っ最中だからのう。うむ、しっかり楽しむのじゃぞ」
 例終わり。
 実際どうなってるのかは知らない。
※例はお話の内容とは一切関係ありません。

 
 
 

   二人の敗北者

 

 美濃国。楽市楽座。市中にある神社の境内。そこに、かくりよの門が開いていた。
「見つけたよ文ちゃん! さっそく共闘だ!」
「はい! 待っていましたとこよさん!」
 二人は気合十分に守護者の討伐を始めようとして――。 
「あっ、ごめん文ちゃん。やっぱりちょっと待っててもらっていいかな……?」
 とこよはその場にシュパッっと座り込んだ。
 文は笑顔で頷く。
「大丈夫です。ちゃんと分かっていますから。戦闘前に体力の回復ですよね」
「うん。ごめんね」
「気にせずちゃんと体を回復させてください。とこよさんが座って休むのはいつものことじゃないですか」
「あはは、それもそうだね。けど……」
 とこよはいつもかくりよの門を閉じる前にこうして座り、道中で消耗した体を休めていた。そして、方位師である文は遠見の術を用いて自宅からとこよを見守っている。
 それがいつもの二人だった。
 だが、今だけは違っていた。
「今日は文ちゃんもいるからね。気がはやって仕方がないよー」
 お祭が開催されている今だけは、文も一緒にかくりよの門から発生した守護者を討伐することができた。長いようで短かった、このお祭の間だけ。
「これから守護者との激しい戦闘が待っているんですから、ちゃんと気持ちを落ち着かせて回復に努めてください」
「うん。……でも、とうとう文ちゃんと共闘かー。楽しみだなー」
 そう言って、見るからにそわそわとして落ち着きがなかい。文は仕方なさそうな顔をしながら、しかし、口元を少しだけ綻ばせていた。
「もう……。ではこうしましょう」
 文が、とこよと同じようにその場に座る。
「私もなんだか少し体の調子を整えたくなってきました。なので、座って一休みさせてもらいますね。私が一休みしている間、とこよさんもゆっくり座っていてもらえると助かります」
「はーい。えへへ、ありがとう文ちゃん」
「滞在時間はまだまだあるんですから、ゆっくり休憩しましょうね」
「うん」
 とこよはようやくそわそわするのを止めた。落ち着いて、文を見る。今度はにやけ出した。
「文ちゃんと一緒に座るの、なんだか嬉しいな」
「そうですね。私も、こうやって遠征先を訪れてとこよさんの隣で座る日がくるなんて――」
 文は境内の石畳に視線を落としていた。
 女の子座りをしていて、膝を内に向けてぺたんと尻をついて足首を尻の両側に置いていて。
 顔を少し横に向けて首をたおやかに傾けるようにして視線を落としていて、襟元から覗く肌に首の筋が細くぴんと張り出していて、白い首筋に艶やかな陰影を生み出していて。
 日の光に淡く透き通るような豊かな髪は耳を隠しながら柔らかに幼さを残す頬へと流れて薄桃色の小さな唇を毛先で優しく翳らせていて。
 瞳の中にも日の光が差し込んでいて小さく輝いていて、どこか嬉しそうに、少し楽しそうに、石畳に手を伸ばしていて。
 白く細い指で、石畳にそうっと触れていて。日に暖められた石畳の固いざらざらとした感触を伸ばした指先で確かめるように、そっと撫でていて。柔らかな指で、そー、と、つー、と、熱を持つ表面を撫でていた。
「――本当に嬉しいです」
「遠征先にいる文ちゃんを見るのって、すごく新鮮だなー」
 文を見てはにやけているとこよ。
 とこよの視線にようやく気付いた文が、そのにやけている顔を見てくすりと笑った。
「はい、新鮮ですね。同じ空気を吸っている感じがする、とでも言うのでしょうか」
 文が視線を上げ、少しだけ顔にかかった髪を指でかきあげて、遠くの空を見る。文の瞳が見つめる先、空が青く遠くまで広がっていた。
 青空の中には真っ白な綿のような雲がところどころ浮かんでいる。風のない、よく晴れた空だった。
 雲は同じ形のまま止まっているようで、見つめていると流れていく。瞳の中に空を映したまま、文はゆっくりと言った。
「こうしてとこよさんと一緒にあやかしを討伐できるなんて、自分でもまだ信じられないくらいです」
 嬉しそうで、驚いてもいて、遠くの出来事の話をしているような、そんな声だった。
「そっか」
 文を見つめてにやけていたとこよも遠くの空を見る。
 神社の境内。境内から見える楽市楽座の町並み、露天の並ぶ大路、広がる青空。雲が、ゆっくりゆっくりと流れていく。
「こうして、色んなところに行ってみたいね」
「そうですね……」
 文は遠くに顔を向けたまま目を閉じた。瞼の裏にどこか遠くを見つめるように。
「ありがとうございます、とこよさん」
 そう言うと目をぱちっと開き、立ち上がった。
「さあ、とこよさん! そろそろいきましょう!」
 とこよは慌てた。
「あ、待って文ちゃん、あとちょっと、あとちょっとだけだから」
 文も慌てた。それから恥ずかしそうに頬を赤く染める。
「あっ! いえ、すみません! どうやら私も気がはやっていたみたいですね! ……とこよさんに偉そうなことを言っておきながらお恥ずかしい」
 恥ずかしそうに腰を下ろしていく。
「ううん、こっちこそごめんね……。 いや! やっぱりもういっちゃおう!」
「それはダメです。どうかしっかりと休んでください」
「恥ずかしがりつつもきっちりだ……! ……ごめんね、あと、ほんのちょっとだけだから」
 それからほんの少しの間、文は境内の石畳をもじもじと撫でて、そんな文をとこよはにこにこしながら見ていた。
 シュパッと、とこよが立ち上がる。
「回復完了! お待たせ文ちゃん! さあ、共闘だ!」
「はい!」
 文も勢いよく立ち上がった。
 二人の共闘が、始まる。

 

 それからしばらくあと。
 とこよの自宅には、二人の敗北者がいた。
「うう……、負けちゃった。あんなに固いなんて思わなかったよ」
「そうですね……。でも、まだ初戦ですし、これで敵の戦力が分かりましたから……」
「うん、そうだね。……次の挑戦に向けて作戦を練ろう!」
「はい!」
「それじゃあ……。とりあえず、私は火力を重視する編成にしたほうが良さげなのかな。回復は文ちゃんがしてくれるしね」
「ええ、私もそれがいいと思います。とこよさんが攻めて、私が回復をする」
「うん。次はそれで行くね! ……えへへ」
「どうしたですか急に笑い出して」
「こうして作戦を練ってると、文ちゃんと共闘してる感じがして、嬉しくなって」
「もう……、しっかり戦闘に意識を向けてくださいね。と、言うべきなんでしょうけど……」
「文ちゃんも顔がにやけちゃってるもんね」
「頬が緩まないようにしてはいるんですけど……。でもこれじゃあいけませんよね。闘いに集中しないと」
「いいんじゃないかな。私は嬉しくて、すごく力が湧いてくるって感じがするよ!」
「……なるほど。そういう考え方もありますか」
「あるよ!」
「そうですね。では私もそう考えます。とこよさんの受けたダメージは私が喜んで回復しますから、とこよさんはどんどんダメージを受けて下さい!」
「頼もしい! ダメージはできるだけ受けたくないけど! ……でも本当に文ちゃんの回復力すごかったよ。本当に頼もしかった」
「いえ、そんな」
「本当にすごかったよ文ちゃん! 私びっくりしちゃったもん!」
「その、お役に立ててなによりです」
「文ちゃん頼もしい!」
「もう、とこよさん! そういうのはもういいですから! 次の戦闘ではとこよさんは攻撃重視の編成にして私が回復を引き受けるということで、それでいいですね?」」
「うん! それじゃあ作戦も決まったことだし、準備を整えて再戦に行こう!」
「ええ、行きましょう!」
 そうして二人は再び美濃の国、楽市楽座、明日には終わっているお祭の間だけ開かれているかくりよの門へと向かったのだった。

 

 それからしばらくあと。
 とこよの自宅には、二人の敗北者がいた。
「うう……、また負けた……。まさかあんな消耗戦になっちゃうなんて」
「予想以上に敵が固い、というか、体力が多いようですね」
「うーん。持ち込んだ粉薬とか神酒とかを、最後になってから慌てて使ったのが悪かったかなあ。用意してた分を全部飲みきる時間が無かったのは惜しかったね」
「そうですね。戦闘が始まったら最初の内からこまめに使っていったほうがよさそうですね」
「よし! そうと決まればお店で粉薬を買い込んでさっそく再戦だ!」
「……こうして隣に立って共闘してみると、やっぱり、すごい体力というか根性というか、めげませんよねとこよさん」
「うん! まだまだ行動力は底をついてないって感じかな!」
(行動力の問題でもないような)
「あっ。勢いでさっそく再戦だーなんて言っちゃったけど。文ちゃんの体力を考えてなかったかも。文ちゃん体の調子は大丈夫? 血を吐いたりしない?」
「いえ、私もまだまだ平気そうです。血も吐きそうにありません。とこよさんが行くというのなら、すぐにでも再戦に挑んで大丈夫ですよ」
「そっかあ」
(本当に血を吐かなくなちゃったなあ)
「なんですかその顔? 私だって、せっかくならいつものとこよさんのやり方で一緒についていきたいんですよ?」
「……そっか。うん! じゃあ、再戦だ!」
「ええ、再戦です!」
 再戦に行く前に、よろずやで粉薬を買い込む二人。
 それから美濃の国、楽市楽座、もはや再挑戦する時間にも限りが見えてきたお祭の間だけ開かれているかくりよの門へと向かったのだった。

 

 それからしばらくあと。
 自宅に二人の敗北者。
「うわーん! 勝てない、勝てないよー文ちゃーん!」
 とこよは文の肩をがくがくと揺すっていた。
「わわ、落ち着いてくださいとこよさん、とこよさんったら」
 とこよの腕を掴んで止めようとしている文だったが、圧倒的なまでに力の差があるのか、揺するのを全く止められていない。
「ちょっと自己回復が強すぎだよ終盤のあいつ! 粉薬飲みながらあんなのぶち抜いてく火力なんて、今の私の編成では出せないから!」
「ええっと、それは」
 がくがくと揺すられながら、文は言葉に詰まっている。
 とこよの言う通り、現状の戦力ではいくら粉薬を持ち込んだところで突破が困難そうな自己回復力を敵は有していた。
 実際。今しがたの再戦では粉薬を戦闘の序盤からこまめに飲み、持ち込んだ分を良いペースで消費することができていたのだ。しかし、それでも勝てなかった。戦闘が終盤になってくると敵の自己回復力と同等か少し高いくらいのダメージしか与えることができなくなり、そのままジリ貧に陥って負けてしまったのだ。
 絶対的に火力不足だった。
 粉薬をいくら持ち込もうとも、文がいくら回復してくれようと、敵の体力を削りきれないのならどうしようもない。
 だからもう、今の戦力ではどうにも勝てそうにない。とこよはそれを理解してしまっていて、文もまた、それを理解しているのだ。
「こんなに揺らしてるのに文ちゃんが血を吐かないよ!」
「血を吐かせようとしてたんですか!?」
「まあ、それは半分冗談だけど」
 そしてようやく文の肩を揺らすとこよの手が止まった。
「半分は本気だったんですか」
 とこよは少しだけ笑う。それから謝った。
「ごめんね。ごめんね文ちゃん……」
 それは、軽い冗談を謝っているような雰囲気とは何か違っていた。 
「とこよさん……? 別に血を吐かせようとしたくらい、全然気にしませんから」
 とこよは文の肩に手を置いたまま、静かに首を振る。
「ううん、そうじゃなくて……。せっかく文ちゃんと共闘できたのに、私の力が足りなくて、勝てなくて、だから……」
 とこよは力なく笑う。
「だから、ごめんね!」
 軽く冗談めかすように笑う。
「私が挑むのはまだ早かったみたいだ!」
 そう言って笑うとこよの瞳を、文はじっと見つめ返して、ただ、何も言えずにいる。
 とこよの顔がゆっくりと下がっていく。そのまま音もなく、文の肩に額をつけ、表情が隠れる。
「あーあ、悔しいなー。文ちゃんはしっかりと私と式姫達を回復してくれるのに。私がもう少し強くなってれば、あいつを倒すことができたのに」
 とこよがどんな顔をしているのかは分からない。文の手がそっと動いて、肩を掴んでいるとこよの手にそうっと触れた。 
「とこよさん……」
「分かってるんだ。私の強さが足りないって。せめてもう少し強くなる時間があればなー……、お祭の期間があと三日、ううん、せめてあと一日あれば……! そうしたら、もっと鍛えて、絶対に勝てるくらい鍛えてね、それから」
「とこよさん」
 文の声が静かに、そして強くはっきりと、とこよの言葉を遮った。
 とこよの声が止まる。
 文は、穏やかに囁きかけるような声でゆっくりと言う。
「とこよさん。いいんですよ」
「でも、文ちゃん」
 とこよが顔を上げると、文が優しく微笑みかける。
「いいんです。ええ。勝てなくても、いいんです」
「そんなこと、そんなことないよ……」
「そんなことはないかもしれません。でも、それでもいいんです」
「文ちゃんはそれでいいの……?」
「多分、とこよさんが勝ちたいと思うのと同じくらいに、私だって勝ちたかったですよ? とこよさんと一緒に、勝ちたかったです」
「じゃあやっぱり」
「でも! ……でも、いいんです。勝てなくても。それでもいいんです」
「文ちゃん……」
「私は知っていますから。とこよさんが最近やたらと急いで各地に開いたかくりよの門を閉じて回っていたこと」
「それは……」
「お祭中なのに龍の討伐もそっちのけで、ひたすらかくりよの門を閉じて回って、門を守護するあやかしに負けたことも一度や二度ではなく、時には三度四度と敗北しながら、敗北するたびに作戦を練り直して再戦して、それでも勝てないなら今度は市でサケのあら汁を買って、遠征先で笛を吹き続けて、常世に行って、自らを鍛えそれからまたあやかしに再戦してようやく勝って、そうやって強くなりながらここまできたことを」
「……」
「校長先生やみよし先生の話しを半ば聞き流すようにして、駆け足でここまで来たことも私は知っています」
「……」
「大事な話はあとからちゃんと確認し直しましょうね?」
「……うん」
「でも、それも全部、私と共闘するためのことだったんですよね」
「……うん」
「だから、いいんです」
「……」
「もう……。いいんですよとこよさん。私はとこよさんと一緒に戦って、とこよさんと一緒に敗北して、それから一緒に作戦を練って、そしてまた一緒に戦って一緒に敗北して……。そういうの全部、私は嬉しかったですよ?」
「……うぅ……文ちゃ~ん!」
 とこよは文にがばっと抱きついて、文は、「よしよし」とその頭を撫でて。

 

 ……最後に、二人は美濃の国、楽市楽座に向かいかくりよの門を守護するあやかしと戦った。
 そして、自宅に二人の敗北者。
「うう……。やっぱり勝てない……。勝てないよ~! 文ちゃん!」
「はい……。やっぱりこれはもう、根本的に鍛え直すしかなさそうですね……」
 でも、これが最後だ。長いようで短かった祭は、とこよが自らを鍛え直す猶予も無くもうすぐ終わりを迎える。
 結局、二人の敗北者は最後まで敗北者のままであったとさ。

 

 自宅にて二人の敗北者が祭の思い出話に花を咲かせている。
 思い出話もやがて落ち着いて。
「……いつか、もっと色んな場所を一緒に見て回ろうね」
「そうですね……。いつかまた、こんな風に体の調子がよくなる時が来れば……」
「その時には、どんなに強いあやかしだろうと必ず勝てるくらいになっててみせるよ! 文ちゃん!」
「……はい! 私もその時まで、しっかり支えてみせますからね。とこよさん」
 二人の楽しそうに笑い合う顔を誰かが見つけたとしたら、そこに敗北者の姿なんて見当たらないかもしれない。
 二人は笑顔で祭の終わりを迎えのでした。めでたしめでたし。

 
 

   祭のあと

 

 祭のあと。
 とこよは学園内をぶらぶらと歩いていた。
 祭は終わっている。
 色とりどりの明りを灯していた提灯も、すでに無くなっている。
 屋台みたいになっていた建物も、すっかり元の様子に戻っている。
 どこからか聞こえていた楽しげな祭囃子も、もう聞こえない。
 あの門のあの辺りに立っていたなと、手を振る姿も今は記憶の中だけだ。
 もし、美濃の国、楽市楽座へと足を運んでもいるのなら、そこにあったかくりよの門が初めから無かったかのように消えていることも知っているだろう。
 とこよが立ち止まり、懐から袋を取り出した。大事なものをしまうための袋のようだ。
 袋の中から何枚かの折りたたまれた紙を取り出す。
 そのうちの一枚を広げるとそれは、祭の最中に受注した試練の受注書だった。
 『龍の背で踊りし剣舞』」
 取り出した一枚を丁寧に二つ折りにする。それから淀みない手つきで破っていく。
 そして、あとで捨てるのだろう、破った紙をまた懐にしまう。
 『見据えた先に見える背は』
 また一枚。広げた受注書を丁寧に二つ折りにして、何のためらいもなく破っていく。
 祭の期間だけ受注できる試練は、祭の期間中に達成できていなければ受注書を破棄するしかない。
 祭が終わってしまえば試練を達成することは、もうできなかった。
 『知らぬ世界』
 とこよが取り出した受注書はこれが最後。
 広げた受注書を、しかし、そこでとこよの手が止まる。
 それは文から受注したものだった。美濃の国、楽市楽座、そこに開かれたかくりよの門の守護者を文と共闘して討伐する試練、その受注書。
 とこよは受注書を手に持ったまま、破かずにぼんやり見つめている。
 文との共闘。
 敗北。
 結局、達成することが叶わなかった試練。
 破棄するしかない受注書。
 そんな受注書を、とこよはぼんやりと見つめていた。
 しばらく見つめて、ふぅ、と小さく息を吐く。
 それから、ゆっくりと息を吸いながら、遠くの空でも見るように視線を上げて、ふと、何かに気付いた。
「あれ? 大通りに何かある……?」
 一人呟いて、手に持つ受注書はそのままに歩き始める。結局、受注書は破かないままのようだ。
 祭が終わって、閑散としている学園内。
 とこよの視線の先、見えてきたのは緑色の植物。
「笹……? それとも竹かな? 大きいなあ。そういえばもう七夕なんだっけ」
 学園の大通りの真ん中に、七夕飾りが施されていた。
 何枚もの短冊が、赤、水色、黄色、藤色、緑色、と飾られている。笹の葉の間で風に揺れる短冊を、とこよは真下から見上げる。青空の中に笹と短冊が広がり揺れている。
「短冊かあ。私も何か願い事を書かなくちゃだな……」
 どこか他人事のように呟いた。
 そこでとこよは、自分が手に持ったままだったものに気付いたようだ。
 手に持ったままだったそれをじっと見つめ出す。
 それから、目の前の大きな笹と手に持つそれを交互に見比べ始めた。
 笹の葉と一緒に揺れる短冊を見ながら、口元に笑みを浮かべた。
「うん!」
 なにをなす気か。

 
 
 

   と血で染まる受注書

 

「ただいま帰りました」
「あっ、おかえりー、文ちゃん」
「聞いてくださいとこよさん。学園の大通りに七夕の竹が飾り付けられていたんですよ」
「あっ、私も見たよ! 大きい笹だったね~」
「はい、大きかったです。それで、短冊がたくさん結わえ付けられていたのですが、短冊に混じってこんなものが」
「あっ、それは……!」
「……その反応。やっぱりとこよさんですか。まあ、とこよさんしかいないですけど」
「せっかく願い事したのにー」
「願い事って、これは受注書じゃないですか!」
「うん、受注書だよ」
「受注書だよ、じゃないですよ。まったく。見つけたときはびっくりして吐血してしまいましたよ」
「あ、また吐血するようになったんだね」
「……なんだかちょっと嬉しそうにしてません? まあ、それはいいです。今はこれです、これ!」
「ああうん。これねー。よく見なくてもやっぱりこれは私が笹に……って、よく見たら血が付いてるよこれ!」
「ああ。笹からはずす時に枝がしなるせいでちょっと苦労しまして、吐いた血が付いてしまったみたいですね」
「はずすのを苦労するほど高いところに結わえてたっけ……?」
「いえ、私は体が弱いので」
「あ、また体が弱くなったんだね……」
「元々弱かったのがまた元に戻っただけなんですからそれはいいんです! それより! 今はその受注書のことですよ!」
「うーん。でも、いい考えだと思ったんだけどなあ。破棄しちゃうしかなかったわけだし」
「破棄するなら普通に破棄してください。まるで私が受注書を短冊みたいに吊るして誰かが試練を達成してくれるのを待ってるみたいじゃないですか!」
「えっ? あっ。……あー」
「今気付いたって顔ですねとこよさん。まあそこまで考えてないだろうとは思ってましたが」
「でも、そんな風に思う人あんまりいないんじゃないかなあ……?」
「そうだとしても私が恥ずかしいんです!」
「あわわ、ごめんね」
「もう……」
「でも、はずしてきちゃったんだね。これ」
「はい。はずしてきました」
「そっか……」
「……とこよさん?」
「うん? どうしたの? 文ちゃん」
「いえ、その、えっと……。……そういえばさっき、願い事をしていたと言ってましたよね?」
「うん、短冊だもん。そりゃあ願い事をするよ」
「それは受注書ですけどね。それで、どんな願い事をしたんですか?」
「そうだなあ。知らない世界を一緒に見れますようにとか」
「それなら別にお願いなんて……」
「あと、また文ちゃんと共闘できる機会がありますようにとか」
「……」
「今度は絶対に勝てるよう鍛えておくぞー! とか」
「……それはもう願い事じゃなくなってませんか?」
「あれっ?」
「そもそも、願い事をそんなに幾つもするのは欲張りすぎですよ」
「そう? 欲張りすぎかな?」
「はい。欲張りすぎです」
「うーん、じゃあどうしよう。どういう風にお願いすれば全部を一つにまとまめられるかな」
「欲張りかたが変わっただけですよねそれ!?」
「いやーどれもお願いしたくてさー」
「まったくもう……。とりあえず、いっぱい願い事をするのはいいですけどそれは短冊に書いてくださいね。受注書を吊るすのではなく」
「はーい」
「分かって貰えたのならいいんです」
「うん。大丈夫。今度はちゃんと短冊に書いて吊るすよ」
「はい。では、その受注書は破棄してくださいね」
「うん。分かったよ」
「……」
「……」
「どうしたんですか? 受注書をそんなに見つめて。ちゃんと破棄してくださいね?」
「うん」
「……とこよさん?」
「うーん。なんかもったいないなーって」
「もったいないって……。とこよさんが捨てられないんだったら代わりに私が捨てちゃいますよ?」
 とこよの持つ受注書へ、文が手を伸ばす。
 ひょい、と受注書が動き、伸びてくる手から上へと逃げた。
「……とこよさん?」
「……文ちゃん?」
 とこよが受注書を頭の上に持ち上げていた。
「文ちゃん? じゃなくてですね」
 文が、とこよの頭上へと手を伸ばす。
 ひらり、と受注書が文の手から横へ逃げる。
「……とこよさん!」
「……文ちゃん!」
「文ちゃん! じゃなくてですね!」
 文の手がまた受注書へと伸ばされる。
 受注書がまた文の手から逃げる。
「とこよさん!」
「だってー」
 文の手が伸ばされるたび、とこよは受注書をあっちに逃がしこっちに逃がし。
「とこよっ! さんっ!」
 文の手が幾度も力強く空を切る。
 文の手が空を切るたび、とこよの腕が風にそよぐ短冊のように揺れる。
「とこ、ゴフッ!」
「わー! 文ちゃんの吐いた血が受注書にー!」
「酷っ!ゴホッ、私の心配は、ゴホッ!」
「文ちゃんが血を吐くのはいつものことだから大丈夫!」
「それはっ! 確かにそうっ! ですっ! けほっ!」
 受注書を追いかけて文がぴょんぴょん跳ねる。
 文の手が受注書に追いつきそうになるたび、その少し先にとこよの体が空に揺れる笹の葉のように舞う。
「とこよっ、さんっ」
 文の手が伸ばされる度に受注書へ指が触れそうになり、あとちょっとで届かない。
「ぜぇ、はぁ」
 文はとうとう息切れをしてしまったようだ。膝に手をついて肩で息をしはじめる。
「えっと、文ちゃん大丈夫?」
「全然、ぜぇ、大丈夫じゃ、はぁ、ないです」
 膝に手をついたまま、額に玉のような汗を浮かべて、恨めしそうにとこよを見上げる文。何本かほつれた前髪が汗で額に張り付いている。
「ごめんね。そんなに息を切らすなんて」
「ええ、私も、こんなに、息が切れるとは、思わなかった、です」
「本当にごめんね。途中からなんだか楽しくなっちゃって……」
 申し訳なさそうな顔で、とこよは息を整えている文へと近づいていく。
「いいんです、私もちょっと、楽しかった、ですよ」
 近づいてきたとこよの手にある受注書に、文は片手を膝についたまま、もう片方の手をひょいと伸ばした。
 文の手が、受注書のあった空間を掴む。
 その手は、また、空を切っていた。
 不意打ちぎみに伸ばされた文の手を、とこよは涼しい顔でかわしたのだった。
 文は、がっくりとうな垂れた。
「ふふ、ふふふ、ふふ」
「……文ちゃん?」
 うな垂れたまま、文が笑い出した。うな垂れているせいでその表情を窺うことはできない。見えるのは後頭部とうなじ、後ろ髪が首筋を流れたその隙間、その襟元から覗く首根、背中、白い肌に柔らかな産毛。背中にも汗をかいていた。
「ふふ、ふふふふ」
「おーい、文ちゃーん? えと、その、怒った……?」
「怒りましたよ!」
 大きな声と共に、文が体ごとぶつかるように受注書へと手を伸ばした。
 それでもとこよは非情だった。
 伸ばされた文の手から受注書をさっと逃がす。
 しかし。
「わっ! わわ!」」
 とこよは慌てた。
 受注書は文の手から完璧に逃がすことができていたが、とこよの体が逃げきれていなかった。
 文は手の届かない受注書には構わず、そのまま体でとこよにぶつかっていったのだ。
「捕まえました!」
 文はとこよの胴にがっしりと両腕をまわして叫ぶ。
「そうきたかー」
「ふふふ、捕まえました、捕まえましたよとこよさん」
「うーん、さすがにこれは逃げられそうにない、かな……?」
「とこよさんがどれだけもがこうとも、もう、絶対に離しません!」
「そう言われると、必死でもがいてみたくなるかも……」
「あっ、すみませんやめてくださいそれはちょっと絶対無理です血を吐くくらいじゃすまないかもしれません」
「私をなんだと思ってるの!?」
「とこよさんです」
「私だった!?」
「あはは、は、は……」
 楽しそうに笑いつつ、文は脱力したようにへなへなと膝から崩れ落ちていく。
 それでも腕だけはとこよの胴をしっかりと捕まえていた。だがもはやとこよを捕まえているというよりはとこよにしがみついているとでもいうのか。どうにも、とこよの胴に半分ぶら下がっているような格好だ。
「はぁ……、やっと、やっと捕まえましたよ。本当に、ええ」
「うん、捕まえられちゃったね。うーん、受注書を取られないようにって、意識のほうがそっちに取られすぎちゃったね」
「ふふふ、してやったりです」
「次はこうはいかないよ!」
「次とかないです!」
「えー」
 文はぐったりとした表情でとこよの顔を見上げて。
 とこよは残念そうな表情で、胴にしがみつく文の顔を見る。
 それから顔を見合わせたまま、どちらともなく笑い出すのでした。
 めでたしめでたし。

 
 

「はい、受注書。文ちゃんに返すね。私が捨てなくても、文ちゃんに返せばそれで取り消しになるわけだしね」
「それが分かっていたのなら素直に返してください……ってこの受注書、いつの間にか半分以上が血で染まってます!?」
「うん。さっきね。降りかかる文ちゃんの血をこれで受け流していたから」
「降りかか、ゴフッ! そんなには吐いてないですよ!」
「あっ、また血が広がった。もはや血の受注書って感じだね!」
「血の、ゴホッ、ゴフ……! 私の試練の受注書をそんな風に言うのやめてください!」

 

   二人の敗北者 吐血で染まる受注書
   おしまい