小説/サイドストーリー/雨

Last-modified: 2021-10-05 (火) 02:11:48

「傘、忘れちゃったなぁ…………」
 少女は空を見上げ、溜息をつく。歩いて帰るにも短くない時間雨に濡れるのは必至で、走って帰るにも先に体力が尽きるのが目に見えている。
「止むかな……」
 少女の小さな希望とは裏腹に雨音は強くなる一方。沈む気持ちを抱え、何処かで時間を潰そうと考えたその時。
「あ、神崎さん」
 背後から聞き馴染みのあるクラスメイトの声、その主は勝浦だった。
「もしかして……傘忘れた?」
 小さく頷く。
「そっか、折りたたみ貸すよ」
「いいんですか?」
 気にしないで、と言いながら彼は鞄を探る。雨に濡れる不安が解消される、と安堵する神崎だったが――
「ごめん……忘れてきたっぽいな……」
「大丈夫……ですよ? 止むまで待とうかなって思ってたので……」
「いや、天気予報が当たっていれば夜まで続くみたいなんだ」
 またしても希望が裏切られた上、不運が重なる。望みの送迎も両親と合意の上でこれからは無くて良いと言ってしまったが、今日ばかりは助けて欲しかった。後悔に苛まれる中、勝浦から考えもしなかった提案をされる。
「傘、一緒に入るか……? 嫌だったらいいんだけどさ……」
「え……でも……」
「この傘まあまあ大きいし、大丈夫だと思う」
 彼の思いやりに彼女は何も返す事ができなかった。白く長い髪も空の薄暗い色に染められ、少女の気持ちも曇らせる。
「……神崎さん」
 彼に呼ばれるまま傘の中へ入っていく。二人で聞く雨音はさっきよりも心做しか強くなっていた。
 
 *
 
 普段の教室でなら談笑している二人。けれど今は雨が打ち付ける音以外何も聞こえない。それに話したとしても、天気がそれを許さない。
 無言の空間を切ろうと少女は彼を見上げる。少し影がありげな顔をしながらも前を向いている。そしてその奥にある肩は外に晒されていた。自分の右肩とは真逆で。
「濡れちゃってますよ……」
 前に向き直り、小声で伝える。
「え? 別にこれぐらい大丈夫」
「でも」
「…………神崎さんさ」
 突然の呼びかけに心臓が跳ね上がる。やはり何か思う所があったのだろうか。無言の間、自分の呼吸音だけが聞こえ、余計に鼓動が速くなっていく。
「前も、言ったけど……困ってる時は頼って欲しいし、それに手助けしてる時はあまり遠慮はしないで欲しいな……って」
「でも、迷惑かけちゃうし……」
「誰だって生きてる限り誰かしらに迷惑はかける。でも、その迷惑を引き受けてくれる人もいる事も忘れないで欲しい」
 返答しようにも声が出なくて、飲み込む。
「もちろん神崎さんの言いたい事は分かるよ。全部引き受けてもらうのは良くないもんね。ただ逆に全部を背負って行け、ってのは厳しい話で……だからなんていうかな…………」
「友だち……だから嫌じゃないっていうか……少しでも請け負ってもいいかな? というか…………」
 彼の言葉を聞いて、過去を振り返りながら少女は一つ一つ言葉を紡いでいく。
「今まで……お父さんとか、お母さんとか、親戚の人とか、看護師さんとか、お医者さんとかに支えて貰ってたから…… だから、これからは自分だけでやっていかなきゃって…… でも全然そんな事できなくて……そんな……そんな自分が嫌で………… だから……だからぁ…………」
 少女の瞳から大粒の雨が降り始める。その隣で彼女の雨を立ち止まって受け止める勝浦。その雨が止むまで、いつまでも。
 
 *
 
「……落ち着いた?」
「うん……ごめんなさい……いきなり道で泣いちゃって」
「大丈夫。ただ……一つだけ、いいかな?」
「……なんですか?」
 彼の次の言葉に不安を覚え、少し怯える。
「こういう時は『ごめんなさい』じゃなくて『ありがとう』って言ってほしいかな。誰かしらからの受け売りになんだけど……」
「『ごめんなさい』じゃなくて『ありがとう』……」
 伝えられたのは予想とは打って変わって優しい言葉。
「ありがとうございます……教えてくれて」
「俺の言葉じゃないけどね」
「勝浦さんが教えてくれなかったら知らなかったので、これは勝浦さんの言葉でいいと思いますけど……?」
「そ、そうか……」
「それに……ちょっと恥ずかしいですけど……わたしのこと、『友だち』って言ってくれて嬉しかったです」
「あ、あ~、あぁ、はは……」
 言葉に詰まっている彼の頬は、徐々に赤くなっている。
「勝浦さんが言ったのになんで恥ずかしがってるんですか?」
 今までが嘘だったかのように、少女の表情に明るさが戻り始めている。
「まぁ二ヶ月も話しててそうじゃないのもおかしいかなって」
「言われてみればそうですね」
 そう言って空を見上げる。
「天気予報、外れたみたいですよ?」
「あぁ、気づかなかったな……」
 黒い傘を畳んで見えた景色には――
「あっ! 虹だ、虹ですよ! 勝浦さんっ!」
「本当だな……俺も久しぶりに見た気がするよ」
 雲に架かる大きな虹と雲を裂く光が映し出され、それを見る少女は雲ひとつ無い笑顔だった。
「綺麗ですね」
「そうだな」
 七色が薄くなってきた頃、勝浦が何かに気付く。
「あれ?」
「どうしたんですか?」
 勝浦は無言でとあるものを指差す。指の先は「神崎」と書かれた表札がかかっていた。
「わたしの家だ……」
「神崎さんについて行っただけだけど……いつの間に」
「そうですね……ごめんなさい、ここまでついてきて貰っちゃって……あっ」
 何かを思い出して目を見開く彼女。
「どうした?」
「ありがとう、でしたね。勝浦さん」
「どういたしまして、神崎さん。じゃあまた明日」
「また明日」