セリフ/【真実に異をとなえる者 これ すなわち 反逆者】

Last-modified: 2021-03-08 (月) 18:48:31

FF10

聖ベベル宮ユウナ一行の裁判の締めくくりにマイカ総老師が言った言葉。
ここで言う真実とは端的に言えば「継続」。『シン』によってもたらされる死の螺旋を受け入れ、その状態を継続すること。
「人間の罪である『シン』は罪を償う末にいなくなる」というエボンの教えを否定したともいえる発言。


ユウナの「命をささげた人の犠牲は無駄なのか」という疑問に対し、
マイカは究極召喚による犠牲はスピラの民の希望となるため無意味ではないとしている。
このセリフで言われる真実はユウナレスカの価値観と酷似している。


無論、今回の裁判では老師殺害やベベル襲撃などの行為から反逆者としているが
このセリフで言われる反逆者のみはそれまでの反逆者とは意味が少し違っている。

  • 「反逆とは何? エボンの教えとは何?」とプレイヤーに思わせる契機になったイベントかもしれない。
  • 完全に形だけのものだがこれまでは一応「エボンの教えに背いた」という意味での叛逆者扱いだったのだが、もはや「今の世の在り方に疑義を唱えること」そのものが叛逆であると開き直ったともいえる。

「疑うな。隷従しろ」と言っているに等しい。
神権(宗教が政治的権力を持つ)政治の恐ろしさは正にこれに尽きる。
良いことは信徒の努力ではなく教えのおかげ。悪いことは不信心のせい。宗教そのものはどちらであれ傷つかない。

  • 序盤に多いが「エボンのたまもの(賜物)」という表現が見られる。
    ティーダが、『シン』に遭遇し毒気にやられてもなお生き延びたことを指すが、当然ながらティーダはエボンの信徒ではないし、生存は『シン』の意思によるものである。ぶっちゃけ「幸運」ですらない。
    それでも「良かったこと」はスピラの住人にとっては「エボンの教えのおかげ」なのだ。現実の宗教にはそれ(幸運)を齎す超越的存在「神」がいるのだが、エボンの教えにはそれも無い。
    肝心の処で全く救われていないのに、よくまあ盲(妄)信できるものだ。
    • いや単純にエボンを神格化して神と同一視してるだけじゃないか? 現実の宗教でも教祖=神とする宗教はたくさんあるぞ。
      「エボンの賜物だね」という言葉は現実でいう「神のご加護だね」という言葉と同じものだと思う。
      つまり何か幸運なことがあったときに「エボンの賜物」と言うのは、「エボンの教えを守っていたからいいことがあった」というよりは、「エボン様が幸運を授けて下さった」という意味で言っているんじゃないか?
      それに普通のスピラの人々はシンの正体なんて全く知らないので、シンに襲われて生き残った人がいたら運がいいようにしか見えないし、致死的な災害に巻き込まれたのに生き残った人がいたら、その人の宗教に関わらず「神のご加護だね」くらいは言ってもおかしくはないだろう。
  • まあ、あの世界じゃ『シン』のせいで何時、初盤のキーリカのように自分自身が周囲の人々と
    共に街や村ごと消え去るか解らない状況で日々の生活を送らなくてはいけない上に
    対策を練ろうにもある程度文明が発達していて討伐隊員が必死に守ってくれている「ルカ」や
    エボンの総本山である「べベル」なら兎も角、大抵は「ビサイド」や「キーリカ」といった
    集落や田舎の港町程度の文明なので防ぐことも儘ならずにただやられるのを待つしかない
    (対策目的で下手に文明を発達させても結局『シン』が破壊してしまうし)
    倒そうにも自分が「召喚士」か「ガード」に志願しその命を投げ出さなくてはならない
    (それ以外では「ミヘン・セッション」の討伐隊員の二の舞になる)
    そういう意味では何かしら救いの道が無ければ今の「スピラ」という存在その物が
    『シン』によって滅亡されるか人類自らが終わらせていたのかもしれないという可能性を
    考えると一概に盲信する人々の考えも否定出来ない。