大瑞穂帝国/大祝

Last-modified: 2024-02-24 (土) 01:42:38

神室」も参照。

大祝(おおほうり、おほはふり、英 : Emperor、中 : 皇帝)は、大瑞穂帝国憲法に規定された瑞穂国の統治者たる地位、または当該地位にある個人。

おおほうり
大祝
皇帝
Emperor of Ruisy
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法皇旗
在位
112代大祝
安頼
1992年(文礼元年)4月2日 より
敬称聖上陛下目次
法皇陛下
His Majesty the Emperor
His Imperial Majesty
第一順位継承者太子衡頼(ひらより)親王
初代神代大祝
成立紀元前660年1月5日
宮殿神殿 御所 (信京府守矢京神原(ごうばら))

概要

大祝(おおほうり、おほはふり)は、瑞穂国の国家元首である。英語では「Emperor」、漢字圏では「皇帝」と表記する。ただし本来の大祝は「祭祀王(プリーストキング)」であり、この表記が誤りであるとの指摘もある。国家元首と瑞穂神道の最高権威を兼ねていることから「東洋の教皇」と例えられることがある。初代大祝(神祖)は御左口洩矢大神(神代大祝)である。二代目以降は神の子孫であり、洩矢神が隠居(この世を去る時)に、自分の息子に自分の束帯を着せ、「我に別体無し、祝をもって御体を為すべし、我を拝さんと欲する者は、須らく祝を見るべし。(無我別躰、以祝可為御躰、欲拝我者、須見祝。)*1」と神勅を発した。この神勅が表すとおり、神の子孫である大祝家の当主はは神である神祖(=神代大祝)を即位時に自分の体に降ろしてもらい、これをもって自らも現御神(洩矢神の化身)となる。いわば、大祝の体は「神祖の御霊の容れ物」であるとされる。大祝は制度上政治を代理する摂政をおくことが出来るが、基本的に神事が行えない状態になると譲位をする。

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『大祝即位事書』に描かれた大祝大祝即位式場(八角殿)

称号

大祝という称号は、神官の職名である「祝」に由来し、読みは「はふり」、「ほうり」、「ほおり」等。中世初期までは各神社の最高位の神官のことを「祝」、「大祝」と呼ぶことがあり、当時は現在大祝とされている祭祀王のことを皇帝、大王、法皇などと呼んで区別することもあった。中世中期になると、時の大祝が他人がこの称号を使うことを禁じ、大祝や祝を名乗る人物は大祝(祭祀王の大祝)ただ1人になった。また、自ら大祝以外の称号を用いることを好んだ大祝もいた。特に法皇という称号は現在も好まれる。大祝を指す称号としては、御正体(みしょうたい)、現御神(あきつみかみ)、神主(じんしゅ、かんぬし)、風祝(かぜのほうり)、皇帝、大王(だいおう、おおきみ)、法皇、帝、御門、神殿(ごうどの)、御所(ごしょ)、禁中、神御孫(すめみま)、須米良伎(すべらぎ)、須賣良伎(すめらぎ)、天子などがある。

在位中の大祝は御正体、今上、当今、当今の大祝などと呼ばれ、口語では御正体、御上、主上、聖上(陛下)、皇上(陛下)、法皇(陛下)、陛下、至尊、畏き辺りなどもある。また軍における大元帥の階級から、大元帥陛下とも呼ぶ。「大祝陛下」という使い方は本来誤りである。死没は崩御(ほうぎょ)といい、他に駕崩(がほう)、殂落(そらく)や、婉曲的な表現として「お隠れになる」ともいう。崩御から追号が贈られるまでの間は大行大祝という。また、配偶者は天后(てんごう)で、別名を中宮(ちゅうぐう)、大后(たいごう、おおきさき)、御后(ごこう、おきさき)、長秋宮(ちょうしゅうきゅう)という。大祝の公的な一人称は文語では朕、口語では私(わたくし)、私的な一人称は僕。

大祝及び神室には姓や苗字は存在しない。(耀王室の姓は「德」。)昔、異国の使節に「王の姓は何か」と聞かれた役人が、「本国の王に姓は無し」と答えたという文献が残っている。

譲位後の大祝の称号は太上(だいじょう)や太上法皇仙洞とされ、諡はxx太上、xx太上法皇である。太上による政治を院政、太上の政務機関を院庁という。

法的地位

大祝及び神族、耀王室は瑞穂国籍を有するが臣籍は有さず、戸籍にも登録されないものとされており、「神籍」などと通称される特別な地位にある。当然刑事裁判権の範囲外にある。神室及び神室に準じた扱いを受けることになっている耀王室の身内での民事訴訟については一審制、非公開の特別裁判所である「神室裁判所」で扱うことになっている。

服装

大祝の公的な服装には以下がある。

  • 麴塵御袍
    きくじんのごほう。大祝の最高位且つ神聖な正装。瑞穂国で最も高貴とされている山鳩色の束帯。伝統的な装束であり、服には洩矢神が宿るとされる。必ず八角二蓋級笠と共に着る。主に即位式、祭祀で着用される。
  • 御祭服
    ごさいふく。純白の御袍(ごほう)に幘(さく)の御冠を着用する。新嘗祭及び大嘗祭でのみ着用する祭祀服。大祝の装束の最も古い形で、素朴さを残している。
  • 大元帥御服
    帝国陸海空軍の大元帥である大祝が着る軍服。正装、礼装、軍装、略装などがある。礼装、軍装は小規模な閲兵の時に、正装は親任式、観兵式、観艦式、信任状捧呈式、正式晩餐会等で着用する。略装はほとんど着ない。海軍の観艦式では海軍式を、空軍の観兵式では空軍式を着るが、その他の場面では陸軍式御服を優先する。
  • 晨礼服
    しんれいふく。モーニングコートのこと。他国へ赴き格式の高い行事に出席する時は晨礼服または燕尾服を着る。また他国の元首、首脳と会う時も必要に応じては大元帥御服ではなく晨礼服、燕尾服を着る。トップハットをかぶる。
  • 燕尾服
    えんびふく。ホワイト・タイのこと。他国へ赴き格式の高い行事に出席する時は燕尾服または晨礼服を着る。他国の元首、首脳に会う時には必要に応じて大元帥御服ではなく燕尾服、晨礼服を着る。トップハットをかぶる。
  • 晚宴服
    ばんえんふく。ブラック・タイ(タキシード)。パーティなどで着用する。ホンブルグハットをかぶる。
  • 背広
    平時に着用する。国内を行幸する時、普段お出ましになる際などに着られる。
  • 袞衣・冕冠
    こんえ・べんかん。漢服。山鳩束帯に次ぐ大祝の高位正装であるが、近代化以来あまり着られなくなった。現在は1月1日に宮中で行われる朝賀でのみ着用する。
  • 麴塵衣
    きくじんえ。山鳩色の袈裟。大祝が神殿内「黒戸の間」で大祝が歴代大祝の尊牌(位牌)にお経を読み上げる際に着用される。
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麴塵御袍八角二蓋級笠
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袞衣冕冠

居城

大祝の住居は信京府守矢京の神殿(ごうどの)。英語ではThe Imperial Palace。神殿御所、大宮殿、別殿、宮内省、庭園などがある堀の内側を神原(ごうばら)と称す。(堀の外周辺は上原と呼ばれる。)大祝が過ごす神殿の御所は伝統的な平屋の瑞穂建築で、大祝が職務を行う神殿の宮殿は洋風建築。神原の中には、大小様々の橋や門、池、河川、林などの他、宮内省本庁舎、宮内省警衛棟、宮内省病院、神祇省本庁舎、神祇省神宮麻畑、御養蚕所、近衛師団司令部、など様々な施設がある。神原の堀のすぐ外には、五官祝の居館、洩矢神宮、信京駅などがある。
神殿では「天子南面」の考え方を取り入れ、北に御所と宮殿がある。また、中国などの城とは異なり城郭都市にはなっておらず、神殿の掘に沿って存在する城壁以外には城壁はない。ただし一部の建造物(御所雲上殿や神殿東にある弘政門等)は中国の楼閣を真似ている。

乗り物

大祝の移動手段には以下がある。大祝の所有する乗り物は全て非課税であり、高速道路料金などもかからない。

  • 御料車(自動車)
    ナンバープレートを付ける部分に神紋が、ボンネットに大祝旗(法皇旗)が取り付けられている。現在はメルセデス・ベンツを採用。
  • 御召列車
    車両先頭に大祝旗(法皇旗)が取り付けられている。特に大祝が乗る車両を「御料車」、随伴員が乗る車両を「供奉車」と呼ぶ。御召列車が使われる時は、必ず先導列車が走り、別の列車が御召列車に並んで走ったり、追い抜かしたり、御召列車の上を走ったりしないよう配慮される。色は黒で、現在のものは海田市帝国製である。
  • 御召船
    専用の船舶。海軍が管理しており、使用する際には海軍が運用する。
  • 御召機
    専用の飛行機。海軍航空隊が管理しており、使用する際には海軍航空隊が操縦を行う。
  • 馬車
    大婚祝賀御列(パレード)、即位祝賀御列、神族の御成婚祝賀御列等で使用する。

  • 神宮の神事で移動をする場合には、束帯姿で馬に乗る。観兵式でも大元帥、観閲官として乗馬する場合がある。
  • 牛車
    ぎっしゃ。近代以前は主な移動手段であった。現在は轜車として大喪儀で霊柩を乗せ、神殿から葬場殿に向かう時に限り使用。
  • 葱花輦
    そうかれん。屋根の上に葱花のような飾りをつけた輦。古くは私的な外出で乗った。現在は大喪儀で霊柩を乗せて葬場殿の御道を移動する際に限って使用。

この他、過去には駕籠、公的な外出では鳳輦(屋根に鳳凰の飾りが付いている)が用いられたが、近代以降は一切乗らなくなった。近代以前、大祝が行幸等で外出する時には、先払いが「おお」と警蹕(けいひつ)を唱えながら進み、行き合わせた庶民は正座で深く礼をしなければならなかった。(これは、五官祝や将軍が通る時も同じだった。)

神位継承

大祝の位を神位または天津日継(あまつひつぎ)と呼び、諸説あるものの初代神代大祝より万世一系に継承されている。大祝には男女ともに即位できるが、洩矢神が男神であることもあって、女性の場合は未婚者でなければ即位できず、在位中の結婚もできない。
大祝は空位の期間が長くあってはならないとされており、大祝が崩御した際はすぐに太子が践祚する。宝璽(御神宝と国璽と御璽)承継などの儀式はその日のうち、または次の日に行う。また、即位式は一年間の諒闇(りょうあん)(喪に服す期間)を経て30日の潔斎をした上で春から秋の間に行われる。(譲位の場合は諒闇は設けない。)
即位礼では神長官と太子の2人で前社(小さな祠)の周りに布を引いて作られた即位式場(八角神殿)の中へ入り、「御衣着式」で神長官から山鳩束帯を着せられ、神長官から秘儀を受けて即位する。即位礼が終わると大祝は馬に乗り、幟や神具などの飾りとともに行列を作り内御玉殿へ移動する。内御玉殿では真澄鏡を胸につけ、八栄鈴をうち振って祖宗の神の前で即位を宣言する。これが終わると民の前にお出ましになり、即位の詔を述べ、太政大臣はこの後に奉答文を読み上げる。この後に晩餐会や御陵、神宮での神長官による「即位奉告祭」等が行われ、即位してから初めての新嘗祭で大嘗宮を設営し、大嘗祭を行う。(悠紀殿、主基殿で神と共に神饌を食し、五穀豊穣を祈る。数時間にわたって行われるが、儀式は秘事。) これで御大礼(即位関連行事)は終わりになる。即位式には秘儀とされるものも多く、一般人が見ることが出来るのは行列、内御玉殿での神事、大嘗宮に入っていく様子などに限定されている。なお、「物忌令」という古くからのしきたりによって、大祝は即位後少なくとも一年間は心身を清めるために守矢京からでてらならないとされている。かつては在位中に守矢京から出ることは禁忌であったが、現在の形にまで緩和された。古代大祝に即位する人間は童男に限ると決められていたが、西暦1000年頃には既に廃れている。

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御璽国璽

憲法の規定

大瑞穂帝国憲法における大祝は「万世一系」に受け継がれる君主であり、その身は神聖不可侵である。大祝は統治権を総覧し、軍を統帥する。この規定の解釈としては「統治権は国家に帰属し、大祝はその最高機関である」とする国家法人説が主流派の学説とされ、歴代これに従っている。実際のところ、大祝の最優先する事項は祭祀であり、政治については臣下に委任して最終的な確認と許可を出すのみである。
また、軍神としての側面も持つ洩矢神の御正体である大祝は軍の統帥権を有し、その権限を兵部大臣、参謀に委任する。定期的に催される観兵式、観艦式には臨席する。

御神宝

大祝には、代々伝わる「真澄鏡(ますみのかがみ)・八栄鈴(やさかのすず)・唐鞍轡(からくらくつわ)・神鎗刀(しんそうのかたな)」の四種の「御神宝」がある。これらは歴代の当主が所持する。御神宝は、洩矢神が高天原から降臨した際に持参したものであるとされ、大祝の神位の正当性を表すものである。特に鏡と鈴については毎年二回、大祝が鏡に向かい八栄鈴を振って天下泰平を祈祷するための重要な神器である。御神宝は洩矢神宮の「内御玉殿(祖霊を祭る神殿)」に安置されており、即位直後の大祝はここで自らが即位したことを宣言する。

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真澄鏡八栄鈴

大祝と宗教

大祝と政教分離

瑞穂国では厳格な政教分離は行われていないが、大祝は神宮で「御神体」として扱われ、神聖な扱いを受け、それが国費で行われることについてはしばしば問題にあがる。これに関して政府は瑞穂国の土着信仰である神道を保護することは文化保護の観点から問題がなく、そもそも文化と宗教を明確に区別するのは困難であり、憲法上の信教の自由は守られているとの見解を示している。また「大祝は御神体である」というのは宗教上の事実であり、その見解を国民に強制するものではなく、君主としての大祝が人間であるということは言うまでもないことである、と説明している。大祝自身は記者からの質問に「私は神官の1人であり、国家の代表者であり、常に臣民と共にあります」と答えている。

神道との関係

瑞穂国の土着信仰である神道において、大祝は洩矢神宮の御神体であり、現御神(あきつみかみ)である。大祝は、憲法の規定により国政の総攬、軍の統帥を行うが、あくまでも本業は祭祀であるとされている。親らが祭主を務める洩矢神宮では、大祝は高天原天明大神を祭る高天殿と、始祖である神代大祝(御左口洩矢大神)を祭る弊拝殿(洩矢神宮の祭神、洩矢神の御神体は大祝そのものであるため、御神体を安置する本殿がなく、幣拝殿では、主に神長官など大祝以外の神官が祭祀をする。拝殿奥の宝殿の御座に大祝=御神体が座ることで御神体として祭祀をする。)と、天神地祇を祭る神祇殿の三つの神殿を中心として、内御玉殿(祖宗を祭る神殿)、前宮社(小さな祠)、勅願殿(守屋山に祈願するための建物)などの施設で祭祀を行う。大祝は祭主かつ御神体であり、龍や蛇の姿をしているともされ、龍神や蛇神として描かれることもある。主に高天殿や神祇殿で祭祀を行い、洩矢神=自らを祭る神事においては御座所に座り神体を成し、神長官が神事を行う。

仏教との関係

8世紀から9世紀頃に中国より仏教が輸入されると、次第に仏教への信仰が大きくなった。さらに土着信仰である神道との習合によって本地垂迹説が唱えられるようになり、仏教と神道が共存した。また、仏教が国家を保護してくれるという「鎮護国家思想」が広まり、大祝も半分仏教徒となり毎世代の大祝が自分の寺院を建設するようになった。服装も仏式や漢風に改められ、即位時の服装も漢服となり、葬送も仏式に行われて寺院内に石造塔が建設されるなどした。法事も仏式で営まれ、歴代大祝の位牌(「尊牌」と呼ぶ。)を安置し、大祝が経を読み上げるための施設として神殿に「黒戸の間」が設けられ、現在も仏式で葬られた先祖のために、大祝が山鳩色の袈裟を着て親らお経を上げる。仏教の影響は洩矢神宮にも及び、神宮には五重塔と多宝塔も建てられた。仁政に入るとナショナリズムの高まりにより、行事も復古的で本来の神道の方式を採用するよう転換されたことで、現在には仏式はその多くが撤廃された。全国的には神仏分離が日本のように完全に行えなかったが、国家の重要な施設である洩矢神宮では比較的厳格に分離をし、極意大事と呼ばれる仏式の即位儀式などは廃止された。但し、既に祝詞にも仏教の要素が入り込んでおり、のちに仁政大祝も厳格な分離に慎重な立場をとったことから、撤廃できなかった部分は多く残り、新年の朝賀には漢服を着ること、袈裟を着て黒戸の間で経を読むことなどは現在も行っている。洩矢神宮境内の五重塔と多宝塔も現存し、石でできた鉄塔は第二の御神体として扱われている。洩矢神の本地仏は大日如来と大黒天であるとされており、宮中では仏事も行う。このことから、大日如来(または大黒天)=洩矢神=大祝として、仏教界では大祝を「活仏」として扱う場合もある。

その他

キリスト教、イスラム教等の宗教とは歴史的な関わりはほとんど持たないが、近世の一時期にはヨーロッパからの宣教師を宮廷で雇い、ヨーロッパの近況を報告させていたことがある。近代以降はキリスト教のローマ法王や司祭、イスラム教の指導者との交流も行い親密な関係を築いている。

大祝の歴史

大祝がいつから存在したのか、また「大祝」の称号がいつから使われていたのかについては諸説ある。神代から数代の大祝は神話上の存在であり、歴史的事実としてこれらの大祝は存在しなかったと言われている。称号についても「神主(初代)」→「祝(風祝)」→「大祝」と変遷しているとする説が有力であり、特に神代大祝は「神主」を名乗ったとの記録もある。ここでの神主は神職を指すものではなく、「神を祀る国の主」という意味がある。また2代目宸神大祝から数代は「風祝」と呼ばれ、「杖をひと振りすると風を自由自在に操り五穀を実らせた」とされている。やがて大祝の名称が定着したあとも、「風祝」は大祝の別名として扱われている。紀元後500年代には神代の神勅にある通り「祝」が使われるようになり、これに大を冠して「大祝」となった。また、同じ頃に他神社が使っていた「祝」の神職を禁止し、逆らうものを征討していく事で、武人としての性格を確立した(後に神代の様式を復古する目的から物忌令が出されてからは、武人としての性格を神長官守矢家に譲り渡した)。この頃の大祝はまだ祭主として神を祭る存在であり、神格が薄かったとされているが、700年代には現在のように神長官守矢家を筆頭とする五官祝が大祝という御正体を祭る形が確立された。800年代、仏教や密教の輸入とともにさらに大祝の存在は神秘性を増し、様々な秘儀が定められたとされる。

大祝の陵墓と葬儀

神室規範により、大祝、天后、天太后、太天太后の陵墓を(りょう/みささぎ)、太子その他神氏の陵墓を(ぼ/はか)と呼ぶと定められている。大祝の陵は古代、前方後円墳や円墳であり、中国から文明が入ると極短い期間のみ中華風の陵墓も造られ、仏教が輸入されてからは仏式となり宝篋印塔(ほうきょういんとう)が造営された。現在は古式にのっとり神式の墳丘が造営されている。なお、初代大祝とされる神代大祝の陵墓は「御神陵」とよび、何もない小山が石の柵で囲まれている。

大祝が亡くなることを崩御(殂落、駕崩とも)といい、特に神代大祝の崩御のことは「御隠居」という。近現代に入ってからの事例では、大祝が崩御すると古式に則った大喪儀が営まれる。大喪儀は40日間の(もがり)を経て、崩御約1ヶ月後に行われる。霊柩をのせた轜車(牛車)を中心として旛や威儀の物などから葬列がくまれ、葬送曲『哀の極』、雅楽の奏楽と陸軍による弔砲とともに出発し、沿道に集まった国民に見送られて、ゆかりの場所を通りながら2時間ほどかけてゆっくりと葬場まで移動する。(仁政の大喪は古式に則り夜に、天正の大喪は外国使節を受け入れる関係から昼間に行った。)到着後遺体は神輿に遷され、鈍色の装束を着た近衛兵らに担がれ、袍の上に白色の素服を着て、藁沓を履き、白い桐杖を持った*2五官祝が先導しながら徒歩列が組まれ、葬場殿に安置される。次に誄歌が奏され、祭官長が祭詞を読み、大祝が拝礼し御誄を述べ、続いて神族が拝礼する。また、大喪儀御式において三権の長が弔辞を述べ、官吏や外国使節が拝礼をすると、再び葬列が組まれ陵まで移動し、霊柩を陵に納める。大喪儀当日は公休日となり、国民も喪に服す。国中で弔旗、半旗が掲げられ、多くの店が休業した。各地では国民によって集会が開かれ、国民らが崩御を弔った。

神室の財産

神室の財産(すなわち神室の家長である大祝の財産)には現金を初めとして由緒ある品々が沢山あるが、保有される財産を金額になおせば世界的には多くないとされている。代表的なものとしては、大祝のみが持つことを許されている四種の御神宝、山鳩色の束帯、八角二蓋級笠、祖先から受け継がれてきた金銀、書画、陶芸品などの美術品、衣服の他、全国にある御殿や御用邸などがある。また、大祝直轄領の守矢京も形式的には大祝の財産である。近年、政府は重要なものについて国有化を進めようとしている。

大祝一覧

大祝の通字は「」である。民俗学者の堀口功は、頼の通り字の由来について、依代(よりしろ)という言葉に由来し、「神の依代である大祝を表現している」との説を唱えた。一時期は「信」も通字として使われており、現在も八坂神や宇足川神では通字として使われる。
大祝はxx帝xx法皇とも呼ばれる。

諡号読み異称・幼名在位期間生年月日 - 没年月日
享年
1神代大祝じんだい・御左口洩矢大神
・神主
・神祖
・高皇帝
-神代大祝元年(前660年)1月5日 - 同82年(前579年)2月11日前700年 - 前579年*3
121歳隠居*4
2宸神大祝じんしん・洩子神
・風祝
-宸神大祝元年(前579年)2月11日 - 同年58年(前522年)12月12日前588年 - 前522年
66歳崩御
109豊安大祝ほうあん・尋宮兼頼
110仁政大祝じんせい・憲宮
・仁政大帝
宗頼仁政元年(1865年)3月1日 - 同66年(1930年)7月25日1857年12月5日 - 1930年7月25日
73歳崩御
111天正大祝てんしょう・昌宮久頼天正元年(1930年)7月25日 - 同63年(1992年)4月2日1900年5月10日 - 1992年4月2日
92歳崩御*5
112(諡号なし)・睦宮安頼文礼元年(1992年)4月2日 - (在位中)1955年2月11日 - (存命)

文献

  • 『水穂紀』
    瑞穂国最古の正史。漢文、編年体で書かれている。
  • 『天書古伝』
    瑞穂国最古の歴史書。変体漢文、紀伝体で書かれている。
  • 『守屋大明神縁起絵巻』
    全12巻で構成される洩矢神宮の縁起。神事の由来、方法、順序などの記載がある。
  • 『神宮物忌令』
    大祝及び洩矢神宮の物忌について記載がある。
  • 『万至式』
    万至年間に制定された格式。全50巻からなり、神事の方法、順序などの記載がある。
  • 『天貫次第』
    天貫年間に書かれた儀式の解説書。
  • 大祝即位事書(おおほうりそくいことがき)
    1340年(元号x年)代の即位式に関する文書。解像度が低いが、絵とともに即位式の一連の流れが解説されている。

関連項目

関連項目

大瑞穂帝国に行く
地方地方区分 - 信京府(守矢京 - 左京郡? - 右京郡? - 居下郡? - 東亜郡 - 宮門郡? - 錦織郡? - 富兵郡?) - 耀国 - 祝部県?
地理架創遺産 - 国宝 - 神社(神宮) - 城郭 - 寺院 - 御殿
歴史国史 - 元号 - 耀王国 - 近衛京? - 安曇京? - 近衛幕府? - 木曾幕府? - 仁政維新?
政治大祝 - 神室 - 王室 - 五官祝(神長官 - 禰宜大夫? - 権祝? - 擬祝? - 副祝?) - 政府 - 内閣 - 枢密院 - 議会(元老院 - 公議院) - 五官会議 - 裁判所? - 政党 - 官軍 - 陸軍?(憲兵? - 近衛師団?) - 海軍? - 海軍航空隊? - 空軍? - 海上保安隊?
組織文部省? - 宮内省?(陰陽寮) - 神祇省? - 官立星学技術研究所? - 瑞穂専売公社?
経済 - 国立銀行? - 観光? - 企業 - 宇宙開発? - 発電所 - 鉄道? - 航空
社会瑞穂語 - 法令(憲法) - 学校 - 人物 - 栄典 - 神道? - 各種年齢?
体育体育 - 大瑞穂体育協会 - 大瑞穂聯体委員会? - 瑞穂蹴球軍
文化神宮競技大会? - 文部省美術展覧会? - 神長官競書大会? - 官立高等学校柔剣道大会 - 名族協会? - 瑞穂赤卍字社? - 公議院書籍館? - 帝国図書館? - 東洋競技大会?
その他架創国家連合(INC) - 瑞穂・ルイス宇宙機関 - 防衛聯合演習- 創作メンバー - 画像フォルダ - 関連項目
清洲国
国家清洲国
地方地方区分? - 建京特別市? - 恵州特別市? - 龍河省? - 白山省? - 錦濤省? - 景徳省? - 董園省? - 馬公省? - 高隆省? - 江原省? - 彊化省? - 康安自治省? - 阿蒙省公署委員会? - 嶺北州
地理天地壇? - 革命烈士廟? - 建京神廟?
歴史歴史? - 思華民国軍政府 - 思華民国革命政府? - 徳丹聯盟自治政府? - 松韻洞政務委員会? - 董園自治政府? - 高隆自治政府? - 馬公聯合委員会?
政治執政 - 参議府? - 国民会議?(国民会議全国委員会 - 国民会議中央選挙委員会?) - 国務院? - 立法院 - 監察院? - 法院? - 政党(清洲国新民会) - 国軍(陸軍? - 海軍? - 空軍? - 憲兵?) - 先鋒隊(本隊? - 水師? - 飛行隊? - 侍衛処? - 中央倶楽部?)
経済清洲国束?
社会人物 - 法令 - 清洲国約法 - 清洲国政府組織法? - 清洲国組織法? - 嶺北州基本法
文化清洲国体育聯盟? -足球清洲国代表? - 清洲国紅卍字会? - 清洲国煙酒総公司?
行事清洲国全国運動会? - 清洲国教育部芸術展? - 東洋競技大会?
その他架創国家連合(INC)- 画像フォルダ - 関連項目

*1 この洩矢神の仰せを「大宣(おおのっと)」と号し、記文として書きおかれている。大祝は主だった神事の際に必ずこれを読み上げる。
*2 「哀しみのあまり杖をつかなければ歩けない」という意味がある。
*3 高天原から降臨
*4 神が中つ国を去った。大宣(おおのっと)によって、子孫にあとを継がせ、大祝をもって自分の御神体とするとの神勅をあらわした。
*5 存在が実証されている中では再長寿