石川内野手、痛恨のミス

Last-modified: 2022-08-08 (月) 20:57:18

元横浜DeNAベイスターズ所属で現在はアメフト選手の石川雄洋の男村田スレにおけるキャラ付けのこと。

設定を超えた球史に残る「痛恨のミス

石川は2004年ドラフト6位で横浜ベイスターズに入団*1。横浜高校出身の生え抜きとして期待されていたが、肝心な場面で失点に結び付くエラーをしばしば起こしており、「最後の詰めが甘く、凡ミスをする」という認識が定着していた。

そして2011年10月22日ジャイアンツ戦。シーズン最終戦を1点リードで迎えた9回裏から石川は守備固めとして遊撃手で登場したが、先頭打者・谷佳知の難しくはないゴロを弾いてしまう。これによりクローザー・山口俊が崩れ、最後は長野久義代打逆転サヨナラ満塁本塁打を食らい終戦。

など、記憶面・記録面のおいてドラマチックな幕切れとなり、情状酌量の余地なく「痛恨のミス」となってしまった。
そして「石川内野手」という別称が誕生し、石川の最もポピュラーな別称になった。

コピペ

2011年シーズン最終戦の9回裏までの試合経過
高卒2年目国吉球界の盟主相手に好投!
ベイス不動の4番男村田が2ホーマーで澤村を粉砕!防御率1点台も勝ち越しもご破算!
ついでに盗っ人内海の最多勝も粉砕!
そして復活の期待の若手石川内野手が9回の守備へ!


試合結果

余談

石川は別の記録に残る試合でも(ある意味)痛恨のミスをやらかしている。

2007年4月19日ヤクルト戦、石川は11点リードで迎えた7回表にプロ初盗塁を決める。これがヤクルト側の心象を悪くしたのか、直後に打席の内川聖一が背部に死球を受け、続く村田修一に頭部死球が発生し乱闘に発展してしまう。投手の遠藤政隆*3は危険球退場、この処分に反発した古田敦也選手兼任監督も審判への暴言で退場。
しかもこの試合はよりによって、古田にとっての通算2000試合目。敗色濃厚とはいえ後味の悪いメモリアルゲームになってしまった。あくまで結果論だが、石川の盗塁がチームメイト・相手双方に痛手を与えてしまったと言える。*4 *5

また、石川は天然として知られており、活躍してお立ち台に呼ばれた時の発言でも痛恨のミスをすることがあった。
ただ、こちらについてはもっとすごい人達のせいで晩年は目立たなかった。

関連項目


*1 ちなみに同期には那須野巧(自由獲得枠)、藤田一也(4位)、桑原義行(8位)がいる。
*2 DeNA相手に株式売却で大筋合意の一般報道が出たのは2011年10月19日、試合は10月22日。この時点でTBSベイスターズとしては最後になる確率が高いとわかっていた。なお球団名を横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに変更して(この時点ではまだ大洋漁業(現・マルハニチロ)が球団を所有していた)最初の試合である1993年の開幕戦も東京ドームの巨人戦で、試合展開は全く異なるが同じスコア(2-5)で敗れている。
*3 元中日→ヤクルト。「氏ね様」と言われていた。80年代に活躍した遠藤一彦(元大洋)の従弟。ただし年齢が離れているため互いのNPB在籍期間が重なったことがない。
*4 とはいえ当時の石川はまだ無名選手。この試合も石井琢朗の代走としての出場であり、塁上で何のアピールもしないわけにはいかない状況ではあった。大量リード時の盗塁をタブーとする不文律も賛否両論である。無論古田の退場は本人に原因があり、石川とは無関係である。
*5 余談だがこの4年後、横浜は初回に8点を先取しながら投手がリードを守れず、結局引き分けに持ち込まれている(奇しくも相手は同じヤクルト)。そのため現在では、この盗塁は妥当な判断だったともいわれている(ただしここの「妥当な判断」は石川を擁護するためというよりも、当時の横浜投手陣の不甲斐なさを皮肉ったものと言った方が正確である)。