歴史談義用掲示板過去ログ1

Last-modified: 2024-05-13 (月) 17:45:18

歴史談義用掲示板

  • ここは張勲の列伝次作ではいい加減直せよコーエーとか話せばいいのかな -- 2023-10-13 (金) 16:59:38
    • ①橋蕤らと共に大将軍に任ぜられた⇒大将の間違い。この時点では後将軍の袁術が部下を大将軍に任命する意味が分からない②孫策を心から尊敬しており⇒喬蕤や張勲(と孫策)らが心を傾け敬ったの寿春に来ていた馬日磾の間違い③孫策が廬江を攻略した際に脱出し、曹操を頼った⇒全部間違い。劉勲は張勲に捕らえられた後は足跡不明。 -- 2023-10-13 (金) 17:24:02
      • 自然死・不自然死が間違ってる武将は多いけどここまで列伝がおかしなことになってる武将って他にいるんだろうか。 -- 2023-10-13 (金) 17:30:49
      • 馬日磾のところは自分はどっちとも取れるなと思ったんだけど、どうすかね。"太傅馬日磾杖節安集關東,在壽春以禮辟策,表拜懷義校尉,術大將喬蕤、張勳皆傾心敬焉。術常歎曰:「使術有子如孫郎,死復何恨!」"で全体的に孫策アゲの記述なんで、焉=懷義校尉を拝命した孫策、の方が若干自然かも? -- 2023-10-13 (金) 18:46:32
      • ↑尊敬した対象が具体的に書いてないから解釈が分かれるのはしょうがないけど、孫策の伝だし基本は孫策ageの記事と読むのが無難かなぁ。史書の物語的には後に張勲が孫策を頼って落ち延びる伏線としての記述なんだろうね -- 2023-10-13 (金) 19:14:40
    • 今まで武将のページでしてた雑談はぜんぶここでしょうね。名前欄に武将名いれたら誰の話題かわかりやすいしリンクも作れていいかも。 -- 張勳 2023-10-13 (金) 17:26:58
      • 名前がリンクになるのか。それは知らなかった。 -- 楽就 2023-10-13 (金) 17:50:41
    • むしろそれってゲーム内データが間違えてるって話だからここではない気もするな・・・ -- 2023-10-13 (金) 19:50:18
      • 能力値談義が苦手な人もいるみたいだし、消去法的にここしかないんじゃないかしら。 -- 2023-10-13 (金) 20:51:17
  • ここって名前入力しなきゃいけないの? -- 韓暹 2023-10-13 (金) 19:51:42
    • 名前欄に武将名いれてれば誰の話題してるかわかりやすくなるね!(提案)、って段階なので好きにすればええ。 -- 梁綱 2023-10-13 (金) 19:59:41
  • 映えある第一の談義武将が張勲とは……まあ袁術軍推しも多いから頷けるラインではあるか -- 楊奉 2023-10-13 (金) 20:08:34
    • いきなり渋い武将の話で笑ってしまった。話題そのものもゲーム内の記述でもあるし歴史の話でもあるという点でのっけから秀逸すぎる -- 2023-10-14 (土) 01:25:34
  • ステータスに文句があるわけではないが、長年軻比能と戦って勝ったり負けたり時には死にかけたりした上に最後は国境を荒らして民を苦しめたとして異動させられた田豫が中々の評価なのに対して、あっさり軻比能の暗殺に成功したのにゲームでは出番すらない王雄…どこで差が出たのか -- 田豫 2023-10-14 (土) 10:41:56
    • 王雄は異民族の長を暗殺しただけの人物だからなぁ…まぁ孫の王戎がゲームに登場するからまだマシな方かもしれない -- 2023-10-14 (土) 12:17:45
      • 王雄は幽州刺史になってるから、後方の頭数を埋めるにはちょうどいい人材。 -- 2023-11-08 (水) 13:52:15
    • 正史立伝されてるか否かというのは大きいよね。田豫は初期劉備とのからみもあるというのも大いにプラス。 -- 2023-10-14 (土) 13:38:07
  • こいつ出すくらいならもっと他に出すべきやつがいるだろみたいなのもあるよな。登場数を1000人ぴったりにする必要もないだろうし、特に後期武将とか -- 崔勇 2023-10-14 (土) 12:36:12
    • 臧洪孫資劉放みたいにかなりのキーマンなのに長らく出番なかった連中も出るようになってきたし諸葛亮死後の三国志に興味持つ人が増えりゃ武将も増えるでしょ -- 2023-10-14 (土) 12:53:50
    • 個人的にこいつより…と思うんはそのあたりの演義オリ武将より、異民族系と婦人系やなあ。特に異民族武将に関しては友好イベントで派遣されて来る連中のが使えるのがアカン、それこそ在野に放り込むんやなくて派遣されるのが名前付き異民族武将でええやろと。 -- 2023-10-18 (水) 08:15:02
      • 女性や後期や異民族いてもいいじゃん、1200人は欲しい -- 2023-10-18 (水) 23:17:44
  • 本当に、劉淵ぐらいは出してほしい。 -- 劉淵? 2023-10-15 (日) 13:58:15
    • 登場させるとしたら間違いなく曹操クラスの能力になるし、登場年設定次第ではバランスブレイカーになりそう。 -- 2023-12-21 (木) 13:38:50
  • 賈信みたいないぶし銀の武将ってほんとうにいいよね -- 賈信 2023-10-17 (火) 18:34:17
    • わかる。毌丘興、蘇則、張既の親愛チームとか使いたくなる不思議な魅力がある。 -- 2023-10-17 (火) 19:22:21
  • 列伝が情けないのに妙に使える個性や陣形を持ってるヤツ好き。 -- 韓猛 2023-10-17 (火) 22:34:41
  • 次回作は高句麗や宋建征伐まで行けると良いな… -- 2023-10-17 (火) 23:21:28
    • 今作の異民族はザ・異民族って感じの実装ですね。個人的にはもう1段階マップ広げて、烏桓鮮卑の大人や他異民族の小勢力がもっと乱立しててほしいなと思いました。例えば烏桓の中にも、同時期に蹋頓、烏延、蘇僕延など複数勢力がありました。マップが広がることで公孫度や士燮を使った外交遊びが増えると良いなと思いました(木 -- 丘力居 2023-10-18 (水) 09:09:22
    • 南匈奴の於夫羅派は内地にいて中原の動乱に顔をだしてるくらいだから、通常勢力として実装してもいいね -- 於夫羅 2023-10-18 (水) 20:14:51
      • ただ於夫羅を独立勢力にするとなると、どこを本拠にすればいいのかという問題が出てくるから、放浪軍がゲームシステムとして実装されてないと厳しいかな -- 2023-10-19 (木) 08:55:29
      • 後漢末の南匈奴は流浪の民だからなぁ。放浪軍制があるシリーズなら再現できるか -- 2023-10-19 (木) 10:03:39
      • 今度リメイクが出る8は放浪軍が実装されてるから、それに期待しよう -- 2023-10-19 (木) 11:01:32
      • 反董卓シナリオの曹操も本当は根無し草だけど、やや無理気味ながら陳留に配置してもらってる伝統がある。他にも勢力配置はけっこう適当なところがあるから、やりようはあるとは思う。むしろ需要がない可能性が高いが、、、。 -- 2023-10-19 (木) 17:42:20
  • 八王の乱の武将とか出せないのなら、せめてそこに掛からないような末期武将は増やして欲しいな。特に蜀将…(王含・爨習・李邈・孟興・毛炅・楊稷あたり) -- 霍弋 2023-10-18 (水) 10:32:17
    • 毛炅・楊稷はなんで消えちゃったんだろうなぁ -- 2023-10-18 (水) 16:10:34
      • 1000人という数が先にあったんだろうから、その辺が漏れちゃうのは仕方ないかねえ。末期はほかにもまだ結構な大物が未登場だから三国志8remake PK(?)に期待。 -- 2023-10-18 (水) 19:05:57
      • PUKでその辺は復帰させて欲しかった。263年シナリオだけ実装しても頭数が足りない!! せめて有料DLCでもいいから売るか、あるいは新武将枠を拡大して欲しい。 -- 2023-11-08 (水) 13:49:13
    • 王含は旧8のPKと9には出てきていたが、10から消えたしな。花蔓みたいな京劇しか出てないやつ出すなら、演義キャラは総出演したらええのに。韓玄配下で最初に関羽に斬られた奴とか、孟達誅殺を教えようとして見つかり処刑された奴とか、馬騰と謀反を企んだ奴とそれを密告した下僕とか。 -- 2023-10-20 (金) 22:12:05
      • 苗沢さんはただの一般人だからなあ…李春香の方が可能性ありそう -- 2023-10-21 (土) 17:19:58
  • 「この地位は本来、兄のものであり兄の後継者が継ぐのが当然」 こう思ってたんなら司馬炎に司馬師の家を継がせた方が良かったんじゃ… 変に司馬師の家を司馬攸に継がせたりするから「兄(司馬師)の家を継いだ弟(司馬攸)VS弟(司馬昭)の家を継いだ兄(司馬炎)」なんていう面倒くさい構図が出来上がってしまったし、曹髦殺しに次ぐ大失敗だと思う -- 司馬昭 2023-10-20 (金) 10:03:31
    • そもそも司馬氏の嫡流は司馬朗の跡を継いだ司馬望のはずなんだがね…。 -- 2023-10-20 (金) 18:19:31
      • そこは関係なくないか?司馬懿からの流れなんだし。 -- 2023-10-20 (金) 18:22:17
      • 嫡流かどうかってこの時代そんなに重要じゃないはず -- 2023-10-21 (土) 19:00:39
    • 司馬師のあとに司馬昭が継ぐ経緯はどうだったんだろうね?日本でも嫡男が幼少の場合は後見人という形で叔父が権力握って、成人したら返したり(場合によっては返さなかったり)とかあるけど -- 2023-10-20 (金) 19:15:34
      • 司馬師に男子はなかったから、司馬昭が跡を継ぐのは特に問題ない。問題なのは「兄の後継者が継ぐのが当然だよね」ととち狂った事を言いだしたのと、よりによって「兄の後継者」が自分の嫡男の司馬炎ではなく司馬攸だったこと -- 2023-10-20 (金) 19:27:53
      • 兄貴の後を弟が継いだならその後は弟の系譜が継ぐのが当然だろ…常識的に考えて -- 孫権 2023-10-21 (土) 03:25:19
      • 孫皓「そうかな?」 -- 2023-10-21 (土) 18:46:45
    • 司馬氏って儒教勢力のトップみたいな感じだったから、君子ムーブかまそうとしたんじゃないかね。 -- 2023-10-21 (土) 05:27:53
      • 司馬孚・司馬望「君子ムーブするのおせーよ」 -- 2023-10-21 (土) 18:49:51
    • そもそもその判断をしたのは司馬懿だろう 司馬懿が死ぬ前に家督として一族の後継問題に口出しした その結果が王凌討伐の功績によって司馬望と司馬攸が封爵という記述に繋がる -- 2023-10-23 (月) 00:40:15
  • パリピ孔明で馬謖には長安襲撃を催促していたかもしれないと語っているけど、実際の所はどうだろう? -- 2023-10-21 (土) 20:03:19
    • 「独断で長安を攻めようとした(から張コウを撃退しようとした)」ならわかるし斬られた理由にもなるけど、隴西確保もできてないのに催促は変だよな・・・「こっちは当に長安の部隊殲滅し終わってるから、早よ!」ってやろうとしたって事か?それで師匠を煽ろうとした上に失敗しやがったので、処されたと・・・。 -- 2023-10-21 (土) 22:55:57
  • 久しぶりに禰衡を武将として出したらどうか?個性は、論客・言毒・楽奏・悪名・高慢 陣形は鋒矢のみ。政策は縦横レベル5。荀彧に親愛。 -- 2023-10-22 (日) 00:34:28
    • ゲームの効果では表現出来ないけど寧ろ名声つけるべきじゃないかな。下手に名前が売れてるせいで曹操も持て余してしまって劉表の下に厄介払いしたんだし、悪名高くてアレだったら問答無用でぶち◯してると思う。 -- 2023-10-22 (日) 23:40:16
    • 親愛は孔融と黄射が相互、楊修が一方通行でいいんじゃないかな。毒舌なだけで嫌悪は無しだけど被嫌悪大変なことになりそうだが -- 2023-10-24 (火) 10:21:25
  • 献帝って登場させちゃダメなのかね -- 2023-10-22 (日) 01:41:31
    • 献帝ー劉協 個性 仁政 強運 小心 優柔 消沈 親愛 劉備 董承 曹操の娘たち こんな感じで新武将登録してみては?皇帝だから城から出す必要ないので、仁政が活きるし、マイナス個性も城から出さなければ効果はでない。 -- 2023-10-22 (日) 05:46:37
    • ただの便利な空気じゃ意味無いから、智嚢持たせて毎回提案を聞かなきゃいけない縛りとかに -- 2023-10-22 (日) 06:10:03
    • 独立勢力の君主扱いするのも、董卓ら献帝を擁立した連中の配下扱いにするのも違和感あるし、献帝を武将化するのは傀儡君主を再現できるゲームシステムじゃないと無理だと思う -- 2023-10-22 (日) 06:31:32
    • 献帝って群雄じゃないしアイテムみたいなもんだしな。でも西園八校尉を引き連れて漢に逆らう賊たちを討伐する無上将軍劉宏プレイは面白そうだ -- 2023-10-22 (日) 07:50:14
      • 武将プレイだとできそう。てか、君主交代するイベは前有ったと思う(無双や太閤立志伝でもあったし)。それの酷い版で、君主はそのままで君主と同じコマンドをプレイヤーができる様になるとか(ただし、君主派から反感を買う)。 -- 2023-10-23 (月) 01:21:24
    • このゲームだと曹芳や曹奐が普通に君主として振る舞えて、やろうと思えば司馬一族を追い出せるし、傀儡君主はSLGの鬼門なんだろう。これがまともに再現できてるSLGを見たことがない -- 2023-10-22 (日) 08:35:12
      • いっそのこと魏の君主を曹操→曹丕→曹叡→曹爽→司馬懿→司馬師→司馬昭→司馬炎にしてしまうとか。蜀は劉備→諸葛亮→蔣琬→費禕→姜維。 -- 2023-10-22 (日) 12:13:04
      • いや、他はともかく蜀の君主姜維はいかんでしょ。身の危険を感じて成都に帰れなくなるような奴が君主とか流石にないわー -- 2023-10-22 (日) 17:00:16
      • 曹髦をdisるのはやめてください。 -- 2023-10-22 (日) 18:54:04
      • ↑2夷陵後の劉備… -- 2023-10-22 (日) 22:13:31
      • 劉備も蜀に戻ったら殺されかねない(ので永安にいます)、なんだっけか -- 2023-10-23 (月) 15:44:53
      • 劉備がクーデターや暗殺を恐れて帰れなくなったという記述はないし、黄元が劉備の病が重いと聞いて挙兵している事から考えると、重病で永安から動けなくなったんだと思うよ -- 2023-10-23 (月) 17:10:51
    • 確かに信長の野望でも足利家はプレイできるけど天皇は無理だな。まあ武将じゃないからね -- 2023-10-22 (日) 12:15:03
    • 一応データ上は劉協もゲーム中にはいるんだよね。登場シナリオあがないだけで。 -- 2023-10-22 (日) 14:15:30
    • 8のシステムなら李傕らのとこから逃げた放浪軍としてのみあり得なくもないかも -- 2023-10-24 (火) 03:21:21
    • 11では14でいうと戦記制覇に該当するモードに献帝プレイがあった -- 2023-10-26 (木) 14:48:34
    • 過去作では献帝がいつまでも生き続けたり、「献帝の死後後継者が無く後漢は滅亡」になったりしたけれども。孫の劉康が山陽公を継いだことは記録に残っているので、いい加減フォローして欲しい。 -- 2023-11-14 (火) 22:22:21
  • 顔良の正史記述、早く直して欲しいなコーエー。声をかけたところを関羽が斬ったのって正史じゃなくて演義の古い版に記載あるやつなので、正確には演義の話なんだよ。多分ここの関羽は正史の方が演義よりエグい活躍してる気がする… -- 2023-10-22 (日) 22:13:06
    • 合戦が始まってすぐに殴り込んで、顔良を斬ったんだったかな? -- 2023-10-23 (月) 02:38:48
      • 袁紹軍を見渡して顔良の旗と天蓋(馬車に乗っていたんだろう)を見つけると騎馬で大軍の中に分け行って顔良を刺し殺し首をとって帰ってきた。顔良は郭図・淳于瓊と出撃したけどこいつらが楽進らの陽動にひっかかって顔良だけ取り残されたところを討ち取ったので袁紹軍も相当混乱してたとおもわれるが、それにしても関羽の糞度胸と言うかアサシンっぷりが凄い。 -- 2023-10-23 (月) 08:41:44
      • 劉延がどれだけ粘ったかは分からんが、合戦が始まって「すぐ」ではないだろうな -- 2023-10-23 (月) 10:12:37
    • 袁紹も再評価され始めてるし顔良文醜も再評価される日がくるといいけど -- 2023-10-23 (月) 10:57:37
      • 顔良・文醜は再評価しようにも官渡以前の戦歴が不明なのが辛いな。孔融が高評価していることから、袁譚の青州制圧戦に参加してたのかも?ってくらいか -- 2023-10-23 (月) 11:21:07
      • 記述少ないと傍証から推測重ねていくしかないのでどうしても説得力低くなっちゃうのがね・・・。○○の可能性がある、までになる。 -- 2023-10-23 (月) 12:09:41
      • 顔文は現状で目一杯の高評価では。袁紹軍を強化するならよく言われるように袁譚、淳于瓊、高幹あたりかと。 -- 2023-10-23 (月) 18:45:37
      • 淳于瓊ファイブに相互信頼くらいくれれば良かったのにとは思う。運搬持ちも多いしえらい有能な集団になるが。 -- 2023-10-23 (月) 21:32:37
      • 袁紹軍は敗者だから史書では厳しく書かれてる反面、田豊や審配は残された事績以上に高評価されてるから勢力全体としてはバランスは取れてる気がする -- 2023-10-24 (火) 14:23:56
      • 袁紹配下でも軍師・文官ポジは割と良い査定もらってるのよね。武官が統率武力どっちか70に乗ってればマシな方ってのが…上で出てる3人以外なら、演義補正でこの人ももうちょい評価していいとは思う。 -- 呂曠 2023-10-25 (水) 06:06:35
      • 袁紹軍が不利なのは、「もし袁氏が健在なら仕えていたが(あるいは下っ端として既に仕えていたが)、実際には曹操・曹丕に仕えた次世代の人びと」が、基本的に前歴をぼかす方向であるせいもある。なので主力が寿命を迎えた後は悲惨。せめてそれっぽい人は、袁紹領の在野として登場すればよいのだが。 -- 2023-11-14 (火) 15:11:29
    • はぇーずっと騙し打ちしても周りは敵だらけなのにどうやって帰ったんだ?と思ってたわ -- 2024-01-03 (水) 13:51:08
  • 正史の記述で「〇〇(人名)が❌❌(人名)を斬った」という表現が頻繁にでるらしいが、〇〇の部隊が❌❌の部隊を壊滅させて、結果的に討ち取ったという意味らしい。これを演義で一騎打ちの意味に解釈したかと。ちなみに荀攸が文醜を斬ったとあるらしい。ストレートに解釈したらw。14で曹操が呂布に一騎打ちで勝ったと報告が入り爆笑したな。 -- 2023-10-24 (火) 04:13:19
    • むしろ指揮官が自ら斬ったと解釈する人いる?大将同士の首の斬り合いで決着する戦いばっかりだったら兵隊はいらないじゃないか。 -- 2023-10-24 (火) 08:06:38
      • 人物によるとかな……「孫堅が華雄を斬った」って書かれたら孫堅が華雄を直接討ち取ったような図をイメージしてしまうw -- 2023-10-24 (火) 22:33:36
      • 可能性としては無くはないからな。孫堅からやりそうw -- 2023-10-24 (火) 22:54:06
      • 「泣いて馬謖を斬る」を何故か諸葛亮が涙を流しながら自分で剣を持って馬謖を斬ってる姿を想像してしまったりするw実際は刑吏がやるし、大重鎮の諸葛亮が直接刑を執行するなんて有り得ないだろうけど -- 2023-10-24 (火) 23:52:02
    • 演義もそんなの承知の上でオハナシとしての面白さ優先して一騎討ちにしてるやろ・・・ -- 2023-10-24 (火) 11:58:44
    • 法隆寺は聖徳太子が建てた→「実際に建てたのは大工や!」みたいな話やろ -- 2023-10-25 (水) 00:12:34
    • 諸葛亮の北伐も司馬懿の神速も実際には平坦担当の官僚集団がやったわけだけど、いちばん大事なのはそれを命じた判断力と意志力の賜物よ -- 2023-10-25 (水) 11:48:57
    • 指揮官が陣頭に立ったり自ら敵を斬るのがレアケースだからこそ関羽や張遼はスゲーって言われるわけだからな。 -- 2023-10-25 (水) 13:44:59
      • あとは郭援を斬った龐徳とかね。龐徳の場合は首を取ったはいいけど誰の首級か分からんから革袋に入れておいたという、指揮官同士の殺し合いと言うより殺した相手が実は指揮官でしたというパターンだが…。 -- 2023-10-25 (水) 16:58:48
      • 大将同士戦うまで行かなくても直接戦闘に参加してるっぽい記述自体は結構あるな。曹仁とか甘寧とか馬超とか。界橋の鞠義なんかも状況的に後ろで督戦なんか無理そうだし、階級や指揮範囲次第では案外先頭で戦ってるケースも多そう。 -- 2023-10-25 (水) 17:31:39
      • 一騎打ちはないにしろ、当時の雑兵どもを動かすには士大夫層がある程度先頭には立たんといけないだろうしな。たしか魏延は奴隷・雑兵レベルから成り上がったはず。士大夫の楊儀とそりが合わないのは当然。 -- 2023-10-25 (水) 17:55:37
      • ありゃ魏延って初期から、私兵を率いて戦ったとか書いてなかったっけ? -- 2023-10-25 (水) 18:32:25
      • うん、私兵を率いて劉備の入蜀に参加したのが魏延の事績の初出。だから義陽郡(南陽郡)の豪族だった可能性が高いと思うけど、一方で南陽が袁術のせいで荒廃していたという事も合わせて考えると、劉備のとこにくるまでにかなりの修羅場をくぐってそうではある -- 2023-10-25 (水) 18:52:18
    • 直接討ち取った兵士の名前なんて基本わざわざ書かないもんね。黄祖の場合みたく全くないわけじゃないけど -- 2023-11-01 (水) 06:08:22
  • 蒼天で有能だった韓荀が雑兵降格で有名な韓猛と同一人物と知って衝撃を受けた。てか、昔の無双には別キャラとしてふたりともいたような…… -- 2023-10-24 (火) 21:21:13
  • 劉禅の正史記述を「『白い糸は染められるままに何色にも変ずる』と評された」にしてほしい -- 2023-10-24 (火) 22:05:57
    • 縦の糸は劉禅 -- 2023-10-25 (水) 19:23:34
  • クーデターを起こした医者の吉本。過去作で出たのか?4・5・6・7・8.・9・10だとイベントキャラでもでてこない。あと十常侍も。 -- 2023-10-26 (木) 06:17:08
    • 吉平名義で3の華佗枠で出てた気がするな。負傷した武将を治すためのコマンドで見つかると治療してくれた気がする。十常侍は6に張譲だけ何進配下にいた覚えがある。 -- 2023-10-26 (木) 08:54:02
  • 演義と正史で字が違う人物と言えば張飛が有名だけど他に居るんかな?演義と正史で字が違う人物。 -- 2023-10-26 (木) 13:13:31
    • 張松とか?演義で字が追加された王双とかもいるけど -- 2023-10-26 (木) 13:22:54
    • 孟達。正史では字が初めは子敬で後に子度だけど演義では子慶 -- 2024-02-06 (火) 11:57:40
  • 「丈夫たる者は世に生まれれば、七尺の剣を帯びて天子の階を昇るものだ。今、志は未だ得られず、死んでどうするのか!」 …あの、七尺の剣って太史慈の身長(七尺七寸)とほぼ同じ長さなんですけど。ドラゴンころしかよ -- 太史慈 2023-10-27 (金) 10:23:29
    • 剣云々は帯刀特権の比喩じゃなかったっけか -- 2023-10-27 (金) 15:36:00
  • 賈詡って河北平定して二千石の冀州牧から千石の太中大夫へ格下げされてから曹操死ぬまで一切昇進してないんだな。息子殺しの件で曹操も含む所があったのか -- 2023-10-29 (日) 00:45:48
    • 曹丕に尊重されて位人臣を極めた理由もまさか... -- 2023-10-29 (日) 01:41:19
      • 曹丕からすると足を向けて寝られないくらいの恩人だからな、色々な意味で…。 -- 2023-10-29 (日) 03:39:25
      • 張繍に「兄を殺してくれたな」と因縁つけまくって自殺に追い込んだはずだが。親父にイチバン気に入られていた曹沖も既に死んでいたから、評価が変わったのかな? -- 2023-10-29 (日) 05:03:22
      • 張繍は普通に病死したのでは。張繍伝注の『魏略』の原文は『五官將數因請會、發怒曰「君殺吾兄、何忍持面視人邪!」繡心不自安、乃自殺。』で、「五官中郎将の」曹丕が自殺に追いやった事になってるけど、実際に曹丕が五官中郎将になったのは211年で、張繍が死んだのは207年だから時系列が合わない。おそらく、張泉が誅殺された事から逆算して話が盛られたんだろう -- 2023-10-29 (日) 07:38:55
      • 仮に五官将の部分を無視したとしても、張繍死亡時にはおそらく無官か微官で(曹丕が五官中郎将になる前の官歴は不明)、後継指名を受けていた訳でも無い、二十歳ぐらいの若造でしかない曹丕に因縁をつけられたところで、死にたくなるほど追い詰められるかは甚だ疑問である。涼州の荒くれ者を率いて賈詡先生を使いこなしてみせた男のメンタルが弱いはずがない -- 2023-10-29 (日) 11:50:04
      • 賈詡は中央政界から降りて、閨閥も作らなかった。悪評が目立つのは政界に味方がいなかったせいもあると思う。西晋末期の賈疋(曾孫)まで目立った子孫の活躍が現れなくなるのも、涼州の在地豪族としての活動に専念したという風に理解すればよいのではないだろうか。 -- 2023-12-05 (火) 15:21:21
  • 記述や評価が抽象的なものばかりでなんとなく、この人→黄皓ってイメージで悪く思われがちだけど。純粋に蜀の派閥関係や結果だけ見ると「北伐成功の先にしか蜀漢の存続は無い」って事に気付いて君主を立て、宦官を味方にすることで北伐反対派を抑えその結果もっとも戦果の挙げた北伐を実現した名臣ってイメージも見えてくる。 -- 陳祗 2023-11-01 (水) 17:10:58
    • 北伐させとけば姜維は中央に戻ってこないから自分の天下じゃね?的な。 -- 2023-11-01 (水) 17:44:39
    • 列伝の黄皓と結託して暴政を敷いたってどこから出てきたんだろうな?っていつも思う。まあ黄皓をのさばらせたのは悪手だったろうけどさ -- 2023-11-01 (水) 18:06:06
    • 陳祇を悪者にしないと董厥や諸葛瞻を悪者にしないといけなくなるからという陰謀論(?)を説く自称研究家のネット番長もいたよ。 -- 2023-11-07 (火) 14:04:10
      • それに関しては大なり小なり事実と言えるんじゃなかろうか。陳祗の死後に諸葛瞻ら北伐反対派が黄皓に権力持たせて味方にしたら立場逆転しちゃった形だけどそこは結構ボカしてるものが多い。 -- 2023-11-10 (金) 17:54:58
  • 夏侯惇夏侯淵は盲夏侯、白地将軍とか馬鹿にしてるようなあだ名を軍中で付けられてるけどあまり人望なかったのかな -- 2023-11-04 (土) 01:53:38
    • 白地将軍の方は集解とかにしか出てない後付けじゃなかったっけ? -- 2023-11-04 (土) 12:43:09
      • 北宋時代の史書『太平御覧』では「白地将軍」の烙印を押された(淵本非能用兵也,軍中呼為「白地將軍」)>https://www.rekishijin.com/30913太平御覧だとしても後付けよなぁ -- 2023-11-05 (日) 11:41:49
    • 演義の影響じゃないの?悪来だって元の名付け親は殷の紂王だし。曹操サイド=悪という位置づけだよね -- 2023-11-05 (日) 07:19:53
      • 史書の段階で当時の軍中から言われてるから演義関係ない -- 2023-11-05 (日) 13:41:36
    • 夏侯惇に人望無い訳無いから、曹操あたりが弄って呼んだのが定着しちゃっただけじゃね。 -- 2023-11-05 (日) 15:47:10
      • 曹操からの信頼は厚いけどそれ以外からの人望はまた別じゃね -- 2023-11-07 (火) 00:46:43
    • 于禁みたいに負けたから色々言われるってのならわかるんだけど、それも無いのに古参かつ歴戦の大将にそんなあだ名つけるのか?ってのかどうも腑に落ちない。曹操が悔し紛れに適当抜かしただけなんじゃないかって気がしてる。 -- 2023-11-06 (月) 00:35:24
    • KOEIグラみたいな隻眼じゃなくて、割とグロい感じだったんじゃないかな。異形の見た目はなにかと人の目に付きそうだから、あだ名とかつけられるのもわかる気はする。 -- 2023-11-07 (火) 08:16:10
      • てか、片目を失いながらも戦い続けたって武勇伝とセットだったろうから、猛とかけてたりで悪い意味(ばかり)ではなかったんじゃないかね。本人も(鏡に八つ当たりはしてるけど)それで言った奴をぶち殺したりはしてないし。 -- 2023-11-07 (火) 22:41:24
      • なんで日本語の音読みなんだよw -- 2023-11-08 (水) 17:27:18
      • たしか中国読みでも割と同じような読み方だったような。 -- 2023-11-08 (水) 19:25:45
      • 「盲 ピンイン」「猛 ピンイン」あたりでぐぐってみるとよろし。 -- 2023-11-08 (水) 19:43:41
      • 曹休も朱桓に親戚だから重任を受けているに過ぎないと言われているし、夏侯惇も同じように思われていたとか -- 2023-11-08 (水) 22:41:16
      • いやそれ、敵が言ってる事だからw -- 2023-11-08 (水) 23:51:20
      • 単純に夏侯将軍が2人いたから、軍中の諸将や兵達が分かりやすく隻眼の夏侯惇を盲夏侯と渾名して呼ぶようになったんだろう。記されてないだけで曹仁と区別するために曹洪を吝曹とか蓄曹と呼ぶ連中もいたかもねw -- 2023-11-09 (木) 02:51:44
      • 本人が隻眼の自分をひどく嫌がっただけで、軍中が蔑称として盲夏侯と呼んでたかは分からないからね。髯殿みたいな特徴をあだ名として使っただけってこともある。 -- 2023-11-09 (木) 08:14:03
    • 陳寿が蜀の官僚出身だから周囲にそう呼ぶ連中が多かったというのはありそう。魏や呉の官僚には張飛や関羽を酒乱とか不遜とか呼んでる奴もいそうだし -- 2023-11-10 (金) 03:54:39
      • まあ、魏へのdisりで陰口レベルの事書いた可能性も無くは無いわな。 -- 2023-11-10 (金) 09:50:13
      • ただ、夏侯惇…というか夏侯淵の縁者が西晋でも重鎮として幅をきかせているのに、露骨に夏侯惇の悪口を書けたかは疑問。やはり盲夏侯にそこまで悪い意味合いはなかったんじゃないかな -- 2023-11-10 (金) 09:55:40
      • 張飛の酒乱は演義の設定だから、まずありえないだろうな。 -- 2023-11-10 (金) 12:53:10
      • 正史張飛なら誘拐犯とかロ○コンとかか? -- 2023-11-10 (金) 14:34:53
      • 部下的には暴力野郎とかだろな。ダイレクトに被害来てる(つか死人も出てる)だろうし。 -- 2023-11-10 (金) 15:38:47
      • 夏侯惇なら捕まって人質にされた件とか、迷子になった件は馬鹿にされてそう(笑)後は衛臻にパワハラした件とか。 -- 2023-11-10 (金) 18:28:54
      • 著者のバイアスはあるよな。曹爽の部下で曹髦の寵愛も受けていた王沈が書いた「魏書」はどんな内容だったか気になるわ -- 2023-11-11 (土) 02:51:17
  • 大秦国(ローマ)との交易で、歓待してくれる大秦国王って誰だろうと思ったら、(時期によっては)カラカラやヘリオガバルスかあ… この2人からの歓待って何か嫌… というか、ヘリオガバルスの治世ってほぼ劉備の漢中王即位から夷陵までの期間なんだな… -- 2023-11-10 (金) 16:59:04
    • その2人の治世が被ってることには(全然似てないので)何とも思わないけど、コンモドゥスと董卓が同じ年に暗殺されてるのは運命に近いものを感じる。 -- 2023-11-10 (金) 18:34:58
    • 時期によっては、ローマは内乱の真っ只中だから交易どころじゃねえだろとか思っちゃうけど、せっかく何十日もかけて使節を送ったのに、内乱中で入国すらできませんでした…とか、交流していた相手が横死しました、別の相手と交流をやり直すので友好度リセットです…とかやられても嫌だし、そこら辺はゲーム的な都合と割り切るべきなんだろうな。…シナリオによっては、開始時点で国自体が滅んでるパルティアよりはマシだし(224年滅亡) -- 2023-11-11 (土) 07:23:17
      • パルティアはササン朝に入れ替えてもよかったかもね。交易品もササン朝のものとしても違和感ないというか波斯騎兵もあるし。国名も波斯でいいし。 -- 2023-11-11 (土) 11:09:23
      • せっかく三国時代の出来事だから、「安息国が滅亡し、波斯国が取って代わったようです」と簡単な報告があれば、まさに歴史イベントとしてうってつけなのに(遠国なので詳細な報告は届かなくてよい)。「交易を重ねると安息国が延命するが、波斯国に代わると友好度がリセットされる」仕様にすれば、延命させるか序盤は交易せずに波斯国の登場を待つといったプレイヤーにちょっとだけ介入できる余地を与えることもできる。 -- 2023-11-13 (月) 21:38:00
      • 波斯国は後年、大食国(イスラム共同体・イスラム帝国)に滅ぼされるのだが、唐に朝貢して援軍を要請している。流石に遠すぎたせいか太宗に断られたが、安息国がプレイヤー勢力に援軍を要請してくるifはありかも知れない。 -- 2023-11-13 (月) 21:53:16
  • 息子が自分より先に死んでいたせいで家が断絶しているけど、この人天涯孤独に近い身の上だったんかな。普通なら夏侯淵を仕留めた漢中奪取の殊勲者なんだから誰かしらに祭祀を継がせそうなのにそうならなかったってことは、祭祀を継がせられる一族がまったくいなかったという事じゃないのか -- 黄忠 2023-11-11 (土) 21:25:58
    • 原文少ない上に、注釈入れたメンツがこの人に興味なかったのかは知らんけど別史料からの注釈もないからな・・・。趙雲みたいにいち将軍にアレコレ残ってる方が変ではあるんだけど。 -- 2023-11-11 (土) 22:23:17
      • 蜀書だと関羽・張飛・馬超・趙雲らと同じ巻なのに記述が一番少ないからなぁ…楊戯の季漢輔臣賛が無かったら謎の老将で終わってた可能性も… -- 2023-11-12 (日) 01:50:49
    • 260年に黄忠を含む建国の功臣たちに諡号が贈られた時に、黄忠の家を再興する動きが一切なかったのも黄忠天涯孤独説を裏付けているというか… 同郷で同族っぽく見える黄柱は実際には赤の他人だったんだろうね。九卿(光禄勲)にまで上った黄柱に一族がまったくいなかったとは思えないし、この時に黄柱の一族が黄忠の家を再興する動きがあっても良かったはずなのに、そうならなかったんだから(まあ黄柱の一族も残ってなかった可能性もゼロではないが) -- 2023-11-12 (日) 05:54:58
  • 倭の朝貢みたいな歴史イベントがあっても良かったな。9だと南蛮とかと同じ異民族扱いで勢力として出てくるが。発生条件は234年以降で、襄平を制圧してることとか。 -- 2023-11-12 (日) 05:12:45
  • 于禁伝に欲遣使呉、先令北詣鄴謁高陵とあるけどボロボロに憔悴しきった于禁を再度呉への使者に派遣しようとするって曹丕エグイな -- 2023-11-12 (日) 14:11:04
    • 文帝様の于禁虐めの前フリみたいなもんでしょうから…。例の絵を見せたい文帝様としては、遠方に立つ仕事だからその前に曹操の墓参りしてこいという、絵を見せる為のうってつけの名分として呉への使者に任じたのではないかと。直前に安遠将軍に任命して表向き慰撫してる所もミソで、上げてから思いっきり叩き落とすという文帝様の入念な計画が見て取れますね。 -- 2023-11-15 (水) 03:59:39
      • そりゃ司馬光じゃなくても酷い行いだって言いたくなるわ~ -- 2023-11-15 (水) 19:19:04
  • しかし何十年と前線で戦い続けた劉備ほどのベテラン指揮官が立て直し困難なレベルの大敗するって、夷陵じゃ実際のとこ何が起きてたのか見てみたいよな。新進気鋭の将軍連中の統制が取れてなかったとかなんかなぁ -- 2023-11-15 (水) 15:31:47
    • 黄権の進言を除けるとか、シンプルに劉備が耄碌してたんじゃね?あと君主と軍指揮官(馮習)が別人かつ一緒にいるとか絶対面倒なことになってそう。 -- 2023-11-15 (水) 17:47:18
    • 蜀を出る前からナンバー2の張飛が死ぬとか組織的にも精神的にもおかしくなるわな -- 2023-11-15 (水) 18:48:38
    • 義弟二人や古参の簡雍が死に、戦術面で信頼を寄せていた法正もいない。精神的にも人材的にも漢中侵攻時とは違いすぎるわな。焦ったり冷静な判断がつかなくなるのも致し方なし。日本の戦国時代みたいに布陣図とかあれば木主の言うように何があったのかわかるかもしれないがなぁ -- 2023-11-15 (水) 19:14:17
    • 身内の死もあるが、曹操の死も大きそう。「これでワイが最強じゃあ!!」とか気が大きくなってたんじゃないかね。後、皇帝になって絶対負けられなくなったのも。確かに劉備はベテランだけど、本当に負けられない、負けたら言い訳すらできない戦いは初めてだったんじゃないかと思う。 -- 2023-11-15 (水) 23:58:04
    • まあでも負ける直前までは完全に優勢だったわけだしな。実際、陸遜が火計を思いつくのがもう少し遅かったら、勝ってたのは劉備の方だったから、何かしら致命的なミスがあったわけじゃないのよね。強いて言えば起用した部下に経験不足の将が多いという点が敗北に繋がったわけだけど、それって当時の人材プール的にどうしようもないところもあるしねえ。 -- 2023-11-16 (木) 00:21:45
    • 孫権もこらアカンと序盤で頭下げて来てるからあそこで一歩引けてればね。孫権からしても諸葛瑾出して駄目ならもう駄目だから腹決めますわ。 -- 2023-11-16 (木) 08:48:14
      • まさに信玄公の言う通り、勝敗は六分か七分勝てばよいってやつだな。 -- 2023-11-16 (木) 22:10:28
      • そら、ごめんで済んだら戦争になんてなってないからな・・・ -- 2023-11-16 (木) 23:09:39
      • 孫権にも言い分はあろうが劉備からするとごめんで許せる範疇を盛大にぶっちぎってるからな。しかも頭下げたと言いつつ諸葛瑾伝の言い分はそれなら謝罪というには…。騙し討ちで領土と股肱の臣を奪った側が奪われた側に言うの?それを。って感じだし。 -- 2023-11-17 (金) 01:09:33
  • ゲーム上だから仕方がないが、都市名が郡名になってるところもあるよな。とはいえ、そこまで郡名ー県名を小難しく再現するのも面倒だしな。 -- 2023-11-16 (木) 02:14:07
  • 清流派の流れを汲む貴族勢力の末路が「清流を自称しているこいつらを、黄河に放り込んで濁流にしてしまいましょう」という皮肉に満ちたド畜生発言なのほんとすき。これを言った李振という朱全忠の謀臣は、科挙に何度も落ちてたというから完全な逆恨みだし、朱全忠の命で唐の昭宗を殺した朱友恭に全ての罪を押しつけて処刑するというまんま賈充と同じ事をやらかしたド畜生ではあるが、このワードセンスだけは褒めてあげたい -- 2023-11-17 (金) 08:07:43
  • 袁紹・袁尚からの誘いは蹴ったのに、曹操からの誘いにはあっさり応じたのは部下からも怪訝に思われたようだけど、実際なんでだろうね? 袁紹が劉和を消したというのが本当なら、仕官話を蹴るのも残当ではあるんだが、わざわざ禁令を犯してまで袁尚の遺体を引き取って弔ってるから、この人袁家に悪感情はない、どころか敬愛してそうなんだよな -- 田疇 2023-11-19 (日) 08:24:53
    • 故郷を異民族から守ることが望みだから袁氏には仕官したくない、でも自分を評価(招聘)してくれたことには報いたいという士大夫としての行動やな。裴松之みたいにそれは矛盾してるだろとツッコむ気持ちもわかるが、袁氏や烏丸に故郷を荒らされたくない気持ちも自分を評価した人間の役に立てなかったことを懺悔する気持ち、両方本心と考えた方が美しいじゃろ。 -- 2023-11-20 (月) 09:37:49
      • 仕官しなかったのを再現するため嫌悪にされてるけど実際は嫌悪ってほどではなかったってことかね。 -- 2023-11-20 (月) 12:38:07
    • この人が最後まで袁家に敬意を抱いていたということは、流石に袁紹も劉和の抹殺まではやらなかった、少なくとも田疇はそう認識していたのかな -- 2023-11-21 (火) 12:47:54
      • 多分そうじゃないかな。袁煕が劉虞旧臣の離反を招いた理由を「烏丸と融和し過ぎたこと」だと仮定すれば、この人の半独立状態に劉和の扱いは無関係になるからね。 -- 2023-11-21 (火) 13:10:22
    • この人が袁尚の遺体を弔ったというエピソードでふと思ったんだが、三兄弟の中で袁煕だけ、誰かに弔ってもらったという話がないんだな。何かかわいそう… -- 2023-11-21 (火) 14:49:33
      • 袁煕の部下は殆どが幽州の人材で袁尚迎えたら殆ど居なくなったのがね… -- 2023-11-25 (土) 08:23:17
      • 幽州豪族にしてみれば疫病神を連れてこられたようなもんだがら離反されるのも残当ではあるんだが、それにしたって人望がないのは否めんな。まあ建安10(205)年4月に故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史(焦触?)・涿郡太守を殺しているから、幽州が反袁煕一色だったわけでもないようだが… -- 2023-11-25 (土) 12:32:39
      • 人間的には悪い人間では無かったんだろうが、乱世においての主君とか上に立つ者としてのリーダーシップには本当に欠けてたんだろうな。人間的にはちょっとアレな対応だが弟を見捨てて曹操に降ってれば部下諸々含めて助かる道もあったのをお釈迦にされたらそりゃ部下は離反するか。 -- 2023-11-26 (日) 02:26:16
  • 田疇の件で袁紹が抹殺した線が薄いとなると、この人がどこに消えたのか本当に謎だな。あの劉虞の息子で、父親の仇討ちを果たして儒教的な評価がうなぎ登りになってた(少なくともそうなるように仕向けることはできた)はずだから、やろうと思えば劉虞の代役にして新帝擁立プランも継続できるし、献帝擁立路線を取っても幽州支配や烏丸との関係の安定化に使える滅茶苦茶重要な駒だったはずだが… -- 劉和 2023-11-24 (金) 07:31:17
    • 閻柔や鮮于輔は官渡前後で曹操に帰順しちゃってるので、病死にせよ殺されたにせよこの時点では死んでしまってるんじゃないのかね? -- 2023-11-24 (金) 18:13:54
  • 曹操は父親の爵位を継がずに新たに朝廷に封じられてるのは庶子だったからなのかな -- 2023-11-26 (日) 03:26:01
    • 字にがっつり庶長子の証である「孟」の字が入ってるからね。曹嵩とあまり上手くいってない感じがするのも、不自然なまでに他の兄弟の話が出てこないのも、曹操が庶長子なら納得がいく。…あれ、じゃあ字が「孟起」の馬超や、「孟卓」の張邈も庶長子だったりするのか? -- 2023-11-26 (日) 08:48:54
      • 公孫瓚の例を見るに厳密な使い分けがあったかは疑問の余地あるかと(孟だけ厳密なのも有り得るね、そのほうが面白い) 曹操の兄弟は別に不自然でもなく、諡号に軒並み不憫な人扱いの哀を送られているんで恐らくは曹嵩の巻添えで大半が死亡してるだけだと思われる。唯一違う曹彬も、曹均が薊恭公の跡を継いだという点から見て魏王即位前には死んでるのかも、事績薄いのは諡号が儀礼を取り仕切るや父祖への敬意を表す恭な事と、他に近い宗家筋がいない事から、実家の方にいて残った親族の面倒見てた辺りなのかなあと推測する、魏の孫静みたいな感じで。 -- 2023-12-02 (土) 10:39:18
  • 劉焉・劉璋政権の軍事の中核を東州兵が担っていたことから考えると、出身地が明記されていない高沛・楊懐・劉璝・冷苞らは中原から流れてきた東州兵出身の叩き上げと思われる。こいつら…というか東州兵は劉璋が滅んだら居場所がなくなって破滅するしかないから死に物狂いで戦ってたし(劉璋が降伏を決意した時点でもまだまだ戦意旺盛だったようだ)、そうなるのを分かってたから劉備も高沛・楊懐は騙し討ちにしたんだな。道理で劉備が苦戦するはずだわ。死兵を相手にしてるようなものだもの -- 2023-11-27 (月) 10:28:29
  • 黄皓のwikiに正史でも最後は鍾会の反乱時に殺されたみたいな風に書かれてるけど、そんな事正史に書いてあったっけ?賄賂渡して殺されずに済みましたで終わりだったと思うんだけど -- 2023-11-28 (火) 11:58:48
    • 少なくとも三国志関連に関しては、wikiは明確に出典書いてないことは気にしない方がいい。アニメ設定が本人にフィードバックされてしまう世界だ。 -- 2023-11-28 (火) 12:05:45
    • 2022年6月17日に追加された記述ですね。その後もそこの記述だけなんども加筆されてる。現在は修正されてますが、没年も不明から勝手に変更していたようです。出典ない以上は書いた人の憶測でしょうね。 -- 2023-11-28 (火) 12:15:03
  • 昔から弱くはないが強くはないというステータスで事績も地味なんだが、丁原が中央とのパイプ作るために送り込んだり蹇碩に気に入られて西園軍の仮司馬に任命されたり董卓が懐柔策を取ったりと割りと扱いが大物なのでもう少し評価されてもいいと思う -- 張楊 2023-11-28 (火) 19:10:21
    • 有力者/有名人からの評価が良かったから中堅以上に能力あげようぜ!ってやるとかなりの対象者が出てきてしまうと思う。つか今回個性で十分有能枠やろ。 -- 2023-11-28 (火) 19:54:08
  • 献帝を勝手に死人扱いしたうえに、くそみてえな諡(孝愍皇帝)を贈ってるのほんとひで。献帝死亡の誤報を本気で信じ込んでたのか(魏国内にも献帝が殺されたと思い込んだ粗忽者がいたぐらいだし)、それとも信じたふりをしてたのかは分からんが、どっちにせよずーっと誰かの傀儡になってる献帝にあまり良い感情は持ってなかったんだろうな… -- 劉備 2023-12-02 (土) 14:03:26
    • 魏に正当性を与えるくらいなら禅譲断り続けて本当に殺されとけって感じだったんかねぇ -- 2023-12-02 (土) 14:23:36
    • クソ諡ではなかろう、あわれみなんだから。大体その理屈だと魏は曹昂、夏侯淵、李典なんかも于禁したことになってしまう。傀儡だったことに不満あったのはありそうだけど。 -- 2023-12-02 (土) 15:07:00
      • 『逸周書』に載る「諡法解」によれば、皇帝に贈られる「愍」は「在國逢難(在位中に様々な災難に遭う)」「使民折傷(多くの民が死ぬ)」「在國連憂(内憂を次々に引き起こす)」「禍亂方作(動乱を招いて、多くの死者を出す)」とろくでもない意味のオンパレードだから間違いなく悪諡だぞ。一方で「孝」は「五宗安之(五宗《先祖代々、子々孫々》を安泰にする)」「協時肇享(祭祀を怠ることのない)」「秉徳不回(徳に従い、これを撤回することがない)」「大慮行節(符節を与える際に、大いに慮る)」と美諡だから、前半で持ち上げつつ後半で落とすという無駄に器用なことをしてる -- 2023-12-02 (土) 15:52:52
      • 美諡と言えないのは確かだけど、"在國逢難 (在位中に様々な災難に遭う)" なら悪感情を込めているわけではないのでは。献帝が後漢末の混乱の元だ、という言説は聞いたことないし、、、 -- 2023-12-02 (土) 17:28:09
      • いや、漢王朝において考は二代目以降は必ず付けるのよ、その人の事績とは無関係でつける。だからかいつの間にか中国でも省略されて書かれてるらしい(それがそのまま日本に来た)。だから例えば霊帝も本来は考霊帝、恵帝も考恵帝が正しいらしいのよ。なので当然献帝も考献帝だよ、これは明帝伝にもちゃんとある。諡の考察してる記事ですら知らないのか見落としてるのかわからんが「劉備が二文字とも選んでつけたんだよ!」とかあまりにショボい事を書いてんのも見たことあるくらいではあるけども…… -- 2023-12-02 (土) 18:03:04
      • 「孝」の字を無視していいのなら、やはりこれは悪諡か。まあ同じく愍帝の諡を贈られたのは司馬鄴(劉曜に奴隷扱いされた挙げ句に殺された西晋のラストエンペラー)だしなあ… -- 2023-12-04 (月) 10:05:19
      • 劉備に対する悪意でもあるのかしらんけど、本当に嫌がらせなら孔明や許靖辺りが止めてるだろう(こういう故事に関する事を劉備個人で考えられたかな?という疑問)でもって劉備の捻くれでないなら、なぜ諡をこれにしたかの憶測だけど愍が皇帝含めた君主への使用例がほとんどなく、光武帝の愉快な仲間たちにいるように臣下には見られる事を踏まえるなら諡に使う自体は悪諡ではないのだと思う、でないと功臣を罵る事になる。なので恐らくは「愍む」という字義そのものが目上を憐れむ事になるので、例え暗殺されようと君主には使われなかったのではないかってのと、だからこそ国を奪われた事を憐れむって事に繋がるのかなと。 -- 2023-12-04 (月) 14:39:14
  • 演義モードだけでなく正史モードもほしくなる -- 2023-12-03 (日) 20:46:06
    • なんだかんだで演義は大筋は正史準拠だから、武将の能力ちょっと変わるくらいになりそう。存在しなくなるとか含めて。あと武力と一騎討ち削除して孫策のはイベントにするとか長距離遠征のリスク(兵站とか疫病で)跳ね上げるとか?やって楽しいかはわからん。 -- 2023-12-04 (月) 13:12:32
      • 逆に多少の能力変化程度に留めておかないと結構な数の要素が消えちゃってもはや別ゲーになりそう。 -- 2023-12-04 (月) 18:08:05
    • 諸葛亮が政治100・知力80台になったり劉禅が初期作並の能力になったりしてそう -- 2023-12-04 (月) 19:21:09
      • 諸葛亮の知力は落ちても95くらいだろう。鍾会や陸遜は呂蒙と同じくらいまで落ちても不思議じゃないけど。 -- 2023-12-04 (月) 20:06:01
      • 初期の劉禅は魅力92、93あったんだな。流石に今後の作品で正史の影響が強くなっても、劉禅の魅力もそんな高い数値になることはないだろうな。 -- 2023-12-04 (月) 20:31:29
      • 正史諸葛亮は演義諸葛亮とは別ベクトルで化け物だからな。くっそ重い荷物を背負ってあの蜀の桟道を通って秦嶺山脈を越えるとかいういかれた行軍に特に曹操との因縁のない益州民を駆り出し、反対意見を無視して抜擢人事を強行した挙げ句に大失敗しても「諸葛亮おろし」の動きすら発生させなかった人心掌握・政治力の凄まじさよ -- 2023-12-04 (月) 20:41:38
      • 洗脳やってたとか実は妖術とか言われる方がまだ納得いく謎の凄さなんだよな・・・ -- 2023-12-04 (月) 21:49:23
      • そう考えると諸葛亮の一番凄いところは、司馬懿すら打ち破る統率力でもなく、劉備を一国の主まで導いた知力でもなく、管仲や晏嬰に並ぶと称えらえた政治力でもなく、その圧倒的な支持を可能にした人としての魅力なのかもな。ぶっちゃけ100年後の桓温の頃までなら理解出来るけど、500年後の唐代ですら現地の民衆に愛されるって、どんな善政をすればそんなことが可能になるのか想像すらできないし。 -- 2023-12-05 (火) 00:26:27
      • 昔、正史三国志の文庫版が揃った少し後に、天舞三国志正史っていう名前通りに正史のみ反映したのがあったんだよね、クソゲーだったが。でもデータは面白くてその当時でも諸葛亮が貫禄の政治最大にされてて昔は演義しか知らんので???だったが今思えばよく読んでたんだなあアレ(ちなみに16段階、謀略はカク先生が高かったはず) まあ勿論解釈の問題なのか評価おかしくね?な人もいたり趙雲が第一次北伐でいなかったりしたけどさ… -- 2023-12-05 (火) 01:01:36
    • 正史だけだとわからないところとかあるから困る。演義は物語だからで済むけど正史は勝手に補完するわけにはいかないし。 -- 2023-12-05 (火) 01:21:38
      • 魏呉の盛られまくってる・下げられまくってる連中、やたらと記述が簡素な蜀の元勲たちがねえ。補正しようにも万人が納得するものは絶対にできないだろう。 -- 2023-12-05 (火) 18:33:32
      • 陳寿の本文(あるいは范曄『後漢書』、房玄齢他『晋書』の本文)だけが「正史」という事になるが、大半の武将は裴松之注他の文献で補完せざるを得ないから、どうしても評価のブレは発生する。想像の余地が大きいともいえるので、そこはどの文献を採用するかも開発者の腕の見せ所といえる。 -- 2023-12-08 (金) 15:27:01
      • たとえば孟獲は、陳寿の本文には全く登場しない。裴松之注で、習鑿歯『漢晋春秋』から孟獲が南中の有力者である事と七縦七擒の逸話が、『襄陽記』から馬謖の「心を攻めるが上策」という進言の結果、孟獲が服属した逸話が拾い出せる。また常璩『華陽国志』は裴注に引用されていない部分も現存していて、そこから蜀漢に離反した雍闓が部下に殺された後、代わって擁立されたこと、蜀漢に降伏後に御史中丞まで昇進したことが分かる。 -- 2023-12-08 (金) 15:42:00
      • 孟獲は複数の文献で事績が繋がるからまだいいが、矛盾する記述がある武将は珍しくない(顕彰や、逆に貶める目的で嘘を書かれることは珍しくないから)。それでも、日本の戦国時代に比べれば、読むべき文献は限られるからまだマシだろう。 -- 2023-12-08 (金) 15:44:25
  • 王朗や韓浩、鮑信あたりは正史か演義かで180度違うからな -- 2023-12-04 (月) 21:34:55
    • 毛カイなんて何故か水軍だぞしかも拝命シーンしか出番がない、韓浩は歴代能力見るとスタッフが正史を調べ始めた所がわかりやすいからある意味貴重な人材 -- 2023-12-05 (火) 01:12:31
      • 韓浩が変わったのは三国志5だったな。他にも高順がモブグラ脱出したのも5だったなあ。 -- 2023-12-05 (火) 18:30:39
    • 王朗は自分を散々ボコボコにした孫策に助言するとか、なかなかできるもんじゃないよなぁ。大抵の人なら口も聞きたくないとかなるだろうに -- 2023-12-06 (水) 18:47:01
  • 曹丕の「劉備は戰のやり方を知らぬ」という言、よくおま言う的に言われるけど、三度呉を攻めて一度も勝てなかったが撤退には成功して国体を揺るがすほどの大敗もしなかった曹丕と、孔明がいなければそのまま国が滅んでいたであろう大負けをやらかした劉備じゃ曹丕の方が戰上手に見える。 -- 2023-12-05 (火) 03:40:49
    • そんな悪意のある切り取りされたら流石に劉備かわいそう。親の力で魏王になって格下相手に勝てない曹丕と流浪の身から武力で荊州巴蜀を領した劉備では総合的にみても明らかに劉備の方が上だと思うが。 -- 2023-12-05 (火) 09:53:24
    • そこだけ切り取って比べるのはどうかと思うが、皇帝の戰としては劉備アカンやろとも思う。 -- 2023-12-05 (火) 10:43:10
    • まず曹丕は劉備と比較すればまともな勝ち戦が一つも無い。また最終的にはどちらも敗北ではあるけど、火計によって破れる直前まであの陸遜を一方的に叩きのめして連破してた劉備と違って、曹丕は負けるまでの内容もお粗末極まりない軍事行動しかしてないからな。 -- 2023-12-05 (火) 11:01:21
    • 曹丕は楽にに撤退できるような戦しかしていない気が…そもそもちゃんと戦したの最初だけなのでは -- 2023-12-05 (火) 11:18:43
      • 3回目なんて「川が凍ったので蒋済に後始末押し付けて帰還した、ついでに病気貰ってきてそのまま死んだ」だもんな、戦ってなんだっけ -- 2023-12-05 (火) 11:51:48
      • しかも事前に蒋済に水路は使いづらいぞと警告されてた(蒋済は広陵出身だから、広陵周辺の地理を熟知していたのだろう)のにこの体たらくなので、まったくフォローしようがない -- 2023-12-05 (火) 12:18:34
      • 1回目もWikipediaでは陣頭指揮を執ったとか書かれてるけど、実際は宛まで来ただけで前線には参加せずに後方から督戦してただけだしね。陣頭指揮って何だっけってなっちゃうなあ。 -- 2023-12-05 (火) 12:20:06
      • いうても皇帝の親征としてはそれが普通だとは思う。現場で部隊指揮する方がおかしいんや。 -- 2023-12-05 (火) 12:56:12
      • まあ現場についてもパパ様に率いられて参戦してた(はず)なので、その経験からうちのパパや伯父さんのほうが強かったぜ!くらいの可能性も… -- 2023-12-05 (火) 13:10:40
      • 光武帝「皇帝が現場で」唐太宗「部隊指揮をするのが」永楽帝「おかしいだと!?」 -- 2023-12-05 (火) 18:04:26
      • 君たちは皇帝が指揮官やってるというよりは指揮官上がりの皇帝だからさ。。。創業期以外の皇帝で前線で暴れてるようなやつはさすがに思い当たらないが、誰かいたっけ? -- 2023-12-05 (火) 18:42:31
      • 清の乾隆帝がベトナム・ビルマなど10の地域に遠征して(十全武功)、全て勝ったとして「十全老人」と自称して自画自賛してたな。なお実際にはベトナムとビルマにはボコられていた模様 -- 2023-12-05 (火) 19:10:45
      • 永楽帝が創業期の皇帝なら、そもそも曹丕だって創業期の皇帝じゃないかと思うんだ。それが戦場に中途半端に出てきてはロクに戦いもせずに、ただ敗戦に関与するだけで撤退を繰り返してるという。自信が無いのか能力が無いのか、あるいはその両方か。いずれにせよ家臣からすれば都で大人しくしてろと言いたくなること必定だろうなあ。曹丕の意外と親切だったり友情に厚かったり、グルメだったりロマンチストなところは好きなんだけど、軍事に対する適正の低さと度量が狭いところだけは擁護できん。 -- 2023-12-05 (火) 19:44:54
      • 曹植のシンパ、特に丁氏がイキれたのは曹操と丁夫人の関係にもよるだろうから早目に排除しないと兗州やらが落ち着かなくなりかねんから、正直潰されてもしゃーなしってところだけど、泰陵や鮑勛辺りの話は本当にお前さあ…だもんな。 -- 2023-12-05 (火) 23:38:07
      • 永楽帝は靖難の変で勝っての即位だから実質新王朝開いたみたいなもんだってことでしょ。曹丕は初代皇帝ではあるけど実質曹操が初代みたいなもんだし。 -- 2023-12-06 (水) 01:29:08
      • 永楽帝にとっての靖難の変が、曹丕における呉蜀討伐だったんじゃないかね。それが単に失敗しただけでなく、君主本人が繰り返しお粗末な行動しかできなかったというのは、創業したばかりの王朝の求心力には大きな痛手だったろう。 -- 2023-12-06 (水) 22:40:25
    • チェンウェン三国志だと曹丕のが統率高い(劉備や関羽が低い) -- 2023-12-05 (火) 17:05:09
      • 曹仁や夏侯淵より統率が高い名将曹丕 -- 2023-12-05 (火) 19:24:18
      • 軍の規模によって必要な能力が変わる感じだったっけ?小部隊なら武力だけでいいけど規模増すと統率や知力が要るようになる感じの -- 2023-12-06 (水) 01:39:27
    • 在位五年であの数々のやらかしだから下手に長生きしてたら呉蜀に負けてたんじゃないかと -- 2023-12-05 (火) 22:12:18
      • 人材も国力も健在だし他国もその間にやらかすわけだから(特に呉)その程度で覆るほど魏は弱くないと思うが、曹叡ほどには諸将を統率する動きは出来なさそうではある。だだ一方で内治の才を存分に発揮して却って国内を強固にしてしまうかも知れない。 -- 2023-12-06 (水) 15:55:13
    • 言うても魏だって朱然朱桓に負ける程度の体たらくだったし、あの時の呉が強すぎたんじゃねえの。 -- 2023-12-06 (水) 20:37:36
      • 援軍は撃破済み+内通者あり+疫病+食糧不足+攻め手が曹真・夏侯尚・賈詡・辛毗・董昭・張郃・徐晃・満寵・文聘 …これで江陵が落ちないのは朱然が化け物なのか、魏軍が不甲斐ないのか判断に困るな -- 2023-12-06 (水) 21:12:48
      • まあ魏は最強の司馬懿を留守番させてたという痛恨の極みやらかしてたから。徐盛の策だって司馬懿なら見破って呉滅ぼしてたかもしれなかった。 -- 2023-12-06 (水) 21:26:17
      • この当時の司馬懿はまだ経験も殆どなくて最強とは程遠いぞ。まともに軍事に参画したのは曹叡の代になってからだけど、229年に魏が呉へ大攻勢をかけた時には荊州で盛大に水軍を用意して、さらには支援戦力として雍州から張コウと関中軍まで呼び寄せておきながら、季節による水量の増減を計算に入れ忘れて戦線に加わる事すらできなくなるという特大のヘマをやらかしてる。初期の司馬懿は曹丕と同レベルの拙劣さだよ。 -- 2023-12-06 (水) 22:00:02
      • ↑3 後の羅憲の例を見ても分かるように城を守るのに充分な戦力と優秀な指揮官がいれば、攻め手の指揮官がいかに優秀で大軍でも城を陥落させるのは難しいんだと思う。 -- 2023-12-06 (水) 22:15:08
      • ↑その理屈だと圧倒的に優位だった蜀は漢中どころか成都まで落とされて、どんだけ無能やねんってなるんだが -- 2023-12-06 (水) 22:43:12
      • ↑ 兵力では魏が大きく上回ってたから蜀が圧倒的に優位というのは完全に事実誤認だね。それでも姜維は鍾会の大軍から剣閣を守り切ったから、成都にも姜維クラスの指揮官がもう1人いれば鄧艾にも対処しきれたかもな。いずれにしても朱然の江陵防衛や羅憲の永安防衛みたいに1つの城だけを守ってればいい戦いとは全く異なるんだから、同じ理屈で考えても意味がないよ。 -- 2023-12-06 (水) 22:54:25
      • そもそも恐らくは峠越えてくる敵を抑えるための城を落とせなかったし、抑え置いて本隊はスルーして漢中行こうぜ!されてる段階で厳しい -- 2023-12-06 (水) 23:04:35
      • 羅憲がいれば守りきれた可能性がワンチャンあった?呉相手してたから無理なたられば論だけど。 -- 2023-12-06 (水) 23:14:13
      • どっちにしても朱然や羅憲の例とは条件が違い過ぎて、同じ理屈で考えても適切な評価にはならんわな -- 2023-12-06 (水) 23:29:27
      • でも相手してた武将の数と質は朱然の方がヤバかったよな。 -- 2023-12-06 (水) 23:31:17
      • 強いのは長江と疫病・・・ -- 2023-12-07 (木) 00:29:39
      • ↑2 だから結局は城を守るのに充分な戦力と優秀な指揮官がいれば、攻め手の指揮官がいかに優秀でも城を陥落させるのは難しいんだろう。ただそれはあくまで点を防御する場合の話で、面を防御しなければならなくなると途端に話が変わってくる。 -- 2023-12-07 (木) 00:30:04
      • ↑×5 無理じゃね?何の軍事実績もない文官じゃないか当時の羅憲。軍の指揮とか任せてもらえんだろ。 -- 2023-12-07 (木) 00:30:59
      • この時の南征は文帝紀では南征したとだけ書いてあって結果には一切触れられていない。触れてはならないくらい曹丕にとっての失点だったし魏がダメダメだったんだろう。 -- 2023-12-07 (木) 08:24:34
      • ↑4疫病は攻め手だけじゃなく守り手にも平等に牙をむくから…(白目) -- 2023-12-07 (木) 08:43:45
      • 平等じゃないよ。攻め手は領地に戻ってそこで広げるからね。 -- 2023-12-07 (木) 12:53:45
      • 某所でも推測されてたけど曹丕の南征直後に魏で大規模な疫病起きてるからな、タイミングとしてお持ち帰りの可能性は本当にあると思う -- 2023-12-07 (木) 12:56:08
    • あのザマを見たらそう言われてもしょうがないくらい結果や事実は大きいけど、歴史好きはifを語るのが大好きだからなあ -- 2023-12-08 (金) 16:22:22
      • 単に結果だけしか見れない人と内容まで理解できる人とで評価が分かれるだけだろう。トータルの戦績を正しく評価できるか、失点だけをあげつらうかでも分かれる。 -- 2023-12-08 (金) 19:42:26
  • 劉封が蜀漢陣営に残ったまま生き残るifを考えてみたんだが、たとえ関羽を救出(これ自体が無理ゲーだが)できたところで、どうやっても諸葛亮との政争が避けられないのが詰みポイントだな。史実において、馬謖のやらかしという特大の汚点があっても失脚しなかった男をどうやったら追い落とせるというのか。諸葛亮を倒せたところで、今度は諸葛亮とその子飼い抜きで国政を担うという罰ゲームが待ち受けているのがどうしようもない -- 2023-12-09 (土) 05:56:54
    • 陳寿は尊敬する諸葛亮のドロドロした政争部分を書かなかったためいきなり蜀の全権を握っていて不自然、って話もあるけど丞相はそっちも相当強そう -- 2023-12-09 (土) 17:12:26
      • 龐統と法正が戦死しなかったらどうしてたのかは気になる。劉備いなくなった後だと軍師同士の対立あったかもな。 -- 2023-12-09 (土) 17:32:58
      • 諸葛亮の能力は軍略向きではないので内政や兵站、人材育成などで前線の龐統法正を後方からサポートする役割に専念できていれば… -- 2023-12-09 (土) 17:38:26
      • その二人は結構な火種になりそうで面白いねえ。特に法正は存命時諸葛亮の上位者だから独裁体制に入れない可能性まである。 -- 2023-12-09 (土) 17:48:12
      • 龐統はともかく、法正は諸葛亮と本気で政争やったら案外さっくり排除されそうな気がしなくもない。素行がアレだから諸葛亮が付けいる隙は多そうだし、そんなんだからか人品・素行ともにアレで勢力基盤も脆そうな友達(孟達・彭羕…)しかいないもの -- 2023-12-09 (土) 18:04:35
      • お友達が多いのは強いよね。やっぱ孔明さんはパリピだったのかな?法正は陰キャかDQN。 -- 2023-12-09 (土) 19:20:38
      • 徐庶もいれば潤滑油になってくれそう。史実での能力はよく分からんけど元893の武闘派軍師だから蜀にうってつけの人材だったのになあ。 -- 2023-12-09 (土) 19:38:06
      • 大事なのは、法正いると恐らく劉備臨終の時に「孔明に全部任せるわ」って言われないであろう点かなあ。 -- 2023-12-09 (土) 19:50:40
      • っていうか法正は魏延や馬謖みたいに劉備じゃないと上手く使えない系な気がするし、蜀はそういう武将だらけだったのが最大の弱点っぽいよなあ -- 2023-12-09 (土) 21:23:00
      • 諸葛亮は法正の死を惜しんでるし、生前も性格的に合わない点は間違いなくあっただろうにもかかわらず、蜀科の制定で協働したり、その品行に対しても妥協して目を瞑ったり出来てたから、そこまでお互いに排斥し合う関係になったとは考え難いな。龐統に至っては荊州人士筆頭格の名門で友人兼遠縁の親戚だから、むしろ生きててくれたら諸葛亮的には大歓喜だろう。 -- 2023-12-09 (土) 22:22:13
      • 法正生きてても諸葛亮に全部任せると思うけどな。法正は李厳と同じくらいになりそう。 -- 2023-12-09 (土) 22:39:54
      • 法正の対魏スタンス次第ではそこも問題になるかな?第一次北伐は兎も角、それ以降がどうなるかしら。 -- 2023-12-09 (土) 22:41:24
      • そもそも魏や呉と比べると名士・豪族が弱体で権力構造がシンプルだから対立軸そのものが乏しいからね。せいぜいが北伐に対する賛否くらいだけど、龐統や法正が生きてたとして他州出身で益州に権力基盤が無い彼らが反対するかといったら、可能性は低いだろう。それに法正は仇には必ず報復するが、恩にも必ず報いるという人だから、劉備に受けた恩に報いるために、積極的にその遺志を遂げる方向で動くように思える。 -- 2023-12-09 (土) 23:38:32
      • そうすると今度は劉備の遺志is何って話になるのよな。孔明は戦争のための戦争をしてまで魏に喧嘩売り続けることと解釈したけども、余人はどうなるか。 -- 2023-12-10 (日) 02:43:52
      • そりゃ劉備の遺志は中華統一と漢朝再興でしょ。そのための打倒曹魏だしそれを諸葛亮に託したんだから劉禅含めてみんな諸葛亮に従えというのが劉備の遺言。 -- 2023-12-10 (日) 03:09:35
      • 劉備の遺志ならまず真っ先に呉を倒して関羽の仇を取って欲しかったろうに、と思ってしまうので結局は諸葛亮の志だった気がする。でもまあそれはそれで美しい話。 -- 2023-12-10 (日) 04:36:16
      • ↑×2 正史で中華統一とか漢朝再興を戦直前の景気づけ系以外で劉備が言ってたところって何処だっけ・・・? -- 2023-12-10 (日) 16:28:49
      • 天下三分の計自体が漢朝再興&天下統一を目的としたものだからなあ -- 2023-12-11 (月) 01:00:39
    • どちらかといえば蜀よりも曹操が早死にしてた場合の魏の首脳陣あたりの権力争いの方がよっぽど危険だろう。荀一門が健在な状態の穎川閥とか、朝廷内に残ってる漢室支持派とか魏諷の乱の関係者とか、曹操が根こそぎ掃除していった連中が残った状態で董昭や曹氏・夏侯氏の親族連中や丁氏などの縁戚関係にある有力者と乱立するという、蜀や呉が可愛く見えるカオスな権力構造になるんだから。オマケで郭嘉あたりが長生きしてたら、間違いなく陳羣あたりと本気で衝突してるだろうし。 -- 2023-12-09 (土) 22:40:32
      • 曹操はまあ、どの段階かにもよるけど、早死にしたら勢力瓦解以外ないからあんま考えても仕方ないかな・・・ってなる -- 2023-12-09 (土) 22:44:34
      • 上記の過程は魏公就任前後くらいを想定して書いたけど、下手したら袁家の二の舞になりそうな感はあるな。 -- 2023-12-10 (日) 00:24:02
      • そうか?さすがに曹丕と司馬懿ら四友は袁家の息子たちとは違うと思うが -- 2023-12-10 (日) 00:58:05
      • 曹操が明確に後継者を指名せずに死んだら曹植に付く、日和見する有力者はかなり出ると思うよ。曹丕は近しい人間以外からはかなり人望ないからね -- 2023-12-10 (日) 05:36:44
      • 曹彰だって戦の活躍があるから側近たる部下はいたわけだし、第三勢力として日和るなり反乱起こすなりは分裂シナリオじゃなくても不思議ないしなあ -- 2023-12-10 (日) 12:50:08
    • このifの何が辛いって、蜀漢の中期・後期を支えたネームドは当然のことながら諸葛亮の派閥に連なる人間が多いから、そいつらが纏めて使えなくなる可能性が高いということ。特に文官系の人材の枯渇が深刻で、中央で劉封を補佐してくれそうなネームドがまったく思い浮かばない -- 2023-12-10 (日) 08:01:32
      • なんなら黄忠も姓を考えたら孔明コネクション故に降伏してくれたかもしれんのだよな… -- 2023-12-10 (日) 12:57:49
      • この世界線だと諸葛亮による北伐もないから、たぶん姜維も魏に残ったままだろうな。まあ姜維にとってはそっちの方が幸せかもしれんが… -- 2023-12-10 (日) 15:52:21
      • 地元で平穏に暮らすのと、自分の能力を発揮して志に命をかけるのと、どっちが幸せなのだろうか。自分なら絶対前者だが姜維ほどの男なら… -- 2023-12-10 (日) 16:14:31
      • 姜維って親置いてよく蜀に降ったよな。親殺されてたら馬超の二の舞でもっと叩かれてたろ。 -- 2023-12-10 (日) 18:27:26
      • 姜維は下手しなくてもどこかで異民族対策で駆り出されたと思う、生き残れたら出世出来そう -- 2023-12-13 (水) 13:33:21
      • 劉封が生き残って南蛮で独立なんてifシナリオの妄想考えた事あるけど付き従う人材に悩んだ。南蛮勢に加えて一応は諸葛亮時代に失脚した李厳と廖立は思い浮かんだけど -- 2023-12-13 (水) 19:01:28
      • その二人は最終的に身から出た錆で失脚したとは言え寧ろ諸葛亮シンパなので劉封に付く理由無いのでは…劉封助けてくれそうな奴が本当に誰もおらん -- 2023-12-17 (日) 17:55:55
      • 無理ゲーの関羽救出を成し遂げれば、関羽と関興がそれを恩に感じて劉封の後ろ盾になってくれる可能性がうっすらあるくらい? まあ関羽が生き残ったところで荊州失陥の責任を問われて影響力がかなり落ちてそうだし、関羽と関興に果たして寿命がどれだけ残ってるのかという問題があるが… -- 2023-12-17 (日) 19:32:58
      • 孔明「あの状況から関将軍を救出するとは類まれなる軍才。やはり危険ですね・・・!」 -- 2023-12-18 (月) 02:06:44
      • 関張ファミリーと魏延あたりが仲間になって、益州と荊州に分かれたら綺麗に二分な感じやね(他人事) -- 2023-12-18 (月) 02:18:07
      • この際、軍師李邈とかありかなとか思っちゃった -- 2023-12-18 (月) 03:03:59
      • 関羽と一緒に潘濬も連れてこれればワンチャン…と思ったけど、この人蒋琬の妹婿だから諸葛亮派閥だよなあ… -- 2023-12-18 (月) 07:54:13
      • ↑4 別に諸葛亮は能力を危険視して劉封を除いたわけじゃないからなあ。どれだけ能力が高くても大人しく劉禅に従うような人柄であれば生き残れた。 -- 2023-12-21 (木) 17:20:58
      • もともと警戒されてたのが大功立てたら余計危ないねって話だろうに -- 2023-12-22 (金) 18:02:15
      • そもそもの話題が劉封がいかにすれば生き残れるかで、劉封が除かれた理由は劉禅に従わないのではないかと危惧されていた状況にありながら、関羽敗死の一因・孟達離反の一因・房陵失陥の責任、以上の失点を重ねてしまったことなので、劉封が関羽を救出した上で劉禅に大人しく従うような人物なら、劉備も諸葛亮も劉封を処分する理由がなくなる。両者とも曹操や司馬懿みたいに罪を捏造してまで執拗に謀殺する様なタイプじゃないしね。 -- 2023-12-22 (金) 21:42:22
    • そもそも劉備はなんで養子にしたんだろうな。劉封の気性も当然わかっていただろうし、すでに阿斗ちゃんもいたし、後継者争いになる可能性も大いにあるのに。 -- 2023-12-10 (日) 09:33:07
      • あ、正史は劉封が先か。(自己レス失礼) -- 2023-12-10 (日) 09:38:01
      • その頃は荊州で根無し草やってて、明日をも知れぬ身だからそんなの気にしてられなかったんだろう。起きるかもわからん(そもそも「後継者」が必要な状態で生き残れるのかもわからん)後継者争いよりも、長沙劉氏の後ろ盾を得るのを優先したんでしょ -- 2023-12-10 (日) 10:04:30
      • 劉禅に兄が少なくとも一人居た事は、『先主伝』で呂布に2回、曹操に1回妻子が捕まったと書かれている事で明らか。呂布に捕まった時は帰って来たが、曹操に捕まった後の消息が無いので、当然処刑されたのだろう。そもそも妻子を捨てて逃げるのが劉備の生き方だったから、跡継ぎをやっと考えられるようになったのがこの時期だったのだろう。 -- 2023-12-14 (木) 13:09:45
      • 曹操に捕まったってのは、徐州再奪取後関羽が曹操に降ったタイミングのことですかね?長坂じゃないだろうし。そういや糜夫人も正史じゃ徐州で曹操に捕まっていこうの記述がなかったし、一緒に処刑されてたりして -- 2023-12-14 (木) 21:02:39
    • 諸葛亮が失脚したら、おそらく呉との再同盟も無理だろうね。というか諸葛瑾を使えるというアドバンテージがあるとはいえ、先帝や関羽の仇と再同盟することや、孫権が称帝することを国内で受け入れさせた史実の諸葛亮は本当になんなんだこいつ(驚愕) -- 2023-12-11 (月) 13:45:05
      • 兵含め古参がほとんど死んで、できなきゃ亡ぶだけだから、まあ・・・。 -- 2023-12-11 (月) 20:12:43
      • 逆にそのタイミングじゃなかったら孫権が皇帝自称したらまず間違いなく決裂してたな -- 2023-12-14 (木) 09:38:01
      • どーだろ。魏にケンカ売り続ける以上、呉の存在は必要だから折れたと思う。 -- 2023-12-14 (木) 10:58:51
      • 諸葛亮が死んだら劉禅がこれ幸いと即降伏する可能性もある。蜀の民にとってはそっちのほうが幸せかもしれんし。 -- 2023-12-17 (日) 14:40:53
      • 魏の統治下になれば下手すると屯田民としてアホの様な超重税をかけられかねんし、呉ほどではないにせよ蜀よりは豪族がかなり強くて搾取される可能性もあるから何ともだな。 -- 2023-12-17 (日) 17:54:07
      • 呉が健在なのに蜀みたいな僻地にそんな重税とかやったら反乱再独立不可避だし、さすがにないと思う。 -- 2023-12-17 (日) 19:52:41
      • 三国どこも戦時体制で負担キツイし、乱世終結までは大差ないと思う。 -- 2023-12-17 (日) 22:37:11
  • しかしいくら記載が出る年代がそうだからといって、夏侯楙が夏侯淵戦死頃に16歳は三国志3のとりあえず登場した時に元服みたいな雑設定だと思いますよ、光栄さん… -- 2023-12-16 (土) 06:03:13
    • 現状の201年生という設定だと夏侯淵戦死の時点で19歳だった事になるけど、それじゃいかに親の七光り感漂う人事とはいえ関中の軍を任せられるには貫目が足りない気がするし、嫁の清河長公主がかなりの姉さん女房だったことになっちゃうから、夏侯淵戦死の時点で最低でも30歳ぐらいにはなってた(=190年頃よりも前の生まれ)と考えるのが自然かしら -- 2023-12-20 (水) 20:02:27
      • 魏の二世系とか曹真とか全体的にもっと早く登場していいのにな(バランス更に崩れるが・・・) -- 2023-12-21 (木) 00:14:04
      • 二世系、逆に出るの早すぎ説があるのは曹休。反董卓連合軍よりは後だろって話があるし -- 2023-12-21 (木) 12:52:14
      • 文帝(まだ幼児もいいとこ)と一緒にいたよってのがあるし、曹昂の存在をなかったことにするわけでもないのなら、恐らく兗州に拠点を貰えた後に合流して、その時に年齢いってて10代なかばくらい?のはほぼ間違いないとおもうんだよな、曹休曹真の二人共 -- 2023-12-22 (金) 16:31:05
      • 演義で反董卓にちらっと名前出てたとかはないのかな?言ってて私も記憶はないが。 -- 2023-12-22 (金) 18:23:09
      • 吉川英治三国志見てきた、演義だと曹休は金イの反乱のとこで防衛参加、曹真は魏の建国後に曹丕の3方面作戦(演義版)辺りが初登場かな?その後大将軍や都督任命されたりして後はご存知の活躍()になる -- 2023-12-25 (月) 00:50:40
    • 雑登場といえば魏に限らず例えば孫堅軍にも孫静、黄蓋、祖茂、周瑜とかいう怪しいのが居やがりますね -- 2023-12-21 (木) 17:44:18
      • 黄蓋は状況的には孫堅が長沙太守の時に孝廉に推挙して登用、でいい気がする。そうなると黄巾の乱にはいないはずだよね -- 2023-12-21 (木) 19:44:11
      • 周瑜も史実では孫堅に従ったことはないしね。演義でも孫堅時代にはいなかったような気がするが。 -- 2023-12-21 (木) 20:34:42
      • 孫静も地元を守っていたと言えば聞こえはいいけど、これ放蕩兄貴が飛び出したせいで実家を纏めざるをえなくなっただけじゃないかという感じが(要は曹仁・曹純兄弟と同じような関係)。孫堅が死んだ後、孫策と孫賁は不自然なまでに富春の実家を頼ろうとした形跡がないし、孫策が挙兵したあとも劉繇を破るまでまあまあ長い期間傍観を決め込んでるから、孫堅系の人とは溝があったようにも見えなくもない -- 2023-12-22 (金) 06:39:01
      • 孫暠が反乱未遂を起こしたのも、「お前らが飛び出して好き勝手やってる間、地元を守って苦労してきたのはうちなのに、今更戻ってきてデカい顔してるんじゃねえよ」という不満が孫策横死を機に爆発したからだったりして -- 2023-12-22 (金) 07:09:28
    • 生年不明って結構多いよね。実際、現代みたいにカレンダーもないだろし、無名な家の出とかいちいち親がいつ生まれたとか記録してなかったり、生まれて何日経ったとか正確に数えてるやつおらんだろうから、記録がないというより本人も本当に知らないんだろうがな。 -- 2023-12-21 (木) 18:02:44
      • 生年不明の人たちの中でも、陳登とか李典のように、享年は分かってるけど何年に死んだか分からないから結局生没年不詳のままというパターンが一番もどかしいな。陳寿もっとがんばれよというか -- 2023-12-21 (木) 18:38:47
      • 陳登は没年わかんないだっけ?死因は具体的なのにな -- 2023-12-22 (金) 19:13:28
      • そりゃまあ無名な子供がいつ生まれたかより著名な権力者がいつ死んだかの方が記録に残るやろ。 -- 2023-12-22 (金) 19:21:45
      • ↑×2夏侯惇が204年に陳登の官位であった伏波将軍を拝命しているから、それより前という事しかわからん<陳登の没年 裴松之先生はがんばって陳登の情報を補足してくれているのに… 陳登伝といっても、文章の大半が許汜が陳登に文句言ってるエピソードじゃねえか!(まあセットになってる呂布伝の方と重複するのを避けた結果だろうが) -- 2023-12-22 (金) 19:50:33
      • 三国志より遥か前に生まれた親父の生年の情報あるのに、魏の元勲の一角にも関わらず生年不明な陳羣とかいう人もいるしなあ…中央に情報があったか、生地や一族の動向どうかも大きそうだ -- 2023-12-24 (日) 00:54:12
      • 陳寿が取材しやすい相手だったかどうかも響いたろうね。ツテがあって、かつ政治的に筆加減を気にする必要がない相手なら関係者に話を聞きやすいけど、その逆なら… -- 2023-12-24 (日) 06:35:39
      • 親か子の生年がわかっていれば、ある程度生年を推測できる。案外多いのが、享年がわかっているのに生没年不詳というパターン。これも、最後に記録に顔を出す年代から没年を推測することになる。 -- 2023-12-24 (日) 16:19:32
      • 親父が鍾繇みたいな絶倫爺だったら、めちゃくちゃ推測ズレそうw没年くらいは残っていて欲しいよな。日本の辞世の句みたいな文化があれば… -- 2023-12-24 (日) 17:57:35
  • 遺骨のDNA検査によると曹操は曹参、夏侯嬰とも血縁関係ないらしいけど代々婚姻していた夏侯惇夏侯淵も夏侯嬰と関係ないのか -- 2024-01-01 (月) 04:15:42
    • 同姓なので、そう名乗っていたかもしれないし、同族だが直系ではなかったかも。楚漢争覇から400年近くたってるしね。系譜が目茶苦茶になったんだろう。漢書や三国志は曹操が亡くなってからさらに60年以上経過してから書かれたものだし。 -- 2024-01-01 (月) 06:22:40
      • 曹騰より上の世代の情報が不自然なまでにないし、曹騰の父親が仁徳徳望の人として知られていて、隣人に豚を盗まれたと疑われても云々…というエピソードは、まんま「雲台三十二将」の卓茂のエピソードと同じだから(馬が豚に変わってるだけ)、曹騰が他人の逸話をパクったりしてあることないこと盛りまくってたんじゃないかなあ -- 2024-01-01 (月) 08:01:15
      • そもそも曹騰は西暦100年産まれで四男とされてるから、その親父どころか祖父となれば普通に明帝やさらには光武帝の時代まで遡りかねんし、その頃に生きてた人なんて光武帝と愉快な仲間たちや西域外出ハンチョウだの極一部のめちゃくちゃ活躍した人物しか記録ないやつだらけでしょ、だからこそ盛りやすかったといえばそれはそう。しかも三国時代の戦乱や曹嵩の件で記録も散逸したり一族ガッツリしんでるはずだしね。 -- 2024-01-03 (水) 02:28:10
    • 黄巾の乱の黄巾側の指揮官はゲームだとゴロツキチンピラみたいな顔の奴らだけど元々は士大夫層だの清流派人士だった奴はいるんだろうな。 -- 2024-01-08 (月) 11:52:12
      • そういう連中は陳勝・呉広のときの項羽たちや赤眉のときの劉秀たちみたいに別口で反乱起こすんじゃない? -- 2024-01-08 (月) 14:20:48
      • ↑×2波才が竇融の一族ではないか?と考察している人がいた。『資治通鑑』に「波氏は王莽の波水将軍(=竇融)の子孫である」という一文があるのが根拠で、実際竇氏の一族が黄巾に身を投じていたといわれても違和感ないんだよね。竇武は汝南や潁川や南陽の清流派の連中とべったりで、この三郡は黄巾の根拠地でもあり、張角自身も清流派の名士であった可能性が高いんだから(党錮の禁を解除する詔勅にわざわざ「張角だけは赦免しない」と明記されている) -- 2024-01-08 (月) 16:26:22
  • 北方謙三インストール以外で林冲が胆力貰える理由あったっけ?とか思っているのだが、実際あったか? -- 林冲 2024-01-03 (水) 03:27:32
  • 閔純・耿武らが袁紹に抵抗したのは、韓馥に忠誠を誓っていたからじゃないよね? 韓馥が冀州に来てから2年も経ってないし、そんな短期間で閔純らを心服させるカリスマは韓馥にはなかろう。審配・田豊とは元々利権争いやらなんやらで元々仲が悪くて、そいつらが推す袁紹に従う訳にはいかなかった…とかだよね多分 -- 2024-01-03 (水) 08:56:02
    • 彼らはただ置かれた立場の役割を果たしたんじゃない?州府の役人として。 -- 2024-01-03 (水) 10:51:02
    • 忘れられやすいけど「後漢wwwwwないわwwwww(黄巾賊他のヒャッハー)」と「中央が駄目だから権限は利用しつつ自力で這い上がろう(袁紹や袁術)」と「中央と連絡つかんけど勝手に軍閥作ってる奴はどうにかせにゃ(韓馥、孔融あたり)」とがいるからね -- 2024-01-04 (木) 22:28:14
    • 袁紹が平時からガチガチの危険人物だったってことが関係してると思うわ。冀州に中央の戦火を持ってくるやべー奴なんて、出世したい野心家からしたらウェルカムかも知れんが普通の政治家・官僚たちからしたら勘弁してくれって感じだろう。 -- 2024-01-05 (金) 10:41:40
      • いうて黄巾の乱は冀州がメインだったし、戦火を持ってきた訳でもないような。乱後の混乱に乗じて軍閥を作り、乗っ取ったのは間違いないけど -- 2024-01-05 (金) 11:08:16
      • 袁紹は平時から社交に励んでいたから警戒されていたが、「ガチガチの危険人物」といわれると結果論の部分が大きいだろう。 -- 2024-01-09 (火) 16:44:32
      • 超名門で出世狙えるくせに喪に服してばっかの不気味なやつくらいか -- 2024-01-09 (火) 17:08:14
      • 何進に強硬策を進言して董卓を招く、宦官一掃、劉虞擁立失敗、胡毋班を王匡に殺させる、董卓討伐は進まず、周辺の軍を取り込むことには熱心。反対するのも無理ないと思う。 -- 2024-01-09 (火) 17:38:03
      • 韓馥は袁家のお陰で出世できた身、その袁家の事実上のトップ袁隗から「お前は袁家を滅ぼす気か」と言われたのが袁紹。更に董卓に喧嘩売って袁隗らを死に追いやったのも袁紹。敵でも味方でもお近づきになりたくない。 -- 2024-01-10 (水) 11:20:29
      • 韓馥本人は割とノリノリで袁紹を迎え入れて新帝擁立に加担したりしてるけど配下に諌止されたり結局乗っ取られるあたり劉璋に似とる -- 2024-01-10 (水) 14:18:44
      • 袁隗は中常侍の袁赦を通して宦官と結びついていたが、袁赦は同族。何の理由で宦官になったのやら。袁隗や袁基(袁紹の異母兄)はゲーム未登場の大物といえる。 -- 2024-01-11 (木) 15:33:19
      • 袁家の末裔があまり出て来ないのは、董卓に在京していた一族が抹殺されたのが何気に大きそう。 -- 2024-01-18 (木) 13:03:37
      • 在京していた袁一族が皆殺しにされたのは、ある意味袁紹にとってはラッキーイベントだな。袁紹は妾の子だかなんだがで一族の中では厄介者扱いだったようで、一族が生き残って袁紹が困ることはあっても、袁紹の役に立つ事はなさそうだし、しれっと袁譚を袁基の後継者(ということ)にして汝南袁家の嫡流を乗っ取ってるからな。案外、在京してる一族を董卓が消してくれねえかなー、敵討ちって堂々と言えるし…ぐらいに思ってたのかもしれんな -- 2024-01-26 (金) 07:56:51
  • 2人分のリンクできるかな? -- 陸胤、趙氏貞? 2024-01-14 (日) 03:52:52
  • 韋昭の『呉書』によれば、諸葛瑾は正妻が死去した後は再婚せず、寵愛する妾が男児を出産しても育てず、「篤慎」と評されたという。歴史上の人物の行いを、現代人の視点・価値観で断罪するのは愚かなことなのは重々承知だが、先妻に義理立てしてるくせに性欲に負けて子作りした挙げ句に育児放棄したのが美談になるのはさすがにないわー… 「徳行」って何なんだろうな -- 諸葛瑾 2024-01-16 (火) 06:12:55
    • 再婚せず→わかる。妾→いるんかいw育児放棄→!?同じ中世でも、囲った妻子(側室含む)の面倒をみるのが甲斐性という日本の価値観ともまた違うな。 -- 2024-01-16 (火) 08:02:15
    • 育児放棄は言い過ぎじゃない?挙げなかっただけだと思うけど。 -- 2024-01-16 (火) 13:00:11
    • 妾とその子を家に入れなかったのが慎重な判断、ってことなんだと思うよ。情に寄らず、家が割れる要素を極力減らしたと。まあ嫡男が没落させるんだけど。 -- 2024-01-16 (火) 15:32:51
      • 愛妾ってあるし、わざわざ正妻と比較されるぐらいだから大事にはしてたんじゃないのかな。柱がちょっと嫌味な見方しすぎな気がする。性欲に負けてとか育児放棄とか。 -- 2024-01-16 (火) 19:27:18
    • ちなみに問題の子供を育児放棄した云々の件は原文では「妻死不改娶、有所愛妾、生子不舉、其篤慎皆如此」。ネットで調べた限りでは「生子不舉」を育児放棄と訳している人が多かったけど違うのか… あと、『漢之間的「生子不舉」問題』という論文があって、どうも「生子不舉」の意味合いについて論じてるっぽいけど、中国語で書かれてるから読めねえ… この論文タイトルでググればpdfで読めるんで、誰か訳せる人がいたら概要を教えてください(丸投げ) -- 2024-01-16 (火) 17:22:22
      • 舉って推挙の挙だから単に取り立てなかったって取った方が周りの文を加味すると自然じゃないか? -- 2024-01-16 (火) 19:45:20
      • あと生子不舉って生まれた子を間引く意味合いもあるから論文はそっちの意味じゃないかな。ロバもそのパターンもあるか。 -- 2024-01-16 (火) 19:50:09
    • 呂布と袁紹みたいに妻子の為に動いた奴等は愚行みたいに語られてるし、現代と価値観違いすぎるからなあ。当時の妻子ってペット以下の扱いだったんだな。 -- 2024-01-16 (火) 17:29:43
      • そういう社会構造だもの。妻子可愛さに企業を潰して管理職親族は縛り首に陥らせる経営者はよく言われない。 -- 2024-01-16 (火) 18:01:30
    • そもそもこの時代で父親側に育児って概念があるの?上にもある正妻との子のみを家として妾の子は取り立てなかったって解釈が自然だと思う。 -- 2024-01-16 (火) 18:10:40
      • 育児迄はいかないけど司馬懿と陸遜はちゃんと子を教育してたっぽいな。 -- 2024-01-16 (火) 18:58:00
      • なお司馬倫。さすがに晩年の子のせいか教育はできなかったか -- 2024-01-16 (火) 21:06:55
      • 司馬懿陸遜の教育の話はときどき聞くけど出典or根拠はどのあたりですか? (純粋に知りたい) 彼らは忙しすぎて子供を構ってる暇がなさそうなイメージなもので。。 -- 2024-01-17 (水) 03:06:21
      • ↑×2八男の司馬肜もなかなかにアレな人物だけどね。はっきりとなんの才能も無いと史書に記されてる。 -- 2024-01-17 (水) 18:07:35
      • 七男の司馬榦は有能・無能以前に精神を病んでて、ここに書くのは色々憚られる奇行があるのがね… 司馬冏のことは気に掛けてなにかと諫めており、司馬冏が殺された時には慟哭したそうだがら、それなりに良識はあったようだが… -- 2024-01-19 (金) 07:43:28
      • たしかに奇行種ではあるが、斜め読みした限り精神を病んでるというより現代でもときどきいるIQ天元突破系な人に見えるのよね。パンピーとは根本的に世界の見方が違う(それを現代では発達障害と呼んでるのかもしれんが)のが結果的にそう見えてるだけで -- 2024-01-19 (金) 20:42:16
  • 公孫続は屠各という南匈奴の部族に殺されたことになってるけど、状況的にやったのは張燕だよね? 公孫続の身柄は張燕が押さえていたはずだし、南匈奴が雑居する并州に張燕が進出していたから、張燕の配下に屠各がいてもおかしくないもの。公孫瓚が色々やらかしすぎてるから旧臣を糾合する神輿にするのは無理そうだし、何より公孫瓚が異民族からヘイト集めすぎてるからその息子なんてイラネって判断したって事かな -- 2024-01-18 (木) 17:23:38
    • 南匈奴は後に袁家と結んで曹操と戦ってる。張燕は南匈奴の支配者という訳ではなく、袁家に降ってもいない。屠各は南匈奴の中心種族。総合して考えると、公孫続は南匈奴に逃げ込むあるいは援軍を求めたものの、南匈奴は袁紹と事を構える気がなかったから公孫続を殺したということじゃないかな。 -- 2024-01-18 (木) 18:06:44
  • 史書とか読むと本当に曹丕は器ちっさいなぁ…小さい事を根に持ちすぎだろ。何で「敢えて言えば曹植さまの方が立派です」って言った楊俊を宛の市場が繁盛してなかっただけで収監してるんだ? -- 2024-01-18 (木) 19:17:12
    • 曹丕クズなんだけど両親にも冷遇されてたから同情しちゃうわ。 -- 2024-01-18 (木) 19:25:55
      • 兄は生きてても限界があったと言ってしまえるメンタルは弟が死んで良かったなと言ってのける親父と似た者同士過ぎて同情し難い。 -- 2024-01-19 (金) 00:03:08
      • 十年近く世子と明示してきた曹丕がいるのに魏国成立後に嫡嗣未だ定まらずなんて下問しだす曹操はおかしいわ。こんなの曹操の内意が曹植にあるとしか読み取れんよ -- 2024-01-21 (日) 19:20:28
      • 何時までも曹植に機会を与えるような事してんのが他ならぬ曹操なんだよなぁ…。曹仁への援軍の大将に曹植を選ぶとかここで大功を挙げさせて後継者への道を付けてやりたい以外の何の意図があるんだよっていう。袁紹劉表と比較して曹操は後継問題で失敗しなかったみたいに言われる事あるけどハッキリ言って上手く行ったのって子供の手柄だろと(曹植は明らかに国を割る事を危惧してる) -- 2024-01-22 (月) 12:17:43
    • 俺たちが思うよりも、後継者争いというものが熾烈といえるのでは。弟を自分より高く評価するのは潜在的な敵だし -- 2024-01-18 (木) 20:23:17
      • 袁紹、劉表、孫権と後継者争いはどれも酷いもんだよな。 -- 2024-01-18 (木) 20:45:20
      • 劉封という危険分子を取り除いた諸葛亮は優秀…か -- 2024-01-18 (木) 21:06:30
      • 後継者争いって醜いなあ -- 袁術 2024-01-18 (木) 22:42:04
      • やっぱ後継者はちゃんと決めておかないとね。という訳で司馬攸今日から君斉の地で頑張ってね -- 司馬炎 2024-01-19 (金) 00:04:27
      • 曹操の場合、儒教との関係がね・・・危惧した通り儒者に乗っ取られたし。 -- 2024-01-19 (金) 05:53:17
      • 司馬炎は、司馬衷後継は別に司馬攸も反対したわけでは無かったのだが、「自分がNo.2に」という司馬攸と「ヤバそうな近親者は外地に出しておく」司馬炎の思惑(これは司馬昭の遺言にあったらしい)で事件になった。実際、八王の乱は外地から帰ってきた王族が洛陽でドンパチを始めたから、司馬炎は問題意識はあったわけだ。解決できなかったけど。 -- 2024-01-25 (木) 01:38:31
    • 正直、于禁の件だけでお腹いっぱいなのにまだあるってのがなぁ -- 2024-01-19 (金) 22:18:55
      • 于禁と曹植だけなら土壇場で降伏した将軍と後継者争いのライバルだからわからなくはないんだよね。他にも豊富にあるから擁護不能になる。 -- 2024-01-20 (土) 19:49:19
      • 鮑勛の一件は廷尉の高柔が出した判決をなんの正当性もなく踏みにじってるのがやばい。しかも最初に高柔が出した「懲役5年」という判決も、高柔の部下が「罰金刑で十分でしょ」と反発していることからして、最大限曹丕に忖度した判決だったようなのに -- 2024-01-21 (日) 06:41:13
      • 処刑の20日後に曹丕が死んでるけど、曹丕の死が処刑より少し遅かった事を嘆かない人は居なかった。みたいに書かれるのがもうね。天命に選ばれた筈の皇帝がこんな暴君丸出しの暴挙すりゃそら言われるわって話だけど。 -- 2024-01-22 (月) 12:30:28
      • 高柔としては、曹丕の気が済むように多少厳しめな判決を出して、曹叡に代替わりしたら恩赦を出してもらう腹積もりだったんだろうな… -- 2024-01-22 (月) 13:02:55
      • 楊俊なんかは司馬一族とめちゃくちゃ仲良く、その上よりによって司馬懿を引き立てた人って事から「西晋の太祖たる宣帝様の恩人を殺しちまったんだよー!曹丕はクソ!」って、アピールしたいところもあるだろうからね、実態は単なる曹植派を完全に排除したかっただけなんだろうね(別に曹丕がまともというわけではない) -- 2024-01-22 (月) 14:29:30
  • なんでこいつが兄貴の意向に背いてまで徹底抗戦したのか考えてみたんだけど、一緒に陽平関で戦った楊昂が韋康殺しの実行犯である事から考えると、韋康を騙し討ちにしちゃったせいで曹操に降伏しても許されそうにない(少なくとも当人はそう考えた)楊昂が、無理矢理張衛を担ぎ出して抗戦を続けたという構図だったのかも…と思った -- 張衛 2024-01-19 (金) 14:17:50
  • 三国時代の騎兵ってどんな感じか?鐙のない時代なんで、馬上槍や馬上太刀なんて無理だろうし、移動のみ馬に乗り戦闘時は歩兵になる、乗馬歩兵か? -- 2024-01-19 (金) 17:32:49
    • 中国は日本と違って馬もそこそこ良質だったので戦国時代後期くらいから既に乗馬歩兵や馬に牽かせた戦車だけでなく、騎兵が登場している。前漢の時点で衛青や霍去病が騎兵を率いて大活躍してるし、後漢を建国した光武帝は幽州の突騎(突撃可能な精鋭騎兵)で河北を制した。槍や太刀はこの時代には無かったので、主な武器は剣と弓による騎射で、体格に恵まれていて騎馬に熟練した者(関羽とか)であれば馬上矛を使っていたという感じかな。 -- 2024-01-19 (金) 17:55:43
      • ありがとうとございます。胡服騎射というぐらいですから、騎兵はまず騎射ありきだったんでしょうね。遊牧民もだいぶ漢化していたはずなんで、乗馬できる漢人も後漢になれば増えていたんでしょうな。 -- 2024-01-19 (金) 18:18:59
      • ですね。推測にはなりますが、突騎については騎射を得意とする匈奴や烏丸への対策をする中で登場したのではないかと思います。実際、騎射を得意とする彼らの軍はかなり精強だったようですが、近接戦闘には意外と長じていなかったのか、それとも武器の質に差があったのか、はっきりとした理由は不明ですが、突騎による突撃にはあっさり崩れ散ることも多かったらしいので。 -- 2024-01-19 (金) 19:15:16
      • 遊牧民にとって戦争は狩猟と一緒だからね。うまく追いつめたり罠に嵌めたりして遠巻きに矢で仕留めるのが普通。モンゴル軍なんかも突撃は最後の最後に矢で仕留め切れなかった敵を掃討するときだけだったらしい。あと弓騎兵といえば軽装なのもあって近接戦闘になると結構もろい。まあ軽騎兵は速いんで接近するのが難しいんだけど。 -- 2024-01-19 (金) 20:07:35
      • 馬甲を鎧った重騎兵が登場するの南北朝以降だから、少なくとも三国時代までは突騎も軽騎兵と変わらない機動力を持ってたと思うよ。馬甲無しで突撃するんだから、損耗も激しかったと思うけど。 -- 2024-01-19 (金) 21:52:41
      • 公孫瓚なんかは騎射を得意とした白馬義従と突騎を両方とも用いてたらしいから、当時の軍閥では頭抜けた強さだったんだろうなと思う。正史基準だと「もっと能力高いだろ」と言いたくなる武将は三国ともにそこそこいるけど、三国以外だと個人的には公孫瓚と彼を破った麴義が筆頭だな。 -- 2024-01-19 (金) 22:05:22
      • 公孫瓚は演義の呂布と被ってる面あるな。頭悪すぎて負けた感。 -- 2024-01-20 (土) 10:43:23
      • とはいえ突騎やら義従らも中身は烏丸兵ですからねえ。当時の兵制で騎射ができる部隊を自前で編成できたのかは怪しいきもする。 -- 2024-01-20 (土) 19:35:11
      • それはどうかな。幽并や雍涼みたいな辺境では北方民族に常に接してたから漢人でも騎馬や騎射に習熟してる連中が結構多かったみたいだし、そうした地域を支配してた軍閥は自前で突騎兵や騎射兵を用意出来たと思うよ。実際に光武帝なんかは烏丸とは別に漢人の突騎も運用してたし、公孫瓚の率いてた突騎も烏丸兵とは記述されてなかった筈。 -- 2024-01-21 (日) 10:12:54
      • 一応後漢書の劉虞・公孫瓚の伝からは幽州突騎は烏桓と読めますね。書かれた時代が多少下るので突騎=烏桓という後世の思い込みの可能性はあるかもですが。直属の精鋭を義従と称していたからには、主力は烏桓である印象が強いです。 -- 2024-01-21 (日) 15:40:58
      • むしろ後漢書の劉虞公孫瓚陶謙列伝や、あるいは光武帝時代の多くの記述でもそうですが、運用された騎兵が烏丸である場合は必ず烏丸突騎と明記されてますので、その様に記述されてない突騎や白馬義従は逆に漢人主体の騎兵であると認識するのが自然な様に思いますね。 -- 2024-01-22 (月) 02:04:55
      • 涼州韓・辺の乱のために動員された幽州兵三千が、劉虞伝と公孫瓚伝でそれぞれ「幽州突騎」「烏桓突騎」と称されているので、この二つは同じものでいいと思いますよ。"義"のつく称号は帰順した異民族を示すもので(義従もその用例があり)字面的にも烏桓感が非常に強いです。といっても後漢の支配を逃れて胡人のコミュニティに属していた閻柔みたいな連中はほかにも相当数いたはずで、烏桓の習俗に親しんだ漢人と烏桓とを区別する必要はそんなにないのかも知れませんが。 -- 2024-01-22 (月) 02:53:42
      • 義従が帰順した異民族部隊を示す用例とは具体的にどういった例があるのかな? -- 2024-01-23 (火) 17:53:22
      • 後漢書鄧禹伝に、羌胡の若者を義従とした、という記述があります(https://zh.wikisource.org/wiki/後漢書_(四庫全書本)/卷046)。後漢末だと涼州で乱を為した北宮白玉(羌人)も湟中の義従胡とされていますね(https://zh.wikisource.org/wiki/後漢書/卷8)。他にも梁習が南匈奴対策で并州に赴任した時、不服従民を義従とした、という記述がありますが、こちらは匈奴なのか漢人のアウトローなのかは判然としません。 -- 2024-01-23 (火) 18:31:16
      • 他にも、かの河首平漢王・宋建も羌族と思われますが、彼と相方の王国も「涼州義従」です。この辺の話は何かの本で読んだんですが、如何せん紙の本で検索性が悪くてすぐには出てきません。。 -- 2024-01-23 (火) 19:02:39
      • もし仰せの様に帰順した異民族の騎兵を一般的に義従と称していたのなら、その程度しか用例が無いのは些か違和感を感じますね。正誤は不明ですが、ネット上で調べてみると義従とは弓騎兵を指す言葉であると複数のサイトで記述があります。これが正しいなら義従という言葉そのものには異民族を示す意味は無いように思われるのですが、どうなんでしょうか。 -- 2024-01-23 (火) 19:03:14
      • 「帰順した異民族を義従と称した」というのはものの本(たしか「三国志の考古学」)で読んだ知識なのでその辺はご承知ください。後漢書で検索するとほかにもいくつか用例がまだでてきますが、上記の読みで問題ないものばかりです。逆に「義によって従う」という字面から「騎射に長けたもの」という意味にはなりにくいような...。典拠も見つかりませんし。反例としては「呉書」で江夏時代の甘寧が義従"者"を得た、という記述があり、これはさすがに烏桓や羌族とは思いづらいですね(あの辺に烏桓がいた可能性も無くはないのですが...)。異民族に限らず、もう少し広く現地採用の非正規兵・志願兵という意味合いもあるのかもしれません。 -- 2024-01-23 (火) 20:54:27
  • 諸葛亮って弱いイメージだけどよく考えると毎年のように難所を往復行軍する体力がある身長180超って現代日本人の平均より強そう。少なくとも自分は勝てる気がしない。 -- 2024-01-20 (土) 19:37:33
    • 何であんな武力低いんだろうな。史実では一騎打ちする武将なんて殆どいないんだし今の2倍以上あってもいいんじゃないか? -- 2024-01-20 (土) 19:48:46
      • 演義補正やろ。変な椅子座ってるし。 -- 2024-01-20 (土) 20:07:43
      • これゲームだし、バランスはもちろんイメージもあるでしょ。大多数のライトユーザーは諸葛亮に武力高いイメージないと思う。ゲームにリアルさを求めるとつまらなくなると思うよ。あと能力査定に文句あるなら能力編集用掲示板の方がいいのでは。 -- 2024-01-20 (土) 20:18:46
      • 演義だと四輪車乗ってるけど実際は何に乗って行き来してたんだろう。やはり馬なんだろうか -- 2024-01-20 (土) 21:06:06
      • 戦車は実戦で使用されなくなったが、指揮官車としては使われたらしいから、戦車では?4輪車椅子は戦車からの連想でしょ。荀彧や龐統も前作では甲冑を着たグラがあったが、諸葛亮も実際は胸当てぐらいはつけてたんだろうな。 -- 2024-01-21 (日) 00:57:45
      • 蜀の山越えで戦車は無理ではなかろうか -- 2024-01-21 (日) 03:12:38
      • 正史の記述ではないが比較的近い時代(東晋)の資料には、司馬懿が軍中の諸葛亮の様子を調べさせた部下からの報告を受ける中で「葛巾を着けて輿に乗り毛扇にて三軍を指揮した」とある。また司馬懿は軍服や鎧を纏っている自身の有り様と比較して「諸葛亮はまさに名士ではないか」と嘆いたとあるので、指揮官とはいえ鎧を纏って戦に臨んでた司馬懿や周瑜より武力が低いのは納得かな。それでもあれだけ軍事に参画してるんだから55~60くらいはあっても良いと思うけど、今作だと武力が高いと自分から一騎打ち仕掛けちゃうのが難点だよね。 -- 2024-01-21 (日) 03:42:46
      • 輿なら戦車よりは山道に対応できるか。甲冑はつけていない資料があるんですな。 -- 2024-01-21 (日) 08:14:43
      • 東晋期だとすでに諸葛亮の伝説化が始まってるから史実かどうかは怪しいけど、そういうイメージは早い段階からあったんですね。厳畯や杜預のように騎乗が不得手なことが特筆されている例を考えると、諸葛亮も乗馬くらいできたんじゃないかと想像しますが。 -- 2024-01-21 (日) 15:45:48
      • 諸葛亮は長坂の逃避行に参加してるから、(先主伝に諸葛亮・張飛・趙雲ら数十「騎」と逃走し…とある)最低限馬には乗れたと思うよ。じゃなきゃこの時に捕まってるだろう -- 2024-01-21 (日) 16:12:28
    • 最期といい、長年の過労もあって後半は体が弱かったんだろうね。武力は高くするに足る実績がないので今でも充分高いと思う。 -- 2024-01-21 (日) 20:34:46
      • 諸葛亮の武力が低いって言ってるんじゃなくて、現代日本人の平均武力が38未満だって言ってるんだよ。 -- 2024-01-22 (月) 00:57:25
      • そらそうやろ、としか言いようがないなぁそんな事は。 -- 2024-01-22 (月) 01:25:07
      • 武力を高くするに足る実績で言えば司馬懿や羊コ、陸遜や陸抗も武勇エピソードなんて無いからなあ。その理由で諸葛亮の武力を高くする必要はないとするなら、逆に何故か60代ある彼らの武力を下げるべきとなってしまうな。 -- 2024-01-22 (月) 01:42:16
      • 自分の中でこうするべきみたいな基準あるならそうしたらいいんじゃないか?査定や基準なんて人それぞれだし万人が納得するものなんてないよ。そしてこういう話なら能力編集掲示板だと思う。 -- 2024-01-22 (月) 10:12:21
      • 上でも言われてたけど杜預達みたいに明確に弱いってない人で全軍司令官型の人材の武力がそれなりなのは、多分ゲームの都合上でその人の部隊も直接殴り合う可能性があるから、かと。二流脳筋タイプとぶつかっても総合力で勝てるみたいなのを狙ってるんでは?武力や統率のダメージ計算がどう調整されるかに関わらず。 -- 2024-01-22 (月) 14:39:02
      • やっぱり短命や病弱だと武力は低くなるイメージ。 -- 2024-02-04 (日) 15:48:00
  • 映画や漫画の城壁は誇張されているが、当時の城壁は高さはどれぐらいが平均だったのか?今、観光地にある立派な城壁は明あたりからのものだからね。当時は版築という土を締め固めたものだっけ? -- 2024-01-21 (日) 16:50:55
    • ピンキリ過ぎて平均出すのはあんま意味ないと思うが・・・10mクラスは普通にあったみたい。あと、普通に想像する「いわゆる壁」ではなく、厚みが高さよりある感じ。壁というか固めた盛り土。 -- 2024-01-21 (日) 19:08:06
  • こいつ并州雲中郡出身という事は、たぶん呂布が丁原配下だった頃からの古参だよな。董卓殺しの実行犯の一人という説があるし、呂布が張燕相手に無双した時の「数十騎」に紛れ込んでる可能性もなくはないのに、ただのヘタレの寝取られ男としか扱われてないのはかわいそう… -- 秦宜禄 2024-01-22 (月) 07:56:20
    • 息子は鮮卑討伐を任されてるし騎兵の扱いには慣れてそう -- 2024-01-22 (月) 14:33:52
  • 劉禅からの勅命がくるまで城を守った王含。9では出てきたが、以降はでてこない。柳穏はでてくるのに。 -- 2024-01-22 (月) 17:38:24
    • 他のリストラ勢は蜀だと李球、交阯組の楊稷、毛炅。魏(晋)だと鍾会指揮下の王買、夏侯カン、田章、荀愷、呉征伐組の周浚、張喬。呉だと張象とか、本作最年少の修允より(設定上)生まれの遅い孫ワンに、同じく最年少の陸抗の子陸景など。周浚とか結構な将だったっぽいし再登場する資格は十分だと思うんだけどなぁ。 -- 2024-01-23 (火) 03:23:16
      • ほぼ末期の武将ですね。同時期の郭馬は出ずっぱりだし。李球も諸葛瞻親子と討ち死にと記述があり、李カイの血縁者だと明記された武将なんだが。魏にも李球がいるが、あっちは創作。京劇にしかでてこない花マンまで出すなら、ここらへんも再登場すべきでしたね。コーエーの出す出さないの基準がいまいたわからない。鼎立前に正史である程度記述があるのにまだ出てない武将もいるかも。 -- 2024-01-23 (火) 05:53:34
      • 14は登場武将1000人ピッタリにこだわってただろうから出せる人数が限られたんでしょう。次回作以降は際限なく増やせるんじゃないかね。 -- 2024-01-23 (火) 08:28:41
      • はたして鍾離斐さんは復活出来るのか -- 2024-01-23 (火) 10:40:18
      • 鍾離斐さんは鍾離牧と同一人物だって説があるからな… 9で初登場したのに、10から鍾離牧が出てくると入れ替わるように姿を消すから、コーエー的には鍾離斐=鍾離牧なのかもしれない -- 2024-01-23 (火) 11:30:13
      • 荀愷、演義だと兵士からの叩き上げだが、史実では苗字の通り荀彧の曾孫で、司馬懿に幼名をつけて貰った御曹司。もっとも、実績は割と碌でもないのだが。263年シナリオでは、この辺の年代の人材がいないととてもとても厳しい。 -- 2024-01-23 (火) 12:43:09
      • どうせなら3の時に居た演義のオリキャラ達みんな復活してほしいわ…  -- 2024-01-24 (水) 01:08:12
      • 3に登場してた演義オンリーだと劉晙と馬漢の二人が益州に追加されるのは武官が増えて地味にありがたいかも、どうせ14と同じなら猪突とか短慮とかだとしても。他は割と復活してた気がする、辛明や千里行組あたりくらい?演義だけではないが尹奉も3しかいないかも。あと3ではないが架空の武将に出番を奪われた張穎は再度出してやって(張球の正史でのポジションなんで被るから消された可能性高) -- 2024-01-24 (水) 03:03:23
      • 他に返り咲きのならなかった末期武将は魏晋が成済、鄭沖、馮紞、劉寔。演義オンリーでは丘本、陳元、張尚、張節。蜀漢が鄧良。呉が蔡貢、孫述、張儼。その他、末期というにはまだ少し早いが公孫修。ほとんどが8PUKか9だが、公孫修は3、張節は5。 -- 2024-01-24 (水) 14:52:04
      • 張節は9にもいたよー -- 2024-01-24 (水) 15:07:43
      • 成済は天子殺しの実行犯として名前がでるのに出ない作品が多い。馬元義は正史にも記述があるが、黄巾の乱勃発直前に処断されたから出せないんだな。 -- 2024-01-24 (水) 17:40:15
      • 馬元義はイベントでは名前出てくることあるんだけどねえ… 仮想シナリオ限定でもいいから出して欲しかったな。ノブヤボの方ではそういう武将いるし -- 2024-01-24 (水) 17:48:25
      • 収録されてる武将数は圧倒的に少ないのに無双では出てるが三国志ではでてない武将もかなり多いよね。 -- 2024-01-24 (水) 18:12:21
      • なぜに蔡陽さんは出番に恵まれないのか。イベントで関羽にコロコロされる見せ場もあるのに -- 2024-01-24 (水) 18:32:48
      • 千里行組では元黄巾というだけで出番貰える卞喜。 -- 2024-01-24 (水) 18:51:17
      • 馬元義はいにしえ武将扱いでどうぞ -- 2024-01-24 (水) 23:01:35
      • ↑×7 指摘ありがとう。『晉書』にしか登場しない(裴松之注にも出て来ない)人も入れれば武将を増やすことは難しくありませんが、武将数的に魏の優位が拡大するのは必至。でも、そろそろそれくらいはやって欲しい。 -- 張節? 2024-01-25 (木) 01:31:06
  • 曹操の遺骨は虫歯だらけだったそうだけど、この時代の歯科衛生ってどうなってたんだろう。古代ギリシャやエジプトではちゃんと歯磨きの習慣があったようだけど、三国時代の中国にはなかったのかな? -- 2024-01-24 (水) 14:43:11
    • どんなに歯磨きしても66(曹操の没年)にもなれば虫歯だらけになるのでは?歯磨き粉なんてない時代だし…でも衛生管理をどうしていたかは知りたいよな。 -- 2024-01-24 (水) 17:31:23
      • 相当末期の虫歯で神経系にミュータンス菌が入り込んだのが致命だったとか英雄たちの健康診断でやってたな。同じ場所から発掘された卞氏のモノとされる遺骨は歯がきれいに揃ってたとか。三半規管冷やして痛み和らげるための石枕も発掘とかやってた。 -- 2024-01-24 (水) 20:26:45
      • 曹操は頭痛持ちだったらしいが、虫歯由来ならありえる。また、虫歯菌や歯周病菌が脳に回ると脳梗塞にもなるから死因になりかねない。 -- 2024-01-25 (木) 05:26:11
      • 曹操の頭痛の原因が虫歯だとしたら、開頭手術をやろうとした演義の華佗先生ェ… まあそれはともかく、徳川家茂のように間接的な死因にもなりえるし、歯科医療が確立されていない時代の虫歯って普通に怖い病気だよな -- 2024-01-25 (木) 05:38:56
    • 中国に程近い場所だとインドでも仏陀が歯磨きの習慣を勧めたと仏典に書かれているし、日本でも縄文時代には爪楊枝のようなもので歯磨きした形跡があるってーから中国でそれが全くないってのはおかしな話ではあるけど… -- 2024-01-25 (木) 07:09:49
      • 曹操が歯磨きの類をしない人間だっただけじゃないかな。戦陣にいる事が多かったのもあるだろうし、未亡人探すのに忙しかったりもするし。 -- 2024-01-25 (木) 18:55:02
      • 儒教の影響も大きかったんじゃね?新しい知識とか価値観を認めない排他的な世界では、一部には伝わっても普及しないってよくある事だし。インドだって、どう考えてもヤベーガンジスにいまだに浸かってる訳だし。 -- 2024-01-25 (木) 19:16:30
      • しかし、歯磨きしないと不快だし、口臭くなるし、虫歯という病気が解明されてなくても、本能的に歯をきれいにしようという気持ちになりそうなもんだけどな。 -- 2024-01-25 (木) 19:40:05
      • それは、それが当然の現代日本で育ってきたからの発想だと思うぞ -- 2024-01-25 (木) 20:04:00
      • 水は飲むわけだから、歯を磨かずとも水でゆすぐぐらいはするだろう。今みたいに発達してない時代ならそれで十分だと考えるんじゃない? -- 2024-01-26 (金) 08:20:53
      • 中国で歯ブラシに類する習慣が確認されるのは唐代からだそうで、後漢~魏晋にはおそらく歯磨きはなかったか、すくなくとも一般的ではなかったようです。口をすすいだり、上流階級ならば口臭対策に香を含むことはあった。当時の食習慣は現在ほど歯に悪くない(米とか麺類とかは余り食べない)ので、それくらいでもなんとかなったのではないかということです。 -- 2024-01-26 (金) 15:36:15
      • 砂糖ドバドバ入ったお菓子むしゃむしゃ食う現代がヤバすぎるのか -- 2024-01-26 (金) 15:54:21
      • 呉の高栄の墓から楊枝と耳掻きが合体したものが発掘されてるから、歯間を掃除する概念はあったようだ。 -- 2024-02-20 (火) 11:20:33
  • 複数の都市(県)を束ねて郡になり、郡の管理者が太守。ここまでは基礎知識だが、太守が所在している都市は県令も別個にいるのか?太守所在地は県令を兼任するのか? -- 2024-01-25 (木) 18:29:57
    • ざっと調べた限りでは洛陽令、長安令、成都令は存在するので、太守とは別にちゃんといたんじゃないかと。職掌の分担はわかりませんが。。 -- 2024-01-26 (金) 02:21:38
    • 知事と市長みたいなもんでしょ -- 2024-01-26 (金) 07:33:22
      • この時代だと軍権の違いが大きそうですね。 -- 2024-01-26 (金) 23:34:43
  • 史書に名前がありながらゲームに出ない武将に、費禕を暗殺したカクジュン。天子殺しのセイサイともども出てこないよな。 -- 2024-01-26 (金) 18:09:25
    • 郭脩はまだしも、成済は兵士Aみたいなもんだからなあ -- 2024-01-26 (金) 18:59:47
    • 無双だと成済は成倅とともに登場済みなんだがなぁ。 -- 2024-01-26 (金) 19:13:23
      • 大軍の司令官が武器持って暴れるゲームなら兵士とか豪傑とかにもまだ出番作れそうね。 -- 2024-01-26 (金) 20:08:15
      • 三國志シリーズでは成済は8PUKのみの登場(コンシューマーでは通常版から登場)。 -- 2024-01-26 (金) 22:58:13
      • 成済は8だと武力は60台だけど知力以下全部10代、義理は16段階で最低というクソ武将だったな。不要と判断して削れてもしゃあない -- 2024-01-27 (土) 14:37:45
      • 司馬衷の手も借りたい人手不足の時代だから、不要ということはない。 -- 2024-01-28 (日) 04:32:27
      • 悪女、賈南風とかもな。しかし、司馬哀の諱の哀。文字通りに哀れな皇帝だったなw -- 2024-01-28 (日) 08:08:34
      • しかし「哀」って仮にも未来の皇帝に付ける名前じゃねえと思うんだけど、どういうネーミングセンスしてるんだ司馬炎は。それとも、案外あの時代では普通の名付け方なのか? -- 2024-01-28 (日) 14:43:46
      • 文醜…もっとも悪とか醜は力強い、猛々しいという意味もあるから、哀にもポジティブな要素がある? -- 2024-01-28 (日) 14:57:46
      • 西晋恵帝のことでしたら「衷(真心、公正)」ですよ。実際優しい人柄ではあったようです。当時の中国語「醜」には多分「強い」の意味はなく、呉質の「醜侯」は普通に悪諡とみなされているように見えます。 -- 2024-01-28 (日) 16:05:01
      • 醜は形通り、酔っ払って問題を起こす奴、の意味らしいので、そこから転じて力強いとかになるのは、三国西晋より後の北方系民族文化が混ざって以降じゃないかな? -- 2024-01-29 (月) 09:26:31
      • 「しこ」に「醜」を当てて強い、勇ましいの意味になるのは日本語の古語だけだと思います。少なくとも中国語の辞書には出てこない。 -- 2024-01-29 (月) 14:00:03
      • じゃなんでひどい名前を親が付けたのか…(堂々巡り) -- 2024-01-29 (月) 16:52:33
      • 「醜」の名はもう一人楊醜がいますがこっちは賊あがり、文醜も出自がはっきりしないとこから見るに両方自称かあだ名のようなものだったのではないかと。黒山賊あたりで流行ってた名乗りだったりして?w -- 2024-01-29 (月) 17:05:47
      • 一方の顔良は結構良いとこの出っぽい感じだから、なんとなくコンビ扱いだけど実際の立場には差があったかもね。... ほかに悪字の名前ってありますかね。"蒙"もそれかな。 -- 2024-01-29 (月) 18:08:58
      • 「愚」と名乗った令狐愚がいますね。「お前はなんと愚かなのだ」と曹丕に怒られたから、「愚」と名乗ったという半ば当てつけのような経緯ですが。あとは時代がかなり下りますが、趙汝愚という南宋の皇族・丞相がいます -- 2024-01-29 (月) 18:47:23
      • 「愚」は儒的にも老荘的にも悪い意味ばかりでもないから有りかもですね。ただの思いつきですが、令孤愚は論語の「邦無道則愚」(≒国が無道だと知者も愚者になる)を踏まえた切り返しだった説。 -- 2024-01-30 (火) 03:32:12
      • 曹無傷や霍去病のように、マイナスイメージの言葉に「無」や「去」を付けてそれが無い・去るというプラスの意味にしているケースもあります。まあ例に挙げた二人は、その願い通りの人生とはいきませんでしたが… -- 2024-01-30 (火) 05:17:35
      • 朱霊の霊も霊帝は悪諡なのにって疑問だった -- 2024-01-30 (火) 10:07:38
      • なんで俺の名前、馬なんだろう・・・ -- 郭馬 2024-01-30 (火) 10:58:32
      • 霊は諡号としては悪謐扱いだけど、本来の意味は雨乞いの祭事を意味する文字なんで、文字としては必ずしも悪い文字ではない事に注意。 -- 2024-01-31 (水) 08:40:58
  • 張郃は黄巾平定から軍務についていたらしいが、戦死時は何歳だったのだろうか?70前後か? -- 2024-01-27 (土) 16:31:41
    • 184年に私兵率いて韓馥旗下に入ってるのでその頃に最低15~20だろうねえ。70前後でそんな外れてないと思う。 -- 2024-01-27 (土) 16:38:59
      • 韓馥が冀州に派遣されたのは董卓の任命だから単純に見ればその時に現地入りだろうから189年以降のはずです、なので 1、当人が黄巾討伐といっただけで張角のそれではなく後年の黄巾を称する反乱(劉辟や何儀みたいに)だった 2、184年ないし直後には馳せ参じたが記録があやふやなので韓馥のところに駆けつけたような記載になった 3、実は韓馥は冀州南部の黄巾討伐の立役者でそのまま現地にいた のどれかになりますかね -- 2024-01-28 (日) 06:00:15
      • 韓馥の前職は御史中丞だから3はないんじゃないかな。他に人がいないわけでもないのに、御史中丞が反乱鎮圧に駆り出されるシチュエーションはちょっと想像できない -- 2024-01-28 (日) 06:56:42
      • 1が自然かと。史書の用例だと「黄巾」は中平初年の一斉蜂起に限らず、張角死後も各地でだらだら続いてたようなのも含むっぽいので、韓馥麾下で黄巾討伐に従事していても問題ないと思います。ついでに言えば廖化の異常長命問題も同じかと(こっちはそもそもフィクションですが)。 -- 2024-01-28 (日) 17:06:27
      • 呂岱「え!?皆、長生きしてないんですか!?」 -- 2024-01-29 (月) 09:01:27
      • 呂岱も若い頃の経歴がはっきりしないので疑えないことはないけど、それを言い出したらきりがないっすね -- 2024-01-29 (月) 15:03:57
      • 儂も混ぜてくれんかのう・・・ -- 来敏 2024-01-29 (月) 18:21:18
      • というか仮に190年で張郃が20歳だとしても、没年に至る頃には60を超えてるわけで、当時としては充分に長生き且つ老将と呼んで差し支えない齢だろう。もし生きてても数年以内には引退を考えてたんじゃないかな。廖化だって関羽に主簿として仕えてた事は正史に記されてるから、没年からすると最低でも70は超えてるし、80を超えてた可能性も充分あり得る。 -- 2024-01-29 (月) 22:33:46
      • あとは劉岱みたいに同姓同名の人物が1つになってしまっているとか?張郃の場合は無さそうだけど、廖化はワンチャンありそう。 -- 2024-01-30 (火) 07:15:29
      • 正史の廖化の経歴に特におかしなところはないし、わざわざ別人の経歴が混ざってるなんていう突飛な事を考えなくてもええやろ -- 2024-01-30 (火) 07:50:24
      • 廖化は261年前後に「俺らもう70過ぎてるのに~」とか言ってるから80越えはなさそうかなあ。 -- 2024-01-30 (火) 12:59:39
      • 261年前後で77~79ぐらいならワンチャン…と思ったけど、その場合「俺らもう80近いのに~」って台詞になるか。261年前後の時点で70~72ぐらいだったと考えるのが妥当かな -- 2024-01-30 (火) 13:33:37
      • その台詞は廖化が言ったんじゃなくて、廖化に対して宗預が行った発言だから、それを根拠に廖化の享年が80歳を超えてなかったとは断定できんな。廖化の方が官位は上だし、両者の年齢に差があっても何らおかしくない。 -- 2024-01-30 (火) 18:11:11
      • 廖化について中途半端なこと書いて混乱させてすみません。みなさんすでに書かれている通り、(正史) 初登場は関羽荊州時代。長命ではあるが異常というほどではない/(演義) 関羽千里行後に少年として登場。正史よりは数~十年長生程度でぎりぎり正史と整合しなくもない/(ゲームの設定) 黄巾の乱勃発から蜀滅亡まで八十年間活躍するスーパー長生き。 -- ↑x10? 2024-01-30 (火) 18:30:01
  • 太尉孟郁の一族と言うと名門の出のように思えるが、孟郁の兄・孟賁は中常侍であったので、ようは曹操と似たような出自である。来敏との確執は、出自からくるコンプレックスも影響していたのかもしれない(来敏は来歙の末裔) -- 孟光 2024-01-31 (水) 05:54:01
  • 劉巴の「兵隊野郎」の話ってどこまで本当なんかね。陳寿曰く保身にかなり気を遣っていたという劉巴の人となりとはまるで別人じゃないか。同じく『零陵先賢伝』が出典の百銭に値する貨幣を鋳造し云々というのも、そんな事したらハイパーインフレになるんじゃ…という突っ込み以前の問題として、劉備が恩賞バラマキ過ぎてすっからかんになるなんていう初歩的なミスするわけねーだろ、仮にも30年近く流浪の軍閥のトップやってる男だぞというのがあるのがあって、どうにも『零陵先賢伝』自体が信用ならない代物のように思える -- 劉巴 2024-02-03 (土) 08:20:02
    • 自分もあまり信用してないな。それに対する孫権と張昭の反応もどう考えても逆だろと言いたくなる反応だし。裴注の中でも『江表伝』や『蜀記』あたりと並んで信憑性に欠ける。 -- 2024-02-03 (土) 10:59:05
      • 江表伝は300年頃に中央から鄱陽に派遣されて情報収集した(経歴から見て)所謂現地の伝承や記録集めたものと考えられるので、成立経緯を考えると情報提供した人の話が正しいかどうかはさておき当時の人の声ではあるはず。忖度した記載する必要ない作者だし、それが胡散臭いのは記録に採用した虞傅と引用した裴松之のセンスの問題かと思うんだよな、今は -- 2024-02-04 (日) 10:59:24
      • 晋書なんかもそうだけど、江表伝は正史三国志と矛盾する点が多いというのが最大の問題かな。三国志成立時には陳寿が当時多くいた呉の遺臣達に取材したにもかかわらず、江表伝に記された様な内容は記載されてない。また概ね呉の人物をひたすら賛美する内容ばかりで、もし本当にそれだけの美談や華々しい逸話あったなら出来る限り呉を顕彰したかったであろう韋昭達が記述しないわけがないというのも信憑性に欠ける大きな理由だな。 -- 2024-02-05 (月) 03:22:36
    • そもそも劉備と諸葛亮、孫権と張昭の会話を載せてる時点で信憑性ゼロだと思います。。両陣営のトップの二人ずつという登場人物のチョイスがまずやりすぎだし、そんな私的な会話を誰が記録したのか、さらにその両方をどうして著者が知り得たのか。そんなこと言い出すと史書の面白エピソードはほぼ信用ならないのですが、その典型的な例に見えますね。 -- 2024-02-03 (土) 12:18:04
      • これは「零陵を誰が領有していたか」を考えると推測が付きます。『零陵先賢伝』編纂時は、呉の支配下であったはず。そう考えると、「呉で劉巴に関するこのような噂話があった」と解するのが穏当に思えます。 -- 2024-02-03 (土) 14:49:44
    • 三国時代に現代的な意味の経済学の知識があったわけでは無いから、当時はそれが通用したのかも知れません。 -- 2024-02-03 (土) 14:47:27
      • 歴史上何度も起きてるしねえ・・・長期的に見れば悪手だが、短期的に見れば妙手、あるいはその時はそうせざるをえなかった・・・なんて政治ではよくある事だし。 -- 2024-02-04 (日) 01:02:21
      • 金属としての価値は低くても国家が価値を保証するってやり方は進歩的ではあるんだが、山奥のいち軍閥では到底無理な方法よな。 -- 2024-02-04 (日) 19:16:21
      • 貨幣政策の歴史は戦国時代からかなり蓄積があるから当時の知識は侮らないほうがいいかも。一応劉巴の百銭策は価格統制とセットで成功したという体で記述されてはいますね。古代中国経済史が専門の柿沼陽平氏は、決済用の銭の不足に対応した急場凌ぎの政策と推測されています。 -- 2024-02-05 (月) 15:40:37
  • 董卓の孫娘の白。息子の孫なら董姓だが、嫁に行った娘の孫だと旦那の姓だよな。まあ、原密に考える必要ないが。婿養子の牛輔がいるから、牛輔の娘では?牛白。 -- 2024-02-03 (土) 14:52:58
    • 直径でない娘婿の娘が領地を与えられる程優遇されるかなぁ。牛輔が二千石とは言え封地の記録がないから微妙なところだ。 -- 2024-02-03 (土) 23:13:09
      • 寿命が短い時代だし、董卓に男子がいて直系の孫娘もできたが、王允のクーデターより前に息子は病死していたとか普通にありそうですね。史書に記録がないのは資料不足で載せられなかっただけ。 -- 2024-02-04 (日) 05:22:37
      • 実際、司馬朗伝に司馬朗と同い年(171年生)で、董卓が洛陽を占拠した頃(190年頃)に死んだという董卓の息子の話が出てくるからね。董白がその息子の娘だったというのは普通にありえる。早世した息子の忘れ形見だったら、領地を与えるほど溺愛していたのも頷けるし、董白の年齢は15歳未満だったことしか分からないから、乳飲み子だったとしても矛盾はない -- 2024-02-04 (日) 06:27:11
  • 鄧艾は蜀を滅ぼした後、遺臣を王官にしたとあるけどこれ勝手に劉禅を扶風王にしてるんじゃ -- 2024-02-04 (日) 03:38:39
    • そだよ。だから勝手な事すんなって問題になったわけで・・・。 -- 2024-02-04 (日) 13:09:44
    • 司馬昭に釘刺されたのに無駄に猛反論してるし、ぶっちゃけ衛瓘がいなくても粛清されてたと思う。だいたい、曹丕に禅譲した献帝が山陽公なのに、魏視点ではただの逆賊である劉禅をそれより格上の王にしろとかアホかと -- 2024-02-04 (日) 14:00:32
    • 一応鄧艾本人としては劉禅やその遺臣を厚遇すれば孫休に降伏を促す材料になると考えたみたいだけどやりすぎだよな -- 2024-02-04 (日) 16:46:58
    • 諸葛瞻に「琅邪王にしてやるから降伏しろ」と言ったのもねえ… マジで言ってるなら論外だし、挑発などが目的で言ってるにしてもリアリティがなさ過ぎて駄目だろ。いずれにせよ、こんなふざけた内容の使者をやらされたうえに斬られた使者が可哀想だ -- 2024-02-04 (日) 17:06:09
      • 一応曹氏の琅邪王が健在なのにそんなこと言い出すのはかなりクレイジー -- 2024-02-04 (日) 19:28:58
    • ただでさえ大軍を預かる将軍は謀叛を疑われないよう繊細な配慮が求められる立場で、しかも蜀漢を滅ぼした時の司馬昭は曹髦を殺っちゃった後で、魏臣なら誰でも「逆賊司馬昭を討つ!」と決起する大義名分が用意されている状態だから、余計にそうゆうのが求められていたのにまるで分かってなかったのが致命的だよな -- 2024-02-05 (月) 06:25:44
    • 鄧艾は元は農業・土木系の文官から司馬懿に見出されたらしいが、あの野心はどう生まれたのか?やはり吃音症でバカにされてきたからかな? -- 2024-02-05 (月) 17:44:57
      • 同じことを裏返しに言っているだけかもですが、ものすごい才能の主で実務畑の人物なんで、鍾会衛瓘らが中央政界の育ちのいいアホに見えて仕方なかったんじゃないですかね。そして彼らが諦めかけた征蜀を奇策で成功に導いたばかり。その上もともと軍幹部に支持者も多い。どんなに反対されようが、最善の策を持っているのは自分だ、と思い込むのもわかる気はします。 -- 2024-02-05 (月) 20:13:55
  • 陶謙には商という息子がいたとか。三国志7の攻略本のに新武将作成見本コラムがあり、正史のみ記述ある武将として作成してみては?という表記があった。劉備とは折り合いが良くないと記述されているらしい。 -- 2024-02-04 (日) 16:44:44
    • 陶謙の年齢からして陶商も陶応も成人してたと思うが両名とも仕官しなかったとわざわざ書かれてるぐらいだから武将として登場しても弱そうだな -- 2024-02-04 (日) 17:39:37
      • 陶謙が享年63だから二人ともそれなりに歳いってたはずなのに、官吏としてキャリアを積んでいた形跡も、徐州で活動していた形跡もないのは不思議だよな。もしかしてこいつらずっと丹陽郡の豪族として地元を守ってて、そもそも徐州に来てないんじゃないのか。陶謙が徐州に来たのは185年以降で、もう50代だから、地元の地盤を息子に譲っててもおかしくはない -- 2024-02-06 (火) 06:44:23
      • ↑陶謙派の王朗は孫氏によって攻められるわ、徐州は曹操のものになるわで陶謙死後の一族肩身狭くて困窮してそう -- 2024-02-06 (火) 08:52:03
      • 陶謙と陶濬が親類という説に従うなら(ただし本貫はそれぞれ丹陽県、秣陵県と違う)、呉に仕えたのは孫権の支配が確立してからなので、陶商と陶応は在野で通した、と理解すればよいのだろうか。 -- 2024-02-06 (火) 15:01:58
      • 陶商・陶応が丹陽に残ってたのなら、徐州を劉備に譲るという遺言も納得がいく。いかに息子だろうが、徐州に来たこともない人間を後継にしても誰も納得しないだろうし、そもそも、曹操に恨まれている上に荒廃した徐州を、息子に丹陽の地盤を捨てさせてまでして渡したいかと言われるとね… -- 2024-02-06 (火) 15:43:28
      • 陶謙が慈悲深い名君の場合→徐州の民のためにも劉備のような英雄に譲りたい
        陶謙が強欲な群雄の場合→曹操に攻められる貧乏くじを息子に引かせたくない -- 2024-02-06 (火) 16:20:39
      • そもそも勝手に州を譲る権限なんかないから、緊急避難的に能力ある人間に任せるなら兎も角、息子に譲るは道理が通らんと思う。劉表クラスに中央無視して好き勝手やってる奴ならまだわかるが。 -- 2024-02-06 (火) 20:14:48
      • 息子に譲るは道理が通らんというのはその通りだと思うが、陶謙は闕宣とかいう自称皇帝とつるんで兗州を荒らし回ってるから、それこそ劉表クラスに中央無視して好き勝手やってる奴そのものだと思うぞ -- 2024-02-06 (火) 22:28:18
      • 寒冷化で滅茶苦茶になってた北と比べて、まだマシな南に地盤をキープしつつあわよくば揚州の覇権をって腹積もりだったのかも。 -- 2024-02-07 (水) 01:16:19
      • 陶謙の「劉備でなくては徐州を安んずることはできない」という言葉の通りなんじゃないですかね。仮に応なり商なりに跡を継がせる、と遺言したところで、履行されたかどうかは甚だ怪しいと思います。 -- 2024-02-07 (水) 04:03:20
      • 曹操の怒りの矛先を逸らすには、一切関わってない完全な余所者の方がいいしな。 -- 2024-02-07 (水) 05:23:55
      • 徐州の民を思う優しい爺は創作で、実際は野心のある群雄が正史の記述だからな。たしか陶謙は袁術派だったはず。劉備の庇護者の公孫瓚も袁術派。最初から袁術派で徐州を固めるために劉備が送り込まれただけで、曹操が徐州を荒らした云々はやはりフカシでしょ。 -- 2024-02-07 (水) 06:09:56
      • 魏書に書かれてるのにフカシとか言い出すと何も信じられないぞ。あと陶謙はその頃には袁術と手切れになってるし劉備の徐州割拠を支援したのは公孫瓉じゃなく(青州で袁紹と公孫瓉に挟まれてた)孔融だぞ。 -- 2024-02-07 (水) 07:13:16
      • ↑とすれば、その劉備が袁紹派に鞍替えしたのは皮肉な結果よな。まぁその後で呂布が袁術派として再奪取してるっぽいけど -- 2024-02-07 (水) 07:15:21
      • まあ曹操パッパ殺されたのもぶっちゃけ陶謙個人がどうとかよりは袁紹袁術の派閥と領土争いの流れの巻添えの産物だしなあ、たぶん。公孫瓚の援軍で出張った発干は濮陽から少し東の辺りになるのでヒャッハーするの関係なく、兗州東部とは小競り合いしてたってことになるし、敵側の一門いるとこならそら狙うわな、地雷ふんだけど。 -- 2024-02-07 (水) 13:02:56
      • というか、そもそもなんで曹嵩は琅邪郡を避難先にしてたんだろうね。琅邪郡は世紀末青州に隣接してるからか、琅邪郡出身の徐盛や諸葛瑾が地元を離れるのを決断するくらい荒れてたようだが… どうせなら、息子の友達(蔡瑁)がいる荊州に逃げてればよかったのに… -- 2024-02-07 (水) 14:10:13
      • 蔡瑁と旧知と言っても曹操の都デビューから董卓台頭以前の10年ちょいのどこかだし、霊帝時代に一緒に仕事したよねーくらいでは? -- 2024-02-08 (木) 02:46:26
      • 流石にマークされてただろうから、他の避難系武将みたくホイホイ逃げらんなかったんじゃないかね。逆に曹操とも一線引いて大人しくしてれば、袁術的にはあえて董卓と同じ事して声望を落とす様なマネはしないだろうって計算も有ったのかも。 -- 2024-02-08 (木) 04:19:16
      • 董卓任命の官吏が居らず、董卓の軍が届き辛く、避難出来るだけの伝手があるところが琅邪だったんだろうね。多少荒れてるのは却って好都合に見えたのかもしれない。 -- 2024-02-08 (木) 14:49:53
      • 豫州刺史黄琬や沛国相袁忠が曹操縁者の逮捕に動いていたので、ともかくも州外に逃れることが最優先だったんでしょう。とすると逃げる先は徐州しかない。もともと陶謙と接点があった可能性も多いにありますが。 -- 2024-02-08 (木) 15:40:58
      • そもそも後漢末の群雄達を袁紹派袁術派と単純に二極化できるものなの? -- 2024-02-09 (金) 19:20:37
      • 群雄割拠前期の第一近似としてはいいんじゃないですかね。派閥争いというよりは、敵の敵は味方原理で両雄を中心とした陣営にゆるく分類できる、という印象ですが。 -- 2024-02-09 (金) 19:55:15
      • 袁紹と戦ってるから袁術派とか袁術と敵対してるから袁紹派とかそんな程度だからね。どちらの派にしても別に袁紹袁術のために戦ってるというつもりなんて無かったでしょう。遠交近攻策の結果そういう形になったという話かと。 -- 2024-02-12 (月) 23:25:38
      • ざっくり言えば、袁家(や皇帝持ち勢力)は信長の野望の足利みたいに仲良くしてると官位や役職くれる存在なのよね。ゲームと違うのは、敵対すると自分が実効支配してる土地に「本来の統治者」と言う名目の別の君主を送り込まれてしまい最悪逆賊にされかねない事。だから、どっかとは仲良くするしかない。 -- 2024-02-13 (火) 04:05:30
    • てか息子二人の仕官しなかった件は呉書引用で他の部分にはないみたいだから、陶謙も丹陽に逃げようとしたくらいなんで息子も丹陽にいた(または親父は徐州から逃げれなかったが息子は逃げ切った)って可能性あるかな?仕官しないってのも劉基何かと同じで有力者一族囲い込みの一環で拒否られたみたいな -- 2024-02-08 (木) 03:55:44
      • 『呉書』は(陶商と陶応は)「曹操に従わなかったので仕官しなかった」というニュアンスで記事にしたのだろうか。「この時点の孫権はスルーした」という可能性もあるが……。 -- 2024-02-08 (木) 13:50:22
  • 自分が気に入って腹心にした丘建にすら裏切られたというのが、鍾会の君主(にもなれてないが)としての器量・カリスマのなさを如実に現している。この様じゃ、仮に独立できたとしても姜維に排除されて終わってたんだろうな -- 2024-02-12 (月) 07:20:28
  • 曹操がたびたび江東に遠征しようとしても、疫病により撤退するケースがある。従軍した司馬朗も疫病で死んでいるし。新型コロナが武漢(江夏)から始まったとされているし、長江沿いは昔からコロナの変異を繰り返しているのでは。 -- 2024-02-13 (火) 17:48:16
  • 魏や呉の領土からも蜀銭が多く出土しているらしいし零陵先賢伝の記述はともかく蜀は貨幣に関しては上手く回していたんだろうか -- 2024-02-14 (水) 23:41:37
    • 蜀は銅の産地で金属加工技術も高かったはず。うろ覚えで出典が示せず申し訳ないですが...。前近代では貨幣のモノとしての精度と信用性が直結してるので、質の良い貨幣は好んで流通されたのでは。 -- 2024-02-15 (木) 00:26:01
    • 蜀銭と言うかこの時代の銭はほぼ粗悪品だからあまり信用にならないぞ…特に蜀では貨幣価値の低下とインフレが起きた可能性があるみたいだし -- 2024-02-15 (木) 04:57:57
      • それはあくまで零陵先賢伝を鵜呑みにした一部の人達が言ってるに過ぎんからなあ。他国にも大量に流通していたというのは一定の価値を認められて信用されてなければ起こり得ない事だぞ。 -- 2024-02-15 (木) 11:20:57
      • 出土文物をちょろっと見ただけだけど、魏銭は粗悪品そのものだけど、銅の産地を抑えている蜀呉の銭は比較的ちゃんとしている。 -- 2024-02-15 (木) 23:14:14
      • 魏銭はやっぱり粗悪品なのね…。それについて董卓時代の五銖銭の影響が~って意見も見たけど、中華の三分の二を制して何十年も経つのにもういい加減董卓時代の負の遺産で引っ張るにも限度があるでしょ。物価高騰したって話もあるし意外と魏の経済政策は宜しくなかったのだろうか。 -- 2024-02-16 (金) 03:57:58
      • そもそも貨幣の流通量と質の確保は歴史上ずっと大問題で、その上最大銅産地の蜀を失ってる状態では仕方なかったんじゃないですかねー。 -- 2024-02-16 (金) 04:16:20
      • 北は寒冷化ってデバフ食らい続けてるからね。ずっと凶作続きの中、食料不足で南下してくる騎馬民族に睨みを効かせつつ南の逆賊どもと戦い続けてたんだから、実際は結構なハードモードだったと思うよ。 -- 2024-02-16 (金) 07:36:21
      • 逆に蜀は森林資源、鉱山資源が豊富な上に西南交易の玄関口でもあったという利点はあんまり注目されていないかもですね。南中は僻地っぽいイメージだけど人口もかなり多いし、実は蜀の命運を握る地域だったかも。 -- 2024-02-16 (金) 19:22:40
      • 上2 曹操の息子が子飼い連れて督戦に来るくらいだから安定期すらギリギリだしな、破綻して田豫更迭されちゃうし -- 2024-02-16 (金) 23:39:38
      • 別に田豫の経営は破綻してはなかったけどな。王雄の一派に讒言されて代えられただけだし。 -- 2024-02-17 (土) 09:43:20
      • 田豫の転出はタイミング的におそらく馬城の失態(※田豫伝では勝利のように書いている)の直後で、軻比能の勢力伸長を止められていないと判断されてたとは思う。魏は軻比能が諸葛亮と結ぶことをかなり警戒してたので、馬城の囲を転機として対鮮卑政策を転換したのかと。汝南太守なら左遷感もないし。 -- 2024-02-17 (土) 14:16:40
      • 田豫が汝南太守に転出したのは228年~234年の間としか分からんから、馬城の件が原因なのか軻比能が蜀漢と通じるのを防げなかったからなのかは不明だな。馬城では帰陣する途上で魏に臣従してる筈の軻比能に大軍で包囲されて囲まれたけど、閻志や牽招の助けを得て助かってるし、戦って敗北したわけでは無い。本来の目的であった鬱築鞬は大破してるしね。 -- 2024-02-17 (土) 17:08:29
      • (続き)曹丕・田豫の方針は武力と謀略を使っての鮮卑や烏丸への離間策だったけど、そうした田豫の方針が自身にとって不都合だったから軻比能は背いたわけで、何をもってあなたが田豫の経営は破綻してたと断言されるのかが分からんな。事実としては田豫は歩度根や泄帰泥・蒲頭・素利を中華側に取り込んだり、骨進桀黠や鬱築鞬の討伐に成功したりと多くの功を成したけど、曹叡・王雄の懐柔策では軻比能の勢力は全く削げずに強大化する一方だった。一度は味方に取り込んだ歩度根や泄帰泥の部衆まで軻比能の勢力下に取り返されるまでに及んで、結局は田豫と同じ様に武力や謀略による実力行使もやむなしという様に方針変更した上で最終的には軻比能を暗殺するしかなかったのに。 -- 2024-02-17 (土) 17:35:09
      • それまでの戦略が限界に近くなって崩れた(身内含め)という点では方針破綻と言えるんじゃないか?問題なのは後任が修正出来てない事(いまちょうどマチ★アソビさんが割と似たようなリアリティ溢れてて辛い) -- 2024-02-18 (日) 00:16:08
      • 後任が田豫の方針(武断・離間策)を批判して異なる方針(文治・懐柔策)にしておきながら、功を挙げることが出来ずに最終的には大失態をしでかして田豫と同じ方針に戻してる時点でどちらが正しかったかは明確じゃないかな。少なくとも田豫・牽招は上で列挙した様に鮮卑の弱体化に多く寄与してるのに対し、曹叡・王雄は現状維持どころか田豫らの成果の一部まで台無しにしてる。前後を繋ぎ合わせると田豫の方針が破綻したというより、曹叡・王雄の見通しが甘かっただけの様に思えるけどね。 -- 2024-02-18 (日) 01:07:39
      • 破綻してたとまでは自分は思わないけど、王雄の建議を朝廷が是としたのも間違いない訳で。馬城は最悪のケースは免れたにしても田豫の失態には違いないし、本当にやらかしてからでは遅い。命令違反の前科も考慮されたかも。田豫は有能だが若干制御が難しい鄧艾・杜預タイプですね。妄想混じりに言うと、田豫伝の出所は杜預まわりの人なんじゃないかとさえ思ってる。 -- 2024-02-18 (日) 12:12:08
      • 横からですまないけど、↑のは田豫が破綻していたことと関係なくない?失態に関して失態してないとは誰も言ってないだろうし。 -- 2024-02-18 (日) 12:34:18
      • 田豫の離間策が退けられて、王雄の懐柔策が採用されたのは田豫や歩度根・軻比能の伝を読む限りでは、王雄一派の政治工作があったこと(単に政策の違いというより、寒門の出と思われる田豫を疎んでいたのかもしれない)、加えて穏健な辺境政策を望んだ曹叡の意向が大きく働いている様に思う。曹叡が辺境を穏健に収めたいと思った理由は明確ではない(君主として徳を示したいとか、宮殿造営の邪魔となる戦費は極力出したく無いとかだったのではないかと思う)。 -- 2024-02-18 (日) 13:09:39
      • (続き)いずれにせよ王雄・曹叡の横槍の結果として、元々は鮮卑の有力派閥の中では弱小な勢力だった軻比能が中華側の介入に煩わされることなく勢力伸長に専念できる様になり、歩度根の離反、畢軌の大敗、更には財政に多大な負担を強いる大軍を動員しての辺境での戦役にまで発展し、田豫の馬城の囲などとは比較にすらならない大失態に繋がっているというのが事実。 -- 2024-02-18 (日) 13:31:37
      • (続き2)田豫も軻比能を甘く見ていたことが馬城の囲に繋がったけど、少なくとも王雄や曹叡と違って彼は軻比能が中華に心服する事がないと見抜いていたんだろう。だからこそ明確に敵勢力と見做して離間策を徹底していたし、田豫は味方に付けた烏丸や鮮卑の戦力を利用して敵対した烏丸や鮮卑の勢力を撃つ以夷制夷を基本としていたから、財政的な観点からも(最終的には大軍を動員して辺境まで派遣せざるを得なくなった)王雄や曹叡より優れていたと思う。 -- 2024-02-18 (日) 13:33:50
      • いや私は破綻とは思ってない派ですよ。名前書いときゃよかった(「田豫の転出」「破綻したとまでは」の人)。『田豫に取って代わろうとした王雄に讒言で追い落とされた』とでも言いたげな田豫伝のストーリーは鵜呑みにすべきでないと思いますが。 -- 2024-02-18 (日) 15:59:01
      • 田豫って出自や経歴からしてもわざわざ伝を忖度される人物では無いように思うが。賈逵とかを鵜呑みにできないはわかるけど。 -- 2024-02-18 (日) 16:56:56
      • にもかかわらず明らかに持ち上げられた記述になっているのが興味深いと思っています。馬城の囲は鮮卑伝では軻比能の脅威を象徴する事件として特筆されており、田豫伝ではまるで勝ったかのような書きぶりなのが一例。列伝というのは多かれ少なかれそんなもんと言えばそれまでですが。 -- 2024-02-18 (日) 17:11:52
      • 結果から言えば田豫の勝利で間違いではないでしょう。田豫は軻比能の娘婿である鬱築鞬に対して懲罰として軍を出し、これを大破することに成功したし、帰陣の途上で小勢になったところを馬城で奇襲的に包囲され窮地に陥ったけど、同僚らの助けを得て最終的には軻比能を退却させている。逆に軻比能からすれば田豫のせいで素利を討つこともできず、歩度根や泄帰泥も取り込まれ、娘婿の鬱築鞬も大破されて、憤懣やるかたない気持ちで大軍で包囲にまでおよんだのに、牽招の援軍に包囲を解かされて田豫を討つことも出来なかったわけで、勝利とは欠片も思えなかっただろう。それなのに厄介極まりない田豫を魏の上層部が進んで転出してくれたんだから、軻比能はさぞや狂喜乱舞したんじゃなかろうか。 -- 2024-02-18 (日) 22:17:02
      • 鵜呑みにできないとか明らかに持ち上げられたというのは斜めから見過ぎだと思う。興味深いもなにも田豫にそういう要素が無い以上はそのまま読むのが自然じゃなかろうか。 -- 2024-02-19 (月) 08:12:35
      • そもそも馬城の囲を田豫の勝利のようにしているってどの部分のことなのだろうか。 -- 2024-02-19 (月) 08:25:42
      • 田豫伝「追豫到馬城、圍之十重、豫密嚴、使司馬建旌旗、鳴鼓吹、將歩騎從南門出、胡人皆屬目往赴之。豫將精鋭自北門出、鼓譟而起、兩頭倶發、出虜不意、虜衆散亂、皆棄弓馬歩走、追討二十餘里、僵尸蔽地。」を読んで、烏桓鮮卑伝の冒頭で「田豫には馬城の囲という失策があった」と書かれているのと同じ事件を指しているとは一見わからないと思いますよ。日本語wikipediaの記事も混乱しています。 -- 2024-02-19 (月) 14:41:58
      • 辺境の名将たる本伝の田豫と、鮮卑伝で「田豫有馬城之圍」といきなり名指しされた上に軻比能の離反と増長の原因とでも言いたげな書かれ方の(さすがにアンフェアな...)豫との乖離は無視できないかと。それぞれの執筆背景によるバイアスを想定しないとどうにもならん気がします。 -- 2024-02-19 (月) 16:46:39
      • 蜀銭も、発掘品の展示を見たけど割と小さかった。南征は銅山の産地が含まれているが、まだ足りなかったらしい。あと、蜀漢も呉も高額貨幣を出していて、蜀漢の「直百五銖」(五銖銭100枚分)は実物が発掘されている。呉は「大泉五百銭」「大泉千銭」同じく500と1000枚分がやはり発掘されている。悪銭が増えて100枚単位の取引が当たり前になったために「100枚分」を作ったらしいが。https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/kinken/mod/gra_china12.pdf -- 2024-02-19 (月) 17:28:30
      • 魏はどうなったかというと、貨幣が不足して粗悪品になったために、穀物・麻布・絹布が実質通貨として機能する物々交換に先祖返りした(蜀呉でも程度の差はあれ同じ事態は起きた)とリンク先にはあった。 -- 2024-02-19 (月) 17:33:55
      • ↑3 于禁や曹仁も失態については本人の伝ではなく、他者の伝に書かれてる。当人の伝では功績を厚く記して、失態は他者の伝で書くのは史家の筆法としてありふれてるのに、何故に田豫だけにそうまでバイアス云々と言い立てるのか、理解できないな。 -- 2024-02-20 (火) 03:04:45
      • 比較にしている鮮卑伝ですら牽招や梁習の活躍は一切書かれてないからね。上の方のように田豫のほうだけ疑問視する意味はわからない。省略しているだけで事実を捻じ曲げたりしてるわけでもないし、普通に読めると思うけど。 -- 2024-02-20 (火) 08:15:22
      • 田豫だけじゃないですよ、もちろん。極論すると全員の伝が全てバイアスだらけ、創作まみれで鵜呑みにできないのは当然という前提で話してます。複数の原史料を参照しているため相互に矛盾や不一致が発生していますが、陳寿はさほど気にしていないらしいので、田豫伝と鮮卑伝のような不整合はいろいろなところで起きていますよ。 -- 2024-02-20 (火) 12:18:59
      • 全ての伝を信用しないとするならそもそもあなたが談義に参加する理由はなんなの?って感じだ。信用できない鵜呑みにできないって言うだけなら話の腰を折るだけに思える。袁術や賈逵みたいに背景があってバイアス云々で鵜呑みにできない信用できないはわかるが、大した理由もないのにそう言うのは意味がないと思う。 -- 2024-02-20 (火) 12:27:07
      • 伝の全てを鵜呑みにすると端的に相互矛盾が生じるので全く読めません。本伝は性質上伝主に肩入れしすぎるものなので、鮮卑伝と付き合わせることである程度当時の評価が復元できる、というのが私の言いたいことです。結論(というほどのものではないが...)についてはすでに書いたので繰り返しません。鮮卑伝だっておかしいことだらけですよ。軻比能の内心を知ったふうに書いてるとことか、「匈奴の故地を全て平げた」みたいな事実に反する記述は事情を感じさせますね。 -- 2024-02-20 (火) 13:35:49
      • それはそうだろとしか…。誰にでも当てはまることをわざわざ特筆すべき背景があるわけでもない田豫でバイアスがーとか鵜呑みにすべきじゃないとか言うのが違和感なのよ。全ての武将の談義で鵜呑みにすべきじゃない、不整合や乖離がある!って言って回るの? -- 2024-02-20 (火) 13:45:45
      • そんなわけないですよ。田豫の話題が上がってたのでコメントしただけです。もちろん他の事例についてもいくらでも書きたいことがありますが。 -- 2024-02-20 (火) 13:57:28
      • 途中からだけ読んでコメントしてない?そもそも鮮卑伝との比較はされてたし、そのうえで田豫の名将みたいな評価は不当だって言う方がでてきてたはずだが。 -- 2024-02-20 (火) 14:44:46
      • ↑4、6 端的に言って、仰せになりたい主張がよく分からないですね。最初に切っ掛けとなったコメ主と違って、あなたは田豫の経営が破綻したとは思ってないとのことですし、「王雄の建議を朝廷が是とした」との仰せについては結果として田豫と同様の方策に回帰している点から(王雄および彼を選んだ曹叡の)明確に失敗だったことは既に述べた通り。失態が本人ではなく他者の伝に記されているのは多くの人物も同様であり史家の筆法としてそうであるに過ぎないし、田豫伝での記述は馬城の囲においても活躍した内容を抜粋してあるだけで軻比能の伝と矛盾する訳ではない。あなたが何をもって明らかに持ち上げられてると主張しているのか、その明確な論拠が見えてきません。 -- 2024-02-20 (火) 20:37:14
      • 察するに、さらに別人が鵜呑みにすべきではないというコメントを残しているのだと思います。矢印を向けている方はどちらかに偏ったコメントをしているわけではなくどちらも信用できない、片方の伝だけで評価はできないという内容のコメントではないでしょうか。なぜか最初から比較しているにも関わらず、伝を突き合わせるべきだと謎の主張をしていますが。 -- 2024-02-20 (火) 21:28:18
      • 鮮卑伝冒頭(陳寿の自筆部分?)で、「田豫有馬城之圍、畢軌有陘北之敗。青龍中、帝乃聽王雄、遣劍客刺之」(之=軻比能)とあるのはみなさんどのように解釈されてるんですかね。田豫そんな扱いかよ、って自分はびっくりしたんですが。 -- 2024-02-21 (水) 00:59:41
      • ついでに書くと、田豫はまず名将(定義はひとそれぞれでしょうが)と言って差し支えないと思いますね。汝南太守時代に青州に起用されたり、再び辺境統治に起用されたりしているのは、護烏桓校尉時代の実績が評価されていた以外の理由が考えづらいです。寒門の出で、中央官界の人脈というと鮮于輔くらいしかいなさそうですが、最後は衛尉にまで登っています。度々弾劾されているのも、本人の気質以外にも寒門の出(仕返しされない)という理由が大きかったかもしれません。 -- 2024-02-21 (水) 01:18:03
      • ↑2 あの記述については田豫の扱いがどうこうというより、鮮卑がそれ程に中華にとって厄介ないし危険な勢力であることを強調する目的で書かれたと認識してますね。鮮卑伝と田豫伝の記述に乖離や違和感を感じるのであれば、それは田豫を持ち上げた結果というよりは、王渾や王戎・王衍に陳寿が配慮した結果、田豫を転出させてまで行った王雄の懐柔策が失策だったことを明記できなかった事が原因なのではないかと思う。 -- 2024-02-21 (水) 03:20:29
    • 零陵先賢伝は黄蓋のことも考えると孫呉の時代に地元の有能マンをヨイショしたかったのと、劉備が南征したときの恨みでもあるんか?って印象なんだよな。劉巴が悪いインフレ起こしたかっていうと正直胡散臭いかなと思う、経済政策を行ったのは事実だろうけど -- 2024-02-16 (金) 10:25:24
      • 兵隊野郎の一件は言うに及ばず、直百五銖銭のエピソードもあれしれっと劉備を30年近くも軍閥の頭をやってるくせに、恩賞をばらまくさじ加減も分からんアホにしてるから、劉備陣営への悪意しか感じない -- 2024-02-16 (金) 17:54:48
      • 張飛伝や劉璋伝見るに恩賞は劉備自身で差配していて取り放題なんて状況とは思えないしなあ -- 2024-02-16 (金) 23:29:35
      • 霍峻が恩賞を貰うまで3年ぐらいかかってるから、かなり戦後処理に時間をかけてたみたいだしな。とてもじゃないが、雑にばらまいてたとは思えない -- 2024-02-17 (土) 05:53:26
      • 江表伝といい孫呉関係の書は何というかアレなのが多いって印象が強くなるな…(同様の書が魏蜀に無いとは言わないけど) -- 2024-02-18 (日) 00:23:36
      • 魏略(の陳寿が不採用にした記述)にはかなりアレなのが混じってますね。。 -- 2024-02-18 (日) 17:13:23
      • 滕脩がヒゲが4丈4尺(1丈=10尺、三国時代の1尺は約24.2cmなので、10m越えの立派なヒゲである)ある海老を見せられたという話とか、何を思ってこんな話を書こうと思ったのか逆に気になるわ。なおこの話の出典は呂岱伝に引く『交広記』で、『交広記』の著者・王隠は裴松之に(この海老の件とは別件でだが)虚説だの、智者の口を閉ざす所であるだのと酷いことを言われまくっている。残念でもないし当然 -- 2024-02-18 (日) 19:59:20
      • 呉は東晋になってからの文献も多い。おかげで蜀漢よりは史料が残っているのだが。呉の文献では、曹操悪行集のプロパガンダといえる『曹瞞伝』は、信憑性はお察しだが、曹操悪人伝説を膨らませるに当たって大いに活用されている。 -- 2024-02-19 (月) 17:37:09
      • 史料が少ないおかげで処刑されたやつは国や組織からは存在ごと消されるが一族や郎党は記録を残す、というのを身を以て歴史に残した李邈とかいう失言王 -- 2024-02-22 (木) 01:21:06
      • 仏の顔も三度という諺を体現した男だな。もっとも歴史に残るレベルの暴言が3回だっただけで絶対普段からもっと言ってるんだろうなという気がするが。 -- 2024-02-24 (土) 07:08:23
  • 三国の英雄本人の能力の全盛期って、曹操なら官渡から袁家と烏桓の征伐辺り、劉備なら蜀を得てから漢中攻め取って漢中王名乗った頃が全盛期かなって感じだけど、孫権の全盛期って今一つ判断に悩むな。夷陵で勝った後に劉備と再度修好にこぎつけながら魏の侵攻を撃退した頃だろうか。 -- 2024-02-19 (月) 22:06:06
    • 意地悪く「赤壁じゃない?」って言ってみたくなるけど、おっしゃるとおり夷陵~皇帝即位あたりでいいでしょうね。あの節操ない(※褒めてます)外交戦略は見事というしかない。もっとも他二人と違って戦場に出ずっぱりだったわけじゃないので、正確な最盛期を見極めるのは難しいですね。 -- 2024-02-19 (月) 23:50:21
      • 皇帝即位を正当化する手際は見事だと思うけど、そこに至るまでのムーブはちょっとな。特に、雍闓たちの扇動と蜀漢との再同盟を立て続けにやって、南中方面に中途半端にちょっかいかけて放り出す格好になったのはいただけない。南中豪族からの信用がなくなって将来的な調略がやりずらくなるし、士一族を抹殺するほどご執心だった南海貿易にも悪影響が出そうだしでかなりの悪手だと思うんだが -- 2024-02-20 (火) 06:34:13
      • じゃあどこが能力の全盛期だと思うの?ってことよ。全盛期って別に良いことだけしてないといけない条件ではないし。 -- 2024-02-20 (火) 08:33:55
      • じゃあ割と真面目に孫策死亡から赤壁までの間で。孫策のカリスマ頼りで、官職が低すぎて揚州を治める名分すらなく空中分解寸前だった孫家を、なんだかんだ大勢力として生き残れるとこまで持っていったところが一番の評価ポイントだと思う。そこからは先は正直うーん… -- 2024-02-20 (火) 09:19:42
      • その時期の少なくとも前半は孫権というより呉太妃張昭ら中心の集団指導体制に近いと思う。孫権の役割を否定するものではないけど。一つ二つの失策を問題視するなら、曹操や劉備なんかもっとひどいやらかしの連続ですよ。 -- 2024-02-20 (火) 12:26:29
      • 枝主に同意だな。領土的にもほぼ最大だし、二枚舌外交とはいえ荊州を領有して皇帝即位を認めさせたことは功績かなぁ。戦場での評価はないに等しいが、別に戦える君主である必要はないし。 -- 2024-02-20 (火) 15:15:06
      • ちょうど40台の頃だし年齢的にも全盛期迎えるころかもね。劉備はちょっと遅いけど。 -- 2024-02-20 (火) 17:09:34
      • 自分は「孫権は最後まで呉国による統一を諦めた訳では無かった」と考えていますが、そうすると呉の戦略として荊州が欲しかったのは判るにしろ、呉蜀の武力衝突を招いた選択は長期的にはやはり失策だった思っています。夷陵で勝てたのは結果論ですし、その後に荊州からの北伐ルートを活かせている訳ではないので。ただ、夷陵敗戦後の劉備との対等な形での再同盟の判断とそれを成功させた使者の起用、曹丕の多方面侵攻を完全に撃退したあの時期は三国で呉が最も存在感を放っていたと感じるので、あの時期かなと。 -- 2024-02-20 (火) 20:08:26
      • 全盛期=全部上手くいくじゃないしな、呉の建国あたりが孫権全盛期でいいとおもう、扱いにくい周瑜魯粛が消えた辺りとも言うな。上で言う蜀入りから漢中までの劉備も相応に損害出してるし。 -- 2024-02-22 (木) 01:16:14
      • 全盛期=あとは落ちるだけというすごい嫌な見方をしてもあてはまるかな… この頃から、公孫淵やら夷洲・亶洲の探索やらで晩年のやらかしの片鱗を見せだしてるし… -- 2024-02-22 (木) 07:16:20
      • 遼東との連携は魏への対抗手段の模索、夷洲・亶洲の探索は呉の人口不足対策と、事態改善のためにあらゆる手を模索したという意図は判るけど、部の悪すぎる博打を強行して爆死した結果に終わってしまったな。特に公孫淵については他の群臣から散々信用できないと諫められたのに強行だから、孫権の判断力が低下してきてると言われても仕方ない。 -- 2024-02-24 (土) 04:15:03
  • 『介象に隠形の術を学び、姿を隠したまま殿門を出入りして見たところ、誰も孫権に気がつかなかったという』 …なんか、全力で見なかったことにしてる呉臣の皆様や、空気を読まずに「君主がそのような怪しげな術にはまるとは何事か!」とか何とか言って説教している張昭の姿が脳内再生されたんですけど、気のせいですかね…? -- 2024-02-22 (木) 07:44:22
    • 王表とかいう透明人間(?)を住まわせるために屋敷建てたりする人だし、本人は全力で信じてる姿が容易に想像できるぞw -- 2024-02-23 (金) 04:48:04
    • そういや孫策は于吉と揉めたという話が(信憑性はともかく)史料に残ってるから、その手の方士とか宗教家とはそういう関係だったんだろうなと察せられるけど、孫権はわりと真逆だな。そういう所でも対照的な兄弟だ。 -- 2024-02-25 (日) 04:07:30
  • そういやなんで尹奉って出してもらえないんだろ、倉慈も登場するようになったし復活してほしい -- 2024-02-22 (木) 10:00:58
  • 魯粛って孫権に会って早々に戦略構想と共に帝位に就いて覇業を成せと言ってる辺り、内面の漢朝は1か2でも良さそうだけど、標準的な3を貰ってるのは演技の常識人な人物像を加味した設定なのかな。 -- 魯粛 2024-02-24 (土) 08:07:21
    • このゲームは演義と史書で食い違う所は演義優先になってるはずよ。 -- 2024-02-24 (土) 10:13:02
  • 荀彧や司馬孚の旧朝への忠義ってどこまで本気なんだろう -- 2024-02-24 (土) 15:18:04
    • 荀彧は漢朝の忠臣じゃなくて曹操の忠臣で、提言も漢の為じゃなくて曹操の為だったと思う。 -- 2024-02-24 (土) 23:16:25
    • 個人的には荀彧も司馬孚も旧朝への忠誠は高かったと思うがな。今でいうと会社への忠誠>上司への忠誠で、上司に尽くせば会社に貢献できるみたいな。司馬孚は血縁者が乗っ取ったから強く言えず個人的な義理を貫いたが、荀彧は信じていた上司が王朝を乗っ取ろうとしているのが耐えられなかったんだろうと。 -- 2024-02-25 (日) 09:19:57
      • 曹操は献帝を徹底的に傀儡として扱ったけど、尚書令としてそれに積極的に関与したであろう荀彧が漢の忠臣とはとても言えないと思うんですよね。たとえ傾いた漢を立て直すために曹操が必要だったとしても、あそこまで皇帝権威を蔑ろにしておいてそれはないだろうと。 -- 2024-02-25 (日) 15:54:40
      • 皇帝が傀儡じゃない時の方が珍しいから、荀彧も特に違和感なかった可能性。 -- 2024-02-26 (月) 04:05:13
      • 傀儡と言っても曹操が九錫をもらって皇帝を排除する準備をするのと形式上でも漢の臣として統一するのでは全然違うのでは? -- 2024-02-26 (月) 07:53:07
      • 皇帝を徹底的にお飾りにして何もさせなかった形のまま曹操が統一したら本人の意志がどうだろうと漢臣じゃ終われないと思う。荀彧程の才人がその未来を予測できないものだろうか。よしんば曹操が超のつく慎み深い人間だったら別かもしれないが、類まれな人物眼を持つ荀彧が曹操の野心を感じ取れない方が不自然ではないだろうか。 -- 2024-02-26 (月) 18:07:31
      • でもそうなると荀彧がなんで死んだかなんだよね。確実な死因はわからないにしても一説では空の箱を送られて自殺という話もある。他にも荀彧ほどの功臣が魏の宗廟に祭られていなかったりとか、説明できない点があるんよね。 -- 2024-02-26 (月) 19:18:30
      • 空の器話の是非はともかく、曹操にとってはもう荀彧は必要無くなった。荀彧はそれを察して憂悶なり絶望して死んだという解釈は出来ると思う。荀彧の意図はどうあれ魏公就任を反対して曹操と関係が悪化したのは察せられる。その後尚書令から光禄大夫にされて軍の慰労を命じられた。お前の献策はもう不要であるという曹操の意志を感じて…と。宗廟に祀られていない事については、最終的には曹操と不仲になり捨てられた故と考えると理解はできるような。 -- 2024-02-26 (月) 21:50:07
    • 荀彧は漢より民を優先したと思うんだよね。民のためにも一刻も早く乱世を終わらせる必要があった。曹操の野心にはある程度気づきつつも乱世を終わらせるために見ないふりをしていた。逆に諸葛亮は民より漢を優先したから劉備に会うまで隠遁してた。誰に仕えても漢の復興は無理と思ってたところに理想的な君主に会えた。結果的に魏の建国に貢献した荀彧と違って司馬孚は晋の建国に貢献してないし魏への忠誠は間違いない。逆臣が親戚なのがかわいそうなだけ。 -- 2024-02-25 (日) 13:12:27
      • うーん、蒼天航路ならそういう解釈で成り立ってそうだけど、史実ではそんな志向だったとは思えないけどな。民に超重税を課す屯田政策も荀彧が曹操政権下で主導的な役割をしていた間に成立・発展したわけだし、当時は徳の無い君主が治れば民は苦しみ、国は滅ぶという価値観が当たり前だったから、徐州出身者である諸葛亮は曹操に仕えることが民のためになると全く思えなかった可能性も高い。 -- 2024-02-26 (月) 21:03:03
    • 荀彧は先見の明を持つ賢人の面と、古い因習に縛られた名士の面両方持ってたんじゃないかね。それまでのやり方・価値観では寒冷化に対応できないと悟って、国教と対立してでも世界をアプデできる存在として曹操を選び実際上手くいったけど、世界が安定してきた事で「もう曹操が皇帝でいいんじゃね?」「漢はオワコン」て声が日に日にデカくなった事に名士として苦悩したんじゃないかと(蒼天の影響は認める)。司馬孚はぶっちゃけ晋て大義とか無いし、まともな人だっただけじゃないか? -- 2024-02-27 (火) 03:25:53
  • 正史でも「兵を貸した 兵を奪われた」という記述があるが、ものじゃあるまいし、兵の忠誠心とかどうだったのか?とりあえず食わせてくれる親分ならまあ、いいやみたいな感じか? -- 2024-02-25 (日) 05:04:49
    • 曹操が、曹洪のコネで揚州刺史・陳温(シリーズ未登場)の協力を得て丹陽で募兵したことがあった。4000人ほど集めたが、大部分に叛かれてしまった(『三國志』「武帝紀」)。曹操は兵士の襲撃を受け、手ずから数十人を斬り脱出に成功した。叛かず残った兵士は500人ほどだった(王沈『魏書』)。 という話があるので、一筋縄では行かなかったようです。 -- 2024-02-25 (日) 16:54:53
      • 後漢末期は国が荒れ果てて、流民が多くなりそれを豪族が私兵としつ雇うという感じだから、国軍という概念が消えていたんでしょうね。呉は自立してからも各武将が集めた私兵を動員する形で、国軍のスタイルではなかったとか。だから兵を取り上げられたり、他の武将の指揮下に入るのを嫌がるやつもいたと。朱桓がそんなタイプだったような。 -- 2024-02-25 (日) 19:20:44
      • ちなみに曹操だけではなく孫策も丹陽で募兵をしていますが、地元勢力に襲撃を受けて壊滅しましたし、劉備も陶謙から丹陽兵を与えられましたが、後に背かれて徐州から逃げるハメに陥っています。三国の英雄が時期は違えど揃いも揃って丹陽兵絡みで痛い目にあっているというのはちょっと面白い。 -- 2024-02-25 (日) 20:44:38
    • 「貸した」については兵だけそのまま預けたというような訳ではなく、兵の指揮官共々出向という感じだったのではないでしょうか。赤壁の後の曹仁攻めの時に、張飛が部隊と共に周瑜の指揮下で戦っていますが、他の事例でも大体同様なのでは。 -- 2024-02-25 (日) 20:23:42
    • 兵卒は直接の上司である下士官に付いていくだけだと思う。下士官はその上司である士官の命令で貸し借りされてる感じ。下士官レベルだと名前残らないんだろう。 -- 2024-02-26 (月) 02:34:02
      • 下士官が派遣先に惚れ込んじゃって、そのまま居着いちゃったのが朱霊か -- 2024-02-26 (月) 05:48:07
  • 東州兵って劉璋が滅んでからまったく名前を見なくなるけど、おそらく賊徒に身を落としたりして(もともと賊みたいなもんだろって? (∩゚д゚)アーアーキコエナーイ)ろくでもない末路を迎えたんだろうな… 劉璋が滅んだ後、こいつらに益州での居場所があるとは思えないもの。劉璋が降伏した時に、官民の多くが意気軒昂だったというのも、死兵と化したこいつらの事だったのかもな -- 2024-02-27 (火) 08:43:28
    • 反抗したのもいただろうけど、普通に劉備についてたんじゃないか?名前が出てこないのは、再編されて散り散りになったか、夷陵で溶けたか・・・。 -- 2024-02-27 (火) 23:01:46
      • ただ、こいつらを取り込んでも素行が悪すぎて戦力としては信頼できないし、大反乱が起きるくらい益州では嫌われ者だからなー。青州兵を受け入れたせいで、兗州豪族に背かれまくった曹操の二の舞は御免だとばかりに、劉備が東州兵の粛清に舵を切るのは普通にありえると思う。東州兵出身の叩き上げである可能性がある(益州出身だと明記されていない)冷苞・劉璝の降伏後の消息も不明だし、もしかしたら彼らも粛清されたのかもしれない -- 2024-02-28 (水) 06:00:54
      • 張任も東州兵だったんじゃないか、と渡邉義浩氏が推測していた。劉備に降伏しても先は見えているから斬られる事を望んだ、というのは、実際ありそう。 -- 2024-02-28 (水) 14:57:43
      • ↑2一概にそうとも言えないと思う。劉璋は他所から来た外様だったので自前の軍事力が無く、東州兵を庇護する事で自身の軍事力とした。東州兵が横暴出来たのは劉璋の庇護があったからという面はあったと思う。これが劉備からすると東州兵を庇護する理由はないのだから今まで通りには出来ない。指揮官組が降伏した後は他の兵共々再編成されて"東州兵"としては自然消滅したという可能性は十分あるんじゃないか。 -- 2024-02-29 (木) 03:11:50
      • そもそも東州兵のモチベーションは難民として益州では持て余した状態なのを、外征と本人たちの戦功と、双方が利用することで互いにwin-winだったからこそ成り立つ関係なので、張魯のせいで道が塞がりましたってなったら関係が若干壊れるわけだし、劉璋麾下でもあぶれた連中はヒャッハーもしてたんだろう。でもってコントロール効く奴等は各地の地元民も東州兵の反乱鎮圧にも使ってたんだろうな、そら嫌われるわ。 -- 2024-03-01 (金) 12:34:45
  • 穎川という場所は、学者気取りが多く口うるさいやつが多くて治めにくい場所だったとか。こういう学者気取りでロジハラする連中を「法匪」と呼んだそうだが、この穎川から荀彧・郭嘉・鍾繇などがでてきたわけで。 -- 2024-02-28 (水) 06:36:46
    • 見方を変えると、儒教がいかに保守的で傲慢だったかって事じゃないかね。天災が起こるのは為政者に徳が無い所為とか本気で信じて(根本的な対処しようとかしてなかっ)た訳だし。 -- 2024-02-28 (水) 12:18:36
      • つい100年前までは日本を含めて多くの国々で様々な迷信や非科学的な論説が多大な市民から信じられていた訳だし、何なら現代ですら第三世界の国々には一般的にそうである国もある。なんなら日本でも伝統か新興かを問わず、(個人的にはその事実こそ信じがたい最たる例だが)未だに本気で宗教が語る教義や世界観を信じている連中が少なからずいる訳で、それを考えれば1800年前に政治の乱れが災異を招いたと信じていた人々を傲慢と言う事こそ傲慢なのではないかと思うし、むしろ本気でそう信じる事で少しでも政治を良くしようとした考え方はある種の謙虚さとも言えるのではないかな。 -- 2024-03-01 (金) 04:17:49
      • ↑もちろん儒教自体は善意から始まってるだろうし謙虚な善人も多かっただろうけど、宗教が権力と結びついて歪められ利用され、科学の発展を妨げ時に迫害してきたのも事実だからね。そこを言ってるのよ。三国志もまさに国が天災に対応できなくなって民衆がブチ切れた所から始まってるし。 -- 2024-03-01 (金) 06:15:07
      • うーん、どうかなあ。後漢は儒教が国学として尊重された一方で、道教や仏教が盛んになり始めた時代でもあるし、古代から中世の中国においては科学や医学の研究が花開いて、重要な発見や発明がされた発展期という面も持つ時代だからな。どちらかといえば後者のご指摘に関しても儒教のせいというよりは清流VS濁流による党派争いにかまけて儒教が奨励する様な徳治や善政を疎かにした結果の様に思うが(別に儒教が絶対善と言いたいわけではないけど)。 -- 2024-03-01 (金) 06:30:30
      • 世界的に見ても近世まではアニミズムや、そこから更に発展してきた伝統宗教は非常に盛んだったわけで、それらが科学の発展を阻害した一面を持つ事は別に否定しないけど、科学がここまで発展するまでは、それらに信じて縋ることでしか人類はやってこれなかったというのも、また事実。こればっかりは文明の発展において避けようのなかったシステムや順序だったと思うけどなあ。 -- 2024-03-01 (金) 06:40:18
  • 家康が死の間際に大名たちに「秀忠の政務に非があればお前たちが天下を奪ってもいいぞ」と言ったらしいけど、貞観政要が愛読書だったことは知られているので三国志も絶対読んでそうだなと思った。 -- 2024-02-28 (水) 12:44:08
    • 駿河御譲本(家康が駿府城内の文庫に保管していた本を、家康の遺言で秀忠・義直・頼宣に分配したもの)に演義が入ってるから、家康が読んでいたのは間違いない。紅葉山文庫(江戸幕府が江戸城内の紅葉山に設けていた文庫)の蔵書にも三國志と演義が入ってるから、たぶん歴代の徳川将軍も読んでると思う -- 2024-02-28 (水) 13:15:48
      • 横山三国志で、孔明が司馬懿と魏延を一緒に始末しようとして失敗し、馬岱のせいにしたシーン。現在の中国で流通している演義ではカットされているが、江戸期に伝わった初期の演義本をベースにした吉川三国志とそれを漫画化した横山版には残った。幕府所用の演義なら、魏延謀殺未遂の行は残ってるはず。 -- 2024-02-29 (木) 03:22:50
  • 『天に二日なく、地に二王なしと聞いているが、いま天下は鼎立して暦は三つもあり、田舎者は戸惑って誰に帰服したら良いのか解らないのです(^o^)』 李厳からの説得の手紙に対する雍闓の返答がこれだが、この絶妙に人を舐め腐った感じがほんとすき。個人的には中国史に残る畜生発言ベスト100に入れたいくらい。ちなみにベスト1は朱全忠の謀臣・李振の「清流を自称しているこいつらを、黄河に放り込んで濁流にしてしまいましょう」(唐の重臣を黄河に投げ込みながら) -- 2024-02-29 (木) 07:44:05
    • 李振「(自分たちの策で唐の昭宗を暗殺した朱友恭らの処遇を問われ)昔、晋の司馬氏が魏の主君(曹髦)を殺害した時、実行犯の成済を誅殺しました。そうでなければ、どうして天下の口を塞げるものでしょうか」と、朱友恭らを始末するよう進言して実行させた。これだけ見ると「成済を殺したところで黒幕が誰かまでは消せないだろう」と思ったが、もともと朱全忠は朱友恭を始末したがっていたらしい。つまり死刑の口実を作るために汚れ仕事をさせたわけだ。実に心が汚水で洗われるような話。 -- 2024-02-29 (木) 14:43:19
      • 朱友恭粛清の時点で曹髦殺しから600年以上経ってるのに、こんな形で引き合いに出されるとはねえ… 不朽の汚名とはまさにこの事だな… -- 2024-02-29 (木) 16:15:26
  • 西晋以降、王朝が滅ぶと前の皇族は禅譲しようが、協力しようが尽く殺害されるようになる(趙匡胤などはしなかったが)献帝、劉禅、曹奐、孫皓は生かされた。なんの心理的変化が起きたのか? -- 2024-03-01 (金) 00:59:19
    • 清朝を代表する名君・康熙帝による朱慈煥殺害が良い例だと思うのだが、やはり支配層と被支配層が概ね漢族(華夏民族と言い換えてもよいが)のみでシンプルであった西晋末期までと比較して、異民族が支配構造に大きく関与することになったことが最大の原因だと思われる。支配層として君臨する民族を被支配層となる民族が大きく上回るといった、ある種の歪な支配構造によって支配する側は自身らの大義名分や正統性への不安が大きかったというのは確実にあるだろうし、支配当初は儒教的な徳への馴染みや理解が薄い異民族が本来の慣習に従った結果というのも多いに考えられる。趙匡胤については漢族(呂布と同じ様にテュルク系という説もあるし、第一あの時代の漢族というのがどこまで三国時代頃までの漢族と同じかについては目を逸らしつつ)であったというのも、その寛容さの大きな要因だったのかもしれない。 -- 2024-03-01 (金) 03:40:16
    • (あまりに長いため分けたが)更に加えて言えば曹魏や西晋による一連の王朝交代劇が、皇帝(天子)という、ある種の王権神(天)授の存在とも呼べる地位が持つ聖性や不可侵性を大きく損ねた事も関係があるかもしれない。曹操・曹丕が二代で成し遂げた禅譲は王莽と同じく事実上の簒奪であったし、司馬一族が招いてしまった曹髦への弑逆は更に悪い見本の前例として歴史に残ってしまった。また渡邉義浩氏の見解として杜預が曹髦を弑逆した司馬一族を正当化するために自身の好んだ春秋左氏伝を利用して理論武装したという説があり、これが事実であれば(杜預が提唱したという学説を調べた限りでは、その可能性は多いにありそうだが)、杜預が春秋学に齎した多大な影響も、その後の事実上の簒奪や弑逆に大きく寄与した可能性がある。 -- 2024-03-01 (金) 04:02:36
    • 劉備「皇帝殺されたから(と言う事にして)皇族(かもしれない)ワイが継ぐで!」孫権「じゃワイも皇帝や」←これでもうルール無用の残虐ファイトに -- 2024-03-01 (金) 06:25:22
      • 劉備が一応皇族なのは確かなんでそこはまあ… 中山靖王劉勝の庶子・劉貞の末裔説を採っても、臨邑侯の庶流説を採っても後漢の皇室との血は滅茶苦茶遠いし、日本で言うと十八松平の庶流の人間が徳川宗家と名乗るようなもんではあるが -- 2024-03-01 (金) 06:39:14
      • 1つ上の枝で記した件に加えて、曹魏や西晋が実際に漢と比べて遥かに求心力や正統性に欠いた短命王朝だったことを考えると、その後の禅譲&弑逆が常態になったのを劉備や孫権のせいにするのは無理があり過ぎる。曹魏や西晋に問題がある、あるいはそもそも存在するべきではなかった失敗王朝と考える士大夫が多かったからこそ、後世で正閏論なんてものが盛んになったわけだし。 -- 2024-03-01 (金) 06:49:11
      • 光武帝も更始帝生きてても即位してるし、孺子嬰なんて顧みられてもいないからそこはまともになってる -- 2024-03-02 (土) 03:41:31
    • 清→中華民国も前皇帝は生かされたが、御存知のように日本の誘いに乗って満州国皇帝に擁立されたわけで、「やっぱり殺らないとダメだな」という先例にされる可能性はある。「前皇帝」が天寿を全うするまで生かし切れば後継政権の加点になるが、ハイリスク要因である事は確か。 -- 2024-03-01 (金) 12:57:47
      • 中華人民共和国としては、「生かして共産主義思想に従わせる」利点を重視したために溥儀は殺されずに済んだ(同時に、前皇帝一家を皆殺しにしたソビエト連邦に対する道徳的優位をアピールした)。とはいえ、紅衛兵の圧力で最期はまともな治療を受けられなかったというから、天寿を全うするのは本当に難しい。 -- 2024-03-01 (金) 13:05:03
  • 劉備の足跡辿ると後漢の行政区分(州)をかなりカバーしててたまげる。ワンチャン呉巨と交州でも会ってたら雍州(涼州)・并州以外は全部踏破してるという。吾彦(揚州⇒荊州⇒司州⇒西涼⇒交州)もびっくりだ -- 2024-03-01 (金) 11:48:20
    • たしか光栄自身が爆笑三國志で中国大陸一周ツアーみたいな口ぶりでネタにしてた記憶 -- 2024-03-01 (金) 13:08:43
    • 司隷と兗州っていつ行った? -- 2024-03-03 (日) 00:43:43
      • 自分は木主ではないが勝手に補足すると、司隷については、『英雄記』に「霊帝の末年に劉備は洛陽にいた。後に曹操とともに沛に行き、兵を募集して集めた。間もなく曹操と董卓討伐に向かった」という記述がある。時期的に考えて、黄巾討伐の褒賞を貰うために洛陽にいたのであろう。兗州は呂布に負けて、曹操のとこに身を寄せた時のことを言ってるのでは -- 2024-03-03 (日) 05:35:53
      • 豫州の小沛から豫州の許都まで行くのに兗州通るかな? -- 2024-03-03 (日) 12:41:56
      • 延津の戦いで兗州入ってるか -- 2024-03-03 (日) 12:47:59
      • 劉備が洛陽に遊学中の牽招と出会ってたとしたら若い頃から司隷にいた可能性もある -- 2024-03-04 (月) 08:07:42