村田修一(元・読売ジャイアンツ)の蔑称の1つ。
横浜ベイスターズからFAで巨人に移籍した際に「優勝したいから巨人に来た」という発言が由来(詳細は後述参照)。
概要
村田は2002年ドラフト自由枠で横浜に入団。2007年から2年連続本塁打王を獲得する等4番打者として活躍。しかしチームでは優勝争いはおろか勝率5割も未体験*1。さらに2009年の第2回WBCで代表入りするが怪我で途中離脱*2して大会連覇の瞬間にも立ち会えず*3、優勝には無縁だった。
その後、佐伯貴弘*4・吉見祐治*5・内川聖一*6・相川亮二*7ら、かつてのチームメイトが優勝を争う姿に触発されたのか、2011年オフにFA権を行使して巨人へ移籍。
当時の年俸2億2000万円(推定)や横浜を出る喜びなどの理由から好成績を期待されていたが、長距離砲として入団したにもかかわらず長打力は影を潜め、打っては併殺打を量産。さらにシーズン終盤は一人ノーヒットノーランを達成するなど打撃成績は前年を下回る散々な結果*8に終わる。この年の巨人はぶっちぎりのリーグ優勝・日本一を達成したものの、村田はお世辞にもチームの勝利に貢献したとは言い難い状態であった。
上記により、巨人ファンからも「守れるやつが居ない*9から居てくれるのは嬉しいが、かと言ってそこまで必要な戦力ではない」という辛辣な意見が相次ぎ、最終的には「村田は優勝させてもらうためだけに巨人に来たのだから本人の成績は関係ない」という結論にたどり着く。
その結果、かつて現役時代に「優勝請負人」と言われた江夏豊・工藤公康・落合博満らとの対比で、村田を揶揄する言葉として「優勝受取人」が定着したのである。
なお、翌2013年は自身2度目の打率3割など復調、7・8月には連続で月間MVPを獲得*10し、間違いなく優勝に貢献したと言える成績を残した*11。
記事
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120926-00000306-tospoweb-base
巨人が3年ぶり34度目のリーグ制覇を成し遂げた。誰よりも優勝の喜びをかみしめていたのは村田修一内野手(31)だろう。優勝の喜びを知りたいと横浜(現DeNA)からFA移籍。重圧や数々の悩み、苦しみを乗り越え、1年目にしてその願いをかなえた村田が“丸刈り事件”の真相を激白した――。
【村田修一独占手記】
忘れもしない、あの神宮のヤクルト戦(8日)*12。監督から試合中に「もう帰っていい」と言われてしまった。仲間が戦っている最中に帰るなんて、これほどきつくて苦しいと感じたことはない。駐車場から家に連絡したら、絵美は「えっ、いいの?」って動揺していた。「帰れと言われたら、帰るしかないだろ」って言ったけど、悔しくてたまらなかった。
車を運転しながらも野球のことが頭から離れない。「なんでこんな打撃になっちゃったのかな」とずっと考えていた。家に着いたら、まだ試合をやっていた。自分がいなくても、チームは勝っている。複雑だったよ。すぐにテレビを消した。
落ち込む僕を見て、妻は「なるようにしかならないよ。今までそうしてやってきたじゃん」って言ってくれた。僕は酒を飲みながら「それはわかってんだけどさ…」って答えていたはずだ。
しばらくして阿部さんから「切り替えてまた明日出てこいよ」とメールが届いた。それを読んで、みんなが次の日に明るく話しかけてくれるにはどうすればいいか考えて、自分でバリカンを手にした。頭を丸めたのはそういうわけなんだ。
そんなことばかり言っていたら「村田かわいそうだな」と思われるかもしれない。確かに巨人は厳しい。でも勝つ喜びは何にも替え難いんだ。勝てるというのは素晴らしいよ、楽しいよ。勝ちが今の僕を支えてくれている。だからCSも日本シリーズも、絶対に勝たなきゃいけない。
短期決戦ではチームが勝てばなんでもOK。五輪やWBCで日の丸を付けたときと同じ集中力を持って戦うつもりでいる。最高の緊張感の中で、思い切りバットを振る。そして勝負を決めるホームランを家族に見せられたら言うことないね。
最後にこの喜びを古巣のみんなにも伝えたい。来年こそ、横浜のみんなと優勝争いがしたいよ。*13
類義語
この中で「優勝ただ乗り野郎」はあまり貢献していない選手や戦犯になった選手に対して「○○ただ乗り野郎」と応用されるようになった。