歴史談義用掲示板過去ログ2

Last-modified: 2024-07-24 (水) 20:53:59

歴史談義用掲示板

  • 王莽が二字名を禁じたとかで後漢までは少ないらしいが、カクユウシのユウシは実名なんか?字なんか?インダイモクのダイモクは字だと正史にあるらしいが。東晋以降は二字名が増え始めたように感じるが、司馬道子などの実名と字が同じというのは、王朝滅亡による記録散逸で諱と字がわからなくなったとかではないのか? -- 2024-03-01 (金) 19:27:44
    • 廖立が向朗らをこき下ろして失脚する決定打となった発言の中で、「中郎の郭演長は人に従うだけの者で、与に大事を経るには不足なのに侍中となっている」と言っていて、郭演長=郭攸之で、演長は郭攸之の字じゃないかという事になっている。まあ廖立は他の悪口を言った人間の事を一貫して姓名で表現してるのに、郭攸之だけ姓字で言ってることになるから違和感はあるが、出師表に出てくる人名は全員姓名表記だから、攸之を字だという事にしちゃうと今度はそっちと合わなくなるのが悩ましいところ -- 2024-03-01 (金) 19:52:45
      • 郭姓は多い方ですから、二字にしないと同姓同名が出そうですからね。 -- 2024-03-01 (金) 20:32:46
  • 孫休の息子たちへの命名はDQNネームだなんだと言われるけど、皇帝がありふれた漢字を使うと避諱で臣下や民衆が迷惑するから新しい漢字を作るぜ!というのは割と理に適ってるし、裴松之先生もそこまで酷評せんでも…と思う。避諱による迷惑は李世民も気にしていて、「世」と「民」は普通に使っていいよー、「世民」と連続して使わなければOKという詔をわざわざ出したぐらいだし(馬鹿息子の高宗が撤回しやがったが…) -- 2024-03-02 (土) 07:11:13
    • DQNネームというか自分が考えた新語な訳だけど、蜀も滅んで呉も生き残れるかどうかみたいな状況でそんな事やってる場合があるなら、他にやる事があるのでは?という感じもあっての酷評なのでは。結局孫休の子は皇帝になれなかった訳だから避諱の配慮も無駄に終わってしまった訳だし。 -- 2024-03-02 (土) 23:17:50
  • 魯粛と孫権は相互親愛あっても良いんじゃと思ってたけど、よくよく記述や分析を見るとむしろ無いのが妥当だと思い改めた。孫権って政略面での重臣とは親愛って感じの関係は薄く感じで、そこが良くも悪くも作用した感じがある。 -- 2024-03-02 (土) 07:26:48
  • 諸葛亮との戦いが終わってからの司馬懿って何かタガが外れてないか。許すと騙して族滅、謀反を密告してきた相手も殺す、遼東でも大量虐殺 -- 2024-03-02 (土) 15:10:22
    • 公孫晃は可哀想だったな。曹爽軍団は…仕方ない。 -- 2024-03-02 (土) 17:13:55
    • 同情はするが、大逆人の兄とか生かしておけるわけないからなあ・・・。 -- 2024-03-02 (土) 18:26:24
    • 最大の外敵たる諸葛亮と国内の政敵である曹爽を倒した後は、簒奪の意志はともかく司馬氏が実質的な支配者というビジョンはあっただろうから、司馬氏の政治姿勢を表明する為に厳しくやる必要があったというのはありそう。遼東のアレは謀反人はともかく民は…あんな僻地じゃなければもう少し容赦して貰えたかもな。 -- 2024-03-03 (日) 03:33:44
    • 諸葛亮との戦いというよりは曹叡の死後と表現したほうがいいかもね。そこから国内の政敵との長い戦いが始まるイメージ -- 2024-03-04 (月) 03:41:49
      • 陳羣死後じゃないかね。 -- 2024-03-04 (月) 15:58:59
  • 脱兎(部下や妻子を何度も置いて逃げる) -- 劉備 2024-03-02 (土) 23:15:48
    • 趙雲が拾いに行ってくれるよ。 -- 2024-03-02 (土) 23:23:10
    • この時代誰でも置いて逃げるよ。逆に踏みとどまって死んでも困る -- 2024-03-03 (日) 15:16:35
  • 孫堅には帝号が追諡され、孫策は王号の理由は?呉は土着豪族の力が強く、それが孫権を祭り上げている感じだから、豪族層(特に一族を殺されている陸遜の陸氏)への配慮ということなんだろうか。 -- 2024-03-03 (日) 04:03:18
    • その話題前にも有ったねえ。孫策に子が居るから、孫策を皇帝にしちゃうとややこしい事になるんよ。それでなくともややこしい事になったし・・・。 -- 2024-03-03 (日) 04:10:15
      • 孫策の血筋は帝位から遠ざけておいたはずだった。しかし孫晧の時代に、孫晧が左夫人の王氏を亡くして引きこもった折、死んだと噂になって「次の皇帝は孫奮か孫奉(孫策の孫)」と二番手に名前が出る存在になっていたから、本当に孫晧が死んでいたら一波乱あったかも知れない。結局、二人とも生きていた孫晧に誅殺されたのだが。 -- 2024-03-03 (日) 04:41:53
      • 孫策死去時に後に帝位につくとかは当然考えていなかったから、子供が小さすぎて弟に勢力を継がせたが、弟が帝位に就いたから儒教や礼法の関係から兄に帝号は追諡できなかったわけですか。 -- 2024-03-03 (日) 04:48:20
      • この話、そもそもとして親に帝号を追諡するのは魏がやってて前例があるけど、じゃあ兄にも。とはならないのでは?と。前例的にも序列的にも。政治的配慮とか云々ではなく、魏の前例に則って親の孫堅には帝、高祖が兄に王を諡号してる前例に則って孫策には王を諡号した。というだけの話なのでは…。 -- 2024-03-03 (日) 08:32:46
      • 司馬炎は司馬師(伯父)に帝号を贈ったんだよな。こっちはどうなんだろうか?高祖は別に兄から宗家を譲られたわけではないからな。 -- 2024-03-03 (日) 09:37:32
      • 司馬師は実の子供いなかったからね。 -- 2024-03-03 (日) 15:01:27
      • たしかに実子じゃないな。そういうことか。 -- 2024-03-03 (日) 16:36:41
      • 確かに司馬師に男子はいない(娘はいた)けど、司馬攸が司馬師の家を継いでるから、兄(司馬師)の家を継いだ弟(司馬攸)VS弟(司馬昭)の家を継いだ兄(司馬炎)という余計に面倒くさい構図になったけどな… -- 2024-03-03 (日) 17:23:41
      • 孫策が桓王止まりなのはどれだけ礎となろうとあまりにも創成期すぎて帝号を贈るには足りてないってのもあるんでは?少なくとも三国時代から五胡十六国時代あたりまでは結構古来からのルールや追号法則性を守ってたぽいので、孫権が嫌がらせとかいうのは学者やら色んな人がやらさんとおもうしな。 -- 2024-03-04 (月) 06:21:22
      • 司馬師の景帝のほうは後々、祖父なりに追号するの真似する奴等が度々出てくるから「この方がいてこそ今の王朝があるのだ」って感じなのではないかな?司馬炎や側近なり博士なりからしたら司馬懿からの流れにおいてそれだけ重要と見なした、と -- 2024-03-04 (月) 06:32:32
      • ↑2木主も言っている通り、その理論だと孫堅がおかしなことになるんですよね。揚州を地盤とする呉建国には全くと言っていいほど関わってないですから。 -- 2024-03-04 (月) 07:02:44
      • 劉邦の父親も太上皇になってるから、直系の親に帝号じたいは問題はなく、やはり兄→弟に系譜が代わったことにより王止まりなのかも。 -- 2024-03-05 (火) 06:19:21
      • 司馬師が例外なんだろうな、そういう点でいえば -- 2024-03-05 (火) 11:43:47
      • 陳寿は孫権の孫策に対する尊崇が充分ではなく、義に欠ける待遇だったと評してるけどね。 -- 2024-03-05 (火) 22:08:21
      • 曹叡とか曹嵩曹騰まで追尊しててこれはこれで異常な気もする -- 2024-03-05 (火) 22:30:22
      • 何というか孝(徳)アピールみたいな物だろうから、不安や自信の無さも有ったんじゃないかと思えなくもない。曹叡君とか特に・・・。 -- 2024-03-06 (水) 23:07:06
      • 袁、、、いや曹叡はれっきとした曹家の血筋だからなんの問題もないでござるってこと? -- 2024-03-07 (木) 01:48:37
      • 陳寿の孫権から孫策への尊崇不足、義に欠ける評って、孫策への追諡が王だった事ではなく、孫策の子が侯止まりだった事を指しての話でしょう。 -- 2024-03-07 (木) 05:01:57
      • 呉の諸侯王=孫権の息子は魏の領土に封ずるという名目のものでしかなく、侯は食邑ってよりは家臣団含めて担当区域も込みで封ずるみたいだからやはり諸侯王にしちゃうと孫呉では継承権持ってます(少なくとも孫権の時代は)って扱いだったぽいし、ただでさえ一族もそれぞれ独自の戦力抱えてるしで、おそらく王増やしたら二宮事件どころか十二宮事件とかになりかねんかと -- 2024-03-07 (木) 09:42:19
      • 忌憚の無い意見を言えばそれは孫権の都合でしかなく、王の後継者は王であるのが道義でそこを曲げたのだから、孫権が孫策に対して義に欠けたという評を受けるのは仕方のない所ではないかと。そもそも孫策の子に対して継承順位はともかく継承権を持つ待遇は妥当なのでは。(二宮は継承権の有無ではなく皇太子と同等の待遇を孫覇に与えたのが問題でしょう) -- 2024-03-08 (金) 04:23:48
  • 蜀討伐で諸葛緒が出てくるが、魏将であり諸葛姓だから諸葛誕に近い一族だとは思うが、どういう関係かははっきりしていないような。まあ、諸葛緒以外にも一族っぽいがよくわからんという武将はいますけどね。夏侯献とか。 -- 2024-03-03 (日) 04:52:18
  • こういう戦国の世って大変だよな。戦争のせいで死ぬって理不尽極まりないし、治安悪そうだすぃ。 -- 2024-03-03 (日) 17:12:52
  • 諸葛亮の北伐プランは南北朝時代の北周が北斉を滅ぼす時に初めて成功を見る。北周の勢力範囲は益州・涼州・雍州・荊州北部と劉備陣営が獲りたかった土地とぴったり一致。 -- 2024-03-03 (日) 20:17:04
  • 鍾会「悪くても劉備くらいにはなれるやろ(ハナホジ)」そんな鍾会に決定的に足りなかったのが、劉備の成り上がり人生を語る上では欠かせない人望や人徳だったというのは、なんとも皮肉なもんである。対応を間違えなければ、衛瓘や胡烈らを味方に引き入れる事も出来たのではなかろうかと思ふ -- 2024-03-03 (日) 22:06:00
    • 鍾会、馬謖、諸葛恪はやっぱり似てる印象。そりゃ功績は差があるだろうけど天才肌で理屈とか勉強で物事を語ってそうで劉備のことを理解できなそう。3人ともやらかした時はそんなに若くないのも似てる。 -- 2024-03-03 (日) 23:15:09
      • 鍾会、諸葛恪と馬謖については、弁が立ったという以上の共通点は無いように感じます。前者2人については他人に言い返さずに居られない性格面や周囲から野心家と見られた事、かなり出世が早かった等色々と共通点めいた事がありますが、馬謖は性格面の逸話は無いし、出世も抜擢人事のようなものは受けていません。世の中舐めた頭でっかち的な馬謖像も割とイメージが先行してる感じがします(コーエー三國志でもそんな感じの顔グラにされますが) -- 2024-03-04 (月) 03:40:15
      • 諸葛恪は性格面を置いといても孫登が死んで人生が狂った印象もあるわな。 -- 2024-03-04 (月) 07:35:02
      • イメージ先行といってしまうなら鍾会も諸葛恪もにたようなもんじゃ…。魏延や呉懿にすべきという意見を押し切って馬謖を選んだのは抜擢人事のようなもんでしょうし。 -- 2024-03-04 (月) 18:10:32
      • 鍾会、諸葛恪ともに人格面で問題ありと複数人から言及されていますし、野心家なのも評価としても実際の行動としても実証されてる。頭の良さを鼻にかけて他者を下に見ていたという印象がイメージとあまり離れている感じはしないかな。抜擢は就任した地位の話なのであくまで1作戦の中での任務に過ぎない街亭のあれは筋違いになりますね。 -- 2024-03-05 (火) 06:00:35
      • 馬謖も劉備から大言壮語だから大事を任せるなって釘をさされるぐらいには問題ある人物だよね。そのうえで諸葛亮の参軍になってるし。細かい違いはあるだろうけど、ライト層から見れば枝のいうようなイメージが一般的だと思うよ。 -- 2024-03-05 (火) 12:19:06
  • 夏侯徽が司馬師に毒殺されたって話はどこまで本当なんかね。夏侯徽が死んだのは234年だが、この頃は曹叡も健在で、魏随一の権力者には程遠く、そもそも簒奪の野心を抱いていたかも怪しい時期なので、夏侯徽が司馬師の忠心を疑ったり、ましてや毒殺しなければいけない理由はないように思える。夏侯徽が5人も娘を産んでいる事から、相次ぐ出産で心身共に衰弱して死んでしまった…という方がありえそうだ -- 2024-03-04 (月) 07:47:36
    • 夏侯徽が死んだのが五丈原の戦いの頃と考えると毒殺されたかどうかは夫婦間のことなんでさておき毒殺に至った経緯はまぁ信用できんな -- 2024-03-04 (月) 20:10:53
    • 毌丘倹が挙兵した時に列挙した司馬師の罪状の中に夏侯徽殺しは入ってないので、少なくとも同時代の人間の間では夏侯徽毒殺説は囁かれておらず、夏侯徽の死を病死と認識していたのは確か -- 2024-03-05 (火) 07:19:28
      • そもそも本当に問題あったらいくら頼まれたからって追って皇后として扱うなんてありえないと思うんだよね、夏侯玄との対立辺りから逆算してんだろなって考えちゃう。晋書とか魏略は魏から晋に移る過程で司馬懿とその一族は当初から曹魏には面従腹背であった事にしようとし過ぎてるから、いかにもな話はあまり信用したくないんよね。 -- 2024-03-05 (火) 11:56:02
      • 夏侯玄は李豊の事件に巻き込まれるまで能動的に反司馬で動いた形跡がなければ、身の危険を感じていた様子もない(夏侯覇からの亡命の誘いを蹴ってる)し、司馬懿も曹爽一派粛清の時に夏侯玄への処分を大鴻臚への左遷で済ませてるから、言うほどこの両者が険悪だったようには見えないというのも、夏侯徽毒殺説に頷けない理由の一つ。本当に夏侯徽を殺してたら、とてもじゃないがこうはならんだろう -- 2024-03-05 (火) 18:59:48
  • 英雄乱舞で魏延軍が反諸葛亮の集いのようですが、メンバーの1人である劉巴には諸葛亮を嫌っているエピソードとかあるのでしょうか。知っている人がいたら教えてください。 -- 2024-03-05 (火) 20:43:21
    • 嫌ってるどころか、かなり仲が良いぞ。劉備に仕えることになったのは諸葛亮が劉巴を賞賛・推薦したからだし、劉巴の死後、陳羣が劉巴の消息を手紙で尋ねたところ、諸葛亮は劉巴に対して敬意を示したというエピソードもある。一方で、例の兵隊野郎の一件のときに、取り成してきた諸葛亮を劉巴が邪険にあしらっているが、そもそも上の方の枝でも言われてるけど、このエピソード自体の信憑性がアレなんでな… -- 2024-03-05 (火) 21:32:46
      • 返信ありがとうございます。すごい仲良しなんですね…。劉巴の枠曹真とかでも良かったんじゃないか…。 -- 2024-03-05 (火) 21:45:03
      • 諸葛亮のスパイなのでは? -- 2024-03-05 (火) 22:13:25
      • どうりで毎ターン計略が飛んでくる訳だ・・・ -- 魏延 2024-03-05 (火) 23:21:04
      • 零陵先賢伝によると劉巴は劉備に仕えるのを嫌って逃げ回ってたのに、諸葛亮が推薦したから劉備に仕える事になったので、余計な事すんな…!的な解釈で魏延陣営に入れられたとか?ただ正直零陵先賢伝自体が信用性がね…。 -- 2024-03-06 (水) 04:05:26
    • たんに諸葛亮嫌悪メンバー+クセのある蜀将だと思ってた。甘寧さんのトコみたいな。 -- 2024-03-06 (水) 08:18:08
    • 嫌悪している楊儀が諸葛亮陣営にいるからでは?君主の魏延的には楊儀もやっつけたい対象だろうし。反諸葛亮というよりは楊儀嫌悪仲間として魏延と意気投合して配下になったが自然っぽい。 -- 2024-03-06 (水) 08:21:46
  • 劉表配下の蔡瑁ですが、本作では字が設定されていませんよね。ちょっとネットで調べたら「徳珪」が字だと出てきたのですが、参考にしてる史書の関係でしょうか。 -- 2024-03-06 (水) 07:43:19
    • 習鑿歯はセリフ作ってるだろ感あってアテにならんと思ってるけど、地元の人物紹介本で字間違ってるとは考えづらい(&他の史書と食い違いもない)から徳珪で合ってそうなものだけどねえ。 -- 2024-03-06 (水) 13:26:51
    • 孫秀の字「彦才」も未収録。『世説新語』の注『太原郭氏録』が出典だから一応邦訳は出ている。開発者がそこまでチェックしていなかっただけだろうか? -- 孫秀 2024-03-09 (土) 14:42:21
  • 最近の三国志系中国ドラマ、シークレットや軍師連盟の満寵が非情な酷吏という感じのキャラ付けになっているが(宮中を監視して密告や粛清などよごれ仕事をしている)史書でそのような役職や実績があったのか、単に演出なのか? -- 2024-03-06 (水) 17:23:02
    • 酷吏は言い過ぎだけど、張苞とかいう不良督郵をとっ捕まえて容赦なく拷問にかけて官職を捨てて帰郷というどこぞの長耳みたいなことをしたり、捕まった楊彪を取り調べた時には荀彧たちに手心を加えるように頼まれたのに、無視して容赦なく規則通りに取り調べ(言うまでもないが拷問)したり、横暴な曹洪の食客を捕まえて、曹洪が曹操に赦免を働きかけると即座に処刑したりと、上に忖度したりはしない法に厳格な人ではある。傲慢ではなかったので人に嫌われることはなかったようだが。…そこが于禁と決定的に違うところ -- 2024-03-06 (水) 17:48:50
      • その書き方だとまるで于禁が傲慢だったような文脈になるけれど、于禁は法に厳格だった為に兵から心服は得られなかったとはあるが、傲慢だったなんて記述は見た事ないけれど。満寵にしても傲慢ではない云々の記述は謎ですね。wikipediaにはそんな記述あるけど。 -- 2024-03-06 (水) 20:12:27
    • 満寵が酷吏って話は、元をたどれば正史注を書いた裴松之の評かな。 -- 2024-03-06 (水) 20:58:08
      • 忖度しないのはともかく、楊彪クラスを拷問出来るのは呂壱くんレベルのやべーやつだから、そら酷吏呼ばわりされるのも残当 -- 2024-03-07 (木) 09:53:39
      • この楊彪が拷問受けるハメになった逮捕って袁術の帝位僭称にかこつけて逮捕したって時のだよね、おそらく。どうみても無法な冤罪で、だから荀彧孔融も手心を加えるようにと懇請したのだろうと考えれば、これに杓子定規に拷問するのは厳格とか剛毅を通り越して酷吏の徒でしょう。 -- 2024-03-08 (金) 05:42:36
  • 後漢末~三国では仏教ってどれくらい広まってたのかな。儒教に比べるとマイナーだったりしたのか。笮融がどこで仏教に触れたのかが気になる。 -- 2024-03-08 (金) 23:09:17
    • 江東及び江南辺りは割と仏教と関わりのある人物が結構居る。後漢末期の仏教学者の牟子。呉の訳経僧である支謙と康僧会。そして孫権が建初寺と言う寺を建立してる。 -- 2024-03-09 (土) 01:00:13
      • あとは闞沢も仏教徒で自分の字から取った「徳潤寺」なる寺を建立したとか。三國志10武将ファイル以外での資料を残念ながら見つけられなかったが。 -- 2024-03-09 (土) 08:52:36
      • https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/63/2/63_KJ00009870732/_pdf 南宋・志磐『仏祖統紀』によると「尚書令闞沢舎宅為徳潤寺.今普済寺是」との事。残念ながら現存していないが、少なくとも13世紀までは後継寺院が存在していたようだ。 -- 2024-03-09 (土) 14:36:07
      • 同じ仏教徒でも、礼儀正しくて慎み深い闞沢と最低最悪の笮融…。 -- 2024-03-09 (土) 22:07:58
    • 明帝(後漢)のころに光武帝の息子の楚王劉英が「お前のとこでも仏教の活動許可するよ」って言われたらしいので、後漢末期ともなれば地域によってはある程度布教は進んでたとおもうがメジャーではないだろう、メジャーなら笮融の事が特別視されないっしょ。逆に笮融が仏教の影響受けた事から楚王の封地である徐州南部地域では一定の定着をしていたと思われる。 -- 2024-03-14 (木) 02:22:17
  • 後漢末にも各地に王はいたんですよね?全然彼らの存在を感じないんですが、王は何やってたんでしょう?マジで禄だけ貰って喰っちゃ寝してた感じ? -- 2024-03-10 (日) 10:47:25
    • 任地は相に任せて洛陽でダラダラしてた(させられてた)と思うよ -- 2024-03-10 (日) 11:52:29
      • 黄巾に負けて殺されたり(濟南王劉贇)、捕虜になったり(安平王劉続・甘陵王劉忠)、国を捨てて逃亡した(下邳王劉意・常山王劉翬)諸侯王がいるから、実権はともかく任地にはいたと思うよ -- 2024-03-10 (日) 12:43:10
    • 劉寵という、国相に反乱疑惑を告発された事があり、張角と同じ黄老君を祀っていて、なぜか強弩数千張を所持しており、任地の陳国は黄巾の被害を受けなかったという見方によってはかなりきな臭いところがある諸侯王がいるよ。しかも弩の腕前は十発十中で、当てた矢が全て同じところに立つほどだったというし、今までコーエーゲーに出たことがないのが不思議なくらいキャラが濃い人だよ -- 2024-03-10 (日) 12:30:15
    • 劉寵、「本当は死刑相当だが見なかった事にしてやろう」扱いで部下が身代わりに処刑されているのもきな臭い。袁術に殺されたのがゲームに登場出来ない理由だろうか? 他に、孫権の元に逃げようとしたとして曹操に殺された琅邪王・劉熙、献帝の皇子で212年に王に取り立てられた済陰王・劉熙(琅邪王と別人)、山陽王・劉懿、済北王・劉邈、東海王・劉敦など。曹丕の「禅譲」まで諸侯王だった後漢の王は、献帝の皇子は列侯、それ以外は崇徳侯に降封されたとの事。崇徳の祟りがあったかどうかは知らない。 -- 2024-03-10 (日) 13:11:38
      • 京都の有鄰館に、金印の「崇德侯印」が現存している。魏の崇徳侯の誰かが使っていた事になるが、残念ながら誰かは分からない。https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/13494/files/kodaigakukiyo_31_31.pdf 後漢の皇族は魏では禁錮(公職追放)の扱いだったので、金印の主も捨て扶持だけもらってプータローしていたのだろうか。禁錮が解かれたのは西晋の266年。 -- 2024-03-10 (日) 13:20:59
    • 後漢の王の場合は実際の統治は相以下が行っていて、それらの任命は後漢朝からされるという形だし、侯にしても租税が得られるだけで統治には介入できなかったようなので、王侯は何やってたというか、そもそもシステムとして自身の政治が出来なかったという事なので、存在感が感じられないのも当然かもしれません。あと任地にいる事が原則なので官職兼任でなければ任地には居た筈です。 -- 2024-03-10 (日) 14:39:23
      • 逆に言うと、そんな立場なのに存在感を示しまくった劉寵って何なのという話である。国相の師遷に反乱疑惑を告発された時も、状況的に考えると取り調べを担当した宦官の王甫(言うまでもないが夷陵で死んだ人とは別人)に賄賂を贈って返り討ちにしたっぽいし、そうだとすると反乱疑惑を逆手にとって目障りな国相を消して、真の意味で陳国を掌握してみせた劉寵の政治力はとんでもないな -- 2024-03-10 (日) 15:53:35
      • てことはもはやネタキャラのイメージしか無い曹豹も下邳の相だから…実は政務を担当するお偉方だったんか?まさか -- 2024-03-10 (日) 19:43:12
      • 丹陽兵のボスだったとおぼしき許耽を(たぶん)指揮下においていた曹豹が陶謙陣営の幹部クラスだったのは間違いないと思うけど、笮融のせいで陶謙が下邳を実効支配できてたかはかなり怪しいから、曹豹の下邳相は名前だけだった可能性が高いんじゃないかな… -- 2024-03-10 (日) 20:08:25
      • 名前だけだったとしたら、陶謙は王を自称するつもりでも有ったんか?ってなりそうだけど・・・有っても全然おかしくない人間でもあるし・・・。 -- 2024-03-11 (月) 06:26:26
      • 曹操や孫権の魏王、呉王ってなんとなく彼らの支配領域を統べる王のことなんかって思ってたけど、漢の統治制度からすると単に魏郡、呉郡を封地とする王というのが正しいのかな? -- 2024-03-13 (水) 12:35:22
      • 孫権の呉王に関しては実際その通りだと思う。孫権が離反した222年に、おそらくそれへの報復措置として曹彪が呉王に封じられているんだけど、この時に孫権の(名目上の)呉王領を分割しただのという話は出てこないから、報復措置は曹彪の封建で十分だった=曹家の諸侯王の扱いからして、呉王国はそこまで大きな所領ではなかったという事なんだろうから。なお曹操の魏王国は10郡もあった模様 -- 2024-03-13 (水) 13:38:47
      • 魏国そんなにあったんか。。。荀彧の気持ちがわかってきた。 -- 2024-03-13 (水) 15:40:54
      • なお曹操の魏公就任の少し前に魏郡自体も他所から14県程移管されて大幅に拡大してるという。 -- 2024-03-14 (木) 05:21:36
      • ちなみに後漢の時代の諸侯王の領土は1郡未満がざらだったそうで。そんな時代に10郡の公ですなんてやったらもうね…。傍目から見た曹操の野心のバレバレ具合なんて司馬昭どころじゃなかったんじゃないだろうか。 -- 2024-03-14 (木) 05:25:24
      • 司馬昭も王になったとき、追加で10郡プレゼントされ合計20郡を領したってなってるのだが -- 2024-03-14 (木) 11:23:48
      • 曹操が10郡もがめたもんだから、以後公になろうとするなら最低10郡を領有するのが大前提になったんで晋公の時に10郡持ってった。その上で、うっかり曹髦殺しの十字架を背負っちまったもんだから、それを打ち消すために蜀討伐の成果アピール、さらに曹髦殺しの汚名を背負い続ける子孫のため、確固たる地盤を残しておきたかったから晋王+20郡領有なんていう無茶を押し通したとかだろう多分 -- 2024-03-15 (金) 07:27:45
      • 魏朝を起こす為に曹氏が色々と無理押ししたのが巡り巡って魏朝が司馬氏にやられる側になってるの、何とも因果応報感があるな。まぁ魏朝の朝臣って、漢朝の末期の劉氏への曹氏一派の対応を体感したり聞かされてきただろうから、まぁそうなるよねって。 -- 2024-03-16 (土) 15:31:02
      • 曹操にナーフされた名士層は、悪感情しか伝えていかなかったろうしな。まあ、その曹操が一番警戒していた異民族に最後は蹂躙されて終わるのも、因果応報と言うか歴史の必然を感じる。 -- 2024-03-17 (日) 05:02:44
      • 東晋になってからも、名士層にいいようにされたり、末路まで含めて曹爽Mk-Ⅱみたいな司馬道子・元顕父子に滅茶苦茶されたりと、自分たちが追い落とした曹家と同じ轍踏んでるのも皮肉というかなんというか… -- 2024-03-21 (木) 07:13:52
  • 蔡文姫は劉豹はもちろん匈奴に対しては憎しみしか抱いていないのかな。親愛が一方通行だから気になった。連れ去りだから当然だろうけど悲しい。 -- 2024-03-11 (月) 23:18:00
    • ゲームの内容を歴史に当てはめても意味ないぞ。そして夫婦で親愛が双方の方が珍しいから一方通行なのは普通。嫌悪ついてないし憎しみと解釈するのもよくわからん。 -- 2024-03-12 (火) 08:29:18
      • そもそも劉豹と結婚したというのが小説の話(南匈奴に攫われて曹操に買い戻されたところまでは史実)だった気がする。自分がちょっと調べた感じでは陳舜臣の秘本三国志以前に遡れないんだけど、元ネタはどこなんですかね。 -- 2024-03-13 (水) 15:47:32
      • 単にこの時期の匈奴の人物で名前割れてるのが少ないことと一応記述のうえでは該当するのが劉豹ってだけや -- 2024-03-14 (木) 10:57:59
      • 素直に考えたら去卑なんだけど、話としては劉豹のほうが面白いんだよね。陳舜臣は自力でそっちの可能性を拾い上げたんだろうか。彼ほどの知識量なら不思議じゃないが。 -- 2024-03-17 (日) 15:22:02
  • 荀彧の尊称、「令君」ってどうい意味なの?役職なんか? -- 2024-03-16 (土) 01:56:16
    • 尚書令、または県令への敬称らしい。荀彧は前者。尚書令は尚書省の長官なので、「荀長官」のようなニュアンスでは無いだろうか。尚書令は皇帝の秘書官的な立場で文書を扱うが故に、詔勅の原稿を起草する中書令と並んで大きな権力を持つ地位であった。 -- 2024-03-16 (土) 02:59:27
      • 追記。中書令は前漢で一度廃止されていて、魏で復活しています。孫資が有名。 -- 2024-03-16 (土) 03:01:30
      • 荀勗が中書監から尚書令へ昇進した事を祝われて「我が鳳凰池を奪われたというのに、何を祝うというのか!」と返したエピソードがあるので、西晋では尚書令<中書監という力関係だった事になる。中書監のポストがここまで重要視されるようになったのは劉放・孫資の専横の影響もあるのかな -- 2024-03-16 (土) 07:26:24
  • 張華と張飛って同じ郡の出身なんだな。張飛が張良の末裔の可能性もあるか -- 2024-03-17 (日) 02:31:39
    • 張姓なんてありふれてるから同郷の同姓=同族という定番の考察は使えないし、張飛に張良の末裔なんていう面白トピックがあったら流石に陳寿が明記してるんじゃねえかな。いくら何でも建国の元勲の出自の情報が何も無いって事はなかろう。そもそも、そんなご大層な家の人間が義勇兵になるとも思えないから、仮にそういう出自だとしても零落していたのだろう -- 2024-03-17 (日) 06:12:16
      • 張良云々は眉唾としても、張飛と張華が同族かもというだけでちょっと面白いよね。ついでに劉放も涿=范陽郡出身なので劉備と同族かも...? -- 2024-03-17 (日) 12:13:22
      • 張飛は出身県も分からないし、出自まで陳寿が取材できてないんじゃね -- 2024-03-17 (日) 12:42:39
      • そもそも張良の末裔であり張耳の末裔でもある奴がいる時代ですしおすし…多分漢の功臣の家柄みてーな記録が執筆者の年代の違いでブレたんだろうなとは思うけど -- 2024-03-17 (日) 13:16:41
      • ↑×3劉放は燕王劉旦の末裔で、劉備は中山王劉勝の末裔。劉勝は劉旦の伯父なので一応同族ではあるが、劉備の時代から200年以上前に枝分かれしてるからほぼ赤の他人だな。日本でいうと、足利と武田を同族扱いするようなもんだ -- 2024-03-18 (月) 17:37:41
  • 三国時代に限らないが、中国式の敬礼「拱手」。あれは文士・武人・庶民・名士とかでやり方が違うのだろうか?例えば左手は伸ばして、右手は拳で添えるのは武人専用とか。 -- 2024-03-17 (日) 08:46:51
    • 基本的には拱手や拝礼だけよ、軍のは単に軍中のみ別扱いなだけ(多分武装して頓首やら拱手のお辞儀がきついとかあると思われる)軍人いうても古代中世なら平時は政治家になるんだから拱手なんかは学んでなきゃいけんわ。一方で古い時代だと庶民というか下層民はとりあえず頭下げとけくらいのもんじゃないかな、名士や地主、豪族なんかの大きな家の一族や家人なら庶民でも礼は学んでるだろうけど -- 2024-03-19 (火) 11:15:45
  • 楽進は地元で1000人も募兵してるから、それなりの有力者だったようだけど、孝廉に挙げられた様子がないし、名士層との繋がりも見えないのが気になる。わざわざ「激しい胆気を持ち」と明記されてる事から考えるとこの人史渙のように侠客だったんかな -- 楽進 2024-03-22 (金) 06:29:18
    • 楽進は曹操に従った最初の時には帳下の吏にされたってあるけど、侠客の徒だったら最初にそんな役回りに就けるかな?という疑問がある。胆気があるって点を考えて意外と演説というか檄が巧みで募兵が捗ったとか -- 2024-03-22 (金) 11:32:18
    • そういうのは武官として勇ましく兵を率いた、くらいの褒め言葉の言い回しだと思ったほうがいいかと、先鋒を率いるに相応しい豪放な人だったくらいのことかと。曹操のとこに加入した時期が張邈のとこにいた頃か東郡太守の頃か厳密にはわからんが、どちらにしても兗州時代の曹操は(建前の上は)官軍側の人だし、そこにいきなりゴロツキが仕官出来るとは思えんなあ(史渙は曹操と郷里が近いので事情が違う)むしろ下っ端の役人で、なおかつ地元に顔が利くとかだったんじゃないか? -- 2024-03-22 (金) 14:11:30
  • 曹丕は黄初2年八月に孫権を呉王に封じたが、その翌年には曹彪を呉王に封爵、つまり孫権の呉王を公的には廃止したという事になるが、封爵から1年かそれ未満で取り上げた事になるのか…。そりゃ孫権がずっと臣従してるなんて誰も思ってなかっただろうが、それにしても1年未満でこの処置はあまりにも早すぎる。曹丕の戦音痴ぶりは広く知られてるけど、外交センスもダメダメなのでは…。 -- 2024-03-28 (木) 20:52:11
    • 劉備を撃退した孫権が言うこと聞かなくなったから王位取り上げたまでで、封爵から期間の長さとか関係なくない? -- 2024-03-28 (木) 21:39:22
      • 下の枝も合わせての返信ですが、それなら呉王じゃなくて呉侯に留めておけば良かったのでは?と。実際王にするのはやめておくべきという声もありましたし。臣従関係を強化するための封建だったのでしょうが、関係が僅か1年持たずに背かれているようでは大盤振る舞いした甲斐がなく、この封建で曹丕が得た利は何かあったのだろうかと思ったんですよね。 -- 2024-03-29 (金) 01:05:58
      • 得たものは蜀の処理に専念して貰えたことかなー。関羽の侵攻から回復する時間も欲しかっただろうし。あと王に封じるのって魏にとって実利的にそんなロス大きい? -- 2024-03-29 (金) 01:28:55
      • ここでほろぼしとけと進言した劉曄の話があるけど、もし本当に攻め込んだら皇帝として寛大な心をぶん投げる事になっちまう、なんでまぁ時間稼ぎとわかりつつも王として認めるのは魏としては良策だったはず。問題なのは孫権が謀反後に必勝の戦略とばかりに無理に動いてボロ負けした事だな。 -- 2024-03-29 (金) 13:21:29
      • 長々とした説明は控えるけど孫権が公的な王の立場に就けたかどうかはその後に大きく影響したと言って差し支えないかと。 -- 2024-03-29 (金) 23:05:16
      • ちゃんと説明せんと否定されて終わりやで。ここは隔離地帯だから長文遠慮せんでもええのよ。 -- 2024-03-30 (土) 00:43:04
      • わからせ失敗したのが一番デカいけどね。魏蜀の皇帝撃破って実績ができちゃったから、最強のワイが皇帝じゃないはむしろおかしいってなっちゃった。 -- 2024-03-30 (土) 03:00:09
      • 細々説明すると長文でも済まなさそうだし、否定するなら否定しても構わないけど、後に孫権が皇帝を名乗れた事と、かつ曲がりなりにも国として扱われたのは彼が正式な呉王であった事が大いに重要な点でしょう。 -- 2024-03-30 (土) 08:36:46
      • 孫権は皇帝を名乗るときに魏を否定して漢を継ぐと言ってるから魏からの王位を受けたことはマイナスだろう -- 2024-03-30 (土) 11:00:24
      • その漢を継ぐという名分にしても公的には会稽太守、劉備が上奏したという体のあれを認めても車騎将軍兼徐州牧が孫権の身分な訳で、郡太守や州牧風情が漢を継いで皇帝になります。といっても戯言でしかないでしょう。また魏からの封爵を受けた事と後にその国を否定する事に論理的矛盾は無いのでマイナスになったとも思えません。結局開いたのは漢ではなく別王朝な訳ですし。 -- 2024-03-30 (土) 21:41:07
      • 魏から呉王をもらう前から実力で江東を支配してるし戯言になんてならないと思うけど -- 2024-03-30 (土) 21:59:36
      • 説明を拒否して王になったのが重要としか言わず、否定意見には反論する、って態度取り続けるなら間違いなく荒れるよ?否定されても構わんなら黙っておくべき。 -- 2024-03-30 (土) 23:03:52
      • 戦乱の時代だから実力や実効支配があれば公的な地位や立場はどうでもいい。と思うのならば、大勢力だった袁紹が曹操の大将軍位に異を唱えたり、後に曹操が魏公になるならないで揉めた上で公に就任した事をどう思います?また出典が魏略で恐縮ですが、孫権は帝位の僭称を望んだが官位が低かったため魏に臣従して官位を得てからにしようと考えた。という注があります。事を成すにあたって、実効支配だけではなく地位を踏まえる必要性があったという傍証になりませんか? -- 2024-03-31 (日) 17:46:45
      • 大将軍やら魏公の件は、就任する方も文句言う方もお互いに漢帝国の枠組みの中にいる前提での話だから参考にならんのではないかな -- 2024-03-31 (日) 17:58:57
      • 肩書も必要だけど最終的に称帝するなら魏呉でお互いの存在を全否定しあうわけで、独立を保つ力さえあれば皇帝になるまでのステップとして魏から王位をもらう必要はないんじゃないかな。とりあえず呉の内部的には上将軍・九州伯で納得するわけだし。あのタイミングで魏からの官位を蹴ると魏蜀を同時に敵に回すので受けただけで。 -- 2024-03-31 (日) 18:21:50
    • 呉が人質拒否して従うポーズすらなくなってからやん -- 2024-03-28 (木) 21:47:17
    • まあ、魏が短命で終ったの大体曹丕の所為だからな・・・ -- 2024-03-29 (金) 01:25:13
      • 短命な皇帝ってそれだけで害悪だからな。長命なだけで良いわけでもないが。 -- 2024-03-29 (金) 01:30:30
      • 曹丕が下手に長生きしたら、それはそれで酷いことになりそうなのがな…  諸葛亮の北伐も絶対曹叡みたいには捌けんだろうし、そのくせ鮑勛の一件みたいなあれな事をし続けて本格的に名士層に見放されそう -- 2024-03-29 (金) 16:33:03
    • 夷陵の前に服属するので助けてって言われた結果で王にした、けど夷陵のあとに孫権が叛いた(黄武3年の11月)とあるからそこでボッシュートなら別におかしくないぞ、この年は文帝記にもあるように順次一族の封王、封爵が進められてたので調整もしやすかったろうな。まぁ曹丕からしたら冊封体制と反乱勢力とのあいの子みたいなやつらに上手く抜け穴利用されたようなもんで、だからか援軍出さないとかやらかしてるし(楊肇の事を考えれば襄陽→夷陵は行けるはず)ホントならもう少し削り合ってほしかったのでは? -- 2024-03-29 (金) 04:12:35
  • 中国史において、益州で割拠した者は数多いるが、蜀漢以上に長生き(入蜀から滅亡まで約50年)した者や、蜀漢以上の版図を獲得した者は劉邦ただ一人である。「守りやすいから皇帝ごっこはしやすいけど、攻勢に出づらいからそこで行き詰まる」というのが益州という土地の宿命なんだろうな -- 2024-03-29 (金) 07:08:34
    • 新末期の公孫述も安定した統治を行った上に隴西や荊南の勢力と連合までしたりして、巴蜀に割拠した勢力としてはかなり上手くいった方だったんだけど、かわいそうなことに相手が悪過ぎたな。 -- 2024-03-30 (土) 00:04:57
    • 秦や北周なんかもいるけど、関中をセットで確保していることが中原に出る条件なんかね。長江を下るルートもあるんでそこまで致命的な不利とは個人的には思わないが。。 -- 2024-03-31 (日) 16:10:59
      • 蜀の場合は長江を下って侵攻する計画も蒋エンが立てたんだけど、おそらく宜都の役の前例で群臣から却下されて中止に追い込まれてるんだよね。軍が大敗すると人的損害だけではなく後世の作戦計画にまで影響がでてしまう -- 2024-03-31 (日) 17:55:16
      • ↑×2秦や北周は益州勢力ではなく、関中勢力が益州も併呑したパターンなので今回の話からは除外しました。あくまでも、益州が本拠地だと外に出づらいよねという話なので -- 木主? 2024-03-31 (日) 19:11:28
  • 馬隆将軍が磁石で鮮卑をくいとめたとあるが、磁石の存在を知っていたにせよ甲冑を来た何千もの兵士を食い止めるとか、どんな磁石だったのか?魁!!男塾にそんなやつ出てきたが。 -- 2024-03-30 (土) 02:57:39
    • 馬隆側の将兵は裸だったのだろうか? -- 2024-03-30 (土) 03:06:29
    • 磁石自体は紀元前から知られていたし「磁石は針を吸うも曲を吸わず」なんてことわざもあったから無問題。でも鎧兵士を動けなくするとかネオジム磁石でも無理な気がする。 -- 2024-03-30 (土) 06:37:47
      • 遊牧民は鎧をつけないか、軽いレザーアーマーというイメージがあるため、鮮卑(実際はいろんな遊牧民の集合)が鉄鎧なのもどうかなと思う。まあ、馬隆将軍の話は晋書が由来だと思うが、歴代正史でもイチバン信憑性のない記事が多いと批判された書物だからね。 -- 2024-03-30 (土) 10:12:05
      • 矢(鏃)を磁石で吸引して無効化したり、馬(轡)を吸引して奪ったりしたんだろう・・・馬隆がマグネットパワーを使う超人だったら可能だ -- 2024-03-30 (土) 13:48:45
      • 記述を信じるなら馬隆完璧超人説が最有力 -- 2024-03-30 (土) 13:56:40
      • 遊牧民族が重騎兵用いてないってのはモンゴルやらパルティアンショットやらのイメージに引っ張られすぎ、現実には重騎兵も使うし、軽装と重装の中間みたいのも使う。なので樹機能も(記述は数をマシマシとしても)重騎兵の突撃を主力にしてたんだと思う、磁石戦法がどこまでかはわからんが、少しでも足止めや馬が混乱出来たら構わないんだから本当に使ってたなら磁石で足並み崩したくらいなのでは? -- 2024-03-30 (土) 17:55:29
      • イメージというが、むしろモンゴル帝国は重騎兵も活躍してた方だぞ。逆にこの時代の鮮卑に重騎兵を用いるだけの鉄や技術があったかどうか。長城の内側に異民族国家が乱立した五胡十六国以降に発展していったのではないかな。三国時代~魏晋頃だと中華でも本格的な馬甲が存在してないのだし。 -- 2024-03-31 (日) 16:38:23
    • 鮮卑が重装騎兵数千人を運用できるようなら、そもそも魏晋に服属してないと思うんだ -- 2024-03-30 (土) 10:58:40
      • 戦闘能力と統治能力はまた別だから。頭下げてもいい取引が出来るなら服属もする(日本の勘合貿易も同じ発想)。 -- 2024-03-30 (土) 21:56:10
      • 戦闘能力というか、数千人分の軍馬&鉄武装の調達とメンテナンスができてそれを攻撃に使える(=防衛軍は別に維持できている)だけの豊かさがあったらというお話かな... -- 2024-03-30 (土) 22:49:15
      • 遊牧民に防衛軍なんてものあるの? -- 2024-03-30 (土) 23:05:33
      • 現実の(豊かなリソースのない)遊牧民には無いと思うよ。 -- 2024-03-31 (日) 01:11:53
      • リソースの問題じゃなくてライフスタイル的に遊牧民にそんなものは必要ないというか、戦争になったら遊牧民から戦士になるだけだから防衛軍とか遠征軍とかの区別なんてないのでは? -- 2024-03-31 (日) 02:07:07
      • 鮮卑といえど、内蒙古より中国側に近い方の部族は中華文明と交雑しているから、草原に在住している遊牧民とは武装が変化しているのはありえるな。夫余なんて城郭都市化して中華に近くなってるし。 -- 2024-03-31 (日) 07:30:05
      • この仮定なら冶金技術を持つ集団とその設備も必要なはずだしなー -- 2024-03-31 (日) 10:50:20
      • パルティア辺りからカタフラクトの知識だけは伝わってて、定住化である程度組織的運用が可能になっていた、とかはありえなくはないかなと思う、かなり浪漫だけど -- 2024-04-02 (火) 15:02:05
    • 無粋を承知でいうと、現代でも実現不可能ですね。。。唐代に磁石が流行ったとかそんな事情でもあったんだろうか。 -- 2024-04-01 (月) 01:29:16
      • もしくは馬隆は未来から来た時間超人だったか・・・ -- 2024-04-01 (月) 02:53:48
  • 神様「お前を一度だけ三国志の時代いずれかに飛ばして大きな戦を観戦させてやろう。どの戦いの年代に行きたい?」 -- 2024-04-03 (水) 09:53:09
    • メジャーなわりに規模とか場所とかよくわかってない赤壁かなー。あと陸戦はまず確実に人死に見て具合悪くなるからまだマシそう。 -- 2024-04-03 (水) 12:14:30
    • 戦なんて実際に見たら確実にメンタルやられる。 -- 2024-04-03 (水) 12:18:23
    • 神様ー、戦よりも孫権の放火コントとか、透明人間コントが見たいです。あとは蘇則がリアルに「おまえじゃねえすわってろ」をやらかした瞬間とかw -- 2024-04-03 (水) 19:41:48
    • 劉禅の一日を観察してた方が楽しそう。実際何してたか気になるし。 -- 2024-04-03 (水) 20:03:51
    • 神の視点で観戦できるなら白馬の戦いでの関羽の闘いを見てみたい。果たして関羽伝の通りなら創作の御話の如き光景が見られるだろうし -- 2024-04-03 (水) 22:01:53
    • 夷陵で陸遜に燃やされる前にボヤ騒ぎでも起こして歴史改変 -- 2024-04-04 (木) 01:00:06
      • 観戦じゃないからNG -- 2024-04-04 (木) 19:55:27
  • 演義だと呉の名将・忠臣みたいな甘寧だが、正史だとガチのサイコパス?みたいな危ない奴だな。特に料理人殺害。親友の呂蒙に止められたが、結局やってしまった。元は賊だからな。 -- 2024-04-04 (木) 02:26:04
    • 甘寧は『華陽国志』で巴郡臨江の大姓とされる甘氏の出身で、元蜀郡の郡丞だから、賊というかやべえボンボンの半グレだな -- 2024-04-04 (木) 05:55:48
      • 『晋書』には呉~東晋に仕えた甘卓の伝が立っているが、そこでは甘寧は甘卓の曾祖父という記述と共に、秦の丞相・甘茂の子孫と書かれている。呉や東晋だと巴郡の甘氏といってもパッとしないから、先祖を飾り立てた事が窺える記述。 -- 2024-04-04 (木) 17:01:44
    • 悪いとこだけ切り取ると誰でもそういう評になりそうだな。 -- 2024-04-04 (木) 08:14:39
    • 甘寧が賊出身ってのは演技の創作では?チンピラ共を集めて親分気取りして地元で20年余り好き放題していたらしいからろくでなしの部類ではあっただろうけど。 -- 2024-04-04 (木) 15:22:33
    • 甘寧の行動ってどれも侠気からの行動だろうし賊だからとかろくでなしかと言われるとうーん…て感じだな。料理人は失敗した後に逃げ出したから酷いことになったとも見れるし(誠実に詫びてれば殺さなさそうなイメージ)、20年に関しては好き放題していたけど書に親しむようになって暴力を控えるようになったともあるしな。 -- 2024-04-04 (木) 16:32:17
      • その前に「甘寧は粗暴で殺人を好んだ」と書かれているし、殺すほどのことではない失敗でもしばしばぶっ殺したという事だと思う。料理人は被害の代表例であって、他にも何人も殺されているのだろう。 -- 2024-04-04 (木) 16:55:39
      • 誰かれかまわず殺したとは限らないしなぁ…。理由なく好き勝手に殺したエピソードも特にないし。侠気から人を殺したり助けたりしたとも書かれてるから殺す理由があってやってたと思う。 -- 2024-04-04 (木) 17:01:02
      • 罪の程度はどうあれただ賊だからただサイコパスだから殺したとは違うように思う。 -- 2024-04-04 (木) 18:10:15
      • 相手が長史でも自分を手厚く接待したなら共に楽しんだが、そうでないと手下を差し向けて財産を奪ったとあるのは、もう完全に893の所業だな。義侠心溢れる快男児的な人柄では到底ないだろう。また料理人の逸話も呂蒙の反応は同様の事例で殺しの前科があった事を伺わせるし、正史にキッパリ殺しを好んだの文言があるって事は相当軽い理由で殺してたんだろう。 -- 2024-04-04 (木) 21:08:19
      • 張飛とかもそうだけど、史書にわざわざ書かれたって事は当時基準でもヤバかったって事だよなー -- 2024-04-04 (木) 21:38:56
      • 長吏の界中に賊害があればその摘発を請負った。ともあるけど、その前文と合わせて考えるに、被害への義憤ではなく俺のシマで勝手やってる奴もケジメなつけさせたって奴なんだろうな。ただサイコパスとは違うと思う。現代人どころか当時の人から見ても命の扱いが凄く軽くて、俺ルールで身勝手に殺す事多々ありって人だったんだろう。 -- 2024-04-05 (金) 00:40:34
      • ↑3 財産を奪うのはもてなさなかったらではなく無下にされたらだし曲解しすぎ。自分に対して害意や礼節を欠いていた人にたいして簡単に暴力をふるったり殺してたんだと思う。義侠心や快男児であることもたびたび書かれてるし、そちらの内容の方が多い。陳寿評もそんなかんじだし。 少なくとも義侠心によって人を殺したり助けたりしたと書かれてる以上そういう心持ちが根底にはあると思う。-- 2024-04-05 (金) 08:16:11
      • 賊っていうより侠客とか武侠とかそっちの方が立場としては近いんじゃないかなあと思う -- 2024-04-05 (金) 15:01:36
      • ↑2、原文を見ても訳をしている複数のサイトを見ても、もてなすなら良し、そうでなければ~という訳をしてるように見受けられます。無下にされたらという原文にない意味を汲み取っている方が曲解なのではないでしょうか。 -- 2024-04-05 (金) 22:43:55
      • 俺ルールってコメントあるけど一番近いのはそれかなあと、ようするに彼個人の支配力を維持するには後漢や周辺エリアの刑法、風俗度外視に見せしめ、しかも厳罰をもちいていてその恐怖も含めて部下を抑えてたってことだとおもう。孫呉の国家形成の過程ではそういった独立勢力を取り込んで行ってたわけで、傘下になってからもあまり変わらなくて、記録残すようなインテリから見たら何やこいつってなったんかも。 -- 2024-04-06 (土) 01:20:13
      • あれだ時代は違うが彭越の逸話が近いのかと思うわ -- 2024-04-06 (土) 01:20:57
      • 甘寧死後にその兵を与えられた潘璋も似た感じの書かれ方なんだよな。他人には厳しく自分はやりたい放題系。土地柄なのかというと潘璋は兗州出身で甘寧は益州出身だからそこはあまり関係無さそう。孫権政権の気質だったんだろうか。 -- 2024-04-06 (土) 01:49:55
      • 料理人ぶっ殺したののどこらへんが侠気なんだ?狂気だろ -- 2024-04-06 (土) 12:12:33
      • 性格からして、ミスした挙句に筋も通さず逃げ出すような奴は許せなかったんだろう。ミスして逃げるような奴は甘寧じゃなくても殺す人はいそうだし、どちらかというと呂蒙が慈悲深いようにも思う。 -- 2024-04-06 (土) 13:15:45
      • 使用人が主の上官に泣き付きに行くって相当な覚悟がいるから、そのまま謝っても殺されるって確信があったんじゃないかね。例えば、以前に似たようなことで殺された人が何人かいるとか。 -- 2024-04-06 (土) 13:30:43
      • 料理人ノリで殺してる奴といえば宋太祖がいるね。なぜか業績だけでなく人格まで持ち上げられてるが、逸話から見るに個人の気質はクソ短気なパワハラゴリラだ。わざわざ特筆するのは叩き上げ武官でもちょっとヤバいやつで、まっとうな知識人からすれば異常なんだろう -- 2024-04-06 (土) 13:45:37
      • ↑2駆け込まれた呂蒙が料理人が殺されると判断してるので、同様に殺された事例は複数あるんだろうな。あと料理人に殺されても仕方ない非があれば呂蒙も匿わないだろう。あと呂蒙に殺さないからって約束してるのにすぐに反故にして手づから殺してる所もやばい。やはり信義や法律、約束よりも俺の気分が大事の人なんだろう -- 2024-04-06 (土) 15:57:28
      • 甘寧潘璋は子が跡を継いだ的な記述もなくいきなり追放にされてるし孫権も内心ムカついてたのでは -- 2024-04-06 (土) 23:44:29
      • 呂蒙伝の中で、甘寧はしばしば孫権の布令にも違反し、孫権が怒ると呂蒙はその都度庇い立てして容忍されますよう述べたとあるので、内心ムカついてたというのは十分ありそう。指摘の通り遺子への措置でも本音がうかがえる。 -- 2024-04-07 (日) 01:31:51
      • 遺族への扱いと言えば、魯粛の子の魯淑が40過ぎまで官職に就いていた形跡がない(官職に就いたのが確認できるのは孫権の死後)から、魯粛も内心煙たがれてたんかしら -- 2024-04-07 (日) 07:29:05
      • 劉備の入蜀の頃には孫権からすると魯粛路線が上手く行っていない事から、信頼は結構損なわれてる感はある。死の前後に方針転換してるし、呂蒙伝中で孫権が陸遜と三都督を論じた時にも魯粛に含む所は感じる。ただ煙たがるまでではなかったんじゃないか。そこまで忌避する要素は無さそうという点で。 -- 2024-04-07 (日) 19:22:48
      • 孫権は孫策や周瑜の子孫にも、その功績に見合うような待遇をしていないし、なんなら周瑜死後に彼の部曲を奪った疑いすらあるし(正史本文では周瑜が遺言で魯粛に継がせたことになってるが)、そもそも孫権に酷薄な一面があっただけなんじゃないかな。陳寿の評も「苦難を共にすることはできても、楽しみを共にすることはできない人」というものだし、甘寧・潘璋あたりは江南に地縁や血縁が無いから都合よく使える手駒として生きてる内は我慢して重宝もしたけど、死んだらポイって捨てた感じだよね。 -- 2024-04-08 (月) 05:20:44
      • 魯淑も生まれたのが親父の死後だから、そもそも存在を知らんかったまで有り得る。皇帝として何百何千て臣下を抱えてて、それでなくとも呉はメンドクセエのが多いのに、いちいち才能が有るかも分からん臣下の子の面倒までみてられるかって感じだろ。まあ、曹操は見てたけど。孫権は自ら旗揚げした訳じゃないからその辺ドライだったんじゃないかね。 -- 2024-04-08 (月) 07:32:35
      • 張承から「自分と同じくらいに出世するだろう」と言われたのが恐らく230年半ばだろうから、単にそれこそ張承辺りの元で下積みしてた時期の記録が消し飛んでるだけだろうに、定期的にこの「魯淑は放置されてたんだ」とかいういきなり高官抜擢する方が異質な事実を見ない謎理論わくよね。あと魯粛を嫌っていても好意的に見てても、即位前はともかく皇帝即位してた孫権がそう易易と会えるはずもないし、会えても実績ゼロの奴を「よし今からお前は将軍だー」ってしてくれるはずもないんすよ、頭孝成王かよ。 -- 2024-04-09 (火) 01:45:22
    • サイコパス味を一番感じるのは個人的には呂布かな。人間同士の信義という概念が欠落していて、他者を利用する道具としてしか見ていない感がほんと怖い。 -- 2024-04-05 (金) 00:54:36
      • 戦闘狂っぽい呂布だが、張楊に身を寄せていた時期に、李傕らが張楊に呂布をヤレと脅してきたが、「お前と同郷の俺を斬れば、世間から恥知らずと罵られるぞ」と言って自ら立ち去ったとか、曹操に「わしの兗州をなぜ奪おうとした?」と聞かれると「天下の土地は天子のもの。いつからお前の物になったのだ」と答えたりとか、たまに知性あふれる発言するのがたまらない。 -- 2024-04-05 (金) 05:14:12
      • 現地では狡猾な悪役イメージとは聞いたな。日本で脳筋キャラになってるのは不思議らしい。 -- 2024-04-05 (金) 06:56:14
      • 元々丁原の主簿スタートだから地頭はいいんだろうね。胡軫を偽情報で敗走まで追い込んでるから。(胡軫を敗走させた結果、華雄戦死したけど) -- 2024-04-05 (金) 16:02:18
      • 敵将胡軫を敗走させたお手柄みたいに書くのはやめたまへ -- 2024-04-05 (金) 22:33:22
      • 袁術と劉備を和睦させたツッコミどころ満載の自称平和主義者発言の時のアレも、諸将は袁術に手を課すべきという所に、袁術に包囲される形になるから劉備を助ける必要があると反論してる辺り、ちゃんと戦略的に思考した上で動いているので考え無しの戦闘狂とは言い難い。和睦の持って行き方にしても呂布なりに知恵を巡らせている。 -- 2024-04-06 (土) 01:58:40
      • 場当たり的には頭が回るけど、長期的な視野と信義にかける感じ -- 2024-04-06 (土) 12:09:11
      • 呂布のそういう性格が曹操から見れば「おもろい、可愛い」に見えたから、配下にしようとした。表向きは善人面して裏をかく劉備には呂布の可愛げは2回通用せず、劉備は処刑を曹操に進言した。呂布が死に際に劉備を「お前がイチバン信用ならん奴だ」と罵ったのも、幼稚な純粋悪党の呂布は劉備を狡猾な極悪人だと見抜いたんでしょうな。 -- 2024-04-06 (土) 12:37:16
      • 劉備で極悪人なら、袁紹・曹操・孫策あたりは超極悪人だな -- 2024-04-06 (土) 14:49:38
      • ↑3呂布って最初から人を利用してやろうって近づく意志は感じられないんだよな。ただ人から唆されると簡単に目先の利益に飛びついちゃうし、そこの判断基準において信義が極めて低く位置づけられちゃう。ただの馬鹿ではないが短慮で信義に欠ける人物って感じ。サイコパスって感じでもないかな。現実でも理性と意思の弱い人ってこういう事しがちだと思う。 -- 2024-04-06 (土) 16:04:01
      • 呂布が純粋っていうのもどこが?って感じだし、幼稚な人間が他人の本性を見抜くみたいな理屈も謎ですね。曹操が呂布を配下にしようとしたのも呂布の武略に価値を感じたからでしょう。結局処刑してるのもメリット<デメリットに感じたからと考えれば筋が通る。単に劉備下げしたいだけで無理やり話を結び付けてる感じ。 -- 2024-04-06 (土) 16:08:24
      • 丁原と董卓殺して劉備を徐州から追い出してるもん。劉備が狡猾なら呂布は大っぴらにやべーやつ -- 2024-04-06 (土) 16:28:50
      • 呂布の最期の言葉はホントかね。すでに逆賊扱いの董卓のことを劉備が董大師なんて呼ぶか? -- 2024-04-06 (土) 16:54:19
      • 忘れられがちだが基本的にちうごくは元々「金!土地!報酬!」な世界で民族オールギリワンみてえな有様なのを、儒教や知識人やら漢王朝の長続きでどうにかこうにか抑えてた状態なので、呂布だけがあたおかな訳でもない。おそらく本場で狡猾と見られるのもそれ、一定の段階で自分と身内にメリットがあると思えば容赦ない判断の切り替えが凄いよね呂布!って判定。日本人と根底の思想というか思考回路が違うのよ(数千年それでやってきたところなので) -- 2024-04-06 (土) 17:15:57
      • 説明不足かなと思うので上に足すと史記なんかにも「金で内通」とか「色んな国に仕え」とか、なんなら「王族なのに他国に」とかいるじゃん?あの手の延長かつ即断即決度合が凄いのが呂布なのだと思えばよい。 -- 2024-04-06 (土) 17:31:52
      • 日本史詳しくない方だ!江戸より前の日本史学ぶことをオススメするよ。信義なんてあったもんじゃねーから -- 2024-04-06 (土) 17:38:36
      • 主張としてこいつは義父を2人も殺した奴だぞ。という事なので、董仲穎とか董賊ではなく、あえて董大師という呼び方をした可能性?逆賊という点を押し出すと、じゃあ殺して良かっただろみたいな話にもなりかねないし。 -- 2024-04-06 (土) 17:45:19
      • 頭よくはないけど言い訳考えたり嘘ついたりしてその場を逃れることにだけはよく頭の回るクソガキがそのまま大人になったみたいな感じでしょ。サザエさんのカツオみたいな狡猾さとジャイアンのような凶暴性を兼ね備えたのが呂布。 -- 2024-04-06 (土) 19:02:20
      • ↑3ごめんな、今の日本人の思想や価値観と中国人の思想や価値観との違いで呂布の見方変わる、って話に日本史がなんの関係あるん???あえて言うならそこからある程度軌道修正出来た(というか思考を修正出来るほど平和な時期がマジで多い)のが日本、定期的にトップが崩壊するから精神の奥底で上を信頼しきる思考を持てなかったのが中国、という感じ -- 2024-04-06 (土) 23:24:20
      • まあ、脳筋にしたのはゲームだろ。どのゲームでも脳筋設定だから、恐らく最も参考にしてたであろう吉川英治や横光三国志での呂布の描かれ方はどうだったか?を調べてみるのが正解じゃないか? -- 2024-04-07 (日) 00:14:08
      • 呂布の「裏切り」でかろうじて納得できるのは劉備から徐州乗っ取ったとこかなぁ。劉備が袁譚を孝廉に推挙したのはおそらく徐州治めてた頃だろうし、呂布としちゃ「劉備が(過去に自分を消そうとした)袁紹に近づくとか、俺消されるんじゃね?」って危機感持つのは仕方ないかな~と。 -- 2024-04-07 (日) 06:12:47
      • 曹操に負けて逃げてきた呂布を受け入れてくれた恩人を裏切るとかだめでしょ。袁術みたいに受け入れてくれないとかですらないし。 -- 2024-04-07 (日) 10:36:15
      • 袁紹に近づくも何も劉備は徐州継承の段階で既に袁紹派に鞍替え済みでは? -- 2024-04-07 (日) 12:02:30
      • 張邈・張超が曹操を見限ったのはまだ理解できるけど、呂布が劉備を裏切るのは完全にアウトだわな。なんなら窮地を助けてくれた相手を勝手に弟呼ばわりしてるのも、かなり礼を失した振る舞いだしね。 -- 2024-04-07 (日) 12:05:36
      • 演義で呂布がアホなキャラになってるのは美女連環計のからみだよね。お人よしで騙されやすい、狡猾で口も回るが浅慮ですぐ欲に目が眩む。吉川は現代的に肉付けして膨らませているけど方向性は同じ。残念な愚かさだったのが、脳筋の戦闘狂というある意味ポジティブな愚かさに読み替えられたのはわりと最近だと思う。 -- 2024-04-07 (日) 13:07:48
      • 普通に董卓殺しが一番擁護できる。ちょっとしたことでキレた董卓に戟を投げつけられてるしこれこそ命の危機。しかも大逆賊を討ったという漢への功績でもある。詔もあったようだし。ただ女絡みというのは擁護不可能。 -- 2024-04-07 (日) 13:19:04
      • まず丁原裏切りのときからすでに李粛から「あいつ頭よくないから餌で釣ればあっさり裏切るよ」ってアホキャラ扱いされてないか -- 2024-04-07 (日) 15:26:01
  • もし諸葛瞻が黄崇の助言を受け入れて鄧艾軍を全滅させていたらその後はどうなっていたんだろう? -- 2024-04-06 (土) 00:52:06
    • 政権中枢部が順当に腐っていってるのでどうにもならんと思う。よっぽどの英雄でも出てこない限り、たまに魏晋の有力者が功績稼ぎに殴り掛かってくる場所くらいにしかならんのでは(姜維とか劉禅死んだタイミングあたりで殴られそう)。 -- 2024-04-06 (土) 01:33:25
    • 鄧艾を討てた場合、剣閣の鍾会側も苦戦してた事を考えると一旦は征伐軍を退ける事はできそう。ただその場合も発言力が増すであろう諸葛瞻は反姜維だし、朝廷の腐敗をどうこうできるようにも思えないので、滅亡がやや先延ばしになっただけかと。司馬昭が史実通りに死んだとしても、司馬炎が皇帝でなければ堕落せずに英明なままだったかも知れませんし。 -- 2024-04-06 (土) 02:09:55
      • 司馬炎が皇帝になる時期は遅れただろう。史実で蜀漢討伐が司馬家簒奪の業績稼ぎに利用された以上、司馬炎は蜀漢を倒さないと帝位には即きにくい。戦線を長引かせて、諸葛誕や曹髦のような内乱を期待するのが蜀漢の生存率を上げる道に思える。 -- 2024-04-09 (火) 15:03:44
      • 陳祗死後の蜀漢じゃ魏にどんな政変があっても便乗できる感が無いんだよな。白昼堂々皇帝がぶっ殺されるとかいう前代未聞な曹髦の変があっても何もできてないし。政変が起きてもそれは魏朝の弱体と引き換えに司馬氏の権力基盤の強化と=だし。 -- 2024-04-09 (火) 22:05:19
      • 魏と敵対した連中の寄り合い所帯だった頃は兎も角、蜀で産まれた二世三世世代だと魏にケンカ売り続けるモチベーションも無さそうではある -- 2024-04-10 (水) 07:41:20
    • 呉もどこまで信用出来るか分からんし、一応滅亡後ってなってるけどドサクサで侵攻してきてるからな・・・そん時は撃退できたが、呉からも本腰入れて侵攻されたらどうにもならんだろ・・・。 -- 2024-04-06 (土) 05:10:36
      • 蜀漢が健在なら、魏(晉)を差し置いてまで攻撃する意味は呉には無いだろう。また、呉に正式に救援要請が来たのが263年10月、劉禅の降伏は11月だから、電撃戦にも程がある。そもそも、呉にはまともに援軍を準備する時間すら無かったのでは? -- 2024-04-08 (月) 01:14:47
      • 魏が夏に伐蜀の詔を発令、8月に洛陽の軍が進発、9月に交戦開始なので特別電撃戦という訳でも無いですね。呉への援軍要請(というか成都の動き全般)が遅かったのは姜維の報告を黄皓が握りつぶしていたからですね。 -- 2024-04-08 (月) 02:39:46
      • 山越えに電撃戦も何もないだろう、はさておき鄧艾のだと秋に、とあり、陳留王伝と蜀漢後主伝には夏とあるので、トラ・トラ・トラしたわけじゃなく、夏に討伐許可が降りて何ヶ月か準備して秋に長安(及び先発の隴西軍)出撃だから実質3ヶ月で討伐されてる、途轍もない速さだよ。 -- 2024-04-09 (火) 00:50:41
      • 条件的に同一視も出来ないけど呉もいざ征呉の軍が来たら3か月で滅んでるからなぁ。 -- 2024-04-09 (火) 02:41:54
      • ルブラン「うちはマジノ線があるから安心だな」 -- 2024-04-09 (火) 03:47:47
      • ↑×2せっかく吾彦が晋の侵攻を察知して守備兵を増やせって言ってきてたんだし、それを容れてれば… といっても、完全に民心は離れきってるし、多少兵を増員したところで焼け石に水か。諸葛瞻が江油を抑えてれば何とかなった可能性がある征蜀戦と違って、征呉戦はどうあがいても詰みって感じだな -- 2024-04-09 (火) 20:33:23
      • 桓温の成漢征伐、苻堅の前燕征伐、劉裕の後秦征伐、宇文邕の北斉征伐、楊広の陳陳征伐、李世民の鄭・夏征伐なんかもあっけないぐらい一瞬で終わってるので中枢が腐ってれば一撃ってことは古代だとよく起こりうる。李世民はそこまで腐ってない相手をまとめて瞬殺したので格が2,3違うと思うが…なんで統率100じゃないんだ? -- 2024-04-09 (火) 22:44:19
      • まあ、長江とか顕著だが、長期戦になったらそれだけ兵站きつくなる上天災で帰らざるをえなくなる確率高くなるから、遠征の成功例は大体破竹になるわな。逆を言えば、呉は粘れれば勝算があったしそれで油断もしてたんだろうが、長江の上流の益州を取られた事はやはりデカくてそっから崩され滅んでる。それを考えると、ドサクサ侵攻って単に領土欲しいってだけじゃなかったと思うんだよね。 -- 2024-04-10 (水) 03:31:33
      • そらそうよ、白帝城や永安近辺まで進めれば現在でいう重慶の中心から最初の防衛ラインに持っていけるし、四川盆地の入口にも近寄れる、これが西陵からだとムリだ -- 2024-04-10 (水) 09:11:27
      • ↑3 隋末に割拠してた連中は腐ってなかっただろうが、代わりに成熟もしてなかったし、国号を称していただけで国と言える程の組織体系も整ってない群雄に過ぎない連中ばかりだったろう。竇建徳以外は人望にも欠けてたし、厄介な巴蜀にはこれといった群雄が割拠しなかった。1番苦戦しそうな江南の蕭銑は李靖が片付けてくれたしな(だから突厥戦も合わせて李靖が100貰ってる)。 -- 2024-04-15 (月) 21:06:14
      • ボンクラ蕭銑ならクズだけど歴戦の王世充や突厥がバックにいる劉武周のが強くね?唐以外で最強のはずの竇賢徳・劉黒闥も含め正面から戦って文字通り鎧袖一触だった -- 2024-04-16 (火) 12:39:42
      • 王世充は軍略があったけど人望が無さすぎてあっという間に崩れたし、竇賢徳は逆に人望はあったけど、大軍を率いて無策で持久戦を行ったのを見ても、およそ軍略と呼べるような才は無かった。劉武周は突厥の後援があったとはいえ、辺境な上に支配領域も小さく、実際に戦った際には既に唐との勢力差は覆し難かった。蕭銑は袁紹の様に狭量だったという記述もあるが、血筋に恵まれている上に寛仁大度であったいう記述もあるし、降伏した際の発言や李淵との会話を見ても優れた人格の持ち主であることは察せられる。支配領域や兵力でも隋末の群雄では頭1つ抜けてるし、江南はただでさえ攻めるのが難しい上に、この時代は既に生産力が高い地域だから、総合的に考えれば一番の難敵だったと思う。 -- 2024-04-16 (火) 17:43:21
      • それに劉邦・劉秀、朱元璋あたりと比べると李淵&李世民は血筋や生まれが恵まれている上に、勢力としても他の群雄と戦う前から関中と巴蜀を手中に納めることに成功してるから、かなり有利な状況からのスタートなのも大きい。三国志で例えたら河北に公孫瓚すらいなくて、漢室と親戚な状態の袁紹&袁尚みたいな感じだからね。 -- 2024-04-16 (火) 17:57:13
      • どうやって竇建徳が河北制覇したと思ってるんだ…?というか李世勣破って黎陽落としてる将に軍略がないとはエアプすぎてお話になりませぬ。あと長安入城までも宋老生や屈突通ら隋将と戦っているよ。まさかまさか屈突通に軍略が無いなんて言わないよね… -- 2024-04-16 (火) 19:43:22
      • 竇建徳の強さは新末の赤眉や後漢末の黒山とよく似てる。一種のカリスマがあって、勢いがあると強いが、そうでなくなるとあっさり敗れたりする。トップの竇建徳が敗れた途端に配下の将の多くが散り散りになって逃げて、掠奪行為をしたり、無法な振る舞いをするのを見ても、彼らが国や軍と呼べるような集団というよりは本質的に賊徒だというのがよく分かる。李勣については竇建徳だけでなく劉黒闥にも負けてるが、どちらの敗北も軍略らしい軍略を発揮することもなく負けてるので、兵力差が大きかったのかもしれないな。屈突通や宋老生は群雄ではないので、↑2で自分が書いた内容と反するところはないだろう。あえて物申すなら、唐軍が渡河するのを全く妨害することもなく許したのはかなり致命的なミスに感じるが、これも李勣と同じくやむを得ない事情があったのかもしれないね。 -- 2024-04-16 (火) 22:51:34
    • 鍾会が長安まで引き上げたらいいが、蜀漢からしたら陽安関(今の陽平関で当時とは別、漢中への主要道)を落とされ、葭萌関付近も事実上は放棄してってとこで、鍾会からしたらスルーしてた漢中の抑えたところで態勢整えようって感じになるかと思うんだよな、で、漢中への再進出に手間取ればそのうちに蒋斌やオォォォォガン達が保たないだろうから、今度は漢中拠点にした侵攻不可避だろうなあと -- 2024-04-10 (水) 00:37:38
      • 袁子によると鄧艾鍾会共々飢えており、帰還も困難とあるので姜維らの追撃をどれだけ防げるかだろうか。機動においては姜維に分があるだろうしけっこう厳しそう -- 2024-04-13 (土) 17:04:33
      • 鄧艾はともかく、鍾会はまず逃げれると思う。あの状況での追撃は偽退の可能性有るから迂闊にできないでしょ。 -- 2024-04-16 (火) 05:20:37
      • 鄧艾はともかく鍾会のほうは陽安関を獲った後に補給したともあるし、剣閣までの補給ラインが細すぎて大変とかなのかも -- 2024-04-17 (水) 11:02:20
  • 昔読んだ三国志解説本で、王允に董卓殺害を教唆された呂布が「義理とはいえ、父親を二人も斬りたくない」というと、「異姓養子だから問題ない」と答えたとか。しかし、三国志演義が完成した明のころには異姓・同姓を問わず親殺しは大罪という文化が広く定着したため、呂布の悪事が大々的になったと。 -- 2024-04-08 (月) 07:16:39
    • 呂布の所業は陳寿の時点で既に口を極めて批判されてるので、それはどうだろうかね。。。 -- 2024-04-08 (月) 15:48:23
    • 漢代でも親殺しは大罪だよ。そもそも丁原と親子は創作では。ちなみに異姓養子自体が原則タブーよ(劉備もやっているが一応劉氏の姻族だったような) -- 2024-04-08 (月) 17:29:56
      • 異性養子は当時も忌避すべき事項だったろうなと思われるんですが、三国関係でも異姓養子は結構居るんですよね。異説もあるけど曹嵩、曹真、劉封、王平、馬忠、孫桓、朱然…。後漢末は異姓養子の禁止意識が割合緩かったのかもしれません。 -- 2024-04-08 (月) 20:36:21
      • しれません、というか、規制を強めたのが三国時代とか見たのでことに後期の宦官のさばってた頃や戦乱の頃には元々規制あったのが戦乱でガバってたか、元々はある程度意識的に禁則されてたのが無法地帯になったから抑えにいったかは不明だが、親戚だからセーフとか血は繋がらないけど同姓だからセーフとかは締め付けが行われたんじゃないかな、魏王朝の有力者の貴族化にも関係してそうだな、と -- 2024-04-09 (火) 01:10:27
      • 異姓養子が所謂、親分子分の盃みたいな侠客の話だとしたら認められないかも。義侠は儒学には反すると言われていたわけで。前漢時代は儒者が侠客を糾弾したりしていた。董卓は羌族の地で暮らし、義侠心があり、荒くれ者たちから人気があったとも言われてる。呂布との関係はヤクザの「親子」に近いものだったのか。 -- 2024-04-09 (火) 01:52:24
      • 項羽と范増の亜父のほうが近いんでない?あなたを父と思ってお仕え致す、みたいのを日頃口にしてたとしたら、我々が捉える以上にそれを裏切るのは重く取られたとか -- 2024-04-09 (火) 04:45:42
      • 自分で言っておいて立場上の親子宣言をぶっ壊すの想像より呂布のやらかしが不味いと感じた。戦乱だろうと必死にマナー講師の皆様がやれ格子だの忠だの考子だのやってるのに「でも呂布はやらかしたよね?君は?」って言われちゃうんだ、そりゃ知識人や官僚が絶許にもなるわ。 -- 2024-04-09 (火) 05:16:21
      • 実際、唐の末期に節度使や宦官らが側近を仮子という養子っぽいものに迎えて擬制的親子関係を結ぶというムーブが流行ってるけど、そんなの知ったこっちゃねえとばかりに「親」を乗り換えたり殺してとって代わったりする呂布もどきの「子」が大量発生してるからなあ。呂布のせいなのかと言われると何とも言えんが -- 2024-04-18 (木) 06:47:20
      • 安禄山とかいう、ガチで赤ちゃんプレイまでして玄宗と楊貴妃から気に入られた最狂で最凶な節度使と比べれば、呂布なんて腕っ節が強いだけの可愛げのある優等生に見えてくる… -- 2024-04-18 (木) 09:11:26
      • こいつみたいになってはいけませんよ!って道徳や忠孝に対する反面ので呂布やらが悪い例として槍玉に上がるわけで、言うなれば「飲酒運転はいけません!」って交通安全指導みたいなもんなわけ、それに対して「無免許泥酔逆走轢き逃げよりマシだろ!ふざけんな!」って言われても困るんだ -- 2024-04-20 (土) 00:25:07
  • 今作、というかコーエー三國志の袁家滅亡後のシナリオで梁習が統治してたはずの晋陽が空白地になってるの、あそこら辺の安定に人生を捧げた梁習さんが全否定されてるみたいでかわいそう… 新勢力プレイのために空白地が必要、みたいなゲーム的な都合は分かるんだが… -- 2024-04-13 (土) 06:00:17
    • 空白地は開始時点ではどこにつくかを定めてない場所や安定した統治下にはないと思えばええねん、というか改めて読んだら住民が難民化したりしてるからむしろ空白地は正しいだろ、これ -- 2024-04-13 (土) 15:07:37
  • アニヲタwikiで唐の節度使のことを「学校バックレたり家出したりするけど高校の学費やスマホ代は親に払ってもらってる子供」と例えられてて、吹き出しつつも秀逸だなと思ったけど、これ後漢朝廷と群雄の関係にもあてはまるよな。日本の戦国時代でもそうだが、戦乱の世だからこそ、自分たちが上に立つ大義名分・正統性が大事だから、却って従来の秩序を無視できなくなるのよね -- 2024-04-13 (土) 06:25:58
    • 三国志だけ読んでると漢魏革命は必然のなりゆきに見えるけど、群雄割拠のまま安定して、後期唐みたいにダラダラと存続する可能性もあったんかな、とか考えてる。 -- 2024-04-17 (水) 19:41:56
      • どうだろねえ。寒冷化で異民族が南下してくるまでが必然と考えると、群雄割拠が続いてたら数十年早く呑み込まれてそうだが。 -- 2024-04-18 (木) 01:38:36
  • 陳王劉寵が袁術に殺害されたのち、豊かだった陳国はたびたび略奪されたようで、夫人や娘、妾は丹陽兵と烏桓兵に略奪されたそうな。陶謙の下にいた丹陽兵と幽州の烏桓…?不思議な組み合わせだなあ?っていうのを某所で見た -- 劉備 2024-04-14 (日) 15:13:46
    • 烏桓って漢に帰順して傭兵化してるのでどこにいても不思議じゃないですよ。荊州方面に派遣されてそのまま居着いたような連中もいたはず。 -- 2024-04-14 (日) 19:41:26
    • 後漢ではないが楚漢戦争の楼煩(武将のほう)なんて例もある、この場合は烏桓含めた北部の騎馬民族の傭兵が略奪を多少目溢しされる前提で雇われてたか、あるいは主がいなくて野盗化したかだろう -- 2024-04-15 (月) 00:58:21
    • 匈奴の於夫羅ですら中原の戦闘に絡んでたりするからな。劉虞が劉和の為に派遣して、袁術に略取された数千の騎兵とかも烏丸兵の可能性は高いし、丹陽兵なんかはもっとポピュラーで曹操あたりまで募兵に行ってたくらいだから、中原ならどこにいても不思議じゃない。 -- 2024-04-15 (月) 03:09:36
    • 劉備が率いていた烏桓突騎って、たぶん劉軍の中核の一部として入蜀まで従ったようなのもいたと思うんだけど、なんか存在感ないよね。それ言ったら青州兵とかもそうなんだけど。公孫瓚から劉備に付けられた趙雲が実は烏桓突騎の指揮官だったりして(ただの思いつき) -- 2024-04-17 (水) 19:48:26
      • そこまで付き合った奴は皆無じゃないにしても、存在感示すほどの数はいなかったってだけの話じゃないか。何度も本拠失う劉備に異民族の騎兵(逃げやすい)がどんだけ付いていくかってお話で。 -- 2024-04-17 (水) 23:03:54
      • 烏桓騎兵が袁紹や曹操の元にも当然相当数いたのは間違いないんだけど、彼らもほとんど存在感がないね。。虎豹騎にいたかもしれんけど。そういえば演義にはなぜか慕容烈というオリキャラ鮮卑武将が曹操軍にいたが。。 -- 2024-04-19 (金) 03:15:44
      • 魏軍のオリキャラはもう原作にいない機械獣みたいなもんだから・・・ -- 2024-04-19 (金) 07:26:23
      • まあ、運用的に牽制・遊撃が主で、あんまガチらせて勝敗を決する様な場面で使う駒じゃないだろうから、わざわざ書かれる事もなかったんじゃないかね。 -- 2024-04-20 (土) 06:00:42
  • 後漢末期には王允の兄の王宏や、曹操の息子の曹協、閻柔の弟の閻志や高堂隆など、後漢皇帝の諱を犯しているもの(左から順に霊帝=劉宏、献帝=劉協、桓帝=劉志、殤帝=劉隆)が散見されるが、特に問題視された様子はない。もしかして後漢末期では避諱の風習が形骸化してたんだろうか。陳寿も蜀書後主伝で思いっきり「司馬懿」って書いちゃってるし -- 2024-04-16 (火) 17:03:44
    • 史書が編纂された時点では後漢は過去の王朝だからそのまま載せたのかも。王允の兄なら霊帝より歳上だろうし、霊帝誕生後に避諱していたのでは? -- 2024-04-16 (火) 17:27:57
      • 実名は変えずに字を公称した例は南北朝時代にある。前秦の王懿は、打倒東晋の意図でわざと司馬懿と同名を付けられたが、東晋に亡命する羽目になり、以降は字の「仲徳」で通した。正史『晉書』は唐の李世民の時代の成立だから、それまでの唐の皇帝の名前は全部避けてある(例:公孫淵→唐の高祖・李淵を避けて「公孫文懿」)。逆に、陳寿が公孫淵の字を記録しなかったのは、司馬懿の避諱だろうとここで判明。蜀書で避けてない箇所があるのは、編集ミスなのか蜀側の視点でわざと残したのか? -- 2024-04-16 (火) 22:34:23
      • 司馬炎の「炎」も基本避けているが(例:孫炎→孫叔然)、陳留王(曹奐)紀では名指ししている。編集上意味がありそうだが。 -- 陳寿 2024-04-16 (火) 22:43:18
      • 同じ事件が個々の列伝によって微妙に内容が違うケースはよくあるので、編纂ミスと考えてもよいのでは。また、いま伝わってるのは裴松之の註釈版なんで、オリジナルとも差異はあるはず。あと、漢字あるあるで人により書き方に癖があるから、写本を繰り返していくうちに勘違いや間違いで別の字で伝わることも。 -- 2024-04-17 (水) 04:07:18
      • 唐の顔師古が『漢書』の注釈で「世間の質の悪い写本では「壹」の字を「懿」に変えているものが多いが、そいつは誤りだボケ(原文:「馬邑人聶壹之類也。今流俗書本多改此傳壹字為懿、非也。」)」とキレており、後世の人間が勝手に司馬懿の避諱をしたと思い込んで、「壹」を「懿」に書き換えて「復元」してしまう事があったらしい。もしかしたら、『華陽国志』に登場する「呉懿」も、「作者の常璩が東晋の官僚だから避諱したんだろう。よし俺が直しとくか」といらんことを考えた人間の仕業で、本当は「呉壹」さんだったのかもしれない -- 2024-04-17 (水) 06:31:56
      • 裴松之が名前を可能な限りで訂正したとかはありえるわな、直すとこ忘れて写してても手書きじゃ簡単には手直しも出来ないから不完全的な -- 2024-04-17 (水) 10:52:38
  • 一説に鍾会は謀反時に独身だったらしいが、鍾繇の息子で穎川の名族だった鍾氏の男なら、15ぐらいで許嫁ができて二十歳頃には子供がいて当たり前のはず。王元姫や辛憲英が嫌っていたのは生理的に女性がうけつけない何かがあったのか。 -- 2024-04-18 (木) 17:27:54
    • んな超名門のお御曹司がキモイ程度で結婚できない訳無いだろ・・・鍾会が女性を受け付けなかったなら有り得る -- 2024-04-18 (木) 23:17:08
      • 母親大好きマンだったらしいので「マザコンキモい」に該当したのかも。 -- 2024-04-19 (金) 01:39:18
    • 正史本文か裴注か忘れたけど、息子2人が亭侯になったとか書いてなかった? -- 2024-04-18 (木) 23:25:27
      • あくまで一説。兄の子を養育していたとも言われている。 -- 2024-04-19 (金) 01:40:40
      • 一説つーか「(鍾会が司徒に任ぜられた際)二人の子をそれぞれ亭侯に封じた」とあり、その後に「(鍾会敗死後)兄が先んじて没したので養っていた甥のうち一人は共に敗死し、他の三人は捕縛され連座として死罪に値したが内二人は免罪、官爵も据置きとなった」とある、どちらも本文だぞ。で、そこには前述された二人の子が出てこないので後述部分の四人のうちの誰かを養子にしてたのでは?と推測する人もいる話 -- 2024-04-19 (金) 04:47:33
    • 誰の言説か気になる -- 2024-04-19 (金) 07:24:10
      • 誰のも何も正史に独り身で質も取れないってあるんだが 注でもないので陳寿が聞いたか読んだ史料にあったのだと思う -- 邵悌 2024-04-19 (金) 09:40:49
    • たまたま正室が若死にしたとか、子宝に恵まれなかったとかだったらあるかもしれない。男児に恵まれなくて養子を取った武将なんてのは他にいくらでも例があるし。 -- 2024-04-19 (金) 07:30:09
      • 実はどっかの名門の娘を娶ってたが、謀反人に娘を嫁に出したとなるとアレだから実家が頑張って書かせなかった・・・と考えることもできる -- 2024-04-19 (金) 11:49:12
      • 仮に蜀遠征時に正室がすでに死亡していても、誰もが知る側室がいるなら監視もしくは念のために人質になる。あれだけの謀反をしたら、子供がいなくても鍾会の妻(側室でも)も連座で処刑だ。記録に全く出てこないのも不思議。知られていない妾ならいたかもしれないが。 -- 2024-04-20 (土) 04:22:37
      • ↑×2郭淮の嫁が王淩の妹とか、司馬伷の嫁が諸葛誕の娘というかなりの厄ネタもしっかり記録されてるし、そもそも名門だろうが謀反人との縁戚関係を記録にも残らないレベルで隠しきるのなんて無理じゃないの。口封じしなきゃいけない関係者どんだけいるのよって話だし -- 2024-04-21 (日) 07:35:04
      • そこに「当たり前すぎて書かない」パターンもあるからややこしくなるんだよな。 -- 2024-04-21 (日) 16:11:13
      • 司馬昭の娘だったとか、 -- 2024-04-21 (日) 19:29:34
      • それだと上にあるように少帝の進言が全て作り話……いや、ほぼそこにしか出てこない人材だからなくはない、のか、怖いな… -- 2024-04-22 (月) 00:30:37
    • 結婚歴ない(+子供いない)のと、特定タイミングで独身であるのとはイコールではないし、それを混同して揶揄する書き方を木主がしているのがなあ。 -- 2024-04-19 (金) 11:59:06
      • そもそも司馬昭の側近やってて「え、お前嫁さんいないの?ふーん、うちの族子ちゃん会わせたげよっか?」みたいにならかったのかという疑問があるし、子供いないなら側室はいないんかってのもあるし、正室が不在だったか上にある隠されましたってのかなあ -- 2024-04-19 (金) 12:16:05
  • 楽毅は確か、武廟六十四将や戦国四大名将には選ばれてないよね? -- 2024-04-19 (金) 08:35:56
    • 楽毅は武廟十哲には入ってるぞ。武廟六十四将は後から武廟十哲とくっつけたものだからな。戦国四大名将は子供に漢字を教えるための詩で、一文字も重複させず、韻を踏むのにちょうどいい名前の人が選ばれただけだから楽毅の評価とは一切関係ない -- 2024-04-19 (金) 09:13:52
      • まあ武廟かて選者の趣味だし -- 2024-04-19 (金) 12:40:56
  • 曹丕って突然倒れてその翌日に死んでるんだな。毒でも盛られたみたいな死に方 -- 2024-04-26 (金) 08:06:34
    • 脳卒中とかのパターンもあるでの。目眩がするから横になる→そのまま、みたいなのもわりと聞く。 -- 2024-04-26 (金) 10:39:10
    • 結構、彼は悪名高いから、恨んでる人間もいたはずで、毒盛られたりした可能性も皆無ではないやろね。 -- 2024-04-26 (金) 12:08:55
    • 五月丙辰はあくまでも曹丕が遺言を遺した日であって、実際にはもっと前から病臥してたんだと思う。そもそも、急死じゃ遺言を遺せないだろう -- 2024-04-26 (金) 12:25:58
      • 危篤になった、だしね、漢字の意味くらいは調べておいでといいたい、まあネットのどこかで拾ってきたのかもしれんけど(前に別の話題でそういうやついたし) -- 2024-04-26 (金) 13:06:43
      • ざっと調べた限りでは、曹丕が五月丙辰に病に倒れたと言ってるのはwikipediaだけだから、木主はそれを鵜呑みにしちゃったっぽいな -- 2024-04-26 (金) 16:25:48
      • 死ぬ20日ほど前で鮑勛処刑のごたごただし十分急死じゃね -- 2024-04-26 (金) 22:53:19
      • どうだろ。鮑勛の一件は、死期を悟った人間が、死ぬ前にこいつだけは絶対に殺してやる…!と暴走したようにも見えるが。廷尉の出した判決、それも曹丕に可能な限り忖度したものを無視して、三公や録尚書事の反対も蹴っ飛ばすって単に鮑勛が嫌いってだけじゃ説明できないと思う -- 2024-04-27 (土) 06:09:10
      • 曹丕は楊俊とかも無理やり殺してるしなあ。劉備孫権なんかは発病して数ヶ月に死亡と分かるけど曹丕はいきなり死ぬから急死でいいと思うが -- 2024-04-27 (土) 11:57:19
      • 多分みんなの中で「不調だったが死の前日に治る見込みないと判断」と「いきなり倒れてそのまま」みたいのがごっちゃになってるな、前者でも急死とも確かに言えるがたぶん枝主の言うようなのではないよねって話で -- 2024-04-27 (土) 21:06:22
      • 木主の主張通りに16日に突然倒れて17日に死亡だったら4人に後事を託すことすらできないだろうに。正史の記述を見ても元々病なり体調が悪化してた所がいよいよ16日にやばくなったとするのが自然だろう。 -- 2024-04-29 (月) 01:09:41
  • 劉封劉禅の名で封禅となるのは劉備は意識してたんだろうか -- 2024-04-27 (土) 15:51:13
    • 封の方は劉備が付けたわけじゃないんでこの時点では偶然でしょうけどねぇ。 -- 2024-04-27 (土) 20:43:59
    • 封禅ニキこれ何回目よ・・・ -- 2024-04-27 (土) 21:01:09
  • 柿沼陽平氏曰く、敦煌文書に司馬徽が後漢時代の「少傅」であった(太子少傅のことか?)とする記載があったそうだが、それが正しいとすると司馬徽はただの「好」が口癖の変人ではなく、元は二千石の高官であり、後世の我々が思っていた以上の大物だったことになる。そんな大物にあの経歴の徐庶が師事できたのも不思議だが、よっぽど石韜が上手く取り成してくれたのか、水鏡先生が来るもの拒まずの鷹揚な人だったんだろうか… -- 2024-04-28 (日) 13:21:11
    • 中国人ヤクザ者とか敵討ちとか光落ち大好きだからまあ・・・(語弊のある言い方) -- 2024-04-28 (日) 14:28:28
      • 当人が党錮の禁なんかの影響受けて左遷や在野落ちされた人ならそんな経歴まあええわになるんじゃないかね -- 2024-04-29 (月) 10:53:58
    • そもそもまともに皇太子すらいない後漢の少傅???という話が -- 2024-04-29 (月) 10:48:21
      • それ俺も柿沼先生の本を読んだ時にちょっと気になったけど、司馬徽が少傅であったというのは二行ぐらいでさらっと触れてるだけ(「劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』」より問題の部分を引用:また『演義』では、司馬徽は水鏡先生とよばれ、怪しさ満点の隠士として描かれているが、じっさいには後漢王朝の少傅(皇太子の教育係)であったとの史料もある(敦煌文書)。)だから、敦煌文書を読めない俺らには確かめようがないのが… もちろん柿沼先生がいい加減な事を書いたわけではないとは思うし、「既存の拙著で引用済の先行研究や史料の出典を本書で再度掲示したりはしない」との断り書きがあるので、他の本に詳しく書かれているのかもしれないが -- 木主? 2024-04-29 (月) 12:25:49
      • いや、史料の有無は疑わないのだが、まず霊帝の即位の経緯から見てその頃ではないだろうから、となると「いつ」「誰の時の」なのかという点と、そもそもその前提ゆえに後漢はほぼ常時大傅少傅がまともに機能してなかった権限よわよわ飾り職なとこあったようだから、就任したとしてその辺りどうなのかという点ね、自分が疑問符なのは。少帝や献帝の少傅なら董卓の一件で逃げた人になるし、献帝の子なら他の人も言うように曹操から召し出された時に提示されたと見るわけで… -- 2024-04-30 (火) 00:50:15
      • 司馬徽は龐徳公より10歳下とのことだが、龐徳公が179年生の龐統の従父である事から考えると、おそらく生年は160年代後半から170年代前半にかけて。どんなに早く見積もっても、150年代前半とするのが限界だろう。いずれにせよ、少帝や献帝の少傅とするには若すぎるから、曹操が任命したと考えるのが自然なのかな -- 2024-04-30 (火) 06:36:27
      • 司馬徽の少傅任命が曹操によるものだとすると、その意図も気になるところだが、司馬徽が潁川名士の一員で(潁川郡陽翟県出身で、郭嘉と同郷)、元々荀彧らと交流があってもおかしくない事から考えると、伏皇后一派への監視役として送り込まれたというのも十分ありえそうだ。曹操としても、娘を皇后にする構想は前々からあったはずだがら、伏皇后を排除する機会を虎視眈々と狙ってただろうし、董承という前例があるから警戒もしてたはずだからな -- 2024-05-01 (水) 06:33:14
      • もしそうなら、お気楽な二…隠者からいきなりヘビーな役職に就けられて、胃か精神をやられたんじゃ・・・。 -- 2024-05-02 (木) 04:28:53
    • 演義の司馬徽は若いのに隠者ぶってる変人だよね。敦煌文書が正しいなら実際は結構歳がいっていたのか、あるいは曹操に少傅に登用されてまもなく亡くなってしまったのか。。 -- 2024-04-29 (月) 14:42:58
      • 演義の司馬徽は若くないのでは? -- 2024-04-29 (月) 15:08:25
      • 演義の司馬徽は龐統より5歳上って設定(演義35回より)だからかなり若いぞ -- 2024-04-29 (月) 15:23:33
      • ↑×3仮に曹操が少傅に登用したのだとすると、この時伏皇后はまだ存命だったのだから、皇太子は伏皇后の子だったはず。あれ、これもしかして水鏡先生下手に長生きしてたらヤバかったんじゃ… 伏皇后所生の皇太子の教育係とか、罰ゲーム以外の何者でもない… -- 2024-04-29 (月) 15:37:36
      • 献帝(劉協)の死後、子は早くに亡くなったので孫の劉康が山陽公を継いだという。魏を憚って明言していないだけで、劉康の父は曹操による不自然死なんだろうか。とすると皇太子が父であっても不自然ではないか。 -- 2024-05-01 (水) 12:02:37
      • 皇后が二人も男子を産んでいるのに立太子されていないとするのは不自然だし、伏一族と共に抹殺された伏皇后所生の二皇子のどっちかが皇太子だったんだろうね。そして伏皇后(伏寿)が貴人になったのは190年だから、伏皇后所生の皇太子の年齢は最長で24、5。子供を儲けていてもおかしくない年齢だから、劉康の実父が抹殺された皇太子というのは十分ありえる -- 2024-05-01 (水) 12:18:23
  • 上の方にある木を見てて唐突に思ったんだけど、曹丕って曹操時代からの重臣功臣やその血縁を、あの手この手で排除しようとしてる気がしないでもない。まぁ自分が歴史を知らんだけで、国家に世代交代起きた時はそんなん当たり前だったのかもしれんけど -- 2024-04-29 (月) 16:13:18
    • 大なり小なり。てか、やり方に差異はあれど組織ならみんなやってるでしょ。誰だって自分が信頼する人間を重用したいし、一方で先代から居る人間はデカい顔してウザイ。それでポストに限りがあるとすれば、何も起きないはずもなく・・・。 -- 2024-04-30 (火) 01:46:54
    • どの辺の話を見て思ったのか分からないけど、曹丕がことさら先代時代の重臣を排除しようとしたようには感じないかな。自身が絶賛した魏朝の三公だって先代からの臣だし。曹丕の排除対象は先代時代からというより個人の好き嫌いや遺恨に依るものだと感じます。 -- 2024-04-30 (火) 02:16:50
    • 排除したのは曹操時代の重臣ってよりも後継者問題で曹植を推したやつって印象。それに皇族を冷遇した話からするに、曹丕が恐れたのは臣下よりも身内って感じがするし。 -- 2024-04-30 (火) 05:20:09
      • 曹真、曹休、夏侯尚らは重用されてるので宗室だからではなく相続権のある曹操直系を警戒したってことだね。そこは仕方ないし、曹叡まで早めに崩じて有力者が曹爽だけになるとか想像でない -- 2024-04-30 (火) 08:45:29
      • オスマン「安心してトップを受け継ぐコツあるんすよ」 まぁ中国でも春秋晋なんかも継承問題減らすために兄弟排除はしてたし、他の国もちょくちょく一族がのさばる→対処は起きてるし、他国なら軍人皇帝の皆さんみたいなのもあるし、神輿交換狙われるのが一番怖いのはいつも同じで、曹丕だけの特別な行動でもないもんな -- 2024-04-30 (火) 09:48:15
      • 近親を官職から締め出す政策は、後漢もやっているし(だから後漢の諸侯王は影が薄い)、曹丕オリジナルではない。ただし、近親を無力化させすぎるのは危険という主張もあって、曹芳の代に曹冏(曹騰の兄の曾孫)は一族の登用を曹爽に献策したが却下されている。 -- 2024-05-01 (水) 01:53:58
      • 宦官外戚皇太后を政治から排除しようとしてるし自分の行動を遮ってくるのが嫌だったんだろうなとは感じる -- 2024-05-01 (水) 03:37:11
      • ↑そのあたりは漢王朝腐敗の要員でもあったし魏王朝で同じ轍を踏まないようにって方針でもあったんだろうけど。んで排除しまくったら司馬懿の台頭を防ぐやつがいなくなった、と。 -- 2024-05-02 (木) 06:31:42
      • 宦官や外戚は有害な部分が目立つけど、ちゃんと制御できれば皇帝権力の安定化に有用だし、霍去病や鄭和のような外戚・宦官出身の名将・名臣もいるからやみくもに排除すりゃいいってわけでもないのが難しいところやね。霍光のように、本人が清廉潔白でも周囲が調子に乗ってやらかすパターンもあるのが本当に厄介 -- 2024-05-02 (木) 07:30:04
      • 外戚は兎も角、宦官が重用されるのは不健全だと思うなー。外戚含めた家臣が権力持ちすぎたら身近にいる宦官を皇帝が重用しだすのがパターンだから。 -- 2024-05-03 (金) 21:00:51
      • 後漢の場合は、宦官が養子を取って財産を継承させる事を認めるという愚行をやったのが致命傷だな。これのせいで、権勢が世襲されず一代限りという宦官最大の美点が死んでしまい、宦官と外戚が悪魔合体した曹一族のような化け物が生まれてしまった -- 2024-05-04 (土) 07:49:34
      • 宦官の養子を認めた件といい、梁冀を御しきれないまま崩御したことといい、順帝は割と本気で後漢崩壊の最大の原因をつくった帝だと思う。 -- 2024-05-04 (土) 11:43:39
    • 鮑勛を殺したり曹洪を殺そうとしたことだけ見ると短絡的に曹丕は曹操の功臣を排除している!と思えてしまうかも知れんが数で言えば曹操に続いて曹丕に重用された重臣や縁者の方が圧倒的に多い。むしろ曹操に殺されたり殺されかけた孔融や楊彪が曹丕からは高く評価されていることだけクローズアップすると単なる好き嫌いの激しい似たもの親子と言える -- 2024-05-01 (水) 16:34:33
      • 曹丕と曹叡も主に悪い意味で似た者同士だし血は争えんね -- 2024-05-01 (水) 19:28:06
      • 毛皇后の末路とか、悪い意味で曹丕の血を感じるよな。あれ見たらとてもじゃないが曹叡が袁煕の息子なんて与太話は信じられんわ -- 2024-05-02 (木) 05:49:52
      • 袁煕の息子は与太話だとは思うが、人格形成に影響あるのは誰の血を引いてるかよりも育成環境の方だろう・・・。 -- 2024-05-02 (木) 10:34:26
      • 孔融とか楊彪を高く評価してるのはなんか親父への反発で言ってる事なんじゃないかなあ?って気も。仮に自分の下に付く立場だったらおまえ孔融も楊彪も煙たがって処断してるだろと思っちゃうんですよね。 -- 2024-05-02 (木) 14:43:18
      • そもそも孔融は曹操と同世代(年齢)で楊彪は曹操と出仕が同期(前後数年含む)なので親子の年の差がある曹丕とは個人としても接し方が変わってくる上に、権力固めてた曹操に対しては当たりが強いわけでそら嫌われる、それを立場逆だったらと言っても意味がないっしょ -- 2024-05-02 (木) 23:07:20
      • 儒教・名士層への媚じゃないけど、長子相続を重んじる儒のおかげで後継になれた様な物だから、忖度したのかも。或いは、親父が拗らせた儒教と上手くやってく事は国の安定にも繋がると考えていたのかもしれない。まあ、早死にして中途半端に終わって乗っ取られましたが・・・。 -- 2024-05-02 (木) 23:07:33
      • 孔融に関しては文学方面でオキニなだけだと思ってる -- 2024-05-03 (金) 05:55:09
      • 孔融にしろ楊彪にしろ規律とか儒学に厳しい口うるさい系の人物だから曹丕も煙たがるタイプの人間に思えたので。自分が批判された訳じゃないからヨシ!って感じだったんですかね。孔融については詩文関係で評価したのかなとは思えますが。 -- 2024-05-04 (土) 01:14:50
      • 曹丕は記載からしてお兄様戦死後から恐らく曹操の手元に移動してて、そうなると10代半ばに親と同世代以上の詩文や学問を先駆者かつ著名人の孔融達とも話すだろう、そしたら見る目が曹操と違っても当然っしょ、なんせ曹操からしたら口うるさい同僚になるからね(どれだけ曹操が権限持っても皇帝の部下なのは変わらんから) -- 2024-05-04 (土) 03:06:12
      • あれだ、これさ、人格的なことはおいといて、じゃあ君は親と同世代かつ親と一緒に働く人に対して、親と同じ感情もちます?って事例だわ、自分は絶対無理 -- 2024-05-04 (土) 03:09:40
      • 孔融も楊彪も当時の評判はめちゃくちゃ高かったわけだから、曹丕が尊敬してても普通じゃないですかね。曹操にしたって、二人の名声を警戒して迫害したわけだから、評価していたことの裏返しと言えるんじゃないかね。 -- 2024-05-04 (土) 20:14:08
  • シリーズの初期と最新作で能力が違いすぎるキャラを挙げてみてください。 例えば徐栄は今でこそ強キャラですが初期では武力も文官並に低く顔グラも何故か老将でしたね。 初代ではカリスマが75もありました。 -- 2024-05-03 (金) 05:20:34
    • 有名なのだと、初代三國志の猛将郭図と軍師龐徳ですかね。今みたいに気軽に正史本文や演義本文にアクセスできる時代ではないから仕方ないとはいえ、215年シナリオにとっくに死んでるはずの孫翊が出てきたり、韓遂が何故か荊州の劉表配下として登場するなど(韓嵩と間違えたのか?)妙に設定ミスが多い作品でした -- 2024-05-03 (金) 07:15:40
    • 三國志2(相対評価で最低期)では武力44知力38魅力41、三國志7(相対評価で最盛期)では武力81知力71政治52魅力74。2の無能っぷりは勿論だが7の秀才っぷりも君誰だよ感 -- 楽進 2024-05-03 (金) 07:16:54
    • 3での許チョの陸指(他シリーズで言う統率)が94で全武将中3位ってのはどういう査定だったのか…。郭嘉の知力80政治が97とかも違和感凄いけどこっちは査定の方向性だったんだろうなと。 -- 2024-05-04 (土) 00:55:16
    • 管理者変わる前にちょくちょく「何故か初期は雑魚だった」コメントもあったが、3までは発売日が筑摩三国志文庫版の全巻完成(なおその元になった筑摩書房の世界の歴史みたいのはあったらしい、でも一般で持ってる人がどれほどいたか…)より前で、ゲームも演義のみというか主な参考が吉川三国志ぽいので、それは大前提にしてねツッコミもアホらしいし。その上にしてもなんでやねん!な奴は多いけど、公孫瓚も何故かジジイだったり孫堅軍筆頭文官韓当とか…、なんかそういう匂わせあったっけ? -- 2024-05-04 (土) 01:11:12
    • 現在も凡庸の域ではあるけど、2で武19、知13、魅15というヘッポコぶりでネタキャラとして人気を博した話があったり -- 曹豹 2024-05-04 (土) 23:19:21
  • 三國志(相対評価で最低期)では武力31、知力25、魅力15、三國志13では武力72、知力68、政治87。史書の評価を反映して知力政治を上げるのはまだわかるがなんでそんなに強くなったんだ。この人の武力エピソードなんて人質の夏侯惇ごと呂布軍に襲いかかった(未遂)ぐらいじゃないのか。 -- 韓浩 2024-05-03 (金) 07:25:40
    • 張繍と戦ってた頃からから死ぬまでずっと曹操直属の魏中軍の指揮官やぞ -- 2024-05-03 (金) 08:29:15
    • それに加えて、演義での黄忠のかませ犬としての評価もあるんだろうね -- 2024-05-03 (金) 08:46:16
    • 漢中方面の総指揮官に、って推されるレベルには武官としての活躍はしてたんやろ。 -- 2024-05-03 (金) 15:30:42
    • というか数少ないとはいえむしろ屯田の話のせいで有能政治家扱いだけどむしろそこ以外は政策出してなく、どちらかっていうと曹操やトン兄の側近(官僚ではなく)って感じ、てか屯田以外あとはほとんど軍事的な記述しかないよね? -- 2024-05-04 (土) 00:20:46
      • 共に提案した棗祗が運用を開始して、任峻が本格的な運営を担当したみたいで韓浩は献策しただけで実務には全く関わってないもんな。史実だと李典とか王濬あたりの能力値配分の方が彼に合ってそうだ。 -- 2024-05-04 (土) 11:37:58
      • お、ゲームにいつまでたっても登場できない謎の武将、棗祗の話?棗祗もそういえば武官よりの経歴の人だね。 -- 2024-05-06 (月) 16:58:14
  • 初期は張苞の武力97なのに関興の武力77とか謎能力多い -- 2024-05-03 (金) 13:18:50
  • 3の仕様と演義で「太守の〇〇」「将軍になった」などを拾われたせいでどうしてYOUは太守に?なやつらがいたが、羅貫中くんは長安太守に李傕残党をどうして据えるのか、コレガワカラナイ -- 伍習 2024-05-05 (日) 06:54:18
  • 名前欄に武将名リンク入れるのは結構なんだが、本文にもどの武将の事言ってるのか最初に言ってくれるとありがたい。誰の事言ってるか最後まで分からんのは単純に読みづらい・・・。 -- 2024-05-05 (日) 13:41:10
  • 三國志IIIの様に、統率を再び陸指・水指に分割してもおもしろいかも。 陸指なら関羽、水指なら周瑜がそれぞれ100でしたね。 シリーズ通して統率が抜群に高い曹操と司馬懿が水指が70台とかで更に個性出ますもんね。 -- 2024-05-05 (日) 21:55:35
    • 3でもそうだったけどわざわざ分ける程のステータスじゃないなってなると思います。>水指。そもそも現状の能力以上に査定のし様がない武将がほぼ大半になるでしょうし -- 2024-05-05 (日) 22:08:29
    • その前に水上戦が発生するようにだな・・・まあするなら能力談義か要望じゃね?って感じだが。 -- 2024-05-05 (日) 22:49:14
    • 水戦の指揮とか一切記述のない武将が殆どを占めているんだがマジで言ってるの?ほぼ適当査定の能力が1個増えることにになるよ -- 2024-05-05 (日) 22:58:13
      • まあだからこそ4では特技みたいになって、内政も個人の差をつけたりしてたし、シリーズ進むにつれて水戦系は別個になっていったわけだしね そもそも呉の人材でも水指は低いとか多かったし、大半の一般人材が30もいかないとか、雑にめんどさが伺える(例えば虞翻は非戦闘型軍師だが陸指が30くらいで水は15とかだった) ちなみに武官で水>陸の最弱はたぶん陳就さん -- 2024-05-06 (月) 02:24:46
      • 所謂名将勢の中で曹操は50台と露骨に低くさせられてたけど、将軍クラスだとどこの陣営だろうが大体70程度はあったし、なんなら呉陣営も極一部の上澄みの中の上澄み以外はそんなに高くも無くて、特技や別個の要素化されていった後のシリーズの方がよほど呉将が水戦で強くなってるんだよね…。まぁ過渡期の試験的な要素という事でやってみた事に意義はあっても、復活させる要素じゃないかなと。 -- 2024-05-06 (月) 02:35:32
      • 将軍になれる条件が武力が70で(陸+水)÷2に魅力足して120だったかな?(もしくは85以上)その弊害だねえ、あと太守問題もかな、ちなみに通常武将にはいないが指揮それぞれ70未満でも魅力90とかあれば将軍になれたりした -- 2024-05-07 (火) 02:21:40
      • 今なら黄皓でも大都督になれるし問題ないな -- 2024-05-07 (火) 03:01:01
  • そういや紀霊も昔は袁術軍のその他大勢性能だったよな、あっさり負けたとはいえ一騎打ちもしてたのに武芸自慢扱いもされない…… -- 2024-05-06 (月) 02:28:07
    • 昔からほぼ武力80をもらってるから評価されてる方だよ。今作だと交友関係が薄い点が足を引っ張るけど… -- 2024-05-06 (月) 02:31:43
    • 4からは専用武器の三尖刀もゲットしていたくらいには評価されてたような。当時は程普の鉄脊蛇矛と同様に宝の持ち腐れ扱いだったとはいえ、だ。 -- 2024-05-06 (月) 05:22:50
    • 似た立場の管亥なんか一瞬武力90に乗ったのにね。中途半端にメジャーだとむしろ落ち着いた能力値にされてしまうということなのか。。 -- 2024-05-06 (月) 17:03:55
    • 管亥は演義で関羽と一騎討ちして善戦してるからまぁ分からなくもない。太史慈も顔見せするし贅沢なエピソードになってる。 -- 2024-05-06 (月) 17:22:47
    • Vの管亥さんは明らかに黄巾勢力初登場のご祝儀査定だったから…。 -- 2024-05-07 (火) 02:10:41
  • 蜀漢で漢中方面を任された人間の中で、なぜか王平だけが仮節を貰えていない。この人経歴が経歴で(異民族出身で元魏将)、文字も読めないからイマイチ信頼されてなかったのだろうか -- 王平 2024-05-07 (火) 06:07:31
    • 街亭の馬謖の失敗で尻拭いをしたから評価されたけど、異民族出身+元魏将+ほぼ文盲と、インテリに評価されないポイントが揃っている。これでは馬謖が進言を聞き入れなかったのも無理はないし、もし馬謖が無難に乗り切っていれば、名もない将軍で終わっていたのでは。 -- 2024-05-07 (火) 11:25:04
    • 仮節を貰えていないのは意外ではあるが、漢中どうこうは関係ないと思うが。意外で言えば馬忠なんかも貰えてないし。 -- 2024-05-07 (火) 12:53:16
      • 馬忠の場合は、庲降都督在任中に仮節を貰った人が李恢しかいないし(張翼が仮節を貰ったのは中央に戻った後)、永安都督や江州都督で仮節を貰った人も李厳しか確認できないので、そもそも漢中都督が別格だけだったようにも思える。まあどう考えても一番重要なのは北伐の中核を担う漢中だしな -- 2024-05-08 (水) 08:17:12
      • ✕漢中が別格 ○漢中以外が節を与えるほど担当領域が広くない(または麾下の手勢か多くない)からでは、益州への他のルートは独断で多方面を警戒したり、各所を監督する必要がないというかなにより難しいだろうし。蜀ではないが後々、攻める際には君が自由にしてええよとばかりに仮節貰った霍弋という事例もあるので、隘路の守備に関しては独断であれこれさせる権限は持たせてないのかなと。。 -- 2024-05-08 (水) 11:04:03
      • 督の仕事は督の権限で完結するはずで督と節は直接関係ないだろう。節は戦時に皇帝とは別に諸将を指揮する者に仮されるので蜀では必然的に北伐参加者に多く督漢中にも多くなるが、王平の活躍は愚直に命令を守るという類のもので節を仮され柔軟に別動隊を指揮する能力は未知数と言っていい。ま、もうちょい長生きしてたら貰えたんじゃない -- 2024-05-08 (水) 22:04:36
      • 常時戦時中な時代だからか割と防衛メインでも貰ってた人いたような……ってのはさておき王平の晩年は彼がトップで攻勢に出た時も大規模な防衛に回った事もない休息期だから、与える必要なかったと言われればそうだろうね、費禕が駆けつけずに漢中単独で迎撃してれば貰ってたんじゃない? -- 2024-05-09 (木) 00:43:56
      • 費禕が北伐する気ないからなあ。北伐すれば王平にも節を仮されたかもしれん -- 2024-05-09 (木) 08:16:03
    • 王平ってなんで異民族って言われてるの? -- 2024-05-07 (火) 13:07:12
      • 明確に書かれてないから皆さん推察だと思います。具体的には蜀書43巻の王平伝に「隨杜濩、樸胡詣洛陽」とあり、この樸胡という王平の上司が後漢書86巻の南蛮伝に出てくる板楯蠻渠帥の樸です。 -- 2024-05-07 (火) 15:32:33
      • いらない情報かもしれませんが、この杜濩・樸胡は三國志覇道の方には居ます(笑) -- 葉1? 2024-05-07 (火) 15:33:51
      • ①王平の出身地である巴西郡宕渠県は板楯蛮が多く居住するエリア
        ②王平は板楯蛮の首領の一人である杜濩・朴胡に随行して洛陽だか略陽だかに行ってる=この二人の支配下にいた
        というのが根拠だな。文字をほとんど読めなかったというのも、王平が板楯蛮出身ならそもそも漢文を使う習慣がなかったという事できれいに説明が付く -- 2024-05-07 (火) 17:36:56
      • なんにせよ推測でしかないのね。 -- 2024-05-07 (火) 18:05:33
      • 逆に、ただの無学の叩き上げだとすると出世し過ぎだからねえ。異民族出身(しかも地元)で、その部族の兵を率いていたとかなら、土地勘もあって部族の協力も得られるから重用されたのも頷ける。 -- 2024-05-07 (火) 22:53:42
      • 異民族でここまで出世するのはしすぎじゃないのか?他に例があるの? -- 2024-05-08 (水) 01:50:01
      • そりゃ人材難だからしゃーない。それに板楯蛮は高祖劉邦に助力した由緒正しい異民族だし・・・。 -- 2024-05-08 (水) 05:51:08
      • 異民族が出世するよりは叩き上げが出世する方が納得できるが。人材難だからって理由で出世させてるなら叩き上げが優秀なら出世させるだろ。 -- 2024-05-08 (水) 08:08:45
      • あくまで板楯蛮だった可能性がありそうとしか言えない推察だからな。出身が板楯蛮の活動範囲である(広く分布してる板楯蛮もいたってだけで異民族の土地ではない)。板楯蛮との生活経験が長そう(板楯蛮でなくとも生活することぐらいあるだろう)。推察理由はただこれだけだからね。 -- 2024-05-08 (水) 10:16:05
      • 杜濩・樸胡のくだりはまあわかるが非漢族=無学という短絡的な考えはどうかと思うよ。流民が大量発生した東漢末なら漢人だって読み書きがままならない人たちも相当いただろう。そういや『周縁の三国志』で厳白虎は山越じゃねーのって言われてたな -- 2024-05-08 (水) 20:32:06
      • 非漢族=無学って事じゃなく、無学な人間が若くして兵を率いる立場にあった事が謎だから異民族だったからじゃないか?って説が出てきたのよ。もちろん傭兵団を結成してたとか、誰かに大抜擢されたみたいな可能性もあるけど、そういった面白エピがあったら書かれそうな物でしょ。 -- 2024-05-09 (木) 14:35:33
      • それを言うなら異民族だったら異民族だって書かれそうなものだが。 -- 2024-05-09 (木) 18:06:13
      • 例えば、それこそ大っぴらに異民族を要職につけるのは憚られていたとしたらどうだろう?王平は母方の何姓を名乗っていた時期もあるし、母親が漢人なのでセーフ!とかやってたのかも。 -- 2024-05-09 (木) 23:22:53
      • 孟獲はかなり出世してるが。wikipediaで「漢人である」と断定してるのはなんか根拠あるんかな。 -- 2024-05-10 (金) 06:15:02
      • 建寧の孟氏は複数名が残っているから、地元豪族なのはほぼ確実。西晋で呉と戦った建寧孟氏として孟幹、孟通、孟岳が確認できる(『華陽国志』「南中志」)。問題は出自だが、確たる記述無し。『漢晋春秋』に「孟獲なる者は、夷にも漢人にも慕われていた」とあるのを、高島俊男氏が「漢人が異民族を慕うことはないから漢人だろう」と推測したのを見たことがあるが。 -- 2024-05-10 (金) 11:19:06
      • 孟氏らは『華陽国志』で「大姓(有力豪族)」と表記されていて、「夷」と区別されていることは傍証になりそう。 -- 2024-05-10 (金) 11:38:15
      • https://ocw.nagoya-u.jp/courses/0015-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A5%BF%E5%8D%97%E3%81%AE%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%A8%E6%AD%B4%E5%8F%B2-2014/ 三国時代は「南人」(漢人の移住者、孟獲など)と「夷人」を区別していたが、完全な別物ではなかったらしい。そして南北朝時代を経て、隋の再統一後はまとめて蛮族扱いされるようになったという。すると『演義』での孟獲の扱いも理解できる。 -- 2024-05-10 (金) 11:48:26
      • 南北朝あたりの爨氏政権で同化したんだろね。爨習の子孫 -- 2024-05-10 (金) 12:24:13
      • 貼られたとこにもあるけど、八王祭りからのドタバタで事実上の独立政権化してたらしいし、そりゃ土着化もするわなー、交州士氏がそれに少し先駆けて完全に同化前に潰された例かな?呉がちょっかいかけずに、あと百年くらいほっとかれてたら漢民族由来の異民族に、同じようになってたんじゃないだろうか? -- 2024-05-10 (金) 13:45:04
      • なるほど。それなら「史書で西南夷の出身とされているわけではない」が穏当な書き方ですかね? 現wikipediaの記述は「史実」と軽々しく書いてるのからして相当危なっかしいので、誰かちゃんと知識のある人に書き換えてもらいたいな。。。 -- 2024-05-10 (金) 22:08:54
      • wikipediaも記事によっては大分適当な事書いてる、それこそこの掲示板の一番最初の張勲の話みたいなゲームの明らかに誤った列伝から書いてたりする事もあるんで、気になるなら自分で直しちゃった方が良いと思う。 -- 2024-05-12 (日) 01:53:29
      • 「ゲーム攻略wikiで教えてもらった」を出典にはできないから(内容は信じてますが)、自分で調べて中立的な知識を得られたらやってみます。そうやって書き換えた記事も2、3ある。 -- 2024-05-13 (月) 16:39:31
      • わざわざこのコメント欄で書くことではありませんが、Wikipediaを変換する場合は独自研究等の注意は必ずご理解いただけますよう、ご協力よろしくお願いします。https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E8%A8%98%E4%BA%8B%E5%86%85%E5%AE%B9%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AB -- 2024-05-14 (火) 07:07:22
  • ゲームシステム上仕方がないが、本拠である徐州から遥か離れた荊州や益州にいても富豪が有効な糜竺さん達には頭が下がる(さすがに張飛とかのように年代で個性を変える事は無かった) -- 2024-05-07 (火) 11:49:25
    • その辺反映するなら根拠地から切り離された豪族の皆さんとかの政治とかも下げないとあかんだろうしね・・・。各武将が土地ごとに影響力みたいなパラメータ持ってても面白そうだが。 -- 2024-05-07 (火) 16:19:16
    • 魯粛だって孫家に仕えた頃には実家のある下邳から疎開してて富豪の立場じゃなくなってるしなぁ。 -- 2024-05-08 (水) 00:27:36
    • 『信長の野望 嵐世記』で出身地で強くなる仕様が採用されたことがありましたが、『三國志』では採用あったでしょうか。地元だけ強くなるとか、名声があると強くなる地域が拡大するとか、そう云うシステムは三國志向きに思えます。 -- 2024-05-09 (木) 02:50:45
    • 富豪とか政治力の話とはズレますが、地元を離れて荊州に身を寄せた孔明は晴耕雨読の生活を送ったり荊州の名士と姻戚関係になったりと割と余裕のある生活をしてるように感じる。才能を認める人は仲間内のわずかだったとの記述もあるし、琅邪諸葛氏の一族という肩書だけでも優雅に暮らせるだけの力を持ってたんだろうか? -- 2024-05-13 (月) 23:17:04
      • アッパーバージョンとして許靖とかいう中国大陸半周ツアーみたいな人もいて、全く無縁のはずの益州ですらそれというでも敬意を払われるし、張昭一味も名のあることで避難先で一定の地位を確保する人らもいる、孔明はおじさんが劉表と知己とある(視点も内容も違うとこでも言及されてる)から単なる難民でもなく、ちゃんと後見のある立場だったのは間違いなかろう、一方で先日話題になってた司馬徽先生が劉表と不仲とされるので世話にはなっててもあまり仕える魅力なかったから、師事する人を通じてすこし距離置いてたんでないかな…って考えるとなかなかのヤンチャだな… -- 2024-05-17 (金) 23:23:53
  • 魏書では呂布とタイマンで、後漢書では虞詡傅燮蓋勲と並び書かれる臧洪。張邈や徐栄、徐璆のようにもっと注目されるべき存在だったのかもしれない。演義離れの進む昨今、顔グラ刷新でもあれば見え方が変わる…かもしれない(それでも董卓軍とは戦わない -- 2024-05-07 (火) 15:10:31
    • 呂布と並び立てられてるのも納得のかなり賛否分かれる人物だが、14の能力からしてコーエー評価は高いようね。 -- 2024-05-07 (火) 16:50:25
      • 13のときとはほぼ別人だけどな。13の査定が滅茶苦茶だったのか、まだキャラが定まってないのか… 再評価されて能力が上がっていったとかではなく、突然能力傾向が別人になった例は他にはノブヤボの大熊朝秀ぐらいしか知らない(革新では統率8武勇12知略69政治81で、過去作でも似たような戦闘能力皆無の政治家キャラだったが、突如天道で統率38武勇76知略19政治72と内政ができる脳筋に変身。以後新生までほぼ据え置き) -- 2024-05-08 (水) 06:21:18
      • 開発メンバーで査定も変わるんじゃない?14は9と11の開発メンバーが主だったみたいだし。 -- 2024-05-08 (水) 12:09:19
      • マジで?はじめて聞いたー -- 2024-05-08 (水) 19:34:23
      • 大手のナンバリング物だと総プロデューサーとかチーフディレクターとかが名義でトップや管理者して、実際は下請けなりチームなり複数いるってのはよくある話だわね、古い作品だけどサ・ガ3だけ大阪の別開発部が作ったとかなんとか -- 2024-05-09 (木) 00:53:14
      • 『ロマンシングサガ』への移行で開発の手が塞がっていたので、クリスタルソフトからの移籍組に『時空の覇者 Sa・Ga3』を作らせたのでしたな。御蔭でしばらく黒歴史扱いされてました。今はソシャゲで普通に共演してますが。 -- 2024-05-09 (木) 02:47:19
    • 食人の下り措いといてもお前何したかったの感 -- 2024-05-08 (水) 20:33:32
      • 張超を助けようとする時点で袁紹と決裂するのは分かりきってるんだし、自分の手勢だけで勝手に救援にいってりゃなあ… まあそれで張超が助かるとは思わんが、逆恨みで挙兵をして滅びるよりも張超と一緒に滅ぶ方が臧洪本人も納得いったと思うんだ -- 2024-05-08 (水) 21:45:30
      • 挙兵というよりは絶縁宣言しただけなんだよな。袁紹も臧洪を評価してて、攻めれば根を上げて帰ってくると思ってたとあるしそこのすれ違いが悲しいよなぁ。かなり評価してたみたいだし殺したくなくて張超への救援を拒んだとも見れる。 -- 2024-05-09 (木) 01:37:23
      • そもそも後の対立あるから袁紹と曹操の関係性がぼやけやすいけど、張超と曹操の争いの頃はギリギリズッ友時代なので「おたくの親友の曹操が俺の大将いじめてるから邪魔するんで兵士よこせ」が、南下も狙ってた袁紹に通るわけねえんだよな -- 2024-05-10 (金) 14:41:46
      • まあ一番かわいそうなのは、至極当然の対応しかしてないし、なんならぎりぎりまで助けようとしてたのに配下から「今日は二人も烈士を殺してしまった」と陰口を叩かれて無駄に評判を落とした袁紹だよ… 臧洪が直接張超を滅ぼした曹操ではなく、袁紹に恨みを向けてるのもどうかと思うし、張超は曹操に背いた時点で、お前のことも裏切ってたんだぞと言いたい。この人袁紹から青州を任された時点で、もはや張超配下ではなく袁紹陣営の一員になっていたのを分かってたんだろうか -- 2024-05-10 (金) 14:48:16
      • ヒント 袁術董卓呂布袁紹劉表辺りは三国いずれも敵か縁切りしてるので、いくら悪く書いても良いものとする、だよだよ -- 2024-05-10 (金) 14:55:47
    • 臧洪単独で張超を救出できる可能性があったのか、それを考える上で気になるのは臧洪が動員できた兵力だが、臧洪が滅亡した際には男女7、8000人が城を枕に討ち死にしたという。これはおそらく非戦闘員を含めた数字で、実際に臧洪が動員できた兵力は最大限多く見積もって5000程度だったと思われる。張超を包囲する曹操軍がどれほどの規模だったかは分からんが、5000もいれば包囲を突破して張超救出もワンチャン…あればいいなあ(願望) -- 2024-05-09 (木) 12:27:20
      • 直接救援しなくとも、曹操領を襲撃すれば撤退を誘発させる事は出来たと思う。というのも、曹操からすれば袁紹が裏切った可能性を考慮しなきゃいけない訳で、遠征先で事の真相を確認してる猶予はないし、過去に苦い経験もしてるので退くしかないだろうと。だから袁紹も全力で阻んだんだろうし。 -- 2024-05-12 (日) 12:04:22
      • なるほど。だとすると、張超を助けて完全に袁紹と縁を切る覚悟も、張超を見捨てて袁紹配下として生きる覚悟もできずに袁紹に救援を求めるという一番中途半端なことをしちゃったのが致命傷だったんだな… -- 2024-05-13 (月) 06:17:08
      • 結局死ぬことになってしまったが、袁紹が攻めたのも結果的には悪手だったってのもあるけどな。捕縛してからも最後まで登用したがるほど評価はしてたが、臧洪のことを理解出来ていたらもっと他の手があっただろう。無理矢理縁切りして駆け付けなかったことからも、和解の道はまだあった可能性はあるが、攻めたことでなくなったな。 -- 2024-05-13 (月) 06:52:03
      • 曹操視点の話だから凄いイイヤツだったけど袁紹に殺されたよーみたいなオチだけど、ぶっちゃけ張超を介して袁紹と袁術どちらに味方すんの?ってとこで、袁術側について兗州をもう一度お前の敵にさせます、でも兵士は貸してください宣言したようなもんだからな、あの救援の話って…袁紹曹操が上手く行かなくなってきてたとしても、張邈は袁術の方に応援要請してるってことは仮に張超助けられても袁紹にはメリットまあないんだよな、だからまぁ個人的にはどこまで降伏させたかったかも疑問符だな、殺したくないが生かしとくと危ないみたいな存在になっちゃった感じ -- 2024-05-13 (月) 09:51:01
      • 救援拒否は仕方ないわな。ただ何度も友人の陳琳を遣わせて交渉したり、捕縛後に屈服してくれると思って攻めたと袁紹自身が言ってるし臧洪を再度登用するつもりはあったんだろう。 -- 2024-05-13 (月) 11:41:25
  • 長雨で幻に終わってしまった曹真発案の伐蜀作戦だけど、もしこれが実行されて諸葛亮が撃退に成功していたら、諸葛亮が軍事下手みたいに言われるのも変わってたりしたんだろうか。個人的には諸葛亮が軍事下手なんて全く思わないけど、そういう事言う人間は現実に一定数いるし。 -- 2024-05-12 (日) 06:31:58
    • 幻に終わったわけじゃない。実際に実行されたけど、長雨で補給が困難になって撤退したというだけ。荊州方面担当の司馬懿も侵攻したけど、こちらも一切の成果がないまま、曹真に合わせて撤退してる。 -- 2024-05-12 (日) 08:35:34
      • 表現が悪かったですね。本格実行に移される前に自主撤退したと読み替えて下さい。 -- 2024-05-12 (日) 08:53:58
    • 諸葛亮が軍事下手と言っちゃうのは、劉禅有能説と並ぶ三國志に興味を持った人間が必ずかかるはしかみたいなもんだし、勝ち星が一個増えたところでそれは変わらないんじゃないかなあ… -- 2024-05-12 (日) 09:10:59
      • というか蜀全般を悪くいうからな、特に劉備をしぶといだけのクズみたいに言うのもセットかと、あやつのヤバさと凄さはそこに詰まってると言うのにね -- 2024-05-12 (日) 09:18:16
      • 雑なレッテル貼りは置いておいて、諸葛亮が軍事下手って言われる所には局所的には勝利を収めても戦略的には撤退を強いられてるっていう所にもあると思うんで、敵軍(しかも曹真)相手に防衛成功という戦略的にも明確な勝利があった場合だと見方は結構違ってくるんじゃないかと思うんですよね、如何でしょう。 -- 2024-05-12 (日) 13:49:15
      • ↑2 明日をも知れぬ戦乱の世で生き残る才能はしぶとい“だけ”で片付けられるもんでもないよねぇ -- 2024-05-12 (日) 14:34:09
      • ↑2 一月程度とは言え魏軍と交戦してるわけだし、戦略的勝利であったことに違いはないかな。長雨のせいではあるが、第四次北伐で孔明が戦略的には撤退を強いられたのも長雨のせいなのでイーブンといったところだろう。 -- 2024-05-12 (日) 17:35:10
      • しかし気象って孫さんも言ってるように結構重要な軍事情報なんだけど、雨で悲惨なことになった戦争多いのはそんな重要視してなかったって事かねえ。 -- 2024-05-12 (日) 23:48:22
      • そもそも現代ですら数か月先の天候なんてわからんし、大規模な軍事行動って準備に半年とか行軍に数か月とかな訳で、時節的にほぼ確実に起こる物を極力避けても当たる時は当たる。加えて、世界的気候変動の影響で異常気象が起きる頻度が高くなっていたと思われるので、完全な運ゲーだったと推測できる。 -- 2024-05-13 (月) 00:40:00
      • 孫子「だから戦争なんかさっさと終わらせないとあかんのや」 -- 2024-05-14 (火) 00:02:57
    • 孔明disると司馬懿や張郃の面目丸潰れになるからなあ。 -- 2024-05-12 (日) 13:05:25
      • 後漢~三国時代で唯一、武廟十哲に選ばれてるのが諸葛亮やもんね。 -- 2024-05-12 (日) 17:08:03
      • 武廟十哲が能力実績で選ばれてると思ってんのか。張良は韓進や李靖以上のいくさ上手ってことになるが… -- 2024-05-12 (日) 18:59:28
      • 韓進って誰だよ韓信だ -- 2024-05-12 (日) 19:00:12
      • その韓信と李靖も問題なく武廟十哲に選ばれてるが -- 2024-05-13 (月) 03:07:04
      • 十哲には序列があるんやで -- 2024-05-13 (月) 07:33:13
      • 張良は戦術レベルの指揮をせずに戦略を決めて勝利を収めたのがむしろプラス評価なのだろう。諸葛亮の選出はその軍法が晋や李靖に影響を与えたからだと思うが、それも十分能力と実績でしょ。 -- 2024-05-13 (月) 10:58:36
      • しかし白起みたいなんも入っとるから評価点適当なんよ。そういう風にどこを評価しているか具体的に上げてくれたらいいのに、十哲入ってるって言われてもモンドセレクションかな?としか -- 2024-05-13 (月) 12:30:07
      • 序列あるなんて初耳。どんな順番? -- 2024-05-13 (月) 12:46:18
      • 白起って実績は充分だし案外奇計百出タイプでしょ? -- 2024-05-13 (月) 13:15:44
      • 後漢末期~三国時代で軍人として後世に影響を与えてるのは曹操と諸葛亮くらいだからな。序列については当時の士大夫達の価値観が大きいので賛否はあるだろうけど、選出されたメンバーは概ね妥当だろう。せいぜい挙げるとすれば張良よりは耿弇の方が相応しいんじゃないかってくらいだな。 -- 2024-05-13 (月) 13:48:04
      • たしかに後漢からも欲しいが、耿弇か? -- 2024-05-15 (水) 18:18:31
      • 帝や王はもとより選外だから、選ぶなら耿弇、馮異、呉漢、馬援あたりだろうけど、馮異は耿弇に負けず劣らずの能力だと思うけど統一前に没してるし、呉漢は僅かながら敗北も記されてて、判断ミスも何度かしてる。馬援は統一まではそこまで功績が高くないし、終わりがよろしくない。その点で言うと耿弇は奇計百出の戦い振りな上に生涯無敗。六十四郡・三百城を平定して、独力で斉攻略を完遂してるという楽毅を上回る実績の持ち主で韓信に勝るとも劣らない名将だし、申し分ないかなと思う。 -- 2024-05-15 (水) 21:26:21
      • ↑4 白起は人によって評価が分かれそう。単に実績だけで見れば十哲なのは納得なんだけど、商鞅によって隆盛を迎えた秦という大国の国力と范雎のサポートが大きかったのも事実だからね(最終的にはその范雎によって死に追い込まれるけど)。同じく隆盛を迎えた漢の国力と武帝による後押しが大きかった衛青や霍去病が六十四将なのを考慮すると白起も六十四将で充分な気もする。 -- 2024-05-20 (月) 07:56:17
    • 諸葛亮が「鬼謀の軍師」「無敵の名将」っぽく見えないとしたら、陳寿が比較的良質な原史料に基づいて、実像に近い姿を記述してるからだと思う。古今の名将も伝説化や政治的配慮を排したら多かれ少なかれあんな感じなんじゃないかなーと。伝説含めた評価ならそれこそ演義の諸葛孔明の上なんていなくなる。 -- 2024-05-13 (月) 06:26:47
      • 単に敵主力の撃滅したり勢力図を塗り替えたりするような大勝が無いからでは -- 2024-05-13 (月) 12:22:29
      • それはそうですね。とはいえ入蜀とか南征とか北伐とか、局地戦の勝利はたくさんあるのでいくらでも盛りようがあったと思うんですよ。史書での記述の迫力(?)でだいぶ得してる武将って結構いるでしょう。蜀書だと地味だけど張嶷なんかその類。(別に彼が過大評価だと言いたいわけじゃないです、念の為。) -- 2024-05-13 (月) 16:44:22
      • 言うても、孔明っていち武将じゃなくて戦略的目的を持って軍を動かす司令官なので、それに見合った成果が求められるのだと思うよ。 -- 2024-05-13 (月) 19:34:54
      • 伝説含めたら関羽の方が上じゃね。あっちは神だし。 -- 2024-05-13 (月) 20:58:29
      • 軍動かすようになった時の諸葛亮の立場って曹操とかと同様の立場だからなぁ。 -- 2024-05-14 (火) 02:47:26
      • まあ正直、一州以上の勢力規模同士の戦いだと、余程に勢力差がない限りは圧倒的に防衛側有利だからな。官渡や赤壁みたいな逆転勝利も勝ってるのは防衛側だし、侵攻して勝ってるのは袁家が兄弟同士で争ってたのを利用した曹操の河北侵攻とか、法正や張松らが内部から手引きした劉備の入蜀とかくらいだし。劉備の入蜀がなったあたりからだと、侵攻した側が勝利した例は殆ど皆無で、諸葛亮だけでなく、劉備、曹操、司馬懿、孫権、陸遜といった面子も大規模な侵攻戦では勝ててない。 -- 2024-05-14 (火) 17:32:16
      • 山だの川だのが境界になってるから尚更よね -- 2024-05-14 (火) 18:18:32
      • 勝利例皆無どころか劉備の漢中攻めがあるんだよね -- 2024-05-14 (火) 20:28:30
      • 呉の荊州奪取と司馬懿の遼東平定も入れていいんじゃないか -- 2024-05-15 (水) 02:10:55
      • ↑1 曹操の河北侵攻とか劉備の入蜀はまだ敵側の内部崩壊を利用した程度だったけど、呉の荊州奪取は自分たちが一方的に劉備を裏切っての事だし、まともに戦ってすらないので、それを大規模な侵攻戦に成功したと言えるかというと疑問かな。司馬懿の遼東平定に至っては諸葛亮の南征と同程度の戦役の規模だから、それを大規模な侵攻戦や戦略的勝利と言うなら、諸葛亮も戦略的勝利を得てることになる。 -- 2024-05-15 (水) 03:04:33
      • ↑3 劉備の漢中攻めも大規模な侵攻戦と言ってよいかは微妙なラインかなと思う。劉備の軍事能力を過小評価する訳ではないし、むしろ高く評価はしてるんだ。けど、あの戦役って形としては確かに侵攻戦だし、曹操参戦後の最終的な両軍の動員数はかなり多かったと思うけど、現地守備隊の指揮官だった夏侯淵を討ち取って以降はひたすら守りの構えでいた感じの戦いなので、そもそも漢中が行政区分としても地勢的なものとしても益州に属することもあって、一応は侵攻戦だけど、実質的には防衛戦に近いものだと思うんだよ。 -- 2024-05-15 (水) 03:14:44
      • 呉の荊州奪取は防衛側が圧倒的有利だからできるだけ戦わないように裏切りという手を使って侵攻に成功したんでしょうが。裏切ったから、戦ってないから無し!はさすがにどうかと。 -- 2024-05-15 (水) 08:47:26
      • それを無しと言うなら河北侵攻も入蜀も無しになるだろうしね。荊州奪取でまともに戦してないのは糜芳と士仁の降伏が大きいし呉の調略がしっかりしてたってだけだ。真っ向から正々堂々と戦うのみを侵攻戦というのであれば違うんだろうけど。 -- 2024-05-15 (水) 08:56:10
      • そもそも内部崩壊というなら関羽の荊州失陥も内部崩壊だし、大規模な戦いってどの戦いも内部崩壊してますし(当たり前だけど不利と見たら離反する奴は出るので)それが攻撃側の勝利にまで結び付くかは別の話 -- 2024-05-15 (水) 09:08:15
      • いや、そりゃ単に侵攻に成功したかしてないかだけで言えば一方的に裏切って同盟勢力の領地を奇襲的に掠め取るのも成功と言えるのかもしれんが、枝主の書いてる内容を読む限り、この枝での話の趣旨ってそれが軍事能力の評価として結び付くものかどうかが重要なのでは?「兵は詭道なり」とは孫子の説くところではあるけど、流石に上記の様な形での成功が孫権や陸遜の軍事能力を評価するような大規模な侵攻戦と言えるのかというと、そうは思わんのだが。 -- 2024-05-15 (水) 10:06:54
      • 軍事能力って正々堂々と真っ向から戦うことのみを言うのかい?私は軍事行動を起こしててそれが成功してるなら評価に結びつくと思うけど。しっかり準備計画して実行されたことなら尚更。 -- 2024-05-15 (水) 10:29:18
      • 確かにその辺の認識が人によって違いそうで何が正解ってのはないからなあ。 -- 2024-05-15 (水) 12:06:21
      • ↑2 上の方が仰せの様に人によって評価基準は異なるので、そこは見解の相違かな。あくまで僕個人としては同盟勢力を裏切って碌に戦闘もせずに領地を掠め取るのは軍事能力を評価できるようなものではないと考えてるだけなので。どうしてもご不満なら、劉備の入蜀以降ではなく、三国鼎立以降に変えても結構ですよ。その場合は曹操と劉備は亡くなってるので、諸葛亮、司馬懿、陸遜の比較になりますけど、三国間の戦役で大規模な侵攻戦に成功していないのは諸葛亮のみならず、司馬懿も陸遜も諸葛亮と同様に失敗してるので、当時は明らかに防衛側が有利だったという意見に特に変更はないです。 -- 2024-05-15 (水) 13:25:18
      • まあ結局でかい勝ちが見えづらいから軍事能力高くは見えんってことよね。 -- 2024-05-15 (水) 16:07:38
      • 正直、この時代の大きな戦役で過程と結果の双方とも名将と呼ぶに申し分ない抜群の勝利というのが殆ど無いからな。韓信や耿弇、李靖みたいに文句のつけようのない名将というのは見当たらない。 -- 2024-05-15 (水) 18:12:39
      • 諸葛亮と司馬懿は侵攻戦では南征や遼東くらいの規模でしか勝利してない、防衛戦でも敵の主力を壊滅させるような勝利が無い。陸遜は夷陵と石亭、2度の防衛戦で敵主力を壊滅させてるけど、夷陵は火計で逆転する間際まで劉備に手も足も出ずに負け続けてて、石亭では指揮をしただけで作戦や戦術の立案は周魴達が担当してると、どちらも内容を詳しく調べるとどうにもパッとしない。息子の陸抗が羊コを撃退した戦役の方が過程・結果ともに立派に感じるくらいで、やっぱり他時代の名将と比較すると3人とも見劣りする。 -- 2024-05-15 (水) 18:42:13
      • 方面軍指揮官や勢力指導者クラスが求められる軍功を得ようとするなら、兵站の管理やら諸勢力との調整調略やらそれらをやってくれるスタッフとか前線要員の管理やらも必須になってくるわけで、それらを軍才と呼ぶかというと結構別れそうではある。 -- 2024-05-15 (水) 20:24:32
      • 内応や内部崩壊にしても、戦を仕掛ける前に調略を仕掛けて、内応させた上で敵を撃破するのと、軍事行動で敵を撃破した結果、内応や崩壊が起こったのでは、いわゆる判りやすい軍事・指揮能力(14で言うならまさに統率の値)としての印象は異なってきますからね。総合的な将才という見方なら調略も含めての物になるでしょうけれど。 -- 2024-05-15 (水) 23:13:44
      • 14で言うなら調略や謀略の類は統率ではなく知力だよね。呂布の知力を見るに結果として果実を得たとはいえ、裏切りは知力評価にすら含まれてなさそうだが。 -- 2024-05-15 (水) 23:34:46
      • 特に意図して書いたわけじゃないんだが↑3の話だとヒゲが全滅するな・・・ -- 2024-05-16 (木) 00:00:22
      • 作戦の準備や計画をするのと実際に実行を担当するのは別だろうしなぁ。裏切りだろうと正当な侵攻だろうと方針や計画準備、指示をする人は軍事評価だと思うのです。私の考えだと軍事評価は14で言えば統率+知力で評価になるでしょうね。ゲームで言えば後期の張飛は知略を見せたことで知力アップされてるのが良い例ですね、彼の軍事評価が幅広くなったと思います。まあ軍事を戦闘のみと捉えるかそうでないかの話ですね。 -- 2024-05-16 (木) 08:22:19
      • 軍事(戦争)は政治に従属するというのが一般的な考え方で、裏切りも含めて方針や目標を定めて判断・指示するのは政治の役割、軍事はその政治的な判断による戦略方針が定まった後に具体的にどう実現するかという部分のものだろう。 -- 2024-05-16 (木) 10:21:57
      • しかし宰相や方面司令官クラスは両方を担う場合が多いから切り離すのも無理よ -- 2024-05-16 (木) 12:31:19
      • そうか?政治と軍事に分けて評価や判断をすることはそんなに難しくないとは思うけどね。 -- 2024-05-17 (金) 18:18:14
      • すでに何度も捉え方によるって言われてるがな。どう切り分けるかなんて人によって基準は違うのだから。 -- 2024-05-17 (金) 18:23:53
      • 諸葛亮の場合は司馬懿や陸遜と違って自ら主導して侵攻計画を立案、実行して何度も失敗して最後に戦地で亡くなってるからそこは大きなマイナスなんだよな。その一途さが好きって人が多いのもわかるが、それはもうセンチメンタルな好き嫌いなわけで能力とは別。 -- 2024-05-18 (土) 12:58:29
      • 司馬懿や陸遜に限らないけど彼らは「命令されたからやってます」感があって、ちょっと分が悪くなると被害が大きくなり自分の評価が下がらないようにとっとと撤退するんだよな -- 2024-05-18 (土) 13:06:33
      • 陸遜は孫権を主として掲げてはいるけど、統一王者にしたいって感じは受けないんですよね。単純に自分なり呉国に外征向けの能力が思いのほか無かったから消極的なだけかも知れませんが。司馬懿については晋書の方で魏と呉のどちらを先に始末するか聞かれた時呉を先にすべきって答えた話があったような。司馬懿を対呉戦線に置いてたらどうなったというIFは少し気になりますね。 -- 2024-05-18 (土) 16:17:34
      • センチメンタルどうこうというより、三者ともに三国鼎立以降は三国間での侵攻戦に失敗(諸葛亮と陸遜は魏への侵攻に失敗、司馬懿は両方に失敗)してるというだけだからなあ。二郡を切り取って万で数える被害を与えてる諸葛亮がマシに見えるくらいには三者とも大きな成果が無い。 -- 2024-05-18 (土) 17:27:29
      • 陸遜も孫権が勝手に撤退したせいで諸葛瑾と撤退に難儀するくらいには本腰入れて戦ってるし、司馬懿も呉侵攻の方策を曹叡に具申して曹休との共同戦線まで張ってるよ、ただ造った船が使う季節には適してなかったから川すら渡れずに終わるという間抜けな結果だっただけで。 -- 2024-05-18 (土) 17:57:18
      • 他時代と条件が同じで三国時代の将軍が侵攻戦で勝てないのなら将軍の力量の問題だが、この時代が防衛側が有利だというのなら三国時代の将軍が他時代より見劣りするとは言えない。三国時代は気温の低下やそれに伴う人口低下が酷く、他の混乱期より攻めるためのコストが大きかったのだろう。 -- 2024-05-19 (日) 15:53:53
      • 確かにそういう側面は大いにあり得るかもしれません。加えて三国とも地形に沿った防衛線が完全に出来上がっていて、攻められた際の対応策となる防衛用ドクトリンがしっかりしてたようにも感じます。 -- 2024-05-19 (日) 21:43:03
  • 史書読んでみると王允って実は相当の曲者だったように思えてくる。董卓の下で重要なポジ維持しつつその董卓仕留めたの普通にやばくねえか -- 2024-05-12 (日) 20:48:54
    • 計の首謀者に選ばれたのは伊達じゃない -- 2024-05-12 (日) 20:58:47
    • 曲者ではあるが、逮捕されて獄に落とされる度に多くの人に嘆願されて助けてもらってきたにも関わらず董卓討った後は自分本位で誰の言うことも聞かないのはうーん…て感じだ。 -- 2024-05-13 (月) 14:59:21