もしも最終話での死別ポジションが逆だったらこうなるかも、の妄想を形にした。
その日、世界は音を立てて崩れ去った。
錆びついた釘、湿った板囲いの納屋、そして汚れたヴァンパイアたちの断末魔。いつも通りの、取るに足らない狩りの一つになるはずだった。だが、運命はあまりにも無造作に、ディーン・ウィンチェスターから半身を奪い去った。
乱戦の最中、サムの胸を貫いたのは鋭利な鉄筋だった。ディーンが駆け寄ったとき、サムの瞳からは急速に光が失われていた。
「ディーン……もう、いいんだ……」
それが最期の言葉だった。祈りも、呪いも、愛の言葉さえも飲み込んで、サム・ウィンチェスターは死んだ。
あの日から、ディーンの時間もまた、凍りついたまま動くことをやめた。
サムを弔ってから、五年が過ぎた。
ディーンはレバノンの「賢者のバンカー」に留まり続けていた。かつては兄弟の家であり、司令塔であったその場所は、今や広すぎる墓標に等しかった。
狩りには出なくなった。ジャックが新しき神となり、世界から大きな悪が消え去ったせいもあるが、何よりディーンの心に、引き金を引くための動機が残っていなかった。
朝起きて、古いレコードをかけ、酒を飲み、サムの座っていた椅子を眺める。
「地獄のような日々」という言葉すら生ぬるい。ディーンを蝕んでいたのは、耐え難いほどの静寂と、底なしの罪悪感だった。
(なぜ、お前だったんだ。なぜ、俺が生き残っている?)
その問いに対する答えは、五年間一度も返ってこなかった。
ある午後、ディーンは重い体を引きずるようにして、ガレージに眠るインパラ――愛車「ベイビー」に乗り込んだ。
エンジンをかける気力すらなく、ただ運転席に深く身を沈め、開け放たれたガレージの扉の向こうに広がる空を見上げる。
空は重苦しい雲に覆われていた。ディーンの心象風景を映し出したかのような、出口のない灰色。
「……なぁ、サム。もう、潮時かな」
独り言が、冷えた車内に虚しく響く。
これ以上生きる意味を見出せない。ディーンは、ダッシュボードに置かれた一挺の銃を見つめた。サムのいない世界で、自分だけが老いていくことが耐え難かった。自分を許すことなど、到底できそうになかった。
その時だった。
不意に、時間が止まったかのような錯覚に陥った。
激しく流れていたはずの雲がピタリと動きを止め、ガレージの屋根を叩く音が変わった。激しい雨ではない。霧のように細かく、柔らかな「優しい雨」が降り始めたのだ。
閉め切ったはずの車内に、さらりとした風が入り込む。
そして、ディーンの全身の毛穴が総毛立った。
(……誰か、いるのか?)
助手席に、明らかな「気配」があった。
この五年間、生き残った友人たちを何度かこの席に乗せた。だが、今感じているこの感覚は、その誰とも違う。
洗いたてのシャツの匂い、古い資料の紙の匂い、そして少しだけ混じる、あいつ特有の石鹸の香り。
ディーンは、隣を見るのが怖かった。もし見て、誰もいなかったら。あるいは、もし見て、変わり果てた「悪霊」の姿をした弟がいたら。
ボビーの時も、ケビンの時もそうだった。死してなおこの世に留まる魂が、どれほどの苦痛と悲劇を招くか、ハンターである彼は嫌というほど知っている。
「そこに……いるのか、サム?」
返事はない。だが、助手席のシートが、微かに重みで沈み込んだような気がした。
耳の奥で、風の鳴るような音が、言葉となって響く。
『――自分を許して、ディーン』
それは気のせいだと言い切るには、あまりにも切実で、温かな響きだった。
実は、サムはずっとそこにいた。
死んだあの日、サムの魂は一度は「向こう側」へ行きかけたが、残された兄の、魂が千切れるような悲鳴を聞いて、踏み止まってしまったのだ。
彼は知っていた。自分が「霊」として姿を現せば、ディーンはそれを「救済」ではなく「呪い」と捉えるだろう。自分を狩らなければならない苦悩に、さらに兄を追い詰めることになる。だからサムは、五年間、ただの気配として、光の届かない場所でディーンの背中に寄り添い続けていた。
だが、ディーンが自らの命を絶とうとするなら、話は別だった。
それはサムが決して望まない、最悪の結末だ。
不意に、ディーンの視界が白く染まった。
現実のガレージが遠ざかり、意識が急速に深い夢へと引きずり込まれていく。
気づけば、ディーンは助手席の誰かに手を握られていた。
幼い頃に何度もディーンの服裾を引っ張って「待ってよ、ディーン」とついてきた温かい手。
隣を見れば、そこにはあの日のままの、穏やかな微笑みを浮かべたサム・ウィンチェスターが座っていた。
「……サム、お前……」
「ディーン、よく聞いて」
サムの声は、記憶にあるよりもずっと澄んでいた。彼はディーンの手を両手で包み込み、はじめてはっきりと語りかける。
「僕は今日、ここを立ち去る。もう、この場所に留まることはできないんだ。わかるだろ。悪霊になってしまう…」
「待て! 行くな! どこへ行くんだ、置いていかないでくれ!」
ディーンは子供のように叫び、弟の腕に縋りついた。だが、サムの輪郭は陽炎のように揺れている。
「最後の願いを聞いて、ディーン。……お願いだ」
サムの瞳に、深い悲しみと、それ以上の愛が宿る。
「どうか、誰かを愛して。家族になって、生きてくれ。僕の分まで、人間としての人生を全うしてほしい。それが僕の……唯一の願いなんだ」
「そんなの無理だ! お前がいないのに、どうやって――」
「できるよ。兄貴なら、できる。……また、いつか逢おう。必ず」
サムの最期の言葉は、涙声だった。
握りしめていた手の感触が、急速に冷たくなっていく。
「サム! サミー!!」
ディーンは絶叫して飛び起きた。
衝撃で、ベイビーのクラクションが短く鳴る。
慌てて助手席を見やったが、そこにはもう誰もいなかった。重みも、沈み込みも、懐かしい匂いも。
ただ、開け放たれた窓から、湿り気を帯びた風が吹き込んでいるだけだった。
「夢か……」
ディーンはハンドルに額を押し当て、嗚咽を漏らした。
だが、顔を上げたとき、その瞳にはこれまでの五年間に一度もなかった「光」が宿っていた。
見上げた空は、いつの間にか厚い雲が晴れ、高く、どこまでも深い青が広がっている。
新緑を揺らして吹き抜ける風。
それは、五月。サムが生まれた月の、爽やかで生命力に満ちた匂いがした。
サムは、最期まで自分を案じていた。
自分が生きることが、あいつへの唯一の供養になる。
「わかったよ、サム。……お前の勝ちだ」
ディーンはダッシュボードの銃を片付け、代わりに古い住所録を取り出した。
指が止まったのは、あるページ。
そこには、かつて一度だけ手に入れかけた「普通の人生」の断片が記されていた。
数日後。
ディーンはインパラを走らせ、とある郊外の住宅街にいた。
庭先でホースを持って水を撒いていた女性が、ベイビーのエンジン音に気づき、顔を上げる。
「……ディーン?まさか、あなたなの?」
リサ・ブレイデンは、驚きに目を見開いた。その背後から、背の伸びた少年――否、成人したベンが家から飛び出してくる。
ディーンは車から降り、眩しそうに二人を見つめた。
サムの言った通り、自分にはまだ、守るべきものや、愛すべきものが残されているのかもしれない。
ディーンは彼女に、すべてを話した。
サムのこと。この五年間、自分がどれほど暗闇の中にいたか。そして、あの日吹いた風のこと。
リサは何も言わず、ただ静かにディーンの震える手を取った。
それからのディーンの人生は、波乱万丈ではあったが、穏やかなものだった。
彼はリサと共に暮らし、ベンの成長を見守り、時には良き父親として、時には腕のいいメカニックとして、街に溶け込んでいった。
夜、ふとした瞬間に空を見上げると、決まってあの五月の風が頬を撫でることがある。
そんな時、彼は心の中でそっと呟くのだ。
(見てるか、サム。俺は、生きてるぞ)
長い年月が過ぎ、ディーン・ウィンチェスターが天寿を全うするその時まで、彼の胸には一つの言葉が刻み込まれていた。
「またいつか、逢う日まで」
目を閉じた瞬間、鼻をくすぐったのは、あの懐かしいインパラのシートと、洗いたてのシャツの匂い。
「遅かったな、兄貴。今度は僕が『引っ張り出す番』になるところだった」
そう言って笑う、懐かしい声が聞こえた気がした。