戦争解析

Last-modified: 2024-02-20 (火) 00:00:08

1234年 バケットヒルの戦い

ギュスターヴ13世軍
 主力:ギュスターヴ13世、ヤーデ伯ケルヴィン、ネーベルスタン
 兵力:5000人
 被害:800人
ギュスターヴ14世軍
 主力:ギュスターヴ14世、ノール候フィリップ、オート候カンタール
 兵力:1万1000人
 被害:1200人、ギュスターヴ14世没

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ロードレスランド中央部、アナス川。その支流でもあるベンゾイル川中流付近のなだらかな丘陵地帯が戦場である。大草原が広がる豊かな地に見えるが、メルシュマンの玄関口、ザール峠は古来より戦場の舞台とされてきた。


戦争の原因と背景

 ギュスターヴ13世がワイド候となり月日が経った頃、フィニー国王ギュスターヴ12世の訃報がギュスターヴ13世の元にも届いた。かつて自分と母ソフィーを追放しナ国という見知らぬ地をよすがにワイドを手にした自分の存在などとうに忘れているに違いない父ギュスターヴ12世の死については、ギュスターヴ13世はとくに感情を動かすことはなく、行動を取ろうという意識も見せなかった。
 ところが既にワイドというひとつの領土を持つ主でもあるギュスターヴ13世の配下たちは違った。嫡男として生まれるも理不尽な追放を受け、しかしそれをものともせず異国で立身したギュスターヴ13世がその父の死をきっかけに軍を起こし自分の故国を奪い返す、これはもっともらしい筋書であり言うなればギュスターヴ13世にしか出来ない征軍である。当初は挙兵に乗り気ではなかった様子のギュスターヴ13世もケルヴィンをはじめとした臣下たちからの強い後押しもあり、ついに12世の跡を継いだ腹違いの弟、ギュスターヴ14世を討つべく軍を起こした。

 一方、フィニー国王となったギュスターヴ14世は正式にファイアブランドの儀式を経て即位はしたものの国内は揺れていた。
 まずはギュスターヴ14世が即位すると同時に彼の祖父、ベルナッドが台頭するようになった。14世の母親マリアはベルナッド家の娘であり、孫の即位に応じて一気に名を挙げようとするベルナッドに対して特にノール諸侯は反発心を煽られる。これは12世がノール候の娘ソフィーを追放してから続く因縁でもあり、ノール国ではソフィーの博愛精神にいまだ恩を感じている者も多かったのも要因としてある。ノール諸国は現在のノール候であるフィリップを擁立しベルナッドと対立する。
 そしてこのフィリップとベルナッドの対立に分け入ったのがシュッド候である。もともとベルナッドはシュッド候側の人間ではあったが、過去の一件でベルナッドが裏切りを働いたという事件があったためだ。

 一方、オート候カンタール陣営からも自分の妻であるマリーを14世の代わりに即位させるべきという意見が出ていた。カンタール本人は公的には無言を貫くが、この構図は明らかにカンタールの思惑を反映したものであるのは誰もが予想の行くところであった。さらに言えばバース侯国内部でも14世の即位を快く思わない一派は少なくはなかった。

 こうしてフィニー王国が揺れ動いているなかでギュスターヴ13世が侵略者という形でメルシュマンに上陸し、14世は諸々をいったん置いてでも軍を出してこれを迎え撃ったのが『バケットヒルの戦い』である。
 兵力ははっきり言って14世に有利があった。バース兵により構成された5000の兵士、さらにオート候カンタールの3000、ノール候フィリップの3000の計1万1000人という兵士に足して支援部隊のシュッド候ヨハン4世、テルム留守役のベルナッドと後方の布陣も慎重派な14世らしく完璧であった。
 対する13世側はワイド兵3500、ヤーデ伯ケルヴィンの1500という5000の兵士を率いて上陸した。歴戦の将軍ネーベルスタンはあれど兵力差は明白であり、さらに軍隊の者が全員メルシュマンの人間ではない13世軍には地理的な不利もあった。しかし、それを補って余りあると思われたのがギュスターヴ13世ならではの鉄鋼の兵士たちの存在である。

経過と戦況

5月19日
 兵力差の不利を地理を活用することでむしろ有利にするべく、13世は先行して直属2000の兵士のみでメルシュマンとロードレスランドの中間に位置するザール峠に兵士を布陣した。ザール峠は道幅が狭いために多くの兵士を配置することが難しいとされる場所であり、さらに鋼鉄兵という少数精鋭を率いた13世の思惑通りに布陣は完了する。

5月21日
 14世は大軍を率いてザール峠に差し掛かるが、ここで先行して布陣を展開していた13世と正面遭遇してしまい動きが取れなくなる。14世はカンタールの進言に基づいて少数の別動隊を組織、ザール峠を迂回する形で進軍させると13世の敷いた布陣を挟み撃ちしようとする。
 任を受けたのは発案者であるカンタールの軍3000であり、翌日未明までにはカンタール軍は移動を開始した。

5月22日
 挟撃の報告は13世陣営にも届く。早くても24日には背後を取られ、動けないまま挟み撃ちを仕掛けられると思われた。しかしいまここから軍を引かせるのは背後からのさらなる追撃を受けるだけに他ならない。方策を考えるなかで将軍ネーベルスタンの妙策が取り入れられる。ネーベルスタンは松明を大量にザール峠に設置し、実際よりも多数の軍が布陣されていると14世軍に対して偽装工作を取る。そして偽装しながらも22日の夜には布陣していた軍を反転させ、挟み撃ちを避けて後退を取らせた。

5月23日
 後退した13世の軍はヴェスティア付近に滞在していたヤーデ伯ケルヴィンの軍1500と合流。そして5000の兵士をいったん統合させるとそのままの形でオート候カンタールの3000の兵士を撃破する策を取る。
 カンタール軍はこれを察するとすぐに進軍を制止。兵力で言えば3000と5000では負けは必定であったためだ。14世が偽装工作に気づいたのはようやくこの時であり、ザール峠を超えて進軍を開始した。

5月24日
 14世軍はそのまま進軍しバケットヒルに全軍布陣を展開した。一方で13世が動いたのはそれよりやや遅れていた。というのもカンタール軍の動向を探っていたからであるが、石切り場跡まで13世軍が進んでもカンタール軍は不動を保っていたために再度13世軍は反転。バケットヒルに敷かれた14世軍と向き合うように進軍する。
 ギュスターヴ14世軍はベンゾイル川に沿って軍を展開していた。第三軍から第五軍が先陣として並列展開、他はギュスターヴ14世本陣、および弓兵が控える。そしてノール候フィリップ軍は左翼に配置し攻勢を控えた。
 対するギュスターヴ13世軍もベンゾイル川を中心に布陣する。中央には将軍ネーベルスタン、左翼には盟友ケルヴィンを据えて他は遊撃兵を配置し14世軍に備えた。そしてギュスターヴ13世みずからは鋼鉄兵を率いて本営に陣取る構えを見せた。

5月25日
 日が昇り切った25日、ギュスターヴ14世の進軍を皮切りに戦端が開く。
 兵力では完全に優勢がある14世は各個撃破の策を取った。単純計算でも1000以上の兵士が13世の兵士をそれぞれ包囲して戦えばこちらの被害は最小限に抑えられるという計算だ。左翼にはフィリップ軍も控えており、まずの勝ち戦だと確信し、そしてそれが油断に繋がった。
 将軍ネーベルスタンは傑出した軍才と技量を合わせ持つ逸材であるが、メルシュマンという地の人間ではないこともあり14世が知るはずもなかった。「ラエの英雄」という別名のあるネーベルスタンは一騎当千の戦闘力だけでなく、的確な戦術や戦況判断も大きな武器にしていた。
 ネーベルスタンは即座に14世が取ろうとする戦術を理解し把握するだけでなく、その戦術の弱点までをも見抜いてしまう。各個撃破は大軍であればこそ最善策ではあったが、僅かな切っ掛けがあれば崩壊を招くことは可能とネーベルスタンは判断した。ノール候フィリップ軍に狙いを定めたネーベルスタンは軍の展開によりノール軍の戦意を喪失させることに成功。ノール候フィリップ軍が14世に遺恨を持っていたことも利用しての作戦だった。もともと士気が低い軍を抑え込むのは容易なことであった。
 ギュスターヴ14世の戦術はノール軍の停滞を皮切りに大きく狂い始めてしまい、もともと大きな兵力差があったはずが互角になるまで引き落とされてしまった。

 ネーベルスタンの快進撃は続く。自分自身を含めて戦列最前線に陣取り、破竹の勢いで一気に敵陣に飛び込んでいった。南大陸では名を知らぬものがいないほどの名将の勢いに14世軍は一気に戦意喪失してしまい、あっさりと布陣を崩壊させてしまう。これはギュスターヴ14世本陣への道を切り拓き、満を持してギュスターヴ13世と彼の率いる鋼鉄兵が本営に突入した。術を無効化する鋼鉄兵と初めて相対する14世軍は成すすべなく鉄の武器の前に倒れていく。
 5月25日の夕暮れ、バケットヒルの戦いでの雌雄は決した。ギュスターヴ13世は長い時を経て再び故郷の地にしっかりと足跡を残したのだった。

結果と戦果

 ギュスターヴ13世に捕らえられたギュスターヴ14世。
 父ギュスターヴ12世はおよそ父親らしくない待遇のなかでフィニー王国を背負うように教育されてきたが、腹違いであっても実の兄である13世に関する話はほとんど聞かされてこなかったのだろう。勉学に明け暮れ、アニマの天才ともてはやされ、即位後も城外に出ず身の回りの警護を固めてフィリップやカンタールといった雄とも手を組もうとしていた14世。
 決して無能な王ではなかったが、そこにあるのはもはや恨みと憎しみしかなかったのが両者が交わした言葉から推し量ることができる。それは生まれて初めて再会した兄弟とは思えないほどの素っ気なさであり、僅かな時間もなく14世は処刑されこの世を去ることになった。

 一方でギュスターヴ13世は生まれてから20年ぶりに首都テルムに足を踏み入れることになった。14世が処刑されたことでベルナッドをはじめとした14世派の諸侯たちがまだ滞在はしていたがそれらを一気に粛清するも13世はそのままフィニー国王だと名乗ることはなかった。
 それは弟フィリップの立場を思いやってのことでもあるし、術不能者として知れ渡っている13世がこのまま王位につけば力尽くでの勝利だと国民に印象付けてしまい、その後の統治にも不利益であると判断したためでもあるかもしれない。
 ただし後世にギュスターヴ13世の人生を研究する者たちが唱える説によれば、13世はフィニー王国という小さな枠ではなく既にもっと広い場所、大きなものに視線を向けていたからではないかと考えられている。

 13世が実質的にフィニー王国の支配者となって一年後に改めてフィリップが13世に会見を求めるという一幕があるが、この時までフィニーは統治者不在という時期を過ごしたということになる。その後13世はフィニー王国を弟フィリップに譲り渡し、自身はハン・ノヴァという新たな国を建国して拠点と統治の場を移すことになるのだ。


1271年 ハン・ノヴァ攻防戦

ヤーデ伯ケルヴィン軍
 主力:ヤーデ伯ケルヴィン、チャールズ、フィリップ3世
 兵力:6000人
 被害:ハン・ノヴァ放棄
オート候カンタール軍
 主力:オート候カンタール、メルシュマン諸侯
 兵力:1万5000人
 被害:なし

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ギュスターヴ13世により作られた新たな国、ハン・ノヴァ。ベンゾイル川上流域、メルシュマン南部に位置してロードレスランドやグラン・タイユを望む要所に建国されたこの国は山岳地帯であり、自然の要塞が作られている。


戦争の原因と背景

 1269年、メルツィヒ砦にてギュスターヴ13世は陣没。これを切っ掛けにして彼の成した偉大なる覇権を我が物にしようとする多くの後継者たちが名乗りを挙げてあちこちで勢力争いが発生する。
 この時、実際に13世の勢力を統括維持していたのはヤーデ伯ケルヴィンであった。13世が生前から進めていた計画によれば13世の甥にあたるフィリップ3世にこそ後継者として即位させようという動きがあったが、これはあくまで身内だけの話であり公的に発表された事項ではない。
 さらに言えばケルヴィンはあくまでもナ国の人間であり、立場としては非常に厄介なところにいる。ギュスターヴ13世の古くからの盟友であり公私を分けず協力関係を築いてきたケルヴィンだが、彼はあくまでもオブザーバーでありメルシュマンおよびハン・ノヴァに直接政治的な介入をすることはナ国を裏切るという形になりかねない。13世を失った現状でナ国までをも敵に回した場合、ケルヴィンの立場はさらに悪くなってしまう。
 こうした問題によりフィリップ3世を即位させるにはギュスターヴ陣営の諸侯からの明確な決議が必要とされていた。後継者を決めるためのハン・ノヴァ円卓会議を開きギュスターヴ旗下の諸侯の協力と盟約を結ぼうとしたのである。

 一方でオート候カンタール。1255年にカンタールはフィニー王国の運営を13世から受け継いだが、その後15年間実質的にフィニー王国の統治者として政治や経済を動かしていた。そんな折にケルヴィンによるハン・ノヴァ円卓会議の召喚が掛かるがカンタールはこれを拒否。ナ国の人間でありギュスターヴ陣営の諸侯からすれば蚊帳外であるケルヴィンは遺志的にこそ13世に最も近い場所にいるとしても政治的な意味では埒外であり召喚に従うという姿勢は取らなかった。
 また、フィリップ3世の即位に関しても正式に13世の嗣子とは公表されていないために後継者と認めることもなかった。

 実際、ケルヴィンにとってこのハン・ノヴァ円卓会議はカンタールからの後継者許諾を得るためというのが最大の理由であった。現在では実質トップの位置にいるカンタールがフィリップ3世を後継者と認めれば何の問題もなく13世の遺志は継がれることになる。カンタールが動かない以上円卓会議の意味はないほどであった。
 そんな折、先に動いたのはカンタールであった。フィニー国王代理という地位を理由に不穏分子討伐を称してケルヴィンたちを討とうと軍を起こしたのだ。

経過と戦況

1269年11月
 失敗に終わったハン・ノヴァ円卓会議の後に動きが取れずにいたケルヴィンを最後攻略とし、カンタールはまずメルシュマン全土を掌握するべく各地に軍隊を出していく。ツーラを攻撃しこれを落とすことで軍事的な侵略も辞さないという心構えをケルヴィンや他の諸侯に見せつけるのだった。
 しかしそれもすぐに身を返し、温厚かつ柔和な顔で各諸侯に懐柔策を取って回るようになる。これはオート候としての侵略行為ではなくあくまでもテルムを任された居留守役として今後のメルシュマン統治を担いたいという誠意を見せたような形である。これによりフィリップ3世をメルシュマン統治者としようとしたケルヴィンの円卓会議開催の意味合いは薄れてしまい、オート候カンタールの立場はより優勢になっていく。

1270年10月
 各諸侯を懐柔しメルシュマン全土の諸侯の意思を統一したカンタール。秋期が終わり収穫の時期が終わった10月末、まとめられたメルシュマン諸侯に出兵の伝令を出す。ケルヴィンもこれを知りカンタール討伐を発令するがすでにカンタール側についた諸侯はケルヴィンのこれを無視。既にほとんどの諸侯がハン・ノヴァを離れて自国へと帰っていた。

1270年12月
 テルムにてカンタールはメルシュマン諸侯の前で改めてギュスターヴ13世の死に弔意を示し礼儀を見せた。そしてテルムを13世から預かり受けた立場として不穏分子のケルヴィンを討つと改めて宣言した。これによりますますケルヴィンの立場は劣勢となり、カンタールは自分こそが正式な13世の遺志を継いだものという姿を諸侯や人々の前に印象付けたことになる。

1271年3月
 12月に進軍を開始したカンタールだがその動きは非常にゆっくりとしたものであった。翌年3月になってもハン・ノヴァどころかまだロードレスランドとメルシュマンの境目あたりに駐留していた。このカンタールが仕組んだ牛歩の歩みには理由があった。案の定、まるで音もなく忍び寄る影のようにゆっくりとでも確実に進軍し続けるカンタールの存在感と恐怖を無視できなくなった諸侯が次々とハン・ノヴァを離反していったのである。

1271年4月~5月
 4月の時点でハン・ノヴァに残る諸侯は皆無となり、ケルヴィンと直属の兵士たちだけになっていた。そして5月に入るとついにカンタールは軍を展開し布陣を始めるが、ハン・ノヴァ在留軍の数を知ると本隊はそのままで4000の兵力のみでザール峠に移動。戦況次第では本隊の突撃もあると脅しをかけながらもいまだ動かずに様子見を続けた。
 こうした動きを察知したケルヴィンはハン・ノヴァから撤退を決意する。これにて両者は正面激突しないままハン・ノヴァ攻防戦はケルヴィンの撤退という形で無血のうちに幕を閉じたのだった。

結果と戦果

 ケルヴィンとチャールズ、フィリップ3世たちが撤退しベンゾイル川まで移動した明け方の頃合い、無人と化したハン・ノヴァにモンスターの集団が飛び込んだ。フィリップ3世は手勢僅かを率いてハン・ノヴァを死守しようと引き返すがすでに各所から炎上が始まっており手の付けられない状況に陥った都市を前に力を落とし、何もせずに軍を返すしかなかった。一方でハン・ノヴァの炎上崩壊をザール峠から眺めていたカンタールはそのまま全軍をとって引き返すことになる。

 この決着にてカンタールは正式にギュスターヴ13世の後継者となりメルシュマンを土台に確固たる支配圏を作り出す。しかしケルヴィンは最終的にはヤーデまで撤退せざるを得なくなり、さらにハン・ノヴァを放棄したという事実を人々の前に見せつけてしまったため民意を喪失することに繋がった。


1290年 ソールズベリ平原の戦い

ヤーデ伯ケルヴィン軍
 主力:ヤーデ伯ケルヴィン、フィリップ3世
 兵力:1万8000人
 被害:7000人
ラウプホルツ公エドムンド軍
 主力:ラウプホルツ公エドムンド、ラウプホルツ諸侯
 兵力:2万4000人
 被害:3500人

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場所はグラン・タイユ北部。樹海の北側に広がるなだらかな平原一帯はソールズベリ平原と呼ばれている。熱帯に属するグラン・タイユでは農耕に適した穏やかな地域であり、樹海からもたらされる肥沃で実りの多い土地とブルーム丘陵から連なる豊富な水源がその理由となる。グラン・タイユ南部に抜ける際に樹海を避ける場合はこの平原を通過せねばならず、他にも感応石の採掘できる鉱山など資源や交通においても重要な地域であるが、同時に戦略的にも重要拠点とされており古来より戦いの多い一帯でもある。

戦争の原因と背景

 オート候カンタールの病没後、その子供たちによる後継者争いが頻発するメルシュマン地方の動乱に乗じてケルヴィンはハン・ノヴァに帰還する。先の戦いにてハン・ノヴァを一度は見捨てたという立場から政治的な直接介入はしないままだったが、そうしたケルヴィンの一種弱気にも見える姿勢は各諸侯からも眉をひそめられてしまうことになった。
 ケルヴィンはハン・ノヴァにて一度は失敗した盟約を再度調印しようと奮戦するが、諸国から白い目で見られていた背景があるうえにハン・ノヴァの治安や政治も帰還したばかりのケルヴィンには把握し切れる段階ではなく諸侯からは即答は得られないままであり、ロードレスランドの覇権という当初のケルヴィンの目的からは遠ざかるばかりであった。苦悩を抱えたまま奔走するケルヴィンだがその時、突然のナ国ショウ王からのケルヴィン召喚命令が下りるのである。

 一方でラウプホルツは国力や軍事力でいえばメルシュマン地方やロードレスランドのどの諸国よりも大きなものであり、単一の力でいえばまさに東大陸では最強であった。侵略はしないという国風があったからこそ北側への進軍はしなかっただけであり、ヨゼフ4世による指揮でギュスターヴの六度に渡る進軍を防衛軍備で退けたという歴史もあるほどの強国である。
 ヨゼフ4世の没後、後継者となったエドムンドはそれまでの体勢を一変させロードレスランドへの出兵を告げる。これは先の時代でギュスターヴによる一方的な進軍を迎え撃つばかりだった状態への反撃意思もあったが、なによりもエドムンドという若き領主をはじめとしたラウプホルツ首脳部が自国の軍備や周辺諸侯の力を過信しての強気な国策転換を東大陸諸国に対して表明する動きであった。

経過と戦況

1290年1月11日、12日
 1月に入りラウプホルツ軍はグラン・ヴァレで2万4000の兵士を整え、11日にはギュスターヴの没したメルツィヒ砦まで軍隊を進める。
 そこまでは静観としていたケルヴィンはメルツィヒ砦という親友の没した地にラウプホルツ軍が入ったのをきっかけとするかのように出兵を覚悟、ケルヴィンを筆頭としてロードレスランドの諸侯が抗戦の構えを取るがメルシュマン諸侯からの協力はついぞ得られないまま1万8000程度の兵力しか確保できなかった。
 さらに言えば盟約が確実なものではない以上、このうちの8000の兵士についてはロードレスランド諸侯の兵力であったために信頼が置けるとは言いにくく、しかもケルヴィンの名代として戦力に秀でていたチャールズがナ国に移動していたため、兵力差どころか内部的な戦力差も幅広かったと言える。

 12日にはラウプホルツ軍がシュヴァルツメドヘンを占拠し、さらに北上しようとしていた。

1月14日
 ロードレスランド諸国の協力を得てどうにか軍備を整え、ソールズベリ平原を一望とするブルーム丘陵に兵士を展開するケルヴィン。ラウプホルツ軍が北上している報せは得ており、ソールズベリ平原を決戦の地と定めて樹海横断中のラウプホルツ軍を待ち構えた。
 ラウプホルツ軍はこのケルヴィンによる待ち伏せをいち早く察知すると樹海の半分は避けて北上すると西岸沿いにソールズベリ平原を突破。樹海という要害での疲弊を休息し回復したのち、19日未明にソールズベリ平原に進軍。

1月19日
 ラウプホルツ軍の方向転換による進軍の報をわずかに遅れて受け取ったケルヴィンはただちにブルーム丘陵から軍を進め平原北部に展開。呼応してラウプホルツ軍も展開を整えて、19日朝に両軍はソールズベリ平原で対峙する形となる。
 先に動いたのはラウプホルツ軍。V字の陣形にて両翼を広げて進軍。対するケルヴィンは左翼に対して並列に軍を並べて維持するが、これは後に仇となる。Vの形に沿うようにして展開してしまった結果、ヤーデ軍でもっとも左に位置していた第五軍に攻撃が集中し形勢不利になってしまう。救援に行ったフィリップ3世が到着する前に第五軍が崩壊、さらにフィリップ3世自身すら敵の包囲網に阻まれてしまうことになる。

 兵力差と判断ミスにより窮地に立たされるヤーデ軍。しかしここでフィリップ3世による英断が功を奏した。フィリップ3世はまず、いったんは後退する形で後方で戦線維持につとめる第三軍、四軍と合流を図ることにした。こうすることで一時的に第一軍は集中砲火を浴びることになるが、フィリップ3世が合流したのちに戦線を左右に広げて各個撃破の策をとれば勝機は見える。
 わずかな間ながらも大将ケルヴィンのいる第一軍は敵の攻撃にさらされることになったが、再編成を果たしたフィリップ3世がラウプホルツ軍の右翼にある第三軍を一点集中撃破。続けてラウプホルツ第二軍を相手取ろうとするフィリップ3世だったがこの時点でラウプホルツ公エドムンドに戦意はなくなり、決断力の高い鬼気迫る様相のフィリップ3世に恐れをなしたこともあって撤退を宣言した。

 こうして、ソールズベリ平原でのヤーデとラウプホルツの戦いは開戦からわずか5時間で幕を閉じたのである。

結果と戦果

 敗退後、ラウプホルツ公エドムンドはその責を問われて退位し若いながらに隠遁の身となる。出兵を支持したラウプホルツ首脳部もことごとく更迭とされ、以後のラウプホルツは先々代公爵に仕えていた忠臣の老人たちにより統治と先導が決定される。先々代公爵の保持した鎖国主義を主体として、ラウプホルツが侵略目的での戦いに北に赴くことはなくなった。
 そしてヤーデは戦いにこそ勝利したものの盟約の崩壊は阻止できないままであった。このことも要因となりケルヴィンは心労が募り、この約2年後に失意のままにこの世を去る。ヤーデは後継者であるチャールズの下に再編成されることになるが、武力至上主義のチャールズによる指揮は再びロードレスランドが戦いの渦中に落とされるだけの結果にしかならなかった。

 ソールズベリ平原の戦いは勝者が苦しい結果となり悲劇の末路を取り、敗者は新たな国策統一で繁栄と平和を維持するというなんとも皮肉な結果になってしまったのである。


1305年 ハン・ノヴァの戦い

ハン・ノヴァ勢力(偽ギュスターヴ)
 主力:偽ギュスターヴ、エーデルリッター
 兵力:3000人
 被害:1200人
ヤーデ伯チャールズ軍
 主力:ヤーデ伯チャールズ
 兵力:1万2000人
 被害:8000人、チャールズ戦死

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ベンゾイル川流域にあるハン・ノヴァの郊外はメルシュマン、グラン・タイユ、南大陸という主要国へ繋がるルートが交差するまさに交通と戦争の要所である。今回の戦いでは街郊外、ハン・ノヴァからザール峠に通じる石橋が舞台となった。この時の戦いはこの地の戦いの歴史においては前哨戦に過ぎず、以後も幾度かに渡りこのベンゾイル川流域では戦いの火蓋が落とされ続けることになる。


戦争の原因と背景

 ヤーデとハン・ノヴァ元老院や長老たちとは確執があった。
 事の発端はカンタールとケルヴィンの争っていた時代、侵攻してきたカンタールに戦力差から見て戦えないと判断したケルヴィンがハン・ノヴァを見捨てる形で離反してしまったことである。このことを後年になっても悔やんだケルヴィンはカンタールが病没しハン・ノヴァに帰還したあとも直轄政治ができないまま一歩引いた政務を続けてしまう。ヤーデ軍はハン・ノヴァに駐留しながらも統治権がないままに時は過ぎてしまい、それはケルヴィンの後継者となったチャールズの時代になっても変化はなかった。

 チャールズが徐々にその姿勢を変え始めたのは1305年になってからである。力を持ち過ぎた元老院に圧力をかけるという力尽くの方法でゆくゆくは統治権を自身のものにしようと画策したのである。もともとチャールズはハン・ノヴァの統治だけでなくメルシュマンやグラン・タイユを含めた東大陸の覇、さらには南大陸までをも視野にした野心家である。好戦的な性格も相まって武力と政治を結び付けるのは大方の予想内であったと言えるだろう。
 対するハン・ノヴァの元老院はこれに不服を唱え、チャールズの発した兵糧提出を無視した挙句に付近の領主に働きかけると兵士を集結させるなどしてチャールズと徹底抗戦の構えに入った。しかもこの時に元老院が指揮者としたのが謎の青年であり、これがギュスターヴの後継者を名乗る偽ギュスターヴであった。

 この偽ギュスターヴは不思議なカリスマ性と超人的な能力を持ち、エーデルリッターと呼ばれた人間以上と思われる力を持つ直属の部下を多数保有していた。一部の見方ではギュスターヴの後継者を名乗るためだけに現れたとは思えないという噂も上がるほど不思議で神がかった青年であったが、ここでははっきりとハン・ノヴァ元老院のトップに立ちチャールズと対峙する姿勢を取る。
 一方でチャールズはギュスターヴの後継者とは血筋の点でもギュスターヴ13世を叔父に持つ自分以外にありえないという鉄壁の姿勢でこれを容認しなかった。そして、あくまでも雌雄対決ではなく偽ギュスターヴを名乗る不届き者の討伐令という形で激突するのである。

経過と戦況

 直前に発した討伐令が功を奏し、ハン・ノヴァ勢に加勢する勢力が居なくなった頃合いに雪崩を打って偽ギュスターヴに食って掛かるチャールズ。一方で加勢を欠いたハン・ノヴァ勢は兵力がたったの3000という状況で偽ギュスターヴという青年とその部下となるエーデルリッターだけに頼らざるを得ないまま開戦してしまうのである。この時点ではチャールズ軍は1万2000人を超えており、単純な兵力差だけで言えば圧倒的であった。
 戦闘の舞台となったのはハン・ノヴァがほど近いベンゾイル川流域でもあったためハン・ノヴァ勢側はその郊外、川にかかる石橋に陣を敷いてチャールズ軍を迎え撃つ形を取った。渡れる人数が制限されてしまう橋を使うことで圧倒的な兵力差を僅かでも縮めようとした作戦のひとつである。

 対するチャールズはこの少し前にナナミィでの暴動鎮圧のために出兵したばかりであったがこれにはハン・ノヴァ勢との戦いの計画の一環であった。ハン・ノヴァ元老院の蜂起を予想していたチャールズはあえて別のところへ出陣し敵側に隙を見せることで敵のほうから動かさせる見事な戦闘のコントロールであった。これは戦い慣れしたチャールズならではの作戦であり、すべてを自分の掌の上で計算しようとすらしていた。

13日
 偽ギュスターヴたちハン・ノヴァ勢はチャールズの思惑通りに兵を動かす。それを察したチャールズはナナミィへ向かう足を反転、そのままの兵力で一気にハン・ノヴァに雪崩を打ったのである。チャールズの思惑ではハン・ノヴァ勢はザール峠に陣を敷くと目算していた。このザール峠はギュスターヴ13世の時代から数えても幾度となく戦いの舞台になっている地であり、チャールズ本人としても戦い慣れした地である。すべての地形や要所を頭に描くことができるチャールズがいるうえにこの兵力差であればまず敗北はありえないとまで過信していたが、その思惑は外れ、ハン・ノヴァ勢は南転するとベンゾイル川流域の石橋に陣を敷いた。

15、16日
 チャールズ軍はハン・ノヴァ勢を追撃する形でベンゾイル川流域に差し掛かる。そこに陣を敷いたハン・ノヴァ勢を相手取るべくチャールズ軍も同様に布陣し、戦いは開始した。
 当初は大方の予想通り圧倒的な兵力差によりチャールズ軍が優位かと思われたが、ハン・ノヴァ勢の目論見通りに石橋でチャールズ軍の兵力は収束させられてしまい橋を渡ろうとするたびに返り討ちに遭うという繰り返しになる。そしてハン・ノヴァ勢の兵士たちは異様なまでに士気が高く、まるで魔法にでも掛かったかのように執拗にチャールズ軍を付け狙っては死をも恐れぬ形相で疲弊もせずに食い掛ってきていた。これは偽ギュスターヴの持つ不思議なカリスマ性所以であったが、そうとは知らないチャールズ軍は怖れおののいてしまうことになる。

 なかなか戦況が進まないことに業を煮やしたチャールズは単騎で橋を渡ることを決意するが、雨のおかげで水かさの増えた川はとても簡単に渡れる状態ではなくこの策は中止せざるを得なかった。ついに手勢を率いての石橋強行突破を試みるが異様に目をギラつかせたハン・ノヴァ勢の兵士たちにあっさりと包囲され、その命を奪われてしまうのである。
 その亡骸はかろうじてチャールズ軍の手元に引き戻されたが既に勝敗は決していた。兵力差で高を括っていたチャールズの余裕は、まさかの戦死という形で偽ギュスターヴの勝利に終わる。

結果と戦果

 偽ギュスターヴはこの後、ハン・ノヴァに入城し統治者となる。その本来の目的は垣間見えるものではなかったが、少なくともハン・ノヴァを拠点として軍事的な展開を画策しようとエーデルリッターら配下を用いて各地に勢力を広げていくことになる。
 一方でチャールズの死によりヤーデは後継者のデーヴィドが継ぐことになった。野心を持って政治を唱えた強硬派のチャールズに代わったデーヴィドは穏健派の筆頭であり、開催途中になっていた和平会議においてヤーデ伯意見としてハン・ノヴァおよびロードレスランド、メルシュマンの全権限を放棄した。これにより和平会議は早急にまとまりを見せ、各諸侯全員の連合軍が組織され偽ギュスターヴ殲滅に向けて準備が開始される。


1305年 サウスマウンドトップの戦い

グリューゲル条約連合軍
 主力:ヤーデ軍、ラウプホルツ軍、メルシュマン諸侯軍
 兵力:5万2000人
 被害:1万2000人
ラウプホルツ軍
 主力:ラウプホルツ公
 兵力:2万5000人
 被害:なし
偽ギュスターヴ軍
 主力:偽ギュスターヴ、エーデルリッター
 兵力:3万人
 被害:偽ギュスターヴ軍壊滅

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ハン・ノヴァ南西。広大な荒野と小高い丘が点在する地域一帯は古くからサウスマウンドトップと呼ばれている。北にはザール峠に至る街道があり、ザール峠さえ押さえることができれば守備に優位が取れる地と言われる。


戦争の原因と背景

 ナ国ショウ王の没後に開始した和平会議は回数を重ねても話は平行線になるばかりであったが、1305年のハン・ノヴァの戦いにおいてチャールズ戦死の報がもたらされると大混乱に陥ってしまう。会議に参加していた諸侯が今後や自国に心配し色めき立ち会議の中断を叫ぶ声も上がるなか、冷静に事態を見据えていたチャールズの嫡男デーヴィドが会議の続行と偽ギュスターヴ討伐のための連合軍編成を主張したのである。
 実の父が戦死したばかりであるにもかかわらずヤーデ伯の後継者らしく振舞うデーヴィドの姿に諸侯の混乱は水を打ったような静けさに包まれてしまい、その渦中で着々と今後の作戦を立案するデーヴィドはヤーデのハン・ノヴァおよびメルシュマンの全権限放棄を確約。これには諸侯も黙って協力するほかはなくなり、連合軍は始動することになる。
 一方で偽ギュスターヴ軍はチャールズを討ったという実力が広く知れ渡ったことで各地から兵士が集い出しており、その数は3万に達していた。偽ギュスターヴはその兵力と直属の部下エーデルリッターたちを主軸としてハン・ノヴァを中心にロードレスランドに覇権を唱え、さらにメルシュマンやグラン・タイユをも屠ろうと画策し始めていた。

 連合軍はグリューゲル条約連合軍として発足し、ただちに偽ギュスターヴのいるハン・ノヴァに向かう。内訳はメルシュマン地方諸侯の北方軍、ヤーデ伯となったデーヴィドの西方軍、そしてラウプホルツ公国の南方軍という巨大兵力が生まれていた。これらの三軍は分散し手広く偽ギュスターヴ軍を取り囲む布陣を取ったが、メルシュマン地方諸侯の北方軍はいまだに旧四侯国の対立感情が残っているなど不安定な部分も多く、指揮系統の統一も不十分で兵士や領主のそれぞれがバラバラに戦わざるを得ない状況だった。

経過と戦況

 三軍によりギュスターヴ軍を包囲し、その輪を少しずつ縮めていく連合軍。しかし偽ギュスターヴはメルシュマン北方軍の不安定を見逃さず、3万の兵のうち8000をエーデルリッターのボルスに与えるとザール峠に出軍させた。ボルスたちは峠に陣取ることでメルシュマン北方軍の1万2000を相手取ろうとしていたのである。
 ボルスたちの軍はメルシュマン北方軍を深く呼び込むと三方向から包囲して畳みかけるようにして戦いを仕掛けた。もともとが不安定なうえに指揮系統も機能していなかったメルシュマン北方軍はたちまち混乱をきたしてしまい、ほとんど抵抗もできぬままに6000もの兵士を失い撤退してしまう。この時ボルス軍が受けた被害は100に満たなかったという。

 撤退していくメルシュマン北方軍を見たボルスは偽ギュスターヴの命令を無視して追撃を敢行。緒戦勝利の伝令を出すのみでメルシュマン北方軍を追撃する。ボルスの思惑ではメルシュマン北方軍をくだすことで偽ギュスターヴ軍の支配下におけるという目算があった。
 しかしこれは偽ギュスターヴにとっては計算外であり、失敗のひとつ目となる。偽ギュスターヴの計画ではアナス川を挟んでヤーデの西方軍を迎え撃ち、ボルス軍をその時の遊軍として配置しておき西方軍の背後を取る形で挟撃の予定であったのだ。ボルス軍が単独で動いてしまった以上、この作戦は決行できぬまま捨てざるを得なくなった。
 このままアナス川でヤーデ西方軍を迎え撃ってしまうとラウプホルツ公の南方軍にサウスマウンドトップ全域を奪われてしまい、ヤーデ西方軍を撃破したところで連合軍全体を押さえることはできない。やむなく偽ギュスターヴは部隊をサウスマウンドトップに移動させ、最悪、ヤーデ西方軍とラウプホルツ南方軍両方を相手取るという覚悟を決めた。サウスマウンドトップに布陣すれば少なくとも有利な地形のうえで戦うことができるという目論見である。

 一方、ラウプホルツ公はある思惑を持っていた。ヤーデ西方軍と偽ギュスターヴ軍を戦わせて双方が疲弊した頃合いを見計らって参戦し、少しでも兵力を損なわぬように温存したままあとのロードレスランドの処置で有利を保とうとしたのである。参戦が早すぎてはヤーデ西方軍が疲弊する前に戦いが決してしまい、遅すぎてはヤーデ西方軍が全滅してしまう。ラウプホルツ軍は偵察を立てつつゆっくりと戦況を見守りつつ2万5000の兵で北上を開始した。

 そしてヤーデ西方軍。デーヴィドの率いる西方軍はこの連合軍においては中心的な存在であり、先遣隊1万5000の兵はデーヴィド自らが指揮し東大陸上陸後は早々に展開した頃合いにメルシュマン北方軍撤退の報が入る。同時に偽ギュスターヴ軍がサウスマウンドトップに移動したことも報じられデーヴィドは僅かに逡巡するが、ナ国からの援軍を待たずに進軍を決意。アナス川を越えてサウスマウンドトップに入る。
 満を持してサウスマウンドトップに入ったデーヴィドたちヤーデ西方軍はしかし、唖然とすることになる。そこには予め展開する予定であったラウプホルツ南方軍は影も形も見えなかった。本来ならば南方軍とメルシュマン北方軍の三軍で偽ギュスターヴ軍を包囲したまま撃破する作戦であったが、このままヤーデ西方軍だけで戦ってしまうと逆に包囲されかねない状況である。

 しかし、ここでの撤退は和平会議でのデーヴィドの宣言の手前として、そしてヤーデ伯という立場からしてもありえなかった。デーヴィドの祖父ケルヴィンが成し得なかった和平という道がついに手の届くところまで来ているのである。ここで引いてはロードレスランドの発言力だけでなく、やっと見つけた光明が再び闇に紛れてしまう。
 デーヴィドは決戦を覚悟し、防御主体の陣を取り続けるがあくまでも撤退の意思は見せずにサウスマウンドトップに進軍するのである。

 そして対する偽ギュスターヴ軍は先鋒にエーデルリッターを多数配置する。サルゴン、トーワ、イシス、モイといった主力部隊はそれぞれの兵力を伴い、一気にデーヴィドらヤーデ西方軍を駆逐する構えを見せる。エーデルリッターは一人でも人間を超越したようなアニマと武力を誇っており、デーヴィドたちは文字通りの意味で大苦戦を強いられてしまうことになる。ひたすらに防戦に徹するしか手がないヤーデ西方軍デーヴィドの目の前に現れたのは、鋼鉄の兵士を多数連れ自らも鋼鉄の剣を構える金髪の青年、偽ギュスターヴであったのだ。

結果と戦果

 デーヴィド率いるヤーデ西方軍は多大なる被害を被りながらではあったが、からくも連合軍を勝利に導くことに成功する。エーデルリッターたちの部隊は圧倒的な戦いを見せてヤーデ西方軍を押し返そうとしたが防戦に徹し続けて戦線維持し耐え抜いたデーヴィドたちの前にようやくラウプホルツ南方軍が現れて参戦、一気に巻き返しながら戦闘は終了した。

 この戦いに勝利したのちにグリューゲルで引き続き和平会議が執り行われ、各諸侯が調印した条約が改めて示されることになった。この条約は和平を誓った条文により綴られており、東大陸の全土はこの条約をもって史上初めて秩序が回復し平和を取り戻すことになった。
 この時の条約は示された都市の名前を取り「ハン・ノヴァ条約」と称され、以後の数十年間に渡りデーヴィドのもとで効力を発揮し続ける。祖父ケルヴィンの代に確立したほどの勢力維持こそできなかったものの、デーヴィドは後世において名君と謳われ歴史に記されることになるのだ。

 なお、偽ギュスターヴとエーデルリッターたちは敗北後その姿を見たものはおらず、戦場でも他所の地域でも彼らの首や亡骸、あるいは姿などはついに発見されなかった。この後、偽ギュスターヴとその配下たちは表舞台に一切現れることはなく、その生死すらも不明なままで歴史は終わっている。