サンダイル歴史

Last-modified: 2021-05-13 (木) 03:19:57




年表


人類誕生 術聡明期

人類誕生

人類の誕生

 猿人から現生人類への進化がサンダイルのもっとも古い歴史である。一番最初に猿人から分岐して誕生した人類は南大陸をルーツとしており、その頃はまだ環境への適応力も低く野獣などの脅威から逃れるためにも各地へ分散して行くことしか出来ず、発祥地に定住するには至れなかった。

  • 現生人類が東大陸に移動
    • 現生人類の持つ骨格は原人類とほぼ同じであったが、適応力に関しては比較にならないほど上位であった。やがて現生人類は旧人類を駆逐しサンダイル各地に広がっていくことになる。その勢いは破竹であり、4万5000年前には陸伝いに海を渡って東大陸へ、さらに8000年前には東大陸の最南端に到達さえしている。
  • 農耕文明のはじまり
    • それまでは狩猟を軸とした食生活を営んできた人々だったが安定した食料確保を模索した結果、農耕文明を発見することになる。同時に道具の発見と発展も進むことになり、狩りをしながら各地を転々と移住する生活から一箇所に留まって農耕をしながら生活するスタイルへと変化していった。それに伴い、人口も大幅に増加することになる。
  • 村落のはじまり
    • 農耕文明の発展は人々の単位を「個」から「集団」へと変えていく。季節や環境により常に手を入れねばならない農耕は一箇所に定住したほうがはるかに効率的だったからである。集団はやがて村、そして都市、国家として成長していく。
    • ただしサンダイルにおいてはヴァイスラントだけは気候が理由となり農耕は栄えず、現在においても狩猟生活を営む者が多い。極寒の地というのが理由となり、同じ東大陸でも天下の中心地という思想があったロードレスランドからもさして注目はされなかった。


先行文明

 BS 2000年代に作られた古代王国の巨大モニュメントは昨今のサンダイルでは有名な遺跡として知られているが、それらとは別に人間の手によるものとは思えないまったく異質な遺跡類も見つかっている。これはメガリスという名前で呼ばれることになり、今においてもなおその建造理由が解明されていない。

 メガリスには金属がほとんど使用されていないにも関わらず高度に骨組みが敷かれ、悠久の年月を経ても外観のほとんどが変わらないほどしっかりとした建造物の佇まいをしている。調査をした結果、明らかにこれらは人類とは異なる種が作り上げたものであり、さらに言えばこれらを作り出した種は現在の人類誕生より以前に栄えていたと考えられている。
 このメガリスという遺跡で場合によっては数多く発見されるのがクヴェルであり、発見された直後から急激に人々の間に広まりやがて社会、政治にすら関わることになっていく。

 ちなみにメガリスに関しては南大陸ではまったくと言っていいほど見つかっておらず、その大半は東大陸や北大陸に限定されている。この理由の推測としては南大陸には当時から砂漠や荒野が土地の全土を覆っており、遺跡に類したものを建造する文明が発展していなかったことが挙げられる。そうしたことで南大陸ではクヴェルがほとんど広まっておらず現在でも術ばかりを主体とした社会文化は広まっていないが、砂漠のメガリスという特殊な遺跡は存在する。


術の発見

 中原が着々と農耕文明や都市国家などで栄えるなか、ヴァイスラントでとある発見がされる。それは現在では術と呼ばれている体系であり、この時に発見されたものはその原型であるクヴェルだった。クヴェルという物品自体はそれまでにも各地で発見されてはいたが、あくまでも偶然見つけたものという程度の感覚であり「利用する」という段階には至れなかったが、ここでついに人間の手によってクヴェルが意識的に活用されていくことになる。

 ヴァイスラントでの活用が率先的だった理由としては過酷な環境が挙げられる。万年雪と呼ばれるほど吹雪の支配するヴァイスラントでは暖を取る方法をクヴェルに頼らねばならないほど日常生活に困難があったためだ。焚き火を起こすよりも手早く安全に、そしてどこへでも自在に持ち運べる炎のクヴェルは特に珍重され活用されてきた。
 やがて時代が進むとクヴェルは崇拝対象、研究の材料、冒険や戦闘での活用と用途を変えながらも人々の暮らしと文化に関わっていくことになる。


クヴェル術文明の確立

 クヴェルの発見はサンダイルに新風を巻き起こした。発見地であるヴァイスラントは人口が急増し、人々は北への進出を開始する。同時にクヴェルの存在と利用法も拡大先に広まっていき生産力や文明を向上させ、北方の民に豊かさをもたらした。

 当時の国はその多くが都市国家であり、民衆が民衆のために統治するというのが一般的であった。そうした体制のところへ南方の民が訪れると術の知識やクヴェルが広く知れ渡ることになり、クヴェルを所有する者が富を得てそうでない者は貧しいという貧富の差が発生する。富を独占しようとする一部の人間たちによる争いが起き、術の知識やクヴェルの所有権のある者が王や貴族といった人民層の上位に位置取って強固な権力を持つようになっていく。
 紀元前2000年頃にはそうして各地に出現した古代王国同士が争い、激しい戦争を巻き起こしていくようになる。

  • ティベリウスの戦い
    • BS 2334年に起きたとされるティベリウスの戦いの発端は、BS 2000年頃から活発化したクヴェルの大量流出がきっかけとなっている。南方勢力と現ラウプホルツ付近にあった古代王国の戦いが文献に記されているが、かろうじて読み取れる範囲で見るとそれまでの戦いとは急激な戦闘力の変化があったという記述が見つかる。これは明らかにクヴェルの持つ術の力を戦闘に用いたことを意味している。
      戦場でのクヴェルの利用は盛んになり、相手に甚大な被害を与える強大な力に人々は魅了され未知なる力を得ようと奔走する。これはやがて人類文明における術の発見と記述、研究へと繋がっていくのだ。


術の発見誤差

 歴史上においてクヴェルが発見された記述は二点あり、ひとつはBS 5500年、もうひとつはBS 2000年である。この誤差は「クヴェルそのものが発見された」時期と「クヴェルが人々に広まった」時期とが解釈違いされ混同されているからである。
 BS 2000年にクヴェルは人々に伝わり実際に広まって利用されるようになったが、一方でBS 5500年はクヴェルという物質が人間の手に初めて触れた時を指す。この時はまだ術という形は成しておらず、効果も突発的あるいは偶発的に発生していたに過ぎず人間が利用していたとは言い難い。この時点ではあくまでも不思議な力を発生する道具、神秘的な物体としてしか人間には認識されていなかった。

 BS 2000年とBS 5500年の間の3000年間において、様々なクヴェルがあちこちから出土される。当初こそは神秘的で得体のしれない道具でしかなかったが、のちにヴァイスラントで初めて生活に取り入れられることで利用されるようになりさらにヴァイスラントからロードレスランドなど北方に渡った人々によりサンダイル各地に広がっていくことになった。


人類誕生 クヴェル史総括

 人間は誕生以来、自然と調和しながら進化と発展を遂げてきた。道具を使い、火を起こし、未知なる大地を切り拓いて来た。順当に進めば鉱物から金属を作り出し武器や生活に鉄製品類を中心に金属が広まっていたはずであった。しかし、これが崩壊したのがヴァイスラントで発見されたクヴェルの存在による影響である。

 最初のクヴェルはヴァイスラントの氷河地帯にあるメガリスで発見された。発熱を続ける不思議な物質は氷漬けの湖での氷窟でも燃料を用いず半永久的に動作し続けていた。人々はそれを持ち帰り、それまでは火を起こしたものを使っていた暖炉でこのクヴェルを使い始めることになる。これは現在でも「ホットストーン」というクヴェルとしてヴァイスラントに伝わっている。
 こうしたクヴェルの発見は極寒の地という本来ならば人間の住まう地ではありえない場所での生活を可能とさせ、主にヴァイスラントの人々はクヴェルの力に頼ることで生活する形式に変化していく。クヴェルは精霊と交信するための神器であるなどとされ、当時の長老または霊媒師によって保管・管理され人々の信仰心の対象になった。
 他に大した文明も無かった当時、たったひとつのクヴェルだけでも人類の生活を激変させるにはじゅうぶんだった。生活は安定し豊かになるが反面、人口の急増と食料を巡る争いも引き起こすことになる。

 ヴァイスラントの地は人口が肥大化し勢力争いが頻発、戦いに敗れるなどした一部の勢力は別の地域を求めて移住することになる。既に国家の原型が完成していたグラン・ヴァレ南部に民族移動してきたヴァイスラントの人々がやって来ると、彼らの持っているクヴェルは一瞬にしてグラン・タイユ、やがてはロードレスランド全域に広まることになる。

 やがてクヴェルを巡る争いはついに東大陸全土に及んだ。術の知識やクヴェルを奪い合う戦いは領土争いとなり、民は融合集散を繰り返したすえに度重なる再編成を経て小国家を統括する巨大な王国が誕生していく。
 その後はクヴェルはその性格や形状、効果によって使い分けられるようになる。その一部は戦闘で利用されるようになり、人と人の争いに術という要素が盛り込まれた。その威力は絶大であり、それまでの戦いは急激に変化していく。動乱は次第に北へと拡大し、やがてロードレスランド全域、さらにはその北にあるメルシュマン地方にまで及んだ。「クヴェルを持つ勢力」と「持たざる勢力」の構図が形成されていくのである。



古代帝国 初期術文明期

古代帝国

帝国建国

 ハン帝国の原型はアナス川の河口から15キロほど上流にあった都市国家である。当初は決して豊かとは言えなかったこの国はやがて東大陸の全土を掌握するまでに巨大化していくのを解説するのがこの項である。

  • ハンの発展
    • クヴェルは各地の都市国家に等しく豊かさと術、権力と奪い合いをもたらした。当時の中原ではクヴェルはまだ希少価値が高いものであり、いかに金銭類を積んでも大量に保有するには全体数が少ないことから不可能だった。それはもっぱら、ヴァイスラントから僅かでもやってきたクヴェルだけを奪い合う構図であったからに他ならないが、ハン帝国だけはそうした輪から抜け出すことになる。というのも、現在のフィニー島やメルシュマン地方への遠征にて新たなクヴェルを手に入れることに成功したからである。
      BS 370年頃の自由都市連合では各地域に遠征する国家が多くあったが、ハンも同様にして北へと遠征開始しクヴェルが埋蔵されているフィニー島を併合。産出されたクヴェルはそのほとんどがハンの物となり、勢力はここで一気に拡大していった。
  • クヴェルによる戦闘の確立
    • ハンが強国になった理由はいち早いクヴェルの確保と対策とがあったが、より大きな理由としてはクヴェルというものを純粋な戦闘力、武力として管理されだしたことがある。ヴァイスラントではあくまでも信仰対象であり人知を超えた物質としか解釈されてこなかったクヴェルだが、ハンは軍隊の各部隊長などリーダーを務める人間に等しく持たせて積極的な軍事利用に取り入れた。
    • こうした結果、クヴェルを軸とした組織戦略が組み立てられることになる。クヴェルの持つ戦闘力は甚大であり、剣や槍、弓といった武器では成し得ないエネルギーを発生させ敵陣を駆逐することができる。これらは時代を経るごとにより洗練されハンの圧倒的地位が確立されていくことになった。
    • ハンの急激な成長と勢力は歴史が示している。ヴァイスラントと直接繋がりが深くクヴェルを保有する者が多かったグラン・タイユですらもハンは打破している。なかでもラウプホルツとの最終決戦になったハン帝国建国直前の戦いにおいてはクヴェルを理想的に戦闘に組み込んだハンの圧倒的勝利となっている。ラウプホルツを下したハンは改めて帝国となり、帝政の施行を宣言するのだ。


術研究の急成長

 BS 400年頃からの戦乱のなか、クヴェルを主に軍事利用していたハンではクヴェルや術の研究が盛んにおこなわれた。術に関連した各地での様々な事例を収集し、当時すでに完成していた巨大モニュメントのさらなる研究や分析、クヴェルのさまざまな利用方法などが当時の技術の限界まで研究された。その過程ではアニマ暴走などの犠牲者もたびたび発生するが、有効な活用法は確実に発見されていくことになる。

 成長した術研究は石造建築物すら術を利用することで建設できるようになり、クヴェルのもともとの機構である自動発動効果を生活のみならず社会のすべてで使われるようになる。それに伴い戦闘における利用法も研究されるが、これは帝国が存在した時代は各国との戦闘が頻発する背景があったからである。術ありきの戦術や間接的な利用、あるいは直接的な軍事利用に使われていくことになる。


帝国の繁栄と崩壊

 ハン帝国は建国と同時に最大の繁栄を見せる。グラン・タイユを平定することで東大陸における戦乱はひと段落したとし、帝国はインフラと内政に力を入れることになる。各都市を結ぶ幹線道路、都市設計における最新技術とそれらを可能とする技術者の育成などに手が回され、人民たちの生活は心身ともに充実し国全体が富栄えるようになる。

  • ヴァイスラント遠征
    • 南方遠征を見定めていたハン帝国は、その足がかりとしてグラン・ヴァレに石橋を建設した。ハン帝国の最大目標はクヴェル発祥の地であるヴァイスラントを制圧し現存するクヴェルをすべて手中にし今後の採取も目論むというところにあった。BS 100年、念願の石橋が完成し南方遠征が開始される。
    • 一方でヴァイスラントは当時でもまだ国家が存在しておらず、組織的な政治や戦闘力は皆無と言っても良かった。ほとんど帝国の略奪に近い形でヴァイスラント遠征は終了し、道中などで見つかったクヴェルはより一層の帝国繁栄のために利用されていくことになる。
  • 人民不満と反乱
    • BS 300年ともなるとクヴェルはますますその存在価値を高め、持つ者と持たざる者での貧富の差は歴然化していく。貴族階級とされる人々は低俗化し略奪と搾取を日々の行為とし、それに苛まれる民衆からの反帝国運動が多発するもクヴェルを用いた支配階級の一方的な制圧を前に反帝国活動は雲散を続けた。
    • そうしたなかで大がかりな反乱がふたつ発生する。
    • ひとつは「ユヴェナリスの反乱」と歴史にあり、帝都の競技場にて殺し合いを強要されてきた奴隷たちの反乱である。剣奴と名付けられた彼ら奴隷たちは貴族の楽しみのためだけに望まぬ戦いを強いられ、それによる殺害は日常茶飯事であった。
    • もうひとつはグラン・ヴァレの石橋建造に就いていた労働者たちの反乱で、ヴァイスラント遠征のために急ピッチで進められていた建造で労働していた者はほとんど強制労働に近く日々働かされていた。こちらは民衆だけでなく兵士も駆り出されており、ユヴェナリスの反乱同様に不満が爆発した結果である。
      • どちらも未然に制圧されたものの、グラン・ヴァレの反乱においては属州だけにとどまらず帝都にまでその影響が迫った。これは実質的な帝国の衰退であり、人々の目に帝国の弱体を晒すという結果に結びついてしまった。
  • 帝国滅亡
    • 帝国は衰退し貴族たちは地に落ちた。良識ある者は早々に帝国を去りますます帝国は弱体を極めていく。反乱は毎日のように発生し、領主たちの離反すら多発するようになった。
    • そんな中、グラン・タイユでついに蜂起が発生。帝国は大規模な反乱を制圧する力を失っており、幾度かの紛争や小競り合いにも対抗できず帝国は撤退を続けてしまう。BS 453年には帝都にまでグラン・タイユの連合軍は迫るのだった。
    • 帝国も対抗勢力としてメルシュマン諸国の協力を仰ぐも、464年にはそのメルシュマンの離反により再び窮地に立たされることになる。そして三度に渡る大規模な戦争の最期に帝都は炎に包まれるなかで滅亡の日を迎えるのだった。


王位継承と民流出

 374年に発生したユヴェナリスの反乱とグラン・ヴァレの反乱の後からは民衆の帝国に対する不満が一気に増大化する。
 グラン・タイユを平定し東大陸全土を掌握せんとしていたかつての帝国の繁栄はそこにはなく、腐敗し堕落し切った貴族たちが跋扈するのみ。彼らに支配され貧困にあえぐ民衆のほとんどは支配層の搾取対象でしかなく、ほとんどの貴族たちは自分たちの地位と財産の存続と維持に力を入れるばかりで民に目を向けることはなかった。

 混乱と民のうっ憤が募るなか、400年についに皇帝が崩御する。子の無かった皇帝の後継者争いはし烈を極めて各権力者たちが名を挙げるなか、一度は終焉した五賢帝の子孫が再び場に担ぎ出されることになる。民に慕われ人望も厚く、政治にも明るく人格に優れた名君であったこの人物はしかし、皇帝の継承争いを嫌って南大陸へと移住してしまう。彼を慕った者たちもそれに追随し、帝国は最後とも言える希少な人材と多くの有能な貴族たちを失ってしまうのだった。


古代帝国 クヴェル史総括

 BS 400年代のハン帝国による戦いはクヴェルvs非クヴェルという構図を生むことになった。その結果はクヴェルを戦闘技術として積極的に利用した側に軍配が上がることになり、ハンは圧倒的な優勢を保ったままに周辺諸国を伏せて支配下にしていく。やがてハンは帝国となり、メルシュマン地方やグラン・タイユを制圧し東大陸のほとんどを掌握するに至る。

 この流れに置いて重要なのはクヴェルの軍事利用の活性化と道具としての一般利用になる。無限に等しいエネルギーを発生し続けるクヴェルはヴァイスラントとは別の意味での崇拝対象へと変わっていく。帝国成立後はクヴェルを所有しているか否かで地位に大きく影響が出た。
 帝国の貴族階級の者たちにとってクヴェルは家宝同然であり、ステータスと地位確保の両立であった。当然、直系には代々クヴェルが伝わり子々孫々まで地位の確保は約束される。しかし、相続権を持たない次男以降の者にはクヴェルは手に入れられず新たに他の方法で手に入れるしか特権を得ることが敵わなかった。こうした一部市民の間ではクヴェルを争奪するために異常なまでの執着を燃やす者が後を絶たず、他人を陥れて手に入れる他にも各地の遺跡類で自ら発掘しようと意気込んだりもした。現在でいうところのディガーという職業の原型はこの頃のこうした流れの中で確立されている。

 しかし、クヴェルはあくまでも有限資源である。先行文明が作り出した未知なる物質であり、現在の人類が作り出すのは到底不可能である。クヴェルというものが一般化したとはいえ市場に出回っていたものは正規品ばかりではなく、粗悪品や偽物も多数紛れ込んでいた。
 ところが、こうした偽物類でもある一部では効力を発揮するという不思議な現象が起きる。帝国成立前から組織的なクヴェル研究を行ってきたハンでは巨大建造物の建設をクヴェルの力だけで成功させるなど術社会はすでに大きく発展していたが、こうした偽物のクヴェルにおいても利用法が編み出されることとなり、「クヴェルを使わない術」という新たな術社会の基盤が作られていくことになった。