不幸体質サミーはありだと思う
第1話
バンカーの自室を片付け終えた後の、あの独特の静寂が好きだ。古いコンクリートの壁に囲まれたこの場所は、僕にとって世界で唯一、情報の整理と精神の平穏を両立できる聖域だった。
三十分前まで散らかっていた資料や古い地図、読みかけの魔導書の類はすべて、僕が定めた厳格なルールに従って本棚とファイリングボックスに収まった。埃一つなくなった木製のテーブル。その滑らかな表面を確認し、僕は満足感と共に深呼吸をした。さて、これからが本当のチルアウトの時間だ。淹れたてのコーヒーを片手に、最近手に入れた学術書の世界に没入する。これ以上の贅沢はない。
そう思って、椅子に腰を下ろそうとしたその時だった。
「……? なんだ、あれ」
視界の端に、違和感が飛び込んできた。
さっきまで、そこには何もなかったはずだ。テーブルの真ん中、僕が最も丁寧に拭き上げたはずの場所に、「それ」はぽつんと置かれていた。
僕はコーヒーカップをサイドテーブルに置き、警戒しながらテーブルへ歩み寄った。魔術的な防護が張り巡らされたこのバンカーに、僕の許可なく物が現れるはずがない。だが、現実にそれはそこに存在していた。
「魔術アイテムかな……? でも見たこともないな……なんだこれ」
それは、黒い毛に覆われた、何かの生き物の足に似ていた。
いや、「似ている」なんていう生易しい表現では足りない。僕はその形状を、忌まわしい記憶と共に知っていた。かつて僕たちが手にし、僕が人生で最も悲惨で滑稽な一日を過ごす羽目になったきっかけ――あの「うさぎの足」に、色以外はまったくすべてが酷似していたのだ。
ただ、目の前にあるそれは、不気味なほどに黒かった。カラスの羽のような、光を吸い込むような漆黒。そしてうさぎというよりは、もう少ししなやかで鋭い、黒猫の足のように見えた。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。手を出してはいけない。鑑定が終わるまで触れてはいけない。ハンターとしての本能がそう叫んでいたにもかかわらず、僕の手は磁石に引かれるように伸びていた。
指先がその硬い毛に触れた瞬間、僕はそれを無意識に握りしめていた。
その時、僕の魂に直接刻み込まれるような変な振動。心臓が跳ね上がり、冷や汗が吹き出した。
「……またあんな目に遭いたくないな。それにしても、一体どこから入ってきたんだ?」
僕は握りしめた「足」を見つめたまま、独り言を漏らした。
あの時の「うさぎの足」のことを思い出さないわけにはいかない。あれは父さんの隠し倉庫に、呪縛の箱に入れられて厳重に封印されていたものだった。手にした者に山のような幸運をもたらすが、一度手放せば、それまでの幸運の二倍の不幸が襲い掛かり、最後には死に至るという、あまりにもハイリスクな呪物だ。
あの時、僕たちは確かにあのうさぎの足を完全に燃やし、灰にしたはずだった。
それに、これはどう見てもうさぎではない。
「これは、違うよな……?」
自分を安心させるための問いかけは、すぐに無意味なものとなった。幸運と不幸のサイクルが回り始めたことを、世界が僕に教えに来たのだ。
「サミー! 避けろ!!」
ディーンの、悲鳴にも似た凄まじい叫び声が廊下から響いた。
それはディーンとの長年のハンター稼業で培われた信頼関係と、父さんから骨の髄まで叩き込まれた教育の賜物だった。僕は思考を介さず、反射的にその場に姿勢を低くした。
だが、今回はその「避け方」が、あるいは僕の身体が人より大きすぎることが、裏目に出たのかもしれない。
ヒュン、という鋭い風切り音が僕の頭上を通り過ぎた。
「い゛、っ……!」
熱い衝撃が鼻先を走った。
伏せた姿勢のまま、目の前の床に視線を落とす。そこには、床のコンクリートに深く、そして鋭く突き刺さる、鎖のついた鎌があった。
あと1秒でも、僕が伏せるのが遅れていたら。あるいは、あと1cmでも前に進んでいたら。その刃は僕の眼球をえぐり抜くか、脳天を真っ二つに割っていただろう。
鼻の奥がツンとするような熱さを感じ、額から滴り落ちる液体が床の灰色を赤く染めていく。痛みというよりは、摩擦による激しい熱。
「サム! 大丈夫か!? おい!」
ディーンが血相を変えて部屋に飛び込んできた。手には鎖鎌の持ち手側を握り、呆然とした表情で僕を見下ろしている。
「……なに……なんなの、これ。いきなり何をしてるんだよ、兄貴」
僕は鼻を押さえながら、震える声で尋ねた。心臓のバクバクという音が耳元でうるさい。
「いや、ほら……なんていうか、俺ってほら、昔から忍者に憧れてたりもするじゃん? ミュータント・タートルズのマイキーみたいな武器が欲しかったんだよ。ネットで見つけてさ、つい……」
「……あれはヌンチャクだろ」
僕は血の混じった声で指摘した。ディーンは気まずそうに視線を泳がせ、突き刺さった鎖鎌を力任せに引き抜いた。
「そうなんだよ! まったく、これを送った業者は何を考えてるんだ。アメリカ人ってのは鎖鎌とヌンチャクの違いも理解してなくて、本当にうんざりするぜ」
「……それを確認もせずに廊下で振り回して、コントロールを失って弟の部屋に放り投げる兄さんにも、骨の髄までアメリカ人を感じるし、僕も今、猛烈にうんざりしてるよ。あー、痛い……」
僕はテーブルの上にあった清潔なはずのタオルを掴み、鼻に当てた。
血はなかなか止まらない。アドレナリンが出ていても、指先が微かに震えるのを止められなかった。
「……あとちょっとで、死ぬところだった」
僕はタオル越しに、テーブルの上に置かれたままの「黒い足」を盗み見た。
あの一瞬の回避。死を免れたこと。それは僕の反射神経の結果なのか。それとも、この「足」がもたらした「幸運」だったのか。
もしこれが幸運だとしたら。
次にやってくる「不幸」は、一体どんな形をして僕を襲うつもりなのだろうか。僕は止まらない鼻血の熱さを感じながら、最悪の一日が再び幕を開けたことを悟った。
「またなんか変なのを拾ったのか?」
扉の枠に寄りかかり、眉根を寄せてこちらを睨んでいるディーン。手にはまだ、先ほど僕の鼻先を掠めたあの物騒な鎖鎌を握っている。
「拾ったはずはないんだけど……」
僕は鼻を押さえたタオル(だと思っていたもの)を一度離し、テーブルの上の「それ」をあらためてまじまじと観察した。矯めつ眇めつ、どの角度から見ても、それはやはり不気味な黒猫の足にしか見えなかった。
かつての「うさぎの足」の騒動の時も思ったけれど、これほどまでに小さく、ある意味では貧弱にすら見えるアイテムに、世界を捻じ曲げるほどの呪力が宿っているとは到底思えない。けれど、先ほどの「あと一ミリ」の死線が、これがただのガラクタではないことを証明していた。
「どれ、見せろ。……おい、こっちに渡すなよ。そこにおいとけ」
ディーンが警戒心を剥き出しにしながら歩み寄ってくる。彼は僕が差し出そうとした手を制し、テーブルに置かれた黒い塊を覗き込んだ。
「おい、待て。これ、うさぎじゃねぇな。猫じゃ……」
ディーンの言葉が途切れた。彼の鼻先がピクピクと震え、顔が歪んでいく。
「……へっくしょん!!」
凄まじいくしゃみが、狭い自室に響き渡った。
「ああ、そういえば。兄貴は猫アレルギーだったっけ。忘れてた」
「はやく……どっか、やれよ……! へっくしょん!!」
ディーンは涙目になりながら、僕を睨みつける。鼻を真っ赤にして、何度も立て続けにくしゃみを繰り返すその姿は、普段のハンターとしての威厳など欠片もなかった。
「たぶん、手放してもまた戻ってくるよ。あの『うさぎの足』の時がそうだっただろ? 燃やさない限り、この呪いのサイクルからは逃げられないんだ」
「そうだろうけど、よ……クソ、鼻がムズムズしやがる! へっくしょおん!!」
ディーンがことさらに溜めの長いくしゃみを放った、その瞬間だった。
彼の手に握られていた、あの「忍者ごっこ」のための鎖鎌が、制御を失った振り子のようにものすごい勢いで弧を描いた。
「やべ」
ディーンの小さな、情けない悲鳴。
そして、僕の目の前を、スローモーションのように「何か」がハラハラと舞い落ちていった。
視界が不自然に開ける。
おでこを撫でる冷たい空気。
床に落ちたのは、数秒前まで僕の額のサイドを守っていた、大切にセットされたはずの前髪だった。
「……おい!!」
僕は絶叫した。鼻の傷よりも、今この瞬間に失われたものの方が、僕にとっては遥かに耐え難い悲劇だった。
「前髪だぞ! このサイドがどれだけ重要か分かってるのか!? 勘弁してくれよ、もう……!」
セットを整え、僕のトレードマークの一部とも言えるサイドの前髪が、無残にも切り落とされて床に散らばっている。鏡を見なくてもわかる。今の僕は、ひどくバランスの悪い、間抜けな髪型になっているはずだ。
「悪い、悪いって! わざとじゃねぇんだよ、くしゃみの勢いであの鎖が……!」
「もういい! そんなもの、今すぐしまってくれ! 兄さんは忍者でもなんでもないんだから!」
「ハンターではあるだろ! ったく、不運なのは俺の方だぜ、このアレルギー……へっくしょん!」
「出て行ってくれ! 今日は大人しくしたいんだ。これ以上、僕の身体の一部を切り刻まれるのは御免だ!」
僕は半ば自棄(やけ)になってディーンを部屋の外へと押し出した。
「悪かったよ、サミー! 後でなんか奢るから……」という、全く慰めにならない声を無視して、重い扉を閉める。
一気に静寂が戻った部屋で、僕は再び大きなため息をついた。
セットが台無しになった髪を適当にかき上げ、ずっと額の傷跡を押さえていた「タオル」を引き剥がす。
そこで僕は、さらなるミスに気づいた。
「……これ、タオルじゃない」
僕がタオルだと思い込んで血を拭っていたのは、真っ白な地に控えめな「C」の字が刺繍された、カスティエルのハンカチだった。紛らわしくも上質な白地のハンカチタオル。
カスティエルがいつも丁寧に畳んで持っていたであろうそれは、今や僕の鼻血と、額から滲んだ血で無惨に赤黒く染まっている。もはやハンカチというより、戦場の包帯同然だ。
「……謝らなきゃ。キャス、どこにいるんだ?」
僕は空中に向かって呼びかけてみた。けれど、あいつは呼んですぐに現れるような、都合の良い天使ではない――特に、こちらが何かを台無しにした時には。
やむを得ず、僕は部屋を出ることにした。
またいつディーンが鎖鎌を持って突進してくるか分からない。あるいは、足元にバナナの皮でも落ちているかもしれない。
僕は極限まで慎重な足取りで、廊下を進んだ。
一歩一歩、まるで地雷原を歩くかのような緊張感。
目的地はキッチンだ。あそこなら、カスティエルが淹れたての茶でも飲んでいるかもしれないし、少なくとも鼻血を完全に止めるための氷くらいはあるだろう。
「猫の足」はまだ、テーブルの上に置かれたままだ。
それがあたかも、僕の背中を「幸運」という名の「災厄」で押し続けているような、奇妙な感覚を背中に感じながら、僕は薄暗いバンカーの廊下を歩いていった。
第2話
キッチンには、不釣り合いなほど穏やかな空気が流れていた。
カスティエルは上機嫌だった。鼻歌まじりにティーポットとカップを選び、蜂蜜の瓶を丁寧に並べている。その背中からは、人間的な「お茶の時間」を慈しむ純粋な喜びが溢れ出していた。普段の彼からは想像もつかない、あまりにも無防備で楽しげな様子。
僕はその平穏を壊さぬよう、そして自分の身にこれ以上の不吉を招かぬよう、まるで地雷原を歩くような慎重さで椅子に座った。テーブルを囲む静寂の中に、カスティエルの低く、わずかに音程の外れたハミングが響く。
「サムか。どうだ、調子は」
カスティエルが振り返り、穏やかな眼差しを向けた。僕は鼻先の傷と、少し短くなった前髪を悟られないよう、不自然なほど静かに応えた。
「……何もないよ。大丈夫だ」
嘘だった。説明すれば心配されるだけだ。今はただ、この嵐のような不運の連鎖が過ぎ去るのを待つしかなかった。カスティエルは満足そうに頷き、再びポットに向き直る。
「そうか。今、君が好きなハーブティーを淹れていたんだ。飲むだろう?」
「……ああ、預かろうかな」
断る理由も、断る元気もなかった。カスティエルは丁寧にトレイを整え、琥珀色の液体が満たされたカップを運んでくる。彼がこちらへ歩み寄ろうとした、その瞬間だった。
「お。」
カスティエルの口から、拍子抜けするほど短い声が漏れた。
次の瞬間、彼は何もない床でつんのめって前へ倒れ込んだ。重力に従い、トレイが宙を舞う。
「うあっち!!」
避ける暇もなかった。喉元から胸元にかけて、淹れたての熱湯がダイレクトに降り注いだ。
凄まじい熱さが皮膚を焼き、僕は椅子から転げ落ちて床を転がった。あと数センチ顔を上げていたら、眼球を熱傷で失っていたかもしれない。視界が白濁し、焼け付くような痛みが神経を逆撫でする。
「サム! すまない、今の動きは不自然だった……」
「キャス……大丈夫かい?」
悶絶しながらも、僕は反射的に問いかけていた。他人の心配をしている余裕などないはずなのに、習性か性格か、自分よりも仲間の安否を優先させてしまう。
見上げれば、トレンチコートを纏った頑丈な天使カスティエルは、まるで行き止まりにぶつかったゴーレムのように無傷のまま立ち尽くしていた。
「私はなんともない。だが、君の皮膚が――」
「ごめん、冷水かけてくる!!」
再びのため息を吐く暇もなく、僕はキッチンを飛び出した。胸元の皮膚が熱を帯び、脈打つたびに鋭い痛みが走る。背後でカスティエルが何かを叫んでいたが、それを聞き届ける余裕は一秒も残っていなかった。
シャワールームで冷水を浴び続けて15分。ようやく呼吸が整い、鏡の中の自分を確認する。
喉仏から鎖骨、そして胸の中央にかけて、皮膚は痛々しく真っ赤に腫れ上がっていた。水ぶくれこそ免れたものの、広範囲にわたる熱傷だ。
「……だめだ。部屋でじっとしていないと、次は本当に死ぬ……」
濡れた身体をタオルで拭き、重い脚を引きずって自室へ向かう。一歩踏み出すたびに、廊下の角から死神が鎌を振ってくるのではないかと怯える自分が情けなかった。
自室に辿り着き、湿った服を脱ぎ捨てようとしたとき。
ポケットのあたりに、異様な重みがあることに気づいた。
「……嘘だろ」
中から転がり落ちたのは、あの「黒猫の足」だった。
片付けたはずのテーブルに置いてきたはずなのに。ディーンに追い出されたとき、僕は確かにこれを持っていなかったはずだ。
いつの間にポケットに移動したのか。それとも、僕が知らないうちに掴んでいたのか。
この毛むくじゃらの呪物は、僕がどれだけ拒絶しようとも、僕の所有権を主張して離さないつもりらしい。
僕は濡れたままのベッドに腰を下ろし、震える手で黒い足を凝視した。
まずは、このアイテムが何者なのか。そして、この「幸運の二倍の不幸」を止める方法があるのか。
焼けるような胸の痛みを感じながら、僕は呪われた知識の海へ潜る準備を始めた。外では、またディーンのくしゃみやカスティエルの不器用な物音が響いている。それらすべてが、僕の命を狙う暗殺者たちの合図のように聞こえて仕方がなかった。
第3話
古い文献を紐解き、ようやく正体が判明した。これはかつての「うさぎの足」とは対極の法則を持つ呪物、『黒猫の足』だ。
うさぎの足が絶頂の幸運の後に破滅的な不幸をもたらすのに対し、この黒猫の足は逆の手順を踏む。持ち主が死に直面するほどの、あるいは魂が削れるほどの極限の不幸を耐え抜いた末に、人生のすべてを塗り替えるほどの「究極の幸運」が訪れるという。
ただし、報酬を得る前に不幸の連鎖で命を落とす者がほとんどで、幸運の正体を知る者は一人もいない。
「幸運なんて、いまさら必要なのか?」
自問するが、僕の人生に「普通」や「平穏」が訪れたことなど一度もなかった。
生まれてほとんどすぐに母を火災で失い、アザゼルの血を流し込まれたあの日から、僕の道は呪われていた。ルシファーの器として目を付けられ、魂を檻に置き去りにし、壊れた精神で幻覚に苛まれ、死の淵まで追い込まれる試練を受けた。
ディーンは僕の精神力を「半端ない」と評した。けれど、それは強くありたかったからじゃない。強くならざるを得なかっただけだ。
煉獄という極限の戦場で磨かれたディーンの野性的な肉体の強さに追いつけないのなら、僕は壊れそうな精神を鍛え、思考の盾を築くしかなかった。
逃れられない血筋、終わらない狩り、蓄積される喪失。
ディーンのような無鉄砲な賭けは好まない。だが、もしもこの地獄のような不幸を耐え抜いた先に、これまでの呪いをすべて帳消しにするほどの幸運が実在するのなら。
「やってみるか……」
黒猫の足は、ただ静かにテーブルの上に置かれている。
次に来る災厄が何であれ、僕はそれを耐え抜いてみせる。論理も知識も通用しないなら、ウィンチェスターの血に流れる「しぶとさ」だけを賭け金にして。
第4話
それからの数日間は、僕の人生における「不幸」の定義を塗り替えるのに十分すぎる時間だった。呪い、あるいは極限の不運。呼び方は何でもいいけれど、僕の周囲では物理法則さえもが僕を殺そうと共謀しているかのようだった。
とりわけ、ディーンが最近になって買い込み始めた『ミュータント・タートルズ・実戦でも使える武器シリーズ』という、名前だけで頭痛がしてくる代物が最悪だった。
最初の災難は、バンカーの入り口にあるあの象徴的な螺旋階段で起きた。
僕が資料を抱えて下りていこうとしたその瞬間、上階から金属の鋭い風切り音が聞こえた。見上げると、ラファエルの武器である「十手(サイ)」が、まるで精密誘導されたミサイルのように回転しながら落ちてくる。それは僕の喉元を狙うように真っ直ぐ突き進んできた。
僕は咄嗟に身体を捻り、手すりに背中を強打しながらそれを避けた。十手は僕の首の皮膚を数ミリ掠め、コンクリートの床に火花を散らして突き刺さった。
「おっと、悪いサミー! ベルトのホルダーが甘かったみたいだ!」
上から覗き込むディーンの声は、反省の色よりも新調したおもちゃへの興奮が勝っていた。
それだけではない。別の日には、ディーンが調理に「活用」しようとしたレオナルドの日本刀が、手を滑らせた拍子に二本まとめて僕の方向へ飛んできた。それらは僕の両腕を貫通しようとする勢いで迫り、僕は持っていたトレイを盾にして辛うじてそれを防いだ。トレイには深い斬撃の跡が刻まれ、僕の心臓は止まりそうになった。
そして極めつけは、ドナテロの「棒」だった。
「ドニーはタートルズのブレイン役だろ? IQ300の天才。お前にぴったりだと思ってさ。ほら、受け取れ!」
ディーンが放り投げたその棒は、ただの木製ではなかった。ずっしりと重い特殊合金製で、先端が僕の腹部を串刺しにするような角度で飛んできた。いつもなら難なくキャッチできるはずだった。けれど、この時の僕は「不運」の渦中にいた。指先が滑り、棒は僕の脇腹を強かに打ち据えた。
「おいおい、いつもならキャッチするだろ。鈍ったか、サミー?」
呆れたようなディーンの顔。腹部の激痛と、理不尽な状況への怒りで視界が真っ赤に染まったが、それを抑え込むだけで精一杯だった。
カスティエルもまた、この不幸の連鎖における予期せぬ伏兵だった。
彼は彼なりに、僕の「調子」を気にかけていたのだろう。彼は古びた魔導書から見つけたという新たな魔術を、何かに付けて僕に報告したがった。
「サム、この魔術は天使の力では行使できないものなんだ。人間の魂を持つ君なら、興味があるだろう?」
彼は悪魔の体内から無限に針を生成し、内側から破壊するという強力な魔術を僕に提案してきた。精神的に摩耗し何かに没頭したかった僕はそれを試してみることにした。手順は完璧だった。呪文の詠唱も、触媒の配置も、これまでの僕の経験からして失敗するはずがなかった。
けれど、結果は悲惨だった。
「……ッ、ごほっ!」
悪魔に向かうはずの力が逆流したのか、あるいはこの「黒猫の足」が引き起こしたカウンターなのか。呪文を唱え終えた瞬間、僕の口の中から無数の鋭い針が溢れ出した。
「サム!?」
カスティエルの驚愕した声を聞きながら、僕は口内を傷だらけにして針を吐き出した。幸い、致命傷には至らなかったが、精神的なショックは計り知れなかった。この僕が、初歩的な魔術の制御を誤るなんてあり得ない。
僕はそのまま、何も言わずに自室へと引きこもった。
深刻に理由を考える余裕も、カスティエルに説明する気力も残っていなかった。
どれだけ不幸を耐え抜けばいい。どれだけ死の淵を覗けば、あの「最高の幸運」とやらはやってくるんだ。
待てど暮らせど、訪れるのはディーンの不注意な攻撃と、カスティエルの不器用なミス、そして身体中に増えていく生傷だけだった。精神が削り取られ、僕はテーブルの上に置かれたあの『黒猫の足』を凝視した。
それはただの毛むくじゃらの塊なのに、僕のすべてを嘲笑っているように見えた。
「……焼いてみようかな」
かつて「うさぎの足」を処理したときのことを思い出す。あの時は厳重な儀式を行い、炎にくべ、灰になるまでその場を離れなかった。この黒猫の足も、同じように処理するしかない。最高の幸運なんて、もう要らない。ただ、「普通」に戻りたかった。
僕はライターとオイル、そして灰皿を手に取り、部屋を出た。
「サミー、どっか行くのか? 夜食ならピザを頼むぞ」
「カスティエルが言っていたが、月夜の散歩は素晴らしいらしいな。一緒に行くか?」
キッチンの横を通り過ぎる際、ディーンとキャスから掛けられた呑気な言葉。普段なら何でもない会話のはずなのに、今の僕には、さらなる災厄を招き寄せる不吉な呪詛にしか聞こえなかった。
僕は何も答えず、ただ強く「足」を握りしめ、バンカーの外へと続く階段を駆け上がった。この手に残る不気味な感触を、今度こそ永遠に消し去るために。
第5話
バンカーの重いハッチを開け、外の空気に触れた瞬間、冷たい夜風が僕の火傷の跡を撫でた。
月は冷ややかに輝き、周囲の森は沈黙している。僕は手近なドラム缶を見つけるとそこに枯れ葉を放り込み、オイルをたっぷりと注いだ。儀式のやり方は頭にある。
ポケットの中で「黒猫の足」が、まるで心臓のようにドクドクと脈打っている気がして、吐き気がした。
「……こんなものに、振り回されてたまるか」
僕はライターを擦った。だが、火がつかない。一度、二度、十度。石が空回りするたびに、背後に誰かの気配を感じて振り返るが、そこには闇があるだけだ。これが最後の「不幸」の足掻きだろう。
僕は舌打ちしてマッチ箱を取り出した。最後の一本。それを擦ろうとした瞬間、突風が吹き荒れ足元が不自然に滑った。僕は無様に転倒し、マッチ箱はドラム缶の底、オイルまみれの枯れ葉の中に落ちてしまった。
「……っ、ふざけるなよ……!」
膝を擦りむき手のひらを切った。鼻血もまた滲み出している。
もしここで諦めれば、僕は一生この不運の連鎖の中に閉じ込められ、いつか本当に「タートルズの武器」か何かで死ぬことになる。
僕は泥だらけの指で、ドラム缶の中に手を突っ込んだ。オイルで滑るマッチ箱を拾い上げ、湿っていない一本を、震える手で箱の横に当てる。
「これで、終わりだ」
シュッ、と小さな火花が散り、オレンジ色の炎が生まれた。
僕は間髪入れず、左手に握っていた「黒猫の足」を炎の中に叩き込んだ。
ドラム缶から立ち上がったのは、不気味なほど鮮やかな漆黒の炎だった。黒い毛が焦げる嫌な臭いが鼻を突き、肉が焼けるようなパチパチという音が闇に響く。
その炎の中に、一瞬だけ、無数の不幸な男たちの顔が見えた気がした。究極の幸運を待ち望み、その途中で力尽きた者たちの無念。
僕はその場を動かず、炎が完全に消えるまで見守り続けた。
数分後、ドラム缶の中に残ったのは、ただの真っ黒な灰だけだった。
「……終わった。……のか?」
僕は重い足取りでバンカーへと戻った。
ハッチを閉め、螺旋階段を下りる。不運が残っていれば足を踏み外すかなにかするはずだが、僕の足はしっかりと地面を捉えていた。
キッチンへ向かうと、ディーンとキャスが並んで座っていた。
「よおサミー、散歩はどうだった?」
ディーンが振り返った。その手には、またあの鎖鎌――ではなく、ただのビール瓶があった。
「……最高だったよ。もう、何も拾うつもりはないけどね」
「そうか。サム、お茶を淹れ直したんだ。今度はこぼさないように細心の注意を払った」
カスティエルが、慎重な手つきで新しいカップを僕の前に差し出した。
僕は椅子に座り、恐る恐るそのカップを手に取った。
熱いお茶はこぼれず、僕の喉を優しく潤した。
「なあサミー、さっきのタートルズの武器だけどさ……。やっぱ危ねぇから、しまっとくことにしたわ。俺は忍者じゃない、狩人だしな。いろいろ悪かった」
ディーンが少し気まずそうに笑った。
「……それがいいよ、兄貴」
結局、あの黒猫の足が約束していた「最高の幸運」が何だったのか、僕には分からない。
もしかしたら、呪いを解いた瞬間に宝くじにでも当たるはずだったのかもしれないし、消えない呪印が消えるはずだったのかもしれない。
けれど、こうして三人で、ひどく不器用で、でも穏やかな夜を過ごせていること。
それが僕にとって、この呪われた人生の中で掴み取れる、最大級の幸運なんじゃないかと思う。
「おい、サミー。その前髪、あとで俺が切り揃えてやるよ。バリカン持ってくるわ」
「……それだけは絶対に断る」
僕は笑った。
鼻の傷はまだ痛むけれど、バンカーの中に流れる空気は、もう不吉な音を立ててはいなかった。