合意さえあれば器が自由に変えられるっていい設定ですよね。
バンカーの図書室には、苛立ちの混じった電子音だけが虚しく響いていた。ディーンが手の中のスマートフォンをテーブルに叩きつける。
「……クソっ、キャスの野郎、また出やがらねぇ!」
深刻な顔で頭を抱える兄を、サムは困り顔で見つめる。
「まあ、ほら、ディーン。落ち着いて。キャスにはよくあることじゃないか。電波の届かない場所にいるとか……」
「いや、最近はあいつなりにマメだっただろ! スマホの使い方も覚えて、絵文字まで飛ばしてくるようになったっていうのに……丸一日だぞ? 何かあったに決まってる」
ディーンの苛立ちは、その裏側にある「心配」という名の猛毒に焼かれていた。なだめるサムの言葉も右から左へ抜けていく。その時、バンカーの重厚な鉄の扉が、軋むような音を立ててゆっくりと開いた。
「すまない。いま、帰宅した」
完璧な「異変」
聞き覚えのある、抑揚の少ない静かなそれは『口調』だけだった。
階段の上から現れたその姿に、ウィンチェスター兄弟は言葉を失い、文字通り硬直した。
「……キャ、キャス……か?」
ディーンの口から漏れたのは、情けないほど掠れた声だった。
そこに立っていたのは、いつものベージュのトレンチコートを着た中年の男ではない。夜の闇を溶かしたような、身体のラインを際立たせるタイトな黒のドレス。白磁のような肌に映える、波打つブロンドの髪。そして、思わず息を呑むような、とびきりの美貌を持った「女」だった。
「キャス! なんだよそのべっぴんさんは……! 誰を連れてきたんだ!?」
「何を驚く、ディーン。私だ。見た目(器)を少し変えただけだ」
声帯の誘惑、理性の不在
「中身は私だ」と言い切るその言い方は、確かにカスティエルのものだ。だが、女の声帯を通したそれは、低く、ハスキーで、どこか耳元で囁かれているような、抗い難い色気を帯びていた。
「なんで、どうしてそんな姿に……!? ジミーはどうしたんだよ!」
サムが混乱しながら問い詰める。
「少し厄介なことになり……ジミーの器は今、安全な場所で修復中だ。急を要したため、近くにあったこの器を借りた。スマホはジミーのコートのポケットに入れたままで、連絡できなかった。すまない」
淡々と事情を説明する彼女(キャス)は、長い脚を隠そうともせず、慣れないヒールをカツカツと鳴らして図書室へ降りてくる。
その一挙手一投足が、夜の街を支配する女王のようなオーラを放ち、ディーンとサムの視線を釘付けにした。
「中身」という名の免罪符
「なんでって……聞いてるんだよ! その格好、なんだよそのドレスは!」
ディーンは顔を赤らめ、視線をどこに置いていいか分からず、結局その扇情的な胸元や腰のラインを往復してしまう。
「……そんなに変わりはないだろう。中身は私だぞ、ディーン」
キャスは不思議そうに小首を傾げた。ブロンドの髪が肩から滑り落ち、むせ返るような女の香りが、埃っぽい図書室を満たしていく。
中身はキャスだ。分かっている。
だが、そのセクシーな声で「私だぞ」と真っ直ぐ見つめられるたびに、兄弟の脳内の「家族の絆」という回路が、ショート寸前の火花を上げていた。
「……兄貴、これ……どうすればいい……?」
「……知るかよ。俺に聞くな……」
かつてない「家庭内クライシス」。
不器用な天使の再来は、ウィンチェスター兄弟の理性を、これまでのどの魔物よりも残酷に追い詰めていた。
ミカエルの槍、そして「合意」の器
「……昨夜、バーに潜伏していた悪魔と一騎打ちになった。だが、奴は隠し持っていた『ミカエルの槍』の穂先で、ジミーの器を深く傷つけたんだ」
カスティエルの女の声帯が、ハスキーに、しかし切実に響く。
「天使の力でも、あの槍の傷を即座に癒やすことはできない。ジミーの器は今、私の恩寵で仮死状態にして隠してある。魂を守るためには、一時的に器を乗り換えるしかなかった」
ディーンは、彼女(キャス)の長い脚が組み替えられる音に、思わず生唾を飲み込んだ。
「……で、なんでその……よりによって、そんな『夜の女王』みたいな格好した女なんだよ」
「彼女は、そのバーで働いていた信心深い、非常に優しい女性だ。事情を話したら、天使のためならいくらでも体を貸すと言って、快く合意してくれた」
「いくらでもって、お前……」
ディーンの脳内で、聖なる契約と世俗的な妄想が激しく火花を散らす。サムもまた、困ったように視線を泳がせながら付け加えた。
「……確かに、キャスを守るためなら、彼女の献身には感謝しなきゃいけないけど……」
「協力してくれ」という誘惑
カスティエル(黒ドレスver.)は、ブロンドの髪を指先でかき上げ、潤んだ瞳で二人を真っ直ぐに見つめた。
「だが、彼女にも生活がある。いつまでもこの姿でいるわけにはいかない。だからこそ早急にジミーの器を取り戻し、槍の呪いを解きたい。協力してくれ、ディーン、サム」
その「協力してくれ」という言葉が、いつものカスティエルの無機質な依頼ではなく、まるで深夜のバーで囁かれる密やかな誘いのように二人の鼓膜を震わせる。
「……ああ、分かったよ! さっさとその槍を見つけて、お前を元の『むさ苦しいトレンチコート』に戻してやる!」
ディーンは吐き捨てるように言い、逃げるように武器庫へ向かった。背後で、サムが「兄貴、顔が真っ赤だよ」と囁くのが聞こえ、さらに足早になる。
潜入作戦と「嫉妬」の火種
数時間後。三人は再び、悪魔が潜伏していた夜のバーへと乗り込んだ。
作戦はシンプルだ。この「絶世の美女」となったカスティエルを囮にし、槍を持つ悪魔をおびき出す。
「いいか、キャス。お前はただ座って、酒を飲んでるフリをしてりゃいい。俺とサミーが影から見張ってる」
だが、作戦開始から数分も経たないうちに、ディーンの忍耐は限界を迎えた。
カウンターに座るカスティエルの背後に、一人の酔客が近づき、その細い肩に馴れ馴れしく手を置いたのだ。
「……おい、あの野郎。何キャスの肩触ってやがんだ」
「ディーン、落ち着いて。あれはただの人間だよ、囮作戦なんだから……」
「うるせぇ! キャスもキャスだ、なんであんなに自然に微笑み返してやがるんだよ! 中身は天使だぞ! 信心深い女の器だからって、愛想振りまきすぎだろ!!」
ディーンは、それが「作戦への危惧」なのか、それとも「自分の知らないカスティエルの表情」への苛立ちなのか、自分でも判別がつかないまま、腰のナイフに手をかけた。
ミカエルの槍を取り戻す戦いは、いつの間にか、ウィンチェスター兄弟の「独占欲」と「理性の崩壊」を賭けた、最も危険なミッションへと変貌していた。
「接触」という名の儀式
「……っく、あ……」
カスティエルが膝をつき、ブロンドの髪が乱れて床に広がる。
ジミーの器に残された槍の呪いは、いまやこの女性の器をも侵食しようとしていた。
「キャス! 大丈夫か!?」
ディーンが駆け寄るが、カスティエルは青白い顔で首を振った。
「……槍の呪いが、器の深層に根を張っている。……これを引き抜くには、外部から強力な『生命の循環』……つまり、器同士の深い接触による、恩寵のバイパスが必要だ」
「……深い接触? それって、どういうことだよ」
サムが不安げに問い返す。カスティエルは、テレビで得た「大人の余裕」を無意識に再現するように、ゆっくりと髪をかき上げた。その仕草一つが、死線にありながらも残酷なほどにいちいち絵になる。
「……私の手を握り、額を合わせろ。魂の拍動を同期させるんだ。……ディーン、君がやってくれ」
ゼロ距離の攻防(ディーンの沈没)
「……俺が? な、なんで俺なんだよ!」
「君が一番、私の恩寵と馴染みが深いからだ。……急げ、器が壊れる」
ディーンは観念し、ドレス姿のキャスの前に跪いた。
至近距離で見つめるその瞳は、カスティエルの意志を宿しながらも、女性特有の長い睫毛に縁取られ、湿り気を帯びている。
「……いいか、中身はキャスだ。……中身は、あのトレンチコートの野郎だ……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、ディーンは彼女の細い指を絡め、ゆっくりと額を寄せた。
触れ合った肌から、熱が伝わる。
カスティエルは、数千年の時を生きてきた余裕を漂わせ、ふっと憂いを含んだ溜息を吐いた。
「……果たして、君たちは大丈夫だろうか。こんな姿の私に、これほどまでにかき乱されて……」
その溜息が、ディーンの唇のすぐ傍で熱を持って弾けた。
「……っ、……うるせぇよ、キャス……!!」
ディーンの理性が、音を立てて崩落していく。目の前の「美」が、カスティエルという親友でありながら、同時に抗い難い「異性」としての重力を持って自分を吸い寄せている。
サムの視線と「救済」の行方
背後で見守るサムもまた、地獄を味わっていた。
二人が額を合わせ、吐息を共有するその光景は、宗教画のような神聖さと、目を逸らしたくなるほどの扇情的な空気を孕んでいた。
(……兄貴、……手が震えてるよ……)
「……よし、……呪いが移動した。……抜けるぞ」
カスティエルの声が、女の艶やかな響きと共に脳内に直接届く。
光が溢れ、槍の呪いが浄化される瞬間、ディーンは弾かれたように離れた。
「……あー、……終わったな! さあ、帰るぞ! さっさとジミーに戻れ!!」
顔を耳まで真っ赤にし、怒鳴り散らしながら出口へ向かうディーン。
その後ろ姿を、カスティエルはドレスの裾を整えながら、やはり「絵になる」憂いの表情で見送った。
「……ディーンは、少し熱があるようだ。サム、君が看病してやれ」
「……いや、キャス。それは熱じゃなくて……まあ、いいや」
ウィンチェスター兄弟の夜は、まだ終わらない。
ジミーの器に戻るまでの数時間、この「美しすぎる天使」との同居は、彼らにとってどの地獄の責め苦よりも過酷な試練となるのだった。
天使の「物理的」な悩み
無事にバンカーへ帰還したものの、空気は依然として発火寸前の熱を帯びていた。ディーンは図書室に着くや否や、「俺は寝る! 起こすなよ、絶対にだ!」と吐き捨て、自分の部屋の扉を爆発せんばかりの勢いで閉めた。
残されたのは、静まり返った廊下と、黒ドレス姿の絶世の美女――カスティエル、そして頭を抱えるサムだけだった。
「……サム。困ったことが起きた」
カスティエルが、ブロンドの髪を揺らしながら、少しだけ当惑した表情でサムを見上げた。その上目遣いさえも、今の器では抗いがたい破壊力を持っている。
「……何だい、キャス。まさかまた悪魔の追手か?」
「いや。……この器の衣服、特に背面の『ジッパー』という構造が、私の今の可動域では攻略できない。無理に力を込めれば、この信心深い女性の服を破壊してしまう。……手伝ってくれないか」
サムは一瞬、自分の耳を疑った。
「……えっ、僕が? ……いや、キャス。それは……その……」
「中身は私だぞ、サム。……それとも、君もディーンのように心拍数が異常な数値に達しているのか?」
直球すぎる問いかけに、サムは言葉に詰まった。「……分かったよ。やるよ、やればいいんだろ」
ゼロ距離の「背徳」
サムの私室。
オレンジ色のランプに照らされた部屋で、カスティエルは鏡に背を向け、豊かなブロンドの髪を片側に寄せた。露わになったのは、ドレスの深いスリットから続く、なだらかで白い背中のラインだ。
(……落ち着け、サム・ウィンチェスター。これはキャスだ。トレンチコートの、あの不器用な親友だ……)
サムは指先を震わせながら、小さな金具に手をかけた。指先が、女性の温かい肌に微かに触れる。
ジリ、ジリ……と、静寂の中にジッパーが下りていく音だけが響く。
「……サム。君の手が、ディーンと同じように震えている。……やはり、この器の放つフェロモンという化学物質は、君たちの理性を著しく阻害するようだな」
「……黙っててくれ、キャス。……お願いだから」
カスティエルは、テレビで見た「大人の女性」の余裕を無意識に演じ続けていた。ふっと肩の力を抜き、吐き出した溜息がサムの首筋を掠める。その一瞬の「生」の感触に、サムは危うくジッパーを掴む力を失いそうになった。
扉の向こうの「地獄」
その時、廊下を通りかかったディーンが、半開きになっていたサムの部屋のドア越しに、その光景を目撃してしまった。
鏡越しに映る、ドレスを寛げた絶世の美女。
その背後に密着し、うつむき加減でジッパーに指をかける弟。
あまりにも「絵になりすぎる」その背徳的な構図に、ディーンの脳内で何かが音を立てて弾け飛んだ。
「……お、お前ら……っ! 何やってんだよ!!」
「ディーン! 違うんだ、これはキャスが……!」
「見れば分かるだろ、ディーン。着替えの介助だ。……サムの手つきは、君よりも慎重で助かる」
「慎重ってなんだよ!! サミー、お前……っ、あーもう、クソッ!!」
ディーンは顔を真っ赤にし、地団駄を踏みながら自分の部屋へ逃げ戻った。
翌朝、ジミーの姿に戻ったカスティエルがキッチンに現れた時、兄弟が揃って「極度の寝不足」と「気まずい沈黙」に包まれていたのは言うまでもない。
囁かれる「女神」の記憶
翌朝のバンカーは、いつも以上にコーヒーの苦味が体に染みる静寂に包まれていた。
キッチンで向かい合うサムとディーンの目の下には、揃って色濃い隈が刻まれている。原因は明白だ。目を閉じれば、昨夜の「黒ドレスの絶世の美女」が、あまりにも鮮明に脳内再生されるからだ。
「……なあ、ディーン」
サムが、マグカップを握りしめたまま、うわ言のように呟いた。
「……あの姿でさ、『私はカスティエルだ』って、あの滑らかな声で言った瞬間の顔、見た? ……正直、女神かと思ったよ」
「……黙れって!!」
ディーンは、ベーコンをフォークで突き刺しながら、耳まで赤くして声を荒らげた。
「いいか、サミー。あれはキャスだ。中身はあいつなんだよ。……俺たちの、あの、天使の、不器用な、親友なんだよ!しっかり男だ、むしろおっさんだ」
自分に言い聞かせるように叫ぶディーンだったが、視線は泳いでいる。
「今そんなこと今のキャスに聞かせてみろ! また真顔で『心拍数が異常だ』だの『瞳孔が開いている』だの、生物学的な分析を始められて、余計に惨めな思いをするだけだぞ!」
「分かってる。分かってるけど……あのジッパーの感触が、まだ指に残ってて……」
「言うな!! 想像させるな!!」
「いつも通り」の再会
「……君たちは、朝から非常に騒がしいな」
聞き慣れた、低くて砂利を噛んだような「おじさん」の声。
二人が弾かれたように入り口を見ると、そこには見慣れたベージュのトレンチコート、曲がったネクタイ、そして少し無精髭の浮いたジミー・ノヴァックの姿に戻ったカスティエルが立っていた。
「……キャ、キャス! 戻ったのか!」
ディーンは、椅子から転げ落ちそうになりながら、安堵と、それ以上の「気まずさ」を抱えて立ち上がった。
「ああ。槍の呪いは浄化され、ジミーの器も修復が完了した。……先ほど戻ったところだ」
カスティエルは、二人の異様な動揺を不思議そうに見つめ、首を傾げた。
とんちんかんな「蒸し返し」
カスティエルは、昨夜の「女神」のような色気など微塵も感じさせない、いつもの無機質な足取りでテーブルに近づいた。
「ところで、ディーン。君は先ほど私に『黙れ』と言ったな」
「……え? あ、いや、それは……」
「君たちはいつも、私に対して『黙ってろ』という言葉を頻繁に使う。……しかし、私は天界の同胞たちの中でも、かなり無口なほうだと自負している。私の兄弟たち、例えばガブリエルやバルタザールの饒舌さに比べれば、私の発言量は統計的に見ても……」
「……ああ、もう! そういうとこだよ、キャス!」
ディーンは頭を抱え、再び椅子に沈み込んだ。
「お前は黙って、そのむさ苦しいコートを着て、不器用なままでいろ。……それが一番、俺たちの精神衛生上いいんだよ」
「……理解できないな。……昨夜は、君もサムも、私の言葉を一言も聞き漏らすまいと注視していたではないか」
「「それは器が違ったからだろ!!!」」
二人の揃った絶叫が、バンカーの石壁を震わせた。
元の姿に戻っても、ウィンチェスター兄弟の受難は終わらない。
「女神」の残像と、目の前の「不器用な天使」。そのあまりのギャップに、二人が本当の意味で「いつも通り」に戻れるまでには、まだかなりの時間とビールが必要になりそうだった。