ep14
BGM
赤茶けたレンガの壁は崩れ落ち、錆びついた鉄筋が牙のように剥き出しになったスラム街の一角。
湿り気を帯びた埃の匂いと、腐敗したゴミの悪臭が滞留するその場所で、ディーン・ウィンチェスターは「彼」と対峙していた。右手に握られているのは、幾多の死線を共に潜り抜けてきた愛銃、コルト・ガバメント。冷たい鋼の重みが、震える手のひらに確かな実存を突きつけていた。
こんな吹き溜まりのような場所にも、物音に怯える住人たちは潜んでいるのだろう。自分たちのように。
だが、今のディーンには周囲を慮る余裕など微塵もなかった。瓦礫の山に身を潜め、荒い呼吸を整える。
引き金にかけた指が、わずかに沈み込んだ。その瞬間、彼の頬を熱い風が掠め、背後のコンクリートに火花が散った。
一拍遅れて響いた銃声。
その乾いた音も、火薬の焦げた匂いも、そして脳裏に焼き付いた弾道の軌跡さえも、ディーンが放とうとした一撃と寸分違わぬものだった。そう、彼が命を懸けて戦っている相手は、紛れもない「自分自身」だった。
「クソったれが……!」
ディーンは遮蔽物から飛び出し、がむしゃらに相手の潜む影へと突っ込んだ。
崩れた瓦礫がガラガラと音を立てて雪崩を打つ。重なり合った二つの漆黒の影が、地面をのたうつ。
鏡合わせのような姿をした二人の男は、一撃を入れれば正確な一撃を返し、痛みを分かち合うように泥に塗れて転がった。
ようやく身を持ち直し、数歩の距離を置いて再び対峙する。向かい側に立つ「彼」は、ディーンと同じカーキのスーツを纏い、同じように不敵な、しかしどこか虚無を湛えた瞳でこちらを見据えていた。
『……本当に俺に勝てると思ってんのか?』
「彼」は唇の端にタバコを咥えたまま、挑発的に首を傾けた。その余裕が、ディーンの苛立ちを限界まで押し上げる。
「黙れッ!」
ディーンの右ストレートが空を裂く。だが、幻覚のディーンはすべての動きを予読しているかのように滑らかに身を翻し、ディーンの無防備な顔面に鋭い膝蹴りを叩き込んだ。
鼻腔を焼く血の匂いと、視界を覆う白い閃光。よろめき、膝を突きそうになったディーンの耳元に、呪文のような声が降り注ぐ。
『何のために戦ってんだ、ディーン?』
理由などなかった。答えなど、とうの昔に失くしてしまった。
ただ、目の前に倒すべき敵が、許しがたい自分自身がいるから戦うのだ。血混じりの息を吐き捨て、構えを解かない者同士が、互いの存在を否定するように睨み合う。
『お前はただ、怖いだけだろう? 俺がそう言ってんだ。お前は俺なんだから、同意するしかねぇよな?』
冷酷な言葉と共に、致命的な一撃がディーンの腹部を深く抉った。内臓を握り潰されるような衝撃に、ディーンは開いた口からタバコを落とす。火種が泥水の中で虚しく消えた。
『俺を恐れろ、ディーン。……俺はお前だ』
勝ち誇るように拳を握り、崩れ落ちたディーンを睥睨する幻覚。だが、ディーンの魂はまだ折れてはいなかった。彼は愛する者を抱くようにコルトを構え直し、激しく震える銃身を、幻覚の男の眉間へと突きつけた。
『……本当に、俺が嫌いか?』
ディーンは答えない。答えるための言葉が、喉の奥で血に塗れて固まっていた。荒い呼吸のたびに胸が痛み、銃を持つ手は制御不能なほどに揺れている。
『撃てよ! 』
幻覚のディーンは、まくし立てるようにさらに言葉を重ねる。
『お前は敗者だ。永遠に救われない、クソみたいな敗者なんだよ!』
狂ったような叫びを遮るように、鋭い銃声がスラムの沈黙を切り裂いた。
放たれた弾丸は正確に幻覚の眉間を貫くはずだった。だが、呆然と立ち尽くす幻覚の男が押さえたのは、自らの胸元だった。
「……ぁ、が……っ」
肩で激しく息をつくディーンの口元から、鮮血が噴き出した。目の前の幻覚に傷はない。代わりに、ディーン自身のカーキ色のスーツが、内側から滲み出る赤に染まっていく。
『……だから言っただろ。俺はお前だって』
残念そうに呟く幻覚のディーンは、自分の胸元から溢れる血など気にする様子もない。地面に崩れ落ち、信じられないという目で自らの傷口を見つめるディーンを、彼は淡々と見下ろした。
『もし俺を殺したいなら……自分を殺すしかないんだよ、ディーン』
「ちく……しょう……」
苦しさに身悶え、泥を掴む。ディーンが見上げた先で、自分自身が寂しそうな表情でタバコを揺らしていた。その瞳には、深い哀惜の念が浮かんでいる。
『自分からは、どこへ行っても逃げられない』
「いったい……お前は何が、したいんだよ!」
血の海に沈みかけたディーンの絶叫が、スラムの空に木霊する。
『なんて愚かな質問だ。俺が知っていることは、お前も知っているはずだろう?』
スラムの廃墟を、冷たい風が通り抜けていく。幻覚のディーンは、ゆっくりと、しかし確実にディーンに向かって手を差し出した。まるで、底なしの泥濘から引き上げてやるとでも言わんばかりの、慈悲深い仕草。
ディーンは息も絶え絶えになりながら、その手を片手で激しく弾き飛ばした。拒絶。だが、幻覚の男は怒ることもなく、ただ寂しげな視線を向けるだけだった。
『……受け入れろ、ディーン』
震えながら、ディーンはその手を見つめ続けた。溢れ出す血と共に、自らの魂が指先からこぼれ落ちていく感覚。どれほど長い時間が過ぎたのか。
やがて、差し出された幻覚の手が、諦めたようにゆっくりと下ろされようとした瞬間。
ディーンの血に汚れた手が、その掌を強く、重く、掴んだ。
グイッと力強く引き上げられ、ディーンの体はそのまま幻覚の自分に抱き止められた。冷たいはずの幻覚から、不思議な温もりが伝わってくる。
『それでいい。……きっと、良くなる』
その囁きを最後に、視界を覆っていた幻影は霧が晴れるように霧散した。
意識が急速に現実へと戻ってくる。驚くべきことに、先ほどまでディーンを苦しめていた致命的な傷口は、夢の欠片も残さず消え去っていた。スーツの汚れさえもが、最初からなかったかのように。
しかし、痛みだけは残っていた。それは肉体を裂く痛みではなく、魂の深淵を抉り取られたような、重く、鈍い精神的な疼きだった。
「……くそったれ……」
瓦礫の上に転がったままのディーンの耳を、カン、カン、カン、という騒々しい足音が聾した。そのリズム、その重み。それは間違いようのない現実の音だった。
「……ディーン! ディーン、どこだ!」
現れたのは、ネイビーのスーツを纏ったサミーだった。彼は狂ったようにディーンを探し、倒れている兄を見つけるなり、弾かれたように駆け寄ってきた。
「……サミー……」
いつもなら「僕はサムだ」と訂正するはずの弟が、今日は何も言わない。それほどまでに、今のディーンの顔が凄惨なものに見えたのだろう。サムはディーンの背に手を回し、崩れ落ちそうなその体を全力で支えた。
「……ひでぇもんを見たぜ。自分自身に、抱きしめられた」
「何を言ってるんだ、兄貴。……大丈夫か? どこか怪我は……」
「……でも、良いもんも見れたよ」
ディーンは、サムに抱き起こされる中で感じた、本物の、確かな温もりをしっかりと抱きしめ返した。自分自身の闇に飲み込まれそうになりながら、それでも彼は、暗闇の先にある光を掴み取ったのだ。
「……お前を、見つけたからな」
ディーンは微かに笑い、弟の肩に顔を埋めた。スラムの冷たい風は、もう彼を凍えさせることはなかった。
fin.
この並行世界の設定とか