ep10
BGM
風が荒れ狂う日だった。
街角に立つディーン・ウィンチェスターは、広げた新聞を必死に押さえつけていた。容赦のない突風が前方から、あるいは背後から、叩きつけるような勢いで彼を襲う。そのたびに新聞は、意志を持った生き物のようにぐにゃりと形を変え、インクの文字を判読する隙さえ与えない。ついには「グシャッ」という小気味よい音を立ててディーンの手を離れ、そのまま空の彼方へと吸い込まれていった。
「……風が強すぎるだろ」
ディーンは毒づき、目前のビルを見上げた。そこにはビル数階分はあろうかという巨大な広告幕が掲げられている。見知らぬ男女が寄り添い合う、救いようもなく退屈なデザインの釣り布看板だ。一瞥して鼻で笑うと、彼は身を屈めて歩き出した。
せめてタバコを、と思い立ち、ポケットからライターを取り出す。だが、指先を何度弾いても、火花が散るだけで炎が生まれない。十回、十五回、二十回。向きを変え、しゃがみ込み、ジャケットの裾で風を遮っても、火はつかなかった。
ディーンは苛立ちと共にタバコを放り捨てた。
「……本当に、風の強い日だぜ」
逃げ込んだのは、いつもの馴染みのバーだった。
重厚な木製カウンターに腰掛け、店で一番度数の強いウイスキーを注文する。ショットグラスは一つ、二つと増えていき、やがて十を超えた。
「おい、もう一杯だ……」
「閉店だよ、ディーン。もう帰りな」
顔見知りの店員が、呆れたように彼を諭す。振り返れば、窓の外はすっかり夜に塗り潰されていた。店内まで響いてくる風の唸りは、昼間よりも一層激しさを増している。ディーンは重い腰を上げ、再び冷たい風の抱擁の中へと足を踏み入れた。
アルコールで熱を帯びた体に、夜の風は刃物のように刺さる。
昼間に新聞を読んでいた街角まで戻ってくると、例の巨大な広告幕がバタバタと激しい音を立てていた。四メートル四方はあるだろうその布を見上げ、ディーンの脳裏に馬鹿げた妄想がよぎる。
(……あいつに包まれたら、温かいかもな)
それは酔っ払いのくだらない思いつきに過ぎなかったが、一度浮かぶと消えなかった。あの男女の薄ら笑いをこれ以上見上げているのも癪だ。ディーンはビルの屋上へ登り、布を固定している片隅のロープを解いていった。
頭からその厚手の布を被ると、予想通り外気が遮断された。冷たさが少しずつ解けていく。
「最高じゃんか……」
だが、安らぎは長くは続かなかった。
ビルに沿って吹き上げた突風が、とてつもない勢いで布の隙間に潜り込んできたのだ。支えを失った布は一瞬で膨らみ、ディーンの全体重を無視して彼を宙へと引きずり出した。
「なんだと――っ、ちくしょおおお!!」
ビルの先端から投げ出された瞬間、彼は落下するのではなく、夜空を滑っていた。布が巨大な帆となり、猛烈な浮力が発生しているのだ。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」
絶叫が夜の空気に消える。高い場所は嫌いではなかったが、布切れ一枚に命を預けて飛ぶなど聞いていない。
しかし、不意にすべての音が止まった。
あれほど耳障りだった風の咆哮が消え、視界には宝石を散りばめたような夜の街の明かりが広がった。ネオンの柔らかな光を浴びながら、ディーンは緩やかに空を滑空していた。闇の中に浮かぶ三日月が、すぐそばにあるように感じられる。
ディーンは空中でバランスを取りながら、小さく笑った。
「……風の強い日ってのも、悪くないな。タバコは吸えねぇけどよ」
翌日の朝。
モーテルのテーブルには、一面にディーンの写真が踊る新聞が広げられていた。そこには、カーキ色のスーツを着た男が、竜巻のような形に丸まった広告幕と共に空を舞うシュールな姿が収められている。
「……兄さん。ついにバットマンとしてデビューしたのか?」
サムが呆れ果てた声を出す。その手にある新聞を横目で見やり、ディーンはコーヒーを啜った。
「お前にも見せたかったぜ、サミー。あの光をな」
ディーンは短く答え、窓の外の静かな空を見上げた。深いため息が一つ、朝の光の中に溶けていった。