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Last-modified: 2026-05-09 (土) 05:19:56

ep11

BGM



薄汚れたネオンが、夜の湿気を孕んだ空気をジジッ、ジジッ、と不規則な電気音で切り裂いている。雑居ビルの屋上、剥がれかけた防水シートの上に立つディーン・ウィンチェスターが見上げていたのは、数十年前に描かれたであろう「理想の美女」の看板だった。

ピンクとブルーの管が点滅するたび、看板の中の女は艶めかしく片脚を持ち上げ、見る者を誘うように太腿を露わにする。その造形は古臭いが、かえって歪な生々しさを放っていた。「パメラ」というロゴの下で、彼女は永遠に同じ誘惑を繰り返している。

「……いい女だな、あんたは」

ディーンは指先に挟んだタバコから煙を吐き出し、感嘆とも諦念ともつかない溜息をついた。
「二十ドル払えば、今夜だけあなたの彼女になってあげるわよ」

不意に背後からかけられた掠れた声に、ディーンの全身が硬直する。弾かれたように振り向くと、そこには看板のモデルその人が立っていた。往年の美貌を深い皺の奥に隠し、派手すぎるルージュを引いた、老いたパメラ。彼女はディーンの反応を楽しむように、赤い唇を歪めた。

「飲むでしょ?」
「……悪いが、誘いには乗らない主義でね。俺は――」

断ろうとして、ディーンは言葉を失った。彼女の指先でひらひらと揺れていたのは、確かに自分の腰を固く締めていたはずの革のベルトだった。慌てて手元を確認するが、ジャケットの下にあるべき重みは、霞のように消え失せている。

「いつの間に……どうやって?」
「この街で生き抜くための、ちょっとした手癖よ」

パメラは答えず、代わりに保冷ケースに入った安物のビールを持ち上げてみせた。これは提案ではない。強制的な相伴の合図だ。ディーンは苦笑し、差し出された瓶を受け取って喉を潤した。

「私はね、この街に愛されに来たの。ここからなら、私の恋人たちがよく見えるわ」

パメラは屋上の縁に腰を下ろし、夜の街を指差した。その先には、虚飾に満ちたネオンの海が広がっている。

「あれを見て。あの高級車の看板……あの店のセールスマンは優しかった。本気で私に結婚を申し込んでくれたのよ」

彼女の声は、過去を語るときだけ少女のような艶を取り戻す。それは嘘偽りのない、彼女自身の血肉となった歴史だった。

「あの巨大なチェーン店の看板……あそこの社長も、私を女王のように扱ってくれたわ」

ディーンもよく知る、街のいたるところにある派手な看板たち。それらはかつてパメラを熱狂的に愛した男たちの記念碑だった。だが、彼女の指先が、やや低い位置にある古びた看板に止まったとき、その瞳から光が消えた。

コミカルな豚が笑っている、場違いな精肉店の看板。

「でも、……あの人は違った。愛し方を知らなかったの。臆病で、不器用で……」

パメラの声が、重く冷たい湿気を帯びていく。

「愛を、拳でしか表現できなかった」

ハッとして彼女の足元を見やる。ストッキング越しにぶらつかされた彼女の脚。看板のネオンが脚を持ち上げるたび、その皮膚に刻まれた夥しい数の古い傷跡が、醜い蛇のように這っているのが見えた気がした。

「……そのストッキング、脱いでみてくれ」

ディーンの低い声に、パメラは力なく笑った。

「……五ドルよ、坊や」


ディーンは、受け取った薄いストッキングをネオン看板の鉄枠に固くくくりつけた。ちょうど、看板の脚が上下に動く支点を利用し、巨大なパチンコ(スリングショット)のように設える。
「受け取れ、クソ野郎!」

ディーンは空になったビールの重い瓶をセットし、限界まで引き絞って放った。夜気を引き裂いて飛んだ瓶は、正確無比な軌道を描き、眼下の豚の看板の眉間に叩きつけられた。激しい破砕音と共に、豚の顔面が暗転する。

「やめて!!」

パメラが絶叫し、ディーンを看板から引きずり下ろした。彼女の顔は怒りと、それ以上の絶望に震えていた。

「私の愛を……私の人生を汚さないで!!」
「……あんなのは愛じゃない。ただの暴力だ」
「人は愛がないと生きられないの。形はどうあれ、あれも私の支えだった……。あなたは、それを知らないの?」

ディーンは何も言えなかった。ただ、彼女の慟哭を冷たい夜風が運び去るのを、黙って見届けることしかできなかった。


翌朝。ディーンはコンクリートの上で目を覚ました。隣で丸まって眠るパメラの服の裾から、自分のベルトを静かに引き抜く。

「愛、か……」

看板のビルを後にし、朝靄の立ち込める通りを歩き出す。タバコの煙が白い霧に混ざり、消えていく。

「この地獄のような街にも、救いようのない愛ってやつは転がっているのか……?」

冷たい朝の風が頬を叩く。その一瞬の清浄さに目を細めたとき、不意に背後から重みがのしかかった。

「おい、朝飯だぞ。寝ぼけてるのか?」

耳朶を打つ、聞き慣れたサミーの声。振り向くより早く、ディーンの頬にはお気に入りのバーガーの包み紙が押しつけられていた。その熱が、掌から伝わる確かな体温が、昨夜の虚無を塗り潰していく。

「……なんだよ、そんな顔して」
「いや……なあ、サミー」

ディーンは無理やりサムの肩に腕を回し、その体温を確かめるように強く引き寄せた。

「僕はサムだ……離せよ、兄貴」

サムは心底嫌そうに溜息をつき、肩をすくめた。それでも、彼は決して兄の手を振り払おうとはしなかった。朝の光が照らす先には、相変わらず汚れきった街が広がっていたが、ディーンの足取りは、昨日よりもわずかに軽くなっていた。

ep12