ep13
BGM
天井の低い、けれど妙にだだっ広いボーリング場。以前に訪れた場所よりも湿り気が強く、機械がピンを弾く音だけが無機質に反響していた。
その中心で、ディーン・ウィンチェスターは床に這いつくばり、鉄の味がする唾を吐き捨てていた。
事の始まりは、レーンを独占していた五人組のボーリングチームへの、ほんの些細な暴言だった。何を言ったのかはもう覚えていない。だが、揃いの青いポロシャツを着た中年男たちの逆鱗に触れるには十分だったらしい。
リーダー格の色眼鏡をかけた男が、革靴の先でディーンの脇腹を容赦なく蹴り上げる。鈍い衝撃が肺を圧迫し、視界がチカチカと火花を散らした。
「……そろそろいいだろう。ガキに世間の厳しさを教えてやれたはずだ」
男たちが満足げに鼻を鳴らし、立ち去ろうとする。その背中に向かって、ディーンは震える腕で床を押し、無理やり上半身を立ち上げた。口角から垂れる鮮血を手の甲で拭い、最高の中指を突き立てる。
「……待てよ。痛くも痒くもねぇな。揃いのダサいシャツを着たおっさん連中のパンチなんて、まるでおままごとだぜ」
五人の足が止まった。静まり返った場内に、彼らの目つきが獣のように変わる音が聞こえた気がした。
「……ぶっ殺せ!!」
再び暴力の嵐が吹き荒れた。今度は手加減などなかった。
――雪が舞う、漆黒の夜。
ディーンは街の片隅を、まるで傷ついた芋虫のように這いずり回っていた。雪の上に点々と、黒ずんだ赤が道を作っていく。通行人は誰一人として彼に声をかけない。重いコートの襟を立て、見てはいけない汚物から目を逸らすように、冷淡な足音だけが過ぎ去っていく。
気分は、かつて感じた「最高」の真逆、奈落の底だった。
「……地獄かよ、ここは……」
ずる、ずると身体を引きずるたび、折れた肋骨が内側から突き刺さる。寒風が傷口を凍らせ、雪が睫毛にこびりついて視界を白く染めた。
その視界の先に、一足の靴が止まった。
ブレていた焦点が徐々に結ばれ、ディーンはゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、自分だった。
カーキ色のスーツ、漆黒のシャツ、そして鮮血を思わせる深い赤のネクタイ。ひときわ冷酷に輝くグリーンの瞳。それは、この数日、幻覚のように何度も現れては消える、並行世界の自分自身。
『よお。また会ったな、無様な俺』
「……何、しに来た……っ」
『お前は何をしてるんだ? そんなところで泥水を啜って、楽しいか?』
「どっか行け……ッ!」
絶叫と共に、震える指先でくわえ続けていたタバコを吐き出す。微かな火種が雪に触れ、一瞬で消えた。それが今の自分の命そのもののようで、ディーンは歯を剥き出しにして笑った。
『そりゃ無理な相談だ。俺はお前なんだからな。お前は自由が欲しかったんだろう? 良かったな、ディーン。これが、誰にも縛られない、お前だけの「自由」だ』
「くそ……いってぇ……」
感覚が麻痺していく。骨が砕けているのか、脱臼しているのか。死の影が目前に迫ったその時、別の方向から、聞き慣れた足音が近づいてきた。
ネイビーのスーツ。見間違えるはずのない、あの長い脚。
「兄貴! 大丈夫か、何があったんだ!」
幻覚の自分が、サムの姿に重なるようにして揺らめく。
『お前の自由を奪う奴なんて、もう居ないよ。存分に堪能してろ』
嘲笑を残して、スーツの自分は雪の中に溶けて消えた。入れ替わるように、サムの声が頭上で響く。
「救急車を呼ぶから、しっかりしろ!」
だが、そのサムの声も、温もりも、急速に霧散していく。ディーンが必死に視界を凝らすと、そこにいたのは彼を心配そうに見下ろす、見知らぬ通りすがりの女性だった。
サムではなかった。ここには、彼を「兄貴」と呼ぶ者は一人もいない。
「は、はっ……笑えよ……。最高に笑えるぜ……」
感覚が消え、指先が石のように冷たくなっていく。雪の冷たさが、もはや心地よい抱擁のように感じられた。
その頃、数マイル離れた安モーテルの薄暗い部屋で、サムは椅子に座り、古い写真を一枚ずつ丁寧に破り捨てていた。
それは、かつて肩を組んで笑っていた、二人の男の記録。
「……兄貴」
そう呼ぶことの違和感に、サムは顔を歪めた。
暖房の効かない部屋は、外の地吹雪よりも冷え切っている。荷物はすべてバッグに詰め込まれ、あとはここを発つだけだ。窓の外では、無限の雪が狂ったように空を舞い上がっていた。
サミーにとって、もうこの街に留まる理由は、一片の紙屑すら残っていなかった。