ep9
BGM
呆れ返るほどの晴天が、壊れかけた街の隅々までを無遠慮に照らし出していた。ディーン・ウィンチェスターは、吸い慣れたタバコの煙を吐き出しながら、店先に並ぶ鮮やかな果実を品定めするように歩く。そして、呼吸をするのと同じくらい自然な動作で、真っ赤なリンゴをひとつ掠め取った。
「へっ、ちょろいもんだな」
手の中でリンゴをぽんぽんとお手玉のように放り、不敵な笑みを浮かべて立ち去ろうとした、その時だった。背後に、尋常ではない速度で近づく気配を感じる。追われていると本能が理解するより早く、ディーンの足はアスファルトを蹴っていた。
フェンスを軽々と飛び越え、異臭の漂うスラム街を疾走する。山のように積み上がったゴミ捨て場の角を、全速力で曲がる。
「くそ、くそが! しつこいんだよ!」
罵詈雑言が口をついて出る。行き交う車の間を強引に突っ切り、驚いて飛び立つ鳩の群れを蹴散らした。ちょうど通りかかったスクールバスの最後尾に飛びつき、後方へと叫ぶ。
「俺を捕まえようなんて、百万年早いんだよ!」
その声が生き生きとしていたのは、バスが無慈悲な赤信号で停車するまでのことだった。
「ちっ、くそが!!」
再び走り出したディーンは、スラムの錆びついた階段を一気に駆け上がった。気づけば、そこは建物の屋上だった。迷うことなく隣のビルへと飛び移り、遮蔽物を潜り抜け、跳躍を繰り返す。
「たかがリンゴ一個だろ! おら、返せばいいんだろ!」
肩越しに後方を睨みつけ、手の中のリンゴを力任せに投げ返した。これで終わりだ――そう確信して足を緩めようとした途端、背後からの足音が止まっていないことに気づく。
「返しただろ! 欲しいのは金か? 持っていけ、この強欲野郎!」
ポケットからドル紙幣を鷲掴みにしてバラ撒く。舞い散る紙の雨の中、ディーンは一瞬だけ背後を振り返った。それが失敗だった。手すりのない三階建てのビルの端、その先にはもう、跳ぶべき道がなかった。
「ちっくしょおおお!!」
虚しく宙を蹴った足。落下する寸前、ディーンの手は薄汚れた電柱の突起を辛うじて掴んだ。宙ぶらりんのまま、必死に後ろを仰ぎ見た彼は、自分の目を疑った。
そこに立っていたのは――。
着崩れたダークトーンのカーキ色のスーツ。鮮血のように赤いネクタイ。黒いシャツ。そして、自分と全く同じ、悪魔のように不敵に笑むグリーンの瞳。
自分自身が、そこにいる。
だが、それは瞬きをする間の幻影だった。再び目を見開いたとき、そこにいたのは激昂した果物屋の中年男だった。「この野郎!」という怒号が木霊した途端、投げ返されたリンゴがディーンの眉間に見事な音を立てて命中した。
衝撃で手が離れ、ディーンは道の真ん中へと落下した。周囲の車がパニックを起こしたように急ブレーキをかけ、爆音のようなクラクションが津波となって押し寄せる。
「おい! ディーン! 何してんだよ!!」
聞き慣れたサミーの悲鳴が聞こえ、首根っこを掴んで強引に引きずられる感覚の中で、ディーンの意識は遠のいた。
翌日。ディーンは懲りずに、またあの果物屋の前に立っていた。
自分を見るなり色めき立ち、今にも飛びかかってきそうな店員の視線を真っ向から無視して、彼は再びリンゴを手に取る。
「……悔しかったら、俺を地獄まで連れていけよ、八百屋さん」
ペッと店先に吸い殻を吐き捨て、そのままリンゴを豪快にかじった。シャリッという清々しい咀嚼音が、真昼の街に響き渡った。
夕刻。スラムの細い道を、ディーンはふらふらとした足取りで歩いていた。あれから案の定、店員に袋叩きにされ、サミーが割って入って仲裁する羽目になった。体中が痛む。隣では、サムが苦笑を通り越して、半分は本気の怒りを滲ませた顔で兄の肩を支えている。
「げほっ、がほっ……くそ、散々な目にあったぜ」
「ほら、ちゃんと歩けよ。病院にも行けないんだから……」
「俺は……大丈夫だ。ほらよ、サミー」
ディーンがポケットから取り出し、差し出したのは、いつの間にか盗み出していた真っ赤なリンゴだった。
「お前にやるよ。今日の一番いいやつだ」
サムの呆れたような溜息が、夕闇に溶けていった。ディーンは痛む体を預けながらも、満足げな笑みを浮かべて暗い道の先を見つめていた。