The Russian Point of View

Last-modified: 2025-04-12 (土) 01:26:09

そのようなヴァージニア・ウルフのエッセイがある
(ロシア文学論)

本題は置いといて冒頭付近の記述


Not only have we all this to separate us from Russian literature, but a much more serious barrier—the difference of language. Of all those who feasted upon Tolstoi, Dostoevsky, and Tchekov during the past twenty years, not more than one or two perhaps have been able to read them in Russian. Our estimate of their qualities has been formed by critics who have never read a word of Russian, or seen Russia, or even heard the language spoken by natives; who have had to depend, blindly and implicitly, upon the work of translators.


ロシア文学から私たちを隔てているのは、こうしたことだけでなく、はるかに深刻な障壁――言語の違いです。過去20年間にトルストイ、ドストエフスキー、チェーホフの作品に舌鼓を打った人々の中で、ロシア語でそれらを読めた人は、たぶんせいぜい一人か二人でしょう。それらの作品の質に対する私たちの評価は、ロシア語を一語も読んだことがなく、ロシアを見たこともなく、ロシア語ネイティブが話す言葉を聞いたこともない批評家らによって形成されてきました。盲目的に、そして無条件に、翻訳者の仕事に頼らざるを得なかった人々によって。

What we are saying amounts to this, then, that we have judged a whole literature stripped of its style. When you have changed every word in a sentence from Russian to English, have thereby altered the sense a little, the sound, weight, and accent of the words in relation to each other completely, nothing remains except a crude and coarsened version of the sense. Thus treated, the great Russian writers are like men deprived by an earthquake or a railway accident not only of all their clothes, but also of something subtler and more important—their manners, the idiosyncrasies of their characters. What remains is, as the English have proved by the fanaticism of their admiration, something very powerful and very impressive, but it is difficult to feel sure, in view of these mutilations, how far we can trust ourselves not to impute, to distort, to read into them an emphasis which is false.

つまり、私たちがロシア文学に対して言ってきた事というのは、文体を完全に剥ぎ取られた文学作品に対する評価だったわけです。文中の単語を一つ一つロシア語から英語に置き換え、それによって少しずつ意味を変え、さらに音を、重み付けを、互いに関係する語のアクセントを完全に変えてしまうと、意味内容の粗く雑なバージョン以外は何も残りません。
かく扱われてしまえば、偉大なロシアの作家たちは、地震か鉄道事故に見舞われ、衣服だけでなくより繊細で重要なもの――振る舞いや性格の特質までも失った人のようなものです。
残るのは、イギリス人が熱狂的な称賛によって証明したように、とても力強く印象的な何かですが、これら切除を鑑みると、私たちが誤解釈したり、歪曲したり、誤った強調点を読み取ったりせずにいられるとどの程度まで信じられるか、確信を持つことは難しいのです。



あらゆる翻訳が避けられない問題

↑は特に文学作品について述べているけれど、なんならそれ以外の翻訳だって(↑に付けた訳だって)大なり小なり同様の問題を抱えている
評論やエッセイにしたって最も効果的な単語なり語順なりの達成(多寡はケースバイケースにせよ)をゴールに原文が書かれ、しかしそういった言外の構成はどうしたって翻訳時に抜け落ちやすい

  • 言語a-言語b間の互換性は様々なので、程度の大小は異なる

どうであれ質的には変わらない

  • このWikiに転がしている尹東柱の詩の逐語訳に(冒頭だけでも)音写を添えたのは、「逐語訳」においてなお避け得ないこういった問題の程度を軽減する…少なくとも問題の存在を知らぬ人に向けて知らせる…ためでもある
    [ここに突き詰めると抽象的概念におけるシニフィアン/シニフィエの言語間互換性の厳密な意味での検証不可能性がどうたらこうたら、なんなら非抽象的概念においてもどうたらこうたらという話]
音写
これでも足りていない
丹念にチューンされた詩となればおそらく字形のバランスすら考慮されているはずで、そういった要素に至るとあらゆる手を尽くしても他言語には翻訳できない


以前作っていたWiki*1のヘッダーに太字で掲げておくべきだった内容
なんなら今からでも載っけたいくらいだけど、まあやめておこう


*1 とあるスマホ向けゲームのローカライズ情報を扱うページへ(訳文とはいかなる概念であるのか十分な説明を付けずに)大量の逐語訳なり直訳なり意訳なりを転がした結果、私のWikiの訳文を使って原文に攻撃を始めるバカが現れてしまった 忸怩たる思い