- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
- 最下部のコメントボックスで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
- ほんの少しでも推薦図書に見えたのならそれが推薦図書です(邪視)。追加しましょう。五十音順に並んでいます。
- 編集カラテ入門
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** タイトル
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性・性愛・聖婚関連/その他
マイケル・サンデルの白熱教室
水子供養 商品としての儀式 近代日本のジェンダー/セクシュアリティと宗教 ヘレン・ハーデカー
- 水子供養を通して、日本人の宗教生活を探ろうとしている本
- 研究書ではあるが、新聞の人生相談や中絶経験者の手記なども載せられていて分かりやすい
- 載せられているエピソードは、中絶経験者全体を代表できない限定的なサンプルではあるが、さまざまな考え方や生き方をしている人々がいることが伝わってくる
- 研究の先駆者であるラフルーアの『水子』とは、水子供養が、仏教や日本の伝統とほぼ無関係であることを強調している点やジェンダー視点からの批判的な分析をしている点で異なっている
- ただ、本文に中絶で無責任な態度を取りがちな男性への敵意や悪意的な解釈こそあるものの、研究自体は、資料や取材中心の中立的なものである
- 胎児中心主義レトリックへの批判も明記されているが、同時に、供養の起源を無視して自分の精神的健康のために、水子供養を利用する女性たちの姿もしっかりと描いていたりもするのだ
- また、この本では、避妊や中絶とは、男女の間の性的な駆け引きとエロティックな交渉のなかから立ち上がる「性的な」習俗であると見なしており
- そういった面からの研究という意味でも貴重かつ重要な資料であると思われる
- 胎児中心主義的レトリック:反中絶主義者が用いる。胎児と女性を対立させ、被害者と加害者であるかのように描き出す言説
- 胎児を物神(フェティッシュ)と見なすことで、人々の感情を掻き立てる
- そうした言説では、胎児に人格があると見なし、胎児はすでに産まれた人間と同じ道徳的価値を有すると主張される
- その上、胎児の「権利」と母親の権利は切り離され、母親と胎児は対立する者同士として位置づけられる
- あたかも胎児が女性の体外に実在しているかのように見せかける様々な成長段階の胎児の写真は、それを見る者に胎児が人間であることを確信させる
- 胎児の画像を見せながら「赤ちゃん」「お腹の中の子」などと呼ぶことで、
- 胎児は、受胎の瞬間から完全に人間であるのだから妊娠を終わらせることはいかなる場合も殺人行為であり、そんなことをする母親は非難されるべきだといった信念が支持されるようになる
- このレトリックの解釈を受け入れると、かつて一般的だった見方とはまるで違う中絶観に至ることになる
- 明らかに、胎児中心主義は胎児写真、エコーといった医療技術に大いに依存している
- だが、医療技術が提供する胎児像を文化に照らして解釈することと、胎児を物神化することは、別々の現象である
- 水子供養では、胎児中心主義的レトリックが選択的に当てはめられる
- 通常、若い女性たちに母性イデオロギーを振りかざし、彼女たちの生殖を目的としない性生活をスティグマ化する
- その一方で、相手の男性は非難せず、既婚女性より独身女性の不道徳性を強く非難する
- そうすることで、若い独身女性たちに怒れる胎児の供養に金をつぎ込むよう仕向けているのである
- だが、水子供養の依頼者は決して若い女性だけではないし、必ずしも祟りを恐れているわけでもない
- むしろ、何十年も前の中絶のために供養を行おうとする女性たちは、多くの場合、他に選択肢がない状況のなかで自分が責任を果たしたことの証を求めているのである
- 宗教側がこうした供養を「宣伝」したり勧めたりしていなくても、年配の女性信者は、常々頼みにしている宗教が水子供養をしてくれるのが当たり前だと考える
- 福島県いわき市遠野町のケース
- 地元の石材店と区長の脅迫的な寄付の要請によって、水子供養の霊場が作られた
- しかし、地域の人が誰もお参りしないどころか、霊場を作るために壊された古い洞窟の霊に祟られるかもと恐れられていた
- この霊場がどうにか続いているのは、バス会社によって何処からか運び込まれてくる感傷的な中年の主婦たちが関心を寄せているためである
- この場所がでっち上げられたものだという男性の話に対して、その女性の一人が口を出した
- 「歴史は作るもんだから」
- たとえこの場所が人為的なものだとしても、自分の信心の妨げには全くならないということである
- 言い換えれば、彼女は水子に対する自分の新人に由来する自分の信心に由来する感情や行動それ自体を高く評価しており、この場所ができたいきさつによってその価値が損なわれるとは思ってないのである
- 「冷たい男と馬鹿な女」:中絶をめぐる日本の言説がこれに回収されると著者が主張するステレオタイプ
- 男性の責任を無視し、中絶は未婚の男女間に起きることだとするものだという
- 多くの人々が、こうしたイメージを否定したいがために水子供養を利用しているのである
- 人々は、過去の中絶について、自分たちが無情でも冷酷でもなかったことを証明したいという欲望に駆られている
- 水子という言葉は、どんな宗教の経典にも出てこないし、前近代の日本では限られた意味しかもっていなかった
- 実質的に、水子という言葉が意味するものの中には、中絶や流産や死産に関わった胎児の霊魂が含まれるばかりか、産まれたばかりの赤ん坊や乳幼児の魂までも含まれることがある
- 「水子が祟る」という観念は、1970年代まではほとんど見られない
- 日本の歴史において長い間中絶された胎児は、すぐに転生するものとされていた
- 現代日本の水子供養の状況から示唆されるのは、胎児中心主義的レトリックは大多数の人びとに拒絶されており、それは宗教界でも同様だということ
- 同時に、水子供養が依存している運命論や女性差別、脅しのために使われる胎児の呪術的イメージも嫌悪されており、スティグマを与えたり非難したりするために宗教を利用するのも否定されていることである
- この結論からさらに示唆されるのは、日本の宗教界における悲観主義や宿命論が、より発展的で楽観的な見方に置き換わる日が来る可能性もあるということである
電子化×
水子 〈中絶〉をめぐる日本文化の底流 ウィリアム・R・ラフルーア
- 日本の中絶にまつわる文化と思想を、アメリカ人が研究し故郷に紹介している本(解説から読むのがオススメ)
- 著者は、水子供養や中絶に対して同情的
- 特に、幕府や日本政府が、自分たちが税金を得るために(食糧事情を無視して)中絶を禁止し多産を強いてきたことを批判するなど、その視点は女性たちや庶民にかなり同情的である
- 彼は、日本仏教のあいまいで矛盾して見える対応の中に、『道徳的ブリコラージュ』=アメリカから失われた、思想対立より社会的紐帯を重視するプラグマティズムがあると解釈し、そこに希望を見出している
- また、中絶非難への反論もしており
- 西欧では捨て子が多く行われていたし、神義論の面を持つマルサス人口論では、災厄を神による人口調整だとして歓迎していた、とその選民主義を皮肉りながら対比している
→扉の向こうのエントラグイシュ、闇に葬られたマラードの子、廃棄実験体だったマラード、虐待児童であり血族の庇護を受けられなかった/一種の見捨てられた子であったアレッテ?
- 西欧では捨て子が多く行われていたし、神義論の面を持つマルサス人口論では、災厄を神による人口調整だとして歓迎していた、とその選民主義を皮肉りながら対比している
- 「間引き」の類比概念が日本に独自であることや、逆にアメリカでは「魂がいつ胎児に宿るか」が中絶で問題になるなど、指摘されている文化の違いも興味深い
- 筆者の視点は、皮肉っぽくもあるがそれなりに中立的であり、日本全体の思想の多様性や、中絶をしなければならなかった親たちの事情にも配慮している
- 西洋では、中絶をめぐって社会が二分されるのに、なぜ日本ではそうした意見の対立が起こらないのか?
- なぜ、地蔵菩薩(子どもの代替の役目も果たす)の傍らには風車が立てられるのか、去る者は「日々に疎し」ではないと、祈祷者は詠唱するのか
- 胎児の「この世」の兄弟姉妹たちを霊園に連れて行って紹介するのはなぜか、映画「E.T.」を一緒に見に行こうとお墓に向かって話しかけさえするのは、なぜか?
- 水子供養は、親が中絶をすることと、人間的で思いやりのある存在だという自画像を保つことと、その両方を可能にしてくれるのだ
- この供養によって、日本人は中絶を無条件に禁じるか、それとも単に不活性な物質として胎児を処理するか、の二択に縛られなくてすむのである
→扉の向こうのエントラグイシュ
- この供養によって、日本人は中絶を無条件に禁じるか、それとも単に不活性な物質として胎児を処理するか、の二択に縛られなくてすむのである
- 儀式のなかでも特に罪と謝罪の儀式とは、何が起ころうとも、人が「そうありたいと願う人物像がいまだ無傷のまま残っている」という感覚を確証してくれる形式なのだ
- いうならば、儀式は人々に能動的な反応を引き起こし、人々を「演じる」のだ
→四章「断章編」
- いうならば、儀式は人々に能動的な反応を引き起こし、人々を「演じる」のだ
- 実のところ儀式は自己反省的なものであり、儀式のなかにいることは、すでに仁のうちにいることを意味している
→再帰的? - 私たちが倫理的思考と呼ぶものは、たいてい「使えるかぎりのがらくたを寄せ集めて」作られた道徳的ブリコラージュである
→サイバーカラテ? - 人口過剰の危機が迫りつつある今、日本の水子供養に西洋社会は学ばなければならないだろう
電子化×
ミソジニー漫画 つらすぎて転職したけど、イライラはなくならなかった ふゆこ
身の下相談にお答えします 上野千鶴子
- フェミニスト社会学者が新聞で連載していた人生相談の本
- 過程や恋愛の問題だけでなく、男女両性の性欲が強すぎる悩みにまで答えている
- (青年は、熟女に土下座して筆おろししてもらいなさい、という解答はちょっとあれだけど)
- どんな問題でもはっきりさっぱりと回答し、相談者のエゴをさらりといなすその明快な語り口が魅力的
- 「母が嫌いです」「自殺は本当にいけないですか」
- 「自分は母親のコピーロボットのようだ」また逆に「有能で美しい母と体を交換したい」といったヘビーな悩みにも、しっかりと答えを返している
- 続編も出ている
電子化◯
メイキング・ラヴ リチャード・ローズ
- 一人の作家が、自らの性的遍歴を赤裸々に書いた本
- こういった本は意外と無いらしい
- 筆者は、この本を通じて、セックスの素晴らしさや真の価値を明らかにしつつ、人々が生き延びていく助けともなるその技巧をみんなで分かち合おうとしている
- オナニー賛美や男性のオーガズム、少年期の同性同士の刺激しあいなどが書かれていることもあり、貴重な文献
- 継母による仕打ちからオーガズムにこだわるようになり、オーガズムを引き伸ばすハウツー本の出版までした筆者が、やがてそのこだわりを捨てるまでの成長記でもある
- 『ブリタニカ百科事典』の古典彫刻や『ナショナル・ジオグラフィック』の土着民女性の絵などでオナニーした経験
- 検閲は、これまでも功を奏したことがなかったし、これからも決してそうなることはない
- ポルノグラフィは女性たちを冒涜したりはしていないし、強姦を促したりもしていない
- 非情で悪徳にまみれた私たちの社会にモラルをもたらすべく手渡されたものを打ちのめしてしまうかもしれないとしても
- (ポルノグラフィは)ふつうの男たちと女たちが、世界中いたるところで、一緒に何をしているかを明らかにしているだけだ
- オーガズムに達している女性は私のマイクロドットであり、オーガズムによる開放に取り憑かれているわたしの妄念の中心そのものだからだ
- 誰かといっしょにであろうと、たったひとりであろうと、セックスはわたしたちを自分たち自身の体の中へと回帰させてくれる
モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究 編著:ぼくらの非モテ研究会
- 「非モテ」に悩むヒトたちの語りあいグループ(主に男性だが、毎回メンバーは募集されて変わる)の実態と、そこで発見された数々の研究成果をまとめている本
- セブルス・スネイプにからめた不器用さの研究や自己破滅願望、モテで人生のあらゆる問題を解決しようと過大な期待をかける「一発逆転」
など、多くの真剣な研究が楽しく繰り広げられている - 非モテ研には、三つの要素があり、その前提として「語りを聞き届けられる」という場の性質がある
- 三つの要素=メンバーの「同質性」、特定のゴールを設定しないことから生じている既存の意味に対する「相対化」、被害経験の競い合いなどを防ぐ研究者としての「共同性」
- 明確な方向性を持たず、要領を得ない「うねうね語り」
- それがほかのメンバーの記憶を刺激して新しい語りを呼び覚まし、ときに親からの抑圧やいじめなど(それまで隠されていた)新しい話題へとつながっていく
- ストーキングや頑張って人をバカにしてしまうなどの加害性の問題や、集団内部におけるトラブルの振り返りなども行われているのが、特に素晴らしい
- 「意味の拘束」:意味へのこだわりや「何か」を得なければと言う強迫観念で苦しんでしまう
- もしも男性たちが、自身を完全にコントロールしなければならないという強迫観念に駆られ、効率的なレポートトークに染まってしまえば、感情の揺れや悩み、迷いといった不安定な内面性は封じ込められることになる
- 自分の感情も含めて体験を言葉にすることで自己理解を深めたり、誰かと深い関わりを築いたりすることからも結果的に遠のいてしまう
- 男性は自らの痛みや不安、困難を語らない/語れないという指摘
- 教育の影響、弱さを見せ「男らしくない」と見なされたら、集団のなかで周辺に追いやられてしまう
- 実は非モテ男性は、自分の劣等感を埋めるために相手を利用し、傷つけるほど執着することにためらいや罪悪感を感じている
- しかし自己のなかで強固に構築されたパターンは、本人さえもコントロールできなくなってしまう
- 「非モテ」とは、疎外感や被害体験から始まり、それを補うように女性に執着し、
- その行為の罪悪感と拒否された挫折からさらなる自己否定を深めていくという、様々な出来事と感情が折り重なった現象
- 決して「モテない」という一要因から起こっているわけではない
- 男性は痛みや不安を語りにくい
- 倫理的に逸脱した行為をとった者を徹底的に叩く近年の風潮が、さらに語りにくくしている
- 同じ方向を向きながら共有体験を重ねる仲間関係によって、「非モテ」男性の苦しみは和らぎ、新たな対人関係のあり方が開かれる
- ただ表面的な正義を押し付けて反省と自己否定をうながしても加害はなくならない
- 重要なのは、自分で自身の経験をひもときながら、なぜ加害行為をしたのかその要因を探ることと、
- 加害につながりうる欲望をどのように非暴力的な方向に表出させるかと考えることだろう
- 男性たちには、ダークサイドに向き合うための余地が必要なのだ
- こうした問題意識から、非モテ研は自分たちが「少し怪しい」集団であることを意識しながら活動している
- まじめで清潔ではない空間だからこそ、参加者は安心して自身のダークサイドを語り、行動を見直すことができる
- よく笑いが起きるが真剣な場だから可能な「失敗の再解釈
- ネガティブに考えていたものが、「非モテ用語辞典」のように概念を作ることで、新しい価値というか面白いものに変わっていく
- 「新たに発見する」それが非モテ研の楽しさ
- 妄想というシミュレーションシステムは、本人の意志とは無関係に始まってしまう
- 妄想は妄想として語られることを求めている
- あるいは、妄想として笑われることを
- 笑ってもらえることで自己肥大化せず、面白さという価値として昇華される
- 笑いという許しが必要なのだ
- 非モテ研の本質は、悩みに向き合うことと、男性として生きる経験を言葉にしていくこと
- 具体的なエピソード、男性の個別的な経験を伴わないような、抽象的な問題提起ではダメ
- 「男は」「男だって」から語りだすと、自分の苦痛や不安の原因を見失ってしまう恐れがある
電子化◯
- 「男は」「男だって」から語りだすと、自分の苦痛や不安の原因を見失ってしまう恐れがある