推薦図書/小説
- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
- 最下部のコメントボックスで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
- ほんの少しでも推薦図書に見えたのならそれが推薦図書です(邪視)。追加しましょう。五十音順に並んでいます。
- 編集カラテ入門
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*** タイトル
-説明1
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- 推薦図書/小説
- アステカ神話
- イスラーム神話
- インド神話-仏教
- カシュラム通信
- ギリシア・ローマ神話
- クトゥルー神話
- ケルト
- 聖書
- 中国神話
- 日本神話
- 北欧神話
- ユダヤ教
- ゆらぎの神話
- その他神話の資料など
- アジアの聖と賤 被差別民の歴史と文化 野間宏 沖浦和光
- アジア女神大全 吉田敦彦 松村一男
- アフリカ女性の民族誌 伝統と近代化のはざまで 編著:和田正平
- 老いと踊り 編著:中島那奈子 外山紀久子
- イエス・キリストの謎と正体 斎藤忠
- イメージの記憶(かげ) 危機のしるし 田中純
- 女のキリスト教史 「もう一つのフェミニズム」の系譜 竹下節子
- カインのポリティック ルネ・ジラールとの対話 ルネ・ジラール/ドメーニカ・マッツ他著
- 肩から炎、足もとからジェット水流を放つ仏 石井公成
- 金枝篇 サー・ジェームズ・ジョージ・フレイザー
- 虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか ロジェ=ポル・ドロワ
- 空と中観 シリーズ大乗仏教6 監修:高崎直道
- ケガレ 波平恵美子
- 穢と大祓 増補版 山本幸司
- 穢れと聖性 井本英一
- ケガレとしての花嫁 異界交流論序説 近藤直也
- ケガレの文化史 物語・ジェンダー・儀礼 編:服藤早苗 小嶋菜温子 増尾伸一郎 戸川点
- 古代ギリシャ研究家と見る『FGO』の英雄たち ゲームさんぽ/ライブドアニュース
- 古ヨーロッパの神々 マリヤギンブタス
- 「自殺志願者」でも 立ち直れる 藤藪庸一
- 死と来世の系譜 編:ヒロシ・オオバヤシ
- 神話と人間 ロジェ・カイヨワ
- 神話に見る愛のかたち ヴェレーナ・カースト
- 太古、ブスは女神だった 大塚ひかり
- 乳と蜜の流れる国 フェミニズム神学の展望 E・モルトマン=ヴェンデル
- 道徳とその外部 神話の解釈学 笹澤豊
- 「排除と包摂」の社会学的研究 差別問題における自我・アイデンティティ 八木 晃介
- 「バカダークファンタジー」としての聖書入門 架神恭介
- 般若心経は間違い? アルボムッレ・スマナサーラ
- 反ユダヤ主義の歴史 レオン・ポリアコフ
- 一つ目小僧と瓢箪 性と犠牲のフォークロア 飯島 吉晴
- 人はなぜ神を創り出すのか ヴァルター・ブルケルト
- ヒルコ 棄てられた謎の神 戸矢学
- ファロスの神話 アラン・ダニエルー
- 不死と性の神話 吉田敦彦
- 双子と分身 <対なるもの>の神話 ジョン・ラッシュ
- なぜ神々は人間をつくったのか ミネケ・シッパー
- 女神 聖と性の人類学 田中雅一:編
- 山姥たちの物語 女性の原型と語りなおし 編:水田宗子 北田幸恵
- 維摩経
- ユダ イエスを裏切った男 利倉隆
- ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ 荒井 献
- ユダの謎解き ウィリアム・クラッセン
- ユダよ、帰れ コロナの時代に聖書を読む 奥田知志
- 鷲と蛇 シンボルとしての動物 マンフレート・ルルカー
- コメント
アステカ神話
- 神のような生活を送ったテスカトリポカの祭祀、太陽への生贄で有名
→アリス・インカレイドスピア/ペンデュラムなど - 世界が今までに5回異なる神に創造され、4回滅びたという創造神話を持つ
→世界一方向進行仮説?
イスラーム神話
- イスラーム以前の「無明時代」(ジャーヒリーヤ)には、最高神アッラーフには、アッラート、アリラトマナート、アル・ウッザーの三人の娘がいたとされている
→一神教の成立と共に『忘却』された女神たちは、キュトスの姉妹っぽいかも?
Wikipedia>アッラート
Wikipedia>星 (クルアーン)
Wikipedia>アッラーフ
インド神話-仏教
- トリシューラの名前の元ネタ。トリシューラがよく参照する。
- アスラ
- カーリー
- パールヴァティ
- ガネーシャ(アキラくん)
- 仏国土という、別宇宙、一種の異世界概念が存在する
- 【瑠璃光の薬師】ベル・ペリグランティアが参照している薬師瑠璃光如来も、浄瑠璃浄土(東方浄土)を教化している異世界担当の仏
- 転生も元々はインドに由来する概念である
- 弥勒菩薩"五十六億七千万年後に来たる救世トリクルダウン。"
- ジャータカ。後付前世ストーリー。
- 転生しながら、修行の成果を来世に持ち越していったから、ブッダは悟ることが出来たという箔付けの話。
- 他力:「他力本願」浄土宗や浄土真宗では、人任せのことではなく、阿弥陀如来にすがってこそ成仏出来るという意味。
- つまり、悟りは外力と言えるのかもしれない。
- 宗教が、外部から教えられるものだということは、べつに仏教に限らないが。
- もう完全に日本宗教だけど、「悪人」としての自覚を推奨する浄土真宗の「悪人正機」は、アキラくんやトリシューラの露悪的な姿勢と関係あるかも?
- 友愛の神ミトラと羂索で全てを捕縛するヴァルナ、一組の法の神
→ハルベルトとアズーリア? - インドの神々を「天」として、仏の配下やそれ以下の階級の扱いで取り入れたりもしている
- また、同じくインド神に由来する密教の明王は「正義の怒り」をもって悪魔を調伏したり、仏教を信じていない民衆に信じさせたりする神格である
→百億の怒り?
- また、同じくインド神に由来する密教の明王は「正義の怒り」をもって悪魔を調伏したり、仏教を信じていない民衆に信じさせたりする神格である
カシュラム通信
- https://twitter.com/breasvha
- カシュラムの知識を得るには、最高の資料である。言うまでも無く、どれだけ知識を得ても、ブレイスヴァが頭ごと喰らっていくのだが。ああブレイスヴァ、ブレイスヴァ
ギリシア・ローマ神話
- コルセスカとルウテトがよく参照する
- アインノーラとミノタウロス、第一層とクノッソスの迷宮
- 秋に死んで春に蘇るペルセフォネやアドーニスは、品森晶作品に関係が深そう
- 後者はアプロディーテーとペルセフォネに取り合いされるし
- ただし、アドーニスは美少年だから、シナモリアキラとイメージはかけ離れているかもしれない
クトゥルー神話
- カシュラム周りとか
- (どれを原作として挙げるか迷うけど)
- 奉仕種族
ケルト
- なんだかよくわからないそれっぽいもの
聖書
- オルヴァや大神院などがよく参照する。
- 多様な解釈が存在しているし、世界で一番二次創作されている書物かもしれない。
- 「二人の負債者のたとえ」(ルカ7:36-50)「銀貨をなくした女のたとえ」(ルカ15:8-10)ブドウ園の労働者のたとえ(マタイ 20:8‐16)皇帝のものは皇帝に(マタイ22:15-22ほか)など、お金や価値の話もかなり多い
- =>アリュージョニストの聖書ネタまとめ
中国神話
- 3-4 天の鴉と月の兎は三足烏と月兎から
- 道教
- 紀仙
- 衆目の中で天上に昇って仙人になる「白日昇天」やモノを残して死体が消失する「尸解仙」など、仙人は転生者や紀人ぽい
- 人の体内にいる神々や宇宙にいる神々をイメージする「存思(そんし)」という高度な瞑想など、新しい九姉義肢が解禁されるたびに内的宇宙を垣間見るアキラくんとシューラに似てるかもしれない
日本神話
- イクタチ
- カグツチ(生まれた時に母親を焼き殺す)
- クシナダヒメ
- ヤマタノオロチ
日本書紀
- 当麻蹴速、相撲取りの始祖
- 雄略天皇十三年九月条に、采女に相撲を取らせた記事があるという
Wikipedia>女相撲 - ルウテトに対するミヒトネッセの呪的逃走
古事記 口述:稗田阿礼 撰録・編集:太安万侶
- 天皇家の王家神授説を説明している本でもある
→外力? - ヤマタノオロチの水害・河川説
→四章・アレッテ塔の内部の謎の川 - 天照大御神の天岩戸の神隠れ
→四章・地下アイドル迷宮編? - うずめ
北欧神話
- 獣の皮を着た者とか
ユダヤ教
ゆらぎの神話
その他神話の資料など
アジアの聖と賤 被差別民の歴史と文化 野間宏 沖浦和光
- 『朝日ジャーナル』に連載された報告・討議をまとめた文庫本(連載は1982年)
- インド、中国、朝鮮そして日本における被差別階級を、歴史や文化を通して解説し、
- 差別に対抗しようとしている部落差別反対運動系の本
- この本一冊だけで、アジアの被差別民の状況を広く見渡すことが出来る
- インド・ヒンズー教の「浄穢」、中国律令制の「貴賤」が、いかに日本の被差別民形成に影響しているかを探れるのは、こうした試みがあってこそだろう
- ただ、文庫本の解説では、その歴史観などは不正確だと批判されてもいる
- とはいえ、それでも直接現地を取材して得た情報などが貴重であることには変わりはない
- 抜粋・要約
- 出産、性交、排泄行為、経血、死ーーこれらは猥雑で他人からのぞき見られたくないものですが、どうしようもない根源的な生命現象です
- 本当はケガレでも何でもなく、生命の再生産のための必要事ですよね
- われわれが生きてゆくためには欠くことのできない自然的な生の営みである……
- だれが、何を、ケガレとして認定するかという問題は、いつの時代でも権力者の顕現に属している
- プリミティブな感情と宗教的に烙印を押された「ケガレ」感覚は違う
- あとがき
- ヨーロッパ文明中心の一元的な進歩主義史観の批判
- 被差別民の生み出した文化こそ、既成の中心的秩序をゆるがす豊穣な闇の世界であり、
- 新たなる混沌を予示する終焉の世界であったと言えよう
- 人間の歴史や文化は、名もなき多くの民衆の手によってつくられてきたという事実を明らかにしていくこと、
- 自分たちの祖先が賤民であったことを堂々と胸をはって誇りをもって言える時代がくることーーそのような新しい時代をすべての民衆の手によって実現していく過程こそ、
- 真の意味での解放への思想的基点となるのである
- 解説:塩見鮮一浪
- あと一歩、賤民の本質に迫れないでいるのは、
- 制度外に置かれても他身分と関係する制度として把握ができなかったからだ
- 社会の枠の外に位置付けられても、生活していくためには内部社会の仕組みにつながるほかはない
電子化×
アジア女神大全 吉田敦彦 松村一男
- アジアの女神を扱った百科事典的な本
- 残念なことに、東南アジアに関してはインドネシアに触れられているだけである
- その代わり、シベリアやモンゴルといった北方アジア、イスラーム以前のアラブなどはカバーされている
- 日本の女神の項目が、新羅から渡ってきた太陽の女神「阿加流比売神」(あかるひめのかみ)から始まることから分かるように、
- その編纂内容は、国際的なつながりや影響関係を重視したものであり、
- 別の言い方をすると左派系の思想的影響下にある
- また、論考も充実しており、『もののけ姫』を扱ったものもあって親しみやすい
- 中でも、「王権を授ける女神とスヴァヤンヴァラ神話」では、
- 一夜をともにした老婆が王権を授けるケルト神話「エリーンの王権」と、
- インドの叙事詩神話で語られる、王族の娘が自ら夫を選ぶ儀式「スヴァヤンヴァラ」を結びつけ
- そこに王権を与える女神の姿を見出している
- 「スヴァヤンヴァラ」は、『マヌ法典』に定められた8つの結婚形態に含まれない9番目の結婚形態であるし、
- かなりアを思わせる要素だと言えるのではないだろうか?
→トリシューラとシナモリアキラ?(ただし立場は逆)
電子化×
- 中でも、「王権を授ける女神とスヴァヤンヴァラ神話」では、
アフリカ女性の民族誌 伝統と近代化のはざまで 編著:和田正平
老いと踊り 編著:中島那奈子 外山紀久子
- 「日本の神話と儀礼における翁童身体と舞踏」などの日本神話の話や、日本神話/神道における老いについての論考がある
→推薦図書/思想を参照のこと
イエス・キリストの謎と正体 斎藤忠
- 様々なイエス像・イエス解釈を集めたイエス雑学本
- 刊行が1995年と古いが、各種資料からの推測・イエスの物語の元型とみなされる伝承から、主要な異端、共産主義、心理学者やヒッピーに至るまで、さまざまな人間が時代とともに積み重ねてきたさまざまな解釈を集めている
- 霊の詩人、ニヒルな逆説的反抗者、神話的偶像、武力革命家、犬儒派哲学者、何も出来ない永遠の同伴者、開放者などそのイメージは本当に多様
- 本格的な研究書としては『イエス研究史』や『イエス像の二千年』などがあるが、イエス像の種類はこの本が一番多いし、素人がわかりやすく読みやすいのもこの本が一番だと思われる
電子化×
イメージの記憶(かげ) 危機のしるし 田中純
- 芸術論ではあるが、神話の話もたびたび出てくる
- 像なるものの起源へと遡行する想像力の話
- 岡田温司は絵画の「根源(アルケー}」としての「影」、「痕跡」、「水鏡」について論じている
- この三者はそれぞれ、戦地に赴く恋人の影の輪郭をなぞる行為から絵画が生まれたという神話、
- トリノの聖骸布やヴェロニカの布、そしてナルキッソスの神話を参照している
- 根源とは、歴史的な起源ではなく。「存在論的なものと歴史的なものを、共時態と通時態を切り結んでいる」何ものか
- 3つの神話が示すのは、そんな根源としてのイメージであり、イメージとしての根源である
→『紀』?
- 岡田温司は絵画の「根源(アルケー}」としての「影」、「痕跡」、「水鏡」について論じている
- 死の女神としての家「三匹の子ブタ」異聞
- 三択はフロイトの論考「小箱選びのモチーフ」を連想させる
- それは、「パリスの審判」のように西洋の神話や物語に繰り返し登場してきた「三人の女声から誰を選ぶか」というテーマ
- そこで選択されるのは、美しく善良で、もっとも年若い女性
- 沈黙したり人目から隠れるその性格は、夢において死を暗示する
- すなわち、三番目の女とは死んだ女、ひいては死の女神なのだ
- 『三匹の子ブタ』『三羽のガチョウ』どちらにおいても、三つの選択肢の本質は家そのもの
- 不在の父でありオオカミでもある男は、母体としての家を造る手助けをする一方でそれらをみずから破壊してガチョウやブタを貪り食い、
- もっとも堅固な家、すなわち死の女神を同様にわがものにしようとして、無意識の願望通りに、その女神に呑み込まれて死ぬ
- あるいは、家が娘の象徴であるとすれば、これはもっとも成熟した母体を備えるに至った娘への近親相姦的な欲望の果てに、
- 「破壊者としての母」に変容した末娘に殺され食われることでその内部に迎え入れられるという、男性の性的妄想が描くプロセスの暗示
- 家は、神話的な原型としての太母なのかもしれない
- エーリッヒ・ノイマン『太母』
- 母神としての神聖なブタをめぐる信仰は古代世界に広く分布していた
- ブタは孕み産む「大地=子宮」としての女性の象徴
→ルウテト
- デメテルの祭典テスモフォリア祭では、「大地の子宮」としての供犠坑に生きた子ブタたちが投げ込まれた
- 古代ギリシアで「子ぶた」という単語は隠語として女性器を意味していた
- 大地の穴に投げ込まれる子ブタとは少女犠牲であり、ペルセフォネの道連れであるという
→四章断章編ヴァージルの話
- 母ブタは、子ブタたちをむさぼり食う
- 子ブタたちは幸運を求めて送り出されたと言うよりも、母ブタに食べられないために旅立ったのだ
→四章学園編クレイの試練
- 子ブタたちは幸運を求めて送り出されたと言うよりも、母ブタに食べられないために旅立ったのだ
- 第5章デミウルゴスのかたり
- 磯崎新の土星(サトゥルヌス)的仮面劇
- 異形の双面神(ヤヌス)
- サトゥルヌスとしてのデミウルゴス
- 義足の神サトゥルヌス
- 跛行をはじめとする歩行障害は一般に、一時的ないし恒久的な死者の世界との関係を意味している
- シャーマン的存在であることの暗喩
- サトゥルヌスは農耕神であり、下層民や被差別民の神
- ドイツ農民戦争における叛徒の指導者も、サトゥルヌスのような義足姿で描かれた
- 玉座を追われて流浪漂白するデミウルゴスは、サトゥルヌスに近づいていく
その他も参照のこと
女のキリスト教史 「もう一つのフェミニズム」の系譜 竹下節子
- キリスト教における女性の扱われ方の歴史を解説している本
- また、それを源流とするフランスの「ギャラントリー」のフェミニズムをも称賛している
- 重要な役割を果たしたさまざまな女性たちや、聖母マリア信仰、キリスト教の女性的な側面、さらには魔女や魔術の扱われ方についても触れている
- キリスト教はそもそもの出発点において、徹底した「弱さと非暴力」に依って立っている
- 救世主イエスは、父のわからぬ子を引き受けた養父ヨセフに育まれ、既成権威から憎まれ、裏切られ、殺されるのだ
- 「区別」が権力勾配のあるところでは必ず「差別」となる、ということこそが問題なのだ
- 普遍宗教と呼ばれるものが目指したのは、そのような差別の解消だった
- キリスト教の場合は、それを「超越者との関係」のなかで実現しようとした
- 神なしの価値観や理念の共有だけでは、人の暴力衝動を抑制できない
- その価値観や理念を生んだ「人間」との有機的な関係性を維持できなければ、理念はただの言葉になる
- だから、「区別」を「差別」にさせない、共感の関係を育むことが出来る「場所」が必要なのだ--
- 「神」はそのような場所だった
- 「神」を介することなしには、「個人」と「個人」は、利害とテリトリーを異にする対立関係にある「他者」となってしまうからだ
- 「分断」を解消して統合を目指す「普遍主義」にも罠がある
- それは、「近代」がようやく共同体の縛りから解放した「個人」を再び無化する方向で使われることがあるからだ
- 「エクスタシス(脱我)」:麻薬やプロパガンダなどによって得られる一体感
- しかしそれは、それ自体では何も解決しないし、個の判断力・自己制御を奪うので、全体主義や独裁者に洗脳の手段として使われてきた
- これとは逆に「個」が「個」として参入する「エンスタシス(入我)」がある
- 「一体になる」のではなく、「全員が他者・隣人である場所に参入する」こと=「他者と出会う」こと
- そのためには、他者との出会いと共感を可能にする「場」の介在がどうしても必要なのだ
- その「場」というのは開かれたものであり、キリスト教で言うなら「聖霊」がつなげてくれる場所ということになる
- 近代文明の弊害
- 普遍化や絶対化を掲げる「人」が、ナルシスティックに自分を「神格化」していった
- 中性的でのっぺりとした「人」は、それまで「女」(「魔女」や「聖女」など)が担っていた「無意識」のフィードバック装置を失った
- 「自然」の征服へと向けられた父権的覇権主義は、「自然」の破壊や「人類」そのものへの自滅へ至りかねない
- テクノロジーがカネと結びついた時に新たな「偶像」が生み出された
- その融合がもたらす「全能感」は、まさに「悪魔」の定義とされていたものと重なる
- 全能感と偶像崇拝の世の中で、それについていけない弱者は困窮するか切り捨てられていく
- 「神」のない世界が、「すべての人が個々の違いに関わらず自由で平等で尊厳ある存在である」という普遍主義的命題の事実上の蹉跌に繋がったこと
- 神なき民主主義や個人主義下の「人権」においては、人々の「表現の自由」などの権利は保障される
- しかし、そのためにはいつもその権利の行使が「他者の自由を侵害しないかぎり」という但し書きがついてくる
- ここでは、「私」は「他者」とのパワーゲームによってしか、自由や平等や尊厳を生きることが出来ない
- 普遍化や絶対化を掲げる「人」が、ナルシスティックに自分を「神格化」していった
- そこから逃れて「私」が「私」のままで他者のなかに参入するには、両者が対等に出会える「互いを超える場所」が必要となる
- そこでは他者は私の自由の限界を決める敵ではなく、出会い、見つける存在である
- エンスタシスによって互いに他者を発見しあい、共感のなかで錬金術のように豊かな「自分」が形成される
- そこでは、すべての「違い」や「区別」は補完的なものとなる
- それなくしては互いを超える完全、感性、に至らないという意味での「補完」だ
- フェミニズムからフェミノロジー(女性学)へ
- フェミニズム:男は対立者
- フェミノロジー:人類学・人文科学の補完
- 男性という「人」によって「財産」として交換されたり所有されたりしてきた女性が、本当の意味での「個人」となるには、やはり「神格」のダイナミズムに参加する必要があった
- 神が人と交わる世界では、聖女たちへの崇敬、修道女としてリーダーシップを発揮するへの畏敬、そして魔女や悪魔憑きの女達への畏怖がうずまきながら続いてきた
- 欲望を「文化」に変える男と女の協働は、そのような世界に生まれ、養われる
- 神は、フェミニストでは、ない
- ピューリタン的なアングロサクソン由来のフェミニズムへの批判
- フランスでは、なぜかセクハラ告発の嵐が全ての男性に降りかかることのないように、女性の方が持ってやるという流れが確実に存在する
- ラテン系の騎士道文学→フランス宮廷のギャラントリー文化:女性を仰ぎ見て理想化し貴婦人を喜ばせて、社会的な承認と出世の鍵を得る、宮廷のゲーム
- フランスのフェミニズムは、多様な個々の人間が、権利において平等であることを目指すもの
- 弱者の優遇や、特定のグループ同士が「同等」であるように統計的に是正することを目的としない
- 女性の被る差別をなくすためには「平等であるべき人間の同類」である男性も共に行動を起こす必要があるのだ
- フランスのフェミニズムも良いことばかりではないことについては、プラド夏樹『フランス人の性』などを参照のこと
カインのポリティック ルネ・ジラールとの対話 ルネ・ジラール/ドメーニカ・マッツ他著
- 「欲望は他者の模倣によって生じる」という説を提唱したジラールなど、八人の研究家がカインの神話を分析し、
- それを通じて、現代世界の混迷から抜け出す方法を模索している本
- 法政大学出版局の叢書・ウニベルシタスというシリーズの一冊でもある
- 言ってみれば、資料的な根拠はあまりないような、独自の解釈の集合体ではあるが、
- それはそれで、カインの神話について考察する参考にはなる
- 樹木のイメージ、『蝿の王』、そして精神分析的な解釈、ゲットー住人が生贄の羊になる理由、暴力、模倣と価値と、アと関わりのあるテーマも多い
- ただ、引用された原典を素直に読んだだけでは読み取ることができない「神の愛が彼(カイン)見捨てることはないという証拠」があるとしていたり、
- 9・11の同時多発テロへの言及が序文しかなされていなかったりと、
- それらの解釈には、西洋世界の願望や限界が多分に含まれているようだ
- 特に、同時多発テロを引き起こしたアルカイダは、アメリカの援助と干渉、
- そして、イスラム圏より圧倒的に豊かな彼の国(欧米文明)への嫉妬によって育てられた、とも解釈できる組織であるため(要出典)
- そのミメーシス的欲望の面からの分析がきちんと行われていないのは、現代社会のための分析としては、不充分と言わざるを得ない
- あるいは、不可欠であるべきだったのは、カインだけでなくアベルの分析、
- 模倣と競争によって暴力に駆られた兄だけではなく、劣位に位置づけられた兄の苦しみを見過ごし、
- その犠牲の上で得られた優位のメリットを体制の庇護の下ぬくぬくと得て、知らず知らずのうちに傲慢に振る舞っていた疑惑がある、
- 弟の方の、そしてそうした体制で兄弟を競わせた「神」本人の分析こそが、必要だったのかもしれない
電子化×
肩から炎、足もとからジェット水流を放つ仏 石井公成
- トイ人の連載「仏教のヨコ道ウラ話」第14回
- イラン系民族やインドに由来するとされる仏教説話「双神変」について
- 古代イランなどでは、火と水は対として考えられ、それが後の時代になって釈迦の奇跡描写に反映された
→幻想参照姉妹の力を同時に使うシナモリアキラ?
リンク
金枝篇 サー・ジェームズ・ジョージ・フレイザー
- 類感呪術と感染呪術という分類の創始。
- この本で扱ってる話は「不死なる女神の伴侶である死せる男神、その殺害と復活と聖婚」。アリュージョニストだ。
- アネモネの花は、死せる神アドニスの血の象徴とかそういう話も出てくる。
虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか ロジェ=ポル・ドロワ
- 西欧における「仏教の誤解された受容」の歴史を追うことで、今も残る先入観を自覚してそれをすり抜けたり、互いに誤解の過去を学び合える時代を招き寄せよう、としている本
- ただ、ショーペンハウアーの思想があまり解説されずに出てきたりと、その内容は少し読みにくい
- ただ概要と結論を知るだけなら、序文と解説を読むだけで十分だと思われる
- 更に、ナチスにつながるような、人種差別的で西欧人バンザイな思想まで出てきたりもする
- まあ、さまざまな点で(人種差別論では偶像崇拝を非難しているが、実際には主流のキリスト教徒たちは、かなり神や聖母子の像を崇拝しているなど)あまりに実像と乖離しているので、その持ち上げはかなり強引なものであることはすぐに分かるのだが
- わざわざ自分たちを侵害しようとする「邪悪な劣等宗教・劣等人種」を捏造せねばならなかったほど、当時の西欧人は自信を喪失し、自らの内に「虚無」を感じていたのだろう
- まあ、さまざまな点で(人種差別論では偶像崇拝を非難しているが、実際には主流のキリスト教徒たちは、かなり神や聖母子の像を崇拝しているなど)あまりに実像と乖離しているので、その持ち上げはかなり強引なものであることはすぐに分かるのだが
- 曜日名との偶然の一致から、ブッダがメルクリウスと同一視されていたりと、西欧の誤解はかなり実像と乖離していた
- そこには、自分たちとは違う他者を単一の存在だとみなすことしか出来ないような、認識能力の不足もあったが、
- 何より、自分たちの内部にある危機の存在を否定し、それを他者に投影しているような面もあったようだ
- 著者は、それを「ニヒリズムの秘密の実験室」と形容している
- 結局、恐れられた「虚無」とは、近代になってさまざまな限界を迎えていた西欧が、他者を媒介にして見つけ出した自分自身の鏡像でしかなかったのだろう
- そしてまた、現代もこの本の筆者や解説者は、西欧の「虚無」の中に二十世紀の人種差別と大量虐殺や、911以降のイスラームに対する恐怖を見出していたりもするのだ
- 三つのニヒリズム
- 1 形而上学的な意味:純粋な「存在者」と虚無の同一性
- 1-1 世界を形作るさまざまなイメージの外観ときらびやかな様相の背後には虚無があるだけである
- 1-2 わたしたちが生きなければならない個別の有限な出来事を超えた向こうには、いかなる特性ももたない絶対者、純粋な存在、無限のみがある
- 2 生に対する積極的な拒否
- 生きようとする意志の否定、反出生主義
- だが、この思想は、対立者としての「楽観的な生の肯定」の存在を認めざるを得ない、という限界もある
- 3複数の価値基準をもつ世界の存在
- 現世、つまり目に見えるような価値ある世界が実在しているかぎり、来世や真実という観念など現世を超越した価値は、虚無(ニヒル)な存在、つまり現世の余計者になってしまう
- この現実に超越的な法を課そうとしたり、あるいはありのままの世界に対してあるべき望ましい秩序を対置させるやいなや、そこにニヒリズムが存在するのだ
- 1 形而上学的な意味:純粋な「存在者」と虚無の同一性
- 「仏教」という言葉は、1820年ころの西欧で誕生した
- 「虚無の信仰」とは、仏教を「魂の消滅」を推奨する邪教として恐れる解釈
- その「虚無」の内容は時代によって多少変動するが、基本的に霊の否定として捉えられていたようだ
- キリスト教では復活のために魂の存在を想定するが、仏教はその魂の消滅を説くとされた
- つまりは永遠の消滅であり、それはキリスト教の宗教観にとって最悪だった
- また、西欧社会では、人権、あるいは人間の生命というものに絶対的な価値がおかれている
- そうした社会に生きる人間からみれば「涅槃」つまりは個人の死に究極的な価値をおく仏教は、人権を無視し、人間の生命を蹂躙する危険な宗教であるということになる
- そのため、仏教はひどく恐れられたのである
- ア関連では、フリードリヒ・シュレーゲルが絶対言語のような「神=自然」自身の言葉について語っている
- つまり、意味はかならずしも社会と歴史によって創られたものではなく、
- 特別な場合には、意味は(もの言わぬ狂った世界をすっぽりと包みこむ記号の編という)破れやすい約束事の体系を、超越したものである可能性もあるという説だ
- まあその説もまた、その名残があるのはインド語やドイツ語のような屈折言語であり、それ以外は不自然な劣った言語だという、人種差別的な結論に至っているのだが
- 近代を迎えたヨーロッパ社会は、それまでの社会のバックボーンであったキリスト教を否定せねばならなかったため、父殺しが求められた
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空と中観 シリーズ大乗仏教6 監修:高崎直道
- 『十二門論』
- ナーガールジュナ(龍樹)の没後、匿名の著者たちは、彼の著作『中論頌』の論理・論法を駆使していわゆる「龍樹文献群」を作成していったと考えられる
- 彼らは、たとえば『般若経』を契機に、その空観や菩薩観に依拠しつつ、匿名の著者たちが多種多様の大乗経典を生み出していったように、
- その論理・主張に依拠しつつ、自らが抱えている問題意識にナーガールジュナならどう対応するか、という立場で多様な「龍樹文献群」を作り出していったのである
→仮想の偉人・師匠のイメージによるシミュレート、二次創作?
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ケガレ 波平恵美子
- 日本文化において重要なキーワードである「ケガレ」を、日本人の信仰行為の背後にあるものを探るための視点、言い換えれば「切り口」として用いている研究書
- ケガレは複雑な概念であり、その実態は、まるで全く異なる内容に無理やり同じ名称をつけたようである
- そのため、一つの統一的な体系によってこれを理解することが難しい
- この本でも、複数の解釈が紹介されているが、そのどれもが正当性を感じさせながらもケガレ全体をカバーしきる事ができないでいる
- よって筆者はケガレを定義するのではなく、それを、俗に「非宗教的」だと思われている日本人の宗教性を明らかにするために、用いることにしているのである
- ただ、その研究範囲は限られており、結論らしい結論もない
- そのため、amazonのレビューでは批判の声もあるようだ
- 火にも水にも、人間に恵みと同時に災いをもたらすものである
- そのため、どちらも死と再生のシンボルとされる
- 妻の死をもたらしたカグツチを殺したイザナギの行為も、「制御された火」である刀で「制御されていない火」を抑え込むという意味があり、
- 文化(の極みである刀)によって、自然に対抗するということでもある
- タタラや鍛冶屋も、尊敬されるだけでなく、時にはケガレ視される
- それには、「過剰に制御されすぎる」ということもまたケガレとして扱われるという、宗教学で言う「儀礼的転換」の要素もあった
- タタラでは、死はケガレとはされず、女性や助成に関するケガレである月経や出産が忌まれる
- そこには、死は火の制御を助けるという信仰もあった
- しかし同時に、タタラや鍛冶の守護神は女神とされる
- もし、鍛冶やタタラの仕事が、女神と人間の男性との性行為と理解される場合、人間の女性は余計者であって、
- これが「女神が人間の女性に嫉妬するので」女性を嫌うという説明を生じていることになろう
- 守護神が女神とされることは、その行為は「女性原理」が導入されて初めて成功することを意味する
- 女性の祭祀者(タタラササゲ)が存在するのはこれを裏書きする
- しかし、それゆえにこそ、一般の人間の女性の存在は負の価値として働くのである
- いずれにしろ、鍛冶という仕事は二律背反的であり、矛盾を含むものであることが示されている
- 壱岐島においては農民と漁民にとって、それぞれに相手の領域は「異界」であった
- そしてお互いにとって相手は、一方では自分達が生産できない食料を供給してくれる有り難い存在であり、
- 同時に、自分達より劣位の、ある意味では「ケガレ」の存在としての認識を保っていた
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穢と大祓 増補版 山本幸司
- 日本の宮廷に残された記録を通して、穢(ケガレ)とそれを除去する大祓についてまとめた本
- 著者の専門であるギリシャの例も(参考にするには限界があると断りを入れながらも)比較対象として用いている
- 穢は観念による区別であり、主観的
- その定義は、地域や文化によって変わる
- また歴史的な変化もあるし、罰則などの規定も時代ごとに変わっていっている
- 聖別も神聖冒涜による穢も、人々から排除されるという点は同じ
- 被差別民は、飢餓で追われたり死体の処理をしていた人々の子孫、集まって住んだのが逆にそこに住むのが穢とされた?
- 秩序を乱すのが汚穢
- その汚穢を規定する共同社会の価値を象徴するものが、神
- 共同社会の秩序を乱すことは神への反逆であり、同時に神への神聖冒涜は共同社会の価値を侵すものであるとされた
- 神の意志は恣意的で分からない
- そこで人びとは「災いがあったということは、罪もあったはず」という推理によって、因果を遡って罪の存在を認定する
→四章断章編、ヒュールサスなど
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- そこで人びとは「災いがあったということは、罪もあったはず」という推理によって、因果を遡って罪の存在を認定する
穢れと聖性 井本英一
- 日本のイラン学者による、エッセイのような小話集め
- 日本と遠いオリエントやエジプトなどのつながりをうかがわせる呪術系の内容
- エピソードがやたらと多く、アと関連する興味深い話もたくさんあるが、
- 出典表記がなかったり、巻末に一覧や索引がなかったりするため、資料で真偽を確認しづらいのが難点
- オシリスの、そしてエジプト人全員のトーテム、特別な特徴をもつ聖牛アピス
- そのはねられた首は呪われた後、市場のギリシア商人に売られる
- 商人がいない場合は、ナイル川に捨て、その首に個人或いはエジプト全体の災いが転ずるように祈る
- 呪詛と祝福は、死と生、あの世とこの世のような別々の状態にあるものに向かって発せられる通告であった
- 呪詛、この世からあの世へ移動する者へ、祝福はその逆
- ギリシア人はエジプト人にとってあらゆるものがさかさまの、異境の人間だった
- 市は交易だけでなく、ときに邪霊祓除、処刑、祈雨、しぬびごとや儀礼の場などとしても機能した
- 市はどの共同体にも属さない、日常の生活領域とは異なった空間として認識されていた
- 歌垣も行われた
- 市場は固定したものではなく、都合によってその場所を移すことが容易であった
- 虹はこの世とあの世の境界にかかった橋
- 現実の世界では、川にかかった橋の両側のたもとに定期市が立つ
- 境界で開かれる市には、男女の市神がしばしば現れる
- 英国の5月1日(メイ・デー)に立てるメイ・ポールもヨーロッパの古い新年の市に立てた市神であろう
- ローマとエトルリアの境界、ソラクテ山のフェロニア女神の神殿では火渡りが行われ、市がたった(フレイザー『美男バルドル』Ⅱ、ロンドン、1914年、P14)
- 火や水は境界の存在で、これを渡ることによって原語も人種も全く別の二つの民族の通過儀礼が完了した
- 同時に、女神の神殿では物質の交換と聖婚がおこ合われた
- 銭と穢れ
- 乞食が銭を噛むのは、穢れを呑み込んで自分の健康を維持しようとする行為
- 王が他の患者のるいれきに当てた効果は、るいれきを癒やす効力を持つと考えられた
- バビロンの聖婚
- 女は銭を受け取って男の聖性に穢されたと思った
- ユダの銀貨
- 銭は神の恩物で、それを口にする者は神の聖性=穢性を身につけることになった
- 銭は糞とも関連付けられ、13,13世紀のゴシック建築には、金貨を排泄する像がみられる
→『杖』の資本主義、ひいてはグレンデルヒやトリシューラのトリックスター性?
- 死と再生の中間の汚物
- 源氏物語、嫌がらせで渡り廊下の板に糞尿を
- アヴェスタの「ヴェンディダード」、死体は糞尿をまいた床の上に安置する
- 境界である板を糞尿で汚す習慣が古来から?
- 死体に汚物はつきもの
- 栗本慎一郎『経済人類学』多くの社会において、死者はその墓に排泄物をたれられることによって崇拝された
- 韓国の説話、路傍にあった乙女の墓のそばで小便をしたら、「貴いものを「みせてもらったと言われて、何度も恩返しされた
- 神事を始める前にまず穢れを作った
- 源氏もその背後には聖性があり、死と再生の儀式の流れをくんでいる
→初登場時に徳川家康ムーブをしたアキラくん?
- 性交と穢れ
- イスラム以前の異境の神殿の中で性交することは、性交による穢れによって神を元気づけ再生させる行為だった
- イスラム教では、神の怒りに触れて男女が石化させられたと言われるように
- 古代日本では、大祓えのために、罪を集めた
- 親子婚や動物婚も、死と再生の儀礼の場でしか行わないタブーだった
- 死んだ仲哀天皇の種子が皇后の胎内に入るのが親子婚で表され、動物との性交はトーテムとの交会を表すのでこのような場でしか行われなかった
→ヴァージル?死に対抗する性(エロス)?
- 死んだ仲哀天皇の種子が皇后の胎内に入るのが親子婚で表され、動物との性交はトーテムとの交会を表すのでこのような場でしか行われなかった
- 柱立てと再生
- ファラオの再生のために新年に立てられるジェド柱、王を転生させる
- ヤコブの梯子、柱の後に神殿を建てる
- ソロモン神殿のヤキンとボアズ?
- フェニキアのテュロスにあった二つのヘラクレス神殿は、不死と死ぬべきヘラクレスをそれぞれ祀っていた
- 跛行と再生
- 禹歩
- 神と相撲を取ったあと、びっこをひくようになったヤコブ
- 菩薩の反閉(へんばい)
- 能の「翁」天下泰平、五穀豊穣を寿ぐ再生儀礼で演じられる
- 古代の聖人の跛行
- 19世紀、エジプトの葬儀での踊り、死者が再映することを祈願
→振る舞いの呪術
- 野犬は死体を食べたため神聖な動物とされた
- モロッコのムーア人は、宗教的な狂乱の中で野良犬を捕らえ、犬を引き裂いてその肉をくらいあるういはくらう真似をする(『金枝篇』第五部第一巻、ロンドン、1912年、22P)
- 古代ギリシアでも、殺人者は殺された人の血によって穢されますが、犬や豚の血によって浄化された(山川偉也「古代ギリシアの流血儀礼I」『社会学論集』第19巻1号、桃山学院大学、1985年)
- 再生儀礼
- 犬は、戦死者や行き倒れの旅人の死体を食べ、人間の霊魂を体内に宿す輪廻転生の最初の宿主だった
→カイン? - 豚は、ユダヤ、イスラム、古代エジプトでは最初期には神とみなされていた
- 年に一回の神祭りでは神の化身である豚を殺して肉を食べるが、翌日にはもう手も触れなかった
→豚やその首になるルウテト
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- 年に一回の神祭りでは神の化身である豚を殺して肉を食べるが、翌日にはもう手も触れなかった
ケガレとしての花嫁 異界交流論序説 近藤直也
- 花嫁や婚礼のケガレに着目した民俗学の本
- それらがケガレとされる理由や、女性がケガレとして男の仕事場から排除されてきた女人禁制の理由を、「山と里の対立」そして「山の女神と里の女の対立」に求めている
- 多くの資料の分析や既存の学説の引用によって、その自説を立証しようとしている
- ただ、著者は「男はただ二つの世界を往来するだけ」としているが、
- ボーヴォワールが『第二の性』(第一部)で指摘している通り、この場合、その「二つの世界」の真の支配者はその往来している男性たちである、と考えるのが適切であるように思える
- 女性を他者・客体として扱い、畏怖したり呪術的な立ち位置を決定しているのは、他でもない男たちなのだ
- システムを形成し支配してそこから利益を得ているのが、そのシステムの外側に存在する者であるというのは、十分に考えられることであろう
- これは、筆者が挙げている例の中にも「勃起した性器を山の神に捧げて獲物を引き寄せ」たり「無くした道具を取り戻すために男根を出す」という習俗があることからも、
- 十分に推測がつく話である
- 筆者の語るように、そんなことで女性が喜ぶと思い込むのは、男性以外にはあり得まい
- 要点まとめ
- ハレとケは互いに対立しながらも、相互に交流するという民俗社会の世界観または宇宙観が存在していた
- ハレとケはコインの裏表
- ケガレは、不浄ではなく次元を異にする状況への移行
- ハレの視点からはケガレはその秩序の否定だが、ケからは自らの秩序への回帰、秩序の回復
- 不浄どころかむしろ極めて歓迎すべきもの
- 山で道具を紛失した時の性器露出の呪いはまさしく夫婦間の性行為の裏返しであり、男性性器によって自分の配偶者を喜ばせることと同じように、山の神も喜ばせようとしたものであろう
- 里の「山の神」や山野「山の神」が実際に喜んだかは不明であるが、少なくとも行為の主体である男たちは、これによって両方の山の神が喜ぶと信じて疑わなかった
- だから大まじめになって性器を山の神に見せ、紛失した道具の発見を願っていたのである
- 山の神と人間の男の交合のしぐさ(性器露出)の本質は、次元を異にする世界との交流、聖なる儀式
- 男は、里と山という次元や価値観を異にし、互いに対立する二つの世界(換言すればハレとケに相当する)を行き来する存在であり、
- いわば二つの世界をつなぐ媒介項ともなり得る
- 互いに対立する価値観を持った世界が交流することにより、そこには強烈な摩擦が生じ、今までの時空が一挙に瓦解してしまうほどの莫大なエネルギーが生み出される
- このエネルギーこそが、新たな時空創造の原動力となる、ケガレでありハライなのだった
→媒介者・移行者・旅行者としてのシナモリアキラと聖婚?
- 最初に、山と里または里と海における価値観の対立があり、それとパラレルな関係で山または船霊の女神と人間の女の対立があった
- この対立こそが、「女性排除」のルーツであったというべきであろう
- 排除される里の女性と崇拝される山の女神とは、本来表裏一体の関係にあり、両者の対立しながら繋がり合う関係が、新たな時空を創造し、
- 一つの宇宙を活性化してきた事実があった
- 加えて、里と里の間でも、婚礼の時空における実家の娘の死と婚家の嫁の誕生があり、
- 正月の歳徳神祭祀の時空における「女神崇拝」と「女性排除」がある
- 宇宙論的な秩序の核心に「女」が存在しているのである
- 互いに対立する両者間に「富の交換」があったことは言うまでもない
- 否、むしろ「富の交換」があったからこそ、異界同士の激しい衝突が存在していたのであり、「女人禁制」は、その表層に現出した一つの現象にすぎなかったのである
- 女性解放運動の矛先を「女人禁制」に向けるのは、我々の先祖たちが築き上げてきた貴重な文化遺産を破壊しかねない危うさもある
- もっとも、信仰性を失い形骸化したものに関しては、配慮すべき点は何もない
- 波平恵美子のケガレに対する「畏敬の念」論に対する、著者のコメント
- 「排除やケガレ観そのものは、男と女・生と死など、極めて重大なことを「際立」たせることになり、ここに新たな時空の創造と活性化を見出そうとしていたのではなかろうか
- ケガレとは、それほど豊穣な意味を持つ」
- この見解は、一見すれば今までの垣根を撤去し互いに融合しながら「共に生きる」という時流に、逆行するように感じるかもしれない
- だが、互いの違いを認め合わないままの融合ほど迷惑なものはなく、一方の価値観の押し付けに終わってしまう
- (ケガレの不用意な排除は)「生存の意味を不明瞭にする」という波平の危惧は、差別観と結びついてしまう以前のケガレ観が持つ豊穣性を念頭に置いたものであった
- 「老女化石譚」
- 山の神によって老女が石化させられた「女人結界」の逸話
- 「呪法にすぐれた巫女」であったからこそ、ぎりぎりの境界線にまで近づくことが出来たが、それでも結界に足を踏み入れたら石化させられると解釈すべき
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ケガレの文化史 物語・ジェンダー・儀礼 編:服藤早苗 小嶋菜温子 増尾伸一郎 戸川点
- 日本社会の歴史と文化を探る立場からのケガレ論を目指している本
- 文学や芸能などの分野の考察集
- 「叢書・文化学の越境」の 11巻目
- 序論で、既存のゲカレ論の歴史的変遷を整理し批判しているのも良い
- ア関連では、聖/俗のカテゴリーとは社会集団において関係論的に決定され、聖俗は相互に容易く転換してしまうというデュルケーム社会学や、
- ルイ・デュモンの「構造主義的階級論」で研究されたインドにおける現状のカーストが、実は、イギリスの統治に協力したバラモンの古典的カースト観が植民地支配を通じて実体化したものだったと判明した話、
- 関根康正『ケガレの人類学』で、被差別階級であるハリジャンの文脈から見ると「ケガレ」にもポジティブな意味があるという話などが、特に興味深い
- ア関連では、聖/俗のカテゴリーとは社会集団において関係論的に決定され、聖俗は相互に容易く転換してしまうというデュルケーム社会学や、
- また、他の論に、ハライとキヨメを管理する「王の舞」や『続日本記』の巫蠱事件の話などがあり、呪術的である
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古代ギリシャ研究家と見る『FGO』の英雄たち ゲームさんぽ/ライブドアニュース
- 古代ギリシャ・ギリシャ神話研究家の藤村シシン氏に、現代のゲームに出てくるギリシャ神話を解説してもらう動画シリーズ
- シシン氏は、既存の神話解釈を「二次創作」や「古代の大手サークルの影響」と解釈して語られる方であり、その現代オタク文化を踏まえた解説は面白い
リンク
古ヨーロッパの神々 マリヤギンブタス
- アリュージョニストのキーワード、生と死を司る地母神をがっつりやります。蘇生を促す男神もついでに。
- 地母神と魔女の関係性とか象徴でぶん殴る古代呪術とか色々あるよ!
- 序章と一章は読み飛ばすのオススメ。二章からそれっぽいのが始まります。
「自殺志願者」でも 立ち直れる 藤藪庸一
- 牧師であると同時に、NPO白浜レスキューネットワーク代表を務める人が書いた本
- 筆者は、自殺志願者を助け、出来るだけ共同生活を送ったりして彼らに寄り添っている
- 特に、個人に出来ることの限界を語っていたり、
- 行政もきちんと強力なリーダーシップを発揮し、民間の協力理解の「共働」で、自殺対策をするべきことをしっかり提言しているのが良い
- 立ち直っただけでなく、相談を受ける側になったり、NPOのスタッフに加わった人の話もある
- また、筆者は「自殺志願状態」からの立ち直りには、自己責任の意識が必要だとしているが、
- 同時に、生活保護一歩手前の保護制度の必要性や、周囲の人の助けも不可欠であるということも語っている
- 立ち直るには、お互いに声を掛け合ったり、間違いを指摘してくれたり常にポジティブだったりする人が必要なのだ
- 筆者も自殺を考えたことがあり、現在進行系で自殺対策に関わっているだけに、その言葉には重みが感じられる
→『使い魔』 - そして、キリスト教では自殺が禁じられることも多いが、筆者は「罪だからやめましょう」と説得してもなんにもならないと考えている
- 聖書の言葉「私(=神)の目にはあなたは高価で尊い。私はお前を愛している」
- すべての者には神の与えた役割があり、不必要なものなど誰もいない
→宗教系の世界観に基づいた、価値を付与する『呪文』
- かつて「自殺志願者」だった人へ
- これからあなたが自分の人生をやりなおしていけば、いつか家族が困ったときに手を差し伸べられるかも
- 自殺をしようとする人の気持ちがわかるのはすごいこと
- 誰かに助けを求めるのは、情けないことでも悪いことでもない
- 人生を長いスパンで考えていくこと、そうすれば人生が上向きになっていくチャンスはいっぱいあります
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死と来世の系譜 編:ヒロシ・オオバヤシ
- さまざまな時代・文化の死生観を比較し考察している本(原著:1992年刊行)
- 主に西洋人の学者によって書かれているためか、少し進歩主義史観の傾向があり、
- 個人の人格を尊ぶ宗教やキリスト教を持ち上げているところがないこともない
- それでも、基本的に内容は中立かつ宗教的な偏りはみられず、
- 地獄や天国の概念が生まれる以前の冥界(古代ギリシャのハーデースやメソポタミアの冥界、旧約聖書のシェオール)から
- 肉体を伴い神に近い不死の存在として地上に戻る「復活」、永遠の消滅や宇宙精神アートマンとの一体化を至上とするヒンドゥー教や仏教に至るまで、
- 世界の主だった死生観や神話・文化をほとんど網羅しており、そこが良い
→カーインの故郷の「地獄」
- 編者は、死や来世についての問いの優劣を評価できるような、客観的基準や経験的な証拠は存在しないと断言しているし、
- そうした問いにまつわる全ての答えや観点の多くは、同等に有効で受け入れ可能であり、真剣に考えるに値するものだとしているのである
- ア関連では、『アンティゴネー』の死生観が、他の同時代の戯曲や古代ギリシャの思想と比較されている章もあるし、
- 死亡した新生児や死者のことを省みない文化についての記述が、興味深い
- 他にも、初期キリスト教における死生観(とそれと不可分な宗教観)のぶつかり合いも、また『邪視』的な観点から観て面白い
- 序文の一部の要約
- 自殺が出来るということは、生命と一体ではないということ
- 人間は、利己的な動機であれ、他人を助けるための自己犠牲であれ、
- 自ら死を選ぶことが出来る
- このことは、人間が自分自身の生をある程度操作し、コントロールする能力を持っていることを示している
- 言い換えれば、人間は自分自身の生から距離を取ることが出来る、ということである
- 生命と一体となっているものは、けっして生命を意識することはできない
- 生命は今や、自覚的な意識の対象となったのである
→1章で自ら『E・E』を捨て感情制御を手放したアキラくんの選択
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神話と人間 ロジェ・カイヨワ
神話に見る愛のかたち ヴェレーナ・カースト
- 様々な神話に出てくるカップルを例として、男女関係の在り方や変え方を説いている本
- 神話の解釈としての一面もあるので、こちらに分類しました。
- 感受性を開けば、関係ファンタジーを通じて自分を変えていける
- 重要なのはアニマやアニムスを定義したり、カップルとしていかなるものなのかを云々することではない。
- むしろ、無意識の深みからもたらされるそれらのイメージに我が身を投じ、生きている関係やファンタジーの中でそれらに形を与え、そうすることによってそれらを結合しようとすることこそ重要であると、私には思えます
- こうしたことが可能となるのは、私たちがそれらのイメージに先進しそれらに自分が捕らえられることを拒まず、それらが私たちの中にもたらすものを生かすときに限られます
- どんな関係でも、生活を支配しようとする態度も必要
太古、ブスは女神だった 大塚ひかり
乳と蜜の流れる国 フェミニズム神学の展望 E・モルトマン=ヴェンデル
- キリスト教神話の中に、女性にとってよりしっくりくる概念や思想が無いか探し求めている本
- 1988年発行とかなり古いが、キリスト教に取り込まれた異教的要素について調べるには参考になるかも
- 乳と蜜は古代オリエントの諸文化では、神々の食物、楽園の糧、生命の媒体を表す各地共通の表彰だった
- 供物として用いられ、古代末期に至るまで加入礼シンボルとなっていた
- 母親からくる初の滋養物でもある乳は、肉体と精神にいのちを与え、生物学的生命と共に不滅性も与える
- 多くの神話で、英雄や王は女神に乳で養われるが、その乳は生命と無事息災の源泉を指し示している
- 宗教学と宗教心理学の言うところでは、蜜の出どころである蜂の生活図は、「母による女人政治性にもとづく最初の人間統合体の完璧な手本」である
- 私にとっては、ユダヤ=キリスト教伝統の劈頭に位置する乳と蜜という神話的表彰は、3つのことをあらわしている
- 1:キリスト伝統の内部に潜在していた一つの女性世界
- 2:男性の基準によって失われていた、人間(男)性の未解決の諸問題の〈非現実世界〉
- 女性にとって自律とは人間関係とその掟を振り捨てた独立独歩の理想ではなく、自己実現は他者を強引に押しのけての自由では、決してあるまい!
- 権力とは?何事かをやみくもに貫徹することではなく、自由における働きかけ、有能さの発揮だろう!
- 神に従うのに、服従しか無いのか?喜びからする信従(ナッハフォルゲ)、隣人愛の基礎となる自己愛からの信従は?
- 3:一つの国のイメージ、万人のための生活空間で、おそらく母のシンボルだが、女性しか自己同一化できない女神たちのイメージではない
- 私は多くの女性がアイデンティティを求めて問うている問題から出発したいと思うけれど、同時にそれを越えたところへ向かいたい
- というのも、女性のアイデンティティばかりこだわると、あまりにもしばしば硬直したフェミニズム原理に行き着いてしまって、しかもおおかたの女性の現実に衝突して挫傷してしまうからである
- 私はアイデンティティへの問いを、生の諸価値への問いに押し広げたいーあらゆる人間のあいだに成立して生の実質をなす私達の諸関係への問いに
- ヴァージニア・ウルフ「最大の解放、事物それ自体を考えることの出来る自由」まだ到達していない
- 私達の関係は現実の世界への関係であって、男と女の世界への関係であってはならないのです
- 現実の世界とは、みんなの共有する生活であり「私達が個人として生きる小さな孤立した生活」ではない
- 他者の自律性、相対する人格を認めること
- わたしたちが、自分の必要・自分の主導性・自分の対世界定位の対象としての他者と関係するとき、この他者は、私たちにとってやはりつねに、その人自身の必要と主導性と対世界定位の中心であり主体でありつづけなければならない、ということである
- 他者とのあいだには、対立と抗争の余地が残されていなければならない
- そうしてのみ、他者は自律的な者、相対する者でありつづける
- 神を自律的で非相関的として説く神学的伝統からは、没関係性が育ってこざるを得ない
- なぜならこの超越性経験は、関係に対するありうべき自由な決断をしか教えないからである
- 新約聖書のイエスと女たちの物語には、神学と倫理に影響せずにはいられないような一つの人間的な正の相互性がある
- これは心理療法で言われる正の相互性、エネルギー論的関係なのだ
- 欠陥の経験から発して活性化されるもの、社会的なマイナス経験、「罪」についての経験値
- 能動的受容性、あるいは適切に言えば常用的能動性
- 関係が、癒やしが求められているものもまた個性ある存在となり、これまでとは違う姿形を勝ちうることによって、一つの現実が成立する
- 関係の運動性、特質は対話だが言葉に限定されない
- ヘーゲルが自己意識の倍加過程と呼んだものと繋がる
- ローズマリー・リューサー「救済するキリストと救済される女たちとの関係は動力学的(ダイナミック)に理解されるべきである」
- 「イエスがヨハネの洗礼を受けたように「救済者もまた救済された者」なのだ」
- イエスと女たちの物語を見れば、あらゆる癒やしにとって大事なこと、つまり人間の能動性が癒やされるためには人間自身の第一歩が必要なことが、見えてくる
- 救いの演出者は私達自身ではないが、わたしたちが自分で引き出すその力が癒やしをもたらし、わたしたち自身の力となるのである
- わたしたちが自分にもらった力、自信は、こんどはわたしたちが他者に注ぎ込む信頼となるからである
- 人間が協働してこそ救いは得られるという考え方を持つ、異端のペラギウス主義は、これまで長期に渡って非難されてきた
- 仕えること、イエスの言葉からうかがえる非ヒエラルキー的な関係の可能性
- 女性の姿で表現される神の知恵・ソフィア
- 自然の使徒復活の表彰としての死せる英雄神(ヘーロス)をひざに抱く女神像。後にピエタに
- 女神の古いシンボルである蛇は、豊穣と再生を表し、林檎はこの世の感覚性と全体性のシンボル
- 竜退治、統御が不可能なものに対する恐怖の現れ
- 異教から受け継がれた三人の女性のシンボル
- 聖ヤコブ教会(ニュルンベルク)にある聖アンナ三体像、マリアと子供にアリアの母のアンナ
- イエスの墓を訪れた三人の女性、そしてデメーテルとコレーとエレクテウスは、乙女・母・老女の女神の三様態に由来する
道徳とその外部 神話の解釈学 笹澤豊
- 現代日本における道徳の原点を求め、聖書やギリシャ神話、更にはプラトンなどを考察している本
- 「良心」の成立や、モーセによるヤハウェ崇拝は、ルドルフ・オットーが語るヌーメン(デーモニッシュな恐ろしい要素)を取り除いた政治的なものだったという話など、興味深い話が多い
- ただ、これらの説は原始的な道徳の成り立ちについての仮説にはなっているが、肝心の現代日本とのつながりは今一つといったところ
- なにしろ、取り上げられている話は、神の存在を前提としているのだ
- これでは、神の存在が意識化されていない日本の道徳を考察するには、どう考えても不適切であろう
- 神話と現代をつなぐさらなる考察のアプローチが、必要とされているのかもしれない
- モーセの政治的な舞台空間は、被治者たちの合意に基づくものであった
- モーセはそこでヤハウェの恵みを演出することで、民族の統一と自己の強固な立場を手に入れたのだ
- 旧約の世界には二種類の神がおり、その二つははっきりと区別されなければならない
- ヌーメン的なヤハウェと、モーセによって創られた舞台空間上のヤハウェは大きく異なる
- 突如モーセを襲ったのは、神秘的・無意識的な神秘体験の中で出会われるヌーメン的なヤハウェであった
- しかしモーセは、あとからの解釈=理由づけによって、(知的意思によって自己を統御する)合理的な存在へと創りかえ、じぶんの舞台空間へと取り込んでしまった
- この合理的なヤハウェも、前者と同じく激しい暴力的な性格を持つ
- しかしこの暴力は、知的な意思によって統御された暴力であり、ヤハウェと契約を結びそれを守る者には決して向けられることのない暴力なのだ
→『呪文』
- モーセは、自らの演劇的・政治空間にリアリティーを与えるため、(本来の)ヤハウェを含めたすべてのヌーメン的な神を舞台外へと追放し、その存在領域を抹殺しようとした
- それによって、オルギア的な情動と欲望の解放の場も失われ、イスラエル人たちの情動と欲望は行き場を失い欲求不満が高まったが、それでもモーセの時代では問題はなかった
- なぜなら、モーセとその後継者たちは、欲求不満を解消するエネルギー解放の場として、他民族との戦闘という暴力行使を残していたからだ
- 民衆の不満として蓄えられるエネルギーこそが、民族の闘争エネルギーの供給源なのだから、むしろ不満の増大は歓迎すべきことであった
- 律法が命じる禁欲が、情動や欲望を「悪」や「罪」としてむしろより鋭く意識させ、それらを「選ばれた民イスラエル」という思想によって「聖戦」の原動力に変えていったのである
→『聖絶』?
電子化×
「排除と包摂」の社会学的研究 差別問題における自我・アイデンティティ 八木 晃介
- ケガレや自他の境界などについての考察
参考図書/思想を参照のこと
「バカダークファンタジー」としての聖書入門 架神恭介
- 分かりやすく面白く、そして多くの資料に基づいて真摯に、新約聖書と旧約聖書の内容をまとめている解説本
- ぼんやりとでも聖書知識があったほうが楽しめるが、タイトルに反して?結構真面目な入門書であり、一般人が聖書について学ぶ入り口としては良いかも
- 聖書に出てくる、RPGに使えそうな魔法やアイテムとそれが記載されている箇所をリストアップした付録もあり、読んでいるだけで結構楽しい
- 同じ著者の本には、キリスト以後をヤクザの抗争に置き換え広島弁で語った『仁義なきキリスト教史』もある
電子化◯(ただし、物理書籍のほうが読みやすいかも)
般若心経は間違い? アルボムッレ・スマナサーラ
- テーラワーダ(上座部)仏教の僧侶が、日本一有名なお経である般若心経を批判している新書
- そして著者は、般若心経に限らず、龍樹の「空論」に対しても、宗教に不可欠な「道徳的」な話=「いかに生きるべきか」という人生に役立つ方法が無い論についても、否定的
- 具体性のない「空」をあまり強調してしまうと、修行して悟るという「仏道」自体が成り立たなくなって、壊れてしまう
- 修行できなくなるならば、それは言ってはならない、としているのだ
- また著者は、雷の発生メカニズムですら(雷という危険回避に役立つので)「道徳的」であるとしている
- 空は、初期仏教では五蘊(人間の生にまつわるもろもろ)の観察リストのひとつ
- 他に、槍(サッラ)=たとえでは「毒矢」のイメージもある
- 「色即是空」は正しいが、「空即是色」は間違い
- 大乗仏教で一般に言われている「空」は真理そのものであって、超越した何かの存在
- 「リンゴは果物である」が正しくても「したがって果物はリンゴである」は正しくない
- 「空」は無でもない
- 人生の苦しみは実際には固有の実体を持たない「空」であると語ることはできるが、それは苦しんでいる人にとっては「無」ではない
- 蜃気楼が空であるように
- 空を語るなら、「こういう過程で苦しみが現れるのであって、本当は苦しみ自体は空なのです」と説明するべき
- ただ、著者のテーラワーダ仏教にしても「お釈迦様の智慧の時代に代わって、未来は弥勒菩薩の「慈悲」の時代が来る」という教えがあったり、
- ヴァジラー比丘尼が林で声を聞いた逸話の「悪魔」(マーラ)は実在するとする多神教的な部分や、真理の体得はヴィパッサナー瞑想が必要とするところもあり、神秘主義的な要素はわりとあったりする
- また、筆者は仏教をひいきするあまり、仏教が非武装であることを強調したり(仏教の長い歴史や多くの宗派を見れば、僧兵や戦争肯定、異教徒差別などの好戦的な面も見られる)
- イスラム教とテロ活動の結びつきを非難するなど、いくらか思慮が欠けているところもあったりもする
電子化◯KindleUnlimitedにて0円で読める
- イスラム教とテロ活動の結びつきを非難するなど、いくらか思慮が欠けているところもあったりもする
反ユダヤ主義の歴史 レオン・ポリアコフ
一つ目小僧と瓢箪 性と犠牲のフォークロア 飯島 吉晴
- さまざまな民俗学の論考をまとめた本
- 著者は「性と犠牲に関連したものを集めたと言っているが、
- 中には「人類の起源を語る兄妹婚の前にあった洪水を瓢箪に乗って切り抜けた」程度の関わりしかないものもある
- 他にも蝶と霊魂の信仰史、狐の境界性、ユートピア論と、
- 魅力的ではあるが、関連性がみられない論も多め
- ただ、異人艦隊・殺戮の伝説や日本の柱信仰(世界樹としての柱)、鍛冶神以外も含む片目伝承の話など、
- 引用・要約
- 田村克己は、鳥と鍛冶彌の結びつきは、鳥が火を人間にもたらしたという火の起源神話の延長上にある考えであり、火が橋渡しになっていると述べています
→サイバーカラテをもたらした文化英雄としてのアキラくん? - 片目やビッコの神は単に鍛冶神に限らず(中略)動物や植物にまで関連の伝承が見られます
- しかも、これらの神々は季節交代や作業の折り目など秩序が更新される機会に多く登場してきます
- 犠牲をささげることで秩序を新たに固め(片目)ることに、これらの伝承は関わっているのです
- レヴィ=ストロースは「盲目あるいはビッコ、片目あるいは片手などの継承は、(中略)媒介の様式を体現しているのである」と述べています
- 今村仁司は「世界秩序(システム)は歳の体系であるから、不連続システムが生成するためには、連続し充実した状態から何かを欠如させなければならないと述べ、
- それゆえ社会形成あるいは文化形成の起源を考える時には常に暴力が出てくる」と論じています
→アルト、半身を六王に分け与えて巡節を創ったルウテト、片腕を食いちぎられ脱糞することで、アの物語を始めたアキラくん?
- それゆえ社会形成あるいは文化形成の起源を考える時には常に暴力が出てくる」と論じています
- 金属変成の業は、カオスからコスモスを創出する世界創造神話と同様の意味があるのであり、片目の神はそれを示しているのです
- 錬金術は、「すべての事物をあらゆる場所で永遠に完成させること」をめざす(スタニスラス・クロソウスキー・デ・ロラ『錬金術』)
- 錬金術は上と下、物質と精神、(中略)見えるものと見えないものとの間をつなぐものなのです
- 柱は、別の世界や物との媒介をする橋・端・階(きざはし)に通じ、神霊の往還や世界創造の中心としての役割を果たしてきた
→世界槍 - 性の神は二つの世界の狭間にあって、媒介者としての役割を果たし、折目ごとにこの世の秩序を更新してバランスを保つ
- 境界の神としての機能である
→三章のハザーリャ召喚など、物語の節目に行われる聖婚 - 性の神には、聖と穢、内と外、男と女(中略)祓う者と祓われる者、善神と悪神といった二つの異なる原理がしばしば同居しており、
- 日常的な論理では矛盾した性格の神となっている
- その祀り手も、やはりこの世の中で周縁的な地位を占めている人々であることが多い
→被差別階級などのシャーマン、魔女
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- 境界の神としての機能である
人はなぜ神を創り出すのか ヴァルター・ブルケルト
- スコットランドのセント・アンドリューズ大学で行われた「ギフォード記念講座」をまとめたもの
- 確かな結論こそ無いが、穢れ、供犠、贈与、階層構造などの例が色々あり、さまざまな神話についてしっかりと語られている
- 自らが作った技術に支配されている世界の中にあっても、人間はなお、自明ではないものにまで広がっていく意味の構築物が、自分の想像した投影に過ぎないことを認めたがらない
- 「現世を超えたもの」の有効性という問題の答えは、ただ一つではないらしい
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ヒルコ 棄てられた謎の神 戸矢学
- 記述がほぼない謎の神「ヒルコ」についての仮説を述べたもの
- 「ヒルコ・ヒルメ」双子説やエビス信仰・海人族と天皇家の姓とされる「姫」とのつながりに加え、馬琴が唱えた「日月星辰・四貴子」説についても触れられている
- 増補新板がある
ファロスの神話 アラン・ダニエルー
- 出典があるものもないものも含めて、様々なファロス信仰をまとめている本
- ファロス信仰がインドからヨーロッパまで影響を与えた説を始め、多様な側面を持つさまざまなイメージの関連を挙げている
→ハザーリャ、【邪視】避けの男根城 - 男児が見分けられるように不分明な宇宙の目印となり、世界を創造し秩序を与える男性原理の話から始まるが、両性具有や両性の交わりの話もあるため、決して男性原理一辺倒の本ではない
- 男性器を切られて女神キュベレとなったアグディティス、女性的な青年として描かれるディオニュソス、
- イタリアの運転手が自動車の先につける赤い角、ファロスのお守り、火起こし棒を回して獲られる祭壇の火、大地を掘り起こす鋤、液体で満ちた宇宙卵
- 能動原理の象徴である牡牛信仰、牡牛を制御できるシヴァ、ディオニュソス、ミトラ信仰の名残であるスペインの闘牛、蚩尤、角を持つ野山の神、パン神、三叉の槍を持ち角と尻尾がある通俗的な悪魔イメージ
→パーン?真の名を持たない悪魔としてのシナモリアキラ? - 屹立する石柱、プリアポス、ヘルメス、イギリス・ドーセット洲の〈サーン・アッバスの巨人〉
- プリアポスという名前はbriapnos(騒がしい)に由来するものと思われる
- したがって、「猛り狂う者」のことであるインドのルドラの翻訳か、それに相当するものであろう
- 幸運の女神は栄光を打ち砕く刑吏であり、ただファスキヌス(魅力/妖術/陰茎)だけが成功後の恐るべき試練に立ち向かうことを可能にするのである
- 「ナポリ近郊のトラニでは、〈聖なる足〉と呼ばれる大きなファロスが、十八世紀まで毎年祭りの行列に担ぎ出された」(P・ローソン『原始時代のエロティック芸術』)
→三本足の民? - ファロス像を建物の壁に施す風習は古代ローマに譚を発するものであり、中世に至ってもトゥルーズの大聖堂などフランスの幾多の教会に残されていたが、大革命の際に聖職者たちの堕落の証として壊されてしまった(ペイン・ナイト『プリアポス崇拝』)
不死と性の神話 吉田敦彦
- 聖書神話とそれ以前の異教神話の関連性を写真などの豊富な資料と一緒に説明している本
- 有名な話も多いが、各国の神話からグリム童話まで、さまざまなエピソードの関連性や影響関係が語られている
- 女神の死によって作られる世界や、それによってもたらされた人間に不可欠な自然資源など、アと関連ある話も多い
- スキュタイの3つの宝物、武力の斧、神に飲み物を捧げる祭祀の盃、農耕の鋤と軛のセットが、日本や韓国の三種の神器に?
- 妊娠した女神を模した人面取手付土器、火を中で燃やして、人間のために火を産んでくれている女神を信仰
- 柄鏡式住居、女神の体を模している、古代の壁画が書かれた洞窟と同じ
- 女神は動物も生み出して、子に与える
- 家の敷居に、死産した赤ちゃんを埋め、女性がそこを通過することで転生を祈る風習があったのでは?
- 海は女神であり、生命の根源
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双子と分身 <対なるもの>の神話 ジョン・ラッシュ
- 神話などから双子や分身についての例やイメージを紹介している本
→アズーリアとベアトリーチェなど - 写真が豊富であり、30ページほどの長文と写真解説から構成されている
- ただ、双子のイメージは両義的であるため、資料としてはどこまで役立つのかは疑問
- 「ツイン」という語に、「分割=一つのものを二つに分けた一対」と「結合=二つのものを一つに接合する」の二つの相反する意味があるように、双子の意味は文化圏や時代ごとにかなり異なるのだ
- 更に筆者はその定義する範囲を大きく広げており、
- 「創世記」のヤコブとエサウ、スカンディナヴィア(北欧)神話のバルドルとヘーズルなどの兄弟や
- イザナギイザナミやエジプト神話などの創世の兄妹の近親相姦やアダムとリリト(リリス)
- ケツァルコアトルの力を、曇った鏡に映した分身で奪い取ったテスカトリポカ
- 無垢で無罪であるがゆえに、かえって共同体の罪を引き受ける資格を持つスケープゴート
- そして、恋人に「完璧な自分」の幻想を観るパーシー・ビッシュ・シェリーのロマンチック・ラブイデオロギーと
- 彼に死をもたらしたという邪悪なドッペルゲンガーの幻影まで、さまざまな例とイメージを展開している
- ギリシアの哲学者エンペドクレスの二元論
- 万物を構成する四元素は、二つの中心原理、愛(エロス)と闘争の相互作用によって活性化する
- 愛は結合力と相互に引き合う力、闘争は不均衡と不規則な分裂
- あらゆる事物の中で、愛と闘争は(あるいは欲望と分離)は、たえまなく作用し合い、肩を並べ、互いに入れ替わっている
- 想像の二元的な力においては、愛も闘争も独立して存在することは不可能なのだ
- 選択することと愛することは対になっている
- たとえ愛が(中略)気まぐれな罠で自分自身を裏切るとき(にさえ)にも
- 〈対〉という構造は葛藤を含むものであり、人間の本質そのものが二元的な構造であるがゆえに、
- われわれは必然的に〈2人〉の間で「愛を営む」ことになるが、それをどのようになすかはけっして明らかにならないのだ
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- われわれは必然的に〈2人〉の間で「愛を営む」ことになるが、それをどのようになすかはけっして明らかにならないのだ
なぜ神々は人間をつくったのか ミネケ・シッパー
- さまざまな起源神話がまとめられている本
- 男女の格差や種族・身分の格差がなぜ生まれたのかを説明している神話の例もしっかりまとめられている
女神 聖と性の人類学 田中雅一:編
- 国立民族学博物館の共同研究の成果をまとめたもの
- 金太郎の母などの山姥、馬頭娘(蚕神)、エバとマリア、「女性の霊性」運動など、様々な女神信仰を様々な面から扱っている
山姥たちの物語 女性の原型と語りなおし 編:水田宗子 北田幸恵
- 零落した女神とも言われる女妖怪、山姥についての論考や研究を集めた本
- 「姫神」と「姥神」やアイヌやノロ・ユタから中国の神話、西インド諸島のタイノー族に伝わる鬼女「ラ・ヴァギナ・デンタータ」、三姉妹で三つの側面を持つ女神ダヌなどについて触れている
→性・性愛・聖婚関連/その他
維摩経
- 智慧と慈悲、そして空について語る仏教経典のひとつであり、大乗仏教で重視される
- 二項対立/善悪二元論を空の立場から否定してもいる
- また、聖徳太子が『三経義疏』で解説した三つの経典のひとつでもある
- NHKの番組『100de名著』で取り上げられたこともあり、釈徹宗『NHK100de名著ブックス 空と慈悲の物語』としてその内容は書籍化されている
- 大角修『維摩経・勝鬘経』などで全文現代語訳もされているし、マンガ化もされていたりもする
ユダ イエスを裏切った男 利倉隆
- ユダの真相を、多くの絵画や資料、『カラマーゾフの兄弟』などの文学作品を通して、ミステリー小説のように追求している新書
→ユディーア - ユダに対する数々の説に反論するだけでなく、ユダがキリスト教徒たちの悪を投影するスケープ・ゴートとして必要とされ、それがユダヤ人差別へとつながっていったことなども指摘している
- それに関連し、イエスの分身として捉えることの出来る様々な人物やその伝説も紹介されており、興味深い
- グリム童話「旅の二人の職人」
- シモンという名のキレネ人とイエスが入れ替わったとするグノーシス主義の異端の説
- 実はイエスと同じく反乱の扇動者としての容疑をかけられていた、バラバ・イエスとの恩赦の選択
- 死と結びつく知恵の木と不死を約束する生命の木(=十字架にかけられたイエスという木)
- 善き神イエスは十字架に、悪しき神オーディンは木に吊るされるとする、おとぎ話の中の影の分析M/フランツ)
- 大地女神キュベレに愛された少年の神アッティスの復活のような、樹木崇拝との結びつき(『金枝篇』)
→アキラくんの転生?『植物相』?エスフェイルや四章断章編のオルヴァと隠者の入れ替わり?
- 筆者は、現実の人間は最後の審判のように善と悪、光と闇、右と左に截然と分かつことは出来ないとして
- キリスト教徒たちが、「善の理想像」としてのイエス像を必要としたからこそ、同時に「悪のイデア」としてのユダを描かざるを得なかっのではないか、ということをほのめかしている
- すべての人間は、イエスの右手とユダの左手を持っているのだ
- 「光は暗闇の左手、暗闇は光の右手、二つはひとつ……」(アーシュラ・ル・グウィン)
→アズーリアとアキラくん、レオ(ルーシメア)の手、聖妃レストロオセと大魔将イェレイド?
- そしてこの本の最後には、著者による短編小説のような仮説が掲載されており、
- そこでユダは暴走するイエスについていけなくなって密告したが、接吻で許されて困惑し、
- 贖罪の殉死にも失敗して普通に人生を過ごしたとされている
- そして、この本は、死の間際に彼が安息を得たことへの祈りで終わる
- ユダにまつわる伝説は数多く、オイディプスの神話さえも、その悪性の説明として付け加えられている(ヤコブス・デ・ヴォラギネ『黄金伝説』)
→四章・学園編
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ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ 荒井 献
- 新約聖書の四つの福音書の比較と、外典『ユダの福音書』の記述から、歴史上のユダに迫ろうとしている文庫本
→ユディーア - 学術書よりだが、章ごとのまとめもあるため結論自体はわかりやすい
- また、彫刻や絵画の写真も大量に載せられている
- ユダの人物像や所業の詳細はテキストごとに異なり、「盗人の金庫番」だったり、イエスの再臨で許された十二使徒に含まれるように解釈出来たりもする
- グノーシス思想に基づく『ユダの福音書』に至っては、ユダは「十三番目のダイモーン」と呼ばれ(欠員はユダ脱退後すぐに補充された設定)
- イエスの真の役割を理解し、その使命を果たす者として位置づけられている
- ここでのイエスは、本来的自己の原型であり、
- その本質は、至高神によって遣わされた、その女性的属性の人格的存在(アイオーン)「バルベーロー」に由来する
- ユダは、その「裏切り」と処刑によってイエスの本質を肉体から解放するのだ
- 著者は、イエスの死刑確定後にユダが不自然死を遂げたという伝承や、彼の死を裏切りの「罪」に対する神の裁きとみなす見解が成立したのは、
- 正統的教会が、ユダの「罪」を赦さず、自らの「罪」をも彼に負わせて、彼を教会から追放しようとした結果ではないか、としている
- ユダは「スケープゴート」ではあるが、本来イエスに「愛された」弟子であることも動かしようのない事実なのである
→ユディーア
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ユダの謎解き ウィリアム・クラッセン
- 初期の教会についてまで調査し、ユダの歴史像を探っている本
→ユディーア - ユダの「裏切り」が、まったく言語学的な基礎に基づいていないという事実を記述している
- ユダが祭司長たちにイエスを「引き渡した」行為は、初期の資料では裏切りとは受け止められていなかった
- 「引き渡す」という仕事は、神の命令によって実行されたものであり、自殺にしても当時は不名誉なことではなかったという
- おそらく、アラム語を話す教会からギリシア語を話す教会になったときに、ユダヤ教において密告者が担っていた両面の役割を把握できなくなってしまったのではないだろうか?
→言語による断絶 - イエスの死の神学的な合理化によって、それは覆い隠されてしまった
- したがって、その時点でユダは悪人になってしまったのである
- ヨハネの共同体はユダに対して強い嫌悪感を抱くことにより、それを利用して、背教のキリスト教徒やユダヤ人敵対者の双方にうまく対処することが出来た
- そうすることで彼らは、イエスの「敵を愛せよ」という教えからも目を背けた
- そして筆者は最後に。ユダの行為を描くのに「裏切る」という動詞を用いないことを呼びかけ、善意からイエスを「引き渡した」ユダの手記として短編小説を書いて、この本をしめくくっている。
- その中でユダは、イエスと大祭司の対話によって、イスラエルの再生という「良き合意」が成立することを望み、
- その願いが叶わずイエスの処刑が決定すると共に、彼に殉じて死のうとする、誠実でイエスの意志に忠実であろうとした男として描かれている
- また筆者は、大学においてユダを演じて学生と質疑応答を繰り返すことで講義を行うという、興味深い試みを行っている
→再演
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ユダよ、帰れ コロナの時代に聖書を読む 奥田知志
- 日本バプテスト連盟の東八幡キリスト教会牧師が著者の説教集
- 著者は、炊き出しによるホームレス支援なども行っており、その言葉からは「行動する宗教者」としての決意が伝わってくる
- 教会のYOUTUBEチャンネルも紹介されているし、礼拝はオンライン参加もOKのようだ
- 著者は、独自の物語「オクダによる福音書」において、ユダの自死を「彼が帰るべきホームを見失った」せいだとしている
- その説話の中では、迷い子のユダも、地獄に降りたキリストによって救われる
- キリストが処刑されたあと一度地獄に降りたのは、これから地獄に落ちてくるユダを救うためだったという解釈なのだ
- その解釈は「義人はいない」「人はみな罪人」というキリスト教の人間観に基づいている
- 私とユダに違いはない
- また、その説話は、自己責任論の批判も込められている
- ユダは、密告先の祭司長たちに「そんなことはわれわれの知ったことか。お前が勝手に始末せよ」と言われ、自死に追い込まれているのだ
→ユディーア、ユダが救われる解釈の一例
- ユダは、密告先の祭司長たちに「そんなことはわれわれの知ったことか。お前が勝手に始末せよ」と言われ、自死に追い込まれているのだ
- 私たちが「ステイホーム」するのは、建物に過ぎない「ハウス」ではなく、赦しのある場所「ホーム」
- 教会は、キリストのからだであり、真の「ホーム」であるべき
- 「いざとなったら帰ってこい」と大声で伝道する教会になろうと思います
電子化×
- 「いざとなったら帰ってこい」と大声で伝道する教会になろうと思います
鷲と蛇 シンボルとしての動物 マンフレート・ルルカー
- 著者が、世界各地の神話を通して、自己の思想を語る動物象徴論
- 太陽や善の象徴である鷲(鳥)と地や悪の象徴である蛇が、さまざまな神話で対の存在として位置づけられていることを論じている
- ただし、両者の関係は固定されてはいない
- ある神話では蛇が善であるし、鳥と蛇の両方が協力して世界を創造することもあるし、両者をシンボルにもつゼウスとヘラのカップルのような結婚もあるのだ
- ただ、蛇が世界創造に関わる場合、その体をバラバラに切り離されて世界の素材となることも多かったりする
→槍神とキュトス、『創ア』におけるトカゲのような「コア」を持ち運ぶ鷲のアキラくんのイメージ、『聖婚』
- 鷲は太陽の代理である英雄になることもあるとされ、すなわちこれは竜退治伝承の系譜である
- そして蛇はティアマトやメデューサなど女性、陰と結び付けられる
→コルセスカとソルダの竜退治、そして『聖婚』の神話
- そして蛇はティアマトやメデューサなど女性、陰と結び付けられる
- 特に興味深いのは、『創世記』で創世前に水の上をただよっていたヤハヴェを鳥や世界卵と関連付ける話だ
- ヤハヴェの創世前の「漂う」行為は、他の神話では鳥が行っていたものだという
- それは、ヤハヴェの母鳥としての側面であり、ソフィア---女性として擬人化された神の叡智であり、神の創造に参画する姿---にも通じるところがある
- そして著者は最後に、キリストの王国が陽と陰、神の外側で分裂した両者を和解させる話でこの本を終えている
- 夜に生まれ、木に突き刺して捧げられるキリストは蛇であり、同時に地獄から聖人をつかみあげて昼をもたらす鷲でもある
- 始まりにして終わり、無時間的な中心である彼のもとで二つの極、二元論の不和は止揚されるのだ
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